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はしがき 「学生による授業評価」(以下、授業評価と略記)の実施がほぼ浸透 した今日、それではどのように活用すればよいのか、と戸惑う声が広 く聞かれる。このことは、教育実践やFD(Faculty Development )の 中で授業評価が適切に文脈化されていないことを意味する。すなわち、 多くの授業評価が、教授者とその活動を総括評価する簡便な手段とし てのみ捉えられ、そこからいかに解釈を引き出して次のアクションに 結びつけるか、その指針が共有されていないということではあるまい か。 授業評価は、大学の内側では研究・教育・学習の支援施策と有機的 に連関して、具体的な教育改善につながること、外側では、関心ある
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第 1 ステークホルダー(親や地域、企業など)に対して教育力の指標の一 章 部としてアカウンタビリティを果たすこと、という二つの大きな機能 授 業 を担っており、それらに応じた実施形態や活用方法が求められる。 評 価 個々の授業評価の実施においては、教員・学生・管理運営層にとって の 発 大きな負担がないこと、またそれぞれの立場で、比較的短時間で有用 想 と なフィードバックを得られることなども要請されよう。 歴 史
本書は、教育改善とアカウンタビリティという今日の授業評価の二
つの大きな目的に照らして、いかなる発想と実践が有効であるかをま とめ、大学教員の参考に資することを目ざした。 前半の基礎編では、1章で授業評価を生んだアメリカの社会的背景 を追い、日本での実践の相対化を試みたあと、2章で今日の授業評価 の諸機能を概観し、アメリカの例も引きながら、とくにFD組織のあ り方を検討した。続く3章では、教育改善のプロセスの中で、授業評 価と学生の学習促進を連動させる視点と具体的工夫を提示し、4章で は、アカウンタビリティに関して、とくに誰に向けてどのように説明 するべきかの留意点を整理している。 通常の授業評価は、評定項目をリストしたアンケート形式によるも
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のが多いため、後半の実践編では、まず5章で授業評価アンケートの 作成手順と背景にある考え方を示し、6章でその分析と解釈の仕方を 解説したのち、7章で、事例をもとにアンケート項目の特徴を見いだ す試みを紹介した。さらに8章では、異なる授業の比較から、授業評 価の変動要因を分類するとともに授業改善を行った事例を、9章では、 授業記録や他の教員との協働など授業改善のいくつかの試みの中に有 機的に授業評価を位置づけた事例を紹介した。巻末には、Q & A 集を 付して、読者の便に供した。 本書は、直接には、平成 16 年度−17 年度科学研究費補助金による 『高等教育改善に資する教員・学生の授業評価力と評価測度に関する研 究』(基盤研究(B) (1)
課題番号 16300279
研究代表者 山地弘起)の
成果の一部として公刊するものであるが、我々の実践研究は、平成 9 年度のメディア教育開発センター(NIME)の FD 事業発足以来、継続 されてきた。執筆者の大塚、三尾、山地は当時のスタッフであり、中 村も平成 8 年度まで同僚であった。当初から現・京都大学高等教育研 究開発推進センターとの関係は深く、田口はその後京大から NIME に 移り、また大塚は大学評価・学位授与機構を経て京大に異動している。 今回、大山泰宏氏には科研のメンバーでないにもかかわらず、執筆を 快諾して下さった。同様に、NIME の芝崎順司氏、大学評価・学位授 与機構の栗田佳代子氏には、快くコラム記事を寄せていただいた。こ の場を借りて謝意を表するとともに、ひとまずの里程標ではあるが、 本書が大学教員にとってなにがしかでも役立つことを切に願う。 最後に、本書の制作にあたって貴重なご助言を賜ったメディア教育 開発センターの波多野和彦助教授、および忍耐強く編集の労を執って 下さった玉川大学出版部の成田隆昌氏に、心から御礼を申し上げます。
平成 19 年 3 月 編 者
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目次 はしがき ───────────────3 第Ⅰ部 基礎編
1章
授業評価の発想と歴史 1.学生による授業評価という発想─────────11 2.アメリカの授業評価前史 ─────────── 16 3.授業評価の歴史的展開 ──────────── 20 4.今日への示唆 ──────────────── 29 コラム 日本での授業評価の歴史 ────────── 23
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2章
授業評価の諸機能 1.授業評価の導入で教育は改善されるのか──── 31 2.授業評価の5つの機能 ──────────── 33 3.授業評価を活かすしくみの重要性 ─────── 43 コラム
後輩のための授業評価 ────────────── 40 −ハーバード大学の教育大学院の例 The
POD
Network ────────────── 46
−ファカルティ・ディベロッパーの集い
目 次
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3章
授業評価と学習促進 1.学生と授業評価 ─────────────── 52 2.社会背景と学習観の変化 ─────────── 55 3.学生にとっての授業空間 ─────────── 58 4. 「学生による授業評価」から FD へ
────── 66
5.授業評価を糸口としたパートナーシップへ ── 76 コラム
学習スタイル ────────────────── 61 基礎になる言語力 ──────────────── 73
4章
授業評価とアカウンタビリティ 1.アカウンタビリティとは ─────────── 80 2.大学評価と授業評価 ───────────── 81 3.誰のためのアカウンタビリティ ─────── 86 4.授業評価によっていかに自己表現するか ── 93
第Ⅱ部 実践編
5章
授業評価アンケートの作成 1.授業評価アンケートとは ────────── 105 2.授業評価アンケートとテスト理論 ────── 107 3.評価観点を決める ────────────── 108 4.質問項目を作る ─────────────── 110
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5.回答方式を決める ────────────── 111 6.調査用紙を作る ─────────────── 113 7.調査を実施する ─────────────── 115 コラム
6章
授業評価アンケートの項目プール ───── 116
授業評価アンケートの整理 1.項目ごとの分析 ─────────────── 122 2.評価観点ごとの分析 ───────────── 124 3.項目の精選 ───────────────── 126 4.評定平均値の読み方 ───────────── 128 5.評定平均値にバイアスを与える要因 ──── 134
7
6.自由記述の解釈 ─────────────── 136 コラム 「因子分析」とは───────────── 129
7章
授業評価アンケート項目の特徴を探る 1.実践的妥当化を目指して ────────── 139 2.評定平均値の特徴を探る ────────── 140 3.相関分析に見る項目の特徴 ───────── 148 4.項目評定平均値と自由記述 ───────── 157 コラム
授業評価支援システム−REAS for Class−の開発 ─── 152 授業評価とインターネット ──────────── 159
目 次
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授業比較で授業評価 8章
1.授業の比較と開発 ────────────── 166 2.自分の授業を比較する ─────────── 168 3.異なる授業者と比較する ────────── 173 4.マークシートによる毎回の授業調査 ──── 175 5.学生と意見交換「大福帳」────────── 180 コラム
研究室(PC とスキャナ)でマークシート── 177
授業力の向上に向けて 9章
1.授業活動の記録と保存 ─────────── 184 2.授業改善は 1 人でなく仲間と ──────── 187 3.授業評価アンケートの結果を学生と共有 ── 192 4.授業評価を授業開発につなげるポイント ── 194
Q&A 授業評価の導入に際して ──────────── 199 授業評価の実施に際して ──────────── 204 授業評価の解釈に際して ──────────── 210
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1章
授業評価の発想と歴史
1.学生による授業評価という発想 1)授業評価は顧客アンケートか 授業評価は、授業改善のための一つのツールです。ツールであるか ぎり、その適用には限界があります。また、どんな道具にも使用説明 書がついているように、その原理を正しく理解し適切に使用しなけれ ばなりません。誤った使い方は害を及ぼすことさえあります。本章で は、授業評価の依拠する前提について探求します。そのために、現在 の授業評価に見られる発想について検討するばかりでなく、授業評価 11
という発想が歴史的に、いつどのようにして生まれてきたのかといっ た時間的な根源も遡ってみます。こうした作業を通して、授業評価の 背後に隠れた前提を明らかにして、そこから、現在の授業評価を見直 す視点を提供できればと思います。 まず、次のことを問いかけてみましょう。授業評価は、なぜあのよ うな形式なのでしょう。つまり、質問項目に対して「あてはまる、あ てはまらない」の度合いで答えていく回答方式(正確にはリッカート 法と呼ばれるものです)なのでしょうか。もちろん、自由記述による 評価もありますが、主流はこのリッカート法です。この尺度は、対象 に対する一つの記述の方法です。今でこそアンケート調査などでもな じみの深い方式となっていますが、これを用いるときには、回答者と 評定の対象とのあいだには、ある特定の関係性が前提とされています。 たとえば、自分の家族や恋人、友人などに関して記述して、誰かに伝 えるとき、この回答方式を使うでしょうか。それはまず考えられませ ん。むしろ、自分に対してどのように映るかといったことを中心とし て、もっと直観的で了解的に、ことばによって記述していくはずです。
1 章 授 業 評 価 の 発 想 と 歴 史
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また、家族や友人に対して、こういうところを改めてほしいというと きに、評定尺度で記述して伝えるでしょうか。それも考えられません。 自分の意見をいって話し合いをするはずです。ここからわかるように、 通常の人間関係を記述するときには、このような評定尺度は用いない のです。 では逆に、評定尺度による記述や意見の聴取がよく用いられる領域 とはどんなものでしょうか。たとえばレストランに行ったときに、そ このサービスに関してアンケートを求められるということがよくあり ます。アンケート用紙には、価格、味、量、接客態度などに関して、 そのレストランが知りたいと思う質問項目が書いてあり、それに対し て「あてはまる、あてはまらない」の度合いで答えていくわけです。 同様なアンケートは、ホテルや行政機関などでも行われています。顧 客アンケートといわれるものです。 顧客アンケートが有効であるためには、いくつかの条件があります。 第 Ⅰ 部 基 礎 編
まず、アンケートの対象となるのは、特定のサービスを提供する機能 であるということです。すなわち、アンケートの対象は、一定の目的 の実現のために作られたものであり、その役割がはっきりしているも のです。そして、それを評価する人との関係は、そのサービスの提供 者と享受者ということに基づく契約的な関係となっているものです。 大学の授業も、このようなサービスでしょうか。もちろん、そのよ うな一面があることは否めません。学生は授業料を支払い、そのこと によって教育を受けるというサービスを受けているわけです。そして 教員と学生の関係は、このようなサービスの提供者と享受者というこ とを基本としてできあがるわけです。しかしながら、教育ということ の本質上、このようなモデルでは語りきれないことは自明です。授業 の大切な目的の一つは、そのことによって学生の思考を鍛えていくこ とにあります。一般のサービスの場合、たとえばホテルに泊まったり レストランで食事をしたりといったことで得られるのは「満足」であ り、これは基本的に、サービスの享受者がすでに持っている感覚や価 値観の枠組みの内部で行われることです。ホテルに泊まったからとい って、「成長した」とか「認識が変わった」とかいうことが生じるこ
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とはまずありません。レストランでも、「食事に関する概念が変わっ た」などというすばらしい体験をするのは、よほどの高級レストラン でのことで(そもそも、このような質の高いサービスをするレストラ ンは、ふつうアンケートなんかやっていませんが)、食事をしたこと で認識が変わることなどごくまれです。 これに対して授業の場合は、学生が持っている感覚や価値観を広げ ていくことが、とても大切な目的であり、それこそが教育の本質だと もいえます。そこでは、教員と学生の関係は、単なるサービスの提供 者と享受者ではありません。親子関係において、子どもが満足するよ うなサービスを提供する親が、必ずしも子どもを立派に教育できるわ けではないのと同じように、教育においても、場合によっては、学生 が現在持っている感覚や価値観にとっては不快なもの、不一致なもの を提供しなければならない場合さえあるのです。
1 章 授 一時的な関係よりも、ずっと長期にわたる複雑なものです。たしかに 業 評 それは機能的に形成された関係という側面を持ってはいますが、それ 価 の よりももっと人格的な関わりを必要とするものです。レストランやホ 発 テルでは(とくに日本の場合)、接客はマニュアル化されており、サ 想 と ービス提供者の素の人格が出てくることはありません。しかし授業は、 歴 史
さらに、授業における教育的関係とは、レストランやホテルなどの
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マニュアルに従って行われるのではありません。授業者の人格が見え ない授業など、そもそも魅力がないものでしょう。
要するに授業とは、サービスの提供ではあるにしても、顧客アンケ ートがしばしば用いられるようなサービスとは、大きく異なるという ことです。しかし残念なことに、授業評価を積極的に導入しようとす る論拠にせよ、意味ないものだとして退ける論拠にせよ、授業評価を このような顧客アンケートと同種のものとして捉えられていることが、 多々あります。授業評価を顧客アンケートのようなものとして捉えて しまうことは、授業を通した教育というものの、最も大切な点を見落 としてしまうことになります。授業評価を学生という「顧客」の声を 反映させるためのものだとした場合は、契約的・機能的関係に回収す ることのできない教員と学生のあいだの人格的関係を、そして教員は
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学生にとって不快で不一致なものも与えなければならないという教育 的側面を、見落としてしまうことになります。また逆に、授業評価は 顧客アンケートと同じだとして退けるならば、授業をまるで家族の馴 れ合いの関係のようにしてしまったり、「教育的だ」として教員が学 生に対してまったく不適切な介入をすることを正当化してしまったり する危険を冒すことになります。 顧客アンケートではないとしたら、授業評価は授業のどのような側 面を記述し、それがどのようにして授業の改善ということに資するの か、そのことを次に明らかにしていかねばなりません。 2)授業評価と心理テスト 授業評価が授業のどのような側面を記述し、それがなぜどのように して、授業の改善に資するのかということを考えるためにも、授業評 価が評定項目を使用していることの背後にある前提に、もう少し着目 してみましょう。顧客アンケートだけでなく、このようなリッカート 第 Ⅰ 部 基 礎 編
法の回答方式が使われるものが他にもあります。その代表的なものは、 心理テストです。好みや習慣的行動などに関する文が並んでいて、そ れに対して「あてはまる」から「あてはまらない」の 5 段階ぐらいの 尺度で答え、その回答のパターンを分析することによって、心の様子 がわかるというものです。 リッカート法は、社会心理学者のリッカート(Likert, R. )が 1932 年に完成したものです。それ以前にも、別の形での評定尺度による測 定の試みは、多くありました。このような評定尺度が最初に用いられ たのは、人格や性格を測定するためではなく、個人の態度や意見を測 定するためでした。20 世紀はじめのアメリカでは、社会心理学や群 衆心理学といったものが非常に盛んでした。それ以前のアメリカは、 ヨーロッパに自分たちの文化や社会の由来を見ていたのですが、ちょ うどこの頃から、ヨーロッパとは異なったアメリカとしての自分たち のアイデンティティや文化というものを、意識的に模索しはじめてい ました。したがって、ヨーロッパに起源を持つそれまでの伝統的な価 値観や規範といったものに従うのでなく、個々人の行動や欲望の追求 といったものからどのように社会集団が生まれ、人々の関係が展開し、
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社会的な価値や規範が生じるのかといった問題意識がありました。そ のことを、社会心理学という学問領域が、探求しようとしていたので した。そして、個々人の意見や態度を測定するために、このような回 答方式が考えられたのです。 尺度による測定法をアメリカで発展させることになったもう一つの 潮流は、アメリカ社会に訪れていたテストブームです。フランスのビ ネ(Binet, A . )が考案した知能テストは、本国のフランスよりもア メリカで大流行しました。たとえば第一次世界大戦では、兵士の能力 を査定し適切な配置を行うために、知能テストが行われました。また、 ターマン(Terman, L. M.)という心理学者は、大規模な調査を行い、 知能テストを標準化するとともに、知能指数という考え方を提唱しま した。このような知能の考え方には、ある特徴があります。それは人 間の能力というものを、要素に分解できると考えることです。本稿で は紙面の関係であまり詳しく述べませんが、アメリカの心理学に大き な影響を与えたのは、機能主義というイギリスで隆盛した考え方でし 15
た。観念や思考といった人間の複雑な心的機能は、単純な複数の要素 に分解できるという考え方です。この考えに従い、知能という複雑に 構成された人間の能力も、いくつかの単純な要素、単純なパフォーマ ンスの組み合わせで探求し記述しようとしたのです。これはフランス のビネの知能の考え方が、一般知能という分解できない総合的な知能 を考えていたのと対照的です。 ここまでくれば、授業評価の背後に隠れている考え方の一つは、だ いぶん明らかになってきたと思います。すなわち、授業という複雑な ものを単純な要素に分解してその組み合わせで授業を記述するという のは、まさにこうした機能主義的な考え方にのっとったものなのです。 そして、授業評価の場合、その要素とは、質問項目に従って学生が着 目して見いだした授業の性質なのです。 ところでここで、授業評価の発想を検討するうえで注目しなければ ならない非常に不思議なことがあります。社会心理学における測定は、 個人が特定の事象に対してどのような態度をとるのか、どのような意 見を持っているのかといった、個人の主観を測ろうとするものでした。
1 章 授 業 評 価 の 発 想 と 歴 史
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いっぽう知能の測定は、その測定対象(被験者)がどのようなパフォ ーマンスを示すかを正確に測ろうとする、客観的測定をめざしたもの でした。このふたつの発想はまったく正反対です。ところが、授業評 価においては、学生が授業という事象に対して主観的に示す意見や態 度が、そのまま授業に関する記述であるというふうに客観化されてし まっているのです。授業に対する学生の意見や態度を測定するもので ありながら、それは学生の主観的態度ということをこえて、授業の質 を評価するもの、さらにいえば授業の良し悪しを評価するものになっ ているのです。主観の測定であったものが、客観の測定へとすり替え られているのです。 こうした発想の飛躍や不思議さというものは、授業評価ということ が当たり前になってしまった現在では、見えにくくなっているかもし れません。しかしながら、実はこのようなトリックを可能にした思想 史的背景を明らかにしていくことが、授業評価の本質を考えていくた 第 Ⅰ 部 基 礎 編
めにとても重要なことなのです。この謎をとくために、授業評価が生 まれてきた頃のアメリカの状況を、もう少し詳しく見てみましょう。
2.アメリカの授業評価前史 1)授業評価の社会背景 授業評価は、いつごろ始まったのでしょうか。それは 1970 年頃と 紹介されることが多いかと思います。ベトナム戦争への反戦運動は、 世界的な学生運動と結びつき、アメリカの大学の改革を迫るようにな っていました。それまでのアメリカの大学は、現在のように教員がノ ーネクタイで学生とはファーストネームで呼び合うというような関係 ではなく、教員は学生にとって権威をもった圧倒的に上の存在だった そうです。しかしながら象牙の塔に閉じこもっていた大学の教員たち は、ベトナム戦争の抑止には無力であるばかりか、適切な態度を示せ ませんでした。これに対して学生たちは社会やコミュニティと結びつ いた大学の在り方を求め、教員と学生との対等な関係を求め、学生の 大学運営への参画を求めたのです。そのとき、学生が自主的に始めた 授業評価が、学生サービスの一環として制度化された、というのが授
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業評価の始まりだとして紹介されることが多いと思います。 授業評価というものが制度化され、大学が組織的に行うようになっ たのは、たしかにその頃です。しかしながら実は、授業評価の始まり 自体は、第一次世界大戦と第二次世界大戦とのあいだの 1920 年代に まで遡ります。 授業評価の始まった 1920 年代のアメリカを表現するキーワードを見 ておきましょう。1920 年には最初のラジオ放送が始まり、ほどなくし てラジオは、アメリカの市民の日常生活の一部となりました。家にい ながら、ラジオを通してさまざまな情報が入ってくるようになったの です。また、この頃は先述したように、ヨーロッパとは異なった独自 のアメリカ文化のアイデンティティを求めだした時代です。西海岸の ハリウッドでは盛んに映画が作られ大衆文化として定着し、ディズニ ーのミッキーマウスが誕生し、ラジオからはアメリカ南部を発祥とす
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るジャズが流れていました。また、ニューヨークのマンハッタンでは、 章 摩天楼の建設ラッシュが訪れていました。第一次世界大戦後のアメリ 17
カは好景気に沸き、ヨーロッパの伝統的社会とは異なった、新しい社 会のあり方を求める気風にあふれていたのです。 この好景気を可能としたのは、自動車産業を中心とする重工業の発展 です。いわゆるフォードシステムによって、大量生産が可能となってい ました。 (部品を組み合わせることで一つのものができあがるというの は、まるで、人間の能力を要素に分けて考えるのと同じ発想ではありま せんか!)また、急激に発展しつつある工業のための労働力として、移 民の受け入れが積極的に行われるようになっていました。 このころの大学に目を転じてみましょう。アメリカの大学は 19 世 紀末から、州立大学の相次ぐ設立から大学の数も増え、市民のための 実学を教える役割も担うようになっていました。学生数も増大し、こ の学生の増加とニーズの多様化にあわせて、選択科目制もすでに導入 され始めていました。要するに、大学の多様化と大衆化が生じ始めて いたのです。また、資金に余裕のある産業界は、競ってアメリカの大 学に寄付をするようになり、寄付講座や奨学金制度を設けたり、建物 を寄付したりしていました。大学の経営にも産業界が入り込むように
授 業 評 価 の 発 想 と 歴 史
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なり、当時の大学の理事の人名録には企業の要人が名を連ねていたと いうことです。こうして、産業界が大学に対していろいろと注文をつ けるという状況が生じていました。また、鉄道王のスタンフォードや 鉄鋼王カーネギーなどによって新しい大学が設立され、これまでの伝 統的教育とは異なった「企業にとって役立つ人材」を育成するように なっていました。 当時のアメリカの大学は、19 世紀後半のいわゆるドイツインパク トが落ち着いた後でした。ドイツインパクトとは、研究中心のドイツ の大学の水準の高さにアメリカから行った留学生たちがショックを受 け、これにならってアメリカの大学を研究中心に大学院化し、専門教 育重視の大学を作りあげた運動です。ところが大学院の研究中心の専 門教育は、アメリカの一般市民や産業界からの要請とは必ずしも一致 しないものでした。大学が研究重視に傾いてしまっていたため、学士 課程教育に力が注がれていなかったのも事実でした。また、学部の大 第 Ⅰ 部 基 礎 編
学教員は、博士の学位取得者も少なく、ドイツの大学に比べるとまだ まだ見劣りするものでした。かくして学士課程教育の質と有効性に関 して、企業やマスコミから批判キャンペーンが展開され始めました。 2)授業評価への助走 大学改革が強く意識されたのは、とりわけ工業が盛んなシカゴを中 心とする五大湖周辺地域だったようです。この地域は産業界の勢力が 強いばかりでなく、比較的歴史ある総合的大学も多く、大学のあり方 をめぐる葛藤が先鋭化して現れる場所でした。いくつかの大学で学部 教育の改善のプロジェクトが始まったのですが、その中には、大学の 管理者の権限や裁量を強め大学を一つの「企業」として発想し改革し ていくという方向性のものもあります。しかし大学教員と学生とが共 同して新しい大学のあり方や自律性を模索していこうという運動も明 確に見られたことを見落としてはなりません。 たとえば 1924 年のダートマス大学では、大学教育に関する調査が 教員と学生の共同で行われ、大学教育において学生の視点から見た大 学教育の良し悪しということを、一つの改善の基準として考えていこ うというアイデアが提出されました。このアイデアは、1925 年にノ
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ースイースタン大学のブルックス(Brooks, 1925)が発表した調査に も、明確に見られます。この調査は、各大学の学業優秀な学生をヨー ロッパに留学生として派遣するプログラムであるロードス・スカラー ズに選ばれた学生を対象に、良い大学教員だと自分が思う特質を、い くつかの性格特性を表す語から選択してもらうものです。すなわち、 エリート学生が見た理想の大学教員とはどのような人物なのかを知ろ うというものです。それによれば高い頻度で選択されたのは、「学生 に能動性を与えてくれる」「授業がよく練られている」「学生の視点に立 ってくれる」「清廉潔白」という特性でした。 翌年 1926 年にミシガン大学のデイビス(Davis, 1926)は、授業に 参加している学生 76 人に、小学校から大学までで自分が出会った最 も良い教師について思い出してもらい、その特性を自由記述してもら うことから、優れた大学教員の特質を明らかにしようとする試みを発 表しました。この調査では、76 人中 76 人が、良い教師の特性として 「生徒に対する関心、たとえば共感性や気さくさを示してくれる」と 19
いうことを挙げ、さらには 58 人が「教える能力。たとえばテーマを 興味深く提示し、知的刺激を与えてくれる」を挙げています。次いで 「人となり」「教えることや教えるテーマへの純粋な関心」「見かけが こぎれいで魅力的」「教えるテーマに関してよく知っている」などが 続きます。 1926 年にはシカゴ大学でも、学生と教員による共同の委員会 (Faculty-student Committee in the Quality of Instruction in Elementary Courses) が、学生の視点を取り入れた大学教育改革の 方向性を示唆するためのレポートを発表し、教員の望ましい特性とい うものを示しています(University of Chicago, 1926)。このように学 生を参加させ学生の意見をきくということは、けっして大学の改革の 方向性を学生に迎合して、大学の自治や学問の自由を、学生消費者主 義の中に売り渡していくことではありません。むしろまったく逆に、 学生の意見をきくことは、大学の自治と学問の自由を守るという意味 合いを強く持っていたのです。これは、シカゴ大学の報告書が、大学 の自治と学問の自由を守るために 1920 年に設立された、大学教授連
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合(AAUP: American Association of University Professors) から 発行されていることからもわかります。 教育改善に際して学生の望む教師像をきくという試みが行われた理由 を深く理解するためには、当時の教育思想にもう少し深く立ち入る必 要があります。当時のアメリカの教育界で最も大きな影響力を持って いたのは、デューイの教育思想でした。デューイはまず、人間の学習 というものを、人間が経験や活動を通して能動的に構成していくもの であると考えます。知性というものは、活動の中から生まれ次第に組 織化されていくと考えるのです。この発想に基づいて彼がシカゴ大学 の附属小学校として作った実験学校は、教育上の大きな成果を収めて いました。彼の思想は、ヨーロッパからの知性の継承というより、新 しい知のあり方を作ろうとするアメリカの人々に歓迎される思想でし た。デューイの教育思想は、現在でも、総合的な学習や、問題解決型 学習(problem - based learning)といった能動的学習法にも、直接に受 第 Ⅰ 部 基 礎 編
け継がれています。このような学習者の主体ということに重きを置く 教育思想に従うならば、教育改善は、学生が主体的に学べるような環 境として整備すべきだ、そのためには当事者(主体)である学生の意 見をきくべきだという発想に至るのは、ごく自然なことです。同時に それは、何より民主主義の思想でもあったのです。
3.授業評価の歴史的展開 1)授業評価の萌芽 授業評価の始まりを示す記念碑的な論文は、パーデュー大学のブラ ンデンバーグとレマーズによって 1927 年に発表されました (Brandenburg & Remmers, 1927)。これは、先述した先行研究で 「教師が持つべき特性」として示されたリストから重要な 10 個の項目 を挙げ、自分が授業を受けた教員はそれにどれくらいあてはまると思 うかを学生にきくものです。このころはまだ、リッカート法は完成し ていなかったので、彼らの考案した評定尺度は 100 の目盛りからなり、 それぞれの観点においてその学生にチェックを入れてもらうものにな っています。100 目盛りのスケールには、その観点についてポジティ
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図 1-1
ブランデンバーグとレマーズの評定尺度
1 章 授 ラルな場合の特性が真ん中に書いてあります。図 1-1 が、彼らの作っ 業 評 た尺度の一部です。ブランデンバーグもレマーズも社会心理学者であ 価 の り、彼らの論文には、こうした回答方式がいろいろと工夫されていた 発 時代の空気とでもいうものが感じられます(サーストンも、まさにこ 想 と の授業評価が生まれたのと同時期に、シカゴ大学で活躍していました) 。 歴 史
ヴな場合の特性とネガティヴな場合の特性が両端に、そしてニュート
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この調査は、学生の本音を知ることができるように、学生には回答
によって利害が及ばぬことを強調したうえで、匿名で教員は同席せず に答えていくことが求められています。100 目盛りという回答方式の 違いを別とするならば、ここで発表された評価項目は、現在私たちが 使用しているものの、まさに原型をなしています。「(授業者自身が自 分の教える)テーマへの関心をどのくらい持っているか」「学生に対 して共感的な態度を持っているか」「成績評価は公正か」「オープンで 柔軟な態度か」「授業の題材の提示の仕方はどうか」「バランス感覚と ユーモアはどうか」「自己確信があり堂々としているか」「学生が困る ようなこだわりや奇矯さがないか」「身なりは清潔か」「知的好奇心を 刺激したか」といった項目は、現在使われている授業評価でもよく見 かけるものです。
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ブランデンバーグたちが考えだした評定尺度は、正確には「授業評 価」(course evaluation)ではなく「教員のための評定尺度」(rating scales for instructors)として考えられていました。これは人物の査 定であって、授業というパフォーマンスに関して評価する「授業評価」 より一方的な決めつけをして危険だと思われるかもしれません。しか し、ブランデンバーグとレマーズにとって、この尺度はあくまでも教 員が自分自身を振り返るために学生の視点や考えを知るためのもので した。彼らは述べています「(この尺度によって示される)学生の判 断がどの程度妥当であるかは不明確である。学生が判断する学生にと っての教員の価値をそのまま、その教員が大学や社会に対して持って いる価値としてみなしてはならない」と。そして彼らは、この尺度は あくまでも教員が自分の授業を振り返るために自発的に行うべきもの であり、管理職によって強制的に使用されてはならないとも強調して います。 第 Ⅰ 部 基 礎 編
とはいっても、学生の判断が正しいかどうかわからないとしたら、 なぜ学生の意見をきいて自分自身を振り返ることに意味があるのでし ょうか。もし学生の判断が間違っていたとしたら、それに従った「改 善」は逆効果なのではないでしょうか。こうした生じうる疑問に対し て、彼らは次のようにはっきりと述べています。「学生の判断が正し いかどうかは、二の次である。大切なのは、教員に対するそうした判 断そのものが、学生の総体的な学びの環境(total learning situation) の一要因であるということである。さらにいえば、最も影響力のある 要因であり、学習者の知的一般的知能を別とすると、おそらくは学習 環境(条件)の中で最も重要な要素なのである」。要するに、学生の 授業者に対する主観的な判断こそが、学習意欲や動機づけなどの学び への態度を決定する、すなわち学生の学びの環境を構成する重要な要 因だと考えられているのです。この発想こそが、学生の主観的世界の 測定を、授業の客観的測定に置き換えるというトリックを支えるもの だったのです。 2)授業評価の発展 授業評価の始まりを示す論文の発表と同年、ブランデンバーグとレ
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日本での授業評価の歴史は、アメリカにおける歴史よりもずっ
コ ラ ム
日 本 で の 授 業 評 価 の 歴 史
と浅いものです。これはいちがいに批判すべきことではなく、大 学に対する社会からの位置づけに大きく関連しています。学生に よる授業評価が制度として積極的に取り入れられた国は、アメリ カ、イギリス、オーストラリアなどのアングロサクソン文化圏で、 どちらかといえば実利的・功利的な思想史的伝統を持つところで す。また、環境主義・経験主義といった思想史的伝統もあり、学 生を育てるための学生サービスも盛んな文化圏です。 これに対して、非常に大雑把ないい方を許していただければ、 大学教育の使命を、先人たちが積み上げてきた知の継承としてと らえる傾向が強い大学や文化圏では、授業評価の導入は遅く、整 備されていないといってよいでしょう。ヨーロッパでも大陸側の 国がそれにあたります。実際、アメリカにおいても、1970 年代 に授業評価の制度化が始まったのは、伝統的なエリート校からで はなく、市民育成や実利教育に力点の置かれた中堅大学からだっ たということにも着目しなければなりません。 日本の場合、第二次世界大戦後の新制大学の発足により実質的 に大学は大衆化の途を歩み始めました。そして、60 年代と 70 年
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代を通じ進学率は急速に増大し、80 年代に入る頃にはすでに大衆 化の状況は明確でした。しかしこのころは、まさに進学率の増大 そのものに見られるように、大学への暗黙の信頼と期待があった のです。大学の教育は、今すぐに役に立たなくとも、それが持つ 潜在的な力とでもいうべきものが仮定されており、その教育の適 切性や有効性といったことに関しては、あまり議論されることが ありませんでした。 しかしながら 80 年代後半の臨時教育審議会のいくつかの答申を 経て、国際競争を生き抜くための大学教育の有効性という視点が 意識されるようになり、高等教育の再編を求める声も出てき始め ました。90 年代になると日本経済が不況に転じたことも手伝い、 とりわけ企業から大学教育に関して厳しい目が向けられるように なりました。象徴的なのは、スイスの経営開発国際研究所(IMD) が出している『世界競争力白書』91 年度版のデータが誤解され、 「日本の大学教育は調査対象 49 カ国中最下位である」という信念 が広がったことです。実際には、日本の経済・産業界の少数のエ グゼクティヴが「日本の大学教育は役にたっていない」と厳しく 回答したということだったのですが、あたかもそれが国際的な評
1 章 授 業 評 価 の 発 想 と 歴 史
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価であるかのように勘違いされ、一挙に、大学教育に対する危機 意識や批判が表面化しました。また 1991 年は大学設置基準が大 綱化されたときでもあり、大学の自主的な質的保証のためのシス テムが要求されるようになりました。こうしたことが背景となり、 90 年代後半から現在に至る、急速な授業評価の広まりに結びつい ていきます。 しかし、日本で授業評価が導入されたのは、けっしてそのよう な外発的理由に還元できるものではありません。それより以前か ら、大学教員自身により大学教育の改善をめざすものとして、そ の実践と理論的基盤は着々と準備されていました。1984 年には、 東海大学で安岡高志氏をはじめとするグループが、ロンドン大学 の例に倣い、尺度項目による授業評価を自発的に行い始めていま した。そこでの実践と研究成果は 1985 年の一般教育学会(現・ 大学教育学会)の課題研究集会で発表され、大きな反響を呼びま した。また、国際基督教大学では、1985 年頃にはすでに「学生に よる授業評価」 (現:授業効果調査)を一部で制度化していました。 第 Ⅰ 部 基 礎 編
ただし、有志による授業評価は、実にその 20 年以上前から実施さ れていたということです。さらに、1988 年には三重大学教育学部 の織田揮準氏が、記述式の授業評価ともいえる「大福帳」の使用 を始めています。こうした授業評価はいずれも、大学教育の改善 をなすことは教員としての務めだという発想のもとに行われたも のでした。授業評価を、学生からのフィードバックをもらうもの だと最大限に拡大して捉えるならば、個人ベースの授業評価の使 用の開始は、もっと時代が遡るかもしれません。 このような実践と同時に、一般教育学会を中心として、授業評 価に関する理論的な研究や提言も積み重ねられていました。この 学会では、すでに 80 年代の半ばに、教員評価の必要性を提言しま した(絹川正吉・原一雄(1985)大学教員評価の視点『一般教育 学会誌』7 巻第 2 号) 。そこでは、教員の教育業績の評価が、大学 教育(とりわけ一般教育)の質の維持と、適切で公平な業績評価 の制度の確立のためにも必要であると示唆されました。授業評価 はその一つとして、教員の行ったことを正当に評価するとともに、 改善点を発見し自律的に教育の質を維持していくための不可欠の ものとして位置づけられました。 1990 年に開設された慶應義塾大学湘南藤沢キャンパス(SFC) では、授業評価をすべての教員に対して行うということで注目を
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集めました。ところで、当時、大学共同利用機関であった放送教 育開発センター(現:メディア教育開発センター)では、1992 年より大塚雄作氏を中心として「教授・学習評価支援システム」 の研究開発に着手しました。同センターは 1986 年の時点ですで に、放送大学の学生動向調査、教材評価など、授業評価につなが る調査を行っていました。 「教授・学習評価支援システム」は、そ れらの調査を拡張・統合するとともに、大学教員のためのサービ スの提供をめざしたものでした。このシステムでは、授業評価な どに利用できる調査項目データベースから、教員が自分の目的に 応じた項目を選択すれば、マークシートの作成と結果の解析、フ ィードバックのサービスなどを受けることができました。また、 データが蓄積されることで、授業評価の研究にも役立つことが期 待されていました。実際、同センターでは「大学授業の自己改善 法」という FD 事業を 1997 年度から 4 年間実施し、それに関連 づける形でこのシステムによる一般サービスを行っていました。 こうした大学教員が気軽に利用できる授業評価のリソースは、日 本での授業評価の認知と広がりに大きな役割を果たしたといえま す。今日日本で使用されている授業評価にも、メディア教育開発 25
センターの開発した項目が参照されている例が多いようです。現 在この教授・学習評価支援システムは、インターネット上のサー ビスとして進化し、同センターの REAS に引き継がれています (152 ページのコラム参照) 。 授業評価を大学全体で、すなわち「全学的に」行うようになっ たのは、1993 年の東海大学の事例が日本では最初です。北海道 大学でも、1993 年の試行段階を経て 1994 年に全学的な授業評 価を行いました(ただし、毎年行われるようになったのは 99 年度 からです) 。その後、多くの大学で授業評価が導入されるようにな っていきました。現在では、授業評価は次第に制度化がすすみ、 当たり前のものになっています。しかし、だからこそ、授業評価 を導入しようとした先駆者たちの、大学教育の自己改善をやって いこうという、発想や願いというものを、もう一度振り返ってみ る必要があるといえるかもしれません。
(大山泰宏)
1 章 授 業 評 価 の 発 想 と 歴 史
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マーズは、この尺度の妥当性と信頼性を検討するために別の論文も発 表しています(Remmers & Brandenburg, 1927)。ここで目を引く大 前提は、この評定尺度では妥当性と信頼性とは同じものであると考え られていることです。5 章で詳細な説明がありますが、その尺度が 「ほんとうに測りたいものを測っているか」という妥当性は、その尺 度が「時間や対象が変わっても安定しているか」という信頼性とは別 のものとして考えるのが一般的です。ところが、この「教員のための 尺度」はあくまでも学生の主観を調べるためのものであるので、個々 人の主観が妥当であるかどうかは、原理的に問うことはできません。 したがって、安定して学生の主観が測定できるのであれば、それは学 生の主観を「正確」に反映しているであろう(すなわち学生の主観の 妥当な尺度)であるという、現在の測定理論から見ればいくぶん無理 のある議論を彼らは展開しています。そして信頼性だけを検証すれば、 妥当性も検証したことになるというわけです。 第 Ⅰ 部 基 礎 編
かくして彼らはこの尺度の信頼性を検証するのですが、統計的調査 手法が発展途上にあった当時の方法は、現在のこうした尺度の信頼性 の検討とはかなり異なっています。それを説明するとかなり専門的な 話になるのでここでは割愛しますが、次のことを確認しておきたいと 思います。それはこの 2 番目の論文において、この尺度によって測定 されるものは、教員に対する学生の主観的な判断を超えて、教員の具 有する何らかの客観的特性を表すものという方向に、彼らの論調が微 妙に変化してきているということです。すなわち、多くの学生の主観 の総体から、教員の客観的な性質が現れてくると考えられるようにな っていることです。ちょうど民意の総和が妥当性を持つという、民主 主義のロジックのように。 さて、こうしてレマーズたちが「教員のための尺度」を発表した後、 その影響を受けつつ、他の大学でもいくつかの尺度が独自に工夫され ました。たとえばワシントン大学(University of Washington)では、 授業と教員に関するアンケートを学生に組織的に実施しています。こ れは成績との関連を調べるために、学生には記名式で答えてもらうも のでした。授業に関して問う項目ばかりでなく、出席率、授業を受講
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した理由、予習復習のために費やした時間などに関する質問項目があ るのも、特徴的です。すなわち、学生のトータルな学習の態度や行動 と、彼らの授業(教員)に対する評価との関連を明らかにしようとす る試みだったといえます。またケンタッキー大学では、授業者のセル フチェックシートが使用されました。そこでは、自分の授業に関して 教員が振り返るための、さまざまな観点が書かれています。たとえば、 一般的な授業に対する事柄をきく項目のほか、 「教室の換気はよかった か」 「照度は十分だったか」 「身だしなみ」 「ユーモアのセンス」といっ た項目などもきいています。 以上のように評定尺度を利用したもののほかにも、記述式の授業評 価の手法も提唱されました。レマーズたちと同じパーデュー大学のヴ ィコフ(Wykoff, 1929)は、評定尺度方式では、評価が高くなりがちで、 建設的な批判もなされにくいと指摘し、授業内容と教授法との 2 つに対 して「肯定的に評価できる点」 (constructive criticism)と「否定的に しか評価できない点」 (destructive criticism)の両方を挙げてもらうと 27
いう、記述式の授業評価法を提唱しました。こうした、よい点と改善 すべき点の両方に着目させて回答を引き出すという手法は、今でも記 述式の授業評価でも基本的な方式となっています。このように、現在 私たちが利用している授業評価の基本的な形式と発想は、1930 年まで にほとんど出揃っているといっても、過言ではありません。 3)授業評価への批判から再興へ 教員に対する学生の主観的な意見をきいて、それをもとに自分自身 のことを振り返るために考案された「教員のための評価」ですが、残 念なことに次第にそれは管理のための手段として、経営者から用いら れるようになっていったようです。すなわち、学生や卒業生に、教員 に対する人物評価をきくことで、教員の良し悪しの査定に利用するた めのものとなってしまったようです。 1933 年 に ア メ リ カ 大 学 教 授 連 合 ( American Association of University Professors)から刊行されたレポート(Report of the Committee on College and University Teaching )では、こうした状況へ の批判がはっきりと読み取れます。このレポートでは、教員評価が経
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営者によって、当事者の教員から何の助言も得ず、また同意を得るこ ともなく、抜き打ちでやられていることに不快感を示しています。そ ればかりか、この評定の方式の適切さについても疑問を呈しています。 すなわち、教員の良し悪しは学生の判断だけで決まるものではない、 とくに学部学生は、教員の見かけや独特のやり方、学生の活動に興味 を持ってくれているかどうかといったことに強く影響されがちであり、 その判断にあまり信頼をおいてはだめだとしています。また、わかり やすい授業だと高い評価を得たからといってそれが良い授業とは限ら ない、なぜならわかりやすい授業では学生の側は知的な作業をする必 要のないわけで、結局それは良くない教育だ、というようなことも述 べられています。そのうえで、教員たちが自分自身で授業改善を行う プロジェクトを立てることが望ましいとし、そのための専門の事務員 を配置すべきだとか、資金援助をするべきだといったことを主張して います。教員が自ら主体的に教育を改善しようとするプロセスの中で、 第 Ⅰ 部 基 礎 編
学生の意見をきくことはあってもよいが、あくまでも主体は教員であ ることを、強調しているのです。本稿の範囲をこえるので、ここでは 詳述しませんが、このレポートを受け 1940 年代には、教員自身の手 による教育改善に取り組む大学がでてきます。一部では公開授業も実 施されるようになりました。 さて、授業評価のほうは不幸な用いられ方をされたこともあり、一 部の教員の自発的な試みにとどまり、組織的な営みとしては、根づか なかったようです。しかしながら、その後もレマーズは、数十年にわ たり授業評価に関する研究を継続し、論文を発表し続けました。たと えば、当時出てきたばかりの因子分析の考え方を利用して項目間の関 係や構造を検討したり、自分の大学だけでなく他の大学の学生にも授 業評価をしてもらいそれを比較したり、卒業後 10 年の学生にもう一 度、自分がかつて評価をした教員の再評価をしてもらうなどの研究を しています。とくに、卒業生による評価では、自分たちが学生の頃に 高い評価をつけていた教員に対しては、10 年たって思い起こしても、 やはり良い授業だったと評価し、評価が低かった教員については名前 さえも思い出せないこともあったといいます(Drucker & Remmers,
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1951)。このことからレマーズは、自分の発案した授業評価は長期的 にも十分に信頼できるものであることを証明しようとしていました。 さて、いったんは下火になっていた授業評価が復活し、アメリカの大 学で組織的に行われだしたのは、先述したように授業評価の誕生から 30 年後、1970 年の少し前ぐらいです。その後、大学のユニバーサル化 と競争が激化するにつれ、学生のニーズの把握とサービスとしての戦 略的観点から、他の大学にも急速に普及していきました。その普及の 途上で、授業評価を支持する意見と反対意見は、レマーズたちがそれ を開始した時代と、ほぼ同じような議論が繰り返されました。
4.今日への示唆 現在、授業評価は広く用いられるようになっていますが、その使わ れ方や目的は、次章で述べられるように、さまざまです。しかしなが
1 章 授 あるという、この手法の発想の根本にあった視点こそが、現在の大学 業 教育ではますます重要になりつつあるように思えます。というのも、 評 価 の 構成主義的な学習観が広まり、学生が主体的に経験を意味づけ知識を 発 構成していくという能動的学習法が多く行われるにつれて、教員が教 想 と 授法を工夫していくうえで学生の主観をきくことが不可欠だからです。 歴 史
ら、その中でも、授業評価は学生の主観的な世界をきくためのもので
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この目的のためにも、授業評価はその項目や施行法なども、さらに工 夫されていくべきでしょう。
1920 年代にアメリカで授業評価が誕生するに至ったのは、企業から の圧力に大学教育が飲み込まれそうになったとき、学生と教員が協力 して行った、大学教育改革のプロジェクトからであったことを思いだ してください。授業評価の根本的な発想は、管理統制でも学生消費者 主義への迎合でもありません。それは、学生と教員の学問共同体とし ての大学を守り、新たに生まれ変わらせていくためのものであること を、今こそ再確認されるべきときでしょう。 ■引用文献 American Association of University Professors (1933). Report of the Committee on
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College and University Teaching. Brandenburg, G. C. & Remmers, H. H. (1927). Rating Scales for Instructors. Educational Administration and Supervision, 13, 399 ─ 406. Brooks, W. S. (1925). The Rodes Scholars, Ideal Professor. School and Society, 21, 375 ─ 377. Davis, C. O. (1926). Our Best Teachers. School Review, 34, 754 ─ 759. Drucker, A. J., and Remmers, H. H. (1951). Do Alumni and Students Differ in their Attitudes towards Instructors? Journal of Educational Psychology, 42, 129 ─ 143. Remmers, H. H. & Brandenburg, G. C. (1927). Experimental Data on the Purdue Rating Scale for Instructors. Educational Administration and Supervision, 13, 519 ─ 527. University of Chicago. (1926). Better Yet: Report of Faculty-student Committee in the Quality of Instruction in Elementary Courses. Bulletin of the American Association of University Professors. Wykoff, G. S. (1929). On the Improvement of Teaching. School and Society, 26, 58 ─ 59.
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2章
授業評価の諸機能
1.授業評価の導入で教育は改善されるのか 学生による授業評価を導入している機関は増え、新聞などマスコミ においてもその是非についての議論がみられるようになりました。 「大学もサービス機関としての自覚をもつべきであり、顧客(学生) の満足度を測定するのはサービス機関としては当然のことである」と いった意見と、「授業評価を実施すると、学生に媚びる教官が増え、 結果的には教育の質の向上にはつながらない」といった意見の対立は よくみられるものです。その意義と効果がどこまで議論されたかはと 31
もかく、図 2 -1 からは学生による授業評価を実施する機関が 1990 年 代にはいってから急激に増えていることがわかります。これは、4 章 で詳しく述べられているように、1987 年に設置された大学審議会が 「大学教育の改善について」とする答申を 1991 年に出したことによる 影響が大きいと考えられます。では、授業評価を実施するだけで大学 教育は改善されるのでしょうか。答えは「否」です。 授業評価が授業改善に結びつくためには、その結果を「活かすしく み」が不可欠です。しかし図 2 -1 からわかるように、授業評価の実施 大学は増えても、FD(Faculty Development)センターなどそれを サポートする機関の設置率はそれほど伸びていません。学生による授 業評価は、センターを設置できるほどの余力がなくてもフォーマット があり、データ入力をしてくれる会社と契約ができ、担当事務が確保 できればなんとか実施できるため、比較的「取り組みやすい」FD だ と考えられているのかもしれません。授業評価を導入することによっ て「大学は教育改革に着手しているのだ」という姿勢をみせることが できるからです。しかしながらそうわりきっているところはまだいい
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(%) 100 90 80 70 60 50 40 30 20 10 0
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(年)
図 2-1 学生による授業評価の実施率とFDの実施率 出所:以下他による。 文部省大学課(1996) 「進む大学改革」 http://www.mext.go.jp/b_menu/houdou/08/12/961202a.htm 文部科学省大学課(2001) 「大学におけるカリキュラム等の改革状況について」 http://www.mext.go.jp/b_menu/houdou/13/12/011224b.htm 文部科学省大学課(2004) 「大学における教育内容等の改革状況について」 http://www.mext.go.jp/b_menu/houdou/16/03/04032301.htm#002 文部科学省高等教育局大学振興課(2006) 「大学における教育内容等の改革状況について」 http://www.mext.go.jp/b_menu/houdou/18/06/0606504.htm
として、問題なのは授業評価の導入があたかも授業改善に自動的にむ すびつくはずだ、という錯覚がある場合です。 学生にとっての授業がどうであったかについて聞くべき一番の相手 は学生ですから、学生による授業評価は何らかの形で必要でしょう。 しかしその結果を授業改善に結びつけるための「しくみ」や方策がな ければ、実施のための費用や評価のために学生が割いた時間を無駄に する結果になりかねません。無駄なだけならまだしも下手をすれば、 たとえば授業のもう一方の「当事者」でもあるはずの学生に「教師の
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査定者」になることを促していると勘違いさせてしまうような害悪を もたらすことすらあるといえます。では何のために授業評価を行うの でしょうか。お金をかけて実施した授業評価はどのように活かしてい けばいいのでしょうか。本章ではさまざまな大学の取り組みを紹介す ることで授業評価の諸機能についてまとめ、授業評価を「活かすしく み」について考えてみたいと思います。
2.授業評価の 5 つの機能 1)意識改革の起爆剤 先に「授業評価を実施するだけでは大学教育の改善にはつながらな い」と述べましたが、授業評価導入の初期段階においては実施そのも のが効果をもつことも考えられます。評価の対象とすることで、「教 育は大切である」という自明のことをあまり意識していなかった教員 に対して「教育に力をいれねばならない」という無言の圧力をかける ことになるからです。これは授業評価の結果をどこまで公開するかと 33
いうストラテジーと密接に絡んでいます。それによって圧力の大きさ が違ってくるからです。 1993 年に全学一斉に授業評価を導入し、注目を集めた東海大学で は、「授業評価を行うと、評価の低かった教員の授業評価は徐々に改 善傾向を示」したといいます。その理由を滝本(1999)は、「こうし た評価を実施することで、授業評価の低かった教員が改善努力をし、 その成果が見られたためであろう」と結論づけています。しかしなが ら一方で、「ある程度評価の高い教員」は授業評価を受け続けてもさ して評価はあがらないことも指摘しており、その理由として「それ以 上に上がったところで給与に跳ね返るわけでもなく、飛び級的に昇格 できるわけでもない」ことをあげています。 「授業評価の導入による意識改革」はたしかにこれまで教育にまっ たく関心がなかった層に訴えるという意味では効果があるようですが、 こうした効果は一時的なものです。授業評価のデータは初めこそ注意 を払われても、自分が「平均かそれ以上」だとわかり安心した教員や、 改善努力によってその層に入ることができた教員に対しては何の関心
2 章 授 業 評 価 の 諸 機 能
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も払われないデータとなるからです。またその改善努力が個人にゆだ ねられているかぎり「評価結果を最もみてほしい人がみてくれない」 ことは避けられません。さらに「授業評価の結果が悪いとわかったけ れどどうしたらいいのかわからない」人に対しても、評価結果のデー タそのものは何のサポートも提供せず意味がないものとなってしまい ます。 2)授業改善の指針 授業評価が授業改善の指針となることは、授業評価の中心的な機能 といってよいでしょう。多くの授業評価では、「シラバスに沿って授 業が行われましたか」「教師の話し方は明瞭で聞き取りやすかったで すか」など、いくつかの観点ごとの段階評定がなされています。それ らの項目の中で他の項目よりも低いところは改善の余地があるところ、 というようにみることができます。ある授業の総合満足度が低かった 場合に、「話し方」がわかりにくいのか、「資料の準備」が十分ではな 第 Ⅰ 部 基 礎 編
いのか、「授業の構成」がまずかったのかといったことがわかれば、 授業の満足度を高めるための対策がたてやすくなります。 九州大学ではこうした「改善点」をより明確に教員に伝えるために、 学生の自己評価に関する項目に加え改善要望などに関する項目を選択 式で回答させています。すなわち良かったと思う項目、改善を要望し たいと思う項目を複数回答可として選択させるのです。たとえば良か った点としては、「授業に双方向性があった」「勉学への動機づけが高 まった」「教師に教育者としての熱意を感じた」「授業に能動的な姿勢 で参加した」などが、改善を要望したい項目としては「授業のテー マ・目標を明確にしてほしい」「予習・復習をするよう促してほしい」 「板書を読みやすくしてほしい」「授業の進行をゆっくりしてほしい」 「理解度を把握して授業を進めてほしい」「授業内容をもっと精選して ほしい」などがあげられています。また学期の最後だけではなく、毎 回の授業の最後に授業評価を実施すれば、その授業において自分が試 みた新しい授業方法が有益であったのかどうかについて豊かな情報を 得ることができます。毎回の変化をみる中で「今日はビデオを用いて みたが、理解度が上がっているな」とか、「前回と同じようにビデオ
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をみせてみたのに満足度が下がっているな。授業の最初にビデオ視聴 の目的をもっと明確に提示すべきだったかな」などといった、より細 かい改善点がみえてくるからです。 しかしながら、たとえば「話し方がまずい」といった改善点がみえ てきたとしても、それをどう改善すればいいのかを教えてくれる機関 はそう多くはありません。第一歩としてはまずは自覚して気をつける、 といったところで改善される部分もあると考えられますが、「わかっ ているが、どうすれば改善されるのかわからない」教員に対しては、 点数をみせるだけでは授業の質が上がらないことになります。また毎 回の授業で授業評価を実施するためには、学生が簡単に答えることが でき、また教員も簡単に結果を得ることのできるしくみが必要です。 3)コミュニケーションのツール ①学生と教員間のコミュニケーション
授業評価は学生と教員のコミュニケーションのツールとしても機能 します。教員だけではなく学生もまた授業の当事者であり、片側だけ 35
の努力では授業は向上しません。授業をよくしていくためには相互に 理解しあうことが必要です。しかし、学生が授業についての改善要求 を直接教員にぶつけることはそう容易ではなく、また教員が何人もい る学生の声に耳を傾ける機会もそう多くはありません。授業評価は少 なくとも、そうした状況に風穴をあける強力なツールと考えることが できます。しかしながら、学生からの授業評価を学期末に教員が一方 的に受け取るだけでは、双方向のコミュニケーションのツールとして 機能しているとはいえません。 授業評価を双方向のコミュニケーションのツールとして活用してい る例が、国際基督教大学や慶應義塾大学湘南藤沢キャンパス、熊本大 学などにみられます。こうした大学ではウェブを大いに活用していま す。たとえば熊本大学の SOSEKI システムは、受講申請から、シラ バス検索、成績確認、授業評価、評価に対する教員のコメントの公開 といったさまざまなサービスが、1 つのシステムでトータルに提供さ れています。1 つのシステムで一括管理することで、たとえば学生が 講義登録をした結果を受けて、教員は受講生のこれまでの成績といっ
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たプロフィールを把握することができ、早い段階から学生層に合わせ た授業内容を練ることが可能となります。また学生の授業評価への回 答が自動集計され担当教官にすぐに提示されるため、受講生からの直 接的な意見が講義期間終了直後に確認できます。教員はそれに対する コメントを SOSEKI システムを通じて学生に公開しているそうです。 このように大学全体として取り組まれている例は稀ですが、教員が個 人で、あるいは専攻コースで、学生からの授業評価に「返答」する例 はウェブ上で散見することができます。ある大学の公衆衛生学のコー スに所属する教員は、「2 週間でこなせる量を超えている」「空白をと ばさず、説明してほしい」「主題に入るまでが長すぎ、授業時間延長 の原因になっている」といった学生からの改善要求に対して、「この 点については、改善の努力をする、しかしこの点についてはこういう 理由があって難しい」「この点を問題だとしているのは、講義の意味 を理解していないからであって残念である」「この点については私も 第 Ⅰ 部 基 礎 編
こうするが、学生にも反省を求めたい。来年はこの点を最初に強調す る」といったようなコメントをコースのホームページ上で公開してい ます。 こうした試みや、SOSEKI システムなどの設計の背後には、大学の 教職員と学生は皆、知的共同体の構成員であるという思想が流れてい るように感じます。学生はカスタマー(消費者)であり、消費者が商 品たる授業を評価するのは当然である、という考え方ではなく、学生 と教師はともに「学び」を作り上げていく共同体であると考えると、 授業評価の在り方も異なってきます。授業評価が学生に対して、学生 自らも共同体の構成員であるという自覚を促すしくみに位置づいてい る好例だといえます。 ②教員間のコミュニケーション
授業評価は学生と教員のみならず、教員間のコミュニケーションの ツール、そこから一歩すすめてカリキュラム改善のためのデータとし ても活用することが可能です。 大学の授業においては、担任教員には講義名のみが知らされ、その 講義でどの範囲の内容をどの深さまで扱うのかは教員の裁量に任され
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ているということは多々あります。「授業」については「語らない」 ことが普通であるため、隣の教室で何をどこまで扱っているのかシラ バスを参照してもよくわからないといったことさえ実際にはおこって います。また、入試の多様化により 1 つの教室内に既有知識の程度が まったく異なる学生が集まってくる、ということもよく耳にします。 そうした状況の中で全員の満足度を高めるには、教員個人の授業改善 努力では限界があるともいえるでしょう。授業評価というデータを共 有することで、教員同士が個人で感じてきたこうした「限界」につい て互いに語り合う道も拓けてくるのではないでしょうか。 もっとも、授業評価の結果の公開の範囲は機関によってさまざまで す。公表されていないものをお互いにみせあうのは、他人の成績表を のぞきこんでいるようで、また他人の評価結果を熱心に眺めるのは野 次馬根性丸出しのようで、授業について語るというのはそれほど簡単 なことではないかもしれません。「委員会で一緒になった別学科の先 生の授業評価の結果、すごくよかったな。今度コツとか聞いてみよう 37
かな」といったようなコミュニケーションが生じるとすれば素晴らし いことですが、これまで授業について語ることが一種のタブーである かのような雰囲気をもつ環境にあっては、実際には難しいかもしれま せん。しかしたとえば、ある学科だけ授業評価の結果がとても低いこ とが明らかになったとします。学生は精一杯勉強をし、教員も定めら れた枠の中で精一杯授業の組み立てや話し方を工夫しているのに、 「わからない」「ついてくることができない」学生が多く、結果として 総合的な満足度が低くなっているのならば、それはカリキュラムの組 み立てそのものに改善の余地があると考えられます。授業評価の結果 をつきあわせることで、「リメディアルのための授業を提供する必要 がある」という結果がもたらされるかもしれません。 教育の質を向上させるためには、個々の授業技術の改善もさること ながら、カリキュラム改善も非常に重要なことです。学生による授業 評価というデータは、授業について教員同士が語り合うためのツール として、またカリキュラム改善のために参照すべきデータとしても機 能すると考えられます。
2 章 授 業 評 価 の 諸 機 能
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4)教育業績を示す証拠データ ①すぐれた授業者を評価する
授業評価は、優れた授業者、問題のある授業者を洗いだすフィルタ ーとしても利用されます。ある集団内で相対的に評価の良い教員を抽 出するというのは、教育活動の成果を研究活動の成果と同様、正当に 評価するための利用と考えられます。たとえばいくつかの大学で実施 されているベストティーチャー賞の制定は、国立大学では 1999 年度 に東京農工大学工学部によって制定された「教育褒賞制度(最優秀講 義賞、通称ベストティーチャー賞)」が最初とされています。2002 年 12 月 1 日発行の「農工通信」第 70 号では、ベストティーチャー賞の 選定プロセスが報告されていますが、それによると「学生にノミネー ト」された先生は、教務委員、歴代のベストティーチャー、新任の先 生を招いて勉強会を開き、そこで自らの授業に対する姿勢や工夫点を 「講義」して、その講義をきいた審査委員が「最優秀講義賞」を決定 第 Ⅰ 部 基 礎 編
するというものだそうです。拓殖大学では 2004 年度から「教育分野 における優れた実践例を表彰し、もって本学の教育の改善向上に資す るために」ベストティーチャー賞が設けられ、2005 年度には 5 名の先 生に賞状及び副賞が授与されたと報告しています。茨城大学でも授業 の質的向上を図ることを目的に「推奨授業表彰制度」が 2001 年度に 制定されています。学内教官から推薦(自薦も可)のあった者を対象 とし、「推奨授業表彰候補者推薦書」「当該授業の成績評価」「シラバ ス」「表彰候補者の面接」「学生による授業評価」が「総合的に評価」 され決定されています。学生による授業評価の結果のみを褒賞制度に 直結させているわけではないにせよ、選定過程において重要なデータ とされていることは間違いないでしょう。 一方でこの「授業評価」によるフィルターは「評価の良い人」のみ ならず、「評価の悪い人」をあぶりだす方向としても当然ながら利用 が考えられます。しかしながら評価得点が低いことがそのままイコー ルで教育の質が低いこととはとらえられないとの考えから、評価が低 い人に対して直接の罰則規定を設けている機関は今のところほとんど ないようです。ただし 2005 年 11 月 4 日付けの毎日新聞では北九州市
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立大学では文系全学部において評価に応じて研究費を傾斜配分する人 事考課制度が導入されたことが報じられていました(4 章表 4-3 参照)。 「研究」「大学の管理運営業務」以外に評価の中でもとくに力をいれて いるのが「教育」で、学科主任が授業内容を評価するだけでなく学生 アンケートの結果も評価の際のデータとして用いているそうです。直 接の罰則規定はなくとも、研究費の査定や昇給の際に学生による授業 評価の結果をなんらかの形で利用する機関は今後増えていくのではな いでしょうか。 ところで、学生による授業評価を早くから取り入れているアメリカ の場合はどうなっているのでしょうか。限られた事例ではありますが、 アメリカのハーバード大学、マサチューセッツ工科大学、レズリー大 学というアメリカの 3 つの大学の教員に聞いたところでは、学生によ る授業評価が「4 点満点なら 3 以上、5 点満点なら 4 以上」が、 「普通」 レベルだということで、それより低ければ悪いということになり、次 から講師依頼のオファーは来ないことが多いとのことです。つまり 39
「もう一度教えられることが褒賞」というわけです。マサチューセッ ツ工科大学のある先生にきいた話では、教員採用の際に重視するのは 研究業績であり、学生による授業評価の結果は、研究業績が同等であ った場合に初めて参考にされる程度であるけれども、学生による授業 評価が極端に低い先生の採用は、よほどのことがない限り控える、と いうことでした。つまり、学生による授業評価の平均点がかなり高い 位置にあるアメリカの場合は、「とても悪いと昇進に問題があるが、 とても良いからといって昇進や採用が有利になるわけではない」もの であり、「不良品を落とす」ためのフィルターとして機能していると いえるでしょう。もっともこれもテニュア(終身雇用)を獲得する前 の話であり、一度テニュアをとってしまうと授業評価の結果はそれほ ど気にしない、という教員もいるようです。 ② 自らの教育業績を示す
研究者が職を探すときに、これまでの研究業績をリストにし、リス トの後ろにその「証拠」として論文を添付したものを作成しますが、 それと同様のことを教育活動についても行うことがあります。授業評
2 章 授 業 評 価 の 諸 機 能
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ハーバード大学の教育大学院で学ぶ友人に、授業評価シートを
コ ラ ム
後 輩 の た め の 授 業 評 価
第 Ⅰ 部 基 礎 編
︱ ハ ー バ ー ド 大 学 の 教 育 大 学 院 の 例
みせてもらいました。コースアドミニストレーションオフィスに よって実施される授業評価ですが、評価シートはすべて自由記述 です。シートには「先生には、授業中に学生にこの評価のための 時間をとるように」頼んであるとの記述があります。そして「こ の評価シートは成績をつけ終わるまでは教師は見ない」というこ とと「書かれた文字はすべてワープロに打ちなおされる」という ことも明記されています。筆跡から個人が特定されることをおそ れなくてよいことを示すためです。また、シートの冒頭には、授 業評価の4つの目的、A)教師が自分たちのコースを改善し教授 能力を高めるため、B)これから授業をとろうと思っている学生 への情報提供、C)学生が自分たちの学びを振り返るため、D) 教員評価の結果として用いるため、が明記されています。評価項 目は全部で4つです。 「あなた自身の学習について」 (1.この授業 でもっとも意味のある学びは何でしたか?) 、 「授業について」 (2. どんな活動や教材がもっとも価値がありましたか? また、それ らはどのようにあなたの学びに役立ちましたか? 等) 、 「教員に ついて」 (3.教師のどのようなところが、どのようによかったと 思いますか? 教師の教え方や授業の内容をもっとよくするため のアドバイスを書いてください等)、「他の学生へのアドバイス」 (4.この授業を選択しようと考えている学生へのアドバイスを書 いてください。たとえば、レベルや、宿題の量、事前にやってお いた方がよいこと、この授業でよりよく学ぶには、といったこと) といった質問項目になっています。それに加えて、ティーチング フェロー(授業を補助的に担当している大学院生)についてのコ メントも残せるようになっています。ティーチングフェローへの 記述欄をのぞいて、A 4で 2.5 ページほどの量です。 これらの結果は大きなファイルに整理され、図書館にずらっと 陳列されています。そのファイルをぱらぱらとめくると、全体と して記述量が多いのに驚きます。この大学院を卒業した別の友人 は、 「熱心に自由記述を書くのは、後輩へのアドバイスの気持ちか ら」といっており、実際に多くの学生が授業選択の際にこの評価 結果を大いに参考にしていました。世界的に有名な学者として名 を馳せている研究者に対しても、この生のデータは「この授業は 本当にひどい」 「もっと若い講師の授業スキルを学ぶべきだ」とい ったようにそれがよくない授業であれば、容赦ありません。また、
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評価結果を公開したくない場合は、初年度に限りそれが認められ ますが、その場合にも「教員は結果の非公開を求めています」と いう情報は少なくとも掲載されますし、何らかの事情で授業評価 が実施されなかった場合にも「このコースは評価が実施されてい ません」と書かれます。こうした生のデータが編集されることな く公開されていることには驚きますが、あえて編集しないことに より、学生の多様な記述の解釈と判断を、読み手にゆだねている と考えられます。 これらのデータはたしかに「広く公開されている」わけですが、 こうした授業評価の結果を閲覧するためには、少なくともこの図 書館に入室することが必要であり、誰でもが簡単にみることがで きるようにはなっていません。また、マサチューセッツ工科大学 (MIT)でも「授業評価の結果はすべて公開」されてはいますが、 それは学内のパスワード管理されたホームページ上でのことであ り、そのページを閲覧するためには MIT の ID が必要です。授業評 価の結果がアメリカでは広く公開されているといった事実が強調 されすぎることがありますが、決して「全世界に公開」されてい るわけではないのです。 41
はたして、テニュアをとった教員がこうした評価結果をすべて 読み、授業改善に日々努力しているかというと、やはり個人差が 大きいようです。全く気にしている様子がない教員もいれば、こ うした学期末のコースアドミニストレーションオフィスによる授 業評価以外に、独自に「中間評価」を実施する教員もいます。授 業の冒頭で前回に実施したと思われる授業評価の結果を示しなが ら、 「クラスの何パーセントがこういう点には満足しているが、こ ういう問題点があるようなので、こう変えていきたい」と学生に 語りかけている授業にも出会いました。テニュアをとってしまい、 学者として世界に名を馳せてしまえば別に授業評価に何を書かれ ても痛くもかゆくもない人もいれば、優れた研究者であり、かつ 真摯な態度で授業改善に臨む教員がいるなど当然個人差はあるよ うで、こうした事情は日本と大差ないのかもしれません。 (田口真奈)
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価のこうした用い方は日本ではまだあまりなじみがないかもしれませ んが、教育力が評価の対象となる時代が来るとすれば注目される機能 です。日本でも採用の際に模擬授業を求める大学もでてきたようです が、研究業績の提出が必須なのに対して、教育経験のリストは求めら れてもその「実績」までを示さなければならないことは稀でしょう。 しかしながら、学生による授業評価制度を早くから導入した慶應義塾 大学湘南藤沢キャンパスでは、教育実践を証明するものとして、学部 長名の署名捺印のある「SFC 学生による授業評価の調査結果表明書」 の発行を開始したところ、非常勤講師をしている複数の若い先生方か ら発行の申請があったということです(井下,2001)。提出が求めら れているわけではないけれども可能ならば提出して、教育実績も表現 したいというニーズはあるということでしょう。また、学生による授 業評価の実施がほぼ当たり前になっているアメリカの場合、求めるポ ジションによっては教育業績を示す「証拠」が必要になることがある 第 Ⅰ 部 基 礎 編
そうです。 MIT で留学生に英語を教える職にある講師に就職活動のために常 に準備しているという「ティーチング・ポートフォリオ」をみせても らうと、まさしく「書類ばさみ」(portfolio)にこれまで教えてきた 授業に対する学生の授業評価のコピーが教育履歴リストに対応する形 でまとめられていました。教育履歴についてはリストを作ることがで きますが、「どんなに優れた授業をしていたのか」を語るものとして は、学生による授業評価のコピーが唯一の証拠になります。彼による と「とくに教育が重視されるようなポストでは、ティーチング・ポー トフォリオが求められる。自分がいかに上手に教えられるかを伝える のにこうした証拠が必要」ということでした。こうなってくると授業 評価を実施してもらえない機関にあっては教えても「うまく教えたこ とについての証拠」が残らないことになりますから、教員が個人的に 実施する必要がでてきます。このように就職の際に求められるからと いう理由でティーチング・ポートフォリオを作成することはわが国で は稀かもしれませんが、自分の教育の記録をきちんととっておくこと は、自己の教育活動を見直すためにも有効だといえます。(ティーチ
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ング・ポートフォリオについては 9 章 1 節でもふれられています。 ) 5)アカウンタビリティの根拠 多くの機関が授業評価を導入した背景には、大学もアカウンタビリ ティが問われる時代になったという変化があります。アカウンタビリ ティは通常「説明責任」と訳されています。大学や大学教員が自らの 活動について、期待に応える成果をあげていることを外部にわかりや すく示さなければならなくなったということです。「大学評価」が制 度化されたこともまさにこうした動きの一環といえるでしょう。 こうした大学評価の中で、授業評価は、大学や大学教員が自分たち の教育活動がきちんと行われていることを外部に説明する際に依拠す る重要なデータであると考えられています。もっとも、それが大事で あることに異論はないとしてもこの資料をどう活用していけばいいの かについては十分な議論はなされていません。アカウンタビリティの こうした課題については、4 章に詳しく述べられています。
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3.授業評価を活かすしくみの重要性 1)何のための授業評価なのか 以上みてきたように授業評価にはさまざまな機能がありますが、す べての機能は究極的には「教育の質の向上」、すなわち「個々の教員 の授業の質が向上すること」につながることが期待されているといっ てよいでしょう。授業評価の結果は教員に利用されてこそ意味がある のです。では現在行われている授業評価のどれほどが教員に利用され、 授業の質の向上につながっているでしょうか。 「5 月も半ばに入った頃、ポストに封筒が入っており、中に健康診断 の結果のようないくつかのデータが印字された細い紙切れが入ってい た。見ると去年の後期の学生の授業評価の結果だった。3.8,
4.1,…
という数字の羅列をみせられてもこれをどうしろっていうんだ、とい う気分になってしまう」という教員の声を聞くことがあります。また ある地方国立大学では「授業が良かったと思われる教員、良くなかっ たと思われる教員の氏名を記入してください」といった学生アンケー トが実施されているそうです。集計した点数だけを教員に渡すこと、
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あるいはどこが悪かったのか、なぜ悪いと思うのかといった視点を記 述させることもなく学生に「授業がよくなかった」教員の氏名を記入 させ、そのデータを集めることで、どのように授業改善に役立てよう としているのでしょうか。もし授業評価の目的が教員評価に利用する ことにあり、データを教員に返すのはあくまでも「参考まで」のこと だとすれば、授業評価の点数を配って終わり、ベストティーチャー、 ワーストティーチャーの氏名を伝えて終わり、なのかもしれません。 しかしそれでは「教育の質の問題」は単純に「教員の意識の問題」と 同じであり、評価でおどしたりすかしたりして意識を向上させれば教 育の質はあがるのだ、といっているのと同じことになります。もちろ ん全体として意識を向上させることは重要であり、そのこと自体に問 題があるとは思いません。しかし学生による授業評価の結果をきちん と伝えているのに教育の質があがらないのは教員個人の努力不足のせ いだ、としてしまっては本来の目的である「大学の教育の質の向上」 第 Ⅰ 部 基 礎 編
にはいつまでたっても結びつかないのではないでしょうか。 2)授業評価と FD 組織 「良い授業をしたい」と思っている教員はたくさんいるのです。そ して、「良い授業をしたいけれどもどうしたらいいのかわからない」 と思っている先生方も少なからずいるのではないでしょうか。そうし た先生たちをサポートし、大学の教員としての専門性を高めるための 活動は、「FD」(ファカルティ・ディベロップメント)とよばれてい ます。FD に該当する適当な日本語が定着していないことからも、FD という概念が輸入概念であり、1991 年の答申以降、急速に注目を集 めるようになったことがうかがえます。 アメリカで最初の FD センターというべき、教授学習センター が設置されたのはミシガン大学で、1962 年のことです(http://www. crlt.umich.edu/aboutcrlt/abocrlt.html)。そして、アメリカでは 1970 年代半ばから 1980 年代初頭にかけて、最初の「教授技術の発達」に 焦点をあてたプログラムが作られました。1975 年の時点では 88 の公 立大学と 27 の私立大学にこうしたプログラムがみられただけでした が、1986 年にはアメリカ全土の 4 年制大学の 44 %にこうしたプログ
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ラムがあるということです(Lewis,G.2005) 。 わが国では、1972 年に広島大学大学教育研究センターが設置され、 その後、1978 年に現メディア教育開発センター、1986 年に筑波大学 大学研究センターが設置されて以降、1992 年以降は次々とこうした センターが設置され、神戸大学、東北大学、九州大学、新潟大学、京 都大学、信州大学、北海道大学、鳥取大学、東京大学、名古屋大学な ど、おもだった大学には独立したセンターが設置されました。しかし、 本章の冒頭(図 2-1)でみたように、それは日本の大学全体からみる とまだ少数であることがわかります。 さらに日本とアメリカの違いは、そうした機関の性質にもみられま す。アメリカでは、教員をサポートするプログラムを実施するサービ ス機関としての性質が強いといえますが、日本の場合は高等教育の研 究機関としての色彩の方が色濃いといってよいでしょう。その違いは 2 章 ャリアパスによる違いに起因しています。すなわち日本の場合は、セ 授 ンターに常勤するのは教育研究職にある者です。アメリカの場合にも 業 評 いわゆるプロフェッサーや、教育研究職を兼務している者もいますが、 価 の 多くは管理運営スタッフとして雇用されています。図書館などと同じ 諸 機 ように、専門的なスキルをもち(あるいは期待され)、サービスを行 能
そうしたセンターの学内での位置づけや、そこに雇用される人員のキ
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うことを主たる目的として雇用されるわけです。アメリカの FD 活動 の活発さは、POD ネットワーク(Professional and Organizational Development Network)という団体の活動をみるとその性質がよく わかります(次のページのコラム参照)。1975 年に設立され、当初は 20 名で組織されたこの団体は、2005 年には 2000 人を超える国内外の Faculty Developer たちが集い、より実践的で効果的なプログラムの あり方などについて研究報告を交換しあう場へと大きく成長していま す。それだけ多くの大学に専門の部署が設置されており、専任のスタ ッフが配置されているということです。 こうした FD のための組織と授業評価は密接にむすびついています。 先に「授業評価の結果によって、自分の弱点がわかったが、どうすれ ばそれが改善されるのかわからない」教員に対して、授業評価のデー
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アメリカには、1975 年に創立された、高等教育における教授
コ ラ ム
The POD Network 第 Ⅰ 部 基 礎 編
│ フ ァ カ ル テ ィ ・ デ ィ ベ ロ ッ パ ー の 集 い
学習の発展に寄与する団体があります。正式名称を Professional and Organizational Development (POD) Network in Higher Education といい、高等教育に関わる個人や組織を支援すること を目的としています(http://www.podnetwork.org/) 。その対象範 囲は多岐にわたっていますが、支援の具体例としては「学生の批 判的思考や問題解決能力を育成する方法」 「コースやカリキュラム のデザイン」 「授業研究を通した教育技術の向上」 「メディアを用 いた教育の実施」などが示されています。毎年会議が開催されて おり、その第 30 回大会が 2005 年 10 月にミルウォーキーで開か れました。アメリカ全土から参加者があり、その総数は、海外か らの参加者も加えて 650 名ほどでした。日本からの参加はこれま でほとんどなかったそうですが、この年は示し合わせたわけでも ないのに 10 名弱の参加があり、ちょっとしたコミュニティができ ました。 この会議への全参加者リストをみますと、教授や助教授に加え て、 「所長」 「副センター長」 「学長」 「副学長」 「コーディネーター」 といった肩書きが非常に多いことが特徴的です。学会参加のため には「会員」になることが必要ですが、会員は個人というよりは 団体を対象としているようで、毎年の各大学からの参加が見込ま れているのではないかと想像されます。 4日間の会議の主な内容は、1日目が「プレカンファレンスワ ークショップ」 「初めての参加者へ」 「ウエルカムパーティ」 、2日 目が「ラウンドテーブル」 「基調講演」 「リソースフェア」 、3日目 が「ケーススタディディスカッション」「ポスターセッション」 「基調講演」 「コンカレントセッション」 、4日目が「ラウンドテー ブル」 「コンカレントセッション」 「クロージング」となっていま す。 「コンカレントセッション」では並行していくつもの個人発表 が比較的小さな部屋にわかれて実施されていました。それぞれの 発表は、1 件につき 1 時間ほどのたっぷりとした時間配分となっ ており、実践内容がよく伝えられ、ディスカッションの時間も多 くとられていました。参加者同士を話し合わせ、参加させるワー クショップ型の発表も多くみられました。発表の内容自体は、ど ちらかというと経験をシェアする形のものが多く、理論構築的研 究の色合いは薄いのが特徴といえるでしょう。 また、各大学のFDセンターがそれぞれブースを出し、自分た
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ちの出版物、ワークショップ、出版物などを宣伝し、お互いに情 報交換する場が設けられており、40 ほどのブースが並んでいまし た。センターの名前入りボールペンなど記念品を配るところもあ り、大盛況でした。 全体的な雰囲気としては、 「良い実践はみんなでシェアしましょ う」 「それぞれ大変なこともあるけれど、がんばっていきましょう」 といった感じであり、まさに「ファカルティ・ディベロッパー」 の年に一度の集会といった結束力を感じました。パワフルな女性 が多く、エネルギーに満ちた会議でした。
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各大学がこのようなブースをだし、 出版物、研究会、セミナーのPRな 活動内容を紹介しています。これは どを熱心にしています。 スタンフォード大学のブース。
ファカルティ・ディベロッパーという(筆者には)耳新しい言 葉の指すポジションが日本の大学にも必要なのかどうかといった ことや、そうしたファカルティ・ディベロッパーたちのキャリア パスについてはまだまだ考えていく必要があると感じましたが、 少なくともこうした情報交換の場は有益だといえるでしょう。し かしながら、その場が「FD に長く関わっている参加者にも、初め て参加する者にも魅力的である」ためにはある程度の規模が必要 となってくると考えられます。 日本では、広島大学高等教育研究開発センターに事務局を置く 全国大学教育研究センター等協議会が 1996 年に設立されていま す。当初、11 の会員校数であったものが 2005 年には 28 校とな っており、 「高等教育に関する各種の意見交換や共同研究、人事交 流等」が行われているそうです(http://rihe.hiroshimau.ac.jp/viewer.php?i=217) 。また、京都大学高等教育研究開発推 進センターが主催する「大学教育研究集会」 (2001 年度に第1回 大会開催、2004 年度からは 1995 年度から開催されている「大
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学教育改革フォーラム」と統合され、 「大学教育研究フォーラム」 と改名)にも、2006 年には 500 名を越す参加者がありました (http://www.highedu.kyoto-u.ac.jp/forum/2005/index.html)。 1979 年に発足した大学教育学会(1997 年に改名、それ以前は 一般教育学会、http://www.daigakukyoiku-gakkai.org/menu. htm)や、1997 年に設立された日本高等教育学会(http://wwwsoc.nii.ac.jp/jaher/)といった学会も加えると、そうした情報交換 の場となる芽は、日本にもすでにあるといえます。今後、こうし た場を中心として、日本の大学文化に馴染むFDの在り方が模索 されていくことが期待されます。
(田口真奈)
タは何も教えてはくれないと指摘しましたが、それを教えてくれる役 割を担うのがまさにこうした機関だからです。たとえばハーバード大 学の FD センターであるデレック・ボク・教授学習センター(Derek Bok Center for Teaching and Learning)を訪れる教員の多くは、学 第 Ⅰ 部 基 礎 編
生による授業評価の結果を受けて「何とかしたい、何とかしなければ ならない」と自覚した教員や、初めて学部学生に授業を教えることに なった大学院生たち(ティーチングフェローとよばれる)だというこ とです。ある学部の教員から、「自分の学部の助教授の授業評価が芳 しくない。なんとかしてくれないか」と相談をもちかけられることも あるそうです。もちろん、授業評価の結果が悪いからというわけでは なく、より良い授業を求めて自助努力を行いたいティーチングフェロ ーや教員もここを利用します。 こうしたティーチングフェローや教員に対して、ハーバードのデレ ック・ボク・教授学習センターでは多くのビデオ教材(たとえば、 「How to Speak: Lecture Tips from Patrick Winston」など)を提供 したり、ウェブで手軽によめる資料を公開したり、ワークショップや マイクロティーチングを実施したり、といったさまざまな取り組みを 行っています(http://bokcenter.harvard.edu/)。問題を感じている 教員に対して授業をビデオ撮影し、それをあとで再生しながらカウン セリングを行うといった活動も頻繁に行われています。 ただしこうしたセンターは決して「教員を評価する機関」と同一で
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あってはならない、といいます。デレック・ボク・教授学習センター のウイルキンソン所長は「われわれが、教育の質を管理する警察のよ うな団体だと思われることは絶対に避けなければならない。援助が必 要なときに十分な手をさしのべられるようなフレンドリーであたたか い組織であるとわかってもらうことが重要である。そのために、評価 を行う機関と、その結果を受けて表彰したり援助が必要な教員にサー ビスを提供したりする機関を分けることはとても重要なことだ」とい います。その背景には、授業改善は上からの押しつけによってなされ るものではなく、(その契機そのものが上からの押しつけであったと しても)、あくまでも教員の自発的な意志によってなされるものであ り、こうしたセンターが信頼され、その意志をサポートすることによ ってこそうまくいく、といった思想が流れているように感じます。 3)授業評価の位置づけ 2 章 業評価そのものはあくまでもその目的に達するための手段であり、そ 授 の結果はただのデータである、ということがよりはっきりしてきます。 業 評 授業評価は教育改善の特効薬にはなりません。現在ほぼすべてといっ 価 の てよい大学で何らかの授業評価が実施されているアメリカでは、それ 諸 機 は「当たり前の」データとしてとらえられています。アメリカでこの 能
こうしてみると、授業評価の目的は「教育の質の向上」ですが、授
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授業評価が盛んに行われるようになったのは 1960 年から 70 年にかけ てのことですが一定期間を経て、現在では先に述べたように、平均的 な教員の授業評価は高得点で安定しているため、改善点をそこから見 いだすことが難しいなど、ある意味で形骸化しているところもあるよ うです。 しかしながら、アメリカのある教員は「授業評価は必要悪 (Necessary Evil)」だといっていました。「(評価されるのは)誰だっ ていやだよ、でも必要」だと。「新しい大学に赴任した 1 年目は緊張 する。自分がどのくらいの得点になるのかわからないから、気合いも 入る。2 年目は、あのくらいやればこの大学の学生にとってこのくら いの評価が得られる、ということがわかっているので、多少は楽にな ってくる。そして 3 年目以降は、普通にやれば 7 点満点の 6 . 5 点、手
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を抜けば 6 . 2 点、すごくがんばれば 6 . 8 点になる、ということまでわ かってくる」といいます。こうしてみると、授業評価は、所詮チェッ クの機能しかもっていないのかもしれません。 授業評価を続けていけば日本も遅かれ早かれ、学生による授業評価 は当然のこととしてとらえられ、それがある水準の点数に落ち着いて くると考えられます。良いも悪いもない、せねばならないこととして、 過剰な期待もヒステリックな拒否反応もなくなるのではないでしょう か。そのときに残るものが空虚なルーチンワークとしての授業評価に なるのか、大学の教育力をあげる取り組み全体のシステム図の中にひ っそりと、しかし確実に位置づいた授業評価になるのかは、それを導 入する際の思想にかかっているといえるでしょう。授業評価を実施す ることでかえって問題の原因のすべてを、教員個人の授業スキルや授 業内容に起因させてしまったり、学生を単なる「評定者」に教育して しまったりしては意味がありません。問題が明らかになったときに、 第 Ⅰ 部 基 礎 編
教員の個人的な努力をサポートする仕組みに加えてカリキュラムや入 試システムといった大学全体で取り組む課題につなげるべきかどうか を判断し、その解決に向かうような体制づくりが重要です。授業評価 だけを単独に取り出して論議するのではなく、大学全体の教育力を増 すためには授業評価をどう位置づけるべきかについて、学生サポート、 教員サポートという観点から考える視点が今後ますます重要になると いえます。 ■引用文献 井下理(2001).「学生による授業評価調査―教育の品質保証を目指して」日 本私立大学連盟『大学時報』 No. 281、 92 ─ 99 Lewis, K. G. (2005). Brief History of Faculty Development. (2005 年 10 月 27 日 POD 配布資料) 滝本喬(1999).「「授業評価」をめぐる攻防」安岡高志・滝本喬・三田誠 広・香取草之助・生駒俊明(編)『授業を変えれば大学は変わる』プレジ デント社、 65-128
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■資料紹介 安岡高志・滝本喬・三田誠広・香取草之助・生駒俊明(編)(1999).『授業を 変えれば大学は変わる』プレジデント社 日本で最も早い段階で学生による授業評価を全学に導入した大学として注 目を集めた東海大学の授業評価導入に関する経緯がまとめられたもので、授業 評価実施にまつわる学内の葛藤や、その導入の先頭に立った教員たちの思いが 具体的に描かれています。東海大学を舞台にした 1 つの事例ではありますが、 日本における授業評価導入初期段階の大学人の反応がよく記された、歴史的に 貴重な証言の書といえます。とくにこれから授業評価を導入しようとする実施 者にとっては、学内の反応を予想する際に参考になるのではないでしょうか。
デイビス、バーバラ・グロス著/香取草之助(監訳) (2002) . 『授業の道具箱』 東海大学出版会 カリフォルニア大学バークレー校で教育開発担当の副学長による著を翻訳し たもので、先輩教員たちの教室での体験やこれまでに蓄積された教育研究・理 論が、ティーチングに関する 49 の技法としてまとめられています。 「ディスカ ッションの戦略」 「教育用のメディアおよび器材」といった 12 の章は、それぞ れ気をつけるべきことや有効なストラテジーなど具体的な方策を読者に提供す
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ることが意図されており、前から順に読むというよりは、自分のやり方にあっ た授業改善に役立つアイデアを探すのによい本だといえるでしょう。
京都大学高等教育研究開発推進センター(編)(2003) . 『大学教育学』培風館 京都大学高等教育研究開発推進センターに所属する教員たちにより、「大 学教育学」のテキストとして編まれたもので、その内容は、授業論、評価論、 カリキュラム論、FD 論、学生論、メディア論と多岐にわたっています。具 体的個別的なフィールド研究から出発しつつも、単なるノウハウをまとめる のではなく、大学教育実践を扱う教育学の新たな分科としての大学教育学の 構築をめざした意欲的な書で、大学教育学を志す人にはもちろん、学生によ る授業評価をより広い視野から位置づけるために一読をおすすめします。
2 章 授 業 評 価 の 諸 機 能
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3章
授業評価と学習促進
1.学生と授業評価 1)「学生による授業評価」の位置づけ 一般に授業を評価するにあたっては、そのカリキュラム上での位置 づけを明確にしたうえで、教授内容、教授法、教材や課題、授業外で の学生との関わり、学習評価の方法や学習成果など、総合的に評価観 点を整理しておく必要が生じます。しかも、それぞれの評価観点に応 じて適切な評価者も変わってきますから、教員自身や学生のほかに、 第 Ⅰ 部 基 礎 編
教育方法の専門家、内容領域の専門家、卒業生、同僚、その他ステー クホルダー(stakeholders、授業の成果に関連・関心をもつ人々)の さまざまな視点を複合させることが求められます。 そうした中で、とくにアンケート形式の学生による授業評価がクロ ーズアップされたのは、一種の顧客満足度の指標として簡便な量的指 標が得られるためでしょう。しかし、授業の質はそれだけで判断され るものではありませんし、何よりも、教育機関において顧客満足度が 高ければそれでよいのか、という基本的な疑問があります(1 章 1 節 も参照)。 たとえば学生が独自に作っている授業情報誌は、多くの学生の「ニ ーズ」に応えるものでしょう。東京大学の『恒河沙』や早稲田大学の 『ワセクラ』『マイルストーン』などはよく知られており、裏シラバス などと呼ばれて、単位の取りやすさや教員の傾向などが学生の立場か ら取材されています。最近は、ネット上でも大学を越えた授業情報サ イトができています。これらはしかし、授業評価としてはきわめて偏 った情報になっているのが通常ですし、高等教育で求められる学習観 や学習スタイルを前提しているものもあまりないようです。
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授業評価は最も直接的には目標とされた学習が達成されたかどうか にかかっているといえます。医療のアナロジーで考えれば、病気が治 療されたかどうかが鍵になるのであり、その過程や患者からの評価は 必ずしも重要ではありません。ただし生活習慣病のように患者自身の セルフケアが要請される場合、生活スタイルの変容のために治療者も 患者教育の工夫を求められることになります。大学の授業においても、 学生が当該領域で自律的な学習者になっていくことが目標の一環とな るでしょうから、教授内容に関する結果責任だけでなく、学生の学習 スタイルの変容を促進する工夫も期待されているといえましょう。 したがって、授業評価―授業改善のサイクルにおいては、学習評価 の方法や成績指標の作り方が適切であること、および、学生の学習意 識や授業改善方向の示唆などを把握できることが必要条件となります。 前者は、いわゆる「成績評価の厳格化」にもつながるもので、学習を 的確に評価・促進できることを、後者は、たとえば学生による授業評 価によって、授業改善のためのフィードバック情報を得ることをさし 53
ています。 2)総括段階の授業評価 今日、学生による授業評価を実施する大学は、すでに全体の 9 割を 越えています(文部科学省, 2005)。しかし、個々の科目の集計結果や 改善方向を学生に報告している大学は少なく、また、学生の履修計画 の一助となることを意図したガイダンス的な授業評価報告は、さらに 少ないと思われます。授業評価結果の公表にあたっては、諸々の配慮 が必要なため必ずしも公開を前提にすることはできないものの、評価 を行った学生に何もフィードバックがない場合、彼らにフラストレー ションが募り、授業評価に参加しなかったり不真面目な回答をしたり する結果になるかもしれません。また、たとえフィードバックがなさ れる場合も、通常かなりのタイムラグが生じるでしょうから、いずれ にしても総括段階(授業終了時)での授業評価は、学生にとって意義 を実感しにくい作業です。 そこで、できれば、学習の振り返り機会を兼ねたり評価の意義を十 分に理解してもらったりすることで、回答学生にも意義を感じられる
3 章 授 業 評 価 と 学 習 促 進
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ようにしたいものです。実際、たとえば京都大学工学部では、授業ア ンケートに「重要であると思った概念、理論、キーワードなどを 5 つ」 記入してもらい、1 学期間の学習の振り返りを求める工夫をしていま す。また、国際基督教大学などでは、運営組織・教員・学生全ての当 事者にとって意味のある授業評価となるように、学生自身の振り返り を含めて適切な評価を行うための事前研修、いわば「評価についての 学習」を実施しているようです。 こうした試みも、しかし、ある程度透明な授業評価―授業改善ルー チンを示しておかなければ、十分機能しないかもしれません。一種の インフォームド・コンセントとして、学生が自分たちの回答がどのよ うに処理され、どう用いられていくのかを了解しておくことで、授業 評価にもより責任をもって関わることができるように思われます。ま た、可能な限り速やかに評価結果や改善計画等をフィードバックし、 学生の声に具体的な反応を返すことができれば、授業や学習への学生 第 Ⅰ 部 基 礎 編
の意識もより高まるのではないでしょうか。 3)授業過程での評価 授業のあり方をめぐって教員と学生のやりとりの機会が少なかった 頃に比較すると、学生による授業評価が制度化されてきたことは、ま ずは歓迎すべきことと思われます。しかし、評価結果ばかりに目が向 きがちで、必ずしも授業改善への取り組みが促進されているようには 見受けられません。 評価結果は学生の履修動機や学習スタイルなど多くの要因に依存し ますので(本章 4 節 2)を参照)、解釈がそれほど単純ではなく、また、 同じ授業でも参加学生が変われば評価も変わることがあります。先に 述べたように、授業を評価する最も重要な観点は目指す学習が成立し たかどうかにあるはずですので、目の前にいる学生たちからのタイム リーな評価を、授業目標に向かう学習促進と授業改善の過程で取り入 れていく方が有益と思われます。 つまり、総括段階ではなく、授業過程の形成的なフィードバックの やりとりで、「学び方の学習」と「教え方の学習」が連動して成り立 つように工夫するわけです。授業評価を、授業終了時の付加的な作業
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にせず、授業実践の文脈の中に適切に組み込むということです。 たとえば、早期評価(early evaluation、授業になじんだ段階で行 う中途の授業評価)や内容の区切りごとに挿入する中間評価は、授業 方法に関するフィードバック・フィードフォワードの大切な情報源と なります。また、毎授業終了時の「ミニッツペーパー」(minute paper)や「大福帳」などは、授業への反応やそれに基づく改善の結 果をこまめにチェックできるだけでなく、学習促進のためにも活用し ていくことができます(4 章 4 節、8 章 4 節・ 5 節を参照)。マークシ ートリーダーや携帯電話用の集票システム等が利用できれば、大幅な 省力化も可能でしょう。 留意すべきは、授業評価だけでなく、学習評価の方法も工夫が必要 になる点です(本章 4 節 3)を参照)。期末の試験やレポートだけでは、 授業を軌道修正することができませんし、多くの場合フィードバック がなされない学習評価のあり方では、学生の学習促進につながりませ ん。もともと授業評価自体が学生の学習状況や学習の仕方に依存して 55
いますから、この二者を相即不離の関係にあるものとして一緒にみる 必要があるのです。 そこで、以下では、学生による授業評価を、こうした授業改善と学 習促進の有機的な循環の文脈でとらえてみたいと思います。そのこと によって、教員・学生双方にとって手応えのある授業評価実践となる とともに、すぐ後で述べるような、今日新たに要請されている教授能 力・学習能力を向上させ、ひいては教育アカウンタビリティに堪える 総括的評価につながっていくことが期待されるためです。
2.社会背景と学習観の変化 まず、高等教育をとりまく状況を、とくに要請される学習観の変化 に焦点をおいて、整理してみましょう。 1)ユニバーサルアクセス段階の高等教育 社会において高等教育がほぼ当たり前になるということは、大学等 もまた子育て過程の一環に組み込まれるということでもあります。し たがって、いわゆる学力低下への対処や進路ガイダンスのみならず、
3 章 授 業 評 価 と 学 習 促 進
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成長保障面での役割も問われることになってきます。同時に、少子化 に伴って留学生や社会人、高齢者などサービス対象が拡大することで、 学習者はさまざまな背景と学習スタイルをもって入ってくるようにな ります。 こうなると、教員の側も、効率的にブロードキャスト(多人数伝達) するためのプレゼンテーション技能よりも、集団特性に応じたナロー キャスト(少人数伝達)のための効果的なコミュニケーションや学習 支援のためのファシリテーションの力をより求められることになりま す。多くの場合、この面での授業改善は、担当教員の努力の範囲を超 えた大局的な観点を要します。たとえば、小集団単位で学習の個別 化・個性化をめざすためには、施設やカリキュラム等の調整のほか、 情報インフラやサポート組織の充実を機関レベルで図らなければ、教 員個人の負担が重くなりすぎます。 2)IT 化とグローバリゼーションの中での基本的能力 第 Ⅰ 部 基 礎 編
IT の浸透によって、日常生活でのメディアの活用やコミュニケー ションのあり方、そして学習の仕方に大きな変化が生じつつあります。 また、産業社会がいっそう国際化しているうえ、とくに人の広範な移 動・移住が特徴的になっている今日、今後の卒業生に求められる基本 的な能力や学習力もこれまでとは違ったものにならざるを得ないでし ょう。 実際、今後の鍵となるコンピテンシー(能力、技能、動機づけ等の 統合概念)について、国際的な検討報告が出されています(Rychen & Salganik, 2003) 。OECD の後援でスイスの主導のもとに組織された、 DeSeCo(Definition and Selection of Competencies)と呼ばれるプロ グラムの報告ですが、そこでは以下の 3 つのコンピテンシーをとくに 重視しています。 ① 多様な人々との効果的相互作用 ② 自律的な行動 ③ 双方向媒体の有効活用 ①は、他者との協調や多文化状況での葛藤調整に関わるもの、②は、 家庭や地域、職場等において自分の目標や計画を明確化するとともに、
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権利や関心を擁護・実現するエンパワーメントに関わるもの、そして ③は、言語や情報、知識といった社会文化的道具、およびコンピュー タほかのデジタルツールの活用に関わるものです。そして、以上の三 者が密接に関連していることを踏まえ、批判的思考と反省的実践の態 度がこれらを通底する要件として主張されています。 こうした基本的能力を育てるためには、導入教育や補習教育として 補助的な機会をつくるよりも、各領域の専門教育に埋め込むかたちで 学習課題を工夫したほうが効果的です。学生には、自分の知識や技能 を総動員し、対人的な関わりを調整しながら、同時に相互にリソース となりながら、ある程度複雑な問題解決を行っていくプロセスが求め られます。そして、学習評価や授業評価の観点としても、たとえば上 記の 3 コンピテンシーを考慮に入れた枠組みが望まれます。 3)具体的状況や関係文脈を重視する学習観 以上述べてきたことは、社会変動に対応する高等教育のあり方を模 索するものですが、一方で、教育心理学や学習科学などの研究領域か 57
ら示唆されてきた新たな学習観があります。 過去四半世紀の間、具体的な問題解決状況での人間の行動や、対人 関係の中で現れるパフォーマンス等に関する研究から、個人に帰属さ れる実体論的な能力のとらえ方ではなく、状況や関係の中で現象し意 味づけられる関係論的な能力のとらえ方が主張され、それに対応する 教育方法が検討されてきました。実際、我々の日常の思考や学習は、 個人の中に蓄積された技能が個別に適用されているというよりは、そ の場の状況や関係に触発され、また働きかけながら、ある範囲で柔軟 かつダイナミックに展開されているものといえるでしょう。近年は、 情報環境の発展にも支えられて、これまで十分取り上げられなかった 日常的な認知や生活経験との連関を重視する授業が見直され、さまざ まな実践研究が行われています(三宅・白水, 2003 など) 。 高等教育においても、PBL(Problem-Based Learning、問題解決学 習)やアクティブ・ラーニングなどの活動的な学習形態、ポートフォ リオを始めとする質的なパフォーマンス・アセスメント手法* 1、イン ターネットを活用した CSCL(Computer-Supported Collaborative
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Learning、コンピュータに支援された協調学習)など、教授学習場面 のイメージが大きく変わりつつあります(野嶋ら, 2006 など)。さら に、今日では、ユビキタス・コンピューティングを前提に、フィール ドと教室を有機的に結んだ新たな教育方法も模索されています。これ らの特徴は、協調課題への参加による意味の相互交渉過程の重視と、 可視化した学習の軌跡を評価と学習促進に一体としてつなげる考え方 にあるといってよいでしょう。 以上のような実践は、教員・学生双方の学習観を変えていくことが 予想されます。教室自体がひとつの状況であり関係文脈であることを 鑑みると、多くの大学でなお支配的な大人数講義形態は、特定の学習 観と「学習の仕方」を要求しており、また多くの学生はそれになじん でいます。学生による授業評価を行う際、そのような固定した学習観 を前提にしていると、評価項目の作成においても結果の解釈において も、さらには改善の工夫においても、選択肢がきわめて限られたもの 第 Ⅰ 部 基 礎 編
になってしまいます。学生の側でも、異なる学習形態の経験があまり なければ、授業の見方においても改善方向の提案においても、きわめ て限られた内容しか示せないのではないでしょうか。 目の前に見えている学生の姿はひとつの状況での現象だととらえて、 教育目標と授業設計を吟味し、より活動的な学習形態の工夫を試みる ことで、学生の姿は変わってくるかもしれません。じつはこの試行錯 誤こそ、教員と学生が共同して行うべきところであり、授業を共同で 創造していくという課題自体が、実際の学習プロセスと並んで、先ほ ど述べた 3 つのコンピテンシーの育成にもつながり得る貴重な文脈を 提供するのです。
3.学生にとっての授業空間 さて、教員と学生が出会って課題に取り組む場であり、授業評価の * 1 パフォーマンス・アセスメントとは、問題解決や制作等の遂行過程と実績を把握す るさまざまな方法の総称で、その 1 つがポートフォリオ評価です。これは、学習過程での 産出資料を計画的に収集・整理し、いくつかの観点と基準によって質的に評価するもので、 学習者にとっては自己学習・自己評価力を高める機会にもなります。詳細は、初中等教育 の事例ですが、西岡(2003)や高浦(2004)などが参考になります。
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対象である授業空間とは、どのようなところなのでしょうか。ここで は、おもに学生の立場からあらためて見直しておきましょう。そうす ることで、授業評価の見方と授業改善の基本的な方向を確認すること ができると思われるからです。 1)学習者のモデル 教員は、授業設計から実施・評価の一連の責任を負う立場として、 担当授業を日常生活の中でもある程度焦点化してとらえていると思わ れます。また、所属組織でのさまざまな業務に携わる中で、当然なが ら生活空間の大部分がキャンパスを中心に回ることになります。それ に対して学生は、多くの履修授業の中の一つとして、一定の時間参加 することを要請されるだけですから、それが自身にとっての中心課題 になっていない場合には、コミットメントのレベルにおいて教員と学 生の間に大きな差があるのは当然です。 3 章 中でのさまざまな自己認知や役割は、時間的・空間的な広がりの中で、 授 業 アイデンティティとの距離の近さや関連の深さにばらつきを持ちなが 評 価 ら併存しているといえます。また、それぞれの間も、互いに影響を与 と 学 習 促 進
図 3 -1 は、一般の生活空間をモデル化したものですが、日常生活の
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図 3-1
大学生の生活空間
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え合っている関係のものから、完全に閉じていて独立しているものま で、その開放度に相違がみられるでしょう。さらに、現実の生活領域 の中で展開している役割群だけでなく、メディア情報によって拡大し て張られている生活空間があり、そこから照射されて自分の位置づけ や価値づけ、特定の側面の活性化等に影響が及ぶこともあります。今 日のようにマスメディアとパーソナルメディアが浸透し合って生活に 大きな影響力をもつ時代には、いわばリアルとヴァーチャルが混淆し ている範囲が広く、そのために自己体験全般が希薄化していく傾向に あるかもしれません。 学生からみた授業に焦点をおいてみると、たとえば大学生としての 自分自身は、授業や教員等との関わりをひとまとまりとしたクラスタ ーを成し、他の自己認知群とネットワーク関係にあると考えられます。 授業空間は、学生が所属する多くの集団のうちのごく一部にすぎず、 関心の程度によってより中心的な価値を付与されたり周縁的な位置づ 第 Ⅰ 部 基 礎 編
けになったりするでしょう。加えて、その授業が日常のどういった役 割や経験と関連しているかによって、他の生活局面と連鎖しているこ ともあれば、全く別個に独立していることもありえます。さらに、授 業で伝えられる情報や知識は、ただ伝達されるのみではすでに日常に 遍在しているさまざまなメディア情報とあまり差別化されないもので あり、授業の特殊性とはそれ以外の面、たとえば教室に身を運ぶ、課 題に参加する、友人と会う、などに集約されることになりかねません。 2)授業空間の自発的構造化 実際、ある大教室講義を観察すると、関心を十分にもたない学生は 自発的に時間を構造化し、とくに期末が近づくと、試験対策も兼ねて たとえば以下のようなマルチタスクをこなしていました。 ① 教授者の視聴 ② 提示資料の視聴 ③ 配付資料の中の課題に回答 ④ 過去の配布課題の未了分に回答(あるいは他授業の課題に従事) ⑤ 課題回答に際して隣の友人と相談 ⑥ 携帯メイルのチェック
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学生たちはそれぞれなじんだ学習の仕方―学習スタイル―をも
コ ラ ム
学 習 ス タ イ ル
って授業に来ています。それらは大きく 4 種類に分けられそうで す(cf. Vermunt, 1998; Yamaji et al., 1995) 。 ①情報・技能転移の重視:提示された情報や必要とされる技能を、 そのまま効率的に習得しようとする ②構成的理解の重視:情報内容を個人的な知識や経験と照らし合 わせ、また他の情報と関連づけながら、自分なりの理解をつく っていこうとする ③批判的探究の重視:情報内容の前提や根拠を探ろうとするなど、 批判的にさまざまな観点から吟味しようとする ④気づき展開の重視:集中して取り組む中で、はっと気づいたり 自然にできるようになったりすることに委ねる 学習スタイルは、各人のこれまでの学習の歴史によって比較的 安定しているものといえますが、それだけでなく、授業や学習評 価のあり方に応じてある程度選び直されるものでもあります .. ..
(Sambell & McDowell, 1998; Tynjala, 1999 など) 。 高校までの学習で、多くの場合、学生は①の情報・技能転移の 重視の傾向が強く、収束的な学習になじんでいるため、大学で② 61
や③の学習スタイルを要求された場合には、なかなか適応が難し いものです。しかし、学習評価の仕方を共同化することで、より 自覚的な対処が可能です。たとえば、少なくともコースの最初と 中間評価の時期に、シラバス等を提示しながら授業運営の考え方 や学習評価の観点・評価基準を説明し共有したうえで、学生の側 から反応や提案を募ることができます。授業評価結果とそれに対 する応答を共有することも助けになります。もちろん、実際の授 業がこれらに対応して実施されることが前提になります。 一般に、学生は評価されるという受身に慣れ親しんでいるので、 当初は混乱や当惑を招くでしょうが、それでも何度か繰り返すう ちに、教員の学習観と学生の学習観のギャップが明確になり、そ こで初めて調整が、つまり共同が可能になります(建設的摩擦 (Vermunt & Verloop, 1999) ) 。評価の仕方を共同化することで、 学習への動機づけも高まることが期待できますし、一方、教員に とっても、自分の授業観や教授スタイルなどを自覚的に振り返り、 吟味・調整する機会となります。とくに、昨今の情報環境の著し い変容は、教授学習のあり方に正負両面のさまざまな可能性をも
3 章 授 業 評 価 と 学 習 促 進
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たらしています。 なお、実際には、一つの領域での熟達化とは、上記の 4 つを主 たる学習フェイズとして動的かつ螺旋状に向上していく過程とも 考えられますので、どのスタイルが望ましいかを一律に論ずるこ とは困難です。教員も一つのモデルとなって、目下の学習スタイ ルをより柔軟にし、選択肢を広げる方向で関わることが自律的な 変容を促すものと思われます。
(山地弘起)
①から③は教員の計画に沿った行動ですが、④から⑥はこの学生が 自分で加えている行動であり、全体としてきわめて忙しい「課題」に 取り組んでいる様子がうかがえます。また、教員の個性や学習評価の 方法に敏感に対応して、それに最低限に沿った「学習」のスタイルを つくって授業の場に身を置いているケースは、一般的に多くみられ、 むしろ学生の標準像として教員にはなじみ深いものでしょう。 ところで、学生が自発的に授業空間を構造化するということは、通 第 Ⅰ 部 基 礎 編
常、教員が前提としている授業内体験をはるかに越える内容が生起し ているということです。学生は生活空間の一部としてそこに参加する わけですので、授業で求められている基本的な暗黙規範―授業に集中 して取り組み、教員の話をよく聴く―に必ずしも沿うわけでなく、む しろ適当に取捨選択しながら自分のペースで関わっています。これは、 「怠けている」とか「不真面目」だとかいうこととは必ずしも同じで はありません。実際に 90 分授業何コマかを学生の立場で経験してみ るとわかりますが、たとえ内容に関心が高い場合であっても、長時間 注意を持続することは困難ですし、また自分の中で考えを巡らせて進 めていく場合もありますから、教員が想定しているものとは違った授 業参加のあり方がいくらでもありうるということになります。一方、 教員もまた、こうした学生の参加のあり方から意識的無意識的に影響 を蒙るでしょう。 授業評価においても、教員としては、自分の授業内容や方法を基準 に据えて学生のフィードバックを解釈しようとしますが、学生は生活 空間の状況や授業関連の認知・技能など(本章 4 節 2)を参照)を背 景にしたそのときそのときの体験から回答してくるうえ、教員自身も
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学生集団から影響を受けながら授業を進めますから、得られた評定値 は、授業に内在する特性というより、特定の学生群との間で現象した 反応表現とみたほうがよいことも多いのです。その内実を知るために は、授業記録とともに、学生の自由記述やインタビューを通したより 具体的な資料が必要です。そしてここで再び、学生による授業評価の 結果を立体的に了解し、教育目標に沿った改善方向を模索するために、 教員と学生が協働しなければならない文脈が現れます。学生による授 業評価の妥当性・信頼性の問題も、技術的な議論を越えて、相互の関 係過程の中でとらえる必要があるのです。 3)教員に求められる役割 授業改善に向けて先ほどの学習者のモデルが示唆するところは、学 生にとって十分に動機づけられて関わることのできる授業空間とは、 生活空間をまきこむ方向で授業関連のクラスターをより中心近くに定 位し、かつ開放性と深度の大きいものであることが望ましい、という ことです。そのためには、教育の内容・方法・評価に関して、以下の 63
ような工夫が考えられます。 ① 関心領域や他の生活役割、将来展望などとの関連づけ
ここで意図しているのは、教育内容に関して、学生の普段棲みこん でいる世界と関係をつけて、何らかのリアリティを保とうとすること です。必ずしも、学生にとってすぐに役立つとか理由がわかるとかい うことでなくとも、学生の生活経験にある事例と重ね合わせたり、学 生の関心事につながる形で課題を提示したりすることができないでし ょうか。 一般に、学生の生活空間は教員にはあまりなじみのない世界でもあ りますから、一種の異文化理解と割り切って、アンテナを張っておく ことが大切です。学生生活の支援や学生相談、就職相談など、学生と 日常的に接する部署のスタッフからの助言も有益でしょう。授業では、 若手の教員は年齢的に近いうえ、学生からも親近感をもって接するの で、理解が比較的容易でしょうが、年長の教員の場合には、若手のス タッフや大学院生に協力してもらって、内容を加工したり表現を工夫 したりする必要が出てくるかもしれません。いずれにしても、教員 1
3 章 授 業 評 価 と 学 習 促 進
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人で対処するには難しい事柄ですので、互いの情報交換と学生との直 かのやりとりを心がけたいものです。 ② 制作活動や表現活動などによる全体的活性化と再構成
これは、教育方法に関して、学生のさまざまな経験や知識を総動員 するような課題を準備しようとするものです。ある程度困難で時間を 要する協調的問題解決課題として、制作物や表現発表に向けて工夫を 重ねていくプロセスでは、認知的な処理も深く記憶把持も良いことが 知られています。また、対人的な相互交渉や葛藤調整を経ることで、 社会的技能の向上も期待されます。課題を軸に生活空間内が活性化さ れ、さらには再構成されることで、学生にとっても手応えのある成長 機会になるかもしれません。 いわゆる学生参加型と呼ばれてきた授業形態や総合学習の形態がこ こに相当し、「学習者自身の現在を土台に、相互交渉を経て、発見・ 再構成・創造・変容が生じる過程」を学習とみる考え方が前提になっ 第 Ⅰ 部 基 礎 編
ています(山地, 2001)。この点は、前節で述べた、具体的状況や関係 文脈を重視する学習観とつながるものです。ある程度系統立った情報 や知識の獲得については、必要があれば下位過程で消化されるか、場 合によっては補助的な学習機会が挿入されることもあるでしょう。 教員には、講義形式に代表されるプレゼンテーションや教室のマネ ジメントに関する技能よりも、教育目標と学習者の状況の間で創造的 に学習形態や課題を工夫できるコーディネーション技能や、有効な活 動支援を行うファシリテーション技能が求められます。大教室の場合 などには、チーム・ティーチングで対応することも必要になるでしょ う。 ちなみに、こうした観点からみると、一斉講義を前提とした学校建 築や教室設計の問題も浮かび上がります。とくに一斉講義用の大教室 は、その物理的特性だけで「聴講」という特定の学習の構えを誘発す るものですから、教員が思い切った工夫を講じない限り、学生が主体 的に動くことは難しい環境です。もし多目的スペースやプロジェクト ルームなどが使えるようなら、授業目標に見合った学習形態をそこで 試みることができますが、より大きな視点では、適切な情報インフラ
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のうえで学生同士が自由に調べたり話し合ったりできるよう、教室自 体さらにはキャンパスレベルのデザインの検討が望まれます。 ③ 語ること(ナラティブ)を介した批判的思考と反省的実践
これは、おもに教育評価の面に関わって、学生が自分の活動につい て振り返る作業をはさみながら、自覚的に学習プロセスを経過あるい はコントロールしていけるよう、サポートするものです。また、ある 程度総括的な段階では、ポートフォリオなどを自分で要約したり自己 評価したりする機会を準備することを含みます。 生活空間の中でのさまざまな自己の現れや役割期待は、とくに葛藤 状況が生じない限り、あまり意識されないまま自動化して遂行されて いることが多いものです。授業空間においても、通常、自分の学習プ ロセスや学習成果を意識化して検討することは少ないのではないでし ょうか。 しかし、自分の体験やニーズを把握して言語化し、教員や他の学習 者と交渉したり、学習プロセスを調整したり、次への課題を整理した 65
りすることができなければ、自律した学習や自己評価を望むべくもあ りません。先ほどの制作活動や表現活動が、どちらかといえば生活空 間の水平方向の活性化を要請するものであるのに対し、自分自身を意 識化し相対化する営みは、垂直方向の活性化を要請するものといえる かもしれません。 批判的思考と反省的実践は、前節で述べた DeSeCo レポートにおい ても、今後要請される 3 つのコンピテンシー―多様な人々との効果的 相互作用・自律的な行動・双方向媒体の有効活用―を通底する要件と して主張されているものです。与えられた課題をやりっ放しにして進 む作業的な学習観を越えて、学習の成立が結局は学生自身の責任のも とにあることを確認し、状況の把握と改善方向の選択や提案を行うに は、自分自身を振り返って語ることのできる言語力が不可欠です。学 生による授業評価も、本来そのような言語力を背景に成り立つもので あり、あるいは、そうした力を育てる教育的働きかけの一環として工 夫されることが望ましいと思われます。 授業評価をもとにして教員と学生が相互に生の声を交わし、明確
3 章 授 業 評 価 と 学 習 促 進
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化・課題の整理・調整等を図るプロセスを、反省的実践の学習機会と したいものです。場合によっては、すでに履修済みの学生や TA など、 比較的学生の生活空間を了解しやすい協力者を依頼することも、学生 にとってはサポートになるかもしれません。こうした試みによって、 言語化や言語交流の信頼基盤が少しでも回復し、授業を見る眼・学習 を見る眼・自身を見る眼が連動して育っていくことを願うものです。
4.「学生による授業評価」から FD へ 本節では、授業評価に関して学生自身はどうとらえているのか、ま た学生の個人差などの要因がどのように授業評価に影響しているのか を概観し、加えて学習評価のあり方も検討します。そのうえで、FD * 2 との関連で、学生を含めた機関の構成員がどのように関わっていくべ きかを考えてみます。 1)学生のみる「学生による授業評価」 第 Ⅰ 部 基 礎 編
学生による授業評価は、教員や管理層の立場から盛んに議論されて きたものですが、学生自身はどのようにとらえているのでしょうか。 例として、首都圏のある大規模私立大学の教職科目(教育方法)で得 られた調査結果をみてみましょう(山地, 2006)。ただしこの科目では、 毎回の授業で「学生による授業評価」が実施されていたため、大学授 業や授業評価等に関して通常よりも意識の高い集団といえます。調査 項目は、授業評価や授業改善に関する学生の自由記述の整理(山地, 2005)をもとに、多様な内容について作成されました。 表 3 -1 をみると、「学生による授業評価」の見方には両価的なとこ ろがあり、必ずしもその妥当性や有用性が高く認知されているわけで * 2 日本では、FD の一般的定義として「大学の授業の内容及び方法の改善を図るため の組織的な研究及び研修」(大学審議会, 2000)が定着していますが、FD 実践の先進モデ ルとして想定されているアメリカにおいては、教育だけでなく研究、社会サービス、管理 運営などファカルティ・メンバーの諸活動全体を視界に入れた広義の概念規定をしていま す。個人の専門職能を高めることで機関全体の活力を高めるねらいがあり、個人開発 (personal development)、専門職開発(professional development)、授業開発(instructional development)、カリキュラム開発(curriculum development)、組織開発(organizational development)などの諸領域が含まれるとされます(有本, 2005)。アメリカの FD 関 連 の 最 大 ネ ッ ト ワ ー ク 組 織 の 名 称 も 、 POD ネ ッ ト ワ ー ク ( Professional and Organizational Development Network in Higher Education)です(1 章のコラム「日本 での授業評価の歴史」参照) 。
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表 3-1「学生による授業評価」や授業改善等についての 意見項目の基礎統計 (n=328)
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注)4 件法による。平均が 3.0 を越えるか 2.0 を下回る項目は太字で表示した。
はないようです。しかし、項目 12 から 15 の平均が 3.0 を越えている ことは、互いの影響や教員からのフィードバックの重要性が学生にも 認識されていることを示唆しており、授業改善への共同意識(項目 21, 22, 25)や学習の仕方の課題意識(項目 26, 27)も高いものです。 本調査で対象とした授業が、毎回の授業評価を行いながら授業を進 めていく形式であったことは、教員・学生双方に授業改善への共同意 識を促す機能を果たしたと考えられます。ひとつのクラスでの体験が 全般的な授業評価や授業改善等への意識に影響を与えることは難しい でしょうが、授業での肯定的な体験から授業改善への共同意識が培わ れて、授業観や教員・学生間の関係が変容していく可能性はあります。 この授業の文脈では、学生における教員印象(関係面および課題面)
3 章 授 業 評 価 と 学 習 促 進
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から授業内体験(意欲や集中)を経て授業改善への共同意識に至る因 果モデルが確認されました(図 3 - 2) 。 以前から、学生による授業評価は信頼に足るか否かといった議論が ありますが、それは教員が学生といかなる関係にあるかにも依存する、 ということになるでしょう。本章は、教員と学生が共同して授業を創 造することの意義を主張するものでしたが、そうした発想は、学生に おいても共有されうることを以上の結果が示しています。
第 Ⅰ 部 基 礎 編
図 3-2
教員印象・授業内体験・授業改善への共同意識の 因果モデリング結果 (n=314)
χ2=64.487, df=49, p> 0.5 GFI=.968, AGF=.949, RMSEA=.032, CFI=.984 パス(標準化係数)はいずれも有意(p0
図1
相関係数(r)と散布図
図2
相関関係と因子
r=0
r