ブレイブ・ストーリー (下) (角川文庫)

ブレイブ・ストーリー 下 宮部みゆき

1

ブレイブ・ストーリー下 半 目次

2

21 嘆きの沼      33 逃亡者 22 ティアズヘヴン   34 呼びかける者 23 暗黒の水      35 リリスの惨状 24 死の幻影      36 システィーナ聖堂の檻 まがぼし

みやこ

25 北の凶星      37 ジョゾの翼 さと

きょうおう

26 サーカワの郷へ   38 凍れる都 27 再会        39 教王

28 サーカワの長老   40 離れる心 29 ルルドの国営天文台 41 ガサラの夜 30 バクサン博士は語る 42 深夜の会話 31 第二の宝玉     43 暗殺計画 32 ワタル       44 ガサラ脱出

3

とこやみ

45 皇都ソレブリア   51 〝旅人〟の道 46 常闇の鏡      52 ワタルひとり 47 ドラゴンたちの島  53 取り戻せるもの 48 皇都壊滅      54 決闘 49 鏡の広間      55 運命の塔 50 別れ        56 ワタルの願い       終章

4

Ｂ

Ｒ

Ａ

Ｖ

Ｅ

 

Ｓ

Ｔ

Ｏ

Ｒ

Ｙ

ブレイブ・ストーリー 下

5

 

6

 部  二  第

7

 

8

 21 嘆きの沼     ひしょう

たつまき

 風に巻かれ、目もくらむほど高い夜のてっぺんまで飛翔し、空をよぎる││ あか

じょうしょう

 星が見えた。眼下の雲の切れ目で町の灯りが見えた。竜巻の真ん中に取り込まれると、 やわ

ついらく

やさ

そこは不思議なほど静かで、間断ない上昇気流が、まるで赤子を抱きあげる母親の腕のよ

うに柔らかく、ワタルが地上へと墜落しないように、優しく持ちあげてくれていた。

 やがて少しずつ高度が下がり、雲の下に出た。どれくらいの距離を運ばれてきたのか見

は

当もつかない。見おろす足元はただ一面に暗く、家々の屋根も牧場も山の端も見分けがつ

みぎもも

かない。それでも、高度はさらに下がってゆく。竜巻が下降しているのではなく、竜巻の ほうよう

内部で、ワタルの位置だけが少しずつ下がっているようだった。 しめ

どろ

 やがて、地面に足がついた。竜巻の風の抱擁が離れると、思い出したように右腿の傷が たお

ずきりと痛んで、ワタルは地面に倒れ込んだ。そこはベトベトと湿った土││いや、泥の ふ

あお

海のようなところだった。

 はっとして振り仰ぐと、銀色の竜巻のしっぽが、雲のあいだに消えてゆくところだった。 かがや

空はまだ暗く、星が輝いている。

 ミツルは、どこに飛ばされるか責任を持てないなんて言ってたけど、あの竜巻は親切だっ

9

ちが

せま

た。本当に危ないところを助けてもらった。ガサラで留置場に放り込まれたときとはわけ が違っていた。今度こそ死が目前に迫っていたのだ。 か ら だ

こお

 ││あいつには、二度も命を助けてもらっちゃった。

 身体の下の泥は冷たいが、柔らかかった。凍るような冷気が身体にしみてくる。ともか

はんい 

く、こんなところにいつまでも座り込んでいるわけにはいかないと、立ちあがろうとした すべ

あし

けれど、ぬるぬる滑って上手くいかない。何かにつかまろうにも、目の届く範囲内には、

ちょうどススキか蘆みたいなひょろひょろした草が茂っているだけで、手がかりにならな かった。 しば

こわ

 何とか二本の足で立ちあがったときには、ワタルはどろんこになっていた。腿の矢傷を

縛ってある包帯も真っ黒だ。早くきれいにしないと││何だっけ、母さんが言ってた怖い

病気、ハショウフウとかハイケッショウとかいうものにかかってしまうかもしれない。 ぬま

 蘆のような草の茂みを手でかき分けながら抜けてゆくと、前方に真っ平らで真っ暗な場 は

ねむ

ほとり

所が見えてきた。とても広い。近づくと、そこは広場ではなく沼なのだとわかった。水面 ゆ

が夜風にかすかに揺れ、星の光を撥ね返している。ほとんど波もない眠ったような沼の畔 に立つと、冷え冷えとした空気に包まれた。  ワタルはくしゃみをした。身体がぶるぶる震え始めた。 こご

 ここはどこだろう？ どこもかしこも真っ暗で、凍えそうなほどに寒い。

10

たよ

しつげん

わん

ふ

 星明かりを頼りに、景色を見回す。沼はけっこう大きくて、視界には収まりきらない。 蘆やススキに似た草が生い茂る湿原も、同じくらい広いようだった。 とも

 ただ一ヵ所だけ、ワタルの右手の前方に、こんもりと丸い森が見える。お椀を伏せたよ

こ

うなその森の中央に、か弱い光が灯っているようだ。ひょっとして地平の低い場所の星の まぎ

光が、森の木立のなかに紛れているだけかもしれないど、よくよく目を凝らしてみた。はっ きりわからない。

 ワタルは両腕で身体を抱き、少しでも暖をとるためにさすりながら、とりあえず歩き出 はいえん

した。ともかく行ってみょう。ここで肺炎になるのを待っているわけにはいかない。歩い ていれば少しは温かいし、そのうちに夜明けが来るかもしれない。 ひ

 のろのろと進んでゆくと、森が近づくにつれ、あの灯りは星ではないとわかってきた。 たいまつ

またたくのではなく、揺れているのだ。ランプか松明の灯だろう。ヒトがいる││

 湿原には生きものの気配さえ感じられず、底冷えがひどかったけれど、森が近づいてく

ると、ホウ、ホウという野鳥の鳴き声が聞こえてきた。さらには、森のなかに小さな三角

かく

屋根も見えた。ラウ導師の小屋をひとまわり小さくしたような小屋が、木立のあいだに隠 だれ

れるように立っている。遠くから見えた灯りは、間違いなくこの小屋の窓灯りだった。 たた

 ドアを叩き、ワタルは呼んだ。﹁ごめんください、誰かいますか？ ごめんください﹂

 返事はなかった。ワタルはさらにドアを叩いた。旅の者です、道に迷って困っています、

11

誰かいませんか。

 かすかな足音がして、ドアが内側に引き開けられた。黒いローブを着て、頭からすっぽ こ がら

りとフードをかぶった小柄なヒトが、こちらをのぞきこんでいる。

﹁ああ、すみません。こんな夜中に﹂ワタルは頭をさげた。﹁道に迷ってしまったんです。

け

が

灯りを見つけて、ここまで来した。少し休ませていただけないでしょうか。道を教えても らえないでしょうか﹂

 フードの下から、思いのほか柔らかな声が聞こえてきた。﹁怪我をしているのね﹂

ど

だんろ 

 女のヒトだった。ワタルは、ドアを押さえている指を見た。すんなりと白い指だ。 わき

﹁どうぞお入りなさい。手当をしましょう﹂

 女のヒトは脇に退いて、ワタルを通してくれた。小さな部屋に、赤々と暖炉が燃えてい まどぎわ

い す 

た。窓際でランプが光を放っている。さっきまで女のヒトが座っていたのだろう、暖炉の そばのゆり椅子が、まだ少しだけ前後に揺れていた。 こし

 女のヒトはワタルを小さな木の腰かけに座らせて、てきぱきと傷の手当をしてくれた。 温かくて甘い飲み物もくれた。 ﹁ありがとう。本当に助かりました﹂

 ワタルのお礼の言葉を、女のヒトはフードを軽くうなずかせて受け入れた。ずっとかぶっ たきりなのだ。だから、顔が全然見えない。

12

き が 

だいじょうぶ

﹁着替えた方がよさそうね。でも、あなたに合いそうなサイズのものがないの﹂ ﹁大丈夫です﹂ かわ

がた

ぬ

﹁せめてシャツだけでも替えなさい。シャツなら、少し大きめでも大丈夫だから﹂

あしもと

 差し出された清潔で乾いたシャツは有り難かった。女のヒトはワタルの脱いだシャツや、 ほどいた包帯をまとめて、小屋の外に出ていった。

ひとごこち 

こう

 狭い小屋のなかには家具も少ない。ほかには誰もいないようだ。ゆり椅子の脚元に置か

れたカゴのなかに、真っ黒な毛糸の玉と編みかけのものが入っている。人心地がついて好 き しん

奇心が出てきて、ワタルはちらりとその中身をのぞいた。とても小さな衣類││赤ちゃん くつした

に着せるものみたいだ。靴下もある。やっぱり小さい。するとこのヒトには子供がいるの だろうか。

ま

 だけど、それにしちゃヘンなこともある。カゴのなかの毛糸も編みかけの品も、みんな

たず

黒色なのだ。赤ちゃんに着せるものを、黒い毛糸で編むなんてことがあるだろうか。  ││あのヒトの服も真っ黒だし。 ﹁あの⋮⋮﹂

 女のヒトが戻ってきたので、ワタルは尋ねた。﹁すみません、あなたはもしかして、魔 どうし 

導士の方ですか？﹂  女のヒトは動きを止めて、ワタルをじっと見つめているようだ。

13

﹁いえ、ずっとフードをかぶっているから。それとも、ひょっとして星読みの方ですか？  ここに一人で暮らして、研究をしているのですか？﹂ うつむ

 フードに包まれた頭が俯いた。女のヒトはゆり椅子に近づいて腰をおろすと、小声で言っ た。﹁わたしのことは、知らない方がよろしいでしょう﹂ かな

 ひどく哀しげな口調だった。

ぬ

﹁もうすぐ夜が明けます。東の空が白んできました。この森を反対側に抜けると、小道が

あって、やがてティアズヘヴンという町に出ます。町長を訪ねれば、旅の方には親切にし てくれるはずです﹂ ていねい

うれ

﹁わかりました﹂ワタルは丁寧に頭をさげた。﹁何から何までありがとうございます。失

礼なことを訊いてごめんなさい。でも││あの、僕、本当に困っていたので、とっても嬉

しいんです。有り難いんです。こんなに親切にしてくださった方の、名前とかお顔とか知 りたくて、それで││﹂

 女のヒトは、ちょっと小首をかしげた。それから白い手をあげて、フードをとった。 さけ

 ワタルは胸の奥であっと叫んだ。  ││田中理香子だ。

 父の愛人。父が母とワタルを捨てて家を出ていった原因。それなのに、家に訪ねてきて、 母の方こそ悪いのだとなじっていった女。

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か け ら

 うりふたつだった。気味悪いほどそっくりだ。 ﹁これは失礼をしました﹂ びしょう

けんか ごし

とが

つ

まゆ

め じ り

ち

 女はやわらかな口調で言った。顔には微笑の欠片さえなく、両の眉も目尻も力なく下に

さがっている。田中理香子の、最初から喧嘩腰に尖った口元や、吊りあがった両目とは全 が

然違う。

 でも、くちびるのあいだから出てきた声もよく似ていた。少なくとも、理香子が静かに しゃべればこんな感じだったろうと思わせるくらいに。

﹁わたしときたら、ずっとこの悲しみの服装をしているので、今の今までフードをかぶっ たままでいることさえ忘れていたのです﹂

 ワタルは声が出せなかった。それがかえって幸いだった。何か言えたとしたら、とんで おどろ

もないことを言うに決まっているからだ。 ﹁どうかしたの？ そんなに驚いて﹂  女は言って、ワタルに半歩近づいた。ワタルは一歩退いた。 ほお

﹁まあ⋮⋮﹂女は当惑したようで、片手で頬を押さえた。﹁わたしはあなたを怖がらせて

しまったのかしら。そうだとしたら、ごめんなさい。でも、なぜかしら﹂ うつしよ

 ごめんなさい。田中理香子ならば、終生口にしそうもない言葉だ。それでワタルも少し ヴィジョン

正気に戻った。ここは〝幻界〟だ。現世じゃない。あの女がここにいるわけはない。

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え

あいそ わら

﹁す、すみません﹂ワタルは首を振った。﹁僕の知ってるヒトに、とってもよく似ていた から、ビックリしちゃったんです﹂ なげ

しず

﹁そうだったの﹂女はうなずいた。だが、やはり笑みはない。愛想笑いさえも。よほど深 い嘆きに沈んでいるのだろうか。 つら

﹁悲しみの服装って言いましたね。何か辛い出来事があったんですか？﹂ なげ

ぬま

 女はすっと足を動かして窓際に寄ると、ランプの灯を消した。そしてうなずいた。﹁こ の沼は〝嘆きの招〟というのです﹂ うすあか

み わ た

 ランプが消えても、小屋のなかは薄明るかった。確かに、夜が明け始めていた。ワタル はる

も女に並んで窓際に立つと、黒い沼の水面を遥かに見渡すことができた。

﹁深い悲しみに嘆く者だけが、この畔で暮らすことを許されます。悲しみが消えたら、沼

から立ち去らねばなりません。ここにいるあいだは黒い衣服しか身につけることができま

な

せん。立ち去るときには、黒衣は沼に投じて捨てるのです﹂ え が お

﹁笑顔を見せないこともきまりですか？﹂ ﹁ええ。ここにいるあいだはね﹂ ﹁誰が決めたことなんですか﹂ おきて

﹁ティアズヘヴンの掟なのです﹂ てのひら

 女は俯いて、なぜかしら、自分のおなかのあたりを掌で撫でた。﹁わたしも元は、あの

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町の住人でした。帰れればいいのだけれど⋮⋮﹂

 その仕草に、ワタルはようやく思い当たった。信じられない。でも││ ﹁おなかに赤ちゃんがいるんですね？﹂  女はさらに深く俯いた。﹁ええ⋮⋮﹂

 それもまた、田中理香子と同じだ。あの女は、父さんとのあいだに赤ちゃんができたと

ひやあせ

言っていた。そっくりだ。偶然？ それとも、幻界と現世は、何かしらシンクロするとこ ろがあるのだろうか。 か

ぜ

﹁どうかしたの？﹂女はワタルの顔をのぞきこんでいる。﹁そんなに冷汗をかいて││。 き づ か

沼地を歩いたせいで、風邪をひいたのかもしれないわね﹂

 その気遣いに溢れた口調にすがって、ワタルは自分の心の混乱を収めようと、必死で努

力をした。このヒトはあの女じゃない。だってこんなに優しいんだもの。このヒトはあの 女とは全然違う生き方をしているヒトであるはずだ。

 赤ちゃんができたなんて、すごくおめでたくて嬉しいことのはずだ。でもこのヒトは悲

な

しんでいる。そうか、きっと赤ちゃんの父親、このヒトの愛するヒトが亡くなったんだ。

だからここでひっそりと、赤ちゃんと二人きりで嘆き悲しんでいるんだ。そうに違いない。

﹁元気を出してください﹂ワタルは言った。大丈夫だ。僕もこのヒトに優しくできる。こ のヒトはあの女じゃないから。

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のぼ

ひとみ

ふん

 女は顔をあげ、ワタルを見た。そのとき、昇り始めた朝日が、彼女の顔を明るく照らし つ

ふう

た。理香子そっくりの顔に金色の光が照り映え、その瞳が輝くのを見て、ワタルはまた憤 ぬ

怒が突きあげてくるのを感じ、急いで心に封をした。違う、違う、別人なんだってば！ ﹁いい子ね。ありがとう﹂ かた

なぐさ

 女はワタルの肩を軽く撫でると、小屋の戸口の方へ押しやった。 ないしょ

け

﹁でも、もう行った方がいいわ。わたしにそんな慰めの言葉をかけたことは、ティアズヘ ヴンのヒトたちには内緒にしておきなさい﹂  そして、サヨナラも言わずに小屋のドアを閉めてしまった。 し

 小屋の後ろ側に回ると、森を抜ける小道が見えた。沼の畔ほど湿気てはおらず、おはよ あと

かいどう

うとさえずりかわす小鳥たちの声を聞きながら、ワタルはゆっくりと歩いた。森を抜ける わだち

とすぐに小道は広くなり、ダルババ車の轍の跡がある、広い街道に出た。矢印のついた標 識が立っている。 ﹁ティアズヘヴンはすぐそこ﹂  型押しされたようなきれいな活字の下に、落書きがあった。 ﹁あんたが幸せなら用のない町﹂

18

 22 ティアズヘヴン      本当に〝すぐそこ〟だった。 いしがき

 広々と平らな野原の真ん中に、きれいな白い石垣をぐるりと円形に築いて、町の周りを かいどう

ばくぜん

囲ってある。街道に面した例に、ガサラのそれよりもずっと小ぶりな門があって、見張り 台の上で大柄な番人がタバコを吸っていた。 ちが

 なんとなく、今までの町と様子が違うな。漠然とそう思った。何が違うのかと考えつつ、 ぼう

ゆっくりと歩いていると、門番が大声で呼びかけてきた。 ﹁おーい、そこを行く坊ず、ティアズヘヴンに用があるかないか？﹂

す な お

 痛む足をかばいながら、ワタルは返事を考えた。さっきの落書きが浮かぶ。今の僕は幸 せだろうか？ こ

 結局、﹁よくわからないんです﹂と、素直に答えた。﹁道に迷ってしまって││。ここ ど

はし

が何処なのかもわからない。僕はまだ、ボグ国のなかにいるんですか？﹂

 門番はタバコを口の端にくわえると、ぴょんと地面に飛び降りた。そしてワタルに近づ

いてきた。﹁とんでもない、ここはもうアリキタ国だ。と言っても、アリキタは広い。こ

こからアリキタの首都へ行くよりは、ボグとの国境の関所へ行く方がうんと近いよ。坊ず

19

ひょうし

はどこから来たんだね？﹂ おどろ

﹁リリスの郊外から﹂ じゅうじん け

が

 門番がえっと驚いた拍子に、タバコが足元に落ちた。目が覚めるようなされいな青い目 の獣人だ。 なげ

ぬま

﹁あんな遠くから？ その足で？ 怪我をしているようじゃないか﹂ たつまき

うんぬん

うな

 竜巻に巻かれて空を飛び、嘆きの沼に着地したと説明すると、門番はまた驚いた。ただ、 竜巻云々に驚いたのではないようだった。 た

﹁何てこった、嘆きの沼とは﹂感に堪えない様子でヒゲを動かしながら、彼は唸った。 ほとり

﹁なあ坊ず、沼の畔で誰かに会ったかい？﹂ ふ

 ワタルは黒衣の女のヒトに助けてもらったことを話し出した。が、ものの半分も話さな ぎょうてん

いうちに、今まででいちばん仰天した様子で、門番は両腕を振り回した。

﹁小屋だって？ あの女が小屋に住んでたって？ こりゃ参った！ ヤコムの奴、本当に あお

独りで小屋を建てやがったのか！﹂ ほ

 吠えるように言って空を仰ぐと、

﹁坊ず、とにかくティアズヘヴンに寄ってくれ！ 町長は坊ずに会いたがりなさる﹂ わ

 足が痛そうだからと、門番はワタルを背負ってくれた。 い

 町に入ると、さっきの違和感の原因が、はっきりとわかった。この町は、建物がみんな

20

あまどい

平屋建てなのだ。屋根は真っ平らで、雨樋がすごく太い。そのうえ、建物はすべてみっし

りと密集している。町じゅうの道路を全都あわせた面積よりも、屋根の面積をあわせた方 めずら

が、うんと広くなるんじゃないか。 ﹁珍しい建物ですね﹂ワタルは番人の背中で言った。 ていねい

こ

﹁ああ、そうか。坊ずはここのこと、何も知らないんだな﹂番人は笑った。﹁これは、空 いってき

なみだ

けしょう

から降る雨を一滴でも多く受け止めるための造りだ。その雨を丁寧に濾して、何度も何度 も濾して、俺たちは〝涙の水〟をつくる﹂ ﹁涙の水？﹂ あた

﹁この世でいちばん清らかな水さ。病人に与える薬や、最高級の化粧水の原料になる﹂

しか

 町長の家は、キューブのような建物が密集する、ほぼ真ん中にあった。そこにたどり着 ぬ

とうちゃく

くまで、家のドアを開けてはズカズカとなかを通り抜けてゆくので、ワタルは住人に叱ら れないかと冷や冷やした。 なっとく

﹁この町はこういう造りだから、通行用の家がちゃんとあるんだよ﹂ し つ む

 なるほど。どうりで家具が見あたらないはずだと納得したけれど、やがて到着した﹁町

長の執務室﹂も、物がなくて殺風景なほどさっぱりしていることでは、通行用の部屋と大 い す 

差なかった。簡素な木の机と椅子、小テーブルがあるだけだ。 ﹁やあやあ、わしが町長のマグですわい﹂

21

 マグ町長は水人族だった。キ・キーマよりもっとオサカナっぽくて、頭のてっぺんに、 つ

大きな赤いヒレが、とさかのようにくっついている。驚くと、丸い目がぐるぐる動く。 そうぐう

 ここでは、アンカ族ではない他種族が町の要職に就いている。トリアンカ魔病院で老神 い

なぐさ

教信者たちと遭遇したことも話していいだろう││ワタルはそのあたりを簡単に説明し、

み ず か

沼で出会った黒衣の女のことまで話した。ただし彼女の忠告を容れて、彼女に慰めの言葉 だま

をかけたことは黙っていた。

えら

﹁いやぁ、これはまた驚きましたわい﹂マグ町長は水掻きのついた大きな手で、自分の頭 たた

ふり

をぺしぺしと叩いた。﹁ワタルはん、あんたはその歳でハイランダーですかい。偉い、偉 い。しかしお仲間は心配ですわいなぁ﹂  ただ、水人族ならば、 わた

﹁ここから西に戻り、ボグ国境を渡ってすぐのところが、お仲間の郷のサーカワですわい

な。彼らは物を運ぶだけでなく、情報にも消息にも通じているから、訪ねれば、お仲間の 行方が知れるかもしれんですわいね﹂ うれ

さっそく

 ワタルはほっとした。嬉しかった。 ﹁ありがとうございます。早速サーカワへ行ってみます﹂

ちが

﹁いやいや、それは傷がよくなってからにした方がよろしですわい。ここには良い薬があ せん

りますわいな。〝涙の水〟で煎じた薬は、そこらの売り薬とは効きが違いま﹂

22

こし

 なんか、商売上手っぽい町長だ。 す

﹁それより町長││﹂すっかり腰を据えてしまった門番が、そわそわとせっついた。﹁そ にょうぼう

あや

ろそろ、ヤコムの女房を呼んでこようか？﹂

 町長はちらりとワタルを見た。怪しげな感じではなかった。むしろ心配そうだ。

だれ

﹁ワタルはんは立派なハイランダーとは言え、まだお子や。こんなことに巻き込むのは、 わしは気が進まんわい﹂

﹁だけどさ、追放してからずっと、誰もあの女の様子を見に行ってなかっただろ？ ワタ ルさんから話を聞ければ助かる││﹂ す ば や

﹁追放？﹂ワタルは素早く問い返した。﹁あの女のヒト、町を追放されたんですか？﹂  わたしも元はティアズヘヴンの住人だったと言っていた││  マグ町長は悲しげに首をうなだれると、

﹁よろし﹂と、短く言って立ちあがった。﹁ワタルはん、ちょいとご足労ねがいま。なに、 すぐそこですわい﹂ い

 だからもうおんぶは要らんと、門番を仕事に戻すと、町長はワタルの手を引いて歩き出

した。通行用の家をひとつ通り過ぎて、次のドアを開けると、町長は明るい声を出した。 ﹁やあご婦人がた、今日はお加減いかがかな？﹂

 そこは病室のようだった。明るく暖かい部屋に簡素なベッドが六つ据えられて、そのう

23

ふさ

み

ま

ちの五つが塞がっている。種族はとりどりだが、みんな女のヒトだ。 や

﹁や、サラ、お母さんのお見舞いか？﹂ よ う ち え ん じ

そ

わたわ

 いちばん手前のベッドに、痩せて顔色の悪いアンカ族の女性が横たわっている。その傍 ほお

らに、まだ幼稚園児くらいの女の子がぴったりと付き添って、暗い日をしていた。町長は だ

その子を抱きあげると、頬ずりしながら、

ほ ほ え

﹁サラはまたべっぴんさんになったわい。それでも、もう少し元気な方がよろし。昼間は 陽にあたって遊ぶこっちゃ﹂ か わ い

 女の子はとても可愛かった。視線があったので、ワタルは微笑みかけたが、彼女は暗い 目のままだった。

﹁すみません、町長さま﹂ベッドの婦人が枕に頭をもたせたまま、消え入りそうな声で謝っ た。﹁わたしもだいぶ具合がよくなってきたのですけど││﹂

﹁気にせんこっちゃ。サタミ、あんたの場合は、くよくよ考えるのがいちばんいかん。よ

な

ろしか？ 〝涙の水〟で煎じた薬でも治せない病気を治す薬が、この世にたったひとつだ けおます。それは〝時間グスリ〟ですわい﹂

 町長はサラをベッドの上に座らせると、頭を撫でてやって、にこにこした。

﹁さあ、わしはこれからこちらの小さなお客人をご案内して出かけます。ご婦人方は、お りょうよう

医者の先生の言うことをよく聞いて、のんびりと療養してください。よろしな？﹂

24

えしゃく

しず

ほとり

 ワタルは皆に会釈して、町長の後にくっついて執務室に戻った。再び向き合って座ると、 町長はあのサラと同じくらい暗くうち沈んだ目になっていた。 み つ き

﹁さてワタルはん﹂と、町長は切り出した。﹁あなたが嘆きの沼の畔で出会った女は、リ

リ・ヤンヌという名前のこの町の住民です。三月ほど前に、ある理由があって、このわし そ

の

が町を追放しました。わし││と、わしが代表する町の住人たちが許さない限り、リリは よ

ここへ帰ることはできまへん。他所へ立ち退くこともできまへん。ティアズヘヴンを追放

された者を、市民として受け入れる町も村も、どこにもございまへんからな﹂ ばっ

﹁そこまでひどく罰せられるような何を、あのヒトはしたんですか？﹂ ゆ

 マグ町長はため息をついた。頭の上のひれが、ふるふると揺れた。

はる

﹁それをお話しする前に、まずティアズヘヴンの成り立ちと歴史を、ざっと説明しないと あきまへん﹂

 ティアズヘヴンは、両大陸に連合国家が形成される遙か以前から、﹁悲しみの町﹂とし て広く知られていたのだ、という。

﹁この町の暮らし方に、とりわけ他所の町と違うところはありまへん。違うのは、ここの

住人たちのほとんどが、それぞれの故郷や住み暮らした土地で、死んでしまいたいほどの いや

強い悲しみを味わって、それを癒すためにここに移り住んで来たヒトたちだ││というこ

とだけですわい。つまりここは〝心の病院〟なのです。悲しみという病が癒えるまで、一

25

時的に身を寄せる場にすぎまへん。だから、家の造りも家具も調度も簡素なのですわい﹂

 悲しみが癒えたら、いつでもこの町を出てかまわない。去る住民に、代々の町長は、 ﹁二度とお会いすることのありませんよう﹂  と、声をかけるのがしきたりだという。 いっしょ

﹁悲しみの原因はいろいろですわな。愛するものを失ったり、信じていたヒトに裏切られ たんたん

たり。わしらは、深く理由を問いただすことはしまへん。ただ一緒に暮らし、助け合い、

時が過ぎて傷が塞がるのを、淡々と待つだけですわい。半年で立ち退くヒトもいれば、十

年いてもよくならないヒトもいる。悲しみの深さは、ヒトそれぞれだからですわい﹂

 一方で、雨水から〝涙の水〟を精製し、それを町の生業とするようになったのは、そう 遠い昔のことではないという。

﹁本格的に精製を始めたのは、三十年ばかり前のことでおます。わしの前の町長が、それ

は頭の切れるヒトで、この地に降る雨の格別に清いことと、水を精製するというような、

根気が要って、静かで、単純な作業だけれども片手間にはできないという仕事が、悲しみ に沈んだ心にはよく効くということを、うまく結びつけたのですな﹂

 町がそれを生業とするようになって、今の建物が建った。〝涙の水〟は、アリキタ国内

で、目の玉が飛び出るほどの高値で売れるので、町の財政は豊かだという。

﹁この地に降る雨がなぜそんなに清いのか、はっきりとはわかっておりまへん。ササヤの

26

きり

ふ

星読みの大学者の先生が言うことには、ここから遥か南にあるアンドア台地を常に包んで

なぞ

しんこう

いる純白の霧が、吹きおろす風に乗って、ちょうどこのあたりで雨に変じるからだという ことでおます﹂

 アンドア台地││謎のデラ・ルベシ特別自治州があるところだ。そう、老神信仰の。 こ

﹁しかしいくら清い雨水でも、濾しとらねば〝涙の水〟にはなりまへん。濾せば、水は清 す

くなり、清くないモノが残ります。わしらはその清くないモノを、町からそう遠くない場

どろ

かんしょく

所にはあるが、鳥さえ寄りつかず魚も棲まぬ、暗い沼地に捨ててきました。それが〝嘆き の沼〟ですわい﹂ けが

み な も

 あの沼は、いわば〝穢れ〟の受け皿だったのだ。ワタルはあの冷え冷えとした泥の感触 と、波さえ立たない水面を思い出した。

みな

﹁さて、ここはそういう町でおますから﹂マグ町長は続けた。﹁住民たちも他所者の集ま いたわ

ゆず

りです。人口も知れたものです。ですから、大切なきまりがあります。皆ここに悲しみを たが

癒しに来ているヒトばかりなのだから、互いに思いやり、労りあい、譲り合うこと。ティ

アズヘヴンのなかで争いごとやもめ事を起こし、ここで新たな悲しみの元をつくってはな

らぬということでおます。ところがリリ・ヤンヌは、長い長い町の歴史で初めて、公然と その決まりを破ったのですわい﹂ ぬす

 他人の夫を盗んだのだ、という。

27

や

ひそ

おとろ

か

﹁あの病室の、病んで痩せ衰えたサタミという女。あれの夫で、ヤコムという行商人の男

つ な み

いっしゅん

と、いつの間にか密かに情を通じ、ついには赤子までもうけました。そして二人で駆け落 ちしようとしたのでおます﹂

 ワタルは目の前が真っ赤になり、耳の奥から津波のような音が押し寄せてきて、一瞬何

も聞こえなくなった。ただマグ町長の悲しげな顔と、もぐもぐ動く口元が見えるだけ││  あの女はやっぱり田中理香子だ。  田中理香子と同じことをしてる。 しんりゃく

 田中理香子と同じ侵略者だ。 つ

 他人の幸せを食い尽くすケダモノだ。 とど

﹁わしらは事情を知ると、すぐにリリ・ヤンヌを追放しました。サタミは夫を許し、取り もど

とりこ

戻したがっておりましたので、町に留めました。どれほど時間がかかっても、二人を和解

させたかったのでおます。しかしリリ・ヤンヌの虜になったヤコムは勝手に町を飛び出し、 行商の仕事をしながら、女のもとに通っているようでおますな﹂

 リリ・ヤンヌは身ひとつで追放された、だからあの小屋は、ヤコムが愛人のために建て てやったものだろうと、町長は言う。 ﹁サラが哀れじゃ﹂ ぬぐ

 目を拭って、そう続けた。

28

たず

﹁サタミさんたちは││そもそもどんな悲しいことがあって、この町に？﹂  やっと声を絞り出して、ワタルは尋ねた。 はやりやまい

﹁彼らはボグの出身でおます。流行病で、サタミの両親と、サラのすぐ下の赤子を失った のです。こちらに来たのは一年ほど前のことですわい﹂ ﹁あの女││リリ・ヤンヌは？﹂ いいなずけ

﹁許嫁を病で亡くしたということでしたわい。父親はササヤの星読みで、なかなか立派な しめ

人物なのです。亡くなった許嫁も、星読みのたまごだったという話でおます﹂ ひやあせ

にん

 ワタルはまた冷汗をかいていた。シャツの背中が虚っぽい。走っているみたいに心臓が ひとみ

どきどきする。

 サラの暗い瞳が思い出された。母さんが田中理香子になじられているとき、彼女に、妊 しん

かく

娠していると告げられて逆上したとき、ワタルを引き取ると言われて彼女に飛びかかって

いったとき、自室のベッドの下に隠れて縮こまっていたワタルも、きっとあんな目をして

いたことだろう。リリ・ヤンヌが田中理香子ならば、サラは僕だ。痩せさらばえてベッド に横たわるサタミは母さんだ。  思わず、口走っていた。﹁許せない﹂  マグ町長が大きな頭をかしげてワタルを見た。﹁今、なんと？﹂

 ワタルは手で顔を拭った。﹁何とかして、ヤコムの目を覚まさせないと﹂

29

みは

じか

 町長は大きな目をぐりりと瞠った。﹁それはそうですが﹂

﹁ヤコムがリリ・ヤンヌの小屋に通っているならば、直に彼に会って説得するチャンスも あるってことですよね？﹂

﹁それはそうですが、わしらティアズヘヴンの住民は、〝嘆きの沼〟に近寄ることはでき んのですわい。穢れが移りますからな﹂

﹁僕が行きます﹂ワタルはきっぱり宣言した。﹁僕なら住民じゃないから大丈夫です﹂

 マグ町長はうろたえている。﹁しかしあんた、ワタルはん、あんたはお子や││﹂ ﹁でも、ハイランダーです﹂ ﹁そりゃそうかもしらんが﹂

﹁町長、僕もサラと同じなんです。僕の父も、母と僕を捨てて別の女のところに行ってし いや

まいました。すごく自分勝手な理由を並べて、正しいことをしてるみたいに顔をあげて。

だから僕は、捨てられる側の気持ちがわかるんです。嫌というほどよくわかります。お願

いです、僕にヤコムを連れ戻させてください。サラのためにやらせてください！﹂

 マグ町長は、口を開いたり閉じたり、赤いひれをぶるぶるさせたり、両手を組んだりほ

どいたり、しばらくのあいだ、ただただ困っていた。が、やがて小さく息を吐くと、

﹁よろし、お願いしま。どのみち、わしらだけでは手に負えん。サラの気持ちを代弁でき たよ

るというあんたに、頼ることにしましょ﹂

30

 23 暗黒の水     なげ

ぬま

なみだ

せん

き 

 それでもマグ町長は、ワタルの傷がよくなるまでは、〝嘆きの沼〟に近づかないこと│ の

│という条件を出した。それを呑むのは易しいことだった。〝涙の水〟で煎じた傷薬は奇 せき

跡のようによく効いて、どれほど長くても十日も待てばよさそうだったからだ。

 そのあいだ、ワタルは〝涙の水〟を精製している作業所を見学したり、自分もちょっぴ

りその作業を習ったり、町のあちこちを散歩したりして過ごすことにした。ティアズヘヴ た

ちょすいそう

まんぱい

こ

ンでは、毎日朝と晩、さわさわと音をたてて、小一時間雨が降る。だから、町中で受けた なめ

雨水を溜めておく貯水槽はいつも満杯で、濾しても濾しても材料には事欠かなかった。 こうたく

とくしゅ

せんい 

つむ

 雨水の精製に使われるのは、光沢のある滑らかな白い布で、それもまたこの町の住民た

ちの手作りだ。フフルネという特殊な草の繊維を紡いで作った糸で、それだけでも高級品

なのだという。実際、〝涙の水〟の作業所で働くヒトびとは、必ずこのフフルネの糸で織っ

た作業服を身につけなければならないのだが、それを買うだけのお金があれば、物価の安 いナハトだったら一年は楽に遊んで暮らせるという。

 町長の話では、サタミは水の作業所ではなく、フフルネ布の織り工場で働いていたとい

う。これもまた集中力の要る作業で、女性向きなのだろうか、工場の織り手たちの大半が

31

女性だった。サラは母親の病室にいるとき以外は、たいてい、この工場にいた。彼女の身

の上を案じて世話をやいてくれる、サタミの友達がいるからだろう。ワタルは彼女を見か に

かく

けると、こんにちはとか、何して遊んでるのとか、明るく声をかけるようにしたが、サラ

ふうふ 

たいざい

はヒト見知りなのか、さっと逃げ出してしまうか、そばにいる大人の背中に隠れてしまっ て、なかなかうち解けることは難しかった。 あっとう

 ティアズヘヴンの町には、子供が少ない。夫婦や家族でここに滞在しているヒトが、案

いや

外いないのだ。圧倒的に一人で来ているヒトが多く、長いこと外部とは手紙のやりとりさ めずら

えしていないヒトも珍しくはないという。 かか

な

﹁でもまあ、考えてみりゃそうだよな。そばにいる家族や友達じゃ癒しきれないほどの悲

しみを抱えている││家族や友達を失くしたことが悲しみの原因になっている││どちら こ どく

にしろ、当人はひとりぼっちだ。そもそもこの町に身を寄せようという時点で、悲しみだ けじゃなく孤独も背負ってるんだよ﹂ じゅうじん

やと

 これはあの門番の言葉だ。獣人の彼の名はブート。ナハトの生まれで、本当の職業は ふうらいぼう

とちゅう

〝風来坊〟だという。彼自身はここの住人ではなく、マグ町長に雇われた使用人だった。

﹁もう五年くらい前になるかなぁ。風来旅の途中の関所で、ティアズヘヴンへ行きたいん

だけど、一人では道中が不安だというヒトを、ここまで送ってきてやったんだ﹂  で、そのまま居着いてしまったのだという。

32

みずく 

いそが

たの

﹁ここは女が多いし、数少ない男たちは水汲みや水運びの力仕事に忙しい。門番とか見回 ぷし

りみたいなことをやる男手が足りなかったんだな。それで町長に頼まれちゃってさ﹂ うで

 気のいい感じのいいヒトだけど、もしかしたらけっこう腕っ節が強いのかもしれないと、 ワタルは思った。

いか

﹁俺は物心ついたころにはもう風来坊だったし、ずっと一人だから、一人を孤独だとは思 た ち 

わない。不思議だよな。孤独はそれだけじゃけっして害のあるものじゃないのに、怒りや 悲しみとくっつくと、すごく性質の悪いものに変わっちまうんだ﹂ こし

かいどう

 昼過ぎのこと、ワタルはブートと並んで門の上に腰かけていた。彼はプカプカとタバコ をふかし、ワタルは足をぶらぶらさせる。

﹁門番っていったって、たいした仕事があるわけじゃない。街道をヒトが通りかかったら、 ふ

ティアズヘヴンへの来客かどうかを確かめて、お客だったら門を開ける。お客じゃなかっ

さわ

たら手を振って見送る。ダルババ屋が来たら荷運びや荷おろしを手伝う。そンだけさ。あ ひ な た

とは日向ぼっこしてりゃいいんだ﹂ はな

とど

 ブートはなぜここを離れないのだろう？ 風来坊ゴコロが騒がないのかな。この町のヒ

トたちへの同情が、彼をここに留めているのかな。ワタルがそんなことを考えていると、 ひとかげ

ボグ側の街道にぽつりと人影が見えた。ぽくぽくと、早いペースで近づいてくる。ウダイ に乗っているのだ。

33

おもちゃ

﹁おーい﹂ブートが両手を口にあてて呼びかけた。﹁そこを行く旅のヒト、ティアズヘヴ ンに用があるかないか？﹂ た づな

 ウダイの乗り手は手綱から片手を離して大きく振りながら、

か し 

﹁俺は行商人だぁ、あんたらこそ俺に用はないかぁ﹂と、呼びかけ返した。 ﹁タバコはあるかぁ﹂ お じ 

﹁あるある、いろいろあるよぉ﹂ ひ

え がお

か わ い

 行商人はアンカ族の小父さんで、荷箱のなかにはタバコのほかにお菓子や玩具も入って き ぼ 

いた。小さな木彫りの人形がワタルの目を惹いた。簡単な彫りだけど、笑顔が可愛い。 ﹁これ、ひとつください﹂  そしてブートに説明した。﹁サラにあげるんだ﹂  ブートは笑った。﹁いい兄ちゃんになれるなぁ﹂ たつまき

 行商人はウダイを降りて、自分もタバコをふかしながら、ひとしきり世間話をした。そ

か

のなかに、このあいだリリスの北の森の方で、不思議な銀色の竜巻が発生したという話が あって、ワタルは耳をそばだてた。

﹁町は何ともなかったけど、スラの森はきれいさっぱり、刈り取られたみたいになっちまっ たんだよ﹂

 ブートも興味深そうに話を聞いていたけれど、横にいるワタルがその竜巻に運ばれてき

34

ただなんて、顔にも出さなかった。余計なことはしゃべらない。〝悲しみの町〟の門番だ。

﹁ところでさ﹂タバコを吸い終えてウダイにまたがりながら、思い出したように行商人が うわさ

言った。﹁最近、〝涙の水〟のまがい物が出回ってるという噂を聞かないかね？﹂ はさ

 ブートは身を乗り出した。﹁何だぁ？﹂ ひそ

﹁いや、俺もアリキタの港町で小耳に挟んだだけだけど、ただ、どうもティアズヘヴン以 せん

外の場所で作られた〝涙の水〟が、密かに高値で売り買いされてるらしいんだ。で、その まがい物で煎じた薬を飲んだ病人が死んだとか﹂ ﹁そりゃ、放っておけない話だ﹂真顔になるブートだ。 さ ぎ 

は

にせもの

﹁つまり、誰かがまがい物を売りつけて詐欺をしてるってことですね？﹂と、ワタルは言っ つ

た。﹁本物の〝涙の水〟を見分ける方法って、ないんですか？﹂ びん

 見た目はただの水だから、瓶に詰めてそれらしいラベルを貼れば、誰でも偽物をつくる ことができそうだ。

す

﹁もちろんあるよ﹂ブートは答えた。﹁簡単さ。〝涙の水〟には魚が棲めないんだ。小魚 う

なんぞ、十数えるうちに浮いてきちまう。もちろん、毒だからじゃないよ。あまりにきれ

いすぎるからなんだ。ここから売りに出すときだって、取引先じゃ小魚を用意していて、 抜き取り検査をするんだよ﹂

だま

﹁それじゃ、なおさら大変だ！﹂ワタルは立ちあがった。﹁そのまがい物は、お客を騙す

35

ために、ただの水に魚が浮いてくるような悪いモノを混ぜてるんですよ！﹂ うった

﹁いやいや、そりゃないよ、坊や﹂行商人は首を振った。﹁アリキタのハイランダーは、 つわもの

おうしゅう

強者ぞろいで有能だからね。病人がおかしな死に方をしたという訴えがあったとき、残り

うな

の水を押収して、調べたんだ。毒みたいなものは出てこなかった。出てきたのは、煎じた 薬の成分だけだったそうだ﹂ こぶし

 ブートは鼻先に拳をあてて、ううんと唸った。﹁ブランチが動いているんじゃ、笑い事 じゃないなぁ。こりゃ困った﹂

かか

 さっそくマグ町長に報告すると、大きな目をぐりぐりさせながら、すぐに詳しい情報を 集めねばと、いきり立った。

しつむ 

﹁もし本当にそんなものが出回っているならば、ティアズヘヴンの存亡に関わる一大事だ わい！﹂

か

 ワタルも厳しい気持ちになって、町長の執務室を出た。通行部屋を抜けて青空の下に立 いっしょうけ ん め い

つと、織り工場の方から、サラが小さな足を一生懸命にバタバタさせて、門の方へ駆けて ゆくのが見えた。 ﹁サラ、どうしたの？﹂

 追いかけながら、ワタルは呼んだ。サラは振り返りもせず、一心に門のそばまで駆けて いって、両手で門を押し開けようとし始めた。

36

たず

﹁おいおい、サラ。どうしたね？﹂  ブートが上から尋ねると、 き

﹁ウダイは？﹂と、彼女は訊いた。﹁門のところにウダイがいるって﹂

﹁ああ、そりゃさっきの行商人のウダイのことだな。もう行ってしまったよ﹂

 サラの小さな頭が、がっくりとうなだれた。追いついたワタルは、その背中があまりに さび

やさ

も寂しげで悲しげで、ちょっと声がかけられなかった。

 ブートは門の上から身を乗り出して、優しくサラに声をかけた。﹁サラ、お父ちゃんの

ウダイが帰ってきたなら、このブートがでっかい声を張りあげて、サラがどこにいたって しら

聞こえるように、ちゃあんと報せてやる。だから、心配しないで遊んでな﹂

 そうか。サラは門のところにウダイがいると聞いて、父親が帰ってきたのじゃないかと、 駆けつけてきたのだ。ワタルは胸をつかれた。

﹁こっちの兄ちゃんが﹂と、ブートはワタルの方に手を振った。﹁サラにいいものをプレ ゼントしてくれるってさ。何かな？﹂ うなが

 促されて、ワタルはあわててポケットから木彫りの人形を取り出した。しゃがんでサラ と同じ目の高さになると、 ﹁はい、これ﹂と、差し出した。

 サラはちょっとのあいだ、両手を背中に回したまま、小さな人形を見つめていた。それ

37

からやっとワタルの顔を見た。 ﹁サラにくれるの？﹂ ﹁うん﹂ ﹁どうして？﹂ ﹁このお人形の顔が、サラに似てるなって思ったから﹂ てのひら

さわ

 おそるおそるという感じで指をのばして、サラは人形に触った。ワタルはそれを、彼女 の掌のなかにそっと預けてやった。 ﹁アリガトウ﹂サラは小さく言った。﹁なんて名前？﹂ ﹁僕？﹂ワタルは自分の鼻の頭を指さした。

な

﹁そうじゃないよ、人形の名前だ﹂ブートが笑った。﹁この兄ちゃんは、サラの好きな名 前をつけてほしいってさ﹂ ﹁トチー﹂と、サラは指で人形の頭を撫でながら言った。 ﹁トチーか。いい名前だね﹂ はやりやまい

﹁妹の名前﹂  流行病で死んだサラの妹か。

﹁お母ちゃんが、トチーはお星さまになっちゃったから、もう帰ってこないって。でもお 父ちゃんは帰ってくるって。くるよね？﹂

38

にぎ

﹁サラが元気でいい子にしてたらな﹂と、ブートは言った。ワタルは、よちよち駆け去る 彼女を見送りながら、拳を握りしめていた。

 嘆きの沼の近くで、ヤコムがウダイに乗っているのを見かけたという報せを受けたのは、

ぎょ

それから二日後のことだった。〝涙の水〟を運び出すためにやって来たダルババ屋が、御 しゃ

者台の上から見たのだそうだ。

ひづめ

 ワタルはさっそく嘆きの沼に出かけることにした。足はほとんどよくなったし、マグ町 し っ ち

わた

長がウダイを一頭貸してくれた。湿地を通ることになったら、これをウダイの蹄につける どろ

といいと、ちょっとごついカンジキみたいなものも渡された。

﹁これさえはいていれば、ウダイが泥や水に足をとられて転ぶこともないですわい﹂ こい

 ヤコムに会ったら何をどう話そうかなんて、筋道立てて考えてはいなかった。でも、父

親を恋しがっているサラの切ない心の内は、泣きたいくらいによくわかっていたから、そ う ま 

おお

えんとつ

けむり

れさえちゃんと伝えることができれば、きっと上手くいくはずだ。ワタルは気負う気持ち でいっぱいになっていた。

 森を抜け、リリ・ヤンヌの小屋に近づくと、小屋の窓には覆いがかかり、煙突からも煙

が出ていないのがわかった。森のなかにウダイがつながれている様子もない。ドアや窓を たた

軽く叩いてみても、しんとして返事がない。

39

つぶ

 二人で出かけているのだろうか。しばらく時間を潰してみても、何の変化もない。ワタ

ルはもう一度ウダイにまたがり、沼の方へと向かった。あんなジメジメした場所に散歩に よ ぎ 

行くとも思えないけれど、ここに住み着くことを余儀なくされている身の上となれば、何 かしら用事だってできるかもしれない。

 嘆きの沼の水は、陽光の下で見ても真っ黒で、さざ波さえもたっていない。雨水から濾 ふ きつ

ひそ

しとられたありとあらゆる不純物がここに集まっているのだと知った今では、こののっぺ

りとした静けさのなかに、ひどく不吉で不気味なものが潜んでいるような気がして仕方が

なかった。沼の水それ自体が、アメーバみたいなひとつの大きな生きもので、じっと息を ひ くつ

びんかん

さと

か ら だ

しょくしゅ

おそ

ひそめ、卑屈に身を丸めてうずくまっている。でも、もしも誰かが不用意に近づけば、そ え もの

の

へいたん

きょだい

の生きものは敏感にそれと悟って、身体の一部を触手のようにのばし、襲いかかってくる かたまり

もど

と

のではないか。そして獲物を呑みこんだ後は、たちまち静けさと平坦さを取り戻し、巨大 で真っ黒な泥水の塊のふりをする作業に戻るのだ。 けが

こわ

 ││悪いモノや穢れたモノだって、そこにそう在るためには、エネルギーを摂り続けな きゃならないんだから。 かかと

こ づ 

みずぎわ

 どうしてこんなことを考えるんだろう。自分で自分を怖がらせているだけじゃないか。 わきばら

ワタルは軽く頭を叩くと、ウダイの脇腹を踵で軽く小突き、人っ子ひとりいない水際に沿っ て足を速めた。

40

と

 そのとき、ごくかすかに、﹁キー﹂というような声を聞いた。

 ウダイを停めて、耳を澄ます。空耳だろうか？ いや、確かに聞こえる。でも、鳥の声 もないこの沼に？ ﹁キ、キー、ククク﹂ しげ

いっしゅん

 動物の声のようだ。弱々しい。周りを見回す。するとまた聞こえる。すぐ近くだ。 あし

つばさ

 前方の、蘆に似たひょろ長い草の茂みが、ざわざわと動いている。一瞬だけ、草の葉の あいだから、何か赤い鳥の翼みたいなものがちらっとのぞいた。 けん

う もう

 ワタルはウダイから降りて、勇者の剣を抜くと、ゆっくりと近づいて行った。空いた手 しんく 

で茂みを押しのけると、すぐに赤い翼が見えた。鳥ではない。羽毛や羽根のかわりにウロ

コがはえている。真紅のウロコだ。そして、ワタルの手と同じくらいの大きさだけど、はっ かぎづめ

きりそれとわかる鉤爪の指。  ││ドラゴンだ。 おどろ

つ

 あまりの驚きに、息をするのも忘れて立ちすくんだ。嘆きの沼の黒い水と泥にまみれて、 たお

こ

ひとみ

あご

一頭のドラゴンが横ざまに倒れている。身体の半分ぐらいは沼に浸かり、翼と両手を弱々 しく動かして、ひどく苦しそうだ。 きば

しんじゅ

つぶ

かがや

 その目が動いて、ワタルを見た。濃い色の瞳が驚きで大きくなり、長い顎が持ちあがっ するど

て口がパクパクする。鋭い牙はまるで真珠のネックレスみたいに粒ぞろいで、白く輝いて

41

いる。

い げん

﹁おや、ヒトの子だ！﹂と、ドラゴンは声をあげた。﹁もしも君が良いヒトの子なら、僕 あ ぜん

を助けてくれるかい？﹂

そ ぼく

 ワタルは唖然とした。威厳さえ感じられる姿││とりあえず今は倒れて弱っているけれ ひょうし

ど、それでもなお││だけど、聞こえてきた声は拍子抜けするくらいに素朴というか、子 供っぽいというか。

﹁どうしたの？﹂ぬかるみに足をとられないように気をつけながら、ワタルはドラゴンに

近づいた。するとドラゴンが、長い舌をのぞかせてシャッというような声を発した。ワタ す で 

ルはぎくりとして固まった。

﹁この沼の水に、素手や素足を浸けてはいけない！﹂と、ドラゴンは言った。 は

 どうやら、さっきの変な声は注意を促すためのものだったらしい。 ﹁大丈夫だよ、僕はブーツを履いてるから。転ばなければ平気だよ﹂ か

 ドラゴンはしばしばとまばたきをした。﹁そうか。君が良いヒトの子なら、その剣はも さや

う鞘に収めていいと思うよ。僕は君を噛んだりしないから﹂ かわ

 ワタルは勇者の剣をしまうと、さらにドラゴンに近づいた。おっかなびっくり手をのば ふ

し、彼の首のあたりに触れると、さらりと乾いた感触と、体温が伝わってきた。キ・キー かた

マの肩のあたりと、ちょっと似ている。

42

け が 

﹁怪我をしてるの？﹂

 ドラゴンは悲しげに目を伏せた。﹁調子に乗って曲芸飛行をやりすぎたんだ。バランス くず

お か 

を崩して、このとおりさ﹂ やわ

 ちょっと可笑しい。ドラゴンでもそんな失敗をするのか。 さえぎ

﹁それで落ちちゃったんだね。でも、ここの柔らかい湿地で運が良かった││﹂ しび

 ワタルの言葉を遮って、ドラゴンは両手で泥をかきむしりながら、﹁とんでもない！ 

この沼の水は痺れグスリみたいなものなんだ。ちょっとでも身体が浸かったら、そこから

どんどん痺れが広がっていって、しまいには動けなくなっちまう！ 僕はもう、身体半分

が全然動かないんだよ。動くのは首と、この両手、僕の身体のなかでいちばん小さいこの

二本の手だけなんだ。おまけにここのどろんこには爪も立たない！ だから、どうやって も抜け出せないんだよ﹂

 どうやらこのドラゴンは、ドラゴン族の子供であるらしい。それでも体長は二メートル

以上あるだろう。とてもじゃないが、ワタル一人で水から引っ張り出してやることはでき そうにない。どうしよう││と考えて、はっと思いついた。

﹁泥を上手くつかむことができたら、自分の力で水からあがれそうかい？﹂

﹁うん、たぶん﹂ドラゴンはうなずいた。﹁翼が乾けば、また飛べるだろうし﹂ ﹁じゃ、ちょっと待ってて！﹂

43

 ワタルは急いでウダイのところにとって返すと、蹄にはかせていたカンジキをふたつ外 して、ドラゴンのそばに駆け戻った。

﹁ほら、これを手にはめてごらんよ。これなら、しっかりと泥の地面をつかむことができ るんじゃない？﹂ ため

がんば 

 試してみると、少しずつではあるけれど、ドラゴンは自力で自分の身体を引っ張りあげ られるようになってきた。

ま すい

﹁う││んしょ﹂頭を振り立てながら、真っ赤になって頑張っている││たぶん。もとも と真っ赤だから、よくわからないけど。 ﹁よいっしょと！﹂

 ようやく翼が水から出た。さっきまで沼の水に浸かっていたその部分は、確かに、麻酔

でもかけられたみたいにだらりと力を失っている。ワタルはちょっとだけぞっとした。 ﹁うーん、うーん﹂ ﹁もうちょっとだ、ガンバレ！﹂

 ワタルも彼の背中に手をあてて押したり、首のあたりをひっぱったりして手伝った。よ

うやく、ドラゴンの身体の大部分が水から抜け出し、あとはしっぽが浸かっているだけに なった。 ﹁あとちょっとだ﹂

44

む

 そのとき、﹁ぎょ？﹂というような声を出して、ドラゴンが両目を剥いた。 ﹁しまった！ カロンだ！﹂ ﹁え？ 何？﹂

 ドラゴンはあわてて身体をくねらせ、自分のしっぽの方を振り返った。 ﹁カロンだよ！ カロンが僕のしっぽの先に喰いついてる！﹂

 沼の水面に目をやると、さっきまで真っ平らだったところに、小さな波が立っていた。 ﹁カロンて何？﹂

﹁この沼の魚さ！ おっそろしい食いしん坊なんだ！﹂ドラゴンは両手をじたばたと泥に

突き立てた。﹁ああ、どうしよう！ ひっぱられる！ 水に引きずり込まれたら、僕なん か頭からガリガリ喰われちまう！﹂ あと

 騒いでいるあいだにも、確かにドラゴンの大きな身体が、じりじりと沼の水のなかへと

引き戻されてゆく。カンジキの跡が、泥の上に線になって残る。水面のさざ波は、さらに 大きくなっていく。

﹁その魚、やっつけよう！﹂ワタルが勇者の剣を抜いて身構えると、ドラゴンは大きく首 を振り、ワタルを沼から遠ざけた。

﹁ダメだ、ダメだ！ そんなちっぽけな剣じゃ、カロンには歯がたたないよ。それより、 僕のしっぽを切り落としておくれ！﹂

45

おおあわ

つ

 ワタルは、ドラゴンの大慌ての顔と、釣り糸みたいにピンと張ったしっぽを見比べた。 ﹁しっぽを切る？﹂

﹁そうだよ。これから僕がうんと力を出して、できるだけ強くしっぽをひっぱり返す。そ

したら君は、僕のしっぽを、できるだけ水面ギリギリのところで切っておくれよ。いいね？

 できるだけギリギリだよ。たくさん切ったら痛いからイヤだよ。合図をするから、そし

たらいっぺんですっぱりと切るんだよ。もたもた切ったら痛いからイヤだよ﹂ ﹁ちょ、ちょっと待ってよ！﹂

む が むちゅう

﹁待ってたら僕はカロンに喰われちゃうよ。剣の準備はいい？ 足元を固めて。いいね？ こんしん

 じゃ、行くよ。いち、にい、さん！﹂

 ドラゴンはうんとばかりに渾身の力を込めてしっぽをひっぱった。ワタルは無我夢中で

勇者の剣を構えると、しっぽが水面から引っ張り出され、ぴりぴりと震えている場所めが けて振りおろした。  スパッ！ て ごた

 手応えがあった。ドラゴンがぎゃっと叫んだ。嘆きの沼の水面がざざざと波立ち、その

波の中心に、丸ノコギリの一部分みたいなものが一瞬だけのぞいて、水面下に消えた。 い

﹁痛ったいよぉ！﹂ドラゴンは両手をバタバタさせている。目から涙がボロボロ落ちる。 ﹁ひどいじゃないかぁ、ギリギリのところで切らなかったろ！﹂

46

 ワタルははあはあ息を切らしていて、すぐには何も言えなかった。ようやく出てきた言 葉は、﹁今のあれ、何？﹂ ﹁何って、だからあれがカロンだよ！﹂ ﹁あの丸ノコギリみたいなのが？ あれが口？﹂ ﹁あれはカロンの背びれだよ。歯はもっともっとスゴイんだ﹂

 ドラゴンは涙を流しながら、自分のしっぽを点検した。切り口は、ちょうど大根ぐらい

いっしょ

の太さだ。赤い血が流れ出ている。ワタルは心配で背中が冷えたけれど、傷はみるみるう ふさ

ちに塞がって、涙よりもよっぽど早く、血は止まった。 ﹁ああ、寒いなぁ﹂

 ドラゴンはぶるぶる震えた。彼が震えると、周りの草むらも一緒に揺れた。 ど

﹁君、ちょっと退いてくれる？﹂  ワタルは一歩離れた。

﹁そうじゃないの。もっともっともっと遠くまで退いて。あのウダイのところまで﹂

ほのお

ほとばし

 ワタルが言われたとおりにすると、ドラゴンは大きく息を吸い込んで、沼の方に首を向 け、﹁せえの﹂という声と共に吐き出した。  ごうううううう！ あ っ け

 呆気にとられて、ワタルはぽかんと口を開いた。ドラゴンの口から、炎が迸り出たのだ。

47

か えん

特大の火炎放射器だ。 はだ

いち

 炎が生み出す熱波はドラゴンを包み込み、ワタルの方にまで押し寄せてきた。まるで一 じん

こ

くさ

にお

陣の風のように、それが来たりて通過するのを、ワタルは肌で感じた。一瞬の熱気と、あ とに残った焦げ臭い匂い。 かみ

 ││髪がコゲたんだ。 じょうきげん

﹁やあ、乾いた、乾いた﹂  ドラゴンは上機嫌で、大きく翼をはためかせた。もう泣いてない。

﹁君、大丈夫だった？ どうもありがとう。ちょっと剣の腕が悪いけど、でも君は僕の命 の恩人だよ﹂ ﹁や、や、や、そんなこと﹂ ひざ

 膝がガクガクして、ワタルは動けなかった。ドラゴンは身軽に足を動かし、どしんどし んとワタルのそばに寄ってきた。

﹁君はどこから来たの？ どこへ行くの？ ウダイに乗ってるとこ見ると、行商人かい？﹂ と、ドラゴンは尋ねた。 ﹁う、うん。まあそんなとこ﹂ ﹁そう。じゃあさ、助けてもらったお礼に、いいものをあげるよ﹂

 ドラゴンは巨体の割には小さな手を持ちあげて、自分の首の後ろから、真っ赤なウロコ

48

を一枚引き抜いた。 ﹁ホラ、これ﹂ ル ビ ー

くつ

 ワタルはウロコを受け取った。紅宝石でできた靴べらみたいだ。

﹁それ、リリスに持っていって、腕のいい工芸師に見せてさ、笛を作っておもらいよ。龍

の笛だ。君がどこにいても、それを吹いたら、僕には聞こえる。すぐに飛んできて、君を 背中に乗っけて、どこへでも、行きたいところへ運んであげるよ﹂  ただ、気をつけてねと続けて、 こわ

﹁龍の笛は長持ちしない、すぐ壊れちゃうから、二度しか使えないよ﹂と言った。 ﹁あ、ありがとう﹂ あいさつ

﹁こちらこそ。じゃ、そういうことで﹂ し だい

 サヨナラの挨拶か、ドラゴンは小さな手をしゃかしゃかと振ると、ゆっくりと羽ばたき

始めた。次第にスピードが早くなる。アイドリングから、本格的なエンジンの始動。

 ドラゴンの太い両足が、沼地からふわりと持ちあがったとき、ワタルはやっと声を張り あげて尋ねた。﹁な、名前は何ていうの？ 僕、ワタル！﹂

ふ

 ドラゴンはますます早く翼をはためかせながら答えた。﹁僕はジョゾ。ファイアドラゴ まつえい

ンの末裔のジョゾだよ﹂ つむじかぜ

 ジョゾは飛び立った。巻き起こる旋風に、ワタルは思わず手で目をかばって頭を伏せた。

49

はざ ま

いろど

風が収まったときには、ジョゾの姿は、天空の一角をピカリと彩る、真昼の赤い星つぶに なっていた。そしてそれもすぐに、雲と光の狭間に消えてしまった。 ヴィジョン

 なんてこった。本物のドラゴンを見ちゃった。今まで、〝幻界〟のヒトびとからドラゴ

ンの話を聞かされたことは、たった一度しかない。カッツの語ってくれた、ファイアドラ

ゴンの伝説。それだけだ。しゃべったり翼をバタバタさせたり、空から落ちて困っている

生身のドラゴン族の話なんて、これっぱかしも耳にしたことはなかったのに。

 いまだ夢を見ている気分で、ワタルはぼんやりとウダイにまたがり、ぽくぽくと歩き出 あざ

した。ジヨゾの吐いた炎の息が、あの鮮やかな真紅の色が、まだ頭のなかをいっぱいに満 しめ

たしていて、陰気な沼地の光景も湿っぽい風も、現実味がなくなっていた。

びん

 そのせいだろう、行く手の湿地のなかに、小さな荷車をつけたウダイが一頭、ぽつんと と

停められているのを見かけても、すぐには何も感じなかった。荷車の荷台には、小さな瓶

がたくさん積み込んである。ウダイの乗り手は荷車のそばを離れて、嘆きの沼の水際にか がみ込み、しきりと何かやっていた。  ││手を水に浸けてる。  その瞬間、やっと夢の包囲が破けて、ワタルは大声で叫んだ。 だ め 

﹁そこのヒト、駄目だよダメだ、沼の水に触っちゃ危ないよ！﹂

ひび

 鳥の声も木立のざわめきも存在しない嘆きの沼に、その声は驚くほど鋭く響きわたった。

50

むち

水際にかがんでいたヒトは、はじかれたように立ちあがり、ワタルの方に向き直った。

 ワタルは急いでウダイを駆った。近づくにつれて、水際にいるそのヒトが、鞭のように ず きん

鋭く身構えていることがわかった。頭からすっぽりと頭巾をかぶっているので、顔が全然 見えない。

のど

 ワタルが近づいて行っても、そのヒトは動かなかった。それでも、頭巾の目のところに 空いた穴から、じっとこちらを見ている視線は感じられた。

 ウダイから降りながら、ワタルは言った。﹁もしかして、道に迷ったんですか？ 喉が かわ

かわ

つつそで

渇いているなら、僕が飲み水を持ってます。沼の水には手をつけちゃいけない﹂ がんじょう

い

 そのヒトは頑丈そうな革のブーツで足元を固め、ござっぱりした筒袖のシャツとズボン

に、ポケットがたくさんついた革のチョッキを着込んでいた。行商人によくある出で立ち てぶくろ

ぬ

けんじゃ

だ。よく見ると両手にも革の手袋をはめている。その手で、荷車の荷台に積み込んでいる のと同じ形の瓶を握っていた。瓶の口が濡れている。 ﹁この沼の水は痺れ薬みたいなもので││﹂ さと

じ

つえ

 言いかけて、ワタルはいきなり悟った。身体のなかの小さな小さな賢者が、いつまでたっ

ても何も理解しようとしないワタルに焦れて、内側から杖で頭を叩いたのかもしれない。 にんしき

それほどに出し抜けに、ごつんという感じで認識がやってきた。

 荷台に積まれたたくさんの瓶。頭巾で顔を隠したヒト。水際で何かしていた。

51

 ││まがい物の涙の水が出回っていて。  ││それで病人が死んだ。

 知識と目の前の光景が結びつき、ワタルは目を見開いた。その瞬間、頭巾のヒトがワタ よ

ルめがけて手のなかの瓶を投げつけた。 あや

 ワタルは危ういところで瓶を避けた。頭巾のヒトは逃げ出して、荷車のウダイのところ へ駆けてゆく。 ﹁待て！﹂

 ワタルは叫び、ほとんど反射的に勇者の剣を抜いた。何も考えずにしたことだったけれ つまさき

ど、剣を見た頭巾のヒトは、ブーツの爪先が沼地の泥に食い込むほどの勢いで足を止める と、こちらを振り返った。 つか

﹁生意気なガキめ﹂頭巾の下から、低い声が聞こえた。﹁そんな剣なんか取り出して、俺 を捕まえようっていうのか﹂

 明らかに男の声だった。相手の態度が変わったことが、それも危険な方向に転じたこと が、ワタルにもはっきりと感じ取れた。

﹁そうだよ、捕まえるんだ。あんたを放っておくことなんかできない！﹂ワタルはシャツ

の袖をまくって、ファイアドラゴンの腕輪を見せつけた。﹁僕はハイランダーだ！﹂

ね

 頭巾の男は笑いだした。﹁驚いたね！ ブランチも安っぽくなったもんだぜ。夜寝る前

52

こ もりうた

こ ぞう

うそ

に、お母ちゃんに子守歌を歌ってもらっているような小僧に、大切なファイアドラゴンの

腕輪をやるとはな。坊ず、白状するなら今のうちだ。今の名乗りは嘘だろう？ 腕輪は本 き ぜん

物じゃないんだろ？ ハイランダーごっこをしてるだけなんだろ？﹂

 ワタルはとりあわなかった。毅然として続けた。﹁あんたはこの沼の水を汲みあげて、 いつわ

それをティアズヘヴンの〝涙の水〟だと偽って売っているんだろう？ 立派な詐欺だ。死

人まで出ている。自分のしていることがどれほどの悪事か、わかってるのか？﹂

 頭巾の男はひるむどころか、両手を打ち合わせて大笑いをした。﹁おまえこそ、自分が どんな立場にいるのか、まるでわかってないようだな、坊ず﹂ じゅう

うつしよ

 すばやくチョッキの下に手を突っ込むと、何かを取り出してワタルに突きつけた。

 これは││銃だ。ワタルが現世で知っている銃よりは曲線の部分が多いけれど、それだっ て想像はつく。

 ワタルが思わず一歩後退すると、頭巾の男は一歩前進した。そして言った。

まどうじゅう

﹁へえ、坊ず、これが何だかわかるのか？ 感心、感心。こいつはな、魔導銃というもの たよ

だ。アリキタで最近発明された、剣なんかよりもずっと頼りになる武器だ。おまえが剣を

振りかざして俺に襲いかかってきたところで、俺はここから逃げもせずに、ただ指先を動 かすだけで、おまえの頭に大きな穴を空けることができるんだ﹂

おさ

﹁銃ならば、知ってるよ﹂ワタルは静かに応じた。心臓がドキドキしているので、声を抑

53

お

えるのは難しかったけれど、何とかできた。 だま

﹁おかげで話が早い。坊ず、命が惜しければ、黙っておとなしくしていることだ。俺はとっ

ととここを立ち去る。おまえは俺がいなくなったら、俺と会ったことも忘れて、誰にも何

も言わないことだ。おまえだって、あたら若い命を散らして、おっかさんを泣かせたくは ないだろう？﹂ ねら

 ワタルは半歩右に動いた。魔導銃の銃口は、ぴたりとワタルに狙いをつけたまま、半歩 分だけ一緒に動いた。

み のが

﹁逃げようとしたって無駄だ。避けられるものじゃない。ガキだから見逃してやろうと言っ てるのに、ものわかりの悪い小僧だ﹂

﹁僕はガキじゃない、ハイランダーだ。ティアズヘヴンのヒトたちを守る責任がある。あ

んたの売りさばくまがい物の〝涙の水〟から、大勢のヒトたちの命を守る責任だってある んだ！﹂

﹁バカらしい﹂頭巾の男は吐き捨てた。﹁あんな町の住民どもなど、守ってやる価値があ

るものか！ メソメソうじうじしながら、ただ寄り集まってるだけじゃないか﹂

 ワタルはカッとなった。﹁あんたになんでそんなことがわかるんだ？ 何も知らないく せに！﹂

﹁あいにくだな。俺はティアズヘヴンのことならよく知ってるんだ。つい最近まで、あの

54

いまいま

忌々しい町に閉じこめられていたんだから﹂  頭巾の男はウダイの鞍に片手をかけた。 ﹁おまえとおしゃべりしているヒマはない﹂ つか

はっぽう

 ひらりとウダイに飛び乗ろうとする。ワタルは勇者の剣の柄を握りしめると、前後を忘 れて突進した。

さくれつ

 頭巾の男は大きく腕を振りあげると、ワタルに魔導銃を見せつけて、それから発砲した。

たたか

バンという音がして、身を伏せるまもなく、ワタルの目の前に白い光が炸裂した。 ﹁え？﹂ モンスター

たま

 いつか教会の廃墟の地下で怪物と闘ったときと同じだった。勇者の剣を握った腕が勝手

に動いていた。剣はワタルの前の空間を左から右へ移動し、あやまたず魔導銃の放った弾 は

を捉えて、鋭く撥ね返したのだ。

しず

 頭巾の男も驚いていた。一瞬手のなかの魔導銃を見おろして、それからあわててもう一 度銃口を持ちあげた。 こ ざか

﹁小賢しい小僧め！﹂ ちょうだん

し ぶ き

 再びの発砲音。ワタルも今度はあわてなかった。心を鎮めて勇者の剣に任せた。剣はま いってき

た跳ねるように動いて弾をはじいた。跳弾が沼に飛び込んだのか、小さな水飛沫があがっ ひ ま つ

た。飛沫がほんの一滴か二滴、ワタルの顔に降りかかった。冷たい。

55

う

つ

﹁あんたの銃には、弾が何発入ってる？﹂ワタルは少しずつ頭巾の男との間を詰めていっ た。﹁残らず全部撃ち尽くすまで、やってみるかい？﹂ ﹁クソ、何てことだ﹂

 頭巾の男は悪態をつくと、身軽にウダイに飛び乗った。そして鞍の上で身をよじり、銃 なわ

ささや

口をウダイと荷車をつないでいる縄の結び目に向けて、一発で撃ち抜いた。 りん

 その短いあいだに、ワタルの頭のなかに、凛として優しい声が囁きかけてきた。 ︵ワタル、勇者の剣を使いなさい︶ つば

 それは剣から││剣の鍔にはめこまれた、あの宝玉から聞こえてくるのだった。ワタル じか

の指を伝わり、腕を伝いのぼり、頭のなかに直に訴えかけてくる。 ︵剣を使いなさい。この剣も魔弾を放つことができるのです︶

 ためらわず、ワタルは勇者の剣を上げると、さっき頭巾の男が魔導銃でそうしたように、

剣の先で男に狙いをつけた。今にもウダイに鞭をくれようとする、その腕の付け根に。 す ばや

とな

 剣はまたも、自然に動いた。空に素早く十字を切り、その十字の中心に剣先が戻る。そ め がみ

せいれい

こ くう

の動作をしながら、心のなかに伝わってきた言葉を、ワタルはそのまま唱えた。 ﹁大いなる女神さま、聖なる精霊の英知の力よ、虚空を飛べ！﹂

 鍔の宝玉が光った。剣先から白い輝きが迸しり出て、まっしぐらに頭巾の男の方へ飛ん でいった。

56

おび

あや

 光の弾丸は、男の右肩を撃ち抜いた。男は悲鳴をあげてウダイから転がり落ちた。 ほお

 怯えたウダイが走り出す。倒れ伏した頭巾の男の脇を、危ういところで蹄が駆け抜ける。 ひ

ワタルは男に駆け寄った。興奮と感動で頬が熱かった。勇者の剣でこんなことができるな んて！ こんな力が秘められていただなんて！ うめ

 男は肩の傷を押さえて呻いていた。落ちた拍子に頭巾がずれて、鼻先と顎が見えている。 ぶしょう

無精ひげの浮いた頬に泥がついている。

﹁ハイランダーが、魔法剣を使うなんて﹂驚きでうわずった声で、男は言った。﹁それも こんなガキが││おまえはいったい、何者なんだ？﹂

なつ

 男のそばに膝をついたワタルは、しかし、彼の問いかけなど耳に入らないほどに、別の

むなさわ

ことで驚いていた。この顎の形。鼻の感じ。どこかで見た覚えがある。とても懐かしい感 だれ

じがする。誰かに似ている││  まさか。そんなバカな。 ひらめ

は

 閃いた直感を、理性が押し返す。でも胸騒ぎを鎮めることはできない。左手が男の頭巾 こうかい

の方へ伸びてゆく。やめろ、その男の頭巾を剥ぐのはやめろ、そんなことをしてはいけな

い、きっと後悔する。身の内の小さな賢者が叫んでいる。でも止められない。  ワタルは男の頭巾をむしりとった。

 現れた顔は、父の顔だった。三谷明に生き写しの顔が、そこにあった。いつも落ち着い

57

て冷静で、時には非情にさえ思える瞳の色までそのままだ。  嘘だ。こんなことがあるもんか。 にく

にら

 父にそっくりな男は、憎しみに目をギラギラさせてワタルを睨んでいた。傷が痛むのか、 歯を食いしばっている。 ﹁あんたは││誰だ﹂

 かろうじて、ワタルは訊いた。舌が痺れたみたいになって、うまく声が出ない。

﹁名前など意味はない﹂男は食いしばった歯のあいだから言った。﹁俺はひとりの男だ。

おまえのような小僧にはわからないだろうが、けっして悪人ではない。ただ自分の幸せを 求めて、自分にできることをやろうとしているだけの男だ﹂

 この男は、さっき口走った││つい最近までティアズヘヴンに閉じこめられていたと。  ワタルは悟った。﹁そうか、あんたはヤコムだ﹂  初めて、男がひるんだ。ワタルの顔から目をそらした。

﹁あんたはヤコムだ！ 奥さんとサラを捨てて、リリ・ヤンヌと駆け落ちしようとして失

ほとり

敗した。リリ・ヤンヌは町を追放されて、今はこの〝嘆きの沼〟の畔にいる││﹂  それでわかった。

﹁あんたがまがい物の〝涙の水〟なんか売っているのは、リリ・ヤンヌを養うためだな？ かせ

 彼女に小屋を建ててやったろ？ そのための金も、そうやって稼いだんだな？﹂

58

 ヤコムの目が、険悪に細くなった。

﹁坊ず、なぜおまえが俺とリリのことを知っているんだ？ いやに詳しいじゃないか。誰 にそんな話を吹き込まれたんだ？﹂

﹁誰に吹き込まれたわけじゃない。僕はリリ・ヤンヌに会ったこともあるし、あんたの奥

さんのサタミに会ったこともある。サラのことも知ってる。サラがどんなに父親を恋しがっ てるのか、よく知ってる。それだけだ﹂

さ

 ヤコムは泥まみれになって起きあがると、魔法弾のあたった肩の傷を手で押さえて、ワ そむ

タルから顔を背けた。サラの名前に反応したのか、父親という言葉が刺さったのか、瞳が 沼の水の色を映して暗くなった。 ﹁おまえのような子供が、生意気なことを﹂  呟く声も、張りを失っていた。

﹁俺だって、自分が何をしているか、わかっていないわけじゃない。勝手なふるまいをし

あお

ているということぐらい、ちゃんと承知している﹂ ﹁だったら││﹂

 ヤコムはワタルの方を振り仰いだ。正面から見ると、その顔は本当に三谷明に生き写し で、ワタルは胸の底で何かがズキンと痛むのを感じた。 おも

﹁だがな、坊ず。ヒトには、理屈ではどうしようもない〝想い〟というものがあるのだ。

59

ま じ め 

めぐ

サタミはけっして悪い女じゃない。真面目で働き者で、優しい女だ。だが、リリと巡り合

い、愛し合ってしまった以上、俺はもう引き返すことができないのだ。本当の愛というも しぼ

のを知ってしまったからには、もうまがい物の元へ戻ることはできないのだ﹂

 ワタルは声を振り絞った。﹁サタミさんとの愛がまがい物で、リリ・ヤンヌとの愛が本 物だなんて、どうしてあんたに見分けられるのさ？﹂ はし

 ヤコムは口の端をひん曲げてニヤリと笑った。﹁坊ずも大人の男になればわかるさ﹂ ﹁そんなもの、わかりたくもない！﹂ どうよう

 自分でもビックリするほどの大声が飛び出した。動揺した心が、身体の内側であっちに

転がってぶつかり、こっちに転がってぶつかっている。ワタルは必死で自分自身に言い聞

かせた。これは父さんじゃない。ヤコムだ。行商人のヤコムだ。僕の父さんの三谷明じゃ ちが

ない。別人なんだ。たとえ姿形がそっくりであろうと、似たようなことをして母さんと僕 を苦しめていようと、こいつは父さんじゃない。違う、違うんだ。

﹁愛を知ることは、ヒトにとって何よりも大切なことだ﹂説教臭い口調で、ヤコムは言っ つら

た。﹁一度愛を得たならば、それを手放すことは死よりも辛い。坊ず、おまえも一人前の

男になれば、必ずそれがわかる。もっとも、おまえが本物の愛に出合えるかどうかは、俺 にも保証できないが﹂

 フフンと笑うヤコムの顔も、やっぱり父さんの顔とそっくりだった。ワタルが何か小生

60

い す 

意気な意見を述べたとき、好きなだけ言わせておいて、ではこれから君の意見がどれくら

い間違っているか、僕がじっくりと検証してあげようと、ゆったりと椅子に座り直すとき の三谷明に。  ││ワタル、君は少し考え違いをしているようだね。 びしょう

 そう切り出すときの、父の微笑に。 た

 とうとう耐えきれなくなって、ワタルは足元の泥に視線を落とした。そのまま言った。

﹁サタミさんの気持ちはどうなんだい？ サタミさんがあんたに感じてる〝愛〟はどうな

んだい？ それだって本物だ。今あんたが言ったことが正しいなら、サタミさんがあんた

への愛を手放すのは死ぬより辛いと思うことだって正しいはずじゃないか﹂

 ヤコムは首を振った。﹁サタミは俺を愛してなどいない。ただ生活のために、俺にしが みついているだけだ﹂ ﹁勝手に決めつけるなよ！﹂

﹁坊ずこそ、他人の家のなかのことに黄色いクチバシを突っ込むんじゃない！﹂

へ り くつ

 ワタルはひるまなかった。﹁サラはどうなんだ？ サラが父親であるあんたに抱いてる 〝愛〟はどうなんだよ！﹂ ﹁親子の愛は、また別物だ﹂ ひきょう

﹁あんたは卑怯だ。自分に都合のいい屁理屈ばっかりこねてるじゃないか。サラは、あん

61

たが帰ってきたんじゃないかって、ウダイがティアズヘヴンのそばを通りかかるたびに、

小さい足で一生懸命に門のところまで駆け出してくる。その姿を、あんた見たことないだ

ろ？ 一度だってそんなサラを目にしたら、今みたいな屁理屈、絶対に並べられないはず だよ﹂

 一瞬、ヤコムは押し黙った。それから急に、怪我をしていない方の手を素早く動かして、 かたわ

傍らの泥をひとつかみすくいとると、ワタルに向かって投げつけた。とっさに避けたけれ ど、泥の飛沫がワタルの顎に飛び散った。﹁何するんだよ！﹂

 再び、ヤコムの目が燃えていた。さっきワタルに銃を向けたときと同じ、憎しみの光が、 ぜっきょう

彼の瞳を内側からギラギラと輝かせている。

﹁子供、子供、子供！﹂と、ヤコムは絶叫した。﹁子供だから何だというのだ！ もとも

しば

と俺が与えてやった命じゃないか！ 子供だというだけで一生親を縛りつける権利がある

と言い張るのなら、こっちにだって言い分がある。どうしても俺という親がいなくては生 は な 

きていけないというのなら、そんな命など、最初から無用だ！ 俺がこの手でサラの命を

絶ってやろう。サタミだって同じだ。どうしても俺がいなくては生きられないというのな ら、俺がこの手で殺してやる！﹂ つの

つ

まゆ

 ワタルは息が詰まるのを感じた。頬が熱くなるのを感じた。突き出されたヤコムの顎。 つば

唾を飛ばさんばかりの勢いで言い募る口。吊りあがった眉。強い自己主張に光る瞳。父さ

62

んだ。父さんにそっくりだ。いや、父さんそのものだ。耳に突き刺さるのもヤコムの声じゃ

ない。これは父さんの声だ。三谷明が、ワタルに向かって宣言しているのだ。

 ││子供だから何だというのだ。もともと僕が与えてやった命じゃないか。ワタル、お

まえが僕の子供だというだけで、一生僕を縛りつける権利があると言い張るのなら、僕に ざんこく

に

も考えがある。おまえを捨てるのは残酷だと言うのならば、おまえが望むとおりにしてや ろう。 ││父さんはおまえを捨てはしない。

 ││もともとおまえは、父さんがいなくてはこの世に誕生しなかった命だ。

 ││だから父さんは、おまえが生まれてこなかったことにしようと思う。

いか

 ││おまえを捨てるかわりに、おまえを消してしまうことにしよう。  それこそがワタル、おまえの望みなのだろう？

 ふらりとめまいを感じた。足元がふわふわする。心のなかでは怒りがマグマのように煮

えたぎっているのに、なぜかそれが急に遠いものになったような感じがする。  ││倒れそうだ。

 宙に手を泳がせて、ワタルはつかまるものを探した。そんなものはあるはずもなく、足 が一歩、大きく脇に動いてよろけた。 ﹁どうしたんだ、坊ず？﹂

63

 ヤコムが問いかける。その声も、さっきまでより小さく聞こえる。ガラスごしに話しか とうめい

かべ

へだ

けられているみたいだ。いや、ヤコムだけじゃない、周囲の何もかも、嘆きの沼の冷たい いんき 

空気や陰気な風までも、透明な壁一枚隔てた向こう側のもののように感じられる。まるで、 ワタル一人がコップのなかにでも落としこまれたみたいだ。 うすわら

﹁坊ず、おまえは家に帰った方がいい﹂ヤコムが薄笑いを浮かべてそう言った。﹁帰って、

・

・

・

・

おまえの親に訊いてみろ。俺とおまえのどちらが正しいか尋ねてみろ。もちろん、おまえ

の親は、俺が聞違っていると答えるだろう。だがな、坊ず。それはまやかしだ。真実の答

ではない。親の本当の本音ではないのだ。おまえの親たちだって、俺と同じように、一度 せま

だいしょう

しかない人生に、大事な決断を迫られたならば、必ず、俺と同じ結論を出す。そうしてお

まえら子供は捨てられるのだ。いいじゃないか、もともと親にもらった命だ。何の代償も た だ 

なしに、無料でもらった命だ。ありがたいと思って、おとなしく捨てられるのが身のほど というものだ！﹂  ワタルの視界が暗転した。

64

たお

か ら だ

 24 死の幻影    

あおむ 

 倒れてゆく。身体が後ろにひっぱられる。棒立ちになったまま、仰向けにひっくり返る。 ぎわ

ぬ

はんとうめい

ぶんり 

波打ち際に立って、足の下の砂が波にさらわれてゆくのを感じる││あれとそっくりだ。 倒れる、倒れる、倒れる││  だがワタルは倒れなかった。 たましい

 自分がふたつに分かれるのを見た。 ぬま

どろ

ふ

こ

 身体の前面から、まるで魂が抜け出るみたいに、半透明のワタルがするりと分離した。 しび

それは沼の泥の上に立つと、ちらりとワタルを振り返り、親しみを込めてニコリと笑った。

ふく

 ワタルは動けなかった。声を出すこともできない。痺れたみたいに、指一本動かすこと もできない。 しめ

 ││さっきの、あの泥。 は

 顔に跳ねた湿った泥には、沼の水が含まれている。その毒が効いてきたのだ。だから痺 げんえい

けん

れて動けないのだ。そして今ワタルが目の前にしているもう一人のワタルは、沼の水の毒 げんかく

が見せる幻覚だ。幻影だ。 ふ

 その幻影は、ヤコムの方に足を踏み出した。そしてするりと、勇者の剣を抜いた。

65

さけ

 ヤコムが泥のなかに座ったまま、わずかにひるんだように身構えて、ワタルの幻影に向 かって何かを叫んだ。

 ワタルの幻影が、勇者の剣を振りあげた。ヤコムが傷ついていない方の手で顔をかばう。 そのあいだにも、必死で叫んでいる。  ││いけない。僕はそんなことをするつもりじゃない。  幻影の手のなかで、勇者の剣の切っ先がぴかりと光る。

に

やいば

さ

 僕はヤコムを殺そうなんて思っていない父さんを殺そうと思ってなんかいない父さんを にく

ば

憎いなんて思っていないこれは父さんじゃないこれは僕じゃない││ いちげき

 勇者の剣が振りおろされる。

てのひら

き

 一撃、二撃。ヤコムが悲鳴をあげ、四つん這いになって逃げ出す。その背中に刃が刺さ ていこう

こし

る。幻影のワタルから剣を取りあげようと、ヤコムは抵抗する。その掌を刃が斬る。

えりくび

 今やヤコムは全身泥まみれで、顔には彼自身の血が飛び散っている。腰が抜けたみたい ふる

ふ

にわなわな震えながら、それでも逃げ出そうとする。幻影のワタルが彼の襟首を後ろから つかまえる。そしてその首に││  ││やめろ！ つ

 グサリと勇者の剣を突き立てた。血が噴き出して、幻影のワタルのシャツに跳ね返る。 こ

 泥の上につっぷしたヤコムの手が、助けを請うように宙に差しのばされ、やがて、ばた

66

りと落ちた。 なきがら

 ワタルの幻影は、ヤコムの亡骸から剣を引き抜いた。サッとはらうと、刃に残った血が け

跳ねた。ワタルの幻影は、無造作に剣をしまうと、一歩下がってヤコムを見おろし、おも むろにその身体を足で蹴り飛ばした。 あさせ 

し

 ヤコムの亡骸は、沼の浅瀬に転がった。ワタルの幻影がもうひと蹴りすると、それはさ しず

い ぜん

らに深いところまで行った。ヤコムの衣服に沼の水が染みこみ、その重さで、さらに深い 方へと沈んでゆく。 しん

こお

 黒い沼の水を分けて、カロンの背びれがぎらりと姿を現した。ワタルは依然として身動 おそ

えが

きもできないまま、ただじっと、恐ろしさに身体の芯まで凍りつきながら見つめるだけだ。

おおがま

 カロンはヤコムの亡骸の周りを円を描いて泳いでいる。ヤコムはどんどん沈んでゆく。 たた

きょうあく

そして、彼の背中とシャツの一部がぽこんと水の下に消えたとき、大鎌のようなカロンの

尾びれがざばりと持ちあがり、水面を叩き、凶悪な銀色の光をワタルの目の底に焼きつけ もぐ

て、水の下へと潜っていった。 ほほえ 

う

 気がつくと、幻影のワタルがこちらを見ていた。さっきと同じように、親しみのこもっ た微笑みを浮かべている。

 ワタルはかぶりを振りたかった。でも首が動かない。なんてことをするんだと叫びたかっ た。でも声が出ない。

67

え がお

 笑顔のままワタルに背を向けて、幻影のワタルは歩き出した。ワタルもそれについてゆ ただよ

く。足は動かないのに、歩けないのに、それなのについてゆく。まるでワタルの方が実体 ゆうれい

のない幽霊で、宙を漂っているみたいだ。

 どこへ行く？ 幻影のワタルは、しっかりとした足どりで進んでゆく。沼の泥を踏みし め、頭をしゃんと上げて。 そ まつ

 やがて、リリ・ヤンヌの粗末な小屋が見えてきた。幻影のワタルはそちらに歩み寄る。

すす

かた

い す 

ノックもせず、ためらいもなく、そのドアを開け放つ。そして小屋のなかに足を踏み入れ た。 おお

ぬ

 黒衣の女は、あの夜ワタルに勧めてくれた硬い椅子に腰かけて、フードをかぶった頭を 深く垂れ、両手で顔を覆っていた。 うめ

 幻影のワタルが彼女のそばに立つと、リリ・ヤンヌは顔をあげた。泣き濡れていた。 ﹁ああ﹂と、彼女は呻いた。﹁あなたはあのヒトを殺してしまった﹂  ワタルの幻影は、微笑みながら勇者の剣を抜いた。

﹁わたしはあなたを助けてあげたのに、あなたはわたしの愛する男を殺してしまった﹂  リリ・ヤンヌは幻影のワタルに両手を差しのべ、すがりついた。

﹁どうして？ どうしてわたしのヤコムを殺したの？ あのヒトが、わたしたちが、どん

な悪いことをしたというの？ わたしたちはただ愛し合っていただけ。その愛をまっとう

68

えさ

しようとしただけ。それなのに、どうしてあなたはあのヒトを、まるで罪人を裁くように

斬り殺してしまったの？ あのヒトを沼の水に沈めて、カロンの餌にしたりしたの？﹂ じゃあく

 幻影のワタルは剣を構えた。 ﹁なぜなら、おまえたちが邪悪だからだ﹂ くず

ゆか

 笑顔のまま、ワタルの声でそう言って、それはリリ・ヤンヌの胸に剣を突き立てた。彼 さや

女は声もなく椅子から崩れ落ち、床に倒れて黒い布のかたまりのようになってしまった。

 剣を鞘に収めると、幻影のワタルはワタルに近づいてきた。ワタルは逃げようとした。

もど

それとひとつになることはできない。こんなことをしたのは僕じゃない。これは僕じゃな い。僕にはこんなことはできない。  しかし、幻影のワタルはあっさりとワタルのなかに戻ってきた。 い ねむ

 とたんに、地面に両足がついた。居眠りから覚めたみたいに首がガクンとなり、ワタル ははっと身をこわばらせた。  リリ・ヤンヌの小屋の外に立っていた。 あせ

 小屋のドアはきちんと閉じられている。ワタルは、全速力で走った後みたいに息を切ら

し、汗びっしょりになっていた。これもまた、悪い夢から覚めたときと同じだった。  ││そうだ、これは幻覚だ。 まぼろし

 僕は幻を見ていたんだ。あれはホントに起こった出来事じゃない。今、手をのばしてド

69

アを開けたら、リリ・ヤンヌはあの椅子に座っていて、黒い毛糸で赤ちゃんのおくるみを

編んでいるだろう。彼女は死んでない。僕は彼女を殺してなどいないのだから。

 確かめるのは簡単だ。ドアをノックしてみればいい。ごめんくださいと声をかければ、 きっと彼女が開けてくれる。さあ、やってみろ。やってみるんだ。

 できない。そうしようと思っているわけじゃないのに、足が後ずさりしてゆく。できな ほとり

い、僕にはできない。 み

 沼の畔に戻ってみよう。ジョゾを助けたあの場所に、ウダイをずっと待たせたままだ。 しんりょう

き が 

あれにまたがって、ティアズヘヴンに帰ろう。診療所の先生に診てもらうんだ。沼の水の げ どくざい

うで

毒にあたってしまいました。解毒剤をください。そして冷汗に濡れたシャツを着替えて、 サラの顔を見に行くんだ││ すきま 

 リリ・ヤンヌの小屋のドアが、つと開いた。

 ほんの十センチくらいだろう。その隙間から、小さな手が出た。腕が出た。そして頭が ぼう

するりとのぞいた。 す

ぱだか

 赤ん坊だった。

 素っ裸で、手も足もまるまると太っている。絵本に見る天使のように整った顔をしてい て、目は閉じられている。 ふ つう

 それでも、どこかがおかしかった。何かがへんてこだった。普通の赤ちゃんじゃない。

70

はだ

肌が││肌が灰色だ。石の色だ。そうだ、この赤ちゃんは石でできていた。 さと

 それはドアからすっかり姿を現すと、閉じた目をワタルの方に向けた。そうか、この子 もうもく

は盲目なのだとワタルは悟った。

う

 赤ちゃんの口が開いて、ワタルに話しかけてきた。それは赤ん坊の声ではなかった。重々 しく、かすれて割れた老人の声だった。 ﹁おお、この血も涙もないヒト殺しめ﹂  ワタルは総毛立った。足ががくがくした。 ゆえ

ち ぶさ

こ もりうた

﹁おまえが私の父と母を手にかけたが故に、私はこの世に生を享けることができなかった。 き

この目は光を見ることあたわず、この口は母の乳房を含むこともなく、この耳は子守歌を 聴くこともなく、この足で大地を踏みしめることもない﹂

 ゆっくりと、ゆっくりとかぶりを振りながら、ワタルは後ずさりをした。 ﹁僕じゃない﹂  わなわな震えるくちびるから、やっと声が出た。 むな

﹁僕が殺したんじゃない﹂

﹁言い訳など空しい。おまえはヒト殺しだ﹂赤ちゃんがぷっくりした指でワタルをさした。 よご

﹁おまえの汚れた魂をどうしてくれよう。この悲しみをどうすればよい？ 行き場を失っ なみだ

た私の身体は石と化し、もはや涙さえも流れぬというのに﹂

71

ぜっきょう

みにく

ゆが

 ワタルは絶叫した。﹁僕が殺したんじゃない！﹂

い

つらぬ

 赤ちゃんの口が醜く歪んだ。﹁このうえは、おまえの剣を取っておまえの身体を貫き、 くさ

のろ

その魂をえぐり出してくれよう。おまえの肉が腐れ、おまえの骨が凍てつく地で風にさら さまよ 

こんとん

ふち

く おん

ごうか 

され、うつろな音をたてるよう、百の夜と昼が過ぎるまで呪ってやろう。死さえもおまえ あた

には安住の場を与えず、彷徨うおまえの魂は、混沌の淵で、久遠の罪の業火に焼かれるの だ！﹂

 信じられないようなスピードで、赤ちゃんがはいはいのままワタルに飛びかかってきた。 ワタルは声もなく、まろぶようにして逃げ出した。 かた

 走っても走っても、肩ごしに振り返ると、石の赤ん坊は風のような早さで追いかけてく

る。その顔は今や安らかな赤子の表情とはほど遠い。こけつまろびつ、転んでは地面をひっ いっしゅんぬす

かくようにして立ちあがり、追いつかれないかと振り返って一瞬盗み見るだけなのに、ワ

タルは赤ん坊の顔の上に無数のヒトを見た。ヤコムを、リリ・ヤンヌを、サタミを見た。

つ

父を見た。母を見た。理香子を見た。ヒトを憎み呪うすべてのヒトの顔を見た。ヒトを傷 あしげ 

つけ足蹴にするすべてのヒトの顔を見た。  そこにはもちろん、自分自身の幻影の顔も混じっていた。 の

 走って走って、キョトンとしている自分のウダイのそばを通り過ぎた。沼の水を詰め込 びん

んだ瓶を載せた、ヤコムの荷車のそばも通り過ぎた。走って走ってゆくうちに、沼の水の

72

え もの

上にカロンが背びれを見せて、ワタルに並んで進んでいることに気がついた。

 カロンは、ここに獲物がいることを知っているのだ。ワタルが石の赤ん坊に倒されて、 きょうふ

と

沼に投げ込まれるのを待っているのだ。恐怖のあまり泣きながら、呼吸を求めてあえぎな がら、ワタルは走って走って走り続けた。 きり

 やがて目の前に白い霧が漂い始めた。足元の地面も、沼の黒い水面も、霧に閉ざされて こ

見えなくなってしまった。もくもくと濃い霧のなかを、ワタルは泳ぐようにもがいて走り、

ひざ

何度目かに振り返ったとき、背後の赤ん坊も見えなくなっていることに気がついた。  ││安心しちゃダメだ。逃げなくちゃ。 しった 

 心は叱咤しても、もう足が動かなかった。膝が折れ、がくりと前のめりになると、もう どうやっても立ちあがることができなかった。 おび

 ││ダメだ、ダメだ、走るんだ。

 怯えて縮みあがった魂が、助けを求めて泣き叫んでいる。身体の内のその声を聞きなが やみ

すべ

ら、ワタルは気を失った。 うつぶ

 白い霧の底に、闇が滑り込んで来た。やがて闇はすべてを満たし、ワタルはそのなかに 俯せにつっぷして、精根尽き果てて眠るだけだった。  ケロロロ⋮⋮ケロロロ⋮⋮  どこからか、カエルの鳴き声が聞こえてくる。

73

 ケロロロ⋮⋮ワタル⋮⋮ケロロロ⋮⋮ と ぎ 

 どうしてこんな場所にカエルがいるんだ？ 途切れた意識の底で、ワタルのなかの小さ けんじゃ

な賢者だけが目覚めていて、周囲に聞き耳を立てている。  ケロロロ⋮⋮ワタル⋮⋮聞こえる？ ま ちが

 甘い声が語りかけてくる。何度も聞いたことのある声だ。知っているはずの声だ。 うつしよ

ヴィジョン

 ケロロロ⋮⋮気にすることないわ。あなたは間違ってない。正しいことをしたのよ。あ

なたが本当にやるべきことをしたのよ。現世にも〝幻界〟にも、まやかしの善意ばかりが

満ちている。そんなものには何の価値もないわ。あなたは正しいことをしたのよ。

 何かの命を絶つことが、正しい場合だってあるのよ。あなたは邪悪なヒトを殺しただけ。 あれは正しいことだったのよ││ ﹁違う！﹂ワタルは叫んだ。﹁僕は殺してない！﹂

 ぜいぜいとあえぎながら、手で口元を押さえた。震えが止まらない。どこだ？ ここは どこだ？ あの石の赤ん坊は？ だいじょうぶ

﹁君、大丈夫かい？﹂

 すぐ傍らから声がした。ワタルはまたぎゃっと叫んだ。やみくもに逃げ出そうとして、 どこかから転がり落ちた。床の上に落ちた。

﹁おいおい、しっかりしてくれ。君は夢を見てたんだよ。もう目を覚ましたんだ。ここは

74

き ま じ め 

安全だよ﹂ ひとみ

 生真面目そうな黒い瞳が、ワタルの顔をのぞきこんでいた。

75

まがぼし

 25 北の凶星     つつ

たけ

 とても若い男のヒトだった。ちょっと見には、リリスの教会の司教がまとっていたのと そで

よく似た灰色のローブを着ているけれど、これは袖が筒になっていて、丈も少し短く、動 きやすそうな感じだ。

﹁どれどれ、熱はどうかな？ ちょっと失敬﹂と言って、彼はワタルの額に手をあてた。 そして、すぐに顔をほころばせた。

しんだい

﹁ああ、良かった。さがったようだ。薬箱のなかに毒消しと熱冷ましが入っていて、本当 に助かった。一時はどうなるかと思ったよ﹂ じょう

うわが 

まくら

そ ぼく

き なり

ふ とん

 ちょうど六畳一間くらいの、小さな部屋のなかだった。ワタルは質素な木の寝台に横に

なっていた。上掛けも枕も素朴な生成の色だけれど、布団はふかふかして温かい。 ﹁ここは⋮⋮？ あなたは？﹂

 若い男のヒトはにこにこ笑いながら、ちょっと頭をさげた。﹁僕の名前はシン・スンシ。 ササヤの国営天文台付属研究所の研修生だ。どうぞよろしく﹂

﹁はあ⋮⋮よろしく﹂ワタルはあわてた。﹁というか、僕はあなたに助けてもらったんで すね？ ありがとうございました﹂

76

﹁どういたしまして。おなかがすいたろう？ たいしたものはないけれど、今、温かいスー プをあげるからね﹂ すみ

つい

い す 

しょだな

 パタパタと足音をたてて、彼は部屋の隅の小さな台所のようなところへ行った。室内に ゆか

はほかに、たくさんの書物が山積みになった机がひとつ。対になった椅子がひとつ。書棚 あふ

にもきっちりと書物。さらにそこから溢れた書物が床にも積みあげられていて、実際のと

ゆいいつ

ころ、シン・スンシが今行ったり来たりしている細いスペースが、唯一、自由に移動でき る〝道〟になっているようだった。 てんじょう

はしご 

 どうやらここも小屋のようだ。天井は見あげるほどに高く、ロフトのような屋根裏がつ わき

いている。そこに上るには、机のすぐ脇にある梯子を使うようである。  ││ササヤの国営天文台？

 ワタルは、いちばん最初にキ・キーマに教わったことを思い出した。

﹁スンシさん、もしかするとあなたは星読みの仕事をしているんですか？﹂

 シン・スンシは﹁うん、そうだよ﹂と、気さくに答えた。﹁研修生だから、まだ見習い ぼん

お い 

にお

だけれどね。それから、僕のことはシンでいいよ。さあ、どうぞ﹂ の

 彼が運んできてくれた盆には、美味しそうな匂いのするスープがいっぱいに満たされた はち

鉢が載っていた。 こ

﹁僕の指導教授のバクサン博士は、星読みは天文台に籠もっていてはいかん、あちこち旅

77 あお

な じ 

をして、その土地に馴染み、その土地の季節を知り、その土地の作物を食べ、そして星を

仰いでそのメッセージを読み取る││それこそが真のあるべき道だという主義なんだ﹂

 だから研修生たちも、一年の大半を、南大陸のあちこちに散らばって過ごすのだそうだ。

﹁自分でこれと思う観測地を決めることもあるし、バクサン教授から指定された場所に行

くこともある。それがとんでもないへんぴな場所だったりすることもあるから、その場合

はまず観測小屋を建てるところから始めなきゃならなかったりして、苦労するんだ。それ

でなくても、バクサン教授は、それはそれは厳しい先生だから、ちょっとでも観測にあや ふやなところがあると、すぐに落第させられてしまうし﹂ うつしよ

 と言いつつも、シン・スンシは本当に楽しそうに語っている。ワタルはふと、彼の若々

なつ

こ

しい顔の上に、現世の同級生の宮原祐太郎の顔を重ね合わせた。あいつはガリ勉の優等生 ぬ

じゃなくて、勉強することが好きなんだ││

 出し抜けに、懐かしさと、家に帰りたい、友達に会いたいという激しい感情が込みあげ ば ちが

てきた。場違いだとわかってはいるけれど、止められなかった。僕はこんなところで何を

してるんだろう？ こんなことをしていて、何になるというんだろう││ か ら だ

﹁おや、ごめんよ﹂シン・スンシが心配そうに目をしばたたかせた。﹁なにしろまるまる ね こ 

三日も寝込んでいたんだから、君はすっかり身体が弱っているのに、僕ときたら勝手なお しゃべりをしてしまった﹂

78

なみだ

ふ

﹁いえ、いえ、いいんです﹂ワタルはブンブンと首を振った。こんな親切なヒトに、うっ かり涙を見せてはいけない。甘えることになってしまうのだから。 う

﹁もう一年以上ここに独りで寵もっていて、たまにダルババ屋さんと二言三言話すことが

あるぐらいなものだから、おしゃべりに飢えているんだなぁ﹂シン・スンシは頭をかいた。 ﹁さ、冷めないうちにスープをお飲みよ﹂  ワタルはうなずいて、スープの鉢を両手で包み込んだ。 ぬま

﹁僕、三日も寝てたんですか⋮⋮﹂ なげ

﹁そうだよ。〝嘆きの沼〟の毒が全身に回っていて、ぐったりしていた﹂ ﹁あの、僕はどこに？﹂

 シン・スンシは人差し指を軽く振って、逆に問いかけた。﹁全然覚えてない？﹂

 覚えていないわけじゃない││〝嘆きの沼〟で起こった出来事││今では夢のようにお

ぼろでつかみどころがなく、細かいところははっきりしないけれど、でも、あそこで何が

し っ ち

たお

あったのか、自分が何をしたのかは、忘れていない。心にこびりついている。 ﹁ティアズヘヴンという町は知ってる？﹂ ﹁はい﹂ へだ

﹁君は〝嘆きの沼〟を隔てて、あの町のちょうど反対側の湿地のなかに倒れていたんだ。

僕たちが今こうしている観測小屋は、その湿地のはずれにあるんだけどね﹂

79

ひ ざ 

あかねいろ

うす

こうし がら

 そのときようやく気づいたのだけれど、質素な格子柄のカーテンがさがった窓から差し 込む陽射しは、すでに茜色もかなり薄れている。夕暮れなのだ。 くら

どうよ 

ひづめおお

﹁三日前の、今ぐらいの時刻だったかな。ウダイが一頭、小屋の裏の方でウロウロ迷って そうなん

いるのを見つけたんだ。背中に鞍を載せているし、湿地の泥除け用の蹄覆いをつけていた だれ

きょうふ

から、あ、これは〝嘆きの沼〟で誰か遭難したのかもしれないと思って行ってみた。そし たら、沼の出口に近いところで、君が倒れていたってわけさ﹂

いっ

 ワタルはあらためてお礼を言った。そして、胃がせり上がってくるような恐怖感を覚え ながらも質問した。

﹁ほかにも誰か見かけませんでしたか？ ヒトでなくても、荷車を引いたウダイとか﹂

えさ

 シン・スンシはかぶりを振った。﹁いいや、見かけなかったよ。君はお連れのヒトと一 しょ

緒だったの？﹂ ﹁いえ、そういうわけじゃないんですけど﹂ まいご 

﹁そう。迷子のウダイは、僕には世話ができないし、餌もないから、昨日ここに寄ったダ たの

か ちく

あつか

ルババ屋さんに頼んで、とりあえずいちばん近くのソン村に連れて行ってもらったんだ。

あそこなら、家畜を扱うことに慣れたヒトたちがいるからね。君が元気になったら、いつ でも引き取りに行かれるよ﹂

か

 ワタルはゆっくりとスープを口に運んだ。きっと美味しいはずだろうに、砂を噛んでい

80

るみたいに味がしなかった。 びん

 ヤコムのウダイはどこに行ったのだろう？ 沼にいないということは、彼がまたあのウ つ

おそ

げんかく

ダイに乗り、沼の水を詰めた瓶を運んで、どこかに立ち去ったということではないのか。

だったらヤコムは生きているのだ。ワタルの心に残る恐ろしい光景は、ただの幻覚、沼の

水の毒が見せた悪夢に過ぎないということになる。リリ・ヤンヌだって、ぴんぴんしてい ぼう

ることだろう。石の赤ん坊だって、最初から存在しないことになる。

 きっとそうだ。そうに違いない。そうであってほしい。僕には、ヤコムを殺す気なんか

なかったんだもの。確かに彼には腹を立てたけれど、彼の顔、彼の言動が父さんのそれと

あまりにそっくりだから、彼が父さんになり代わり、父さんの本音をぶつけてきたから、

僕はとても恐ろしかったけれど、でも、それでも殺そうなんて思わなかった。そんなこと、 ヴィジョン

おとず

僕にはできない。僕はそんな人間じゃない。 つ

モンスター

たたか

 でも││〝幻界〟を訪れてからこちら、ワタルは、自分でも信じられないようなことを、 ち え 

わめ

けっこうやりこなしてきたのではないか？ 知恵と体力を尽くして怪物と闘った。二度も しょけい

けん

処刑されそうになったけれど、二度とも泣いたり喚いたりしなかった。必要とあらば、い つだって〝勇者の剣〟を引き抜いて││ さず

 ふと、気がついた。いちばん最初に〝おためしのどうくつ〟で試練を受け、四神将から よっ

四つの力を授かったとき以来、ワタルは現世のワタルとは違う人間になったのではないか。

81

ゆうかん

それでこその〝旅人〟なのだ。現世の三谷亘とは比べものにならないくらい強く、勇敢で、

あこが

知恵の働く幻界のワタルは、もし本当にそうしようと決心したのならば、その手でヒトを あや

殺めることもできるのかもしれない。

 そしてそういうワタルこそ、三谷亘がずっと憧れてきた〝勇者〟ではないのか。だから こその〝勇者の剣〟ではないのか。 あ

が よく

 ヤコムは悪しきヒトだった。リリ・ヤンヌは彼ほど悪くはないかもしれないが、それで

も身勝手で我欲の強いことでは同類だ。もしもあれが幻覚ではなく、本当に起こった出来 なや

うでわ 

事であったとしても、ワタルが悩み苦しんで自分を責める必要などないのじゃないか。 ﹁君は、ハイランダーなんだね﹂

 シン・スンシに問われて、ワタルは自分のファイアドラゴンの腕輪を見た。シン・スン びしょう

シもそれを見ていた。そして微笑した。 ﹁どこのブランチから来たの？﹂ ﹁ガサラです﹂ ﹁そうか。ずいぶん遠くから来たんだね﹂ ﹁僕みたいな子供がハイランダーなんて、おかしいですよね﹂

とうぞく

﹁そんなことはないさ。僕の生まれ故郷の村では、作物がつくれない冬のあいだには、大 で かせ

人たちはみんな出稼ぎに出てしまうのでね。老人と子供たちだけで、村を盗賊や怪物たち

82

こし

から守らなくてはならなかった。だから、村のブランチ長は腰の曲がったお年寄りだった

し、ハイランダーたちもみんな幼かった。それでも、立派に働いたものだよ﹂  シン・スンシは照れくさそうに、ぼさぼさ頭をかいてみせた。

﹁もっとも、僕ときたらてんで弱虫で、全然役に立たなかったんだけどね﹂

 陽が落ちて、小屋のなかが薄暗くなってきた。シン・スンシは立ちあがり、机の上のラ とも

ンプを灯した。やわらかな金色の灯りが部屋を照らし、ちょっと薬くさいような油の匂い が漂った。

じゅうぶん

﹁でもシンさんは、こんなところで独りで観測をして、研究をしてる。充分、勇敢じゃな いですか﹂

だま

﹁ああ、それは﹂と、シン・スンシは気弱そうに微笑した。﹁勇敢なんてこととは違うよ。 それが星読みの仕事だから、というだけさ﹂

 まだ何か言いたそうな表情で、でも急に元気がなくなって、彼は黙った。とても個人的 な心配事を思い出した││という感じだ。

 内気なヒトなんだな。あんまりいろいろ訊いたらいけないかもしれない、と思った。 ふ

 ││僕の、ファイアドラゴンの腕輪。 かわ

 指先で、赤い革に触れてみる。

 カッツは言っていた。もしもハイランダーが不正義に手を染めれば、たちまちのうちに、

83

ふう

ほのお

い ぶき

この腕輪に封じられたファイアドラゴンの炎に焼き尽くされてしまうと。そう、〝嘆きの

沼〟でジョゾに出合って、まざまざと見せてもらったじゃないか、あの炎の息吹のすさま いりょく

じいまでの威力を。

 でも、ワタルの腕輪はここにある。ということは、ワタルは何も間違ったことはしてい ないということだ。  やっぱり、あれは幻覚だったのではないか。

 いや、本当に起こった出来事でも、不正義ではなかった││正義の裁きだったのではな いか。  ││ダメだ、考えてると、頭がヘンになっちゃう。

 夢だ、夢だ、すべては夢だ。やっぱりそう思うことにしよう。だって、ヒト殺しに〝正 せんさく

とちゅう

義〟はないはずだもの。真の勇者がヒト殺しをするなんて、あってはならないことだもの。 ﹁詮索するつもりはないんだけど、君はどこへ行く途中だったの？﹂

うそ

 シン・スンシに問われて、ワタルは目をあげた。 ﹁〝嘆きの沼〟を調べていたのかい？﹂

﹁い、いえ、そうじゃないです﹂とっさに嘘をついてしまった。﹁実は僕、仲間とはぐれ てしまって﹂ こうがい

 ワタルはリリスの郊外で起こった事件について、手早く説明した。話を聞くうちに、シ

84

そうめい

かげ

ン・スンシの聡明そうな目が大きく見開かれ、やがて暗く翳っていった。

そうぐう

﹁そうか││リリスでねえ﹂彼は腕組みをして、がっくりと肩を落とした。﹁君が遭遇し

つぶや

たヒトたちが、必ずしも正しい老神教の信者であるとは言えないけれど、でも、やはりそ の種の活動が活発化しているんだな﹂ えいきょう

 バクサン博士のおっしゃったとおりだと、小さく呟く。 ていこく

﹁北の統一帝国の影響ですか？﹂

おおやけ

﹁もちろんそれもあるけれど、それ以上に、時期の問題なんだよ﹂ ﹁時期？﹂ さわ

 シン・スンシは暗い目をしたままうなずいた。﹁これはまだ公にはできないことだけれ

ど、それでも、そうだなぁ││みんながそれを知って、騒ぎが始まるまで、せいぜいあと いそが

半月ぐらいあるかどうかだし、君はハイランダーなんだから、話してもいいよね。きっと 君たちは、すごく忙しくなって大変な思いをすることだろうから﹂ 〝幻界〟には、千年ごとに、大きな危機が訪れる││という。 こんとん

﹁僕らの住むこの世界は、無限に深い混沌のなかに在る。本来、混沌のなかではすべてが

めいおう

か

無に帰して、命あるものはなにものも存在することはできないのだけれど││﹂ す

〝大いなる光の境界〟が、混沌から守ってくれているのだというのだ。 め がみ

﹁女神さまがこの世界を創世されたとき、混沌を統べる闇の冥王と盟約を交わした。千年

85

もっ

ぎ せい

ささ

に一度、幻界から冥王にヒト柱の犠牲を捧げることにしたんだ。冥王はそのヒト柱の命の

エネルギーを以て〝大いなる白き光の境界〟をつくる。それによって幻界は守られるとい みは

うきまりをつくったんだよ﹂

 ワタルは目を瞠った。﹁じゃ、さっきの〝時期の問題〟というのは││﹂

﹁そうだよ。その時が近づいているんだ。ヒト柱の犠牲によって、〝大いなる光の境界〟 が作り直される時がね﹂ ﹁なぜわかるんです？﹂

とうらい

﹁北の空に﹂と、シン・スンシは小屋の屋根の一角を指さした。﹁その時の到来を告げる まがぼし

凶星が現れるからさ。そもそも、〝星読み〟という職業ができたのは、その凶星をいち早 く発見するためだったんだ﹂ ﹁じゃ、今、シンさんには見えるんですか？ その、北の凶星が﹂ せんぱい

 シン・スンシは首をすくめた。﹁今はね。でも、自力では見つけられなかったよ。僕よ ゆうしゅう

りも優秀な先輩は、ふた月も前に、アリキタの首都の大天文台から最初の発見報告を出し ていたけれど﹂

 シン・スンシがここに小屋をつくって観測を始めたのは、バクサン博士の命令で、 こ もんじょ

﹁博士は古文書をひもといて、前回の〝光の境界の作り直し〟の時期に、ちょうどこのあ

たりで初期の観測報告が出されているという記録を見つけられた。そのときの座標もわかっ

86

は けん

た。それで僕をここに派遣されたんだ﹂  それで、一年以上も前からここに籠もっているのだというのだ。 ﹁そんなに前から││﹂ しか

きざ

﹁でも、僕ときたらやっと十日ほど前に、ひょっとしたらあれがそうじゃないかという兆

つら

こ どく

しを見つけることができたところなんだ。博士には叱られてしまったよ﹂  と、シン・スンシはまた小さくなった。 ﹁だけど、そんな、ヒト柱だなんて﹂ ざんこく

 あまりにも残酷じゃないか。 ﹁そのヒトは死ぬんでしょう？﹂ すべ

﹁いいや、死にはしない。だが、死よりももっと辛い、孤独な不死を得る﹂ おか

 次の〝作り直し〟の時期がくるまで、冥王の臣下となり、世の全ての生きるものの営み え がお

か い 

を目の下に見て、それらが混沌に侵されることがないように守り続ける││ にく

ねた

うば

﹁愛や友情や助け合いや、笑顔や歌声を守るだけならば、その甲斐もあるかもしれない。 みな

でもこの世には、憎しみも裏切りも妬みも、奪い合いも殺し合いも存在する。生きるもの う

は皆、そのどちらをも等しく生み出すものなのだからね﹂ いっしゅん

 一瞬、ヤコムとリリ・ヤンヌの顔が浮かんで、ワタルはぞっと寒くなった。ああ、その とおりだ。本当にそのとおりだ。

87

はばか

はな

﹁自分の欲望のままにかけずり回り、他者を傷つけて憚らない││そんなヒトたちの姿を

しの

つぶさに見たら、そんな連中のために、一人でこの世から切り離され、混沌と幻界の境界

た

が まん

となり、ヒトとしての幸せや喜びから切り離されて、千年もの時を耐え忍ばなければなら

ないなんて、バカらしいと思うかもしれないじゃないか。でも、我慢しなくてはならない

んだ。すべてを受け入れ、すべてを許す。そうでなければ〝大いなる光の境界〟は消失し、 ほろ

幻界は滅びてしまうのだから。ヒト柱となるものは、そんなにも重いものを背負わなくて はならないんだよ﹂

 ワタルは考えた。確かに、シン・スンシが言うように、争いばかりを繰り返すヒトびと を守るのも辛かろう。バカバカしく感じることだってあるだろう。

 でも、もっともっと辛いのは、ヒトびとの幸せを守ることの方じゃないのか。自分ひと こ どく

りが犠牲になり、この笑顔を守っているのだ。自分がここで孤独に耐えているから、この

ヒトたちは笑っていられるのだ。だけど、そう思う一方で、どうしたって考えるじゃない

か。どうしてこの自分なのだ？ と。どうして他のヒトではなかったのだ？ と。こんな

の不公平じゃないか、と。その嘆きを胸の内に封じながら千年もの時を耐えるなんて、ワ タルには、その方がずっとずっと我慢できないことだ。 ﹁ヒト柱は││どうやって選ばれるんですか？﹂

 シン・スンシは首を振った。﹁こればかりはわからない。古文書にも手がかりは記され

88

め

ていない。女神さまのご意志ひとつにかかっているからね。とても若いヒトが選ばれるこ ともあれば、老人が召されることもある﹂ ﹁それじゃ、本当に確率の問題なんだ！﹂ ﹁そうなんだよ﹂

 北の凶星は、北の空に現れたばかりのときには、まばゆいばかりの白い光を放つ。だが、 ふち

め

かがや

女神がいよいよヒト柱を選ぶ作業にとりかかった時から、その作業が終わって冥王がヒト

柱を混沌の淵に召す時までのあいだは、まるで血のように赤く輝くのだという。そして、

境界の作り直しが終わると、凶星はまた白い光を取り戻し、夜明けと共に消えてゆくとい う。

﹁だから僕らは、北の凶星が赤く輝く時期のことを、〝柱の時〟と呼んでいるんだ。アン つづ

カ族の古語で綴られた歴史書では、同じ意味で〝ハルネラ〟という言葉を使っているよ﹂ ﹁ハルネラ││﹂女神が犠牲者を選ぶとき。

﹁女神さまは、なぜそんな仕組みをつくったんだろう？ 残酷じゃないですか﹂

 幻界を創世するほどの力のある神ならば、ヒト柱など使わずに、自力で混沌から守って

くれればいいじゃないか。それで済む話じゃないか。あまりに無責任じゃないか。 かな

﹁やっぱり、そう思うかい？﹂シン・スンシは哀しげに目をしばしばさせた。 ﹁当然ですよ！﹂

89

あた

﹁そうだよね。そこが星読みたちのあいだでも、長年の問題とされているんだ。女神さま もてあそ

は我らに何を求めておられるのか？ なぜかような試練を与えられるのか？ 女神さまは いたずら

おもしろ

我らを徒に苦しめ、弄んでおられるだけなのではないか？﹂  神が、その創造物を弄ぶ。気まぐれに、面白がって？

﹁そして、そこがまた老神教信者たちの論点でもあるのさ。彼らは主張する││女神さま ひど

は幻界のヒトびとを愛してなどいない、愛しているならば、たとえ千年に一度であっても、 このような酷い仕打ちをするはずがないと﹂ と

 女神が幻界の生きものたちを愛していないのは、そもそも幻界が女神の創造物ではなく、 つく

老神が創ったものをかすめ盗っただけであるからだ、と。

﹁だから、〝ハルネラ〟が訪れるたびに、老神教信者たちは勢いづくんだ。そして彼らは いの

はら

祈る。今度こそ老神が我らの願いを聞き届け、再び幻界に降臨し、悪しき女神さまを追い

払ってくれることをね。それこそが、彼らの信じる〝世直し〟なのだから﹂ ていこう

 そんなふうに教えてもらうと、ワタルでさえ混乱しそうになる。過激なアンカ族至上主 り ふ じん

ひ

義と、理不尽なヒト柱の要求に対する抵抗は、〝女神を否定する〟ということでは、根を

ひとつにしているわけだ。老神教に惹かれるヒトたちが増えるのも、無理はないような気 がしてくるのが恐ろしい。

﹁シンさん。今、僕に話してくれたような事柄は、幻界では広く知られているんですか？

90

つか

 それとも、星読みのヒトたちのあいだだけの、限られた知識なんですか？﹂

 シン・スンシは疲れたように目のあいだをこすった。﹁今までは、限られた知識だった﹂ ﹁ってことは││﹂

﹁北の凶星の出現が予想される時期が来て、星読みたちの総本山であるササヤの国営天文

台では、何度となく頂上会議を開いた。それから連合政府の議会とも話し合った。そして

ついに結論が出たそうだ。昨日のダルババ屋さんは、その決定書を持ってきてくれたんだ﹂

 シン・スンシは椅子から立ちあがると、机のいちばん上の引き出しを開けて、巻物をひ とつ取り出した。

﹁これがその決定書だ。連合政府は、このような〝ハルネラ〟の知識を、南大陸のすべて

のヒトたちに向けておふれを出して、広く知らしめることに決めたそうだ﹂

 ああ、だからこそ、シン・スンシはさっき言ったのだ││ハイランダーたちは忙しくなっ て、大変なことになると。 ﹁幻界には、何千万人ものヒトびとがいる﹂ まどぎわ

 シン・スンシは、窓際に立って夜空を仰いだ。

﹁ヒト柱として選ばれるのは、そのなかのたった一人だ。だから、〝ハルネラ〟について

知らしめたにしても、それほど大きな騒ぎにはならないかもしれないという意見もある。 自分一人が選び出される確率は、すごく低いのだからね﹂

91

﹁でも、もしも選ばれてしまったら、そのヒトにとっては、自分は自分一人だけだ！﹂ワ

タルは思わず大声をだした。﹁そこには確率なんか関係ないよ！ シンさん、もしかした

らあなたが選ばれるかもしれない。そのときのことを考えてごらんよ！﹂ ﹁そうだよね⋮⋮﹂

よい

 窓の外から、夜鳴き鳥のホウ、ホウという声が小さく聞こえてくる。静かな宵だ。でも、

今この静けさのなかでも、この空のどこかに、北の凶星は現れつつあるのだ。

﹁それなら君は、〝ハルネラ〟について、ヒトびとには知らせない方がいいと思うかい？ おび

 何も知らなければ、怯えることも苦しむこともないからね。ある日ある時、どこかの町

や村から、あるヒトがふっと姿を消して、どこにもいなくなってしまう││そのヒトの家

族や身近なヒトびとは、心配して探し回り、ずっと案じ続けるだろうけれど、それも、こ

の広大な幻界のなかでは本当にささいな出来事だ。それでいいと、君は思うかい？﹂  ワタルは返事ができなかった。 かか

﹁バクサン博士は﹂と、シン・スンシは夜空を仰いだまま続けた。﹁どんなに辛いことで ふ

あっても、悪いことであっても、それが幻界のヒトびとすべてに関わる知識であるならば、

伏せておいてはいけないとおっしゃっている。ササヤの国営天文台の頂上会議では、バク

サン先生に賛成する博士たちと、〝無用の知は無用の苦しみを生むだけだ〟と主張する反

対派の博士たちとが、まっぷたつに分かれて、何日も何日も、大論争をしたそうなんだよ。

92

反対派の博士のなかには、〝ハルネラ〟について研究すること自体を禁止するべきだと言

かか

い張るヒトもいたそうだ。〝知らなければ、それは存在しないことになるのだから〟と。 君はそれでいいと思うかい？﹂

 問いかけておいて、ワタルの返事を待たず、シン・スンシは窓際で頭を抱えた。 こわ

﹁僕は怖いよ﹂と、小声で言った。﹁こんなこと、知りたくなかった。〝ハルネラ〟につ こうかい

いて詳しいことがわかればわかるほど、怖くて怖くてたまらない。バクサン博士に教わら

こい

なきゃよかった、星読みなんかにならなきゃよかったって、後悔してさえいるんだよ﹂ ゆえ

 シン・スンシがこうして話さずにいられないのも、その恐怖の故だろう。ただヒト恋し

くて、おしゃべりに飢えていただけじゃないのだ。それでもワタルがハイランダーでなかっ

たならば、彼もぐっと我慢したに違いない。子供でも、行き倒れでも、ファイアドラゴン

の腕輪を見たから、シン・スンシは自分の知っていることをしゃべらずにはいられなかっ たのだ。

いいなずけ

﹁心配なのは自分のことだけじゃない。両親のことも兄弟のことも、許嫁のことも、親し ねむ

い学友たちのことも、みんなみんな同じように気にかかる。僕の知っている誰かがヒト柱

に選ばれたらどうしよう││そう思うと、夜も眠れなくなってしまうんだ﹂  当然だ。誰だって同じようになる││

 いや、そうでもないかもしれないと、ワタルは頭の隅で思った。たとえばヤコムは？ 

93

やっかいばら

サタミがヒト柱に選ばれたら、彼女を厄介払いできたと、むしろ喜ぶのじゃないのか。ヒ

トはそういうものじゃないのか。身近なヒトたちの身を案じるのは、そのヒトたちを好い ている場合だけじゃないのか。

 ワタルだってそうだ。自分はヒト柱になるなんてごめんだ。だけどたとえば石岡だった しょうかん

ら？ あいつならオーケイじゃないのか？ あいつがミツルの招喚した魔物に襲われて姿 を消したときにも、そんなに心配しなかったじゃないか。 ﹁ごめんよ、僕ときたら取り乱して﹂  目のあたりをこすりながら、シン・スンシは振り向いた。 ﹁これだから弱虫だって言うんだ﹂ ﹁シンさんは弱虫なんかじゃないです﹂  みんな同じだと、ワタルは思った。

﹁君はもう休んだ方がいいよ。疲れたんじゃないかい？ ホントにすまなかったね﹂ だいじょうぶ

﹁大丈夫です。ねえシンさん、この梯子の上にあるのが、観測装置ですよね？﹂  シン・スンシはうなずいた。 ﹁シンさんは、あれで北の凶星を観察しているんですよね？﹂  もしできたら、僕にも見せてもらえませんかと、ワタルは頼んだ。 ﹁知識のない僕には見えないかしら﹂

94

﹁どうかな。やってみようか。北の凶星が昇ってくるのは、真夜中過ぎのことだ。その時 刻になったら、起こしてあげるよ﹂ ふ

いろど

む く 

たましい

 そして約束どおり、夜も更けてから、シン・スンシはワタルに観測装置をのぞかせてく

れた。それはまさしく精度のいい天体望遠鏡で、無数の星で彩られた夜空は、無垢な魂そ

のもののように美しかったが、熱心に教えてもらっても、ワタルには、そのなかから北の 凶星を見分けることができなかった。

95

さと

お い 

 26 サーカワの郷へ     ち そう

だいじょうぶ

た

 翌朝、質素だけれど美味しい朝食をご馳走になったところで、ワタルは発つことにした。 か ら だ

﹁まだ休んでいてもいいんだよ。身体は大丈夫かい？﹂ ﹁すっかり気分が良くなりました。ありがとう﹂ とら

に

ちが

 それでなくても、キ・キーマとミーナのことが気にかかる。彼らはどうしているだろう？ ま びょういん

 トリアンカ魔病院に囚われてはいなかったのだから、どこかへ無事に逃げ出したに違い え がお

こい

ないけれど、今どこにいるだろう。〝ハルネラ〟が近いと知った以上は、なおのこと、一 刻も早く再会したい。彼らの笑顔が恋しかった。 さと

もど

きょてん

﹁お仲間のなかにダルババ屋の水人族がいるならば﹂と、シン・スンシは言った。﹁ひょっ

としたら、サーカワの郷に戻っているかもしれないよ。とにかく彼らは郷を拠点にして南 か

大陸じゅうを駆け回っているのだし、たとえお仲間がサーカワに居なくても、一族ですぐ に居所を調べてくれるだろう﹂

 サーカワの郷もガサラも、どちらもここからは同じくらい遠いというが、 ほこ

﹁ソン村には、しょっちゅうカルラ族が取引に来ている。彼らは誇り高いだけに、ハイラ たの

ンダーが困っているから手を貸してほしいと頼めば、まず断ったりしないはずだ。カルラ

96

族なら、サーカワまでは二日ほどで連れて行ってくれるだろう。君なら、身体も軽いしね﹂

 そうだな、それだったら急いだ方がいいなと、シン・スンシは急にソワソワした。 れんぽう

﹁まもなく連邦議会が、〝ハルネラ〟についてのおふれを運んでもらうために、南大陸じゅ

やぶ

ぬ

うのカルラ族を呼び集めるだろう。その前に出発した方がいいよ﹂ し っ ち

ふ

 ソン村までは、湿地と藪のなかの道もないようなところを抜けていかねばならなかった

が、生活用品を買うために、シン・スンシが行き来しているからだろう、足で踏みしめた ヴィジョン

道ができていて、迷うことはなかった。 くさぶ 

そ まつ

せま

かた

 ソン村は、これまで〝幻界〟でワタルが通り抜けてきた町や村のなかでは、いちばん小

か ちく

さい集落だった。草葺き屋根の粗末な家が十戸ぐらい、藪を切り開いた狭い土地に肩を寄 けいしゃ

せ合っている。だが、なだらかに傾斜した山の斜面につくられた家畜牧場はその何倍も広

つ

く、細かく仕切られた囲いのなかには、ダルババやウダイばかりか、これまでワタルが見 めずら

い ねむ

やさ

まゆげ 

かく

たこともないような珍しい動物たちがたくさんいた。元気に鳴き声をあげたり、角を突き おさ

合わせたり、草をはんだり居眠りしたりしている。

 ソン村の長は、耳の長い優しい犬の顔をしていて、ふさふさの眉毛の下に隠れた小さな

目も、温かな光を宿していた。ワタルのウダイは念入りにブラシをかけてもらったのか、 毛並みがつやつやになっていた。

97

﹁カルラ族なら、ちょうど来てますぞ﹂ かざ

こうかん

 彼らはソン村に、季節変わりで抜けた飾り羽根と物々交換で、モルという小動物を仕入 そうじ 

れに来るのだそうだ。モルはネズミよりももっと小さな生きもので、カルラ族の羽根の下

に巣くう寄生虫をきれいに食べてくれる﹁掃除屋さん﹂なのだという。 は で 

﹁このように幼いハイランダーでも、ハイランダーならばハイランダーだ﹂ さ ばく

 ソン村長に引きあわされたカルラ族は、真っ赤な羽根も派手な頭飾りも、尊大な口調ま

でも、いつかねじオオカミの不帰の砂漠で助けてくれたカルラ族とそっくりだった。余計 たが

な心配だけど、彼らはどうやってお互いを見分けているんだろうと、ワタルはちょっと思っ た。

﹁そしてハイランダーに頼まれたとなれば、カルラ族たるもの断ってはカルラ族がすたる どの

というものだ。そうだな、村長殿？﹂

﹁はい、まさに﹂長耳の長はニコニコと応じた。﹁こちらはカルラ族カックウ派のトウゴ つばさ

う もう

ふる

ウトウさんとおっしゃる方じゃ。カックウ派ではいちばん速い翼をお持ちじゃから、サー カワまではアッという間だ﹂

﹁それは正確な表現ではないな、村長殿﹂トウゴウトウはそっくりかえって胸の羽毛を震

わせた。﹁私はカックウ派だけでなく、ラッカ派でもいちばん速い翼を持っておる。しか

しそれでも、アッ！ という間にサーカワの郷へ飛ぶことはできんぞ。まあ、我らカルラ

98

い

しゅうちょう

とうげせんえきだいげきは

みみせん

族の歴史を、始祖の誕生から語り始めて二代目酋長のガラ峠戦役大撃破あたりまで語るく らいの時は要るだろう！﹂ し たく

つ

ほうこう

 トウゴウトウが出発の支度をしているあいだに、村長がそっと、ワタルに耳栓をくれた。

こうしゃく

﹁モルの毛を玉に丸めたもので、これさえ耳に詰めておけば、咆哮するドラゴンの足元で あんみん

す ば 

さえも安眠できるほどじゃ。トウゴウトウさんは確かに速いが、講釈も長い。付き合って いては大変ですからな﹂ ﹁わかりました﹂ワタルは笑った。

かぎづめ

﹁あとは何を言われても生返事をしていればよろしい。ときどき、〝おお、それは素晴ら かんたん

しい！〟と、感嘆するのを忘れずに﹂

 ねじオオカミの砂漠のときと同じように、トウゴウトウの鉤爪につかまえられて空を飛 なわ

ぶのかと思っていたら、縄を編んでつくった座席みたいなものが、ちゃんとあるのだった。 トウゴウトウは、身体からそれをぶらさげるのである。 ﹁何か、僕だけ楽するみたいでスミマセン﹂ もっ

しか

﹁ハイランダーたるもの、簡単に謝ってはいかん。そも謝罪というものは、真に謝罪する

べき罪状明らかなる時に、正しい手続きを以てなすべきもので、然るに我がカルラ族の始 祖はタロ戦役の講和の折にも││﹂ り りく

 離陸前から語りが始まった。集まってきたソン村のヒトたちが見物するなか、ワタルは

99

空へ飛び立った。 かかと

ふ

 ソン村の家々の屋根が、踵のすぐ下をかすめ過ぎる。子供たちが手を振っている。ワタ

じょうしょう

ルは手を振り返し、周囲を見回した。幸い抜けるような好天で、一面の青空には切れっぱ しほどの雲もない。 かんせい

 トウゴウトウは一気に上昇し、ワタルはジェットコースターに乗ったみたいな気分で、 思わず歓声をあげた。

なげ

 山が、丘が、野原が、小川が森が、美しい幻界の自然が、ワタルの目の下、視界の届く ぬま

ただよ

きり

限り、いっぱいに広がっている。方向の見当をつけて身をよじると、左手後ろに〝嘆きの

がた

沼〟の黒光りする水面が見えた。湿地に漂う霧も見えた。すると沼のさらに後方に、ほん いっしゅん

の一瞬ちらりとよぎったあの町は、きっとティアズヘヴンだ。

 空を飛ぶと寒いからと、村長が貸してくれた綿入れみたいな上着が有り難かった。ホン こご

トに上空の空気は冷たく、しかも風を切って進むからなおさら凍える。 こ

と

 見知らぬ山の中腹を飛びすぎ、村をひとつ飛び越し、川を越える。村長の話では、トウ す

おそ

ゴウトウさんは張り切っているから、きっと宿には泊まらず、たまに小休止をとるだけで、 ま

真っ直ぐサーカワへ飛ぶだろう、それでも今夜遅くまでかかるから、居眠りするなら座席 から落ちないようにということだった。

100

 ││これじゃ眠ってなんかいられないよ。 おど

 怖いからではない。景色に目を奪われて、心が躍ってしまうからだ。

かいどう

 最初の小休止で降りたのは、アリキタとボグの国境の関所だった。街道沿いに、行商人

たちが集まっている茶屋があり、あたりにはバクワの木がたくさんはえていた。通関手続

きの順番を待っているあいだに、食べすぎるとおなかをこわすこの赤い実の、小さめのを 選んでひとつだけ食べた。

﹁地図は頭に入っているか？ 我々が今どこを飛んでいるかわかっているか？﹂翼を休め たず

ながらトウゴウトウが尋ねた。

﹁それが、全然﹂ワタルは正直に言った。﹁でも、すごく気持ちがいいです！﹂

﹁ハイランダーたるもの、観光気分で喜んでいてはいかん﹂と、トウゴウトウはそっくり

かえった。﹁我らは風に乗り、ソン村からまっすぐ西に飛んできた。サーカワを目指すの

だから、ここからは北へ針路を取ることになる。サーカワはボグの海沿いにある郷だから な。それでいいのだな？﹂ りょうしょう

 ワタルは了承し、お願いした。

﹁ところでここから飛び立つと、北に頭を向ける前に、上昇気流に乗るカンケイで、ほん とうたつ

の一時だが、今まででいちばん高いところまで到達する。一瞬だが、アンドア台地の一部 おお

が見えるかもしれぬ。一年じゅう、霧と雲で覆われ、道など一筋もなく、足で登っては、

101

み とう

あおむ 

うた

けっして見ることかなわぬ未踏の台地だ﹂  誇らしげに、トウゴウトウは仰向いて謳いあげた。 へんりん

め がみ

おんちょう

たけ

﹁その片鱗でも見物することができるのは、ハイランダーとしては見聞を広める良い機会

ではないか？ おお、全能の女神さまの恩寵、我らカルラ族の剛き翼よ！﹂

じょうきげん

 アンドア台地。デラ・ルベシ特別自治州のあるところ。そこもまた、老神教の信者たち が集まっているであろう秘密の土地。 ﹁おお、素晴らしい！﹂

ゆうべん

うそ

 ワタルは本気で言ったのである。トウゴウトウも上機嫌だ。通関手続きが終わると、早々 に出発した。 あや

 トウゴウトウはとても雄弁であるだけでなく、口にすることにはまったく嘘がなかった。 すご

か

のぼ

しんく 

くう

今度の離陸は凄かった。気合いの入った急上昇で、ワタルは危うく振り落とされてしまう えが

ところだった。 ら せん

とつぜん

 螺旋を描いて空に駆け昇ってゆく。耳栓をしていても、トウゴウトウの真紅の翼が空を ひび

切る音が、身体全体に響いてくる。昇って、昇って、白い霧を突き抜け雲を破り、突然身

体が座席ごとフワリと持ちあがったところで、ワタルは自分たちがこれまででいちばん高 い空の上にいることを知った。

 それはもう、飛行機の窓から下をのぞくのと変わりがなかった。関所の建物がマッチ箱

102

みりょう

はる

こしょう

のように見える。こんもりとした森はブロッコリーみたいだ。足の下に広がるパノラマは、

ワタルを魅了した。一面の緑と大地の色。そして、遠く遥かに散らばる町。点在する湖沼 はまるで手鏡。絹糸のような川の流れ。

さけ

 トウゴウトウが何か言ったので、ワタルは耳栓を外した。 ﹁ハイランダーよ、あれがアンドア台地だ！﹂ か

いただ

 くちばしの先を南の方向へよじって、トウゴウトウは叫んでいた。

﹁おお、今は雲が切れている！ 彼の地の頂きに雪が積もっているのが見えよう！﹂ とう

せんさい

 ワタルは見た。まるで純白の塔のように立ちあがる雲の中央に、ひときわ高く突き出た いろど

ころも

灰色の台地を。その側面を彩る無数の白く繊細な輝きは、きっと氷河であるに違いない。

 台地の頂きは、確かにうっすらと白い衣をかぶっていた。雲の切れ目はごく狭く、しか ゆ

せつな 

せんとう

も絶え間なく揺れ動いている。だからアンドア台地の頂を目にすることができたのは、ほ

ひ

んの一瞬のことだった。それでもその刹那に、ワタルはそこに、光る建物の尖塔を見た。 すいしょう

ひとつではない。いくつもいくつも立ち並び、雲の切れ間を通って差し込む陽を受けて、 にじいろ

キラキラとワタルの目を射抜いた。ガラスか、水晶か。それとも氷でできているのか。雲 の結晶をはじいて虹色に輝く。

 デラ・ルベシ特別自治州は、本当にあんなところにあるというのか。 ﹁北への気流に乗るぞ！ しっかりとつかまっておれ！﹂

103

だんがん

 トウゴウトウがひと声合図して、大きく翼をはためかせた。とたんに、ワタルの足元の

景色が流れた。強い気流を受けたトウゴウトウは、まるで弾丸のように空を切って進み始 めた。

 アンドア台地と雲の塔が、ぐんぐん遠くなってゆく。ワタルはそれでも、できるだけ長 たた

はな

いこと、飛び去る台地に向かって身をよじっていた。冷たいのを通り越し、痛いほどの風 ほお

が頬を叩いても、雲の塔が見えなくなるまで、どうしても目を離すことができなかった。  あれは││あれはまるで││  神々の住まいだ。 わ

 心に、自分でも意外な考えが湧いてきた。

 あれが、運命の塔ではないのか。女神はあそこにいるのではないのか。幻界のヒトびと

は誰も訪れたことがないという運命の塔は、実はアンドア台地にこそ存在するのではない よう

のか。デラ・ルベシ特別自治州のヒトびとが、幻界の下界のヒトびとと交流しないのは、

かいま  み

実は彼らが古くからの老神教の信者集団などではなく、女神を擁し守るヒトびとだからな のではないか。

 自分は今、それを垣間見たのではないか。あれこそが、目的の地ではないのか。

 感動に打たれて、ワタルはかなり長いあいだぼうっとしていた。耳栓などなくても、身 さわ

体の内の血と心が騒ぐ音以外、何も聞こえはしなかった。

104

かたむ

よいやみ

せま

 時おり小休止をとりながらも、トウゴウトウは疲れた様子さえ見せず、北へ、北へと飛

んでいった。陽が傾き、宵闇が迫るころになって、遥か前方に海が見えてきた。

 そのころにはずいぶんと下降していたので、ワタルは仰向いて、さほど大きな声も出さ ずに、トウゴウトウに話しかけることができた。 ﹁あの海が、南大陸の周りを囲んでいる海ですか？﹂ ﹁そのとおりだ！﹂トウゴウトウは答えた。

﹁じゃ、あの海の向こうが北大陸なんですね。トウゴウトウさんは、北大陸まで飛んだこ とはありますか？﹂

﹁おお、とんでもない！﹂トウゴウトウが身を震わせたので、ワタルはちょっと揺れた。 あわてて座席につかまった。 へだ

﹁ハイランダーよ、おまえは知らないのか？ 南北の大陸を隔てる海の中心には、〝針の 霧〟が立ちこめているのだ！﹂ ﹁針の霧？﹂ な じ 

まがまが

﹁そうだ。おまえが今日目にした南大陸の中心、アンドア台地を包んでいる雲や霧とはまっ えいり 

とが

たく違う、我々が馴染んだものとはまったく違う、恐ろしく禍々しい死の霧だ！﹂ つぶ

 その霧の粒のひとつひとつが、さながら鋭利な短剣のように尖っていて、そこを飛ぶも のは皆、血を流して命を落とすという。

105

さ

くっきょう

よろい

﹁いくら我らカルラ族の翼が強くとも、無数の針で刺されていては、いくらも飛び続ける

ぞくせ 

さ

ことはできぬ。あんなところを飛んでゆけるのは、屈強なウロコの鎧で身を固めたドラゴ ただよ

ン族の戦士ぐらいなものだろう！ 実際、この世界でも数少ないドラゴン族は、俗世を避

けて、針の霧のなかを漂う海の小島に暮らしていると言われている。だから、我らもめっ たに彼らと出会うことはないのだ﹂ ふ

 ワタルはズボンのポケットに手を入れて、そこに大事にしまいこんであるジョゾの赤い ウロコの一枚に触れた。

 では、ワタルがジョゾに出会ったのは、本当に運の良い、貴重な体験だったのだ。 かざぶね

﹁商人たちの風船は、女神さまの恩寵の風を受けて北と南を行き来するが、それでも時に、 かじ

思いもかけぬほど低いところまで〝針の霧〟が降りてきて、立ち往生することがある。 ほ

〝針の霧〟が立ち去るまでは、船員たちも皆、帆をたたみ舵を離れて船室に隠れていなけ

しず

れば、たちまちのうちに血を流してもだえ死ぬことになるからな！﹂ おとず

 やがてすっぽりと夜が訪れ、星々がまたたき始めた。地上は闇に沈んでしまった。ワタ えり

つか

ルは夜風に震え、綿入れみたいな上着の襟をかきあわせた。

 それからどれくらい飛んだろう。さすがに疲れて座席にもたれていた。が、そのうちに、

し

左前方の地上に、その星々にもまがうほどたくさんの光の粒が、小さな円を描いて敷き詰

められているのを見つけて、目をパチパチさせた。幻界の夜景だ。きれいだなぁ！

106

﹁あれが、ボグの首都ランカである！﹂  ミーナが住んでいた町だ。

﹁サーカワもこの近くだ。少し北東の方向になるが、もうそろそろ見えて来るだろう。商 とも

都ランカは夜中でも明かりを絶やさぬから、暗闇のなかでもああしてよく見えるが、サー あか

カワの水人たちは夜目がきくのでな、無駄な灯りは灯さん。だから空からは見つけにくい だろう﹂ にお

 ランカの夜景を左手に、トウゴウトウは翼を東へと切り返した。さらに下降する。頬を な

撫でる風に潮の匂いが混じってきた。 い   ぜ んおとろ

はまべ 

 うとうとしかけたワタルに、トウゴウトウの依然衰えぬ元気な声が呼びかけてきた。 ﹁ハイランダーよ、サーカワの郷だ！﹂ くだ

 座席から身を乗り出しても、最初は暗闇しか見えなかった。やがて、足元を浜辺が通過

つる

した。夜目にも白く、波が砕けている。トウゴウトウは一度海の上に出て、そこでぐるり と旋回すると、スピードを落としてなだらかに下降してゆく。 はり

 そう、町だ。草で葺いた屋根が見える。建物の梁が見える。ところどころに吊された看 板みたいなものも見える。ダルババたちが囲いのなかにいる。

107

 27 再会     かべ

すだれ

 水人たちが路上にいる。ダルババの世話をしている。建物には壁らしい壁がなく、簾の

ようなものがさがっているだけだ。それを持ちあげて、そこからも水人たちが顔を出す。 つ

ふ

海辺にも同じような建物が立ち並び、ベランダは海の上に突き出していて、そこでは水人 たちがテーブルを囲んでいる。 ﹁おーい、カルラ族が来たぞ！﹂ さけ

 下で水人の一人が叫んでいる。 ﹁お客を乗せてるぞう！﹂ はまべ 

 わらわらと集まって出てきた水人たちが、トウゴウトウに向かって手を振り、

くだ

いそ

こ

﹁西の浜辺に降りろやーい！﹂と、声を張りあげて指示を飛ばした。 ﹁承知した！﹂ なみがしら

 トウゴウトウは返事をして、白い波頭が砕ける磯を飛び越し、ごつごつした岩を越えて、

白い砂がなだらかに広がり、波が静かにうち寄せる浜辺へと下降していった。 はな

﹁ではハイランダーよ、足がついたら座席から離れるのだ！ ぐずぐずしていると、私が おまえの上に降りてしまうぞ！﹂

108

なみしぶき

いっしゅん

 ワタルの顔に、波飛沫がちょっとかかった。砂浜に足が一瞬こすれた。それからふわり あざ

やさ

と両足が着き、ワタルはタイミングよくジャンプして、ころりと横に転がった。そのすぐ わき

こ もりうた

脇に、トウゴウトウが鮮やかに着地した。 かんたん

 ザザザ、ザザザ││夜の海の波が、子守歌のように優しい音をたてている。 つばさ

か

﹁おお、速かったな！﹂と、トウゴウトウは翼をたたみながら感嘆の声をあげた。﹁良い 旅であった！﹂ ﹁うん、本当にありがとう﹂ いそ

は

 磯の方からこちらに向かって、水人族たちが大勢駆け寄ってくる。その群のなかから、 か ら だ

ふ

ひときわ大きな身体の水人がひとり飛び出し、飛んだり跳ねたりしながら、ちぎれるほど に手を振り始めた。 ﹁おーい、おーい！﹂

 声が耳に届く前に、ワタルにもわかった。砂を踏んで駆け出す。ずっと座ったきりだっ しび

たから、足が痺れたみたいになって、うまく駆けられない。前のめりになったり手をつい たりしながら、それでも力いっぱいに声を張りあげて呼びかけた。 ﹁キ・キーマ！﹂ ﹁ワタル！ ワタルだな？﹂

 駆け寄ってくるキ・キーマに、ワタルはジャンプして飛びついた。大男の水人は苦もな

109

りょううで

くワタルを受け止めると、両腕を差しあげて、頭の上まで持ちあげて、ぐるぐる回った。

なつ

﹁本当にワタルだ！ 夢じゃないぞ！ 俺の幸運の旅人だ！ やっぱり無事だった！ ゼッ だいじょうぶ

かた

タイに大丈夫だって信じてたんだ！﹂

 キ・キーマの肩の上から、ワタルは駆け寄ってくるもうひとつの懐かしい顔を見た。 ﹁ミーナ！﹂ たが

 話したいこと、聞きたいことは、お互いに山ほどあった。 しきもの

うわが 

うつわ

 キ・キーマの住まいは、水辺に土台柱を張り出した小ぎれいな小屋で、屋根は大きな草 ふ

む

う ち わ

の葉で葺いてあった。シュロに似たその葉は、敷物にも上掛けにも、食べ物の器としても

使われていた。さらには、蒸し暑い日中には団扇のかわりにもなった。 ま びょういん

さか

 三人は波の音の聞こえるその小屋で、あのトリアンカ魔病院ではぐれて以来の出来事を くだもの

語り合った。一方では、キ・キーマの近所のヒトたちや、親しい仲間たちが盛んに出入り う

こう

しては、よく熟れてとろけるように甘い果物や、一人では持ちあげられないほど大きな肉 お い 

の丸焼きや、香ばしく焼いた魚や、木をくりぬいて作った器に満たした、ほんのりと甘く 美味しい水などを運んできてくれた。

 お互いの話を突き合わせてみると、キ・キーマとミーナは、ワタルが連れ去られたあと、 もど

そう時間をおかずに意識を取り戻したようだった。

110

や じり

﹁俺は身体がでかいから、あの矢の矢尻にちょっぴりつけてあった程度の痺れ薬じゃ、長 くは効かなかったんだな﹂ ﹁わたしは、矢がかすっただけだったし﹂

 それでもミーナは、歩き回れるようになったあとも、しばらくのあいだは舌やくちびる ま ひ 

が麻痺したようになっていたそうである。 ﹁目が覚めたら、ワタルが消えていたんで、ミーナが泣きだしてさ﹂  キ・キーマが冷やかすように言うと、ミーナは真っ赤になった。 ﹁大げさなこと言わないでよ﹂ ﹁え？ ホントのことじゃねえか﹂ ﹁泣いたりなんかしなかったわよ。ただ、心配だったから﹂ ﹁僕も二人のことが心配だったよ。早く会いたかった﹂  えへへと、三人で照れ笑いをした。

いっしょうけ ん め い

﹁それで俺たち、スラの森で迷っちまってね。あの木の魔力のせいだろうけど、一生懸命

歩いているのに、気がつくと同じ場所をグルグル回っているだけなんだ。病院の建物が見 えているのに、どうやっても近づくことができなかったんだ﹂

﹁そのうちに頭がフラフラしてきて、キ・キーマが二人いるみたいに見えたり、歌声みた いなものが聞こえてきたり﹂

111

こっけい

﹁ミーナの顔が、こーんなにひん曲がって見えてきたりするしさ﹂

ゆが

 キ・キーマは、大きな両手で自分の顔をひっぱり、滑稽なふうに歪めてみせた。ワタル は

せ り ふ

は大笑いをしたけれど、心の底ではゾッと寒くなっていた。矢を射かけてきた連中が、ワ タルを連れ去るときに吐いた台詞を覚えていたからだ。  ││放っておいても、森が始末してくれる。 つか

たつまき

じょう

﹁本当に危ないところだったよ。あのままだったら、俺もミーナもスラの森の魔力にあて とつぜん

られて、疲れ果てて動けなくなって、あのまま死んじまうところだった﹂ さまよ 

 だが、足を引きずりながら森のなかを彷徨っているうちに、突然大きな竜巻が来て、状 きょう

はし

け ち 

況はいっぺんに変わったのだ。 おおあわ

ほ

かく

かぎづめ

﹁あの竜巻が、森を端から蹴散らしてくれた。こいつは天の助けだって思ったね。だから、 ふ

ほこ

吹き飛ばされないように、大慌てで地面に穴を掘ってさ、隠れたんだ﹂キ・キーマは鉤爪 のついた手を誇らしげに振ってみせた。

﹁それで、はっと気がついたら、森じゅうの木がみんなへし折られて、葉っぱも散って、

はいきょ

夜空に星がいっぱい見えたの。見晴らしが開けたので、病院の建物も全部見えるようになっ

ていたけれど、さっきまで見ていたのとは違って、まるっきりの廃墟になっていたんでビッ クリしちゃった﹂  もちろんそれは、ミツルの呼んだあの竜巻である。

112

いっしょ

け が 

﹁ミーナと一緒に大急ぎで病院の廃墟へ行ってみたんだけど、やっぱり竜巻でめちゃくちゃ に

こわ

になっててさ、怪我して動けなくなってるヒトも大勢いたよ。で、連中はみんな、俺たち えら

やつ

つか

えりくび

を見ると逃げようとするんだ。なんだかやたら怖がっててさ。だからしょうがない、なん か偉そうなローブを着た奴を一人捕まえてよ﹂ すご

﹁凄かったのよぉ、キ・キーマったら、そのヒトの襟首をつかんで持ちあげちゃったんだ から﹂

 おまえらは何者だ、オレたちに毒矢を射かけたのもおまえたちか、おまえたち、男の子 を一人ここにさらってこなかったか。

 そのローブのヒトが、しどろもどろに説明をしたので、やっとこさ、二人はワタルがあ

き

の病院にいたことを知った。病院にたむろしていた連中が、過激な老神教徒たちであるこ とも知った。

﹁男の子はどこへ行ったって訊いたら、竜巻に巻かれて、高く高く飛ばされていったって いうじゃないか。俺はもう目の前が真っ暗になったよ﹂ さと

つら

 とりあえずサーカワの郷に戻り、水人族たちの手を借りてワタルを探そう。今はそれし

か手がないと決断するまで、二人とも本当にがっくりと悲しくて、辛かった。でも、一瞬 たりとも、ワタルの無事を疑ったことはなかったと言った。 め がみ

﹁女神さまの加護を受けた〝旅人〟なんだからな。そう簡単に死んだりするもんか！﹂

113

うれ

なみだ

 ワタルはしみじみと嬉しくて、心が温かくなって、目に涙がにじんだ。照れくさくて、

手でごしごしこすってごまかしたけど、本当は手放しで﹁ありがとう﹂と泣きたいくらい ふる

に心が震えていた。 ﹁それにしても、ワタルのお友達は、すごい魔法使いになったのね﹂ り り 

 ミーナが、きかん気の強い男の子みたいに凛々しい顔をすると、しっぽの先をひょこひょ こ動かしながら言った。

﹁竜巻を呼ぶなんて││風の大魔法だわ。最高位の魔導士でなければ唱えることのできな じゅもん

い呪文よ﹂ ち え 

ほほえ 

すみ

﹁やっぱり〝旅人〟だってことさ。知恵と勇気があるってことさ。ワタルだって同じだよ﹂

 キ・キーマが自分のことのように誇らしげに言った。ワタルは微笑んだけれど、頭の隅 なげ

ぬま

にある出来事がよぎって、その微笑みがこわばってしまった。

 嘆きの沼で起こった出来事については、二人には話していない。そこだけは話せなくて、 はぶ

ののし

省いてしまったのだ。だって、どうして言えよう？ 僕はヒトを殺したんだよ。二人も殺 ぼう

しょうき

したんだよ。石の赤ん坊に指さされ、血も涙もないヒト殺しだと罵られ、追いかけられて、 あわてて逃げ出したんだ││ げんかく

 いや、あれは幻覚だ。嘆きの沼の瘴気にあてられて、悪い夢を見ただけだ。真実じゃな

い。本当に起こった出来事じゃない。ティアズヘヴンに戻って確かめれば、すぐにわかる

114

しず

ほとり

うぶぎ 

ことだ。リリ・ヤンヌは、今も嘆きの沼の畔で黒い産着を編んでいることだろう。サタミ

かたく

は悲しみにうち沈み、サラは父親の帰りを待ち続け、しかしヤコムは妻と子を捨てて、暗 かせ

黒の水を売って稼いだ金で、リリ・ヤンヌと新しい人生を築くのだと、頑なに思いながら 荷車を走らせていることだろう。 ﹁ワタル、どうしたんだい？﹂ そろ

 呼びかけられて、ワタルははっと我に返った。﹁ううん、何でもない﹂

﹁とんだ道草をくっちまったけど、やっと三人揃ったんだし、二番目の宝玉を探さなくちゃ なが

な。でも、あわてることもないぜ。海を眺めて、しばらくゆっくりしてもいい。ここにい たよ

ても、手がかりは集められるかもしれないし﹂

﹁大陸をまたにかける水人族の目と耳を頼って、ね﹂と、ミーナが笑った。

﹁えへん、そうさ！ ワタル、サーカワの郷はどうだい？ 割といいところだろ？﹂

たまわ

﹁うん。海もきれいだし、食べ物も水も美味しいし、みんな親切で、明るくて活気があっ て﹂ めぐ

﹁だろう？ サーカワの郷の美しさと、海の恵みは、女神さまからの賜り物だ。だからオ

レたちは、一生懸命に働いて、お返しするんだよ。働きものってことについちゃ、水人族 あ

は、南大陸で一番だ﹂と、キ・キーマは胸を張った。 くに じ   ま ん

﹁キ・キーマのお国自慢は聞き飽きてたけど、でも、自慢するだけのことはあるわね﹂

115

 明るく笑う二人の顔を見ていると、本当に楽しくて幸せだったけれど、ワタルは、この

平和で活気に満ちたサーカワの郷にも、もうまもなく、笑い事ではない知らせが飛び込ん しょうしゅう

でくることを思い出して、切なくなった。

 連邦政府議会は、もうカルラ族に召集をかけたろうか。それとも、すでにもう国じゅう

ぎ せい

のあらゆる町、集落に向かって、あの赤い翼たちが飛び立った後だろうか。ここにはいつ ま

ヴィジョン

ごろ舞い降りてくるだろう。 おそ

り ふ じん

〝幻界〟を守る〝大いなる光の境界〟を作り直すために、犠牲となるヒト柱。星読みのシ じゅうぶん

いか

ン・スンシから話を聞いた時も、充分に恐ろしく、理不尽な話だと思った。でも、大切な きょうふ

だま

仲間たちの顔を間近に見ている今は、恐怖を通り越して怒りさえも感じる。もしもキ・キー

マが、ミーナがヒト柱に選ばれたら？ そんなこと、ワタルにはけっして許せない。黙っ

て見ているわけにはいかない。たとえ、本人たちが進んでその立場を受け入れると言った としても、ワタルには認められない。 かたむ

たず

かがや

まぶ

 いずれわかることとしても、今はまだ、二人にはこのことを言いたくなかった。口を閉 つら

じて、寄せては返す波の音に耳を傾けた。何か尋ねられたら、輝く海が眩しくて、しかめっ 面みたいになっちゃうんだよと言っておこう││ ちか

ざんこく

 道はただひとつだ。ワタルはあらためて心に誓った。のんびりしてはいられない。でき とう

る限り早く運命の塔にたどり着くのだ。そして女神に会って、ヒト柱などという残酷なし

116

こうかい

たの

こんとん

ま ちが

す

やみ

めいおう

けいやく

きたりを止めてもらうように頼むのだ。混沌を統べる闇の冥王との契約だと？ 契約なら、

結び直せばいい。更改すればいいのだ。間違っていることは、あらためなければならない。 うった

えん

一生懸命に頼めば、心の底から訴えれば、きっと女神だって聞き届けてくださるだろう。 そうでなかったら、神様なんかじゃない。 ち そう

つぼ

 その晩は、サーカワの郷じゅうの水人たちが長老の住まいに集まり、ワタルのための宴 かい

会を開いてくれた。またまたたくさんのご馳走が並べられ、お酒の壺もいくつも運び込ま

れ、いくら広い長老の住まいでも、町のヒトたち全部は入りきらず、外の階段や地面にま にぎ

で大勢座り込んで、それはもうクラクラするほど賑やかだった。もっとも、そのクラクラ お じ 

お ば 

は、水人族たちの好む強いお酒のせいもあったかもしれない。ワタルには飲ませちゃいけ すす

うつしよ

ないと、キ・キーマが止めてくれたのだけれど、水人族の小父さんたち小母さんたちが、 ぱい

一杯ぐらいならいいじゃないかと、みんなして勧めるのだ。 はだ

ねんれい

お

 サーカワの長老は、キ・キーマの話だと﹁四百二十歳﹂ということだけれど、現世のト かた

カゲに似た硬いウロコと、つるつるした水人族の肌からは、年齢を推し量るのが難しい。 い げん

ただ、とても威厳のある顔つきだ。

 集まったヒトびとが、ワタルの旅の様子とか、現世から初めて幻界に来たときに受けた

試練のこととか、〝旅人〟であるのはどんな気持ちかとか、様々な問いを投げて話を聞き

う

たがるなかで、長老は座の中央に静かに座って、口元にかすかな笑みを浮かべているだけ

117

おだ

ため

で、何も言わなかった。その穏やかな視線に、ワタルは何か、試されているように、測ら

れているように感じないでもなかった。そして、長老の心にあるその問いかけが、どうい かんたい

こうがい

どうくつ

ぼうけん

う内容のものであるにしろ、この温かい歓待の場では、けっして投げかけられることはな いだろうということもわかった。 ぜ

おそ

 キ・キーマも質問攻めにあって、ガサラ郊外の地下洞窟での冒険や、リリスの町の賑わ おおいそが

こ

いや、あの町の秘密や、スラの森で襲われたことなどを、身振り手振りで説明し、ミーナ

わ

にも言葉を足してもらって、大忙しだ。ミーナは請われて一曲歌い、そのはずむような明 はくしゅ

るい歌声に、宴席はまた大いに盛りあがった。歌が終わると拍手が湧き、もう一曲、もう めんもくやくじょ

ひ ろう

一曲！ と望まれてまた一曲。ミーナは、エアロガ・エレオノラ・スペクタクルマシン団

の花形の面目躍如というところで、水人たちもよく知っているという歌を披露して、これ おど

にはみんな輪をかけて大喜び！ 手を打ち足を踏み鳴らして踊りながら、一緒になって歌

ゆか

い始めた。ワタルもその輪に混じってしまい、飛んだり跳ねたりする水人たちと手をつな

ひそ

よ

ぎあっていると、さらにお酒が回ってきて、本当に頭がクラクラ、歌が終わるころには床 にのびてしまいそうになった。 ﹁大丈夫かい？ ワタル﹂ ﹁あんまり大丈夫じゃないみたい﹂ たる

 ガサラの町で、お酒の樽のそばに潜んでいて酔っぱらっちゃったときと同じだ。

118

さ

﹁ちょっと浜辺を散歩してくる。風にあたれば醒めるかも﹂

く

か

 手すりにつかまってよろよろと小屋の前の階段を降りて、賑やかに酒を酌み交わしてい ぬ

る外の水人たちのあいだを抜け、ワタルは白い砂浜に出た。一人になると、とたんにほっ な

と気が抜けて、すとんとお尻をついてしまった。 ほお

ちりば

 さやさやと海風が頬を撫でる。夜空は少しも暗くなく、天のテーブルいっぱいに広げた あいいろ

かんしょく

ここち 

かな

深い藍色の布のように見える。きらめく星ぼしは、そこに鏤められた金銀の砂だ。身体の

ね ころ

なが

両脇に手をつくと、砂の感触が心地よい。うち寄せては引いてゆく波が奏でる調べは、子 守歌のように優しい。 あお

 この美しい幻界。ワタルは両手両足を広げて、大の字に寝転がった。座って眺めていた

あいせつ

ふる

ささや

ときよりも、こうして仰ぎ見る方が、夜空がぐっと近く見える。天界が、手をのばせば届 くところにあるようだ。  また、ミーナの歌声が聞こえてきた。 ゆる

 今度は緩い曲調のバラードだ。甘やかなミーナの声が、哀切な震えを帯びて、波の囁き に同調する。 いと

 愛しいヒトよ 遠く離れて  あなたは今 どの空の下

119

き

 歌詞が聞き取れる。水人たちも、今度は静かに聴き入っているのだろう。 おも

 わたしの歌を あなたへの想いを  どの風に乗せれば 届くのでしょう  風よ 教えておくれ  あのヒトは今どこにいるの  風よ 教えておくれ  あのヒトが見あげる星を  この耳を白い貝にして

きょり 

こい

 夜明けまで 待っているから へだ

 二人を隔てる距離を嘆く恋の歌だ。それともこの歌の主は、片思いなのだろうか。半ば

目をつぶってうとうとしながら、ミーナの声に心を撫でてもらえる幸せ││ かたわ

﹁ワタル﹂  すぐ傍らで、甘い声がした。 ﹁ワタルってば、寝ているの？﹂

 ワタルは目を開いた。これはミーナではない。ミーナの歌声はまだ続いている。別の甘

120

い声だ。

 ワタルはがばりと起きあがった。背中についた砂がさらさらと落ちる。周囲を見回して だれ

も、誰も見あたらない。白い砂は、それ自体が光をもっているようにほの白く光っていて、 遠くまでよく見通せるのに。

﹁あたしのこと、探してるの？ だったらやめて。どうせ見つけられやしないわ﹂甘い声

は続けて言った。﹁あたし、今はまだあなたに、この姿を見られたくないの。だから隠れ ているのよ﹂ な じ 

 この声は、そう、現世にいるときからお馴染みの、あの女の子の声じゃないか。ワタル ようせい

の〝妖精〟だ。 ﹁君は││スラの森の、あの魔病院のとき以来だね﹂

 閉じこめられている部屋で、呼びかけてきてくれた。だが、甘い声はちょっと笑った。

﹁アラ、その後にも話したわよ。忘れちゃったの？ 嘆きの沼で倒れているところを、あ ねむ

の気弱そうな星読みに助けてもらったでしょ？ あのとき、眠っているあなたの夢のなか くも

で、あたしが話しかけたの覚えてない？﹂

 ぼんやりと曇った頭にむち打って、ワタルは思い出そうとしてみた。何だかはっきりし

なかった。夢││気がついたらシン・スンシが心配そうにのぞきこんでいた││

き げん

﹁冷たいのね。まあ、いいわ。こうしてまた会えたから﹂甘い声は機嫌が良かった。

121

﹁ごめんね。僕、あのときは嘆きの沼の毒にやられちゃってたから、幻覚を見たりして﹂ ﹁まあ、あれは幻覚なんかじゃないわよ。ホントにあったことよ﹂

 ワタルはぎくりとした。背中の骨がポキリと鳴るほどに、身体がこわばった。え？ 今 なんて言った？ 幻覚じゃないって？ ﹁あ、あ、あの、君││﹂

﹁いいのよ、あんなことはもうどうでもいいの。それよりワタル、あなたこれからどうす るつもり？﹂ ﹁どうするって？﹂

﹁女神さまに会って、ヒト柱をやめてもらうように頼むつもりなんでしょ？ そんなこと、 本当にできると思ってるの？﹂ みは

 ワタルは目を瞠り、砂の上で座り直した。﹁君、どうしてそんなことがわかるの？﹂

﹁あなたの考えぐらい、お見通しよ﹂うふんと鼻を鳴らすように笑って、甘い声は続けた。

﹁だから心配してるの。あなたねえ、それがどういうことかわかってるの？ 自分が何を しようとしてるのか、自覚してる？﹂ ﹁自覚って？﹂

﹁女神さまに会って、ヒト柱をやめてくれって頼むのは、そりゃあなたの自由よ。女神さ

まは、自力で道を探し出し、運命の塔にたどり着いた〝旅人〟の願いをかなえる。それも

122

みっ

また古くからの約束なんだから。だけどねワタル、忘れてない？ 女神さまがかなえてく

れる〝旅人〟の願いは、たったひとつだけなのよ。ふたつも三つも聞いてくれるわけじゃ

ないのよ。ヒト柱をやめてくださいって願っちゃったら、あなたはもう、自分の運命を変 ゆ

えることはできないのよ？ そしたら、幻界に来た意味がなくなっちゃうじゃない﹂ かみ

 頬を撫で髪を揺らす穏やかな海風が、急に冷たくなった。音をたてて、ひゅうっと体温 が下がるのを感じた。  そうだ││女神への願いは、一度にひとつだけ。 のど

﹁どうやら、目が覚めたみたいね﹂満足そうに喉を鳴らして、甘い声は言った。﹁あなたっ ひとよ 

て、ホントにお人好しなんだから。幻界の連中たちのことなんか、どうでもいいじゃない

とら

の。あなたはいずれ、現世に帰る。そしたら、こっちのヒトたちとは、二度と会うことも だ

ないのよ。誰がヒト柱に選ばれようが、あなたには関係のないことじゃないの﹂

 ワタルは両腕で身体を抱いた。何てことだ││そうだ、そうなのだ。幻界の旅に心を捉

せ

われて、ここに来た目的を忘れかけていた。  母さんのことを忘れかけていた。

﹁だ、だけ、ど、僕は﹂気がついたら、急き込むあまりにつっかえながら、ワタルは言っ ていた。﹁ヒト柱を認めたり、できないよ﹂ ﹁自分には関係ないことなのに？﹂

123

﹁関係なくない！﹂と、ワタルは叫んだ。 あ

いや

﹁僕はこっちに来て、いろんなことを経験した。怖い目にも遭ったし、嫌なヒトもいたけ

ど、親切なヒトも優しいヒトも大勢いたよ。幻界で起こることは、けっして僕にも無関係 じゃないんだ！﹂

とが

﹁だけど、お母さんのことはもっと無関係じゃないはずでしょ？﹂意地悪く尖った口調で、 せま

しんぼう

甘い声は迫った。﹁ふたつにひとつを選ばなくちゃならないのよ。どうするの？ お母さ

んにはガマンしてもらうの？ 今の運命を受け入れて、辛抱してくださいって言うの？﹂ ﹁それは││﹂ おとず

﹁二度と会いもしないヒトたちと、二度と訪れることもない幻界のために、あなたのお母

さんを犠牲にするっていうの？ お母さんはそれを喜ぶかしら？ それでいいって言うか しら？ そういうワタルこそわたしの子だって、満足するかしら？﹂

 ワタルは両手で耳を押さえた。﹁そんなこと││そんなことは聞きたくない﹂

﹁いいえ、あなたは聞かなくちゃいけない﹂甘い声は、まるでワタルの苦しみを楽しんで

いるかのように、一段とはずんで明るくなった。﹁幻界を選ぶか、お母さんを選ぶか、ど

ちらかなのよ。もしもあなたが幻界を選んで、お母さんにごめんなさいって、しおしおと こうべ

頭を垂れて現世へ帰ってごらんなさい。お母さんは言うでしょうよ。そういう優しい子に

育ててよかった、自分のことよりも、他人のことを思いやる子になってくれて嬉しいって。

124

うそ

つの

でもね、そんなの口先だけよ。そんなの嘘なのよ。お母さんは心のなかでは││﹂ ﹁やめろ！﹂ さえぎ

 ワタルの叫びを遮って、甘い声は言い募る。﹁心のなかではがっかりするわ。ああなん

て冷たい子だろう、苦労して育ててきたのに、わたしの幸せなど考えてもくれない、格好 ほ

をつけてヒトに褒められたいばっかりに、周りにはいい顔をしてみせるけれど、母の苦し やわ

みを和らげようとはしてくれない、そうしようと思えば簡単にできたのに、そのチャンス をなげうってしまったって﹂ ﹁やめろよ！ 母さんはそんな人じゃない！ 絶対に違う！﹂

﹁どうして違うと言えるの？ なぜそんなふうに信じられるの？ あなたはお父さんに裏

切られたばかりじゃないの。あなたのお父さんだって、お母さんとあなたを捨てるような い

人じゃないって、ずっと信じてきたのでしょう？ それなのに、あっさりと、ばっさりと

裏切られた。見捨てられたじゃないの。あなたはもう要らないと、置き去りにされたのじゃ きつもん

ひび

ないの。人はそういうものなのよ。お母さんだって、本音はお父さんと同じだわ﹂ さ

 もう波の囁きは聞こえない。耳のなかいっぱいに、甘い声の詰問が響きわたり、脳に突 き刺さる。 ﹁元をただせば、あなただって同じよ﹂  甘い声は、ニヤニヤ笑いの色を帯びた。

125

﹁僕も同じ⋮⋮？﹂

﹁そうよ。あなたは運命を変えたくて、この幻界にやってきた。お父さんが愛人を捨て、

愛人のおなかにいる赤ん坊も捨てて、あなたとお母さんの元へ戻ってくるように﹂

 そうだ、そのとおりだ。不当な仕打ちを受けたから、それを正すために来たんだ。

﹁でもそうしたら、愛人はどうなるの？ おなかの赤ん坊はどうなるの？ 今度は彼女た

ちが捨てられる。それとも、もっと前から運命を修正して、彼女がお父さんと会わないよ う

うにし向けるの？ でも、それでも、お父さんの気持ちは変えられないわよ。本当に好き し

な人と一緒になれなかったという、お父さんの心の空洞は埋められないわよ。お父さんに かか

その空洞を抱えることを強いて、あなたとお母さんだけは幸せになるの？ 幸せに、なれ るというの？﹂

 身体じゅうの力が、気力が、すべて浜辺の砂に吸い込まれてしまって、ワタルは立ちあ

がることはおろか、頭を持ちあげることさえできなかった。うなだれて、甘い声の発する 言葉に、なぶられているしかない。 ﹁身勝手なのは、どちらも同じよ﹂  きっぱりと、甘い声は言い捨てた。 ﹁それじゃ君は││僕に、どうしろって言うんだ？﹂  弱々しく、ワタルは問いかけた。

126

ほろ

﹁そう。わたしはその問いを待っていたの。あなたがそれを尋ねてくれるのを、待ってい たの﹂ たお

 女神を倒しなさい││と、甘い声は言った。﹁女神さまを滅ぼすのよ。そしてあなたが

幻界の王になればいい。ラウ導師があなたにどんなデタラメを聞かせたか知らない。でも、 たて

あたしは知っている。現世と幻界は、ひとつの盾の裏表。鏡の内と外。幻界を統べるもの

は、現世をも動かせる。そもそも、そうでなかったら、どうして女神さまが現世のヒトの 運命を左右することができるでしょう﹂  ひとつの盾の裏表。鏡の内と外。 ひざ

ふ

﹁あなたは女神さまに請い願い、その膝にすがって、自分のちっぽけな運命を変えてくれ

と願うより、幻界と現世を手中に収めることを望みなさい。みんながあなたにひれ伏して、

なんでも言うことをきく。お父さんに、心に空洞など持つなと命じれば、彼はそれに従う。

お母さんに、あなたを愛せと命じれば、彼女はそれに従う。お父さんの愛人に、おまえな

どこの世には必要ないと言えば、彼女は消える。おなかの赤ん坊には、おまえは最初から か け ら

さと

存在しなかったと言えば、存在しなくなる。世界がそのとおりになるのだから、あなたは

何をしようと、罪の意識を欠片も感じなくて済む。そのとき、あなたは悟るのよ﹂  世界は、あなたの意のままに存在するということを。

﹁なんという至福でしょう。なんと美しい世界の形かしら。ねえ、ワタル？﹂

127

ちんもく

 しばし、空白のような沈黙。  ワタルはゆっくりとかぶりを振った。

﹁僕は嫌だ﹂と、囁いた。﹁そんなの嫌だ﹂今度は囁きではなく、しっかりした声を出す ことができた。

 キ・キーマを、ミーナを好きなのは、彼らが彼らだからだ。ワタルの言うとおりになっ

てくれるからじゃない。彼らの親切や、優しさが心に染みたから、大事な仲間になったん だ。

 トウゴウトウが僕を運び、空を飛んでくれたとき、﹁ハイランダーの頼みをむげに断る

わけにはいかぬ﹂と言った。カッツが一人でミーナの病室を張り込んだ僕を助けに来てく

れたのは、彼女にはハイランダーとしての使命があるからだ。みんなが僕の言うとおりに そそのか

なるから、だから好きなわけじゃない。それを美しいだなんて、僕には思えない。 ﹁君は間違ってる。そんなことを唆す、君の正体は何だ？﹂  波の囁き。また沈黙。 ﹁あなたにはガッカリしたわ﹂  甘い声は、低く応じた。

﹁まあ、いいわ。お人好しの勇者さん。まだ考え直す時間はある。いずれ、あなたは必ず、 あたしの忠告に従うことでしょう﹂

128

ど な 

む だ 

﹁絶対に嫌だ！﹂ ﹁怒鳴ったって無駄よ。いいわ、とっておきのことを教えてあげる﹂ だま

 あなたは騙されているのよ、最初から。甘い声は、そう言った。

ささ

﹁あの若い星読みは、〝大いなる白き光の境界〟の作り直しのことも、そのために捧げら

れるヒト柱のことも、すべてを知っているわけじゃないのよ。大事なことを知らなかった。

まあ、彼だけじゃない、幻界のヒトたちは、ほとんどこのことを知らないのだけれどね﹂

﹁それをあんたは知ってるっていうのか？ 何を知ってるというんだ？﹂

﹁ヒト柱は、一人ではないの﹂甘い声は、ゆっくりと言った。﹁幻界から一人。そして、 はんしん

現世から来た〝旅人〟が一人。〝大いなる光の境界〟を作り直すためには、二人のヒトが 必要なのよ。だからそれぞれのヒトは、〝半身〟と呼ばれるの﹂  自分の耳で聞いたことが、よく理解できなかった。

﹁さっきも言ったでしょう？ 幻界と現世はひとつの盾の裏表。だからこそ〝大いなる光

の境界〟は、幻界の側からのみ、作り直すことはできないのよ。現世からも犠牲を捧げな かなめのみとびら

ければならないの﹂

 十年に一度、要御扉が開くとき、現世から〝旅人〟が一人、幻界を訪れる。自らの運命 を変えたいと望み、強い意志を持った者。

﹁いつもはそれだけのことなの。一人の〝旅人〟を受け入れ、その者の声を女神さまに届

129

けることで、幻界と現世は、いわば血を通わせているのだから。でも、千年に一度、〝大

いなる光の境界〟を作り直す時には、事情が違ってくる。〝旅人〟が二人、幻界にやって あわ

来る。そして、二人のうち一人は、〝半身〟としてその身を捧げることになるの。そうし なければ、現世も幻界も、混沌のなかに泡と消えてしまうのだから﹂

 あなたは騙されているのよ。甘い声はもう一度、念を押すように繰り返した。 か け ら

﹁ラウ導師は、こんなこと、欠片も教えてはくれなかったでしょう？ あなたとあなたの

お友達、ミツルとかいう名前だったかしら。二人のうち一人は、〝半身〟に選ばれること

になっているなんて、ちらりとも話してくれなかったでしょう？ 知っているくせに、あ

かえ

のおじいさんは黙っていたのよ。あなたが怖がって、それなら現世に還ると言い出すと困

るから。もちろん、ミツルだって、こんなことは知らないはずよ。もっとも、あの子はあ かしこ

なたよりずいぶんと賢いようだから、ひょっとしたら今ごろは、何か気づいているかもし れないけれど﹂

 こぼれるような愛らしい笑い声が聞こえた。こんなときに、誰が笑っているんだ？ お か 

﹁ごめんなさいね、笑ったりして﹂甘い声は謝った。﹁だけど、あなたのぽかんとした顔

が、あんまり可笑しくて。ねえ、そんなに怖がることはないじゃないの。まだ、あなたが

〝半身〟だと決まったわけじゃないわ。でも、そうねえ、ミツルはあなたより強い〝旅人〟

だし、かなり以前に出発しているから、あなたより先に運命の塔にたどり着いて、さっさ

130

と願いをかなえてもらって、現世に帰ってしまうかもしれないわね。そうしたら、二引く

一は一。残ったあなたが、〝半身〟になるしかないわよねえ、気の毒に﹂

 そんなの嘘だという言葉が、口元まで込みあげてきた。きっと嘘だ。嘘に決まってる。 こいつは僕をからかっているんだ。 ﹁信じていないようね﹂  ああ、また見抜かれている！

﹁いいわ、信じないのも自由よ。そのうち抜き差しならなくなって、あたしの言っている て おく

ことが真実だとわかるでしょう。でも、そのときにはもう手遅れだったりして﹂  うふふと笑った。 ﹁さあ、わたしは去るわ。また会いましょう﹂  でも、忠告を忘れないで。

﹁女神を倒しなさい。どう転んでも、あなたには、ほかに道がないのよ﹂

131

 28 サーカワの長老     ねむ

もど

ゆか

 ワタルは、キ・キーマの小屋に帰っても、ほとんど眠ることができなかった。明け方近 ね はじ

さと

くになって、キ・キーマがお酒のせいでふらふらしながら戻ってきて、床の上に大の字に たお

てんじょう

あお

倒れるなりいびきをかいて寝始めたときだけは、彼に悟られないよう眠ったふりをしてい

たけれど、あとはずっと両目を開けて、じっと天井を仰いでいた。頭のなかでは、あの甘

い声が語りかけてきた言葉が、何度も何度も逆回しされては再生されていた。 ここち 

そよかぜ

 明け方になり、空が白んでくると、波の音も少しずつはっきりと聞こえるようになって き おく

きた。海も夜は眠り、朝になると起きるんだ││できればこの心地よい波の音と朝の微風 はまべ 

だれ

で、昨夜の浜辺の出来事など、記憶のなかから洗い出してしまいたい。  小屋の外の砂地を、水人たちの誰かがパタパタと走ってゆく。 ﹁おい、おい、お使いだよ！﹂ ひそ

 潜めた声だが、誰かが誰かを起こしているのか、呼びかけている。会話が聞こえる。 ﹁ホラ、東の空だ。ありゃ、カルラ族じゃないか？﹂ ふ

﹁本当だ。あの金色の吹き流しは││連合政府からの使者の印じゃねえか！﹂

 ついに来たんだ。ワタルはサラサラとした木の葉のしとねの上で身を起こした。小屋の

132

すだれ

かがや

出入口の簾を持ちあげて外をのぞくと、数人の水人たちが、東の空を指して寄り集まって いた。屋根に登っているヒトもいる。 う

こ

 ようやく青みを帯びてきた夜明けの空に、ぽつりと赤く、朝と夜の境界ぎりぎりまで輝

ゆう

く強い星のように浮かんでいるものがあった。目を凝らすと、それは羽ばたいていた。お お

ゆ

そらく尾に結びつけてあるのだろう、夜明けの光を受けて金色に輝く長い吹き流しが、優 が 

雅に空にたなびいていた。

 ワタルは、小山のように横になっているキ・キーマを、そっと揺り起こした。 ﹁ううーん、ほじゃ？ なんだワタル、もう起きたのか﹂ しんけん

 キ・キーマは寝ぼけていた。ワタルは小さくて真剣な顔で彼を見た。早く起きて顔を洗っ

た方がいいよ、と言おうとしたのに、すぐには言葉が出てこなかった。そんなワタルの様 子に、キ・キーマはようやくむっくりと起きあがった。

き

﹁おやおや、どうしたんだい？ わかった、頭が痛いんだろう？ みんなして酒を飲ませ ちまったからなぁ。ごめんよ﹂ ふ

 ワタルは首を振った。そうして、自分でも思いがけないことを訊いてしまった。 ﹁キ・キーマのお父さんとお母さんは、どこにいるの？﹂

 キ・キーマはまた﹁ほじゃ？﹂という声を出した。そして、ごつい手で目をごしごしこ すった。

133

﹁昨日は、キ・キーマのお父さんとお母さんには会わなかったよね？﹂

み つき

﹁おお、そういえばそうだったな﹂まだぼんやりした目つきながら、キ・キーマは笑った。 えんかい

﹁なにしろおしゃべりと宴会に夢中だったからな。俺のおとうとおかあは、この三月ばか

り、仕事でアリキタに行ってるんだ。パースという町で、大きな病院を建てているんだが、 そこに資材を運び込む仕事を任されてな﹂ しょうかい

 そうだったのか。 ﹁ワタルを紹介できなくて、残念だなぁ﹂ いっしょ

﹁いつもは一緒に住んでいるの？﹂

﹁いんや、ここは俺の小屋だよ。おとうとおかあは、長老様の住まいのそばに、もっと大 きな二階建ての小屋を持っているんだ﹂

な

 そう言ってからやっと、キ・キーマは不思議そうにワタルを見た。﹁なんでそんなこと を訊くんだい？﹂ ﹁なんでもないんだ﹂ あご

さび

 ふうん││と、キ・キーマは顎を撫でて、それから言った。﹁もしかして、お父さんと

お母さんの夢を見たのかい？ それで、ちょっと寂しくなったんじゃないかい？﹂  そうじゃないんだよ。ただ││

 ちょうどそのとき、小屋の外から、金だらいを打ち鳴らすような音が聞こえてきた。

134

みな

﹁おーい、おーい、おふれだ、おふれだ、皆の衆！ 連合政府からおふれが来たぞ、長老 さまのところへ集まれい！ おふれだ、おふれだぞーい﹂ かか

 キ・キーマはあんぐりと口を開いた。﹁こいつは大変だ！ いったい何事だろう？﹂

 あつつ、頭が痛い。キ・キーマは両手で頭を抱えると、ちょっと海に飛び込んでしゃっ

こし

なべ

きりしてくるからなと言い置いて、急いで出ていった。ワタルも小屋の外に出た。東の空 はしご だん

に、カルラ族の姿は見えない。すでにどこかに着地したのだろう。

 小屋の出入口のところにある梯子段のてっぺんに腰かけて、金だらいというよりはお鍋

か

のフタみたいなものを打ち鳴らしながら、おふれ役の水人が、この一角を行き来するのを なが

眺めた。おふれ役は何人もいるのだろう、町のあっちこっちで、同じような音と声が駆け 回っているのが聞こえる。 となり

﹁おはよう、ワタル﹂

な

 気がつくと、すぐ隣の小屋の簾をあげて、ミーナが顔をのぞかせていた。耳の後ろの白 かげ

い毛が、寝乱れてちょっぴりハネている。 ひとみ

﹁何かしらね、あれ？﹂不安そうに瞳を翳らせて、ミーナは言った。 ﹁こういうおふれは、よくある事なの？﹂と、ワタルは尋ねた。

えら

﹁ううん。わたしは今までに、一度しか見たことがないわ。誰か連合政府の偉いヒトが亡

くなったときだったかしら。どっちにしろ、めったにあることじゃないわ﹂

135

ふんい き 

 長老の小屋を中心に、昨夜の大宴会を再現するような規模で、集会は始まった。 ほ さ やく

 当然のことながら、雰囲気は昨夜とがらりと変わってしまっていた。みんな静まり返っ つばさ

ていて、長老のそばにぴたりとついた補佐役みたいな水人が、熱心に話した。彼はまず、

カルラ族の翼で運ばれてきたおふれの内容について一同に説明した。それから、長老が何

とし

か小声で彼の耳元に向かって言う言葉を、ちょうど通訳するみたいにして、皆に伝えるの だった。

﹁長老はお歳だから、もう大きな声が出せないのですって。だから、ああして取り次ぎを するヒトが必要なんですって﹂と、ミーナが教えてくれた。

め がみ

 町の住人ではないワタルとミーナは、水人たちの輪の外の方にいて、集まったヒトたち のたくさんの背中ごしに、集会の様子を見ることになった。 たまわ

﹁長老はおっしゃっている││もとより、我らのこの世、我らのこの命は女神さまよりの か ら だ

はぐく

賜りもの﹂と、取り次ぎ役の水人が言った。﹁それは、今さら申し述べることもないほど かて

てき

の自明の理。我らの日々の糧も、我らのこの強き身体も、我らを生み我らを育みやがて我 しずく

らがそこへ帰るところの海の滴の一滴一滴も、すべて女神さまのお造りになられしもの﹂ ﹁そのとおり！﹂と、一同が唱和する。 おそ

﹁されば、今ここにて女神さまが一人のヒト柱を求められるならば、それも我らの受ける おんちょう

恩寵の内にあること。皆の衆、ゆめゆめ恐れるべからず。女神さまの指の差しのべられる、

136

そのところにこそ真実はあり﹂ ﹁そのとおり！﹂

しず

﹁選ばれし者あらば、そは真実の体現者なり。女神さまの差しのべられし指の先にひざま ずき、戦士として立つべし﹂ ﹁そのとおり！﹂ ﹁我々は恐れたりなどしません！﹂

 集まった水人たちは、口々にそう言った。一同が鎮まるのを待って、長老がまた取り次 ささや

ぎ役に何か囁き、それは今度は少しばかり長い言葉で、取り次ぎ役はしきりとうなずきな おごそ

ヴィジョン

がら、それを聞き取った。そして、長老のそばから離れると、集まっている水人たちの最 前列ぎりぎりのところまで進み出て、厳かに言った。 いにしえ

ゆえ

﹁我ら水人族は、女神さまの古の教えを尊ぶことでは、この〝幻界〟に住むどんな種族に

も負けるものではない。それ故に、知識も多い。今回の〝大いなる光の境界〟の作り直し

のことも、ヒト柱のことも、親から子へと、伝説や昔話としてならば、伝え聞いて、すで に知っているという者たちも多かろう﹂

 一同のなかで、たくさんの頭がうなずいている。ミーナが小さく﹁まあ﹂と言った。 ﹁わたし、全然知らなかった﹂ さと

﹁それだから、長老は、我らの郷の者たちについては、何も心を痛めてはおられぬ。皆を

137

わ

信じているとおっしゃっておる﹂ りょううで

しんこう

 わあっと声が沸いた。取り次ぎ役は、丸太のような両腕をあげて、皆を鎮めた。 いたずら

おび

さわ

やから

﹁しかし幻界は広い。他種族の者たちのなかには、我らのような幸せな信仰を持ち得ず、

心のよりどころを失い、ヒト柱の選出に、徒に怯え騒ぐ輩も大勢いることだろう。皆の衆、 きょうそう

つ

それらの狂騒に、心を乱されてはならぬ。我ら水人族は太古から女神さまと共にあるの だ！﹂

 おう、おう！ と、一同は腕を突きあげた。取り次ぎ役は、北の空を指さした。

こ よい

﹁連合政府のおふれによれば、ササヤの大学者たちの読み取るところ、まさに今宵より、 まがぼし

ほこ

たましい

〝ハルネラ〟は始まるという。北の凶星が地平に現れ、赤く輝くのだ。皆の衆よ、心安ん こんとん

す

めいおう

じて〝ハルネラ〟を過ごそう。我ら水人族の誇り高き魂にかけて、女神さまへの忠誠を、 ちか

つつし

ここに誓おう。そして、女神さまが混沌を統べる冥王と結びし聖なる契約をあらため終え るときを、謹んで待とうではないか！﹂ かんこ 

たた

 水人たちは立ちあがって歓呼の声をあげた。そのなかに、キ・キーマもちゃんと混じっ ていた。

 一同はそれから、声をあわせて女神を讃える歌を歌った。興奮が鎮まると、結びの言葉 として、取り次ぎ役は言った。

﹁おふれを運んできたカルラ族の話では、アリキタやボグの一部の町では、すでにかなり

138

なりわい

の混乱が起こっているらしい。信仰を失うと、ヒトはかくも弱きものなのだ。我らはダル たが

かしら

ババ業を生業とする故に、各地に出向くのが日常。先々で騒乱に巻き込まれることもあろ おのれ

うが、己を強く持ち、互いに助け合ってほしい。ダルババ屋の頭たちは、年若いものたち を、よろしく導いてくれるよう﹂

 こうして集会はひけた。ダルババ屋で働く水人たち││町の成年の大半だ││は、今度 だいじょうぶ

は個別に頭の元に集まるようだ。みんなぞろぞろと移動してゆく。 おどろ

﹁ミーナ、大丈夫？﹂と、ワタルは訊いた。﹁ショックを受けてない？﹂ ほほえ 

 ミーナは微笑んだ。﹁平気よ。ちょっと驚いたけど、でも││わたしが選ばれると決まっ じゃま 

たわけじゃないしね。だって、大勢のなかから、たった一人だけでしょう？﹂

 解散する水人たちの邪魔にならないよう、ミーナは軽くワタルの手を取ると、近くに積 しら

みあげてあった木箱の上へと、ひょいと移動した。

﹁スペクタクルマシン団のみんなは、どこでこの報せを受け取っているかしら。子供たち こわ

が怖がってないといいけど。ブブホ団長がいるから、何も心配はないと思うけれどね﹂ うつむ

 ワタルは俯いてしまった。 ﹁ワタルこそ、大丈夫？ 顔が青いわ﹂  ミーナはワタルの手を取ったまま、顔をのぞきこんだ。

﹁わたしたちのこと、心配してくれてるのね。ありがとう﹂と、にっこり笑う。﹁わたし

139

いの

たちネ族は、ここの水人さんたちほどには強い女神信仰を持ち合わせていないけど、それ め

じ ひ 

でも、祈る気持ちはちゃんと持っているわ。わたし、今夜から毎晩、北の凶星を見あげて なげ

お祈りするわ。女神さまにお願いするの。ヒト柱をお召しになるならば、どうぞお慈悲と 共にお召しください。嘆きが深くならないようにって﹂ するど

﹁それでいいの？﹂と、ワタルは鋭く問い返した。﹁ヒト柱を差し出せなんて、女神さま ざんこく

は残酷だとは思わない？ そういうやり方を変えてほしいと思わないのかい？﹂

 ミーナはつぶらな青灰色の瞳をまん丸に見開いた。﹁まあ、ワタルったら﹂

ぎ せい

﹁だってそうじゃないか。たとえ千年に一度だって、世界を保つために犠牲を捧げるなん て、おかしいよ﹂

﹁だって⋮⋮だって、そもそもこの世界は女神さまがおつくりになったものなのよ。わた

したちがつくったものじゃない。わたしたちではどうすることもできないことなのよ﹂ はな

ほお

﹁ミーナ、もしも自分がヒト柱に選ばれても、そんなふうに言える？﹂ にぎ

いや

 ミーナは握っていたワタルの手を離すと、自分の頬にあてた。﹁それは││わからない わ﹂ ﹁わからなくないよ。嫌に決まってるよ！﹂ しゅんかん

﹁そうかしら。選ばれた瞬間に、そんな気持ちからは解放されるのかもしれないわ。残さ

れたヒトたちも、そうかもしれない。悲しみが残らないように、女神さまが計らってくだ

140

さるのよ﹂ ろうばい

 だって││と、少し狼狽したように首を振りながら、ミーナは言った。

﹁さっきの連合政府のおふれのなかにも、書いてあったというじゃない。ヒト柱も、〝大

いなる光の境界〟の作り直しも、〝ハルネラ〟も、古くからあったことだって。ただ、今

ちが

までは歴史の表に出てこなかっただけだって。現に水人さんたちは、伝説として知ってい るというのだし││﹂

﹁そうだよ。過去はそうだった。それでよかったんだ。でも、今は違う。幻界の南大陸に

ふ

連合政府ができて、その政府が、これについては国民に公表しなくちゃならない、もう伏

しょうこ

せてはおけないと判断したこと自体、事情が違ってきてるという証拠じゃないか。僕は、

アリキタやナハトのなかで騒乱が起き始めていると聞いて、ちょっとほっとしたくらいだ

よ。みんながみんな、ここの水人たちみたいに平気な顔をしていたら、その方が変だよ﹂  ミーナは泣きだしそうになってしまった。 あや

﹁ワタル││そんなことを言って││それがどういうことだかわかってる？ ねえあなた、 ま びょういん

あの魔病院で老神教徒たちに危うく殺されるところだったんでしょう？ それを忘れたの？

 今のあなたの言っていることは、女神さまを否定する老神教徒たちと同じよ﹂

 違う。それは違う。言いかけて、しかしワタルは口をつぐんでしまった。僕が言いたい

のは││女神を信じるか否定するかということじゃなくて││そうじゃなくて││

141

 結局、僕は怖いんだよ。心のなかで言った。ヒト柱が幻界のヒトたちからのみ選ばれる

と思っているときだって怖かった。君やキ・キーマが選ばれるんじゃないかと思うと、怖 くてたまらなかった。

 でも、今はそれ以上だ。だって僕は〝旅人〟だもの。ヒト柱に選ばれる確率はぴったり

とう

五十パーセント。ミツルか僕か。どちらか一人。だもの、怖くて当然じゃないか。 うつしよ

 だけどわからない。どうすればいいんだ？ ミツルより先に運命の塔に着いて、自分の

願いだけさっさとかなえて、とっとと現世に帰ってしまえばいいのか？ それで忘れられ る？ それで幸せになれる？ たの

 それとも、女神に会って頼むのかい？ 僕の運命は変えなくていいです。でも、ヒト柱

のしきたりだけは変えてください。そしたら僕は、安心して現世に帰れます。

 でも、帰ってどうなる？ 傷ついて生きる希望を失った母さんと、二人ぽっちだ。父さ

なや

んは僕らを捨てて、二度と振り向いてもくれないだろう。追いかけて行けば、またあの女、 田中理香子に手ひどい仕打ちを受けるだけだ。 ひど

 不当、不等、あまりにも酷い。どの道を選んでも行き止まりじゃないか。だけど、悩ん

でぐずぐずしていれば、ミツルが先に運命の塔に着き、僕は一人取り残されて、自動的に ヒト柱にされてしまう。 ﹁そこの〝旅人〟よ﹂

142

りょうかた

せんさい

こ

 強い声で呼びかけられて、ワタルは顔をあげた。木箱のすぐ足元に、あの取り次ぎ役の む

水人が立って、こちらを見あげていた。 ずみ

ゆる

 間近に見ると、彼の目の周りと剥き出しの両肩には、繊細な細い線で、凝った文様の入

れ墨がほどこされていた。彼がにこりと微笑むと、目のそばの線も一緒に緩んだ。

﹁長老が、あなたとお話をしたいとおっしゃっている。少しよろしいかな？﹂

じょう

 あとの問いかけは、ミーナに向けられたものだった。はいと、小さく彼女は答えた。

﹁それでは、こちらへ﹂取り次ぎ役はワタルを手招きした。﹁それからネ族のお嬢さん、

連合政府のおふれを運んできたカルラ族が、郷の門のそばの小屋で休んでいる。まもなく たく

飛び立つことだろう。あなたの郷や家族に手紙など託したいならば、今のうちに頼んでみ てはいかがだろうか﹂

 長老は、集会のときと同じ場所に座っていた。それでも、さっきよりは少しくつろいだ かたひざ

すす

姿勢で、壁にもたれ、片膝を立てている。 ﹁ここにお座りになるがよい﹂

 取り次ぎ役が、丸く編んだござを勧めてくれた。ワタルはそこにかしこまった。長老の こうれい

真ん前だ。一メートルも離れていない。 おさ

﹁実は、我が長は高齢ゆえ、ほとんど耳が聞こえぬ﹂

143

わき

ひか

 長老の脇に控えて、取り次ぎ役は言った。

﹁それでも心の耳で、何でも聞くことができる。最前から、しきりとあなたの声を聞き取 り、ご心痛の様子だ。だからおいでいただいたのです﹂ ﹁僕の心の声？﹂

す ばや

 問い返すワタルの言葉が終わらないうちに、長老はびっくりするくらい素早く進み出て、 てのひら

ざんじ 

両の掌ですっぽりとワタルの頭を包み込んだ。ぎょっとして下がろうとすると、

﹁動いてはならぬ！﹂と、取り次ぎ役が厳しい声を発した。﹁暫時、そのまま﹂

 身をすくめて、ワタルはかちんかちんになった。そうしていたのは、ほんの十秒ほどだっ

たろうか。長老は手を離すと、元の場所に戻ってまたゆったりと座った。そして、取り次 ぎ役の耳元に何か囁いた。 み い 

 ゆっくりとうなずくと、取り次ぎ役はワタルを見た。 ﹁あなたは魔に魅入られている﹂ ﹁魔││？ 魔物ということですか？﹂ もっ

﹁左様。必ずしも姿の恐ろしいものではない。時には甘い声を以てあなたに囁きかけてい

るやも知れぬ。しかし、あなたの間近に魔の気配がする。長老はそう申されている﹂

 昨夜の浜辺での出来事││現世にいるときから語りかけてきた、あの甘い声。とっさに、 それを考えた。

144

 長老はうなずき、また取り次ぎ役に何か言った。 ﹁どうやら、覚えがあるようですな﹂  ワタルは両手で額を押さえた。﹁だけどそれは││﹂

きょうふ

く

﹁恐れてはいけない﹂と、取り次ぎ役は言った。﹁魔はあなたの恐怖を喰らう。顔をあげ て、長老の目をごらんなさい﹂ うなが

はだ

 何度か促されて、ワタルはやっと、そのとおりにした。 がんけん

 長老は、肌も張りを失い、肉が落ちて骨張った身体は、何か支えになるものがなければ、

す

一人で立つことも難しそうだ。しかし、その目は頑健な若者よりも強い光を宿し、海のよ うな青い色をしていた。

 長老は、その瞳をひたとワタルの上に据えたまま、話し出した。取り次ぎ役がそれを伝 える。

﹁〝旅人〟よ、我ら古老は知っている。〝ハルネラ〟は、あなたがた二人の〝旅人〟にとっ てこそ、真の試練であることを﹂ いにしえ

 ワタルは驚いた。﹁知ってるって？ じゃ、僕がヒト柱になるかもしれないことを？﹂

﹁すべてを知っておる。古より、〝大いなる光の境界〟を作り直すときがくるたびに、女 神さまがなさってきたことであるから﹂

 思わず前に出た。﹁それなら、どうして放っておくんです？ ヒト柱なんて、残酷じゃ

145

ないですか！﹂

 長老はピクリともしなかった。﹁幻界には幻界の成り立ちがある。あなたはそこに、女

かいにゅう

神さまに招かれてやって来た。この世界の成り立ちに、あなたが介入することはできぬ﹂ ﹁だって、あなたたちだって！﹂ いだ

﹁あなたが今、心に抱いている疑問を、あなたの力で解くことはできぬ﹂ ふくろこ う じ

はんもん

 ワタルの疑問。この袋小路。

﹁あなたが今、そこで煩悶しているすべてのこと。己がヒト柱に選ばれるかもしれぬとい

う恐怖。もう一人の〝旅人〟、あなたの友を、ヒト柱として置き去りにせねばならぬかも か

しれぬという恐怖。女神さまに会うて、ヒト柱のしきたりをやめるよう願えば、その願い

と引き替えに、自らの運命を変える望みを捨てねばならぬという恐怖。すべてあなたが生

み出し、あなたが形を与えた恐怖であるが、あなたには消すことのできぬ恐怖だ﹂

 ホントにお見通しなんだ。ワタルはまたヘタヘタと座ってしまった。何も言ってないの に、心を読まれたみたいだ。 ふ

さそ

﹁〝旅人〟よ。あなたは女神さまに招かれながら、女神さまを信じられなくなっている。

なめ

それすなわち、旅の目的を見失うこと。あなたをして道を踏み迷わせ、暗黒へと誘い込も はか

つぶや

うと謀る魔を近づけてはならぬ﹂ じゅもん

 長老はまるで呪文のように呟き続け、取り次ぎ役は滑らかにそれを取り次ぐ。

146

に

さ ばく

しんき ろう

ろうひ 

﹁あなたの煩悶は、さながら砂漠の蜃気楼だ。あなたはありもしないものを恐れ、ありも

しないものから逃げようとしている。それはただの、時の浪費。女神さまに会いなさい。 みこころ

世界は女神さまの御心の内にある﹂ ﹁だけど僕││僕より先にミツルが││﹂ み いだ

﹁速く走る〝旅人〟だけが、運命の塔を見出すのではない﹂  その言葉は、ぴしりとワタルを打った。

﹁運命の塔は、正しき道をたどった〝旅人〟の前にしか、その姿を現さぬ。幼き〝旅人〟

よ。迷いを捨て、運命の塔を目指しなさい。そこにこそ真実が在る。女神さまに問いかけ て初めて、あなたは答を得る﹂ おんまえ

 長老は、かすかに微笑んだ。 おの

﹁女神さまの御前に至り、何を問いかければ良いのかということも、運命の塔にたどり着 けば、自ずとわかる﹂

ち え 

 ササヤを目指しなさいと、長老は言った。﹁今こそ、かの大学者たちの知恵を借りると きですぞ。 す

 彼らは幻界の歴史を研究し、幻界の成り立ちを知ろうとしている。女神さまのおわしま ま

す運命の塔は、果てしなく遠い。しかし、正しき道は、真っ直ぐにそこに続いている。正 つかさど

しき道をこそ探すべきだ。古の知を司る星読みの大学者たちならば、その道を照らす宝玉

147

の眠る場所を知っているかもしれぬ﹂

 それだけ話して、長老は壁にもたれて目を閉じた。取り次ぎ役がすっと立ちあがり、部 たな

つか

屋の隅の棚から膝掛けのようなものを持ってきて、それをそっと、長老の身体にかけた。

﹁長老はお疲れのようだ﹂と、彼は言った。﹁今のお言葉を、どうか忘れぬように。〝旅 人〟よ、私からもお願いする﹂  ワタルはためらいながらもうなずいた。

﹁おっしゃるとおり、ササヤへ行くことにします。国営の天文台があるそうですね？﹂ つど

﹁うむ。星読みたちの集うところだ。天文台があるのは、ルルドの町じゃ。ダルババを使 いなされ。五日ほどで着くはずだ﹂

 ワタルは、思わず取り次ぎ役の手をつかんだ。﹁僕は、僕はだけど、本当に自分の運命

を変えたいのかどうかさえ、わからなくなってきちゃったんです。運命を変えるってどう いうことなのか、それもあやふやになってきちゃって││﹂

﹁あなただけではない。幻界を訪れる〝旅人〟は、皆、一度は同じような悩みを抱える。

そこから抜け出せる者もあれば、抜け出せずに道を踏み外す者もいる﹂ ﹁道を踏み外したら、どうなるんです？﹂ あずか

 取り次ぎ役は首を振った。﹁それは我ら幻界の住人の与り知らぬこと。女神さまがお決 めになることだ﹂

148

じゅんすい

 ワタルは思わず言った。﹁それがわからないんです。どうして皆さんは、そんなふうに

純粋に、なんの疑いもなしに女神さまを信じていられるんですか？ 幻界のなかだって、

皆さんほど強い信心を持っていないヒトたちが増えているからこそ、アリキタやボグでは 騒動が起こっているんでしょう？﹂

 ヒト柱と〝ハルネラ〟について知識を得て、騒いでいるというヒトたちならば、きっと そそのか

ワタルのこの気持ちを理解してくれることだろう。もしかしたら││そんな女神は倒して

しまえと││あの唆しにだって賛成するかもしれない││そっちの方が正しいのかも││

 長老のしわがれた声が聞こえた。取り次ぎ役が長老のそばに行って、何か聞き取り、す ぐにワタルのそばに戻ってきた。 ﹁さあ、行きなさい〝旅人〟よ﹂ やさ

 取り次ぎ役は、そのがっちりとした腕で、優しくワタルを押しやった。

﹁あなたの道が正しければ、我らは二度とまみえることもない。長老の最後のお言葉を伝 えます。今、こうおっしゃいました││﹂  神を信じぬ者に、神は倒せぬ。

149

わた

 29 ルルドの国営天文台    

いんうつ

 ササヤに渡り、ルルドの町を目指す旅は、思いもかけないほど陰鬱なものになった。

まなざ 

 ひとつには、ワタルとミーナのあいだに、サーカワの長老小屋の前で言い争ったことの、 こういしょう

後遺症のようなものが残ってしまったからだ。ミーナに不安げな眼差しを投げかけられる うつむ

ぬす

と、ワタルはつい目をそらしてしまう。するとミーナも、まるで悪いことでもしたみたい おおあわ

けんか 

に大慌てで俯き、それを横目で盗み見て、ワタルもまたうなだれる。あいだに入ったキ・ だま

みょう

キーマは、どうやら二人が喧嘩でもしたらしいと推察しているようだけど、手の出しよう

がなくて、やっぱり黙っている。ときどぎ、妙に陽気な声を出して何か話しかけてくるけ れど、会話は続かない。

 それにワタルは、自身の心のなかに引きこもって考え込むことも多かった。〝迷いを捨 め がみ

て、女神さまに会え〟という忠告を、もちろん忘れてはいないけれど、ハイそうですねと

捨てられるような迷いなら、最初から苦しむことなんかないのだから。 だいま ほう

く し 

 ミツルはどうしているだろう。しきりと、それを考えた。今、どこにいるのだろう。彼 ヴィジョン

は迷いを感じていないのかしら。〝幻界〟で身につけた大魔法を駆使して、ひたすら運命 とう

の塔を目指し、ほかのことは何も考えていないのかしら。

150

 ││ミツルはきっと、僕みたいに弱くないんだ。  考えてみれば、いつでもそうだった。 こうがい

たつまき

 リリス郊外のトリアンカ魔病院で再会したときのミツルは、本当にカッコよかった。彼

のおかげでワタルは命びろいをしたのだ。彼の唱えた風の大魔法が生んだ大竜巻が、あの こわ

トリアンカ魔病院を包んでいた結界を打ち壊し、スラの森を根こそぎにしてくれたから。

 あのときは、ああするしか方法がなかった。あれがいちばん適切なやり方だった。だけ

どキ・キーマは言っていたじゃないか。竜巻が去ったあと、トリアンカ魔病院へ行ってみ け が 

たら、怪我をしたヒトたちが大勢いたと。当然だろう。あそこにはたくさんの老神教徒た おそ

ちが集まっていたんだ。百人、いやそれ以上いたかもしれない。そのヒトたちにも、竜巻

は襲いかかったのだ。怪我をしたヒトたちは運が良かったくらいで、竜巻に飛ばされて命 じ ごう

を落としたヒトたちだって、いっぱいいたのじゃなかろうか。 しょけい

 いいじゃないか。自業自得とは、こういうときに使う言葉だ。あいつらの方が先に手を つか

出してきたのだ。一方的にワタルを捕まえて、閉じこめて、処刑しようとしたのだから。

 でも││ミツルと同じ立場だったなら、ワタルにも同じことができただろうか。何のた めらいもなく？ 自分の力をふるうことができただろうか？   ││どこへ飛ばされるかわからないぜ。 じゅもん

 あっさりとそう断っただけで、呪文を唱えることができただろうか。

151

 ││そういえば。 あや

 ワタルが幻界に来るきっかけになった、あの事件。大松さんの幽霊ビルで、ミツルは石 ましょう

しょうかん

おそ

岡健児たちに囲まれて、危うくボコボコにされそうになっていた。でも、ミツルが呪文を

たましい

ぬ

唱えて魔性のものを招喚すると、形勢はたちまち逆転した。石岡たち三人は、あの恐ろし まるの 

いバルバローネに襲われて、石岡は頭から丸呑みにされてしまい、魂を抜きとられてしまっ た。

 あのとき、ミツルは彼らをどうするつもりだったのだろう。バルバローネを招喚したと

か け ら

き、石岡たちに対して、あの魔物が何をするか、彼はちゃんと承知していたのだろうか。 わかっていてバルバローネを呼んだのか。 ゆ

 あのときの彼の表情にも、迷いなんてものは欠片もなかった。打たれたから打ち返す。 はば

その決意があっただけだった。いつだって、ミツルには揺るぎない意志があった。どんな きそ

困難が運命の塔への道を阻もうとも、彼は決してひるんだりしないだろう。 か

 それに引き替え、ワタルは弱い。そして、勝負事や競い合いには、やっぱり強いものが み いだ

勝つのだ。速く走るものだけが運命の塔を見出すのではないと、サーカワの長老は言った。

か ら だ

だけど、ミツルはただ足が速いだけではなく、意志の力も強いのだ。ワタルには最初から 勝ち目などないのかもしれない。 ぎょしゃ

 そんなことを考えていたら、ダルババ車の御者台の上から落ちないように身体を支えて

152

せいいっぱい

え がお

う

ゆううつ

いるだけでも精一杯で、とうてい笑顔など浮かべられない。

 おまけに、旅路の景色が、ワタルたちの歩みをさらに憂鬱なものにした。サーカワを出

かいどう

そ まつ

て、海べりの草原で最初の野宿をしたときまでは、まだ良かった。街道に出ると、様子が

変わった。道連れが、ぽつりぽつりと増え始めたのだ。あるヒトたちは粗末な荷車に家財 の

道具を載せ、あるヒトたちは大きな包みを背負っている。子供連れもいれば、老人たちも いる。ダルババ車の荷台に病人を乗せているヒトたちもいる。

 最初のうちは、彼らがどんなヒトたちで、どこへ行こうとしているのか、さっぱり見当 はく

ゆず

もつかなかった。二泊目の野宿のとき、もうボグとササヤの国境関所は間近で、街道を行

かく

くヒトたちのグループも、両手に余るほどに増えており、食べ物を譲り合ったり、話をす る機会もあって、それでやっとわかったのだった。 ひ なんみん

ていしゅ

 彼らは避難民だった。〝ハルネラ〟が終わるまで、逃げ隠れるために旅しているのだ。

﹁女神さまのなさることに、逆らうわけにはいかないけれども、やっぱり今あたしや亭主

がヒト柱に選ばれるようなことになったら、子供らは生きていかれないから﹂ じゅうじん

 六人の幼い子供たちを連れた、獣人族のお母さんが、言い訳するみたいな顔で、そんな

ことをワタルに言った。彼らは野宿用にテントを持っていたけれど、どうやって張ればい

いかわからずに困っているようだったので、キ・キーマとワタルで手伝ってあげたのだ。 ﹁それで、どこに行くんですか？﹂

153

まがぼし

﹁あたしは国境沿いの山のなかの木こりの集落で生まれたんですよ。家はもうないし親も

いや

いないけれど、小屋は残っているからね。北の凶星が赤いうちは、そこで暮らそうと思っ て﹂ わき

しか

 見あげるような大男のご亭主は、奥さんが見ず知らずのヒトと話をするのが嫌な様子で、 こわ

ひどく怖い顔をしていた。あとで奥さんを脇に呼んで、ガミガミ叱っているのが聞こえて きた。

﹁あんなことを言って、もしあいつらがくっついてきたらどうするつもりだ？ 俺らは隠

れ住む場所があるから、まだましな方なんだ。言いふらすんじゃねえよ﹂

ど こ 

 避難民たちのなかには、確かに、これという目的地を持たないヒトたちが多かった。と

にかく目立たない場所へ行きたい、そういうあんた、ハイランダーだろ？ 何処に行くの だと問われて、ワタルがルルドと答えると、 さず

﹁そうか、あすこには天文台があるもんね。星読みもたくさんいるし、もしかしたら、ど ち え 

うやったらヒト柱に選ばれずに済むか、知恵を授けてもらえるかもしれないね﹂

 じゃあわしらもルルドへ行こう││などと言い出す始末だったりする。  彼らと話をするたびに、ワタルはあえて明るい顔をしてみせて、

﹁でも、ヒト柱はたったの一人だけですよ。地上にはこんなに大勢のヒトたちがいるんだ

もの、あなたやあなたの家族が選ばれると決まったわけじゃない。そんなに心配しなくて

154

もいいじゃないですか？﹂ よ こ 

 と、問いかけてみた。するとみんな、一応は、﹁そうだよね﹂﹁そうだわねえ﹂﹁うん、 くも

ふ

俺もそう思うんだけどな﹂と、返事を寄越す。ちょっと笑い返したりもする。でも、その

あと一様に顔を曇らせて、少しばかり決まり悪そうに目を伏せ、こう続けるのだ。 さ

﹁でも、万にひとつということがあるだろう？ 避けられるものならば、避けたいじゃな いか﹂ ﹁お金持ちの商人や、お役人はいいんだよ﹂ とが

たた

いの

 と、暗い目をして口を尖らせるヒトもいた。 ひ ごろ

く もつ

﹁日頃から、女神さまを讃える歌や祈りの会を開いているし、信徒の集会所を切り盛りし

たり、花を供えたりしているものね。そういう連中は、ヒト柱にならずに済むんだ﹂ ささ

 だけどあたしらは貧しくて、自分たちの口を養うことだけで精一杯。女神さまにお供物 を捧げることなんざできやしない。 ﹁だから、ヒト柱に選ばれる可能性も高いと思うんですか？﹂

﹁そうさ。だって、あたしらには、捧げるものといったらこの身しかないものね﹂

 道を急ぎながらも、街道を進むにつれて増えてゆくこうした避難民たちを観察して、ワ あっとう

タルも確信するようになった。〝ハルネラ〟を恐れ、逃げ隠れせずにはいられずに家を故 はな

郷を離れてきたこのヒトたちは、本当に、圧倒的に貧しいヒトたちばかりじゃないか。

155

ど ごう

ふ ゆ かい

も

そうぐう

 道中ではさらに、憂鬱を通り越して不愉快な光景にも遭遇した。女神を讃える歌が聞こ

えてくるべき礼拝堂から、怒号と悲鳴と泣き声が漏れてくる。かと思えば、今まで聞いた ひび

こともないような、呪文みたいなものを唱える老若男女の声が響く。関所を越えた先の小

さな村では、打ち壊され火をかけられ、ごうごうと燃えあがる礼拝堂を背に、真っ黒なロー こぶし

つ

ブを着た若い男が、木箱の上に乗って、拳を空に突きあげながら何か演説をしていた。集 えが

まなこ

まった村人たちは、半円を描いて彼を取り囲み、憑かれたような目で見あげている。彼ら

の注目を一身に集めて、黒いローブの若い男のふたつの眼は、浅い水たまりに映った太陽

のように、ギラギラと底光りしていた。ひょっとしたらこの若い男は、第二のカクタス・ あれち 

ヴィラになるのではないか、ガサラ郊外の荒地のあの教会で、カクタス・ヴィラが信者た

ちを集めてやってのけたようなことを、もう一度繰り返してしまうのではないか。ワタル きょうふ

は恐怖を感じた。

 ササヤに入って二日目の午後、街道がＹ字に分かれているところにぶつかった。右は海

寄り、ササヤの首都へ、左は山地へ、ルルドへ続くという標識が立てられている。左の道 か

か

へと進路を取ると、避難民たちの道連れは少なくなったけれど、それと入れ替わるように、

ダルババ車に乗ったり、一人でウダイを駆ったりして道を急ぐ、星読みたちと行き交うよ

うになった。ある者はルルドから首都の方へ向かい、ある者は首都からルルドへと走って ゆく。

156

ねんれい

つつそで

 星読みたちは、年齢も種族も様々だけれど、みんなシン・スンシと同じような筒袖の服

を着ているので、すぐに見分けることができた。ただ、服の色によって、たとえば学生の

学年分けみたいな区別があるようだった。階級があるのかもしれない。道中で見かけたな すそ

えんとうけい

かで、いちばん立派な服装をしていた星読みは、ちょうどワタルの母親くらいの年齢のア むらさきいろ

けん

つば

ンカ族の女性で、美しい紫色の筒袖の袖口と裾に、金色の線が入っていた。円筒形の風変 ぼうし 

ぬ

わりな帽子には、勇者の剣の鍔に刻まれているのと同じ、星の形がついていた。

かがや

 山道を、雑木林のあいだを縫うようにして半日進むと、それは前方に見えてきた。 ﹁ほら、あれだ﹂ す

 御者台から、キ・キーマが指をさして教えてくれた。 ﹁あの透き通った丸い屋根。あれがルルドの国営天文台だよ﹂ あかねいろ

とうめい

 もう夕暮れだった。茜色の空を背景に、それはうっとりするほど美しく輝いていた。ちょ

うどプラネタリウムみたいな形の建物だ。ドーム型の半透明の屋根には、窓のような切り

ちが

込みが入っている。きっとあれは、天体望遠鏡のための窓だろう。そのサイズからして、 ぬ

シン・スンシの小屋にあった望遠鏡の、十倍も二十倍も大きなものであるに違いない。

れんが べい

 やがて雑木林を抜けると、国営天文台と、それを取り囲む町の全景が、目の前に広がっ ひら

た。山の一角を切り拓いてつくられたであろうその町は、ぐるりを土色の煉瓦塀に囲まれ、

建物も大半が同じ色の煉瓦でできていた。どこもかしこも古びていて、建物のなかには窓

157

くず

かか

ガラスが割れたり、煉瓦の一部が崩れているところもある。あの美しい天文台を造るには、

さぞかし高価な素材が使用され、高い技術を持つ職人たちが、何人も関わらねばならなかっ うつしよ

たろうから、お金はそっちに回してしまったに違いない。現世の大学と、ちょっと似てい る。

﹁星読みたちは、研究したり勉強したりするために、ここに住み着いてるんだ。だから、 町の外周近くにある建物は、みんな彼らのためのアパートだよ﹂ いっしょうけ ん め い

 筒袖を着たヒトたちが、そこらじゅうを歩き回っている。ダルババ屋の荷車が町の門の と

ねむ

ところに停まっており、門番とダルババ屋で、一生懸命荷下ろしをしている。とても重そ うな木箱だ。あれは全部書物だろうと、キ・キーマは言った。

﹁星読みは、夜中に観測をするだろ？ で、彼らは交代で昼間のうちに眠るんだ。だから がいへき

アパートは、地上部分よりも、地下の部分の方が広くなるように造られているんだ﹂

おどろ

 実際、町を囲む外壁と、そのすぐ内側にある星読みたちの居住区の建物の背の高さは、 いっけんや 

やり

ほとんど同じだ。それも、一軒家の一階分くらいしかない。そして驚いたことに、その低 じゅんかい

うでわ 

い塀や建物の屋根の上を、剣や槍や弓矢で武装した数人のハイランダーたちが、ゆっくり

と巡回していた。ファイアドラゴンの腕輪をはめているから、間違いない。

てつごうし 

﹁何をしてるのかしら？﹂と、ミーナが不思議がった。﹁ここで何かあったのかしら﹂

もんぴ 

 ダルババ屋の荷車が去って、ワタルたちは門番小屋に近づいた。門扉は太い鉄格子で造

158

がんじょう

じょうまえ

られた重々しいもので、頑丈そうな錠前が取りつけられている。門番はキリリと耳の立っ た獣人だった。 かわ

こし

﹁おや、あんたらはハイランダーじゃないか。交代要員かい？﹂

 門番は革の胸当てを着け、腰に短剣を帯びている。ひどくものものしい様子だ。

た ぼう

﹁そうではありません。天文台のバクサン博士にお目にかかりたいんです。星読みのシン・ しょうかい

スンシさんに紹介していただきました﹂

 勝手なことをして、シン・スンシには申し訳ないけど、きっと今は恐ろしく多忙なはず

の博士に取り次いでもらうには、こう言っておいた方がいいだろうと思った。

﹁ああ、そうかい。だったら通行証を書いてあげるから、ちょっと待っててよ﹂ あざ

 外塀の上に立ったハイランダーがこちらを見ている。初めて見る種族のヒトだった。姿 はだ

かわよろい

む

形はアンカ族そっくりだけど、肌の色が新緑のように鮮やかなグリーンなのだ。右手に弓、

背中に矢筒を背負い、胸当てと肩当てだけの簡素な革鎧を着けているが、手も足も剥き出 かみ

しだ。髪の毛は一本もなく、つるりとした頭はつくりもののように美しい。すらりとして ばつぐん

スタイル抜群、目鼻立ちも整っていて、マネキン人形みたいだ。

 ワタルと目が合うと、そのヒトは門の方にぶらぶらと近づいてきた。にっこり笑うと、 真っ白な歯がのぞいた。 ﹁あんたたち、どこから来たの？﹂

159

 声を聞いて、女性だとわかった。 ﹁ガサラです﹂ ﹁あらまあ、あんな遠くから？﹂

﹁このヒトたちは、バクサン博士に会いに来たんだよ﹂と、門番が説明してくれた。﹁ほ い、これが通行証だ﹂

 ハガキくらいの大きさの紙の札をもらった。裏側には建物の案内図が描かれている。 ﹁バクサン博士の研究室は、屋上天文台のすぐ下の階だよ﹂ ﹁ありがとう﹂ ぼう

﹁坊や、あんたなら、バクサン博士とすっごく話しやすいかもよ﹂と、緑の肌のハイラン ダーが言って、コロコロと笑った。 ﹁は？ どうしてですか？﹂ ﹁会ってみりゃわかるわよ﹂

たず

﹁あの、どうしてこんなに厳しい警備をしているんですか？﹂と、ミーナが尋ねた。

﹁だって、見てのとおりだからよ﹂緑の肌のハイランダーは、空いている方の手でワタル

たちの後ろの方を指し示した。大勢のヒトたちがたむろしている。その後ろには、雑木林 を抜けて、こちらにやってくるヒトの列も見える。

﹁おふれが出て以来、ずっとこうなのよ﹂と、緑の肌のハイランダーは言った。﹁みんな、

160

どこの誰がヒト柱に選ばれるのか、どうやったら選ばれずに済むか、知りたくてしょうが

ない。ここに来れば、星読みたちが何か教えてくれるんじゃないかと期待するのね﹂

﹁外塀の周りをうろうろされちゃ困るんで、注意してるんだがね。裏手へ回ってごらん。

キャンプ村ができとるよ﹂門番が言った。﹁それでも、おとなしくしていてくれるならい えら

あつか

いんだがね、なかには、天文台に入れろ、星読みの偉い博士に会わせろと暴れたり、もの を壊したりするヤツらもいるからね。警備が必要なんだ﹂ ﹁そういう荒っぽい連中が、これからますます増えるわよ﹂

 塀の上から周囲を見渡して、緑の肌のハイランダーは険しい顔をした。 か

﹁〝ハルネラ〟が終わるまで、ここは、連合政府の建物と同じ、第一種警備強化地区の扱 いを受けることになったの。だからあたしたちも駆り出されて││﹂ とちゅう

 言葉の途中で、彼女はカモシカのようにしなやかに駆け出した。塀の上を飛ぶように走っ てゆく。 だれ

﹁あ、あそこ！﹂ミーナが指さした。﹁誰かが塀を乗り越えようとしているわ！﹂ や

きょり 

 みすぼらしい身なりの痩せた男が、煉瓦塀をひっかくようにしてよじ登ろうとしている。

緑の肌のハイランダーは、その男が射程距離に入る場所までゆくと、ぴたりと止まって弓 を構えた。 う

﹁そこの者！ 止まれ！ 塀から離れろ！ 警告に従わねば撃つぞ！﹂

161

 塀の上を巡回していた他のハイランダーも、反対側から駆けつけてきた。こちらは槍を い

構えている。二人の手厳しい警告に、痩せた男はすごすごと後ずさりして塀から離れた。 うな

﹁なるほどなぁ﹂と、キ・キーマが唸った。﹁これじゃ警備も要るわなぁ﹂

﹁俺はただ、建物のなかに入れてもらいたいだけなんだ﹂と、みすぼらしい身なりの男は、

ハイランダーたちを見あげて訴えた。﹁悪いことをするつもりはないよ﹂ ﹁天文台には、許可なき者は入れない﹂ いっぱんじん

﹁だって、どこへ行けば許可を出してくれるっていうんだい？﹂ し せつ

﹁ここは政府の施設だ。一般人は立ち入ることができない﹂ たかみ 

﹁そんなの不公平じゃねえか﹂と、男は口を尖らせた。﹁政府の偉い奴らはいいよ、絶対

にヒト柱に選ばれっこないからな。高処の見物だ。だけど俺たちにとっちゃ、切実な問題

なんだぜ。星読みの学者さんたちに会って、ヒト柱にされないためにはどうしたらいいの か、教えてほしいと思うのが当然だろ？﹂

 いつの間にか男の周りにはヒトびとが集まっていて、そうだそうだという声をあげた。 あきら

﹁たとえ星読みの大学者でも、女神さまのお決めになることを、事前に知ることはできな

い。諦めて家に帰り、おとなしくしていることだな﹂と、ハイランダーは言った。 ﹁そんなのひどいじゃないかよぉ﹂

﹁さあ、あんたらも今のうちに、グズグズしないで早くなかに入ってくれ﹂門番が、錠前

162

かぎ

うなが

に鍵を差し込みながら促した。﹁すぐに閉めないと、集まっている連中がうるさいから﹂

 ワタルたちが門の内側に入り、鉄の門扉は音をたてて閉じられた。それを聞きつけて、 すきま 

みじ

またヒトびとが門の方へ集まってきた。制止する門番を押しのけるようにして、てんでに 鉄格子にすがりつき、隙間に顔を押しつけている。 ﹁あたしたちも入れておくれよう﹂ ﹁あんたらだけ特別扱いなんて、ずるいじゃないか！﹂

 鉄格子をあいだに隔てると、ヒトびとの顔はなおさらに悲しく、無力に、そして惨めに

見えた。あちら側からは、僕らがどう見えているのだろう。ワタルはやりきれなくなった。 けんお 

しんこう

﹁早く、そのバクサンとかいう博士のところに行こうぜ﹂キ・キーマが促した。彼にして

は本当に珍しく、嫌悪感でげんなりしたような表情を浮かべている。﹁俺は、信仰を失っ た、ああいう連中を見るのも嫌だ﹂

 ミーナは黙っていた。ワタルも口を閉じたまま、案内図に従って歩き始めた。 めいろ 

 建物のなかは、迷路のように入り組んでいた。小さな部屋があちこちにあり、場所によっ ろうか 

ては、部屋のなかを通り抜けなければ、先へ進む廊下に出られないところもあった。とに かく階上を目指すつもりでいても、階段がどこにあるかわからない。

 驚くほど大勢のヒトびとがいた。大部分は星読みたちだったけれど、まだあの筒袖を着

る資格のない学生なのか、作業着のようなものを身につけた若いヒトびとも、せっせと立

163

あふ

ち働いている。小部屋のなかに溢れんばかりに集まって議論しているかと思えば、ずらり

いそが

せま

と並んだ机に向かって何かしら計算していたり、辞書のような分厚い本のページに天眼鏡 かか

をあてていたり、巻物から巻物へ文章を書き写していたり、とにかく忙しそうだ。狭い通

路で、両手に本を抱えた星読みとぶつかって、謝ったり本を拾ったり、今度はまた別の星

読みとぶつかったり。おまけに、星読みたちはみんな、頭のなかが学問や研究ではちきれ

ふ

そうなのだろう、階段はどこですかとか、ここは何階ですかとか問いかけても、とんちん かんな返事がかえってくるばかりである。

あせ

﹁ここは、最初からこんな背の高い建物じゃなかったんだろうな﹂汗を拭きながら、キ・

キーマがこぼした。﹁建て増し建て増しで、どんどん上に積みあげていったんだろう。だ から、階段がひとつの場所にないんだ﹂ あか

 それでも、階段を見つけてのぼるたびに、灯り取りの窓から見おろすと、地上が遠くなっ

てゆくのがわかった。やがて、門番の言っていた、裏手の森のなかのキャンプ村も見渡せ るくらい、高いところまでのぼった。 ﹁案内図だと││この階のはずだ﹂

 十階か十一階分のぼったところで、ワタルは息をついた。その階にはヒトが少なかった。 廊下など、がらんとしている。静かだ。 つ

﹁この突き当たりだと思うよ﹂

164

 と、指さしたドアがさっと開いて、赤い筒袖を来た女性の星読みが、せかせかと出てき た。またぞろ両手いっぱいに本を抱えている。 ﹁バクサン博士はおいでですか？﹂

 ワタルは大声で訊いた。星読みの女性は、口のなかで何か公式みたいなものをブツブツ 呟いているだけで、返事もせずに階段を駆け降りていった。 ﹁ま、行ってみようよ﹂  そのドアに近づき、ノックをした。

﹁無用である！﹂と、大きな声が返ってきた。なかなかの張りのある、男のヒトの声だ。

 三人は顔を見合わせた。﹁入っていいってことじゃないの？﹂と、ミーナが言った。

 そろそろとドアの隙間から室内に首をのばしてみると、目の前に、うずたかく積みあげ ちんざ 

ひ

られた本と巻物の山が鎮座していた。山はひとつではなく、ざっと見た限りでも五つはあっ

ほこり

た。部屋の二面は大きな窓で、その外側には青い空が広がっている。室内は陽の光でいっ まぶ

ぱいで、眩しいほどに明るかった。 ﹁バクサン博士はいらっしゃいますか？﹂

 部屋の奥にあるふたつの本の山のあいだで、埃がぼわんと立ちのぼった。 ﹁無用である！﹂と、またあの声が言った。 ﹁あの、僕らバクサン博士にお会いしたくて来たんです﹂

165

ま

 また埃がぼわんと舞いあがる。 ﹁ならばこちらにおいで！ 私はそんなところにはおりませんぞ！﹂ ふ

 あら、あの声がバクサン博士なんだ。失礼しますと前置きして、ワタルたちは部屋のな かに踏み込んだ。 ﹁博士、どこですか？﹂

﹁ここぢゃ！﹂と、また埃。さっきとはちょっと場所が違う。なにしろ本だらけで狭いの

さけ

で、ワタルたちはバラバラに分かれ、とにかく通れる場所を通って部屋のなかほどまで進 んだ。

おこ

 しかし、博士の姿はない。キ・キーマは首をひねっている。﹁いないぜ？﹂ ﹁博士、どこにいらっしゃるんです？﹂ ﹁ここにおると言うておろうが！﹂  ワタルのすぐ足元で声がする。ちょっぴり怒っているみたいだ。 ﹁ここって││﹂ ひも

の

 誰かがブーツの紐をひっぱっている。ちらりと視線を落として、ワタルはきゃっと叫ん だ。思わず後ろに飛び退くと、背後の本の山にぶつかってしまって、 ﹁おお、危ない！﹂ わめ

 ガラガラと崩れ始めた。キ・キーマがわっと喚いた。その山の向こう側にいたらしい。

166

そ こつ

 30 バクサン博士は語る     こぶし

たも

ふ

もも

すいしょう

なぐ

﹁何という粗忽！﹂バクサン博士は小さな拳を振り回し、ワタルの腿をポカポカ殴り始め あがな

た。﹁ここにある書物は、女神さまのつくり賜うたすべての金、すべての水晶、すべての ぎょく

ふ

玉を集めてもまだ購えぬほど貴重なものばかりなのぢゃ！ こら、その足を退けんか、そ こにも本が落ちておる、踏んでしまう！﹂ か ら だ

 ワタルはできる限り急いで、できる限り静かに身体を移動させ、その場に低くしゃがみ

たけ

こし

こんだ。そうするとやっとこさ、バクサン博士と同じくらいの身の丈になった。 こ

むらさきいろ

つつそで

えん

 バクサン博士は、とてもとても小さなヒトだった。身長は、ワタルの腰のあたりぐらい とうけい

ぼうし 

ししゅう

までしかない。濃い紫色の地に、金色の線が何本も入ったきれいな筒袖を着て、同色の円

はくはつ

筒形の帽子をかぶっている。帽子のてっぺんにはあの星の形の文様が刺繍されている。 とし

まゆげ 

むなもと

 バクサン博士は、とてもとても歳をとっているようでもあった。ふさふさした白髪が、 かた

くちひげ

つまさき

肩の上まで豊かに垂れている。眉毛も真っ白で、こちらは博士の胸元まで届く長さだ。さ

らには口髭も真っ白で、博士の爪先まで届いている。実のところ、ピンク色の鼻のてっぺ かく

んを除いては、顔の大部分が眉毛と口髭に隠れてしまっている。 ﹁バクサン博士ですよね？﹂

167

む だ 

 ワタルの問いかけに、小さな博士は鼻の頭を真っ赤にして拳を振り回した。

﹁この部屋におる博士は私だけぢゃ！ 無駄な問いに時を費やす者はお仕置きぢゃ！﹂

は

 ポカスカぽかすか！ 本の山をかき分けて顔をのぞかせたキ・キーマとミーナが、 ﹁ワタル、そんなところにしゃがんで何やってるんだ？﹂ ずうたい

﹁あー、そこの図体の大きな水人よ！﹂バクサン博士はぴょんぴょん跳ねた。﹁その本の さわ

山に触るでない！﹂

 二人も、ワタルが相対している小さな博士に気がつくと、あんぐりと口を開けた。 ﹁博士は、パン族のヒトなんですね﹂ ﹁俺、パン族に会ったのは初めてだ﹂ ﹁パン族って？﹂

﹁とても身体が小さくて、とても頭が良い種族なの。もともとはアンカ族の仲間だったと 言われているんだけど﹂ に

る ろう

たみ

か わ い

﹁遠い昔に、アンカ族とパン族のあいだで戦争が起こって、パン族は身体の大きいアンカ ほろ

めずら

族に滅ぼされそうになって逃げ出したんだ。それからは流浪の民になって││﹂  キ・キーマは珍しそうにしげしげとバクサン博士を観察している。 ﹁とっくに滅びたと思ってたぜ﹂ け

﹁滅びておらずに悪かったな！﹂バクサン博士は、今度は蹴りを出した。とても可愛らし

168

かわ

ぐつ

や ばん

こうげき

ごうよく

さえぎ

い革の編み上げ靴をはいていた。﹁ササヤには、野蛮なナハトや強欲なアリキタでは生き られない少数種族がまだまだおるのぢゃ！﹂ ﹁ス、スミマセン！ 失礼しました﹂

 ワタルはあわてて謝りながら、両手でバクサン博士の攻撃を遮った。 うかが

﹁僕たち、博士に教えていただきたいことがあって伺ったんです。先生のお名前は、星読 みのシン・スンシさんから聞きました﹂

 ちっちゃな拳を振りあげたまま、バクサン博士はぴたりと止まった。 ﹁なに、シン・スンシとな？﹂ で し 

﹁はい。先生のお弟子さんですよね？﹂

うでわ 

﹁弟子ではない。生徒ぢゃ﹂博士は長い長い口髭をひっぱりながら、首をかしげた。﹁あ のいくじなしがハイランダーと知り合いになるとは意外ぢゃな﹂

ぬま

 ポカスカやりながらも、博士はちゃんと、ワタルのファイアドラゴンの腕輪には気づい ていたようである。 なげ

﹁シンさんはいくじなしなんかじゃありませんよ。〝嘆きの沼〟のそばで、立派に観測を 続けています。僕、道に迷って、シンさんに助けてもらったんです﹂

﹁なるほど。なれば感心なことぢゃったな。それ以前に、道に迷うハイランダーというの は少々情けないと言わねばならんが﹂

169

ふ

 ミーナがぷっと吹き出した。 いそが

﹁おぬしら、何の用があるか知らぬが、わしは忙しいのぢゃ﹂ ﹁それはわかってます。でも││﹂ すきま 

まぎ

﹁でも、は通らぬ。わしは忙しい。帰るがよろしい。でわ！﹂ こ ねこ

 子猫のようにすばしっこく、積みあげられた本の隙間に紛れこんでしまおうとする博士

えり

を、まことに失礼なことながら、ワタルはつかまえた。とっさに、服の後ろ襟をつかんで

持ちあげたので、ホントに猫みたいにぶらさげることになってしまった。 ﹁わわわ！ 何をする！ この無礼者！﹂ とう

﹁すみません、でも、どうしても教えていただきたいんです、博士ならご存じだと思うん です、運命の塔に続く道を││﹂

﹁運命の塔ぢゃと？﹂ぶらさげられてジタバタしていた博士は、その苦しい体勢のまま、 首をよじってワタルを見あげた。 みは

 ワタルはうなずいて、言った。﹁僕は〝旅人〟なんです﹂ ひとみ

かがや

 長い両眉を持ちあげて、博士は目を瞠った。それで初めて、つぶらな黒い木の実みたい

な瞳が見えた。それはけっして老人の瞳ではなかった。その輝き。ふと、ミツルの瞳を思 い出した。

 キ・キーマがちょっと首をすくめて、ミーナに、﹁博士はものすごい物知りのはずだろ？

170

おどろ

ささや

 〝旅人〟っていうだけで、なんであんなに驚くんだ？﹂と、囁いた。

﹁そうか﹂と、バクサン博士は、うってかわって静かな口調で言った。﹁それではまず、 わしのブーツを探してくれんかの？﹂ ﹁ブーツ、はいてますよ？﹂

﹁この靴ではないのぢゃ。そのへんにある。おお水人よ、おぬしの後ろぢゃ﹂

 それは木でできたブーツだった。正確に言うならば、ロングブーツの形に似せて作った、

たず

む く 

丈の高い踏み台だ。ワタルはその上にバクサン博士を乗せてあげた。すると、ワタルがしゃ がまなくても、顔を合わせて話ができるくらいの高さになった。 むすめご

﹁この水人とネ族の娘御は、あなたの仲間かな？﹂と、博士はワタルに尋ねた。 ﹁そうです﹂ つ

ひ ごろ

バザール

﹁ならば、二人は外してくれい。下の様子を知っておろう？ おふれ以来、無知で無垢で

無力なものたちが詰めかけてきて、日頃は静かなこの学府が、まるで市場のような有様 ぢゃ。行って、警備を手伝ってやってくれ﹂

だま

 二人とも少し不満げな目をしたけれど、ワタルがうなずきかけると、黙って部屋を出て いった。 とびら

﹁扉を閉めておくれ﹂バクサン博士はワタルに言った。﹁閉めたら、こちらへおいで﹂ もど

 ワタルが博士のそばに戻ると、博士は眉毛を持ちあげていっそう大きく目を見開き、ひ

171

にぎ

としきりワタルを観察した。それから、おもむろに小さな両手を差し出して、ワタルの手 を握った。 げんしゅく

﹁ようこそ、〝旅人〟よ﹂  厳粛な、重々しい口調だった。 かげ

﹁その顔色、その目の翳りから察するところ、あなたがここに来られたのは、〝ハルネラ〟 の何たるかをすべて知ったからぢゃと思うが、いかがかな？﹂

﹁おっしゃるとおりです。僕は、自分がヒト柱に選ばれるかもしれないと知っています﹂ いの

﹁ふむ﹂バクサン博士はワタルの手を放すと、祈るように胸の前で指を組んだ。﹁あの二

人のお仲間は、あなたが知っていることをまだ知らぬ。そうですな？﹂ ﹁そうです。僕は話していませんから﹂ ﹁して、あなたはここに何を求めておいでになったのぢゃろうか？﹂

 この問いに、答える言葉を知らないからこそ来たのです。ワタルは少し間をおいてから、 ﹁長い話になります﹂と言った。 ﹁かまいません。どうぞお話しなされ﹂

 いちばんはじめから、ワタルは語った。そもそもミツルに助けられて、〝旅人〟の資格 きんちょう

を得ることになったところから、サーカワの長老と話したところまで。 と ぎ 

 バクサン博士は、ワタルの言葉が途切れるまで謹聴していた。高いブーツ型の踏み台の

172

上で、その小さな身体はピクリとも動かない。 ヴィジョン

 やがて、言った。﹁我ら星読みは、星の動きと、この〝幻界〟で起こる事どもとを照ら ことわり

ほとばし

い げん

ひび

し合わせて、世の理を見出すべく学問をしております﹂  小さな身体から迸る、威厳に満ちた声の響き。 ありか 

﹁しかしまことに残念なことながら、サーカワの長老は少しばかり我らを買いかぶりすぎ だれ

こ もんじょ

ておられるようぢゃ。〝旅人〟を運命の塔へ導く宝玉の在処については、わしをはじめと

してこの学府の誰も、何の知識も持ち合わせてはおりませぬ。古文書にもそれらの記述は

ない。そも、わしは〝旅人〟にあいまみえるのは、今が初めてのことでございます﹂ ていねい

 丁寧な口調のままに、博士はワタルに一礼をしてみせた。 ﹁そうですか⋮⋮﹂ らくたん

しゅんかん

き せき

そろ

 落胆は隠せなかった。反面、ほっとしたような気もした。こんな気持ちのままでは、た

おの

とえ今この瞬間に奇跡が起こり、宝玉が全部揃ったとしても、それを使って運命の塔へ行 おんまえ

くことができるかどうか、自信がない。 め がみ

﹁サーカワの長老は、女神さまの御前にたどり着けば、何を問いかけるべきか、自ずとわ かると言っていました﹂ ﹁しかし今のあなたは、その言葉が信じられぬ。そうですな？﹂ ﹁はい﹂

173

ほほえ 

﹁それはすなわち、あなたがあなた自身を信じられぬということぢゃ﹂  静かな断言だった。 ﹁僕は││どうすればいいんでしょうか﹂  バクサン博士の口髭が動いた。どうやら微笑んだようだった。 ﹁わしが何か答えましたら、あなたはその答に従いますかな？﹂  もちろん、返事などできなかった。

 バクサン博士は、両手を腰のあたりで組むと、講義をするような口調になって言った。

﹁先ほども申したとおり、星読みは世の理を解き明かそうとして学問を重ねております。 さじ

たと

むろん、まだまだ道は遠く、我らにわかっていることよりも、わかっておらぬことの方が

多い。我らが得た知識を、ひと匙分の砂糖に喩えるならば、まだ得られずにおる知識は、 視界いっぱいに広がるサトウキビ畑に喩えることができる﹂ ﹁砂糖の山じゃなくて、サトウキビ畑？﹂

か

﹁そのとおり。そのままではただ広大であるばかり。砂糖を得るには、刈り取り、精製を

せねばなりませぬ。効率の良い刈り取りの仕方も、不純物の混じらない精製の方法も、同

時に学び研究していかねばなりませぬ。学問し知識を得るというのは、そういうこと﹂

 ワタルの通っている現世の学校では、そんなことは言ってなかった。

﹁今、わしが手にしておるひと匙の砂糖のなかから、ほんの少し、あなたに差し上げられ

174

るものがあるとすれば、それは││﹂

 木のブーツの上で、バクサン博士はよちよちと向きを変え、わざとワタルに背を向けた。

﹁幻界は、〝旅人〟の心を映して姿を変える││という知識でございますかな﹂

 ワタルは、ずいぶん以前に同じような言葉を聞いたことを思い出した。そう、ラウ導師

だ。〝おためしのどうくつ〟の試練を終えて旅立つワタルに、こう忠告してくれた。  ││幻界は、そこを行く者によって姿を変えるのじゃ。  だから、ワタルの見る幻界とミツルの見る幻界は別物だと。 つく

 それだけじゃない、当のミツルも言っていたじゃないか。幻界は、現実世界に住む人間 おとず

の想像力のエネルギーが創り出した場所だと。

﹁今、幻界を訪れている二人の〝旅人〟は、珍しいことに現世でも友達ぢゃ﹂と、バクサ ゆえ

たが

ン博士は言った。﹁それ故に、あなたたち二人、それぞれの心に応じて姿を変える幻界に、

そうぐう

似通ったところがたくさん出てきた。重なり合うところもたくさん出てきた。互いに気に うそ

かけあっているからこそ、そういうことが起こる。だから、あなた方は時折だが遭遇する。 なっとく

袖すりあう。そういうことです。けっして、ラウ導師のお言葉は嘘ではありませんぞ﹂  ワタルはうなずいた。でも、それだけじゃ納得がいかない。 ざんこく

﹁でも博士、僕はこんな、ヒト柱なんて残酷なことを望んではいません。幻界が本当に僕 つら

の心を映しているなら、どうしてこんな辛いしきたりが││﹂

175

﹁本当にそうぢゃろうか？﹂

 思いがけないほど大きな声で、博士はワタルを遮った。そして、腰のところで手を組ん せま

だまま、きゅっと振り向いた。ところが、そんな急な動作をするには、木でできたブーツ の上は、あまりに狭すぎた。

﹁おりょ！﹂と声をあげ、両手をバタバタさせて、博士はブーツの上から転がり落ちた。 だいじょうぶ

さけ

﹁博士！ 大丈夫ですか？﹂ すご

 ワタルが叫んでブーツの後ろをのぞきこんだとき、研究室のドアがバタンと開いた。扉 かべ

とどろ

が壁で跳ね返るほどの凄い勢いだった。 ど せい

ぬ

 怒声が轟いた。﹁バクサン博士はいるか？ 出てこい！ 出て来るんだ！﹂

 ただならぬ声の響きに、ワタルは本の山のあいだをすり抜けて、ドアの方へ向かった。 山積みされた本のあいだから顔を出したとたんに、

﹁近寄るな！ 誰も近寄るんじゃねえ！ 言うとおりにしないと、こいつを殺すぞ！﹂ の

じゅうじん

 思わず息を呑んで、ワタルは本の陰に隠れた。そうっとのぞいてみると、ドアのところ ちが

いっしょ

と

に、見あげるような大男の獣人が立ちはだかっていた。一人ではない。さっきここへあがっ じ

するど

つめ

てきたとき、すれ違ったあの女性の星読みが一緒だ。彼女は獣人に捕らえられている。背 は が 

後から羽交い締めにされて、首のところに獣人の鋭い爪を突きつけられているのだ。

﹁バクサン博士、いるんだろ？ 出てこい！ 弟子が死んでもいいのか？﹂

176

ゆか

﹁わしはここにおる！﹂バクサン博士が大声を出している。﹁ここにおるが、一人では起 きられんのぢゃ！﹂ たお

ひじ

 ワタルは背後を見た。なるほど、床に落下したバクサン博士の上に、あの木のブーツが

倒れかかっていた。どうやら、ワタルがドアの方へと急いだときに、肘でブーツを押して

しまったらしかった。あわてて近寄ってブーツを起こし、博士を救出した。 ﹁わしはここぢゃぞ！﹂

 博士はあたふたとドアの方へ走り出した。ワタルはまた博士の襟をつかんで止めた。 ひとじち

﹁飛び出しちゃダメです。相手は人質をとってます﹂ ﹁なに？﹂

﹁博士ぇ﹂星読みの女性が泣き声を出した。﹁すみません、この忙しいのにぃ。でもわた し、殺されそうですぅ﹂ ﹁なんと、あれはロミぢゃ！﹂ う かい

 今度はつかまえるまもなく、博士はドアの方へ飛び出した。ワタルはそろりそろりと床 は

を這い、本の山をさっきとは反対側に迂回して、獣人の姿が見えるところまで移動した。 ﹁おお、ロミ！﹂

 とととと走って近寄ろうとするバクサン博士に、獣人は足を蹴り出した。﹁近寄るな！  下がれ！﹂

177

あや

おこ

 危ういところでキックをかわした博士は、床に転がった。がばと起き直ると、両手を振 りあげ、鼻の頭を真っ赤にして怒った。 はな

﹁わしがバクサンぢゃ！ おぬしが出てこいと言ったから出てきたのに、その態度は何 ぢゃ！ 早く弟子を放せ！﹂

し

﹁博士ぇ、危ないです﹂ロミが苦しそうな声を出した。﹁このヒト、本気です。近寄っちゃ いけません﹂

﹁わしとて本気ぢゃ！﹂バクサン博士は勢いよく跳ね起きると、﹁痴れ者め、わしに何の ろうぜき

用があっての狼藉ぢゃ？ 話があるなら、乱暴をせずにきちんと話したらどうぢゃ？﹂

り くつ

 もっともな問いかけだけど、ワタルの見るところ、ロミを捕らえている獣人は、理屈の

通じる状態ではないようだった。ガサラのハイランダー、トローンを思い出させるトラに よご

はし

あわ

似た姿だが、トローンよりもさらにふた回りぐらい身体が大きい。簡素な布の服を着てい おさ

るが、汚れている上にボロボロだ。興奮で両目は血走り、口の端にはあぶくのような泡が あら

たまっている。息づかいは荒く、呼気は熱い。自分でも抑えがきかなくなっているのだろ む

う、足の爪まで剥き出しにしている。 さ

 床の上に点々と血が垂れていた。ロミが傷つけられたのかとドキリとしたが、よく見る つ

と、獣人の左腿に矢が一本突き刺さっていた。警備のハイランダーに射かけられたのだろ う。

178

きんきゅう

﹁おい、チビのジジイ！ 本当におまえがバクサン博士なのか？﹂ ﹁さっきからそうぢゃと言うておろうが！﹂ じ だんだ 

 バクサン博士は小さな足で地団駄を踏んだ。こんな緊急の場ではあるけれど、まるでタッ

プダンスを踊っているみたいな見事な足さばきに、ワタルは感心した。博士、弟子の星読

みたちを相手に、しょっちゅうこうやって地団駄を踏んでいるのかもしれない。

 獣人は口から泡を吹きながら、いっそう強くロミを羽交い締めにした。ロミがきゅうと いうような声をあげた。

﹁おまえはたいそうな学者だそうじゃないか。知ってるんだろう？ 教えろ。どうやった らヒト柱に選ばれずに済む？﹂

 バクサン博士は地団駄をやめると、口髭を床に垂らし、ちょっとのあいだ獣人を見つめ た。それから言った。 ﹁なんぢゃ、結局はそのことか﹂

やく

﹁当然じゃないか！ ちゃんとわかってるんだからな！ おまえらは研究してるはずだ。 しず

政治家たちや金持ち連中にその知識を流して、たいそうな金をもらってるんだろ？﹂ もうせつ

﹁わしらはそんなことはしておらん﹂博士の口調が、急に沈んだ。﹁おぬしらがそんな益 たい

体もない妄説に振り回される気持ちはわかる。わかるが、それはデタラメぢゃ。ヒト柱に 選ばれずに済む方法など、この世の誰にもわかりはせん﹂

179

つば

﹁嘘をつくな！ ごまかそうったってそうはいかねえぞ！﹂獣人は血走った目を剥き、唾

つ

を飛ばして怒鳴った。﹁こいつが死んでもいいのか？ 俺は本気なんだからな！﹂ こ がら

じゅうぶん

つまさき

 ロミはさらに首を締めあげられる。小柄な彼女は、すでに、獣人の腕で半分吊りあげら

れたような格好になっていて、それだけでも充分に苦しそうだった。必死で爪先立ちして う

わき

いるけれど、今度ぎゅっと持ちあげられたら、足が完全に床から浮きあがってしまうだろ う。

 ワタルは本のあいだに隠れながら、そろそろと移動した。何とかうまく、獣人の脇に回 り込みたい。

ねむ

﹁おぬしが本気なのはわかっておる。〝ハルネラ〟が終わるまで、心安んじて眠れる者は、

この幻界にはおるまいて﹂バクサン博士は、言い聞かせるような静かな口調で続けた。 ひ と ごと

おのれ

﹁わしとて、ヒト柱に選ばれるかもしれぬ。誰にとっても他人事ではない。わずかに、選 きょうふ

た

はさ

ばれるのは地上でたった一人だということにしがみついて、己は大丈夫であろうという希 みな

望的観測の糸にすがって、皆、恐怖に耐えているのぢゃ﹂ ひそ

ま ほうだん

 ワタルは獣人の左側に回り込んだ。ワタルの潜んでいる本の山を挟んで、右手に獣人、

左手には窓。こちら側から、肩のあたりに魔法弾を一発あてることができれば、獣人はロ

ミをつかまえている腕を放すだろう。そしたら前に飛び出して、ロミと獣人のあいだに割 り込むのだ。

180

とつにゅう

 研究室の入口の方からは、さっきから人声がしている。ハイランダーたちが戸口を固め

つか

ているに違いない。ロミが自由になったとわかれば、彼らも室内に突入してくる。 けん

 タイミング勝負だ。ワタルはゆっくりと勇者の剣を引き抜くと、しっかりと柄を握りし

き し 

かん

めた。もうちょっと││もうちょっと向こうを向いてくれよ││そうでないとロミにあたっ てしまう││もうあとほんの少し十センチくらいでいいから。 かっちゅう

 そのとき、甲冑を鳴らす音も重々しく、研究室の入口に、一人の騎士が姿を現した。 ﹁そのくらいにしておいたらどうだ﹂ おだ

さわ

 穏やかだが張りのある声で、騎士は獣人に呼びかけた。 ごく

﹁博士のお言葉に嘘はない。ここでいくら騒ぎを起こしても益はないぞ。ただおまえが監 獄に逆戻りするだけの話だ﹂

はがね

 思わず、ワタルは構えを解いて剣をさげた。あのヒトは││シュテンゲル騎士団のロン メル隊長じゃないか。 よろい

すね

 白銀の鎧に包まれたその姿は、さながら鋼でできた騎士の像のように堂々としていた。 かぶと

かみ

でも、よくよく見れば、胸のプレートや肘あてや臑あてに、無数の傷がついている。隊長

いっさい

ぶ ば 

は兜をかぶらず、無造作に顔をさらしていたが、その金色の髪は乱れ、初めて会ったとき ほお

と比べると、心なしか頬がこけたようにも見えた。 てっこう

 剣は腰につけたまま、手甲に包まれた拳を軽く握って身体の脇に、一切の武張った構え

181

みこころ

を見せずに、隊長は一歩獣人に近づいた。 わざ

﹁〝ハルネラ〟は女神さまの御心のなせる業だ。地上の我々にできるのは、女神さまの御

意思が示される時を粛々として待ち、時至ればさらに粛々とそれを受け入れることだけだ。 さあ、人質を解放して、こちらに来なさい﹂ は

し

ゆる

 獣人は荒い息を吐きながら、ロミを捕らえたままじっと固まっていた。瞬間、彼は隊長 きょうぼう

わ

の説得に従いそうに見えた。ロミの首を絞めあげる腕が緩みかけたようにも見えた。

 が、次の瞬間、何か凶暴な風のようなものが獣人の身内から湧きあがり、それが彼をぶ み ぶる

るぶると身震いさせた。

うめ

﹁貴様はシュテンゲル騎士団だな﹂獣人は食いしばった歯のあいだから呻いた。﹁おまえ らのようなヒト殺しの言うことに、誰が耳を貸すものか！﹂

 この言葉には、ワタルだけでなくバクサン博士も驚いたようだった。南大陸の治安を守 るシュテンゲル騎士団を、ヒト殺し呼ばわりするとは何事だ？

 ロンメル隊長は動じなかった。軽く右手を差し出して、﹁おまえが私の知っている、ナ あくば 

とうぼう

ハトの農民ギュ・タイタスであるならば、今の悪罵は、おまえ自身にこそあてはまる言葉 ではないかね？﹂ わめ

か

﹁うるさい！﹂獣人は喚いた。﹁俺はヒト殺しなんかじゃない！﹂ ごうとう

﹁ナハトのジュザで強盗を働き、駆けつけたハイランダー二人を手にかけて逃亡したのは

182

おうえん

ようせい

ほ ばく

おまえだ。応援の要請を受け、捕縛に向かった私の部下を傷つけたのもおまえだ﹂ しゅうしんけい

 ロンメル隊長の落ち着き払った口調は変わらなかった。 だっそう

おそ

﹁その罪で捕らえられ、ガサラで裁判を受けて終身刑となり、ゴルゴグ監獄へ送られた。

三日前、そこを脱走する際にも、看守二人を襲ってそのうち一人を殺害している。行く先々

やみくも

くう

で血を流し、ヒトの命をふみにじっているのは私ではない。シュテンゲル騎士団でもない。 おまえだ﹂

﹁うるさい、うるさい、黙れぇ！﹂獣人が闇雲に片手を振り回すと、鋭い爪が空を切った。 は

﹁俺たちを故郷の村から追い出したのは誰だ？ 強盗や追い剥ぎをしなくては暮らしがた

やつ

たないように追い込んだのは誰だ？ みんなおまえたち連合政府の奴らじゃないか！ 俺

たちを根絶やしにしようとしやがった！ そうして今度は、一族でたった一人生き残った

ささ

俺をヒト柱にしたてあげようとしてやがる！ 知ってるんだ、俺は知ってるんだ！ 連合

政府は、女神さまが勝手にヒト柱を選ぶ前に、こっちから先にヒト柱を捧げてしまおうと しゅうじん

してるんだ！ 囚人さ！ 俺たちのような囚人をヒト柱にして、それで女神さまと手を打 こんたん

まつげ 

とうという魂胆だ！﹂ ざ

 ロンメル隊長は、睫毛の先さえ動かさなかった。ほとんど黒に近いほど濃い蒼色の瞳は、 さ

冴え冴えと冷たかった。 ﹁それも、おまえの妄想に過ぎん﹂

183

﹁うるさいぃぃ！﹂  ひび割れた声で叫ぶと、 かか

﹁俺は捕まらんぞ！ 二度と捕まったりするもんか！﹂

 喚きながら、ロミを抱えたまま、獣人はワタルの左手の窓に向かって突進した。ここが

あっけ 

最上階であることを忘れているのか、その突進にはまったく迷いがなかった。呆気にとら のが

むな

ていこう

れるような一瞬、ワタルは、両目を恐怖に見開いたロミが、首を絞めつけている獣人の腕

から逃れようと空しく抵抗しながらも、軽々と運ばれてゆくのを見た。獣人の突進による しんどう

ふさ

振動で、そこらじゅうの本の山がガラガラと崩れだした。獣人の後を追おうとして前に飛

ぱ み じん

くだ

び出したロンメル隊長の上にも、たくさんの本が倒れかかって道を塞いだ。 ﹁うおおおおおおぉ！﹂ こ

すそ

ゆうが 

 獣人は肩から窓にぶつかり、ガラスが木っ端微塵に砕け散り、次の瞬間には、その身体

は宙に飛び出していた。道連れにされたロミの筒袖の裾が、優雅に空に泳いだ。

 獣人とロミは、またたきするほどのあいだだけ、中空に止まっているみたいに見えた。 ぜっきょう

 絶叫があがった。

 獣人の声だった。にわかに正気に返り、地上までの高さを思い出したようだった。耳が 逆立った。  そして彼は落ち始めた。ロミを連れて。

184

ほう

 ワタルは飛び出した。足の下でガラスがメリメリと鳴った。剣を放り出し、両手を前に、 窓の手すりにしたたかおなかをぶつけて、それでも前に。 ふ

ようしゃ

 ふんわり。ロミの筒袖が空にたなびく。ワタルの指がそれに触れ、それをつかまえてがっ ちりとつかんだ。ぐいと重みがかかった。 はな

 獣人の腕はロミから離れていた。それでも、いくら彼女が小柄でも、重力は容赦なかっ

た。ワタルは彼女の服をつかんだまま、自分の両足が床から浮くのを感じた。ひっぱられ る。窓の外に引きずり落とされる││ め が ね

 獣人と一緒に、横様に飛び出した彼女の筒袖の、ワタルは腕と脇の部分をつかんでいた。 あおむ 

彼女は仰向けになっていた。落ち始めたとき、眼鏡が緩んで顔から外れた。それが今、持

ち主よりも一足先に、石ころのように落下してゆく獣人の後を追って地上へ落ちてゆく。 じゅんすい

ぐうぜん

ロミもそれに続く。ワタルもそれに続く。

 本能でもなく機転でもなく、純粋な偶然が、ワタルの両足の爪先を、ぐいとばかりに立 まどわく

てさせた。それは窓枠にひっかかった。ワタルは窓から逆さまにぶらさがった。物理的な

ぬ

法則に従って、彼女の身体はワタルの下で建物の壁にどすんとぶつかり、片方の靴が脱げ て眼鏡の後を追った。 にんしき

の

 まだ落ちてない。認識が、ワタルの頬を殴りつけた。落ちてない、まだ。でも時間の問 も

題だ。爪先が││長くは保たない。ちょっとしか保たない。足首が伸びてしまう。そした

185

そうおん

ら一緒に真っ逆様だ││

 窓の内側で怒声と騒音が入り乱れている。この本はどうなってるんだ！ クソ！ ガラ ガラ、どさどさ！

﹁ダ、駄目﹂恐怖に色を失い、口を開けて、ロミがかすれた声を絞り出す。﹁お、落ちちゃ う。あなたまで落ちちゃうわよ﹂

 返事ができなかった。口をきいたりしたら、そんなところにエネルギーを回したら、足 首が伸びてしまう。手が緩んでしまう。 すべ

 そう思っただけで、指が滑った。ロミの服の脇をつかんでいた左手が、離れた。彼女は

がくんと下がった。はずみで、彼女の腕をつかんでいる右腕も緩んだ。

﹁つ、つかまって﹂ワタルは必死で言った。﹁つかまって、る、んだ、よ﹂  早く助けに来てくれ！ 隊長！ 早く本の下から抜け出して！ ﹁あ、たし、駄目││落ちるぅ﹂

ゆ

 ワタルは右手でつかんだ彼女の腕をひっぱろうとした。それがかえってまずかった。す かた

べすべした布が、手のなかで逃げた。つかみなおす││つかみなおして││滑って││

 何か硬い小さなものが、ワタルの手のなかに奇跡のようにひっかかった。ロミの足が揺

れた。その振動が、ワタルにまで伝わって足首が伸びそうになって、ブーツが壁にこすれ て、わずかに下へずるりと動いた。

186

﹁離して││離さないと││あなたまで﹂

 この硬い小さな丸いもの。ロミの筒袖の袖口のボタンだ！ 指と指のあいだにしっかり こ

と挟まっている。これに力を込めるのだ。これでロミを引っ張りあげるのだ。

 そのとき、無情にも、手のなかでボタンがブツリと音をたてた。糸が切れたのだ。

 スローモーション。ロミの髪がふわりと揺れる。そして彼女は落ちる。ワタルの手のな かんしょく

かにボタンの感触だけを残して。上と下。驚きで顔を見合わせる二人。ワタルの足首も緩

む。緩んでゆく。逆さまになったまま、身体が建物の側面に沿ってずり落ちる。

 突然、腰のあたりを誰かの強い腕につかまれた。ぐいっと引き戻される。そして視界の

つばさ

隅を、何か真っ赤なものが矢のように横切った。赤い流星。 ﹁ロミ！﹂ あざ

 ワタルは窓の内側にひっぱり込まれながら、翼をたたんでまっしぐらに下降してきたカ

ルラ族が、地上すれすれのところで鮮やかにロミをキャッチするのを見た。それから、後 ろざまにひっくり返った。

 床の上は本だらけだ。そこらじゅうに落ちた分厚い本の角が、背中にあたって痛いった らない！﹁間にあったようだな﹂

 窓枠から外に乗り出して、ロンメル隊長が声をあげた。地上から大勢のヒトたちの声が かんせい

聞こえてくる。歓声をあげている。ひゅうひゅうと指笛も聞こえる。

187

 ワタルは床の上で起きあがった。隊長が振り向いてこちらを見ると、にやりと笑った。 ﹁また会ったな﹂ ふ ぬ 

﹁はい﹂と応じる声が、今さらのように腑抜けみたいにフワフワしていた。﹁僕を助けて くれたのは、隊長さんですか？﹂

 室内には大勢のヒトたちがいた。本だらけの床の上を這い回っている。シュテンゲル騎 がんば 

士団の甲冑をつけた騎士達も混じっている。

﹁君が自分で自分を助けたんだよ。よく頑張ってぶらさがっていたものだ﹂ ﹁もう駄目かと思いました﹂ な だ れ

﹁窓まで駆けつけるのに、手間取ってしまった。まるで本の雪崩だよ。もがいてももがい ても抜け出せないんだ﹂ ﹁皆さんは何をしてるんです？﹂ つ

﹁バクサン博士を探している﹂ う

 床を埋め尽くす本の下のどこかから、博士の声が聞こえてくる。﹁ここぢゃ！ ここぢゃ というのに！﹂  ワタルは吹き出した。  どうやら無事らしい。ロンメル隊長も笑顔になった。 ﹁ワタル！﹂

188

 出入口のところで声がしたかと思うと、ミーナが飛び込んで││来ようとして、騎士の 一人に止められた。 ﹁このあたりに博士がおられます。踏んづけないでください！﹂ ﹁大丈夫よ、あたしなら！﹂

かたわ

 ミーナはぴょんとジャンプすると、壁を蹴って鮮やかに反転し、ワタルの傍らにぴたり と着地した。

はっくつ

﹁下で見てたの。死ぬかと思ったわ！﹂ ﹁僕もそう思ったよ﹂ け が 

﹁怪我はない？﹂

 ようやくバクサン博士が発掘され、子供のように騎士に抱き取られて、姿を見せた。 ﹁おお、無事ぢゃったか？﹂ ﹁はい。ロミさんも大丈夫です﹂ ﹁ありがとう、ありがとう！﹂

 本の上を滑ったり転んだりしながら近づいてくると、博士はワタルの手を取って振り回 した。 ﹁あなたはロミの命の恩人ぢゃ﹂ ﹁でも、あの獣人は││﹂

189

あお

 博士はつと顔をあげて、ロンメル隊長を仰いだ。﹁あなた方は、あのギュ・タイタスと かいう獣人を追いかけて来たのですかな？﹂ わ

 ロンメル隊長は、姿勢を正して一礼した。﹁そのとおりです。博士、このような事態を 引き起こし、深くお詫びを申しあげる﹂ き おく

か

﹁わしの記憶が確かならば、ギュ・タイタスと言えば囚人だったはずぢゃが？﹂ ﹁はい﹂

﹁各地の監獄で、囚人がヒト柱に選ばれるというデマが飛び交っておることは聞き知って

おりました。しかし、脱獄まで引き起こすほどの騒ぎになっておるとは﹂ やつ

﹁我々の力が足りないのでしょう﹂

あ

 そのときやっと、隊長が窶れたような顔をしているのは、南大陸各地で発生している混 さと

乱のせいなのだと、ワタルは悟った。

﹁僕らはここに来るまでのあいだに、目立った騒動には遭いませんでした。でも、ひどい ことになっている場所もあるんですね？﹂

しょうしゅう

 ロンメル隊長はうなずいた。﹁君たちハイランダーにも、まもなく緊急召集がかかるだ

ろう。カルラ族がここに来合わせていたのも、ひょっとしたらその召集書を運んできたか らかもしれないよ﹂

 ミーナが不安そうにワタルを見た。でも、ワタルは別のものを見ていた。自分の右手を。

190

みは

も

 まだ、握りしめていた。その指のあいだから、明るい金色の光が漏れている。 ﹁これ、何？﹂ミーナが目を瞠った。 てのひら

 ワタルはゆっくりと掌を開いた。ロミの筒袖の袖口についていた、丸いボタン││  それが光り輝いている。

191 てのひら

 31 第二の宝玉     う

ま

す

ひとみ

 掌の上からふわりと浮きあがると、ボタンはちょうどワタルの目の高さにぴたりと止まっ かがや

くず

たくさん

た。輝きが増し、そこから発する光は、さながら聖剣のように真っ直ぐで、ワタルの瞳の 奥底まで照らし出すようだった。 ﹁二番目の宝玉だ││﹂ つぶや

 ワタルの呟きに呼応して、部屋中に散らばり、崩れてまた山を成している沢山の本の下

から、もうひとつのまばゆい光が立ちあがった。第二の宝玉が発するのと同じ、金色の光。 ﹁あっ、勇者の剣！﹂

さ

 ロミを助けに飛び出すとき、投げ捨てたままだった。ワタルは急いで光の射している場

所に近づき、手をのばした。剣はそこにあった。それ自らの意思で、ワタルの右手にすぽ りと収まった。 ふ

 剣を手に振り返ると、宙に浮いた第二の宝玉を中心に、金色の光が広がり始めた。それ はやがて、すっぽりとワタルを包み込んだ。 おどろ

 研究室内のあちこちで、驚きの声があがる。しかしワタルは、目をそらさずに宝玉を見 つめていた。

192

かみ

はだ

いっつい

つばさ

 キラリ。宝玉がまたたいた。するとワタルの目の前に、輝かしい金色の光を身にまとっ たて

た少年の姿が現れた。髪も、瞳も、肌も金色。背中には一対の黄金の翼があり、ゆっくり めぐ

と羽ばたいている。右手に剣。左手に盾。  ││ようやく巡り合えたな、〝旅人〟よ。 り り 

つかさど

はがね

せいれい

おとず

 金色の少年は、凛々しい顔をかすかにほころばせて、ワタルに呼びかけてきた。 かな

 ││私は勇気を司り、鋼の意志を尊ぶ精霊。  奏でるような美しい声だ。しかし、口調は重々しい。 め がみ

 ││そして、女神に招かれし勇者に道を開くもの。  ワタルはうなずいた。

とど

 聞くがよい、勇者よ。私は私を望む者すべてのもとを訪れる。しかし、飛び去るときは とびら

この翼で、音もなく、時よりも速く去るだろう。勇気は、招くよりも生み出すよりも、留

めることこそが難しい。心せよ。私を得る扉は少なく、私を失う窓は多い。 ふる

﹁わかりました﹂ワタルはわずかに震える声で答えた。 びしょう

 勇気の精霊はくちびるを一文字に結ぶと、目元だけで微笑した。  ││女神のご加護のあらんことを。 もど

 精霊の姿は消え、金色の光に戻った。光輪が縮まり、第二の宝玉のなかに吸い込まれて こ

ゆく。ワタルは請うように右手を差しのばし、宝玉は掌のなかに収まった。

193

つば

こし

さや

 ワタルが第二の宝玉を勇者の剣の鍔にぴたりとはめこみ、剣を腰につけた鞘に収めるま で、室内は静まりかえっていた。 だれ

いの

 やがて、ロンメル隊長が口を切った。﹁これが〝旅人〟の力か﹂  誰かが女神の祈りを唱え始めた。ロミだ。

 両手の指を胸の前で組み合わせ、目を閉じて、彼女はきれいな声で祈った。居合わせた き し 

騎士たちも、ハイランダーたちも、星読みたちも、バクサン博士もミーナも、みんな彼女 に唱和した。 たた

 女神を讃える言葉で祈りを終えると、ロミは目を開いた。瞳が輝いていた。

﹁そのボタン││いえ、本当はボタンじゃなくて、私の家では、〝星読みを導く石〟と呼

んでいるんですけど、ずっと昔から、我が家に伝わっているものだったんです﹂

 ロミの家は代々星読みをしていて、彼女の父親も、その父親も、みんなみんな星読みな のだという。

﹁私がこの天文台で学問をすることになったとき、父が自分の服につけていたのを取り外

おく

して、くれたんです。いつでも身につけて、大切にしろと。これは星からの贈り物、ご先 祖さまから伝わったお守りなんだからって﹂

 遠い昔、ロミのご先祖さまの星読みが、ある夜観測をしていて、金色の流れ星を見つけ

た。追いかけて行ってみると、美しく輝くこの石が落ちていたのだという話だ。

194

がんば 

はげ

﹁我が家ではみんな、この石を身につけて、学問を続け、務めを果たしてきた。だからお

まえも頑張るのだよって、父は励ましてくれました。でも、まさかこれがそんな深い意味 を持つ精霊の宝玉だったなんて││﹂

ば

 バクサン博士が、いつの間にかあの木のブーッの上にちょこんと乗っていて、重々しく せきばら

咳払いをした。

す

がた

﹁知識を求め、学問を続けることには、大きな勇気が必要ぢゃ。新しい知識が、素晴らし

いものばかりだとは限らぬ。しかし、時にそれがどれほど自分にとって受け入れ難くても、 そむ

み きわ

信じたくなくても、明らかになった事実から目を背けては、学問は成り立たぬ。世の中の さけ

すべてのヒトびとに後ろ指さされ、非難されようとも、真実を見極めたなら、それが真実

だと叫び続けねばならぬ時もある。学問には、ひるまずに前を向き続ける、鋼の意志が必

要なのぢゃ。だから、星読みの家のもとに勇気の精霊の宝玉が留まっていたというのは、 まことにふさわしいことに思えるがな﹂

みな

﹁はい﹂ロミはうなずいて、にっこりした。﹁ワタルさん、助けてくれてありがとう﹂ そうどう

 バクサン博士は、一同に向かって呼びかけた。﹁さあ、シュテンゲル騎士団の皆さんよ。

さわ

混乱や騒動で、あなた方が来るのを待っている場所は、ほかにもある。まだまだ増えてゆ なぐさ

なだ

で し 

くぢゃろう。どうそ行ってくだされ。ハイランダーの皆さんよ、今の騒ぎで、事情を知ら おび

ぬヒトびとが怯えていることぢゃろう。慰め、宥めてやってくだされ。そして我が弟子た

195

ちよ││﹂  両手を腰にあてて、エヘン。 ﹁この部屋を片づけるのぢゃ！﹂

196

 32 ワタル    

もど

 先にたってよちよちと階段をのぼりながら、〝旅人〟に会うのは初めてぢゃが、知識は

うつしよ

持っておる﹂と、バクサン博士は言った。﹁その宝玉を使って、現世の様子を見に戻るこ とができるはずぢゃが？﹂ つば

﹁はい、そうです﹂ けん

﹁それには、剣の鍔に刻まれておるのと同じ、文様が必要なのぢゃよな？ ならば、ここ ゆる

えが

にも文様がある。観測器のある部屋ぢゃ。わしについておいで﹂ かべ

ゆか

はんとうめい

かがや

みが

 緩やかなカーヴを描く階段を、半階分だけのぼったところに、観測室はあった。これま ちが

す

で見てきた部屋とは違って、壁も床も半透明に白っぽく輝く石でできていて、よく磨きあ

きょだい

げられており、顔が映るほどだ。部屋は円形で、観測器は真ん中に据えられている。シン・ てんじょう

たいほう

スンシの小屋で見たものを、十倍ぐらいのサイズにして、台座を取りつけてある。巨大な つつがた

望遠鏡だ。筒形の部分をドーム型の半透明の天井に向けているところは、ちょっと大砲に も似て見えた。 ひ

す

﹁陽が落ちると、この天井は透明になる﹂ぐるりと手で示して、博士は説明した。﹁光を にご

受けると白く濁り、光が消えると透き通る石で作られておるからな。この不思議な石は、

197

こうしょう

アリキタの限られた鉱山の鉱床からしか、採取することができぬ﹂

 博士は、ちょうど望遠鏡の筒先の真下で立ち止まった。﹁ここへおいで﹂  白い石の床の上に立って、博士は足元を指さして見せた。

う

﹁ここに文様がある。しかし、今は見えん。文様の部分だけは、天井と同じ石でできてお まぎ

お れい

るから、陽があるうちは床の石の色に紛れてしまうのぢゃ。陽が暮れたら、浮きあがって 見えるようになる﹂

 その前に、もう少し話しておきたいと、博士はワタルに向き直った。 で し 

ま

す

﹁先ほどは、わしの弟子を助けてくれて、本当にありがとう。あらためて御礼を申しあげ こし

る﹂  腰を折って、深く頭をさげた。 やさ

ひとみ

﹁あなたの勇気と、あなたの優しさ、あなたの心の真っ直ぐなことを、わしはこの目で確 かめることができた﹂ ほ

 褒められているのだ。でも、博士の瞳は厳しくワタルを見据えている。 ゆえ

﹁しかし、そのうえで、あえて申し上げよう。あなたならば、きっとわかってくれると確 信したが故に﹂  思わず、ワタルは姿勢を正した。 ヴィジョン

﹁わしは言った││〝幻界〟はあなたの心を映して姿を変えると。同じことを、ラウ導師

198

ことがら

もあなたに教えた﹂と、博士は言った。﹁それはどういうことか。考えてごらん。幻界で

く

起こる事柄が、あなたの心を映しているのならば、なぜ種族差別があるのか。なぜヒト柱 が必要なのか﹂ か こく

 それこそが、ワタルの疑問だ。その答を知りたくてここに来たのだ││ り ふ じん

﹁なぜ、そのように理不尽で過酷な事柄が、この幻界に存在するのか﹂念を押すように繰 おのれ

きら

り返してから、博士はゆっくりと続けた。﹁答はひとつぢゃ。よろしいかな。それは、あ だれ

なたの心のなかにも、それらの理不尽が存在するからぢゃ。己と姿形の違うものを嫌った いと

たくら

り、考えの違うものを退けたり、何かを厭うたり、誰かを嫌ったり、他人よりは常に良い

うば

思いをしたいと願ったり、他人の持っておるものをうらやんだり、それを奪おうと企んだ

り、己が幸せになるために、他者の不幸を望んだりする心が、あなたのなかにも存在する

からぢゃ。幻界の有りようは、ただそれを映して形にしているに過ぎません﹂

﹁ちょ、ちょっと待ってください﹂思いがけないこの非難に、ワタルは思わず声を張りあ げた。﹁僕はそんなこと││﹂ ゆうかん

﹁わかっておる、わかっておる﹂バクサン博士は手をあげてワタルを押しとどめた。﹁あ ねた

は かい

なたは勇敢ぢゃ。あなたは優しい。あなたは他者を思いやる。友を思いやる。あなたは善 にく

良ぢゃ。しかし、そのあなたのなかにも、憎しみがあり、妬みがあり、破壊がある。それ に

はどうすることもできぬ真実。目をそらし背を向けて逃げ出すことはできぬ真実﹂

199

ぬ

ほお

 あまりのことにぽかんとしながらも、ワタルは思い出していた。それは出し抜けに頬を ぬま

げんえい

うす

張られて、目が覚めるような気分だった。 なげ

 嘆きの沼で見たあの幻影。薄ら笑いを浮かべながら、父に生き写しのヤコムを殺したワ

タルの分身。父の愛人に生き写しのリリ・ヤンヌを殺し、彼女の腹から生まれた石の赤子 なみだ

に、この血も涙もないヒト殺しと責められて、あわてて逃げ出したワタル。

 あれもまた、自分の真実だったのではないか。その意味で、あれは幻覚などではない。

あれもワタルの一部。ワタルの心が望んでいることが、幻界のなかに現れたもの。 みな

﹁あなただけではない。ヒトは皆、同じぢゃ。例外はない。まったき善の心を持つヒトな

じゃあく

ど、おるわけがない。いたとしたら、それはまったき悪よりもなお邪悪であろうよ。そう いか

いう心を映して形を成す幻界があったとしたら、わしはそこだけには行きたくないと願う﹂ ひざ

﹁博士││﹂膝から力が抜ける。﹁僕の心にある憎しみや怒りが、差別やヒト柱の形をとっ

て、幻界のヒトたちを苦しめてるというんですか？ だったら僕さえいなければ、僕が立

ち去れば、こんな苦しみや理不尽は終わりになるっていうんですか？﹂ ﹁とんでもない。それは違いますぞ﹂ ﹁だったら││どうすればいいっていうんです？﹂

 バクサン博士は一歩ワタルに近づくと、研究室でそうしたように、両手でワタルの手を 取った。

200

め がみ

とう

﹁すべてはあなたの内にある。あなた自身を映して、幻界は形を成している。それを知っ

た上で、進みなさい。どうすれば女神さまのおわす運命の塔にたどり着けるのか、あなた

自身が迷いながら探しなさい。それこそが、〝正しき道を歩む〟ことぢゃ﹂ ﹁そんなこと言ったって、わからないよ！﹂ にぎ

 ワタルは手をふりほどこうとしたけれど、博士はがっちりと握っていて放してくれない。 あせ

﹁差別も破壊も憎しみもあなたならば、友情も優しさも勇気もあなたぢゃ。己だけはヒト

柱になりたくないと焦るのもあなたならば、ヒト柱を要求する女神さまに怒りをおぼえる

のもあなたぢゃ。他種族を差別し、この世の不都合をすべて彼らのせいにして済まそうと やから

する輩もあなたなら、我が身をかえりみず他者を助けようとするのもあなたなのぢゃ。あ

なたは何度も命の危険にさらされた。あなたを殺そうとするものが、幻界にはおる。それ かんじょう

もあなたぢゃ。しかし一方で、何の損得勘定もなしにあなたを助け、あなたの力になろう とする仲間たちもおる。それもあなたぢゃ﹂

え がお

 老神教徒たち。あのギロチン。今に自分たちが南大陸を支配するのだとうそぶいたアン カ族の少年。  ミーナの歌声。キ・キーマの笑顔。  どちらもワタルの心から生まれたもの。

﹁あなた自身を見つめなさい。憎しみと怒り、優しさと勇気。どちらも等しくあなたのも

201

のぢゃ。それを直視した上で、運命を変えるとはどういうことなのか、結論を出すのぢゃ。

あなたがその答を得たときに、運命の塔への道は開ける。そして道が開けたときには、女

神さまに何を願えばいいか、あなたは知っているはずぢゃ。女神さまに会えば答が得られ

るのではない。女神さまに届く〝正しき道〟こそが、そのままあなたの解答なのぢゃ﹂

 ワタルは首を振った。﹁だけどヒト柱は？ 僕はこんなもの認めない。賛成なんかして いや

ない。自分がヒト柱にされるのだって嫌だ！ だから、それができるならば、今すぐにだっ

て運命の塔に行って、女神さまにお願いしたいくらいだ。ヒト柱なんてやめてくれって﹂

﹁そしてあなたは現世に帰る﹂バクサン博士は静かに言った。﹁あなたの運命を何も変え

おとず

ぬまま、あなた自身も何ひとつ変わらぬまま、現世に帰る。あなたをして幻界を訪れさせ るほどに、強かった願いは、何もかなえられぬままに﹂ ﹁それでもいいって言ったら？﹂

こうかい

﹁今は良いだろう。一年は良いかもしれぬ。五年も良いかもしれぬ﹂  しかし未来はどうだろうか？ きょうふ

﹁人生のどこかで、いつかあなたは後悔することぢゃろう。ヒト柱に選ばれるかもしれぬ

うら

という恐怖に負け、ヒト柱という残酷なしきたりに対する怒りに負け、自分の運命を変え ふ

ることができた、たった一度きりのチャンスを棒に振ったことで、自分を恨むぢゃろう。 むすめ

仲間たちを恨むぢゃろう。あの水人やネ族の娘がヒト柱にされるのが嫌だから、自分は自

202

ささ

分のチャンスを捧げてしまった。あの連中さえいなければ、幻界で親切にしてくれた仲間

たちなどいなければ、誰がヒト柱にされようが知ったことではなかったのに、と思うぢゃ は が 

くや

ろう。自分がヒト柱にされないよう、もう一人の〝旅人〟を出し抜いて、さっさと運命を

変えて現世に帰ってしまえば良かったと、歯噛みをして悔しがることになるぢゃろう。現

世でその身に降りかかる不幸や不運のすべてを、幻界でのたった一度の決断の上に帰する

ひど

ことになるぢゃろう。そしてあなたの恨み、あなたの憎しみ、現世で傷つくあなたの心を

そっくり映して形を成す幻界では、他種族差別よりも、ヒト柱よりも、もっともっと酷い 出来事が起こるようになるぢゃろう﹂ み いだ

 僕は││そんなふうにはならない││と、言うことができない。

﹁わかるぢゃろう？ あなたはまだ正しき道を見出してはいないのぢゃ﹂バクサン博士の かいしゃく

なぞ

声が優しくなった。﹁だから、今あなたが下す決断はすべて、未来のあなたを裏切る。必

ず裏切る。サーカワの長老の言葉は正しい。そのとおりに解釈すればよろしいのぢゃ。謎 か 

掛けでも何でもない。正しき道を見出して女神さまに会え。わしも同じ忠告をするだけ ぢゃ。それしか忠告することはできぬ﹂  バクサン博士はワタルの手を離すと、ドームの天井を仰いだ。 ふ

﹁陽が暮れたら、星の下、文様を踏んで、あなたはいったん現世へ戻る。誰に会うのか、 たず

誰と何を話すのか、わしは尋ねませぬ。戻ってきたときにも何も尋ねませぬ。あなたの心

203

あきら

かなめのみとびら

が求めるままにすることぢゃ。しかし、その結果、あなたがこの旅を諦めるという結論を

出したときだけは、わしの研究室においで。ラウ導師のもとに手紙を届けて、要御扉を通 れるようにしてあげるから﹂ こ もんじょ

﹁今まで││そういうことをした〝旅人〟はいるんですか？﹂ めずら

﹁いるよ。旅を打ち切る〝旅人〟は珍しくない。古文書にも、ちゃんと書き留めてある。 とど

現世に戻る者もおるし、少数だが、そのまま幻界に留まる者もおる。己の心をそのまま映 す世界で暮らすのは、それなりに平和なのかもしれぬ﹂ こうべ

 ワタルは頭を垂れた。僕にはできない。今、現世に逃げ帰ってしまうなんてできない。 ﹁僕、母さんに会ってきます﹂顔をあげて、ワタルは言った。

あわ

あかねいろ

ひ ざ 

 光の通路を通って戻った先は、また病室だった。だが今度は、時刻は夜ではなく、夕暮

うす

れだった。淡い茜色の陽射しに包まれて、三谷邦子はベッドの上に半身を起こして座って わき

いた。ぼんやりと、窓の外に目をやっている。 なみだ

なつ

 光の通路から、ワタルはベッドの脇に降りた。しかし邦子は気づかない。薄い陽射しの とし

なかで、その頬を伝う涙の筋が見える。 や

のどもと

こ

 ずいぶんと痩せた。急に歳をとったようにも見えた。でもワタルの母さんだ。懐かしさ あふ

と申し訳なさとがごちゃ混ぜになって心に溢れ、喉元まで込みあげた。

204

おどろ

﹁母さん﹂と、ワタルは呼んだ。自分でも驚くほどに、弱々しい声しか出なかった。今、

おそ

母さんと話さなければならないという気持ちと、こんなに悲しい母さんを見たくはない、 まど

母さんだって見られたくはないだろうという気持ちが大波のように襲いかかってきて、ワ

タルを惑わせ、くじけさせた。このまま立ち去ろうか。すべて済んで、何もかも終わって、

帰ってきたときにうち明ければいいじゃないか。まだまだ先が見えない今のうちに事情を なだ

あや

きびす

話して、心配させることなんかないじゃないか。

 そんなふうに自分を宥めて、危うく踵を返そうとしたそのとき、邦子がつと手をあげて、 ぬぐ

目を拭った。 にんしき

ゆ

 やっぱり泣いているのだ。

 その認識が、ワタルを揺り動かした。僕がいないところで、母さんを泣かせておいたら

いけない。心配をかけるよりも、そんなことは、もっと良くない。そんなことは、絶対に そこ

しちゃいけないんだ。ここで母さんをほったらかしにしたら、僕が帰ってくるまでのあい か ら だ

だに、母さんはきっと身体を損ねてしまう。心をすり減らしてしまう。 ぼうけん

 この冒険、この旅は、もはやワタル一人のものではない。そして、幻界を行くワタルに 必要なものが、現世で待つ母にも必要なのだ。  それは、希望。 ﹁母さん﹂

205

はじ

うつむ

 今度は大きくはっきりとした声で、ワタルは呼びかけた。俯いたまま、邦子は大きく両 目を見開いた。そして、弾かれたようにこちらに顔を向けた。 つぶや

とも

の

﹁亘？﹂と、小さな呟き。ワタルが一歩ベッドに近づくと、驚きに見開かれていた邦子の

ふ とん

目のなかに、光が灯った。 ﹁亘！﹂ さけ

りょううで

だ

 叫んで、両手で布団をかき分け毛布をはね除け、邦子はベッドから降りようとした。ワ

タルは両腕を差しのべて母に飛びつき、ぎゅっと抱きついた。もうずいぶん以前から、こ

き おく

んなふうに母さんに抱きついたことなどない。それでもわかった。記憶のなかにある母さ んの身体はもっとふっくらとしていた。こんなにか細くはなかった。 ﹁亘、亘、亘なのね？﹂

 ぽろぽろと涙をこぼしながら笑い、ワタルを抱きしめながら揺さぶり、腕を緩めて両手 でワタルの顔を包み、瞳をのぞきこんで、

﹁ああ、ホントに亘だ！ 帰ってきたのね！ いったいどこに行っていたの？ どうして いなくなったりしたの？﹂  邦子は大声で泣きだした。 ﹁ごめんね、母さん﹂

 ワタルも泣いてしまった。心が身体の内側いっぱいにふくらんで、指先の一本一本にま

206

かみ

つまさき

で、髪の先まで、足の爪先まで、涙と喜びが溢れていた。

こわ

あ

﹁心配かけてごめんね。一人にしておいてごめんね。だけど僕は、いつだって母さんのこ とを考えてたよ﹂

﹁今まで、どこにいたの？ 誰があなたを連れ出したの？ 逃げてきたの？ 怖い目に遭 わされなかった？﹂ ぬ

 涙に濡れた母の問いかけに、ワタルは腕でぐいと顔を拭うと、母の手を取ったまま、しゃ んと姿勢を正した。 ﹁母さん、僕は旅をしてるんだ。自分の運命を変える旅を﹂ なっとく

 もちろん、母がすぐに納得するわけはない。﹁何ですって？ 何を言ってるの？ お母 にぎ

さんにはわからないわ。あなたが一人でどこへ旅をするというの？﹂ なが

 そして握りしめたワタルの両手を広げてみせると、頭のてっぺんから爪先まで、ぐるぐ ると眺め回した。

おさ

﹁この格好は何？ どうしてこんな││ヘンなものを着てるの？ 腰に付けてるのは剣じゃ

ない！ 何でこんな危ないものを持ってるの？ どこで手に入れたの？﹂

 光の通路が開いている時間は短い。急がなければならない。はやる心をぐっと抑えて、

ワタルは言った。﹁それより、まず教えてよ。母さんの具合はどうなの？ ずっと病院に いるよね？ お医者さんはどこが悪いって言ってるの？﹂

207

﹁わたしのことなんかどうでもいいのよ！﹂

﹁よくないんだよ。だって僕はホラ、元気だから。ね？ 僕はどこも何ともないよ。無事

なんだ。母さんは僕よりもたくさんガスを吸い込んじゃったんだね？﹂

 それでなくても青ざめた邦子の肌が、さらに色を失った。﹁おまえ││お母さんは、あ ま ね 

つか

んなバカな真似をして││おまえを死なせてしまうところだった││﹂ だいじょうぶ

﹁いいんだよ。僕は怒ってなんかいない。母さんは疲れてたんだ。何もかも嫌になっちゃっ

てたんだ。仕方がないよ。僕は大丈夫だった。母さんよりもずっと大丈夫だった。友達が ヴィジョン

助けに来てくれたからね。芦川美鶴が。そして僕を〝幻界〟へ案内してくれたんだ﹂ ﹁ヴィジョン？﹂

 手早く説明するのは難しかった。ワタルの話の道筋は行ったり来たりして、言葉も前後 とうわく

が入れ違ったりして、話せば話すほど邦子の顔には当惑が広がり、ワタルの肩を抱きしめ

る腕には力がこもっていった。そうすることで、何かわけのわからないものからワタルを 引き戻そうとするかのように。

﹁僕は自分の運命を変えたかった。父さんが田中理香子に会わなくて、僕らを捨てて出て

いったりしない、そんなふうに運命を変えたかった。以前の生活を取り戻したかった。そ のために運命の塔を目指して出発したんだ﹂  だけど、旅を続けてゆくうちに、わからなくなってきた。

208

﹁たとえ運命を変えても、僕は変わらないってことに気がついた。僕が変わらなかったら、

どれほど運命だけをいじっても、悲しみも憎しみも失くならない。幻界は、それを僕に見

せてくれてる。僕の心のなかにあるものをそっくり映し出して、見せてくれてる﹂

 そう、そういうことだった。そうなのだ。母に説明しながら、ようやくワタルは理解し

始めたのだった。こうして話していると、バクサン博士の言葉、サーカワの長老の忠告、 ラウ導師の教えが、自分の血となり肉となるのが感じられる。

﹁僕は最初、何もかもなかったことにできれば、それで済むと思っていた。また幸せにな

れるって。でも違うんだ。それだけじゃ、また別の悲しみや苦しみが訪れたときに、前と

同じことになっちゃうだけなんだ。運命を変えるってことは、嫌なことを消してしまうこ とではないんだ。出来事は消せても、僕の心は消せないんだから﹂

ぎ せい

 女神に願い、ヒト柱のしきたりを失くしたところで、自分だけは犠牲になりたくないと

思うヒトの心の弱さは消せない。女神の力で他種族差別を失くしてもらったところで、自

分の身に降りかかる気に入らない出来事を、外見や習慣や、何か自分と違ったところのあ

るヒトたちのせいだと思いたがる心も消えない。それと同じだ。幻界は僕の心を映す。そ れは、そういうことだ。 ﹁亘││﹂ おび

 まだ頬は濡れていたが、邦子の涙は止まっていた。迷い、怯えたような表情は変わらな

209

いが、我が子を見つめる彼女の目のなかに、それまでにはなかった新しい火が灯った。そ れはごくごく小さな火ではあったが、確かにそこで燃えていた。 ひた

 この子は何を言ってるのだろう？ まるで熱に浮かされているか、夢でも見ているよう

だ。好きなゲームにどっぷりと浸りすぎて、その世界から出られなくなってしまったみた いだ。  だけど││だけどそれでも、この子は、 ︵強くなった︶ さと

 邦子は悟ったのだ。言葉は夢物語のようだけど、でもこの子は確かに成長してる。

﹁怖くなることもあるよ。悲しいこともある。どうしていいかわからないことだっていっ

ぱいあったし、これからもまだまだあると思う。でも母さん、僕は旅を続ける。きっと正

しき道を見つけ出して、運命の塔へ行ってみせる。そこにはきっと、僕の求めてるものが

ある。僕が最初にほしがっていたようなものじゃないけど、僕が本当に必要としてるもの

いの

が。だから母さん、僕を待ってて。必ず帰ってくるから、僕が旅を終えて戻ってくるのを 待っててください！﹂

 力強い言葉に、邦子はいったん我が子から手を離すと、まるで祈るように指を組んだ。 バクサン博士の研究室で、女神の祈りを唱えていたロミと同じ姿で。 ﹁きっと帰ってこられるの？﹂

210

﹁絶対に！﹂ ﹁おまえ、おまえは一人なの？﹂  ワタルは強くかぶりを振った。﹁一人じゃないよ。仲間がいる！﹂ ﹁旅をしたら││おまえは││本当に﹂ ゆ く え

いっしょ

 邦子は言葉を切って、おろおろと瞳を動かした。﹁行方不明になってる││おまえだけ じゃないのよ、その芦川って子も﹂

﹁知ってる。あいつも幻界にいるんだ。でも、探し出して一緒に帰ってくるよ。必ず一緒 に帰ってくるよ﹂ し

たましい

じゅんすい

 ワタルの言葉が語る筋書きではなく、言葉に込められた明るい力が、邦子に伝わり始め ていた。邦子の心に染みこみ始めていた。 ﹁母さんはどうしたらいいの？﹂ ﹁信じて待ってて﹂ワタルはきっぱりと言って、笑顔になった。 ほほえ 

 邦子の顔に、母が子供を送り出すときにだけ浮かべることのできる、魂のいちばん純粋 さ

かね

な部分に咲く花のような、美しい微笑みが浮かんだ。 ﹁それだけでいいの？﹂ ﹁うん！﹂ き かん

 光の通路から、帰還を促す鐘の音が聞こえてきた。ああ、時間切れだ。

211 ば あ 

お じ 

 もう一度、しっかりと母を抱きしめると、ワタルは言った。﹁早く元気になってね。お 祖母ちゃんとルウ伯父さんにも、僕は大丈夫だって話しておいて﹂ きずな

 邦子も強く抱きしめ返した。母子のあいだの不思議な絆を通して、彼女のなかにも新し いエネルギーが注ぎ込まれた。 ﹁それじゃ、僕は行くよ﹂

 ベッドから離れようとしたとき、病室のドアにノックの音がした。声が呼びかける。 ﹁邦子さん、起きてるかい？﹂

 ドアが開いて、顔を出したのはルウ伯父さんだった。ワタルは光の通路へと歩みだして いた足を止めた。﹁伯父さん！﹂ かみぶくろ

 ルウ伯父さんは、ドアから一歩入ったところに棒立ちになっていた。目も口もまん丸に さ

ぽかんと開いて、片手に提げていた大きな紙袋を、どさりと取り落とし、 ﹁わ、わ、わ﹂  その音で我に返った。 か

﹁亘じゃないか！﹂

めいめつ

 駆け寄ってくるルウ伯父さん。しかし、ワタルの耳にはあの鐘の音が聞こえていた。さっ せ

きよりもずっと急いている。光の通路の入口も、非常灯のように明滅している。

﹁伯父さん！﹂片足を通路の入口にかけて、ワタルは大声で言った。﹁僕は大丈夫だよ！

212

かた

 伯父さん！ 母さんをお願いします！ きっと帰るから、僕、きっと帰ってくるから、 それまで待っててね！﹂

 ワタルは通路に飛び込んだ。ルウ伯父さんがのばした腕が空をかく。

﹁ごめんね、伯父さん！﹂足元から、早、消え始めた通路を駆け出しながら、ワタルは肩 ごしに呼びかけた。﹁行ってきまぁす！﹂ かかと

こんとん

 通路を駆けているあいだ、新しい涙が込みあげてきた。ワタルは拭いもせずに走った。 走るそばから、踵のギリギリのところで通路が消失してゆく。 たお

 幻界側の出口が見えてきた。身体を前に倒し、走って走って、追いかけてくる混沌を振 り切り、ワタルは頭から出口へと飛び込んだ。

 何かどっしりとしたものにぶつかった。それは﹁ウオッ﹂と叫んでワタルを受け止めた。 ﹁うへ！ ワタル、ワタルだな？﹂

 キ・キーマだった。文様を取り囲むように、みんなが立っている。ミーナもいる。バク サン博士も、ロンメル隊長もロミもいる。 がんじょう

﹁良かった！﹂ミーナが駆け寄ってきた。﹁通路が消えそうで、ハラハラしてたのよ﹂

 ワタルはキ・キーマに抱きついていた。その大きな胸、頑丈な肩と太い腕は、たった今 ぬく

別れてきたルウ伯父さんを思い出させた。ミーナの優しい声の温もりは、母さんを思い出 させた。ああ、そうだ。そうなんだよ。

213

 現世も幻界も、心はひとつ。 ﹁大丈夫ぢゃな？﹂

な

 すべてを見抜き、すべてを承知している落ち着いた口調で、バクサン博士が問いかけた。 ﹁はい、僕は大丈夫です﹂  バクサン博士は満足そうにうなずいた。

たた

﹁心配したよ、ワタル﹂キ・キーマはワタルを床の上に降ろすと、大きく胸を撫でおろす 仕草をした。 きんきゅうしょうしゅう

﹁緊急召集がかかったの﹂つぶらな目に真剣な光を湛えて、ミーナが言った。﹁わたした

ちハイランダーも、南大陸の混乱を治めるために、新しい指令をもらったのよ﹂

 ワタルはうなずいた。ロンメル隊長の蒼い目と目を合わせて、しっかりとうなずいた。 ﹁わかった。出発しよう！﹂

214

 33 逃亡者    

 ハイランダーたちは、国営天文台の門の外に集合していた。あわてて合流したワタルた

ちは、ここに着いたときよりもさらにハイランダーたちの数が増えていること、そして、

えんだん

集会に加わらず、持ち場を守って警備を続けているハイランダーたちの表情が、目に見え て厳しくなっていることに気がついた。 ﹁お集まりの諸君、聞いてくれ﹂

ひび

おおがら

 どやどやと集まったハイランダーたちの輪の中央で、野太い声が響いた。演壇がわりの たて

こし

せいりゅうとう

さ

か ら だ

よろい

木箱の上に乗り、一同をぐるりと見回したのは、キ・キーマよりもさらに大柄な水人族の おお

かわ

ハイランダーだ。丸い盾を背負い、腰から青龍刀を提げている。身体はびっしりと鎧のよ

うなウロコに覆われているのに、さらにその上に革の胸当てをつけていた。

ともな

﹁俺の名はボレ・キム・ナン。ここルルドのブランチ長を務めている﹂  彼は朗々と声を張りあげた。 か

お れい

﹁連合政府より、ルルドが第一種警備強化地区の指定を受けるに伴い、各ブランチより諸 おうえん

君に応援に駆けつけてもらったことに、まず御礼を申しあげる。幸いルルドの町と天文台

内では、今までのところ、大きな混乱は発生していない。つい先ほど、多少の出入りがあっ

215

つ

たようだが、事件の芽は未然に摘むことができた。諸君の精勤のおかげである﹂ ひとがき

う

うで

 ハイランダーたちはおしなべて大柄なので、彼らが立ち並んでいるなかに入ると、ワタ みぎかた

ルはすっぽりと人垣に埋もれてしまう。キ・キーマがひょいと腕を差しのべて、ワタルを

げんかん

右肩に乗せた。ついで左腕を差し出すと、何も言わずとも通じて、ミーナがその腕につか まり、するすると左肩の上によじ登る。 かぶと

こ わき

かか

 見晴らしがよくなると、国営天文台の正面玄関から、ロンメル隊長が降りてくるのが見

かっちゅう

き し 

えた。鎧を身につけ、兜を小脇に抱えている。階段を降りきって前庭を横切ると、ハイラ はな

ンダーたちの輪から少し離れたところで立ち止まった。 た づな

 隊長が出てくるのを待っていたのか、国営天文台の建物の脇から、甲冑姿の騎士が五、

六人、ウダイの手綱を引いて現れた。隊長が彼らに軽くうなずきかけると、騎士たちは一 かか

の

度直立不動の姿勢になり、右手をのばして頭上に掲げてから胸にあてる││という隊長へ あさぶくろ

の礼を示して、それからようやく〝休め〟の姿勢をとった。 くら

とう

 騎士の引いているウダイのなかに、鞍の上に重そうな麻袋を載せているものがあった。 なきがら

ただの荷物ではない。袋ごしにも、頭や背中の形がうっすらと見てとれる。塔から落ちて

死んだギュ・タイタスの亡骸だ。ルルドの町のブランチにでも運んでいくのだろう。 きんきゅう

﹁この非常時に、さらなる緊急の指令が、全ブランチへと下された﹂ すきま 

 ボレ・キム・ナンは革の胸当ての隙間からひと折の書状を取り出し、その手を頭の上に

216

ふ

れんぽう

振りあげて、さっと広げてみせた。 とうぼう

ついせき

ほ ばく

ふ ちん

かか

﹁これは連邦議会からのものではなく、我らを束ねるブランチの各首長からの緊急命令で じ こう

ぬす

ある。その内容は、逃亡中の犯罪者の追跡と捕縛。南大陸連合国家の浮沈に関わる重要な

機密事項を盗み出した者が、現在、ナハトの国境を越えてアリキタへと逃走している。ま じゅうぶん

ふしょう

たその逃亡者は、このルルドにも出没する可能性が充分に考えられる﹂ だれ

 ハイランダーたちはざわついた。誰かの声があがる。 ﹁逃亡者は複数か？﹂ ねんれい

 ボレ・キム・ナンは答えた。﹁いや、一名だ。氏名も年齢も不詳だが、アンカ族の男で ま ちが

あることは間違いない﹂ ﹁どこの国の者なんだ？﹂

﹁それもはっきりしておらん。しかし人相書きはある。あとで諸君に配布する﹂

﹁そいつがアリキタに向かっているとしても、アリキタは広いぜ。もう少し、他に手がか りはないのか？﹂ ていこく

と こう

ねら

 同意のざわめきが起こる。ボレ・キム・ナンは重々しくうなずいた。 みな

せ

﹁この逃亡者は、北の統一帝国へ渡航しようと狙っている﹂ おどろ

 えっと驚きの声。皆は急き込んでがやがやと話し合う。 ﹁それじゃ、アリキタの港町か﹂

217

かいどう

ふうさ 

﹁ハタヤかダクラ││いや、ソノの港ということもありそうだな﹂ ﹁いずれにしろ、街道は封鎖しないと﹂ するど

だ とう

にぎ

 よく通る女の声が、矢を射るように鋭く質問を投げた。﹁それじゃそいつは、帝国のス パイなんだね？﹂ すじょう

﹁素性はわからん。しかし、そう考えるのが妥当だろう﹂

こぶし

ゆ

 ざわめきが高まった。皆、気が立ってきたのだろう。あちこちで拳が握りしめられ、そ

れが振り回されるので、それぞれの手首にはめられたファイアドラゴンの腕輪が揺れて、 ふ

しず

まるで野原の赤い花畑が風に吹き乱されているかのように見える。 ﹁諸君、聞いてくれ﹂

 ボレ・キム・ナンは、ひと声で一同を鎮めた。彼の声がよく響くことはもちろんだけれ う

ど、そのいかつい顔に浮かんだ表情が、皆を打ったのだ。

﹁先ほども言ったように、この命令は連邦議会から出たものではなく、我らのブランチ首 け う 

ちか

しっか 

長が連なり、独自の権限で発したものだ。これは希有なことだと、諸君も知っているだろ

むなさわ

う。ブランチはその成り立ちはともかく、現在では、連邦政府に忠誠を誓い、その膝下に ある組織なのだから﹂ みょう

 ワタルはミーナの顔を見た。なぜかしら、ふと妙な胸騒ぎを感じたのだ。ミーナもワタ ルの視線に気づき、こちらを向いた。

218

きょだく

あた

い かん

しょうにん

﹁当然のことながら、連邦政府はこの緊急命令に許諾を与えていない。議会の承認なくし い ぜん

てブランチが所属のハイランダーたちに指令を下すことは、きわめて遺憾だという公式見 こ

ま ず 

解を発表すると、議員たちは議事堂に籠もってしまった。依然、そのままだ﹂

 議員なんて役立たずばっかりだからサと、すぐ近くで女の声が言った。不味いものをぺっ は

ぺと吐き出したみたいな言い方だった。

﹁連邦議会は、アリキタの首都ザクルハイムにあるんだよ﹂と、キ・キーマが小声で教え

てくれた。﹁ザクルハイムは内陸にあるから、港はない。工場も鉱山もない。ほとんど政

治だけのためにつくられたような都市なんだ。各国代表議員が集まって住んでいて、一年 のうち、半分以上は国会が開かれてる﹂

 後の半年は何やってんだろう││と、ワタルが思ったそのとき、ボレ・キム・ナンがひ はげ

ときわ声を励まして続けた。

め がみ

﹁しかし、我らが首長たちの決断には、相応の理由がある。諸君﹂ ゆめまくら

 彼はハイランダーたちを見回した。 おびや

おん

ゆえ

﹁昨夜、我らがブランチ長四人の夢枕に、女神さまが光臨なされた。そして、南大陸の平 おそ

和を脅かすこの逃亡者について、女神さま御自らがお告げをくだされた。故に、ブランチ たてつ 

長らは寸時の迷いもなく、連邦議会に盾突く結果になることをも恐れず、我らに命令をく だされたのである﹂

219

うる

 キ・キーマが深く息を吸い込み、その胸がふくらむのを、肩の上に乗っかったワタルは、 つぶや

身体で感じた。見ると、キ・キーマの目がうっすらと潤んでいる。 がた

﹁なんていう有り難いことだ⋮⋮﹂と、彼は咳いた。﹁女神さまが光臨されるなんて⋮⋮ 自らお告げをくだされるなんて⋮⋮﹂ ぬか

 感激のあまり、彼がその場に額ずこうとするのを、ミーナがはたはたと彼の背中を打っ て、あわてて止めた。 くず

﹁やめて、やめて、キ・キーマ。あたしたち、落っこっちゃう﹂ いの

 ハイランダーたちもどよめいていた。人垣がばらばらと崩れてゆく。ひざまずいたり、 こうべ

ヴィジョン

額ずいたり、頭を垂れて祈ったり、動作はさまざまだが、感激のほどはキ・キーマと同じ だ。 まつえい

は

おんまえ

﹁我らは創世の女神さまに仕える戦士。〝幻界〟の平和の守護者。この腕につけたファイ

アドラゴンの末裔の印に恥じぬ働きを、今こそ女神さまの御前に示すときである﹂ どき

 おう！ と勝ち鬨があがった。士気が高まり、みんなを包む空気の温度があがるのを、 ほお

ワタルは頬に感じた。

 ボレ・キム・ナンの指示で、ハイランダーたちはそれぞれの役割分担を決めるべく、チー

ムごとに分かれて打ち合わせを始めた。興奮のせいで、みんな早口になっている。早くも

220

ウダイを急かして街道方面へ駆け出すチームもあった。 あみ

﹁俺たちはどうしよう？ どうしたらいい？ 街道を警備するグループに入れてもらおう はや

か。それともルルドで網を張るか？﹂

 キ・キーマも逸っている。ワタルとミーナを両肩に乗せたまま、どっすんどっすんと足 踏みだ。

﹁その逃亡者がルルドに寄る可能性があるっていうのは、どういうことなのかしら﹂ す

 ミーナはキ・キーマの首につかまったまま、器用に小首をかしげた。 ま

﹁北に渡るだけなら、ルルドに寄り道なんかしなくても、真っ直ぐアリキタを目指せばい いのにね。ていうか、そもそも逃亡者はどこから来たのかしら﹂

﹁お告げじゃ、そこまではわからなかったのかな﹂と、ワタルは言った。﹁気になるね。

ち え 

そのことと、そいつが盗んだ重要な機密事項の内容と、関わりがあるのかもしれない﹂

﹁そっか。たとえば、機密を読み解くために、ルルドの星読みの知恵が必要だとか？﹂

 ワタルはうなずいた。だとしたら、またぞろバクサン博士やロミたちの身が危険にさら されることにもなりかねない。 ﹁ね、キ・キーマ。僕らはルルドに残って警備を手伝おうよ﹂

 言いかけたとき、まだ兜を小脇に抱えたまま、部下たちを従えて、ロンメル隊長がこち すべ

らに近づいてきた。ワタルもミーナも、キ・キーマの肩から滑り降りた。

221

﹁隊長⋮⋮﹂ あお

たま

 ロンメル隊長はワタルにうなずくと、キ・キーマの顔を仰いだ。隊長も長身だけれど、 キ・キーマにはかなわない。 おこ

どの

﹁大事のようだ。幼いハイランダーたちを、よく守ってやってくれ給え﹂ む

 キ・キーマは歯を剥き出した。急に怒ってる。﹁ワタルは強い。隊長殿にご心配いただ くことなんざない﹂ みは

 言葉がぞんざいすぎるように思って、ワタルは思わずキ・キーマの革の腰巻きをひっぱっ ブルー・グレイ

た。ミーナは青灰色の目を瞠っている。﹁我々はこれから、アリキタの鉱山町へ向かう﹂ ほうき 

と、隊長はワタルに言った。﹁鉱山労働者が蜂起して、騒ぎが拡大しているのだ。放置し ておけば、大勢の死者が出るだろう﹂ ﹁それも⋮⋮〝ハルネラ〟のせいですよね﹂

ぬ

﹁うむ。君たちも、もし逃亡者を追ってアリキタに入るようならば、重々注意をしてくれ。 よっ

きょうこう

アリキタは、四つの国のなかではもっとも大きく、人口も多い。飛び抜けて豊かでもある あらあら

が、その分、貧富の差も激しいのだ。そういう国情では、〝ハルネラ〟が与える恐慌は、

ササヤやナハトあたりとは比べようもないほどに、剥き出しで荒々しいものになるからな﹂  わかりましたと、ワタルは深くうなずいた。

 隊長は立ち去りかけた。足が半歩出て、しかしそのとき、急に思い出したように││い

222

ひ

てっこう

あ

や、胸に秘めていたものをやっぱり吐き出そうと決断したかのように、さっと振り向いて、

片手をワタルの肩に置いた。銀色の手甲がぎらりと光り、甲冑が鳴った。 ﹁君は〝旅人〟だ﹂  隊長は、ワタルの目の底をのぞきこみながら言った。 わずら

﹁君の目的は、女神さまに会うことだ。余計なことに心を煩わされ、危ない目に遭うこと す

み い 

がないように、よくよく気をつけてくれ。幻界の治安は、幻界に棲む者の手で守るべきだ。 私はそう信じている﹂ あお

 隊長の蒼い目が、あまりにも鋭く光っているので、ワタルは魅入られたようになってし おさ

まった。ワタルが求めている宝玉、勇者の剣の力の源泉である宝玉を思い出させる光だ。

いか

﹁今の話を、私も聞いていた﹂隊長は抑えた口調で続けた。ワタルの顔から目をそらさな

ど こ 

い。﹁ブランチ長たちが連邦議会の許可なくハイランダーを動かし、議会の怒りをかえば、

連邦議会に忠誠を誓っている我らシュテンゲル騎士団とも、この先、何処かで敵対しなけ ればならぬ局面が発生するかもしれない﹂

 ワタルはあっと思った。そうだ。そういうことだ。だからこそ、キ・キーマが隊長に対 して不作法な態度をとっているのだ。

﹁もしもそんなことが起こっても、君は巻き込まれてはならない。君は〝旅人〟だ。君が まっとうするべきは、君の使命だ。それを忘れるな﹂

223

し らん

 そしてようやく、日焼けした頬をほころばせると、

おさ

むち

﹁〝棘蘭のカッツ〟も、きっと私と同じ意見を持っているはずだ。彼女は君の長だ。今の きびす

言葉は、彼女の命令だと思って聞いてほしい﹂

 そして今度こそ隊長は踵を返し、身軽にウダイにまたがると、部下たちにひと鞭くれる ような厳しい声をかけて、走り出した。 つちぼこり

 遠ざかる土埃を、しばらくのあいだ、ワタルは見守っていた。隊長たちが見えなくなる

と、ようやく、背中に視線を感じた。大部分のハイランダーたちは散会していたが、警備 ふく

の者たちも含め、まだ門の周辺に何人かが残っている。

しの

 彼らは一様に、ワタルに冷たい目を向けていた。その視線は、今の今までは、出立する シュテンゲル騎士団に向けられていたものであるに違いなかった。 こうべん

﹁俺らは、シュテンゲル騎士団の仲間ってわけじゃないよ﹂

 誰に抗弁するでもなく、大声の独り言として、キ・キーマが言った。 きり

 ワタルの胸に、もやもやとした霧のように、つかみどころのない不安が忍び込んできた。

ひ と ごと

こんなことで、本当に〝ハルネラ〟が乗り切れるのだろうか。幻界の平和が守れるのだろ うか。 うれ

せま

 ロンメル隊長の気持ちは嬉しい。でも、今や幻界の平和は、ワタルにとっても他人事で はんしん

はないのだ。〝ハルネラ〟が、〝半身〟に選ばれるかもしれないワタルにとって、身に迫

224

る重大事であるのと同じように。 ﹁あら？﹂ とつぜん

 突然、ミーナが声をあげた。 ﹁どうしたのかしら？ ね、ワタル、見て見て！﹂

225

 34 呼びかける者    

えりもと

つ

あふ

 ミーナは軽く両手を広げ、ワタルに向かって胸を突き出した。しっぽの先がひょこひょ おど

こと躍っている。 かがや

﹁〝真実の鏡〟だわ。輝いてるの！﹂

ひとかげ

 確かに、ミーナの着ている短いベストの襟元から、白い光が溢れているのだ。ミーナは かわひも

首にかけた革紐をたぐり寄せ、真実の鏡を引っ張り出した。 ﹁どうしたのかしら。何か映ってる！﹂ まと

つえ

ま どうし 

 ミーナの手のなかの鏡を、ワタルとキ・キーマものぞきこんだ。そうだ、人影が映って み ぶ 

かす

いる。白いローブのようなものを身に纏い、手に杖を持った││魔導士だろうか？ しき

ね お 

りと身振り手振りをしながら、こちらに語りかけているようだが、霞んでしまってはっき り見えない。 ひ かげ

﹁周りが明るいからだ。日陰へ行けば、もっとよく見える││﹂

もど

﹁それより、ほら、天文台のなかの地下室はどうかしら。星読みのヒトたちの寝起きする 部屋があるって言ってたじゃない？﹂ か

 ミーナがワタルの手をひっぱり、三人は駆け出して天文台に戻った。建物のなかに入る

226

ろうか 

きゅうけい

たず

と、階段を探して地下に降り、ちょうど階下からあがってくるところだった星読みに訊ね きゃく

の

ると、廊下の先に小さな休憩室があるという。 い す 

じゅうぶん

ふ

 休憩室は、椅子が四、五脚とランプを載せた丸テーブルがあるだけの簡素なところだっ

えが

たが、それで充分だった。キ・キーマがランプを吹き消すと、その場は真っ暗になり、真 実の鏡が放つ光は、清流のように豊かに溢れ出した。 はす

しょうてん

 白く輝く光は、真実の鏡の上に、あたかも蓮の花の大輪を載せたような形を描いた。そ

かかと

かく

の大輪の中央に、さっきまで霞んでよく見えなかった人影が焦点を結んだ。 ﹁おお、〝旅人〟よ﹂ かんむり

え

つち

 そのヒトはワタルに顔を向け、語りかけてきた。踵のあたりまで隠れる純白の長いロー

ブ。額には銀の冠。手にしているのは杖ではなく、やはり銀製の細長い柄のついた槌だっ いっしゅん

た。ワタルは一瞬、リリスの大聖堂で見たシスティーナ像を思い出した。

は

﹁ようやく私の声が届きました。〝旅人〟よ。あなたもまた、幼い子供だったのですね﹂ とし

あおじろ

 男のヒトだ。歳は││三十歳くらいだろうか。もっと年上か。ローブの白が照り映えて げんぞう

かみ

まゆ

いるのか、それとも光で造りあげられた幻像であるせいなのか顔色が蒼白に見えて、表情

も判別がつかない。それに、声は若々しいのに、銀の冠の下の髪は真っ白だ。眉まで白い。 ﹁あなたは⋮⋮どなたですか﹂

せい

 おっかなびっくり声をひそめて、ワタルは問い返した。もしかして、真実の鏡に宿る精

227 れい

霊なのだろうか？

か

 白いローブのヒトはワタルの問いに答えず、右手に持った槌をゆっくりと左手に持ち替 ちゅうしん

えると、空いた右手を心臓の上にあてた。

﹁ここにあるのは我らの衷心からの声。〝旅人〟よ。どうか我らを助けてほしい。我らの かた

残り少ない希望は、かかってあなたの肩の上にある﹂ う ろ た

 おいおい⋮⋮と、キ・キーマが狼狽えた。 ﹁何じゃ、こりゃ？﹂

てんじょう

ゆか

﹁我らの力はすでに弱り、残されたわずかな時も、刻々と過ぎ去ってゆく。どうか〝旅人〟 よ、我らに救いの手を差しのべてほしい﹂

 ワタルは半歩前に出て、白いローブのヒトに近づいた。天井や床にまで届くまばゆい光 まぶ

なのに、近寄っても少しも眩しくない。

﹁僕に何ができるんですか？ あなた方を助けるって、どうすればいいんですか？﹂  白いローブのヒトはワタルに向かってうなずきかけた。 ﹁〝旅人〟を止める力を持つのは、ただ〝旅人〟のみ﹂  どういう意味だ？

﹁我らのもとに来てほしい。あなたには、できるはずだ。来たりて、我らの願いを聞いて ヴィジョン

ほしい。それはまた〝幻界〟の平和を守ることにもつながる﹂

228

とうわく

 当惑しながらも、ワタルは胸がどきどきしてきた。幻界の平和を守る？ ハイランダー むな

ま

としては、聞き捨てにできない言葉だ。 つばさ

﹁多くは語れぬ。言葉は空しく宙に舞う。だが我らはここで待っている。〝旅人〟よ。あ なたの翼で我らのもとに来てほしい﹂

せんとう

わた

にじ

はる

 蓮の大輪のような光の上から、白いローブのヒトの姿が消えた。と、それと入れ替わる ように、別の幻像が現れた。  ワタルは目を見開いた。これは││ だ

かいま み 

まぼろし

 そびえたつ純白の雲。その切れ間に、光を受けて輝くいくつもの尖塔。渡る虹の橋。遥 たかみ 

かなる高処で、氷河に抱かれた灰色の大地。 ちんもく

やみ

 アンドア台地だ！ トウゴウトウの翼で運ばれ、空の頂点で垣間見た幻の地。 あ ぜん

たが

 幻像は消えた。真実の鏡は沈黙し、休憩室に静かな闇が戻った。 むさぼ

 三人とも唖然として、互いの顔を見つめるばかり。と、地下の部屋のどこかから、激務 ねむ

のあいだのわずかな眠りを貧っているのであろう、星読みの低いいびきが聞こえてきた。  それがワタルたちを現実に引き戻した。 ﹁今の⋮⋮何？﹂ ささ

くぎづ 

 まだ手の上に真実の鏡を捧げ持ちながら、ミーナが訊ねた。ワタルにではなく、鏡に対 じか

して直に問いかけているみたいに、目を釘付けにしたまま。

229

﹁あれは、デラ・ルベシ特別自治州だよ﹂

おどろ

 ワタルの言葉に、ミーナばかりかキ・キーマまでが飛びあがって驚いた。 ﹁ホント？ 本当なの？﹂ ﹁どうしてわかるんだよ、ワタル？﹂ さと

 ワタルは二人に、ソン村からサーカワの郷まで、カルラ族の翼で運ばれてきたことを思 い出させた。

やつ

﹁その道中で、いちばん高いところまで飛び上がったとき、ちらっと見たんだ。トウゴウ トウさんが教えてくれた﹂ ﹁デラ・ルベシ││﹂

こ

﹁じゃ、今の白いローブの男は、あそこに住んでる奴なんだな？﹂ ﹁たぶんね﹂

しんちょう

 そして、ワタルの││〝旅人〟の助けを請うている。彼らを助けることが、幻界の平和 うった

を守ることにもなると訴えている。だとすれば、何の迷うことがある？ ﹁行かなくちゃ﹂

 ワタルの言葉に、ミーナはやっと目をあげて、真実の鏡を元どおりに、慎重な手つきで むなもと

胸元に収めた。 ﹁そうね、行かなくちゃ。だけど、どうやって？﹂

230

﹁ちょ、ちょっと待ってくれよ﹂キ・キーマが大きな手を、ワタルとミーナの肩においた。

﹁落ち着いて考えようぜ。ワタル、今の幻を頭から信じ込むのはどうかと思うぜ﹂ ﹁どうして？﹂

﹁どうしてって⋮⋮﹂キ・キーマは言いよどみ、長い舌をぴゅっとのばして、頭のてっぺ な

かか

んを舐めた。﹁だって、あれが本当にデラ・ルベシ特別自治州ならば、あそこは老神教信 ていこく

けいかい

者たちの場所だぜ。北の帝国とも関わりがあるんじゃないかと言われてる。忘れたわけじゃ ないよな？﹂ うわさ

つぶや

﹁うん。あくまでも噂だけどね﹂ ﹁ああ、噂だ。でも││﹂  危険だよと、キ・キーマは呟いた。 わな

﹁こいつは何かの罠かもしれねえ﹂ ﹁罠って？﹂ワタルは驚いた。キ・キーマは何を警戒してるんだ？

うす き   み   わる

﹁だってワタル、まさか、もう忘れたってわけじゃないよな。あの薄気味悪いトリアンカ つか

おそ

魔病院で、ワタルを捕まえて殺そうとしたのも、老神教の信者たちだったんだぜ？﹂

 それは確かに。ワタルだって忘れていない。あんなに恐ろしいことはなかった。

﹁だけどさ、今の幻は、真実の鏡が僕たちに見せてくれたものなんだよ。真実の鏡が、僕 だま

らを騙すようなことをするかしら﹂

231

﹁それは⋮⋮﹂

 キ・キーマは分厚いまぶたをぱちぱちさせた。﹁俺にもわからないよ。けど、真実の鏡 しょせん

も、所詮は道具だろ。魔法の道具かもしれないけれど、それに意思があるわけじゃない。 悪用されることだって、あるかもしれないじゃないか﹂ ゆ

 なるほど。ワタルの心はちょっと揺れた。が、そのとき、ミーナの厳しい声が耳に飛び 込んできた。

﹁そんなこと言って、キ・キーマは老神教信者を助けたくないだけでしょ！﹂

ひとみ

 キ・キーマは狼狽えた。今度は、長い舌が頭のてっぺんをちょっちょっと二度舐めた。 おこ

﹁な、何だよミーナ﹂

 ミーナは怒っていた。青灰色の美しい瞳のなかに火花が散る。﹁そうじゃないの。なん め がみ

だかんだ言ったって、本音はそれなのよ。女神さまに逆らう老神教の信者たちなんて、ど

れほど困っていようと、助けを求めていようと、どうだっていいのよ。キ・キーマにとっ ほろ

ふ

ては、彼らは滅びるのが当たり前なんだから。だから行きたくないのよね！﹂ うば

はくりょく

 だけどあたしは行くもん！ と、ミーナはどしんと足を踏み鳴らした。キ・キーマのお 株を奪う迫力だ。 いっしょ

﹁ワタルが行くっていうなら、あたしも一緒に行くんだもん。キ・キーマは勝手にすれば いいじゃない！﹂

232

 キ・キーマはたじたじと後ずさった。ワタルは二人のあいだに割って入った。

﹁ミーナ、そんなに怒らないでよ。キ・キーマは、僕らの安全を考えてくれてるんだ。だ から、ね？﹂

﹁そ、そうだよ﹂キ・キーマの大きな肩がしょぼんと下がる。﹁そりゃ確かに⋮⋮俺はデ

ラ・ルベシに行くなんて気が進まないよ。だけどワタルが行くっていうなら、俺だって⋮

⋮どこまでもワタルと一緒に行って、ワタルを守るって決めたんだからさ﹂

たの

﹁なら、カンベンしてあげる﹂ミーナはにっと笑った。﹁それなら、善は急げよ。早く行 きましょう﹂ ﹁だけどさ、どうやって行くんだ？﹂

い

おおいそが

﹁決まってるじゃないの。またカルラ族に頼んで連れて行ってもらうのよ。ハイランダー そうぜん

の頼みなら、むげには断らないんでしょう﹂

 騒然とする幻界で、カルラ族たちは持ち前の翼の機動力を活かして大忙しだ。特にこの れんぽう

だれ

国営天文台には、連邦議会や各都市の星読み台との間を往復しているのだろう、しきりと つか

つ

き

カルラ族たちが舞い降りている。そのうちの誰かに頼めば、何とかなりそうだ。

﹁それじゃ俺、ちょっと行って、遣い便のカルラ族たちの詰め所がどこか、訊いてくる﹂

 キ・キーマはあたふたと階上にあがっていった。バツが悪いのか、必要以上にせかせか した足どりだ。それを見送って、ミーナがまたニコリと笑った。

233

と

も

﹁あたしったら、ちょっと言い過ぎたね。あとでキ・キーマの肩を揉んであげようかな﹂

さっそう

 しかしワタルは、ふと頭のなかをよぎった考えに心を盗られて、ミーナの声を聞いてい いっぱつ

なかった。トリアンカ魔病院での危機一髪。あの光景を思い出すと同時に、颯爽と登場し なぞ

てワタルのピンチを救ってくれた、ミツルのことも思い出したのだ。 ・

・

・

・

・

・

・

・

・

・

・

・

・

・

・

・

・

おとず

 それが、先ほどの白いローブの男の謎めいた言葉と結びついた。 みょう

 ││あなたもまた、幼い子供だったのですね。

 妙な言い回しだ。あれは、ワタルの以前に、今現在この幻界を訪れているもう一人の

〝旅人〟であるミツルを知っているからこそ、口をついて出た言葉ではないのか。だとす

れば、ミツルもまた、ワタルよりも前にあの白いローブの男から呼びかけを受け、デラ・ ルベシ特別自治州を訪ねているのではないのか。

 だけどミツルでは、白いローブの男たちを助けることができなかった？ だから、今度 はワタルが呼ばれたということなのか？  ミツルにできなかったことが、僕にできるのだろうか。 ﹁どうしたの、ワタル﹂

 顔をのぞきこまれて、ワタルはまばたきした。何でもないよと応じて、足を速めて階上

にのぼった。考えていたって、仕方がない。デラ・ルベシを訪ねてみればわかることだ。

234

ひ よ 

ほろ

 遣い便のカルラ族たちの詰め所は、三階のテラスにあった。日除けの白い幌を張った下

で、三羽のカルラ族たちが翼を休めている。﹁不作法で済まないが、ちょうど弁当をつかっ ていたところなのでな﹂

にお

 一羽のカルラ族が、食後の人間の中年のおじさんそっくりに、ちっちと歯を鳴らしなが ようじ 

ら言った。これで楊子をくわえれば、ほとんどそのまんまである。 へきえき

ていねい

い らい

 カルラ族のお弁当は、言うまでもなくねじオオカミの肉だ。だからテラスはぷんぷん臭っ た。キ・キーマは辟易している。 ふ

 ワタルは細かいことは伏せつつも、丁寧に依頼のことを話した。カルラ族たちは、カク

カクと首を動かしながら聞いていたが、やがて言った。﹁事情はわかった。しかし、現状 我らがおぬしらの頼みを引き受けることはできかねるな﹂ ﹁忙しくて大変なのはわかってるんです﹂

﹁いや、そういうことではない。ハイランダーの依頼とあれば、我らとしても進んで引き 受けるにやぶさかではないのだから﹂  カルラ族たちは口ぐちに言うのだった。

﹁ましてや、おぬしらがデラ・ルベシに行きたいというのは、このたびハイランダーたち きんきゅう

に下った緊急指令に関わることなのであろう？ 隠すことはない。その指令を南大陸各地 に運んだのも我ら一族だからな。承知しておるよ﹂

235

あや

とうぼう

 ワタルはあいまいに返事をした。このことが、逃亡者を捕まえるという緊急命令と関わっ ているかどうかはわからない。むしろ、かなり怪しい。 ぜ ひ 

﹁それでも引き受けられぬというのは、是非もない。我らの翼では、今、デラ・ルベシま で飛ぶことができぬのだ﹂  カルラ族たちはうなずきあうように首をカクカクさせた。

じょうしょう

﹁トウゴウトウがおぬしを運んだときには、あのあたりから南大陸を吹き渡る上昇気流に 乗るために、デラ・ルベシの高さにまで舞いあがったのであろう？﹂ ﹁はい、そう言ってました﹂ や

﹁ところが、ここ数日、デラ・ルベシあたりに気候変化があってな。我らがいつも翼を乗 せてきた、その強い気流がぴたりと止んでしまっておる﹂

 別のカルラ族が、翼をバタバタさせながら続けた。﹁そればかりではない。デラ・ルベ ひ ごろ

こお

シのあるアンドア台地を取り囲む雲が厚みを増し、上空の気温がぐっと下がっておる。あ きょうじん

じんじょう

か

うかが

れでは、いくら強靭な我らの翼とて、日頃の力の半分も出せぬ。下手をすれば凍りついて しまうだろう﹂

﹁この気流の乱れ、気象の変化。尋常ではない。彼のアンドア台地では、地上からは窺い 知ることのできぬ、何か変事が起こっておるのかもしれぬ﹂  考え込むように、カルラ族は言った。

236

たけ

﹁いずれにせよ残念ながら、我らではおぬしらを運んでやることができぬ。すまぬが、別 の手を考えてはくれまいか﹂ あやつ

 ワタルはがっかりしたけれど、こればかりはどうしようもない。自分たちの猛き翼と、

それを操って空を飛ぶ能力を、あれほどまでに誇りにしているカルラ族がこう言うのだ。 しんすい

 不安がじりじりと、ワタルの胸の底に浸水してきた。デラ・ルベシで何か恐ろしい変事

が起こっている。だからこそ、白いローブの男が助けを求めているのだ。

きびす

﹁わかりました。どうもありがとう﹂ ﹁力になれず、申し訳ない﹂ うなが

かた

ふ

しんく 

くつ

 ミーナとキ・キーマを促して踵を返しながら、ワタルは何気なくズボンのポケットに手 さぐ

を入れた。すると指先に、何か硬くてすべすべしたものが触れた。 ル ビ ー 

ぬま

 何だろう。何を入れたっけ。探って取り出してみると、それは真紅に輝く靴べらだった。 紅宝石でできているみたいな靴べら││ なげ

 そうじゃない。これはファイアドラゴンのウロコだ！ 嘆きの沼で助けてあげた、ジョ お れい

ゾという名前のファイアドラゴンが、御礼にとワタルにくれたものだった。

 すっかり忘れていた。ワタルは、まるで中年のオジサンになったみたいに、自分で自分

の額をぴしゃりとぶった。この場合には、それがふさわしい仕草のように思えたのだ。 ﹁まあ、どしたの、ワタル？﹂ミーナが顔をのぞきこむ。

237

 これをくれるとき、ジョゾは言っていたじゃないか。このウロコで笛を作って、吹いて

ごらん。いつでもどこにでも駆けつけて、君を背中に乗せて飛んであげるよ、と。

﹁カルラ族さん！﹂ワタルは駆け戻った。﹁ドラゴンなら、今のデラ・ルベシにも飛んで ゆくことができますか？﹂  カルラ族たちは顔を見合わせたが、すぐに、

か な た

す

﹁確かにドラゴンの翼ならば、気流がなくとも、凍りつくほどの寒さのなかでも、苦もな ただよ

くアンドア台地の頂上を目指すことができようよ﹂ きり

﹁なにしろドラゴンたちは、恐ろしい〝針の霧〟漂う海の彼方に棲んでおるのだから﹂ ひとみ

 と、一羽のカルラ族がワタルの手のなかの真紅のウロコに目を留めた。﹁それは？﹂

りゅう

 ワタルは手短に説明した。カルラ族たちの黒目がちの瞳がますます大きくなった。 たましい

あつ

ゆうかん

﹁なるほど。それならば是非もない。一刻も早くそのウロコで、〝龍の笛〟を作るがよい。

ドラゴンも我らと同じく、猛き翼に魂を乗せ、空駆ける生きものよ。信義に篤く勇敢だ。 たが

おぬしとの約束を、けっして違えはせぬだろう﹂  キ・キーマが大きく両手を打ち鳴らした。 ﹁それなら、とっとと龍の笛を作ろうぜ、ワタル！﹂

うで

 でも││ワタルは困った。﹁どうやって作る？ ジョゾは言ってた。腕のいい職人に頼 めって﹂

238

もろ

こわ

 龍の笛はとても脆いから、二度しか使うことができないとも言っていた。それはそもそ

も、このウロコ自体が壊れやすいからだろう。だから細工も難しいのだろう。

﹁リリスへ行けばいいわ﹂と、ミーナが顔を明るくした。﹁トニ・ファンロンに頼んだら？  彼の腕なら申し分ないじゃない﹂ かぎづめ

 一羽のカルラ族が、大きな鉤爪のある足で一歩前に出た。﹁リリスなら、私がこれから

行く先の通り道にあたる。幼きハイランダーよ、おぬし一人ぐらいならば、乗せていって やることは造作もない﹂ す ば 

 素晴らしい！ キ・キーマは大喜びだ。

﹁よし、それならワタルは一足先に、空を飛んでリリスへ行けよ。俺はミーナと一緒に、

ダルババ車で後を追う。なに、三、四日で追いつくさ。いくらファンロンの腕が良くても、

笛をこしらえるまでそれぐらいはかかるだろう。場所を決めて落ち合って、それからドラ ゴンを呼んで、三人でデラ・ルベシまでまっしぐらだ！﹂ し たく

う

 そうと決まったら出発の支度だと、勢いづくキ・キーマを、しかし、別のカルラ族が呼 とが

び止めた。それでなくても尖って気むずかしそうな顔に、いっそう険しい表情を浮かべて いる。 むすめ

﹁そこの水人族よ。そしてネ族の娘よ。おぬしらは、あまりリリスに近づかぬ方がいいか はな

もしれぬ。幼きハイランダーと待ち合わせるのは、町から離れた場所の方がいい﹂

239

いや

﹁どうしてですか？﹂ワタルは訊いた。ふと嫌な予感がした。

﹁これはあくまでも風聞だが﹂と念を押した上で、そのカルラ族は言った。﹁リリスの町

には、ブランチ長の命令により、戒厳令がしかれているらしい。外部からの出入りは禁止

されておるし、町の住人たちも外へ出ることはできん。おぬしらは知っているかどうかわ ふ ゆう

か

からないが、あの町は、アンカ族の富裕層と、非アンカ族の貧困層とにはっきりと分かれ ておってな﹂ どうよう

﹁ええ、よく知っています﹂と、ワタルは苦い思いを噛みしめながらうなずいた。 ひんぱつ

そ ち 

﹁そうか。ならば話が早い。〝ハルネラ〟をめぐって人心が動揺し、両者の対立が激化し う

たいほ 

も

て、焼き討ちや暴動が頻発したようだ。戒厳令は、それゆえにとられた非常措置だろうが、

か れつ

非アンカ族の住人たちのなかからは、大勢の逮捕者が出ているという話を漏れ聞いておる﹂ し わざ

 ミーナがこわばった顔でワタルを振り返った。 ﹁パム所長の仕業だわ﹂ ひそ

 ワタルはうなずいた。あるいは、あの町で、密やかに、しかし苛烈になされていた他種 めぐ

族差別主義が、〝ハルネラ〟を巡る騒動をきっかけに、表面化したのかもしれない。

﹁幼きハイランダーよ、おぬしはアンカ族であるし、ハイランダーであれば町に入ること

もできよう。しかしそちらの水人族とネ族の娘は、リリスの町からは離れておった方がい い。どういうとばっちりを受けぬとも限らぬゆえにな﹂

240

し る べ

こ

 カルラ族の助言もあって、キ・キーマとミーナは、リリスの町から南に丘をひとつ越え きょぼく

たところにある、〝大樹の道標〟という場所でワタルと落ち合うことにした。大樹の道標 かか

は、キ・キーマでも両手で抱えることができないほどの巨木で、カルラ族たちもしばしば 目印に使うのだそうだ。

﹁地上の道をダルババ車で走っても、すぐにわかるだろう。それに森のなかであるから、 ひそ

何かあったら身を潜めることもできようよ﹂

 ワタルたちは大急ぎで出発の支度にとりかかった。手荷物を作りながら、ワタルは、胸

の奥の不安の浸水がますます深くなり、冷たさを増してくるのを感じていた。戒厳令下の

リリスの町で、トニ・ファンロンは無事だろうか。エルザはどうしているだろう？

241

 35 リリスの惨状     しんちょう

うかが

う もう

あお

 ワタルを乗せてくれたカルラ族は慎重だった。リリスの町の上空に着くと、ワタルをお せんかい

ろすより前に、ぐるりと旋回して町の様子を窺った。 ろ えい

か ら だ

﹁おぬし、あの露営用テントを見たか？﹂

 カルラ族の身体に取りつけられた座席から、カルラ族の胸の真っ赤な羽毛を仰いで、ワ

とが

タルは大声で答えた。﹁あの白いテントですよね？ はい、見えました﹂ かか

き おく

ま ちが

となり

 五角形のテントがいくつか││中央にあるのがいちばん大きく、尖った屋根のてっぺん

き し 

に旗が掲げてある。ワタルの記憶に間違いがなければ、テントの隣にある建物は、リリス のブランチだ。

し せつ

﹁シュテンゲル騎士団の露営用テントだ﹂と、カルラ族は言った。﹁リリスの町の公会堂 しんちゅう

にも、シュテンゲル騎士団の旗が掲げられておった。あの規模の施設を接収しているとな

かっくう

ると、ただのパトロール小隊ではなく、一個中隊が丸ごと進駐しているのだろう。思って いたよりも大事になっておる﹂ つばさ

 カルラ族は大きく翼をはためかせ、滑空しながら、今度は露営用テントの真上を飛んだ。 よろい

銀の鎧に身を固めた騎士たちがそこここにたむろしている。

242

かいげんれい

ひるがえ

﹁ブランチ長のパム氏が、戒厳令をしくと同時に、シュテンゲル騎士団の出動を求めたの

だろうな。あの旗は││﹂と、カルラ族は大テントの上を滑空し、風に翻っている隊旗を かくにん

確認した。

ぬ

つぶ

﹁サイゼク隊の印だ。サイゼク隊長は、もともとリリスの生まれであったはずだ。ブラン チ長とも親交がある﹂ いや

 嫌な予感どころの話ではない。ワタルは、真っ黒な直感に心を塗り潰されるような気が してきた。

﹁それじゃ、ここにいるシュテンゲル騎士団は、パム所長の味方なんでしょうね﹂ ﹁だろうな。そら、ごらん﹂ じゅうぶん

おおあらし

さんじ

 カルラ族はレンガ職人通りの上空を飛んでいた。用心深く高空を飛んでいるので細かい ょう

てい

こわ

あと

こ

ひとかげ

ところは見えない。でも、充分だった。レンガ職人通りは、大嵐が通過した後のような惨 どろ

状を呈していた。建物は壊され、ところどころに火事の痕が黒く焦げて残っている。人影 よご

はまったく見あたらない。壊れた家具や汚れた衣類が、灰と泥をかぶって点々と散乱して こうぼう

くる

いる。ここからでは、ファンロンの工房の位置さえもはっきりとはわからない。やっぱり 壊され、火事で焼けてしまったのか。 きょだい

ぞうお 

 この惨状││何か巨大な、でも姿形のはっきりしないものが、暴れ狂いのたくりながら あと

通り過ぎた跡のようだ。そう、確かにそうだ。悪意と憎悪という名の、力に満ちた形の定

243

おそ

う

か

ちょうかん

くだ

は

ぼう

ぎょ

まらないものが襲い来て、ここにあったものすべてを噛み砕き、吐き散らして通過していっ たのだ。 うぎ

 悪意と憎悪は、いつだって飢えている。だから、鳥瞰するこの光景が、食いしん坊で行

儀の悪いものが、テーブルいっぱいの食べ物を、がつがつと手当たりしだいに食い散らし、 おおあわ

ちんあつ

大慌てで立ち去った後のように見えるのも当然のことだった。 そうどう

に

﹁これだけの騒動だ。リリスのブランチだけで鎮圧できたとは、とうてい思えん。シュテ ンゲル騎士団が乗り込んできて、この有様となったのだろうて﹂  ワタルは声を失った。 たいほ 

 レンガ職人通りに住んでいたヒトたちは、みんなどこに行ってしまったのだろう。逃げ

かく

出したのならばいいけれど⋮⋮。もしかして逮捕されて、どこかに閉じこめられているの だとしたら。

 この前会ったときに、ファンロンは、ボグのブランチの頭であるスルカ首長も、隠れ他

種族差別主義者なのだと言っていた。シュテンゲル騎士団が、現状、アンカ族だけで構成 い よう

とう

かね

されていることの遠因をつくったのもスルカ首長だと。

おか

 そして、システィーナ聖堂の威容。塔のてっぺんの鐘が光っている。ここを中心に、他 ふところ

種族差別主義を懐深く隠した老神教が、リリスの町全体をじわじわと侵していったのだ。

いや、今もそうなのだ。初めてこの聖堂を仰いだとき、そのころはまだ何も知らなかった

244

おお

なが

けんお 

のに、聖堂の落とす巨大な影が、町を覆っていることに嫌悪感をおぼえたことを、ワタル じ

は思い出した。今、こうして上空から眺めると、その感じはいっそう強くなった。聖堂は ひ

どんよく

一身に陽を受けている。空から降り注ぐ明るい陽光を独り占めしている。そしてその影は

レンガ職人通りをすっぽりと覆い、さらに貪欲に、もっともっと広い場所を、いずれは町

全体をその影のなかに収めてしまいたいと求めているように見えた。聖堂の影自体が生き の

くみ

もので、それ自身の意志で、町を呑みこんでしまおうとしているかのように見えた。

 このリリスは、他種族差別主義に与しない者にとっては、南大陸でいちばん危険な場所 であるかもしれない。たとえそれがハイランダーであっても。

つじ

 リリスの町には、ガサラのような門はない。でも今は、そこここの辻にシュテンゲル騎 とりで

士やハイランダーらしきヒトびとが立って警戒をしている。特に、以前ワタルが初めてこ おとず

はば

こを訪れたときに通った町の大通りの入口には、急ごしらえの砦があって、ぶっちがいに された太い材木がバリケードとなって行く手を阻んでいた。 ﹁どうする、幼きハイランダーよ﹂ しの

﹁町はずれの森のなかに降ろしてください。何とかして忍び込む方法を考えてみます﹂ ﹁うむ。気をつけるのだぞ﹂

 カルラ族が飛び去ってしまい、あたりにヒトの気配がないことをよく確かめるまで、ワ ひそ

タルはじっと森の下草のなかに身を潜めていた。そのあいだにも、頭はエンジン全開で働

245

けん

いていたけれど、いったいどうすればリリスの町に忍び込めるのか、見当もつかなかった。 つか

 勇者の剣を隠し、服装も変えて、リリスの町に住むアンカ族の子供みたいなふりをして、 む じゃき 

だ め 

あのバリケードを通ることはできないかしら。お遣いに行って、帰ってきたところなんで

すと、無邪気に言ってみたら？ いやいや駄目だ、すぐに疑われてしまう。この町に住む ゆうふく

裕福なアンカ族が、戒厳令下の町のどこに、大事な子供をお遣いなんかに出すものか。そ まいご 

れじゃ迷子ってのはどうだろう。おうちがどこだかわからなくなっちゃったのって言って こし

みたら？ 騎士のおじさん、おうちまで送ってくださいませんか？ なや

さや

ぬ

 グダグダと悩んでいると、ふと、腰のあたりがほの温かいのを感じた。見ると、勇者の つか

剣が光っている。ワタルは急いで剣の柄に手をかけ、鞘から引き抜いてみた。 す

せいれい

 ││ワタル、ワタル。 なげ

ぬま

ま ほう

 ふたつの宝玉に棲む精霊が語りかけてきた。  ││嘆きの沼で、魔法剣を使ったことを覚えているでしょう？

うで

 ││我らの力がふたつ合わさったことで、あなたはさらに新しい魔法剣を覚えた。 おどろ

 ││さあ、剣を掲げなさい。

 ワタルは驚きながらも、目の高さに剣を掲げてみた。と、腕が自然に動いて、剣の切っ かがや

先が宙に印を結んだ。右、左、そして上下。十字を切って、輝く刀身に顔を映す。

 すると、ふわりと身体が軽くなった。これは何だ？ これが新しい魔法剣？ 嘆きの沼

246

こうだん

う

で魔法剣を使ったときは、魔法の光弾を撃つことができたのだ。今度のは何だ？

 そして、自分の身体が見えなくなっていることに気がついた。勇者の剣も見えない。 とうめい

 透明になってしまったのだ！  精霊が語りかけてきた。

だれ

 ││ワタル、これが新しい魔法剣の力。印を結んでいる限りは、あなたの姿は誰にも見 うば

えません。聖なる結界が、あなたの姿を隠してくれるからです。

 ││ただ、この結界は、あなたの身体から力を奪う。長く結んでいてはいけない。身を

たお

隠す場所があったら、すぐに結界を解くのだ。無理をすれば、あなたは倒れてしまうだろ う。 ﹁わかりました。ありがとう！﹂ わ

 勇気が湧いてきた。よし、まずエルザを探そう！

かぶと

ぬ

 リリスのブランチは、ヒトでごった返していた。ハイランダーもいれば、シュテンゲル けんこう

かっちゅう

もんしょう

騎士もいる。奥の部屋で、パム所長が、兜を脱いだシュテンゲル騎士の一人と机を囲み、

何やら意気軒昂に話し合っているのが見える。甲冑の紋章と、周囲の騎士たちの態度から 見て、どうやらあれがサイゼク隊長のようだ。

とちゅう

 エルザの姿は見えなかった。自宅の方にいるのかもしれない。途中で一度、ブランチの

247

物置のなかに隠れて結界を解き、ひと息入れてから、ワタルはうろ覚えの記憶をたどりな

がらパム所長の自宅を捜しにかかった。精霊の忠告に間違いはなく、結界に身を潜めて姿 どうき 

い じ 

を消していると、まるで高い山に登ったみたいに、すぐに息が切れて苦しくなってくる。

動悸もいつもより速いようだ。結界がそれ自体を維持するために、ワタルの身体からエネ ルギーを吸い取っているのだろう。 ふく

 リリスの町を歩いているのは、ハイランダーや騎士も含めて、アンカ族ばかりだった。

商店は開いているところもあるけれど、大部分は表戸を閉じて、なかには板きれを打ち付 ふさ

けて塞いでしまっているところもある。それでもレンガ職人通りの惨状に比べれば、町の へいおん

しゃだん

中心部は平穏そうだった。開いている店には、長い行列ができている。そのそばを通り過

ぎるとき、ハイキュウがどうのこうのという言葉を耳にした。外部からの出入りを遮断し が

しんぼう

てしまっているので、食料品や日用品が足らなくなってきて、配給制を始めたらしい。

﹁まあ、他種族狩りがすっかり終わるまでの辛抱だけど、それにしても困ったわ﹂ ぐ ち 

 アンカ族の女の人が、愚痴りあっている。ワタルは背筋が寒くなった。他種族狩り。町 ふう

を封じて、なかにいる非アンカ族のヒトたちを、一人残らず狩り出すつもりなんだ。狩り 出して、そしてどうするんだ？ まどぎわ

 ようやくパム所長の家にたどり着き、二階の窓際に、しょんぼりとうなだれているエル

ザの横顔を見つけたときには、ワタルはもう酸素不足の金魚みたいに口をパクパクさせて

248

げんかん

い す 

かた

ひとけ 

いた。幸い、玄関からするりと忍び込んでみると、家の一階には人気がなかった。急いで

結界を解くと、手近の椅子にもたれて休んだ。息苦しくて、肩であえいでいた。めまいが ひょうし

ふ

して、急いで椅子の背もたれにしがみついた。その拍子に、椅子がごとんと音をたてた。  階上で軽い足音が聞こえた。 ﹁誰？﹂

きゃしゃ

 エルザの声だ。階段を降りてくる。ワタルは椅子の背につかまったまま振り返った。 ﹁まあ⋮⋮あなたは﹂ ひとみ

ゆか

しりもち

 記憶にある黒い瞳の美しさはそのまま。でも、もともと華奢だったエルザは、さらにげっ やつ

そりと窶れていた。 ﹁ファンロンさんは││どこですか？﹂ せいいっぱい

 やっとそれだけ言って、ワタルは椅子から転がり落ちた。床に尻餅をついて、ぜいぜい と息をするのが精一杯だった。 かくま

 エルザはワタルを彼女の部屋に匿うと、冷たい水を持ってきてくれた。それでようやく、 ワタルも落ち着いた。 りゅう

 龍の笛のことを説明すると、エルザは何度も何度もうなずいた。

﹁ええ、ええ、トニなら龍の笛を作れるわ。彼でなくては作れないでしょう﹂

249

うる

うつむ

さいはい

 でも⋮⋮と、みるみる瞳を潤ませて俯いてしまう。

﹁あのヒトは逮捕されてしまったの。父の采配で、ハイランダーたちが、レンガ職人通り ていこう

のヒトたちを暴動罪で逮捕しようとしたとき、抵抗したから﹂ ﹁それで、どこに連れて行かれたんです？﹂ ﹁システィーナ聖堂よ﹂ けいむ しょ

む り や り 

﹁あんな場所に？ 刑務所とかじゃなくて？﹂

おり

 逮捕したヒトたちを聖堂に押し込めて、無理矢理にでも老神教を信じさせようというの だろうか。 ろうごく

﹁システィーナ聖堂の地下には、大きな牢獄があるのよ。父が司教様と相談して作った檻

はげあ

なの。異教徒を閉じ込めるには、システィーナの力で封じていただくのがいちばんだから といって﹂ め

 システィーナ聖堂のダイモン司教なら、以前ここに来たときに会った。見事なまでの禿 たま

頭と、刺すような冷たい眼。 ﹁聖堂の地下ですね。確かですね？﹂

﹁ええ⋮⋮。でも、どうやって地下に降りるのか、わたしは知らないの。聖堂のなかを見 回した限りでは、地下室に降りる階段なんか見あたらないし﹂

 行けば何とかなるだろう。ワタルは大きく深呼吸をした。まだ心臓の動きがちょっとヘ

250

よ

ひざ

ンだ。酔っぱらったみたいになってる。それに膝がガクガクする。

﹁顔が真っ青だわ。もういっぱい水をあげましょう。それに、何か食べた方がいいわ﹂

あせ

ぬぐ

 ワタルは首を振った。﹁ありがとう。でも水だけでいいです。時間がないんだ﹂

 エルザが水と、冷たいおしぼりを持ってきてくれた。それで顔の汗を拭って、ワタルは 心から感謝した。 だいじょうぶ

なみだ

﹁エルザさん、大丈夫ですか。この町││ひどい有様だ﹂

 ワタルの言葉に、エルザは涙のにじんだ瞳を窓の外へと向けた。ついで、そっと窓際に 歩み寄り、カーテンを引いた。

ぎ せい

﹁〝ハルネラ〟││〝大いなる光の境界〟の作り直しに、一人の犠牲者が必要だというこ よ そ 

と⋮⋮。そのことが広く知らしめられたのが原因です﹂ しゅうじん

どうよう

め がみ

 ワタルはうなずいた。﹁他所の町でも、それで騒動が起こっています。特に貧しいヒト おび

れん

たちや囚人たちのあいだで動揺が大きいって。貧しいヒトたちには、命より他に女神さま ささ

はか

に捧げるものがないから、ヒト柱に選ばれる可能性が高いって怯えてる。囚人たちは、連 ぽう

いっき 

邦政府が自分たちを女神さまに捧げて、他のヒトたちが選ばれずに済むように謀ろうとし ているんじゃないかと疑ってる﹂ ﹁そう⋮⋮﹂ ばくはつ

﹁そういう動揺に乗じて、ヒトびとが今までの不満を爆発させて、暴動とか一揆を起こし

251

てるところもあるんです﹂ まゆ

は けん

 エルザはカーテンをつかんだまま振り返り、眉をひそめた。﹁昨日、父がアリキタの鉱 山で暴動が起きていると言っていたけど﹂

はくがい

﹁ええ、そうです。あそこにもシュテンゲル騎士団が派遣されました﹂ ﹁そうなの﹂エルザはうなだれた。 どじょう

﹁ここではその暴動が、非アンカ族のヒトたちに対する迫害という形をとったんですね？  もともとそういう土壌のあった町だ﹂ う

 エルザはカーテンに顔を埋めた。 けいい 

﹁だけど、僕はやっぱり不思議なんです。いったいどういう経緯で、こんなことになって しまったんだろう﹂ さわ

 エルザはカーテンのなかから、か細い声で言った。﹁ヒト柱に選ばれるのは、この広い

世の中でたった一人。それほど騒ぐことはないのじゃないか。ましてや、それがアンカ族 と非アンカ族の対立に結びつくとは思えないということかしら﹂ だま

 ワタルは黙っていた。たった一人なのだから、騒ぐことがないとは思えない。とりわけ、 ワタル自身にとっては、選ばれる可能性は二分の一だ。

﹁トニとわたしが心配していた以上に││いいえ﹂エルザは振り返った。﹁父やダイモン し

司教も驚くほどに、老神教はこの町のアンカ族のヒトびとの心に染みこんでいたようなの。

252

つく

老神教の教えは、あなたも知っているのでしょう？﹂ だま

 幻界を創ったのは老神であり、老神はまた、創世のときに、自らの姿に似せてアンカ族 はんえい

さまた

をつくり、地上に置かれた。しかし、女神は老神から幻界を騙し取り、さらに、アンカ族

の繁栄を妨げるために、女神自身に似せて他種族をつくった。だから、いつか老神が女神 ほろ

を滅ぼし、この幻界の創世の神として復活するときには、女神のつくった他種族もまた滅 ひとしずく

び、幻界はアンカ族の楽園となるのだ││

 ゆるゆるとうなずき、涙を一滴落としながら、エルザは続けた。﹁その教えからゆくと、

千年に一度、大いなる光の境界を張り直さなければならない、それにはヒト柱が必要だな

どというのも、アンカ族を迫害するための、女神さまのまやかしだというの。だからもち ち え 

ろん、ヒト柱にはアンカ族が選ばれる。たった一人のヒト柱であっても、アンカ族にとっ たくら

て大切な人材、老神の復活を手伝うことができる、勇気と知恵のあるアンカ族を、わざわ ざ選んでヒト柱にする││それが女神さまの企みだというの﹂  ワタルは鼻先で笑った。﹁こじつけもいいところじゃないか﹂

﹁そうかしら﹂エルザは悲しげにワタルを見つめた。﹁あなたは立派なハイランダーだけ

れど、やっぱりまだ子供なのだわ。どんなこじつけだって、信じているヒトにとっては真

実なのよ。老神教を信じるヒトたちにとっては、女神さまがヒト柱に選ぶのはアンカ族の

救世主であり、だからどんなことをしてもそれを阻まねばならないの﹂

253

と

 ダイモン司教は、システィーナ聖堂にアンカ族の信者たちを大勢集め、礼拝と大説教会 いつわ

を執り行ったのだという。そこで司教は語った││〝ハルネラ〟とは〝大いなる光の境界〟 うそ

あば

ほう

けが

う

の張り直しの時などではない、それは女神の偽りである、真実を知る老神教の信者にとっ まがぼし

ては、〝ハルネラ〟とは、女神の嘘を暴き、女神を奉じようとする穢れた他種族を討ち滅 か な た

とうらい

しら

ぼすべく、老神が天の彼方から、北の凶星を通して、幻界に知らしめている時なのだと。

な

﹁老神教信者に、女神さまを滅ぼし幻界を取り返す、聖戦の到来を報せる印なのだと⋮⋮ ね﹂ ほお

 エルザの言葉は、冷たい息となってワタルの頬を撫でた。すうっと寒くなった。 しんすい

﹁ルルドの国営天文台は、そんな見解を出してはいないのに﹂

くろかみ

﹁ええ、そうでしょう。でも、そんなこと、ダイモン司教に心酔しているヒトたちにとっ ては、どうでもいいのよ﹂  激しくかぶりを振って、黒髪を乱す。

﹁だから、トニは逮捕されてしまったの。あなたと同じようなことを言って、迫害される た ち う 

他種族のヒトたちを守ろうとしたからよ。トニ一人では太刀打ちできなかった。どうする しず

こともできなかったわ。あのヒトの工房も焼き討ちにあって⋮⋮﹂ らくたん

 落胆に、ワタルは身体が重くなって、椅子に沈み込んでいくのを感じた。では、ファン

ロンを助け出すことができたとしても、龍の笛を作ってもらうことはできないのか。

254

ほう

 でも、いずれにしろ放っておくことはできない。ワタルは空っぽになったグラスを足元 に置くと、立ちあがった。 き

﹁どうするの？﹂と、エルザが訊いた。 ﹁システィーナ聖堂に行ってみます﹂ ﹁あなた一人で何ができるかしら﹂

﹁わからない。でも、とにかく事実を確かめたい。大勢のヒトたちが、取り調べも裁判も

なしに、地下牢みたいな場所に押し込められているのだとしたら、放ってはおけません。

事実を明らかにして、他の町のブランチに働きかければ、何とかなるかもしれない﹂ ふる

 エルザは、今やカーテンにつかまって、やっと立っていた。震えるくちびるから、言葉

がこぼれ出た。﹁トニは、もう死んでいるかもしれないわ。父がわたしにそう言ったの。 あきら

おまえは、もう二度とあの男の顔を見ることはないって﹂

 ワタルは顔をあげ、しっかりとエルザを見つめた。﹁諦めるのはまだ早いです﹂ あふ

 エルザの瞳から、涙が溢れた。彼女は片手で目を覆った。

﹁あなたが諦めてしまったら、誰もファンロンさんを待っているヒトがいなくなってしま う。しっかりしてください、エルザさん﹂ ﹁でも⋮⋮﹂

﹁それに、僕にはどうしても龍の笛が必要なんです。ファンロンさんに作ってもらわなく

255

ちゃ。だからあのヒトを助け出します。必ず﹂ ﹁あなたみたいな子供に、何ができるの﹂ しっこく

 ワタルは勇者の剣を取ると、印を結んだ。エルザの目の前で、ぱっと姿を消してみせた。

 すぐに結界を解いて姿を見せると、エルザは漆黒の瞳を見開き、今にも倒れそうなほど そうはく

蒼白な顔をしていた。 ﹁い、今のは何？﹂ ﹁ちょっとした魔法です。だけど、僕の力になってくれる﹂ か

やみ

 エルザがよろめいたので、ワタルはあわてて駆け寄り、彼女を支えた。エルザは、さっ きまでのワタルみたいに、激しく震えて肩で息をしていた。 ﹁あ、あなたは⋮⋮何者なの？﹂ うず

わき

 ワタルは答えなかった。エルザの瞳のなかには、彼女の心が自問自答する様が、光と闇 の渦になって映っていた。 はな

 エルザはワタルから離れると、その両腕を押さえた。 ﹁ちょ、ちょっと待っていて。お願い、ね、待っていてね﹂ だ

もど

 あわてるあまりに家具やドアにぶつかったりしながら、エルザはベッドの脇の小引き出 さぐ

しのなかを探り、何か取り出すと、それを胸に抱いてワタルのそばに戻ってきた。片手で 持てるくらいの小さな木箱だ。

256

﹁これを持っていって﹂ か

 ワタルは受け取り、木箱に目を落とした。腰につけられるように布のベルトがついてお ふた

り、蓋に掛け金がかかっている。 ﹁開けてみて﹂ つ

 開けると、工具がびっしりと詰まっていた。

﹁トニの道具箱なの。あのヒトが、細かな細工物を作るときに使っていたものよ。いつも

持ち歩いていたんだけど、焼き討ちがある前に、わたしに預けてくれたの。もし、レンガ

たましい

職人通りの工房が使えなくなっても、これさえあればどこでだって仕事ができる。僕の魂 と同じくらい大切なものだから、君に持っていてほしいって﹂ ﹁いいんですか﹂

 エルザはうなずいた。まだ目が潤んでいたけれど、視線はしっかりと定まっている。

﹁あなたを信じるわ。トニが龍の笛を作れるように、あのヒトを助け出してちょうだい。

そして伝えて。あなたと会えるときまで、わたしは待っているからって。どうぞお願い﹂ わた

﹁わかりました﹂ワタルは、しっかりと木箱を腰にくくりつけた。﹁お預かりします。きっ と、きっとファンロンさんに渡して、龍の笛を作ってもらいます﹂

257

 36 システィーナ聖堂の檻     ながこし

さいだん

 折しも、システィーナ・トレバドス聖堂では、午後の礼拝の時間だった。中央の通路を はさ

ししゅう

け さ 

かわそう

挟んで左右に何列も延びた長腰かけに、信者たちが並んで腰かけている。祭壇に立つダイ ほうい 

き とうしょ

かか

モン司教は、白い法衣の上から、錦糸の刺繍をほどこされた重たげな袈裟をかけ、革装の

だいしょくだい

古びた書物││たぶん祈祷書だろう││を目の高さに掲げて、朗々と読み上げていた。 しの

ろうそく

ほのお

けむり

 ワタルは印を結んで聖堂のなかに忍び込むと、礼拝堂のいちばん後ろにある、大燭台の ひそ

ゆ

にお

列の後ろに身を潜めた。燭台に立てられた無数の蝋燭の炎が、青い煙を立ちのぼらせなが

ら、ゆらゆらと揺れている。印を解いて深呼吸をすると、蝋の匂いがした。 じゅうじん

おどろ

けいけん

こうべ

 信者たちは百名ほどもいるだろうか。全員アンカ族だとばかり思っていたのに、数人の

獣人族が混じっていることに、ワタルは驚いた。敬虔に頭を垂れ、司教の説教を聞いてい

おんとう

る。ワタルの耳に入った部分では、ダイモン司教の口から出てくるのは、創世の神への感 かく

謝と、こたびのリリスの争乱で傷ついたヒトたちの回復を願う意味の穏当な言葉ばかりだっ

・

たから、そういう意味では不思議はないけれど、この聖堂が隠している裏の顔のことを思

・

えば、不可解きわまりない。それとも、ここの信者である他種族は、まだ何も知らないと いうのだろうか？

258

ひび

はげ

 祈祷書の朗読を終わった。ダイモン司教は、響きのいい声で説教に移った。やはり、リ

リスの争乱は不幸なことであり、我々は今こそ手を取り合い、励まし合ってこの難局を乗 しんみょう

ささ

り切らねばならないというような、ワタルにはきれい事としか思えない言葉が続く。それ

でも信者たちは神妙に聞き入り、ダイモン司教が再び創世の神に感謝を捧げて説教をしめ くくると、一同は立ちあがって歌を歌い始めた。 おおとびら

かんぬき

すそ

みが

ゆか

すべ

 礼拝が終わると、信者たち一同はぞろぞろと礼拝堂を出てゆき、一人一人を見送ったダ

イモン司教が大扉を閉め、そこに閂をかけた。司教の法衣の裾が、磨き込まれた床を滑っ

て、さっさというかすかな音をたてる。司教は、祭壇周りの蝋燭の燃え具合を確かめると、

は

奥の扉を開けて姿を消した。後ろの大燭台の方までは来なかったので、ワタルはほっとし た。 すきま 

 そっと燭台の隙間から這い出ると、立ちあがって裾をはたき、あたりを見回す。  さて、どうしたものだろう？

しんにゅう

 大扉は外との出入口の役割しか果たしていない。祭壇の後ろの、ダイモン司教が出ていっ だれ

はちあ 

た扉が、聖堂内の他の部分に通じていることは明らかだ。やっぱり、あそこから侵入する

しかないか。でも、あの扉を通るとすると、司教をはじめとする誰かと鉢合わせする危険 きわ

も

が極めて高いし、奥の様子がまったく見当つかない以上、かなり長いあいだ、結界を張り か ら だ

続けていなければならない。身体が保つだろうか。

259

さぐ

きんちょう

 これだけの建物だ。きっと、他にも通用口みたいなものがあるはずだ。いったん外に出 て、周囲をぐるりと探ってみようか。  ふと、誰かの視線を感じて、ワタルはまばたきをした。

 誰もいない。礼拝堂は空っぽだ。誰が見ているはずもない。気のせいだろう。緊張して いるからだ。

 足音を忍ばせて腰かけの後ろを横切り、大扉を目指す。閂に手をかけて││ けん

 やっぱり、誰かに見られているような気がする。視線がワタルを追いかけてくる。

いろど

えが

かざ

 腰の勇者の剣に片手を置き、ワタルはゆっくりとあたりを見回した。この視線はどこか かべ

ら来るものだ？ しゃく

ま もの

す

 壁を彩るステンドグラス？ そこには様々なシスティーナの姿が描かれている。飾り職 ち みつ

人たちの前に光臨する姿。宝玉のついた杓で魔物を打ち据える姿。

・

・

ふ

 美しく緻密に描かれているけれど、しょせんは作り物だ。その目に生命が宿っているは ・

ずはなく、ワタルを見ているわけはない。 ・

 もう一度閂をつかむと、どこかでかさこそ││と音がした。はっとして、ワタルは振り 返った。  何の音だ？

 自分の神経が張りつめて、ピリピリと放電する音さえも聞こえそうだ。でもそれは、今

260

しんせん

かお

ちが

わき

さっき聞こえたかすかな音とは違う。今のは││何かが動いたような││

ふ

つぶ

 新鮮な切り花の香りが鼻をくすぐる。祭壇脇のシスティーナの石像の台座には、今日も あふ

おお

花が溢れているのだ。システィーナ像がその足元に、他種族たちを踏み潰しているその姿

を、信者たちの││いや、まだこの聖堂の真実を知らないヒトびとの目から覆い隠すため けんか 

の、まやかしの献花。

 ワタルはほっと息をついた。大扉のところからでも、石像の台座から、二、三輪の真っ

ぬ

白な花が床に落ちているのが見えたのだ。さっきのは、花が落ちたときの音だったのだ。 くず

あまりにもたくさん盛ってあるので、崩れてしまったのだろう。 しんちょう

 ぐずぐずしてはいられない。慎重に、音をたてないようにして閂を抜き、大扉を押そう かかと

としたとき、石像の台座から、さらに五、六本の花が続けざまに落ちた。花の隙間から、 いっしゅん

石像の足の踵のあたりがちらりと見える。

 一瞬、ワタルはひやりとした。システィーナ像が足を動かしたので、花が乱れて下に落

と

ちたみたいな気がしたからだ。 ば か 

 ンな、馬鹿な。  それでも、息を停めてじっと見守る。

 と、ダイモン司教が出ていったあの扉から、がちゃがちゃと音が聞こえてきた。扉が開 きかける。ワタルは横っ飛びに飛んで手近の長腰かけの背に隠れた。

261

 扉が開き、誰か出てきた。法衣が床を滑る音。ダイモン司教か？ まずい。通路をこっ ちに向かってくるようだと、すぐに見つかってしまう！  ワタルは大急ぎで印を結び、結界をつくって姿を消した。 ぬ

 法衣の裾が床を滑る音が、どんどん近づいてきた。そっと長腰かけの背もたれから顔を ごうか 

のぞかせてみると、やはりダイモン司教だった。豪華な袈裟を脱ぎ、白い法衣だけの姿に もど

戻っている。手にはあの杓││システィーナ像が持っているのとそっくりな、頭のところ に宝玉のついた杓をつかんでいる。 つや

あぶら

 先にここで初めて会ったときよりも、艶やかな顔色だった。ワタルの目には、何だか司 い

つばさ

教が活き活きとして、若返ったようにさえ見えた。つるつる頭にも脂がのって光っている。

ふと、カルラ族の翼に乗って、空からこの聖堂を見おろしたときの光景を思い出した。聖 かげ

堂はリリスに君臨し、その影が町を覆っていた││聖堂が力を持ち、勢いを増すにつれて、 ダイモン司教にも不思議なパワーが満ちている？

い げん

しん

 司教は、ワタルが潜んでいる長腰かけの脇を通り過ぎた。さらに二列先まで行ったとこ おだ

ろで、出し抜けに足を止めた。

 祈祷や説教のときと同じ、穏やかだが威厳という芯のある声が、こう言った。 ﹁魔法の気配がする﹂

 一瞬、結界のなかに隠れていることを忘れて、ワタルは身を縮めた。心臓がどきんどき

262

んと暴れ出す。 めぐ

 ダイモン司教はゆっくりと首を巡らせた。その口元に、あからさまなニヤニヤ笑いを浮 だいじょうぶ

かべている。 しょうもう

おさ

 大丈夫だ。結界がある。見つからない。ワタルは自分で自分に言い聞かせた。息苦しく ゆる

まわ

なってきたので、逆に意識して呼吸を緩めた。身体の消耗を、少しでも抑えなくては。

つぶや

﹁いたずら者め﹂と、ダイモン司教は言った。首だけでなく、身体ごとぐるりと廻りなが ら。 ﹁どこに潜んでおるのかな？﹂ はな

とどろ

 ワタルに背を向けて、楽しそうにそう呟く。ワタルはそろそろと床を這い、ダイモン司 教から離れようとした。 ま

す

 そのとき、ダイモン司教が振り向きざま、轟くような声で呼ばわった。﹁そこだ！﹂ いなずま

ほとばし

よ

よ ゆう

 司教の手の中の杓は、あやまたず真っ直ぐにワタルを指していた。杓のてっぺんについ かがや

うで

でんげき

しび

はし

あっけ 

ふ

た宝玉が輝き、そこから稲妻が迸った。避ける余裕もなく、ワタルは中腰になったまま稲 てのひら

妻を受け止めた。とっさに両手を前に出して身をかばう。

 掌に、ついで腕に、電撃を受けたような痺れが奔った。ワタルは呆気なく吹っ飛ばされ、 長腰かけの背もたれよりも高く飛びあがって、背中から床に落ちた。

 あまりの驚きに、痛みさえ感じない。床をひっかくようにもがいて起きあがると、結界

263

にら

は消えていた。あの稲妻のような光に、かき消されてしまったのだ。 けいこう とりょう

 ダイモン司教はワタルを睨みつけながら、顔いっぱいに笑っていた。ふたつの目が、命 くらやみ

やエネルギーのない、暗闇の蛍光塗料のような輝きを放っている。 ﹁ど、どうして⋮⋮﹂  ダイモン司教はするりと一歩前に出て、ワタルに近づいた。 だま

え

﹁そのような未熟な魔法で、この私の目を騙すことができるなど、本気で思っていたのか

ね？ おまえがここに潜んでいることなど、とっくに気がついておったわ﹂

 知っていて知らぬふりを決め込み、ワタルを泳がせていたというのか。 ひざ

つ

 ワタルは膝をついて起きあがり、勇者の剣に手をかけた。ダイモン司教の笑みが大きく なった。 ねこ

け う 

せん

﹁おまえは何者だ？﹂と、いたぶるような猫なで声で問いかける。さらに一歩詰め寄る。 ワタルは半歩下がる。

あば

たたか

﹁たとえ術は未熟でも、おまえのような子供が結界魔法を唱えるなど希有なこと、先にこ おとず

こを訪れたときは、ハイランダーだと言っていたが﹂

﹁僕はハイランダーだ﹂ワタルはきっと顎をあげた。﹁不正を暴き、悪と闘って幻界を守 るのが、僕の使命だ！﹂ ほ

 吠えるような声をたてて短く笑うと、ダイモン司教は言った。﹁聞いたふうな口をきく。

264

威勢のいいことだ﹂ な

 値踏みするような視線で撫で回されるのを、ワタルははっきりと感じた。おぞましくて み ぶる

身震いが出た。

﹁その剣は││﹂ダイモン司教は杓でワタルの勇者の剣を指し、目を細めた。﹁そしてそ の目の輝き。あの魔法﹂ き

 再び、険悪な笑顔が広がった。司教の目が晴れた。﹁そうか。おまえは〝旅人〟だな？﹂

うた

 ワタルは答えなかった。いつでも斬りかかることができるよう、全身で身構え、集中し ていた。 ﹁そうだ、おまえは〝旅人〟なのだな﹂

かた

いつわ

め がみ

か

お だく

あわ

 司教は、さっき祈祷書を朗読していたときに似た、謳うような口調で言った。楽しげで、 い

ほとんど浮かれてでもいるみたいな表情だ。 しもべ

な ぜ 

いや

﹁忌まわしき〝ザザ・アク〟よ。神を騙る者よ。偽りの女神さまの掻きたてし汚濁の泡よ ひ くつ

り生じた卑屈なる僕よ。何故この聖域に足を踏み入れた？ おまえのような卑しき存在に こうき 

も、この聖堂の放つ光輝が感じられるというのか？﹂ まゆ

 ワタルは息をはずませて言い返した。﹁レンガ職人通りのヒトたちはどこだ？﹂ しらが 

 ダイモン司教は、白髪交じりの優美に長い眉を持ちあげた。﹁何だと？﹂ ち か ろう

﹁トニ・ファンロンはどこにいる？ みんな、この聖堂の地下牢に押し込められているは

265

ずだ！﹂ おそ

﹁そういうことか﹂ダイモン司教はにやにや笑った。﹁これは恐れ入る。おまえはあの連 中を助けるためにやってきたというのか？﹂  ワタルは声を張りあげた。﹁みんなはどこだ！﹂ み いだ

か

﹁〝ザザ・アク〟よ。探せるものなら探してみるがよい。見出せるものならば、その目で ふじょう

見出してみるがよい﹂ダイモン司教はゆっくりと杓を両手に持ち替え、てっぺんについた

ほうこう

・

えいごう

・

・

・

・

くさり

・

・

・

・

・

み たま

宝玉を目の高さに掲げた。﹁しかし、おまえには探せぬ。不浄の者たちを助け出すことも ・

じゅもん

できぬ。できるものか。なぜならば││おまえはここで死ぬのだ！﹂ ふう

 ダイモン司教は宝玉を額に押しあて、朗々と呪文を唱え始めた。 たた

ちゅうしん

こいねが

てんらい

いっせい

﹁太古に封じられし我らが神の咆哮よ、永劫の時の鎖につなぎ止められし御霊の力よ。今 たま

かみなり

こそ出で給え、我ら神を讃える者どもの衷心にて希いたり。天雷招来！﹂

 聖堂のすべてのステンドグラスが、あたかもそのなかに雷が落ちたかのように、一斉に まぶ

こた

まばゆい光を発した。目もくらむほどの眩しさに、ワタルは思わず片手をあげて目を覆っ しょうげき

てんちゅう

た。足元からどすんという衝撃が来てよろめき、必死で長腰かけの背につかまった。 ﹁我らが神よ、その名を騙る偽りの者に天誅をくだし給え！﹂ てんじょう

 ダイモン司教は両手を広げ、天井にまで轟くほどの野太い声を張りあげた。それに応え て、再びステンドグラスが輝いた。

266

 その光のなかで、ワタルは見た。ステンドグラスのなかに描き出されたシスティーナた

びんしょう

ちが、みんなワタルの方を向いている。右手に杓を構え、左手の手鏡をワタルの方に差し 出して、ワタルの顔をそこに映し、  ││おお、我らが敵がここに。  ││我らが敵はこの手中に。 らんらん

むち

 すべてのシスティーナたちの目が欄々と輝いているのを。

 ばさり！ また花が落ちた。反射的に、ワタルは鞭のような敏捷さで石像の方へ視線を こお

つまさき

飛ばし、振り返った。そして、そのまま凍りついてしまった。  信じられない。  こんなことがあるわけない。 う

 システィーナの石像が、足元を埋める花々を爪先ではらい落としながら、今、ゆっくり と台座を降りてくる。

 右足が台座を離れ、床に着く。左足が持ちあがる。手鏡を掲げた左手が身体の脇に下が にぎ

げんかく

り、みしりと音がする。杓を握った右手が、翼のように大きく横へと差しのべられる。 こうしょう

 そんな馬鹿な。石像が動くはずはない。これは幻覚だ。僕は幻覚を見ているんだ。 あお

いか

 ダイモン司教が聖堂の天井を仰いで哄笑した。﹁見るがいい！ 神を騙る汚濁の者に聖 おか

域を侵されて、システィーナ様がお怒りじゃ！﹂

267

ひとみ

ぞうお 

くぎづ 

 石像のシスティーナには、目はあっても瞳はない。しかしワタルは、のっぺりとした灰

色の石であるはずのその瞳から、怒りと憎悪の視線が迸り、ワタルを釘付けにするのを感 じていた。 せんたん

とげ

 システィーナ像は床に降りると、手鏡を頭上に掲げ、テニスのバックハンドのショット するど

つ

さながらに、杓を下から上へと振りあげた。杓の先端から衝撃波が飛び出した。毒気と棘 はら

くだ

を孕んだ鋭い風が、聖堂を突っ切って飛んでくる。ワタルの前の長腰かけの背もたれが、

しんばつ

こわ

手品のようにスッパリと切断され、次の瞬間には砕けて飛び散った。破片がワタルの上に ばらばらと降りかかった。 に

 声も出せず、ワタルは逃げ出した。

﹁おお、逃げるわ逃げるわ、不浄の者よ！ 神罰が怖いか。恐ろしいか。この聖堂に、お まえの逃げ隠れる場所などあるものか！﹂

あお

 ダイモン司教の声と同時に、第二の衝撃波が飛んできた。ワタルは頭から床に飛び込ん さ

きょり 

でそれをかわした。シャツの裾が切り裂かれ、二、三列分の長腰かけが煽りをくらってひっ くり返る。

 ずしん、ずしん。システィーナが一歩進むごとに、聖堂の床が揺れる。ワタルとの距離

は、もう長腰かけの三列分もない。ダイモン司教はワタルから遠ざかりつつ、杓を掲げて いの

祈りを再開した。

268

とら

 衝撃波が来る。きわどく飛んで避ける。左の耳たぶが切れ、血が飛び散った。滑って転 なげ

ぬま

んだらおしまいだ。システィーナ像の石の目は、ぴったりとワタルを捉えている。 こうだん

 杓が振りあげられる。ワタルは勇者の剣を抜き、嘆きの沼で覚えたあの魔法剣を使って、 飛んでくる衝撃波に向かって光弾を放った。

 長腰かけの破片を吹き飛ばしながら直進してきた衝撃波と、勇者の剣の先端から飛び出 はじ

した光弾は、ワタルからほんの一メートル足らず離れたところでまともにぶつかった。光

弾は衝撃波を受け止め、白く輝く半円のバリアに広がってそれを弾き返した。 は

 衝撃波はシスティーナ像へと撥ね返り、手鏡を高く掲げた左腕がよろりとした。石像は

たたらを踏み、持ちこたえて体勢を戻すと、またワタルの方へと進んでくる。

よ

 システィーナの石像は、自力で動いてるわけじゃない。ダイモン司教の呪文が動かして

けっとう

たお

いるのだ。ワタルは自分の両目がゆらゆらと泳ぎ、信じがたいこの決闘の光景に酔っぱらっ

てしまいそうになるのを必死でこらえながら考えた。ダイモン司教を倒さなきゃ。呪文を やめさせるんだ！

 衝撃波。また弾き返す。光弾のバリアで受け止めきれなかった力が背後の大燭台を直撃

し、蝋燭が一斉に吹き消された。いや違う。蝋燭の頭が切り飛ばされてしまったのだ。切

断された無数の火のついた芯の部分が、なおも燃えながらぱっと弾け飛んで床に落ちた。  ││この衝撃波を！

269

ねら

 システィーナの杓の先端が、ワタルに狙いを定める。  ││ダイモン司教に向かって打ち返すんだ！ お じ 

ほ

 思い出せ。草野球だ。カッちゃんとさんざん遊んだじゃないか。非力なワタルは、でも

ミートのセンスは最高だと、見物していた小村の小父さんが褒めてくれたじゃないか。ワ かん

タルちゃんは、どんな球でもバットにあてる。いい勘してるぜ。イチロー顔負けだ！ きょうあく

はら

 タイミング勝負だ。呼吸を合わせろ。システィーナ像が振りかぶる。さあ、来るぞ。

 それ自体に凶悪な意志を孕んで、衝撃波がワタルめがけて押し寄せる。それが空を切っ うな

てくるのが見える。ワタルの首を切り落とそうと、唸りながら飛んでくるのが見える。

おそ

 ワタルは勇者の剣をふるって魔法弾を打った。腰が引けて、それは一瞬遅かった。光の

バリアはワタルの鼻先で広がり、衝撃波の勢いに負けて、ワタルを後ろへよろめかせた。

こ ぞう

さ

いくつもの大燭台が、支えの柱をすっぱりと切断され、呆気にとられたように静まりかえっ たあと、ひと呼吸遅れて、重々しい音と共に落下した。 せいいっぱい

はんきょう

とど

﹁どうした？ 避けるだけで精一杯か。もう後がないぞ、小僧！﹂ せま

 ダイモン司教の高笑いが、聖堂の壁に反響する。

 間近に迫ったシスティーナ像の石の顔が、にやりと笑った。止めを刺そうと狙っている。 こ

 杓が宙に弧を描く。至近距離で放たれた衝撃波が、キーンという不協和音をたててワタ ルに迫ってきた。

270

 ││イチロー顔負けだ！

 ワタルは本当に草野球のバッティング・フォームそのままに、勇者の剣を振り抜いた。 ひだりひじ

かみそり

放たれた光弾は、ワタルの正面からわずかにずれて、きわどいところで衝撃波を弾き返し そで

ほお

た。バリアで防げなかった衝撃波が、ワタルの左肘をかすめた。剃刀で指を切ったときの かんしょく

あおむ 

ような、ひやりとした感触が奔った。シャツの袖が裂け、左の頬にパッと血が飛んだ。 ﹁うわ！﹂

 システィーナ像のずっと後ろで、ダイモン司教が背後の長腰かけを道連れに、仰向けに ほ

ひっくり返った。白い法衣が帆のように広がり、裾の一部がすぱりと切れて、ひらひらと ま

宙に舞いあがる。 ﹁お、おのれ！﹂ のが

 ダイモン司教がひるむと、一瞬システィーナ像の動きが止まった。ワタルはその瞬間を

さえぎ

逃さなかった。杓を持ったシスティーナの右腕の下をかいくぐると、まっしぐらにダイモ とっしん

ン司教へと突進した。 ﹁小僧め！﹂

 もがきながら立ちあがろうとしたダイモン司教の動きを、だぶだぶの法衣が遮った。ワ さんだんと 

タルはほとんど三段跳びでダイモン司教に飛びかかり、法衣のたっぷりとした袖を、むん たた

ずと踏みつけた。床に腕をついていた司教は、悲鳴をあげて床に叩きつけられた。

271

えり

たて

いっしょ

 ワタルはダイモン司教の法衣の襟をつかむと、ぐいっと引き起こした。司教の身体を盾 にして、システィーナ像に向き直る。 こうげき

﹁そら、やってみろ。呪文を唱えてみろよ。システィーナ像が攻撃してきたら、僕と一緒 ひきょう

にあんたの首も落っこちるぞ！﹂ こしゃく

﹁小癪な⋮⋮この卑怯者めが！﹂ ﹁そんなのおあいこだ！﹂

 システィーナ像は、手鏡と杓を持った両腕を掲げたまま、ゆらゆらと揺れている。 きたな

﹁離せ、その汚い手を離せ！﹂ さけ

﹁離すもんか！﹂

け

 叫びつつ、つるつる頭を振りたてて逃げようと暴れるダイモン司教を、ワタルはぐいぐ なぐ

いひっぱった。法衣の襟がびりっと裂けた。司教はしゃにむに足を蹴り、杓でめちゃくちゃ さわ

にワタルを殴りつけた。 けが

﹁穢れた手でわしに触るな！﹂

 あ、そう。ワタルはぱっと手を離した。ワタルから逃れようと力一杯暴れていた司教は、

引き留める手を失って、自分から床に頭をぶつけた。ごつんという音がした。 うめ

 うおうと呻いて、司教は床にうずくまった。ワタルはさっと手をのばし、司教の緩んだ 指から杓をもぎ取った。

272

﹁こんなもの、こうしてやる！﹂ こん

 杓の柄を握りしめると、精限り魂限りの力を込めて、宝玉を床に叩きつけた。 ばんざい

 宝玉は呆気なく砕けた。破片が飛び散るとき、血のような匂いがプンと鼻をついた。

 ふらついていたシスティーナ像の動きが止まった。万歳をするように両手をあげている。

し

と、右手の指が緩んで、杓がするりと床に落ちた。からんと音をたてて落下すると、それ はワタルの目の前で、みるみる砂に変わっていった。 ﹁おお、システィーナ様！﹂

かいぞく

 ダイモン司教は額を切って、顔一面にだらだらと血を流していた。血が染みるのか、片 や

目を閉じている。司教なんかじゃない、痩せさらばえてなお凶悪な、海賊船の老船長だ。 ﹁おのれ、小僧め、システィーナ様はお許しにならぬぞ！﹂ こた

 ダイモン司教の憎悪の声に応えて、ステンドグラスがまた稲妻のように輝いた。それに

同調するように、システィーナ像の左手に残った手鏡も光り始めた。はっとするまもなく、 こ

おちい

その丸い鏡面から光が放たれた。ワタルはとっさに右に逃げた。床に転がって起きあがる お か 

と、さっきまでワタルがいたところの床に、大きな焼け焦げができていた。

 今度は手鏡光線攻撃ときたか。腹立たしいのと可笑しいので、ワタルはパニックに陥っ

ていた。恐怖と興奮で、心のタガが外れそうだ。今にもヒステリックに笑いだしそうだ。

 そのとき、左手首にはめたファイアドラゴンの腕輪が赤く光った。燃えるような感触が、

273 つ

さきもり

かりゅうど

ちか

い し 

ワタルを正気に戻らせた。ハイランダーの忠誠の誓い。我らはファイアドラゴンの遺志を 継ぐ者、護法の防人、真実の狩人なり。

 ワタルは立ちあがった。赤々と輝くファイアドラゴンの腕輪を、一瞬胸に押しあてると、 勇者の剣を構えて飛び出した。 や つ 

ざんがい

くすぶ

 システィーナ像の手鏡から矢継ぎ早に光線が飛び出しては、ワタルを追って、床に、壁 あた

こわ

に、真っ黒な熱い焼け焦げをつくる。砕け散った長腰かけの残骸が燻り、燃えあがる。

 狙いはシスティーナ像じゃない。あの手鏡に力を与えている、ステンドグラスを壊すん

こ

ぱ み じん

だ。ワタルは走り、右に避け、左に飛び、前に転び後ろに避けながら、聖堂中を駆け回っ て、ステンドグラスに向けて魔法弾を放った。  ステンドグラスが一枚砕けた。 しっか 

 ││女神の膝下にひざまずき、 たす

 次の一枚がキラキラとガラスの雨になった。 にく

 ││悪しき者を憎み、弱き者を救け、 は かい

まぎ

かんだか

お たけ

 さらに一枚、もう一枚。魔法弾が命中し、ステンドグラスが木っ端微塵になるたびに、 ちり

かえ

破壊音に紛れて、甲高い雄叫びのような女の悲鳴が響きわたる。 く

 ││この身が朽ち果て塵に還るそのときまで、

 最後の一枚、祭壇脇のステンドグラス。そのなかで正面を向いたシスティーナが、憎々

274

ことわり

が れき

しげに目を光らせ、ワタルに飛びかかろうとしながら、無数のガラスの破片と化した。  ││正しき理の星を仰ぎ進まんことを！ に おうだ 

 息を切らし、目を血走らせて、ワタルはシスティーナの石像を振り返った。それは瓦礫

の山と化した長腰かけの列の向こう、ワタルの正面に仁王立ちしていた。 ﹁これでも食らえ！﹂ ひ

 ワタルは魔法弾を撃った。ワタルの意志を秘めて空を飛んだ光弾は、あやまたずシス ティーナ像に、その胸のど真ん中に命中した。 か け ら

 光弾が光の欠片となって宙に消えても、システィーナ像はすっくと立っていた。ワタル

はがくりと片膝をつき、それでもシスティーナ像から目を離さなかった。

 システィーナ像の左手が緩み、指が開いて、手鏡が床に落ちた。杓と同じように、手鏡 もまた床の上で砂に変わっていった。 ﹁おお、システィーナ様⋮⋮﹂

 血だらけの顔をこわばらせ、ダイモン司教が四つん這いでシスティーナ像の足元ににじ いだ

り寄った。両手で像にすがりつき、かき抱く。

﹁何ということだ！ 小僧め、おまえは自分が何をしたかわかっているのか？﹂ かたむ

 ワタルが何か言う前に、システィーナ像がぐらりと傾いた。それはただの石像に戻って かたまり

いた。壊れかけ、台座を失い、不安定なただの重たい石の塊に。

275

したじ 

さと

・

・

・

うつぶ

 ダイモン司教が、今何が起こっているのか悟り、逃げ出す前に、システィーナ像はゆっ

くりと傾き、悲鳴をあげる司教を下敷きにして、ずずんと俯せに倒れた。 ほこり

おくびょう

な

 ダイモン司教の悲鳴がぷつりと途切れた。聖堂のなかで動いているものといったら、舞

いあがる塵と埃、長腰かけの残骸を、臆病な残飯あさりのハイエナのようにちろちろと舐

へだ

めている小さな炎の群。ただそれだけ。それらの光景を、ステンドグラスという隔てを失っ

て、生に差し込む陽光が、場違いな明るさでうらうらと照らしている。  ││か、勝った。やっつけた。 せんすい

 ワタルはその場に腰からくずおれた。長いこと潜水をし過ぎたときみたいに、吸っても 吸っても肺が空気を求めていた。

 祭壇脇の扉が出し抜けに開くと、法衣を来た男性が数人顔をのぞかせた。彼らは一様に ぼうぜん

呆然として立ちすくみ、ワタルがそちらに顔を向けると、わっと叫んで扉の向こう側へ駆 け戻っていった。扉がばたんと煽られた。 さわ

しら

 ぐずぐずしてはいられない。これだけの騒ぎを引き起こしてしまったのだ。あの男たち き し 

た ち う 

は司教の部下だろう。彼らがシュテンゲル騎士団やパム所長に報せれば、みんなが駆けつ

けてくる。そうなったら多勢に無勢、とてもワタルでは太刀打ちできない。

 逃げなきゃ││。やっとこさ立ちあがり、大扉の方へ向かいかけると、その大扉の向こ うを駆け抜けながら、誰かが大声で叫んでいるのが聞こえてきた。

276

﹁おーい、おーい、大変だ！ 聖堂が大変なことになっている！ ブランチに報せてくれ！  救けを呼んでくれ！﹂ つか

 まずい。まともに大扉を出ていっては、とうてい逃げ切れないだろう。結界を張らなく

ちゃ。ワタルは剣を持ちあげた。でも、疲れすぎていた。印を結ぶために剣を動かそうと しただけで、めまいがして倒れそうになった。 つか

 このままじゃ、捕まってしまう││ ﹁いったい、こりゃ何事だ？﹂ ぎょうてん

 仰天して裏返った声に、ワタルは目をあげた。システィーナ像のあった場所、花に覆わ

はばか

れた台座のところに、男が一人顔を出していて、目をまん丸に見開いている。ワタルは一 瞬で理解した。 ひそ

 そう、台座だ。システィーナ像が密かにヒト目を憚りながら、他種族たちを足元に踏み

しめていた、あの台座こそが地下牢への出入口なのだ。なるほど、パム所長とダイモン司 しゅこう

教の思いつきそうな趣向じゃないか。

 男が顔を引っ込める前に、ワタルは残った力をかき集めて魔法弾を撃った。男はきゃっ

と叫び、ついでどたどたと音をたてて姿を消した。どうやら下に転がり落ちたらしい。 はしご 

 ワタルは足を引きずり、弱った身体にむち打って、台座のところまで走った。思ったと がんじょう

おり、台座がそっくり横にずれ、下に通じる頑丈な梯子が見えている。顔を突っ込んでの

277

ぞくと、さっきの男が梯子の下で失神していた。 ほ や 

とも

 震える手で梯子をつかみ、ワタルは下に降りた。降りたところは石壁に囲まれた狭い通 い す 

路で、ところどころに火屋で覆ったランプが灯されている。すぐ右手に小さな部屋があり、 机と椅子、書類の束。詰め所なのか。 おり

 間違いない。地下牢だ。正面には檻があり、さらに通路は遠く延びて、その両脇に、びっ こうし 

しりと牢屋が並んでいる。なかに閉じ込められたヒトびとが、格子をつかみ、隙間に顔を おしあてて騒いでいる。 かぎたば

 失神している男は、ここの牢番のようだった。腰に鍵束をつけている。ワタルはそれを みな

失敬すると、進路を遮っている檻にぴったりとくっついて呼びかけた。

﹁皆さん、無事ですか？ レンガ職人通りの皆さん、みんなここにいるんですか？﹂

 おおっというどよめきが起こり、いっぺんには聞き取れないほどの数の質問が飛んでき

た。﹁おまえは誰だ？﹂﹁助けに来てくれたのか？﹂﹁上で何があったんだ？ 床がどす んどすんと揺れたぞ！﹂ ﹁僕はハイランダーです！ 皆さんを助けに来ました！﹂

 大声でそれだけ答えておいて、ワタルは梯子の下までとって返し、台座の裏側にくっつ ふた

いた取っ手を操作して、元どおりに蓋をした。詰め所の壁に、輪にしたロープがかけてあっ しば

たので、それで失神している男を縛りあげると、机の下に押し込んだ。

278

じ

 鍵束にはたくさんの鍵がぶらさがっていて、正面の檻を開ける鍵を見つけるまで手間取っ

てしまった。地下牢のなかのヒトびとは、喜び、焦れ、大騒ぎが止まらない。 そうぞう

 やっと檻を開けると、ワタルは地下牢の通路にまろび出た。ヒトびとの声があまりにも

騒々しく、両手を輪にして口元にあてて叫んでも、誰も聞いてくれやしない。ワタルは勇 さや

はげ

者の剣を鞘ごと手に取ると、それで檻の格子をがつんがつんと叩いた。 しず

﹁静かに！ 静かにして！﹂

 ヒトびとがやっと鎮まると、ワタルは声を励まして呼ばわった。﹁ファンロンさんはい ますか？﹂

やつ

ゆう

 奥の方で、うわずったような声で、ファンロンはここだと返事があった。ワタルはそこ まで駆けていった。 き 

くろかみ

 トニ・ファンロンもまた窶れていた。ずっとここに閉じこめられていたせいだろう、幽

鬼のように青ざめて、頬骨が飛び出している。うなじのところで束ねた長い黒髪も、先に

会った時より薄くなり、痩せているようだ。でも目はしっかりと開いていて、ワタルの顔 を見ると、そこにばっと光が灯った。 ﹁君は、ガサラのハイランダーじゃないか﹂  ファンロンは両手で牢の格子をつかんだ。 ﹁君一人でここまで来たのか？ 仲間は？﹂

279

﹁残念ながら、僕一人なんです﹂ワタルも牢の格子につかまり、やっと立っていた。﹁そっ

と忍び込むつもりだったんだけど、大立ち回りになっちゃって。だから、上には戻れませ

ん。今ごろはきっと、パム所長の部下たちと、シュテンゲル騎士団がこの聖堂を囲んでい るはずです﹂

のろ

せっちん

 檻のなかの獣人たちや水人たちが、口々に騒ぎ出した。怒ったり呪ったり叫んだり。そ づ 

のなかで、ファンロンだけが笑った。﹁それじゃ、助けに来たとは言えないな。君も雪隠 詰めじゃないか﹂ ﹁そうなんです。申し訳ないけど﹂ ﹁どうするつもりだ？﹂ ﹁あの梯子の他に、出口はありませんか﹂ ﹁そんなもの、ありっこないさ﹂

 ファンロンは大声で笑いながら言って、同じ牢に押し込められている仲間たちを振り返っ ほ

た。いかつい獣人や水人たちが、一斉に吠えるように笑った。 ほ

そ まつ

は

﹁ありっこないから、僕らはここにトンネルを掘っていたんだ。無論、見つからないよう にこっそりとだけどな﹂ かっさい

 トンネルはこの牢にあるのだろう。ファンロンたちは喝采しながら、粗末な床板を剥が しにかかった。そこにぽっかりと穴が空いている。

280

とが

だっそう

きば

ほこ

む

﹁町の外まで掘り抜いたんだぞ！﹂ファンロンに並んで、尖った牙を誇るように剥き出し

ながら、獣人が叫んだ。﹁俺たちだけなら、いつだって脱走できた。でも他の牢の連中が

心配でな。いいときに来てくれた、お手柄だぜ、ちびっこいハイランダーさんよ！ さあ、 その鍵で、みんなの牢を開けてやってくれ﹂

 ワタルは気が抜けて、その場にへたりこみそうになった。ファンロンが格子の隙間から あや

け が 

手をのばし、危ういところでワタルの腕をつかまえた。

﹁しっかりしろ。怪我してるみたいだけど、気絶するなら後にしてくれ。もっと安全な場 所まで逃げ出した後に﹂ ﹁うん、わかった﹂

 鍵束を握った手を、またファンロンが引き戻した。彼の黒い瞳が大きくなっている。 ﹁それは││僕の道具箱じゃないか！﹂  ワタルが腰につけてきた道具箱だ。 ﹁エルザに会ったのか？﹂

﹁はい。彼女は無事です。あなたの身を心配して悲しんでるけど、無事です﹂ ﹁良かった⋮⋮﹂

りゅう

﹁これ、彼女から預かってきたんです。ファンロンさん、僕はあなたに龍の笛を作っても らいたいんです。そのために、あなたを探してリリスに来たんです﹂

281

せいかん

みなぎ

 ファンロンの痩せた顔に、精悍な気が漲った。﹁よし、わかった。何だかわからないが、 何だって作ってやるよ。とにかく、早くここから出ようじゃないか﹂

282

 37 ジョゾの翼     こうがい

だっしゅつ

 長いトンネルは、リリス郊外の山中に通じていた。脱出したヒトびとは、そこで散り散 りに分かれることになった。

ほう

﹁他の町のブランチを訪ねてください。リリスの実状がわかれば、みんな放ってはおかな いはずです﹂

くわ

つか

 女性や子供たちも混じっているし、ワタルはとても心配だったのだけれど、レンガ職人 けんこう

通りのヒトたちは意気軒昂だった。

ぬ

こ

し る べ

﹁俺たちは、このあたりの地理には詳しい。捕まえられることなんかないよ。きっと逃げ 切ってみせる﹂ ほこり

 ワタルはトニ・ファンロンと共に、森を抜け丘を越えて〝大樹の道標〟へ向かった。キ・ どろ

キーマのダルババ車は、強行軍の道中の泥と埃を車輪にくっつけて、確かにそこで待って あや

いてくれた。ミーナは大樹の枝に登っていて、ワタルとファンロンの姿をいち早く発見し

てくれたが、傷だらけのワタルを見て動転して、危うく枝から落っこちるところだった。

すご

﹁サルも木から落ちるってところだね﹂と、ワタルは笑ってみせた。﹁僕、凄い格好になっ け が 

てるけど、でもたいした怪我じゃないよ﹂

283

うそ

﹁嘘ばっかり。ひどい傷よ。いったい何があったの？﹂ かんかつがい

 話は後だ。一同はダルババ車に乗り込んだ。 ゆ

が まん

こし

りゅう

﹁とにかく、リリスのブランチの管轄外に抜け出さないと、腰を落ち着けて龍の笛を作る

こともできないよな。ちょっと揺れるけど、我慢してくれよ。山をふたつ越せば、タクロ さび

だいじょうぶ

という小さい村がある。えらく寂れたところなんで、リリスの連中には知られてない。ブ むち

け た 

ランチの手も届かないだろう。あそこまで行けば、大丈夫だ﹂

 キ・キーマは気合いを入れてダルババに鞭をくれ、土埃を蹴立てて走り出した。 だれ

つ

はんえい

 タクロという山中の村は、もうずうっとずうっと昔、誰もはっきりとは覚えていないほ ほ

ど遠い時代に、金鉱があって栄えたところだった。金鉱が掘り尽くされると、村の繁栄も こっとう

終わった。今では、老人ばかりが少数残って、細々と畑を耕して暮らしている。 そうしょく

そ ぼく

かやぶ 

﹁タクロの金でできた装飾品といったら、骨董品の代表だ﹂ あつか

 ファンロンは、素朴な茅葺き屋根の小屋を見回しながらそう言った。 たの

﹁修理を頼まれて、二、三度扱ったことがあるけど、こんなところだったのか﹂ あいさつ

おどろ

 ダルババ車が村の入口に着くと、老人たちが小屋から顔をのぞかせ、キ・キーマに親し げに挨拶を投げた。ワタルは驚いた。 ﹁キ・キーマ、知り合いがいるの？﹂

 ここまで、ダルババ車で登ってくるには、かなりしんどい道ばかりだった。

284

﹁こんなところに、配達に来るの？﹂

﹁仕事じゃないんだけども、ま、頼まれ事をすることがあってさ。年寄りが多いから、衣

類とか日用品とか、町場でないと手に入らないものを買って持ってきてやるんだよ﹂

うと

 そもそもは、キ・キーマがダルババ車を転がし始めたばかりのころ、山中で迷ってしまっ て、ここにたどり着いたことがあったのが始まりだそうだ。 たお

﹁俺たちはホラ、仕事じゃリリスには行かないからな。このあたりの道には疎くて、しか

も新米のころだから、危うく行き倒れになるところを、ここで助けてもらったんだ。それ 以来、近くに来ると顔を出すようにしてるんだよ﹂

じゅうじん

 もともと金鉱があった町だから、老人たちは、かつて金鉱労働者だった獣人族ばかりだっ すす

た。キ・キーマとは本当に仲がよさそうで、みんな親切だった。事情を話すと、空いてい しょくりょう

る小屋を提供してくれて、食糧や飲み物も、持ち寄って勧めてくれた。

せいかん

 村長は、耳の内側の毛まで真っ白になった獣人で、ワタルの目には、年寄りのシベリア ひとみ

ン・ハスキーみたいに見えた。老いて弱ってはいるけれど、瞳のなかにかすかに残る精悍 さがよく似ているのだ。

 一晩の休息をとると、ファンロンはすぐ龍の笛の製作にとりかかった。初めてジョゾの

ウロコを見たときの彼の興奮ぶりといったら、ワタルもミーナもキ・キーマも、ちょっと 言葉を失うほどのものだった。

285

ししょう

ほお

﹁こいつは一生一度の大仕事だ﹂彼は頬を上気させて言った。﹁ドラゴンのウロコなんて、

僕の師匠でさえ扱ったことはなかった。もちろん僕も初めてだよ。しかも失敗は許されな いんだよな。こいつは一枚しかないんだ﹂

ろう

 二日、いや三日の時間をくれと、彼は言った。﹁任せてくれ、絶対に作ってみせる﹂ こ

はだ

 そう宣言し、小屋に籠もってしまった。 か た ぎ

みは

﹁職人気質というか芸術家肌というか⋮⋮﹂

 キ・キーマは大きな黒目を瞠って感心した。﹁ちょっと前までは牢につながれ、命の危

険にさらされていたなんて思えないくらいのエネルギーだぜ。たいしたもんだよ﹂

﹁ファンロンさんはきっと、今は目の前の細工仕事に打ち込みたいのよ﹂ミーナがしんみ

りと言った。﹁そうすれば、リリスに残してきてしまったエルザさんのことを考えずに済 むんでしょう﹂

げんかい

 エルザのことは、無論ワタルも案じていた。でも、対立しているとはいえ、彼女はパム むすめ

所長の娘だ。ファンロンたちの大脱走があってリリスにはいっそうの厳戒態勢がしかれる なだ

ことだろうけれど、それがすぐさまエルザの身の危険につながる可能性は少ない。そう考 えて、自分を宥めた。

 それに、気が抜けたのか、ワタルは倒れて寝込んでしまった。高熱にうなされて、ミー

せん

ナを心配させた。村の老人の一人が、怪我からくる熱によく効くという薬草を煎じてくれ

286

ま ず 

たのだけれど、それはとっても苦くて不味くて、ゲエゲエいいながら飲み下さなければな らなかった。 き し 

おとず

 ファンロンが仕事に打ち込み、ワタルが休息をとっているあいだ、リリスのブランチの そうさく はんい 

ハイランダーたちと、シュテンゲル騎士団の一団が、村の入口に訪れた。キ・キーマの読 しゅうじん

じ

はいそん

わ

みは外れ、彼らは一応、タクロ村も脱走囚人たちの捜索範囲に組み入れていたのだ。 たたず

あき

ふ

 でも、応対に出た耳の遠い老人たちとのやりとりに焦れ、廃村寸前という村の佗びしい ・

・

・

佇まいにも呆れたのか、村中まで踏み込むことはなく、すぐに引きあげていった。 ・

﹁この村のおじいちゃんおばあちゃんたちは、けっこうしたたかよ﹂ そ

 ワタルを看病し、付き添っていたミーナが、ちらりと舌の先をのぞかせて笑った。

いや

﹁本当はあそこまで耳が遠いわけじゃないのに、わざと聞こえないふりをして、追っ手を けむ

煙に巻いちゃったの﹂

 ワタルは安心して傷を癒した。ミーナが心底心配してくれていることがよくわかるので、

うる

システィーナ聖堂で何があったのか、自分が何をしたのか、少しずつ語って説明した。 ﹁よく、無事に帰ってこられたね﹂  ミーナの深い青灰色の瞳が、うっすらと潤んだ。 けん

﹁勇者の剣のおかげだよ﹂と、ワタルは言った。﹁でも⋮⋮僕はダイモン司教を殺しちゃっ た﹂

287

じ ごう

﹁ワタルが殺したんじゃないわ。自業自得じゃない。それに、ダイモン司教を倒さなかっ

たら、ワタルが殺されてた。ファンロンさんたちを助けることもできなかった﹂ はり

ふる

かまど

に

 そのとおりだ。でも、心に残ったうずくような罪悪感は消えてくれなかった。素朴な木

を組んだだけの梁を見あげ、茅葺き屋根をさわさわと震わせる風の音を聞き、竈で煮えて にお

ね がえ

いるシチューの湯気や焼きたてのパンの匂いに包まれて横になっていると、すべてが悪い ふ

よみがえ

夢だったようにも思えてくる。でも、寝返りをうつたびに、うとうとしてふと目覚めるた

びに、日めくりが風に吹かれてぺらりと一日前に戻るみたいに、聖堂での光景が蘇り、そ さんにんしき

れが現実の出来事であったことを、ワタルに再認識させるのだった。ゆっくりと倒れるシ したじ 

スティーナ像と、その下敷きになってゆくダイモン司教。額の傷からだらだらと血を流し、 悲鳴をあげながら。

まくらもと

 ミーナは、ワタルが悪夢まじりのうたた寝からさめると、昼でも夜でも、いつも枕元に

やさ

いてくれた。ミーナが気づいていないとき、その横顔を見つめると、ワタルはそこに母さ おもかげ

めぐ

んの面影を見つけた。母さんに似ているけれど、母さんではない、優しい女性の面影も見 うつしよ

おも

えた。それはまだワタルが会っていないヒト、これから未来のどこかで巡り合うであろう ぬ

現世の誰か││ワタルのことを想ってくれる誰かの面影のようにも思われた。 か ら だ

 身体のあちこちにまだ傷薬を塗り、包帯を巻いた格好ながら、ワタルが起きあがれるよ

かがや

うになったころ、トニ・ファンロンがよろよろと小屋から出てきた。その手には、赤く輝

288

にぎ

く小さな笛が握りしめられていた。 ﹁できた⋮⋮﹂

ふう

ふ みん

きゃしゃ

 そう言って、今度は彼がぶっ倒れてしまった。三日のあいだ不眠不休、飲まず食わずだっ たというのだから無理もない。 ル ビ ー 

か

 ワタルは龍の笛を手にした。紅宝石の輝きをそのなかに封じ込め、ほっそりと華奢なそ あ

の細工品は、笛というよりも、ヒトの手に荒らされていない深い森の奥に飛び交う、不可

思議で美しい鳥のくちばしのように見えた。いったい、どんな音がするのだろう？ ﹁ここがいいじゃろう﹂ さ

 タクロの村長は、ワタルたちを村はずれの広場へと案内してくれた。雑木林に囲まれて、 やわ

柔らかな下草に白い小花が咲き乱れている。

﹁ドラゴンはたいそう身体が大きいんじゃろうけれども、ここなら大丈夫じゃ。足場もしっ かりしておるしな﹂ あお

 かつてこの村が栄えていたころには、祭りや集会に使われていた場所だという。

の

 ワタルは深呼吸をひとつして、青空を仰いだ。今日は雲ひとつない晴天だ。風も優しい。 ふ

﹁ワタル、早く笛を吹いてみて﹂

かたず 

 ミーナとキ・キーマ、その後ろには村長が村人たちを従えて、固唾を呑んでいる。みん

289

か わ い

はさ

な、ドラゴンを見るなんて、生まれて初めてなのだそうだ。お年寄りたちが子供のように 瞳を輝かせている様子は、ちょっと可愛い。 きんちょう

﹁それじゃ、ね﹂

ほとばし

とつぜん

す

 ワタルは緊張してきた。龍の笛を取り落とさないようにしっかりと指で挟んで、口元に 持ってゆく。 しんく 

ね

 真紅の笛は、ほんのりと温かかった。ワタルはそっと息を吹き込んだ。

あざ

 その音は、豊かな流れとなって迸しり出た。突然、頭からすっぽりと、透き通って美し なめ

く滑らかな布に包み込まれたようで、風景さえも変わった。雑木林の緑が鮮やかな新緑に 変わり、下草のなかに咲く小花の白色が、白銀のように輝き出した。 か な た

 龍の笛は、ワタルの呼気を音に変えているのではなかった。その資格を持つヒトの命に ふ

こんぜん

ここち 

ささや

触れて、自身で歌い出すのだ。空の彼方へと呼びかけるのだ。その呼び声は風に乗り、風 ま

のぼ

と渾然一体となり、雲を渡り、光を吸い込み、地上にあるものすべての耳に心地よい囁き たかみ 

つぶや

を降り注ぎながら、空の高処を目指して舞い昇ってゆく。 とうぜん

﹁きれい⋮⋮﹂ す

ヴィジョン

 陶然と空を仰いで、ミーナが呟いた。まるで音色の流れが見えているかのようだ。いや、 きょうじん

ひ

ワタルの目にも、確かに見えた。澄んだ〝幻界〟の空気のなかでもひときわ澄み切って、 にご

濁りを寄せつけず、強靭なエネルギーを内に秘めた清らかな風が、この広場からぐんぐん

290

と立ち昇ってゆく様が。 はな

オ ー ラ

 ワタルが口元から龍の笛を離しても、しばらくのあいだはその気配が残っていた。歌を

ちんもく

やめた龍の笛は、ワタルの指のあいだでぴかりと赤く輝くと、満足気に沈黙した。

 どれぐらい待っただろうか。みんな時を忘れていた。ひたむきに青空を仰いで、心をひ とつに、胸をわくわくさせながら。 そうきゅう

 やがて蒼穹の彼方に、ぽつりとひとつ、真紅の点が現れた。まるで青空のただ中に、も

こんぺき

うひとつの龍の笛が生まれたかのように。だがその真昼の中天に輝く真紅の星は、明らか か け ら

に動いていた。近寄ってくる。こちらに向かってくる。雲の欠片もない一面の紺碧のなか こた

つばさ

を、導かれ、見出し、呼びかけに応えて、ただまっしぐらに。

 真紅の点はみるみるうちにふくらみ、大きな翼の形を成した。力強く羽ばたくたびに気 にじ

ふ

流を起こし、背後に虹を生み出しながら、飛んでくる。やってくる。

せんかい

たいくう

 ワタルは思わず片手をあげた。みんなも手を振り始めた。真紅の翼がはっきりと見えて ま ちが

きた。間違いない。あれはドラゴンだ。 かぎづめ

 真紅のドラゴンは翼を張り、ワタルたちの頭上で大きく旋回すると、真上で滞空した。

ワタルたちはさっと散って、広場の中央を空けた。鉤爪のはえた足と翼の動きで器用にバ かみ

ランスを取りながら、ジョゾはゆっくりと降りてきた。翼が動くたびに、雑木林と下草が さわ

揺れ騒いだ。ジョゾの翼の巻き起こす風に、ワタルの髪が、ミーナの耳が、村人たちのゆっ

291

そで

すそ

きょだい

たりとした服の袖や裾がはためく。みんな笑ったり声をあげたりしながら、ちぎれるほど に手を振り続けた。 な

 ジョゾの足が地面についた。巨大なファイアドラゴンは、自分の翼で待ち受けるヒトび

のど

とを薙ぎはらわないように、注意深く着地した。大きな丸っこい目が、くるんと動いてワ タルを見つけた。 ﹁ジョゾ！﹂

なげ

ぬま

 ワタルは両手を広げて飛んでいった。ファイアドラゴンは翼をたたみながら、喉を鳴ら してワタルを迎えた。 きば

﹁やあ、やあ、久しぶりだね、ワタル﹂

するど

 ジョゾは大きな牙のあいだから声を出した。彼の身体は、〝嘆きの沼〟で会ったときよ おお

りも、ひとまわりもふたまわりも成長していた。翼はたくましく、牙は鋭く光り、真紅の

ウロコの一枚一枚が、強靭な衣となって全身を覆っている。でも、明るい口調に変化はな

かった。﹁なかなか呼んでくれないから、どうしたのかと思っていたよ﹂

﹁ごめんね。あれからいろいろあったんだ。でも、僕のこと、ちゃんと覚えていてくれた んだね﹂ ﹁もちろんさ﹂ジョゾは目をくりくりさせた。 ﹁君は僕の命の恩人だもんね﹂

292

かいぎょ

 嘆きの沼で怪魚カロンに食いつかれたとき、ワタルが勇者の剣で切り落としたジョゾの しっぽは、まだそのまんまだった。 ﹁しっぽ、はえ変わらなかったの？﹂

 ジョゾはしっぽの先をばたばたさせて、下草を打ちながら、笑った。おっかなびっくり な

しか

ジョゾに近づき、指先でしっぽに触れたり翼を撫でたりしていた村人たちが、わらわらと 逃げた。

﹁いくら僕らドラゴンでも、それはちょっとね。竜王様に叱られちゃったよ。曲芸飛行ばっ きずあと

かりやってるからだって。でもさ、傷痕があるなんて、歴戦の勇士みたいで、ちょっとカッ コいいだろ？﹂

 ジョゾは長い首をかしげると、集まっているヒトびとを見回した。﹁ワタルのお仲間た ちかい？﹂ ﹁うん、そうだよ﹂ ﹁みんな、目も口も大きいね﹂

 ワタルは声をたてて笑った。﹁君を見てびっくりしてるからだよ。みんな、ドラゴンを 見るのは初めてなんだ﹂ ﹁そうなの。皆さん、こんにちは﹂

 ジョゾの気さくな挨拶に、村人たちは﹁おお﹂とどよめいた。腰を抜かしているお年寄

293

あせ

ぬぐ

りもいる。村長は、しきりと額の汗を拭っている。 ﹁これはこれは⋮⋮本物じゃ。本物のファイアドラゴンじゃ﹂ くったく

﹁うん、そうだよ﹂ジョゾは屈託がない。  ミーナがおそるおそる進み出た。﹁ワ、ワタル││﹂ ﹁うん。ジョゾ、僕の旅仲間のミーナとキ・キーマだよ﹂ じょう

﹁初めまして、ネ族のお嬢さん。それと、水人族のおじさん﹂ ﹁お、おじさん﹂キ・キーマはひるんだ。 ﹁俺はそんなに年寄りじゃないんだ﹂ とし

﹁あれ、そうなんだ。ごめんよ。水人族の歳って、わかりにくいんだよね﹂

せん

 ドラゴンの歳だってわかりにくい。ジョゾは、ちょっとのあいだに身体は大きくなった ど こ 

けれど、中身はまだまだ子供のようだ。

﹁ところでワタル、何処に行きたいの？ 僕は先より、もっともっと高く速く飛べるよう になった。何処でもお望みの場所へ連れて行ってあげるよ﹂ ちかごろ

 ワタルは事情を説明した。ジョゾは驚く様子もなかった。﹁そう、デラ・ルベシね。う

ん、確かに、近頃はアンドア台地周辺の気流がおかしくなってるから、カルラ族が近づい たら危険だろうね﹂ ﹁知ってるの？﹂

294

﹁知ってるさ。幻界の大空は僕らのものだもの。すぐ出発する？﹂ ﹁うん！﹂ たびじ たく

 ワタルたちは旅支度を済ませていた、ジョゾが首を差しのべてくれたので、まずキ・キー

マがよじ登り、ミーナを引っ張りあげ、最後にワタルが登って、ジョゾの首の付け根にま たがった。村人たちが近づいてきた。 ご よう

﹁村長さん、お世話になりました。本当にありがとう﹂ ﹁何の何の、お安い御用じゃったよ﹂ ﹁ファンロンさんのこと、お願いします﹂ とうげご

﹁ああ、任せておけ。彼が元気になったら、峠越えの安全な道を通って、無事ガサラまで たどり着けるように手配してやる﹂ うった

 ワタルはガサラのカッツあてに手紙を書いていた。ファンロンはそれを持ってガサラに

行き、リリスの実状を、ブランチ全体に広く訴えかける手はずになっている。

﹁三人様だね？ ちゃんと座ったかい？ しっかりつかまっていてよね﹂ジョゾは首をよ じって確認すると、翼を動かし始めた。 ﹁それじゃ、出発するよ。最初はちょっと揺れるからね。それ！﹂ じょうしょう

 ジョゾが翼をひと振りすると、たちまち上昇気流が巻き起こった。それはワタルの頬を こうよう

心地よく撫で、気持ちをも高揚させてくれた。

295

﹁気をつけていくんじゃぞ！﹂

 村長が大声で呼びかける。ワタルは手を振った。村人たちも手を振り返す。ジョゾの身

かんせい

体がふわりと持ちあがり、雑木林が足元へと退いてゆく。ワタルは村人たちの歓声と励ま しの声を聞き、大声でさよなら、ありがとうと言った。

えが

 またたく間に、ジョゾは空へと舞いあがった。別れの挨拶に、広場の上を半円を描いて かっくう

滑空すると、デラ・ルベシを目指してさらに上昇してゆく。

 見送るタクロ村の老人たちは、ジョゾが再び赤い星のようになり、やがて消えてしまう そろ

まで、揃って空を仰いでいた。誰ともなく、誰もが口を揃えて呟いた。 ﹁長生きはするもんじゃの⋮⋮﹂

296

みやこ

つばさ

 38 凍れる都    

 カルラ族の翼に乗ったことのあるワタルにとってさえ、ジョゾの飛行の速さ、高さはま かんせい

た格別のものだった。ましてや、これが初飛行のミーナとキ・キーマにとっては大変な み わた

ショックであるようだ。それでもミーナは下界を見渡しては歓声をあげ、きゃっきゃと喜

んでいたからいい。キ・キーマときたら、飛びあがってまもなく、それでなくても青白い はだ

肌から、完全に血の気がなくなってしまった。 ﹁オ、俺はちょっと││空の旅は苦手かもしれない﹂

ぬ

 あわあわしながらそう言ったきり、後はもう口もきけずに、かちこちに固まってジョゾ の翼にしがみついている。 ﹁キ・キーマ、案外いくじなしね﹂  ミーナがからかっても反応しない。 うす

﹁少し空気が薄くなるけど、下が見えない方が安心だろうから、この雲を抜けて上に出る

よ。そうすれば、足元にはふわふわの真っ白な雲が一面に広がって、ちょっとは気が楽に なるんじゃない？﹂

 ジョゾはそう言って、頭上の雲のなかに飛び込み、するするとそれを通り抜けた。彼の

297

言うとおり、目の下の雲海は︵それがとんでもなく高い場所だということさえ忘れれば︶、

いかにもやわらかくて安全そうで、ちょっぴり不安を取り除いてくれたようだ。 へだ

ど こ 

 ジョゾの首につかまりながら、ワタルとミーナは、彼といろいろな話をした。ドラゴン おお

す

うわさ

は、いつもこんなに高いところを飛ぶの？ 北大陸と南大陸を隔てる海の何処か、〝針の きり

霧〟に覆われた小島に棲んでいるという噂は本当なの？

﹁うん、そうだよ。僕は〝針の霧〟のなかで生まれた。僕らドラゴン族の暮らしてる小島 は、僕が君にあげたウロコみたいな形をしてるんだ﹂

 大昔には、ドラゴン族ももっと大勢いて、南大陸にも北大陸にも、たくさん棲んでいた のだという。

は

じゅうじん

﹁だけどね、僕らはやっぱり、君たちと共存することが難しかったんだって﹂ か ら だ

﹁どうして？﹂

﹁だって身体が大きすぎるもの。力も強すぎる。それに火を吐くしね﹂ みは

 ミーナは目を瞠った。﹁それじゃ、あたしたちの種族が││アンカ族も獣人族もみんな みんな││ドラゴン族を追い出しちゃったのかしら﹂

﹁うーん。そうなのかな﹂ジョゾは言いにくそうだった。﹁僕も、竜王様や父さん母さん

から昔の言い伝えを聞いてるだけだから、よくわかんないことも多いんだけど﹂

 ジョゾにも父さん母さんがいるのだ。そりゃ当然だけど、ちょっと不思議だった。

298

いや

め がみ

つ

ヴィジョン

﹁だけど、そうだとしたら、あたし嫌だな﹂ミーナは思い詰めたみたいな顔をして、耳を

ひっぱっている。﹁ファイアドラゴンは、創世の女神さまを手伝って、〝幻界〟を守り育

ててくれた大切な恩人よ。その子孫を、後から出てきたあたしたちがハクガイしちゃった だなんて⋮⋮﹂ はくがい

﹁迫害したとかそういうことじゃなくてさ﹂ジョゾはあわてて言い足した。﹁あのね、竜

王様は言ってた。幻界は、それ自体がひとつの生きものみたいなもんなんだって。だから、

長い歴史のうちにはヘンカするんだって。僕らみたいに強大すぎるものは、だんだん数が ほろ

き

りゅう

少なくなって、いつか滅びていくのも仕方がないんだって﹂ たんたん

さび

 ずいぶん淡々としている。 ﹁ジョゾは寂しくないの？﹂と、ワタルは訊いた。 ﹁寂しいって？﹂ ﹁滅びるってこと⋮⋮﹂

はな

﹁なんか、実感わかないよ。僕は元気だもの。それに、〝龍の島〟にはまだまだ仲間がい るしね﹂

こ う き   し ん おう

 それでも大人のドラゴンたちは、めったに島を離れることはないという。〝龍の島〟に こ

めぐ

け う 

籠もって、ひっそり平和に暮らしているのだ。外へ出て幻界中を飛び歩くのは、好奇心旺 せい

盛な若いドラゴンたちばっかりだそうだ。ワタルがジョゾに巡り合ったのは、本当に希有

299

な幸運だったのである。

﹁これも女神さまのお導きかもしれないね﹂と、ジョゾは雲のなかで目を細めながら言っ た。

 空の旅は寒いだろうからと、それぞれに着込んできたのだけれど、アンドア台地が近づ し だい

いてくると、雲は次第に厚みを増し、気温もぐっと下がってきた。キ・キーマは盛んにく しゃみをしている。 ﹁ちょっと火を吐いて暖めてあげようか﹂ えんりょ

﹁いや、いい！ 遠慮しとく！﹂ ひょうし

 あわてて断った拍子に、キ・キーマはジョゾの背からずり落ちそうになった。ワタルと ミーナは笑い転げた。 す

すきま 

﹁遠慮することないのにな。でも﹂ジョゾは雲の向こうを透かし見た。﹁この雲、やっぱ

り様子がヘンだよね。いつもなら、ここまで飛んでくれば、雲の隙間からアンドア台地が 見えてくるんだ。だけどこれじゃ、何にも見えない﹂

 いつの間にか、足元にあったはずの雲に、すっぽりと包み込まれてしまった。ジョゾは 高度を変えていないのに。 ﹁それに、君たち感じない？ この雲、悲しい味がするよ﹂ ﹁悲しい味？﹂

300

わたあめ

な

 ワタルもミーナもベロを出して、雲を味わってみようとした。それはなかなか難しかっ た。綿飴を舐めるみたいにはいかない。 なみだ

しんみょう

﹁涙の味だ。もしかしたら、女神さまが悲しんでおられるのかもしれない﹂  ジョゾは神妙な口調になった。

 翼で雲をかき分けるようにして、ファイアドラゴンの飛行は続いた。やがて、右手の前

いっしゅん

方で、雲のかすかな切れ間に何かがピカリと光るのが見えた。ほんの一瞬のことだったけ ど、確かにワタルの目に入った。

﹁そうだね。もうアンドア台地のすぐそばまで来ているはずだから。ちょっと降りてみよ う。つかまっててよ﹂ う

うめ

 ジョゾはすうっと高度をさげた。見えないジェットコースターに乗っているみたいに、 いぶくろ

ワタルの胃袋がふわりと浮いた。キ・キーマが呻いた。 ふ

﹁あれだ！﹂ジョゾが言った。﹁おや、もう真上まで来ていたよ﹂ ろうかく

み いだ

みやこ

の

だ えん

えが

 ジョゾの翼が生む強い気流に、雲が背後へと吹き流されてゆく。開けた視界のなかにぽっ こつぜん

と

かりと、忽然と、空中楼閣のような都市の姿を見出して、ワタルは息を呑んだ。 かいろう

 氷河に守られ、雪に閉ざされたアンドア台地の頂上に、その都は存在した。楕円を描く じょうへき

かがや

二重の城壁。林立する柱。巡る回廊。そこここに上り下りの階段とテラスを配した石造り めいきゅう

の建物が、あたかも迷宮のように連なり、冷たく輝いている。

301

すいしょう

こお

 最初は、水晶でできた建物なのかと思った。でも、目を凝らしてよく見つめると、そう

ではないとわかった。凍っているのだ。すべてが氷に覆われている。ワタルは以前、家族 おとず

せんとう

ひるがえ

旅行に出かけた先で訪れた、ガラスの博物館で見たものを思い出した。クリスタルガラス

で作られた大きなお城。尖塔の上に翻る旗までも、細やかなガラス細工で作られていた。 ﹁ごらんよ、あの森。木立まで凍ってる﹂ しも

と いき

 白い霜をまとった枝から下がる無数のつららが、風変わりな果実のようにキラキラと輝 いている。 かんたん

ふる

﹁何から何まで氷づけだわ﹂ミーナが感嘆の吐息と共に言った。﹁こんな寒いところに、 ひとかげ

本当にヒトが住んでいるのかしら﹂  見渡す限りの広大な都に、人影はまったくない。 こご

 キ・キーマが特大のくしゃみをして、ジョゾの翼を震わせた。﹁そうか、だから助けを

求めてるんだよ、ワタル。みんな凍え死んじまう前に、何とか下へ降ろしてくれって﹂ しび

 ワタルは寒気に耳たぶが痺れるのを感じた。 ﹁ジョゾ、アンドア台地には、歩いて登る道はないの？﹂ ﹁さあ、見たことないなぁ﹂ ﹁氷河に囲まれているのは、昔からだよね﹂

さ

﹁うん。でも、前にここまで飛んできたときには、建物や森は凍ってなかったよ。花も咲

302

てんじょう

いていたし、散歩してるヒトの姿を見かけたこともあったもの﹂

 氷の都の北東の城壁のそばに、平らな天井を持つホールのような建物があった。ジョゾ はそこに着地した。

﹁うひゃあ、寒い！﹂翼をたたみながら、ジョゾは大きな鼻の穴をうそうそと動かした。

﹁僕もくしゃみが出そうだよ。ワタル、どうする？ 中に入ってみるんだろ？﹂ だいじょうぶ

﹁うん﹂ワタルはジョゾの背中から飛び降りた。﹁ジョゾ、ここにいたら凍えちゃう？﹂

たんさく

じんじ

﹁ときどき火を吐いて温まるから、大丈夫。だけども、長居はゴメンこうむりたいな。ワ タルたちだって、身体に良くないよ﹂ もど

﹁わかった。できるだけ早く戻ってくるよ﹂

ょう

すべ

 ホールの天井から地面に降りるだけでもひと苦労だったし、町中を探索するのには、尋

常ではない努力が必要だった。つるつる滑って、まともに歩けないのだ。それでも、ワタ あ

ルもミーナもキ・キーマも、すってんころりんとやっては立ちあがり、転んだ仲間を助け せいじゃく

ようとして自分も転んだり、さんざんな目に遭いながらも、笑うことができなかった。

 これほどの冷気と静寂。心まで凍りついてしまいそうなこの都に、果たして生きている

ヒトなどいるのだろうか。ここにたどり着くのに手間取っているうちに、真実の鏡を通し つ

て助けを求めていたあの男性は、命が尽きてしまったのではないのか。

303

だれ

﹁誰かいませんか？﹂ ﹁おーい、助けに来たぞう﹂ こ だま

 三人で大声を張りあげてみる。返事はない。凍れる都は木霊さえも返さず、呼びかけを

み

吸い込んでしまう。いや、空に放たれるそばから、呼びかける声も凍りついてしまうのか もしれなかった。

しばい 

 もうずいぶんと前のことになるけれど、母さんに連れられて、子供向けのお芝居を観に

いったことがある。ペガサスの子供が主役で、ギリシャの神々が大勢登場するという音楽 おもしろ

しんでん

劇だった。正直いって、ワタルにはあんまり面白いものではなかった。ただ、セットが美 ひ

しいことには心を惹かれた。大理石造りの神殿と、それを取り囲む深い森。 ちょうこく

 デラ・ルベシのこの都は、ワタルにそのお芝居のセットを思い出させた。ある建物では、 ゆる

まどわく

ば ら 

かざ

や しき

緩やかな外階段をのぼってゆくと、花や鳥や天使たちの彫刻をほどこされた大きな扉にた

ろくや ね 

どり着く。窓枠に薔薇の飾りがついたお屋敷の、戸口の柱の上ではケルベロスが番犬よろ にら

しく睨んでいる。 ご ばん

ひさし

いしょう

そうしょく

けんじゃ

い じん

 碁盤の目に仕切られた、整然たる町並み。建物の屋根は平らな陸屋根が多く、角張って き し 

飛び出した庇の下には、それぞれに意匠の違う装飾品がついている。賢者や偉人の姿を模 ま どうし 

したものなのだろうか、魔導士や騎士、貴婦人の姿をした像が柱となってぐるりと立ち並 てんがい

び、天蓋を支えている屋外ドームもあった。

304

さと

 ギリシャ神話の神々の郷。模造品というにはあまりに重々しい。

 それだから、眺めとしては、ワタルにはまったく違和感がなかった。でも不思議だった。 よう

そ

老神教の信者にとっては、こういう都の有り様が理想なのだろうか。女神の治める幻界の

町は、皆、その町の産業や、幻界のなかで果たしている役割に添った形で存在している。 なりわい

たた

そこにはヒトの生業と生活があるからだ。ここにはそれが欠けている。そう、だからこそ お芝居のセットが連想されるのだ。

 何のための屋外ドームなのか。誰を讃える彫像なのか。誰がこの都を望んだのだろう？ あせ

ふんい き 

にお

 ここに住むヒトたちは、どんなことに汗を流し、どんなことに笑い、どんなことに不安 つ

をおぼえるのだろう。作り物めいた雰囲気が、匂いのようにはっきりと感じられるのは、

一面に氷と霜に覆い尽くされているせいだけではないような気がしてたまらない。 ほか

﹁ねえ、キ・キーマ﹂と訊いてみた。﹁幻界には、他にもこういう町がある？﹂  キ・キーマは寒さにげっそりとしている。 ﹁俺は見たことねえ。こんな寒い町なんか﹂ しんでん

ふ

﹁寒さじゃなくて、町の造りさ。こんな立派な神殿みたいな建物ばっかりがある町って、 他に知ってる？﹂ おく

﹁そんなのないと思うわ﹂遅れがちなキ・キーマを心配そうに振り返りながら、ミーナが

言った。﹁この町、変よね。凍ってるから変だっていうだけじゃない。お店とか宿屋とか、

305

そんなものが全然見あたらないもの﹂

 三人は町の一角にある小さな公園みたいな場所まで来ていた。中央には、花木の植え込 ちきゅうぎ 

みに囲まれて台座があり、そこにオブジェが飾られている。丸い球の形をしたオブジェだ。

さわ

最初は地球儀みたいなものかと思った。でも、近寄ってよく見ても、球の表面には何の模

こわ

様もなく、ただつるりとしている。すっかり凍りついているから、うっかり触ると指がくっ ついてしまいそうだ。

 球には真ん中からひびが入り、壊れかけている。割れ目に霜がついている。しげしげと かたど

観察し、ワタルはやっと、これは宝玉を象ったものではないかと気がついた。他でもない、 勇者の剣についている宝玉だ。

かか

 でも、それだとおかしな話にならないか？ 宝玉は〝旅人〟を導くものだ。だが老神教 い

むじゅん

りょううで

では、〝旅人〟を忌まわしい存在だと決めつけているのだ。〝旅人〟と密接に関わってい るものをオブジェにして飾るなんて、矛盾している。 たお

﹁ワタル、どうしよう。ただやたらに歩き回っているんじゃ駄目だわ﹂ミーナが両腕で身 だ

体を抱き、さすりながら言った。﹁それに、キ・キーマが倒れちゃいそうよ。水人族は寒 さに弱いの﹂

にぶ

 考えてみれば、トカゲは変温動物だ。周りが寒いと、体温も下がって動きが鈍くなる。

キ・キーマは広場の入口にしゃがみこんで、目を閉じ、じっとうずくまってしまっている。

306

せいいっぱい

 二人は精一杯急いでキ・キーマのもとに駆け寄った。足元が滑って、キ・キーマにぶつ

がんじょう

かぎづめ

かってしまったのだけれど、それでキ・キーマは目を開いた。とろんとしている。 ﹁大丈夫？﹂

﹁ああ、ごめんよ﹂まばたきもゆっくりとしている。見れば、頑丈な鉤爪のついた指の谷 ねむ

間に霜がびっしりと降りている。﹁何だか眠くてしょうがないんだ﹂ ﹁たいへんだわ。凍え死んじゃう﹂ ﹁ジョゾのところへ戻ろう。キ・キーマ、立てる？﹂ にぶ

﹁俺なら、大丈夫だよ﹂言葉も鈍くなっている。身体はずしんと重くなっている。ワタル

とミーナは左右から彼の腕をつかんで、よいしょよいしょと足を運んでいった。 つぶや

﹁大丈夫だよ⋮⋮心配ないよ⋮⋮﹂ ね ごと

うすあお

 寝言みたいに呟くキ・キーマは、半分意識がなくなっているみたいだ。

 見渡す限り薄蒼く凍りつき、純白の霜に覆われた町。地面はスケートでもできそうなほ あしあと

どに分厚い氷と化しているので、足跡も残らない。ワタルは、碁盤の目の道をたどって、 しきさい

ここまで来たルートを逆戻りしているつもりだったのだが、色彩に変化のない町並みに惑

わされてしまったらしい。そろそろジョゾが見えてきそうだというところまで来ても、ファ しんく 

イアドラゴンの真紅の身体が見つからない。

 と、ミーナがキ・キーマの腕を放し、足を止めた。ワタルは二、三歩先に行くまでそれ

307

に気づかなかった。 ﹁ミーナ、どうしたの？﹂  振り返ると、彼女はまん丸に目を見開いて、ぽかんとしている。 ﹁どうしたんだよ？﹂ ﹁ワタル﹂ミーナは指さしている。﹁これ、見て﹂ かんぼく

なみだ

いくえ 

 二人の左手には、凍りついた灌木の木立に囲まれた広場があった。一面の純白。大雪の 朝の校庭みたいだ。 ﹁コレが何？﹂ こ

﹁見えない？ よく見て﹂  ワタルは目を凝らした。冷気のせいで涙がにじむ。 ﹁何が見えるって││﹂

 問い返そうとしたとき、ワタルにも見えた。広場の中央に、雪の広場に氷の筋が、幾重 うつしよ

にも走っている。模様を作っている。 現世へ通じる、あの文様だ！ ﹁ここで真実の鏡を使えるってことなのかしら？﹂

 だとしたら、ますますわけがわからない。真実の鏡も光の通路への出入口になる文様も、

やっぱり〝旅人〟のものだ。老神教には関わりがないどころか、敵対するはずのものだ。

み ま ちが

﹁行って、確かめてみようぜ﹂キ・キーマがとろんとした口調で言った。﹁見間違いかも

308

しれないし、本当にあの文様なら、何か手がかりになるかもしれねえ﹂ ﹁でも⋮⋮﹂ ﹁いいから、いいから﹂

 三人は凍りついた広場を横切り、かちんかちんに凍った雪の上の模様に近づいた。近く

ふ

で見ると、ますますあの文様にそっくりだ。ワタルはその真ん中に立ち、しゃがんで指先 で文様の筋をなぞってみた。 ﹁ここだけ盛りあがってる﹂ ﹁ホントだ﹂ わき

さ

 ミーナもワタルの脇に来てしゃがんだ。指先に氷が触れ、爪でひっかくとカリカリと音 がする。 ﹁いったい││﹂

 どういうことかなと言いかけたとき、冷気を避けるためにきっちりとボタンをかけたミー ゆ

しりもち

ふち

き れつ

ナのシャツの内側で、また真実の鏡が光を放ち始めた。ミーナはあわてて鏡を取り出そう とつぜん

しんどう

とした。が、突然足元がぐらりと揺らいで、三人は尻餅をついてしまった。 ﹁わ、何？﹂ かた

ま

 硬く凍りついた雪の地面が振動している。文様の外側の縁に沿って、ぴりぴりと亀裂が び さい

走った。亀裂が広がるにつれて、微細な氷の破片が舞いあがる。

309

 氷が割れて、文様の外周がよりいっそうくっきりと浮き立った。と、がくんという震動

があって、地面が下がり始めた。文様の部分が、大きなエレベーターさながらに、ワタル たちを乗せたまま下降してゆく。

310

きょうおう

 39 教王    

ふ

 文様のエレベーターが降りきったところには、文様の形をそのまま写した広間があった。 こお

頭上は文様形に開いたままで、そこから冷気が流れ込んでくる。 かべ

ろうか 

 広間のなかも、外と同じくらい寒かった。細かな粉雪か、凍った雪が吹き寄せられてい

はさ

たいまつ

しょくだい

あか

る。でも、凍りついてはいない。大理石に似た石の壁。石の廊下がワタルの前方に伸びて いる。 ﹁行ってみよう﹂

 キ・キーマを真ん中に挟んで、三人は歩き始めた。廊下には、松明とか燭台とか、灯り

てんじょう

らしいものは何もない。でも全体にほんのりと明るかった。廊下や壁や天井を構成してい るつるつるした石が、月光のようなかそけき光を放っているのだ。

 廊下は右に折れ、左に折れ、長々と続いていた。ところどころに、右に左に、重たげな とびら

と

扉が現れた。扉の周囲には凍った雪がこびりつき、試みに押したり引いたりしてみても、 しっかりと閉ざされていて、びくともしない。  ここにも、人の気配はなかった。 きんちょう

 緊張と寒さとで、ワタルたちは口をきかなかった。長い廊下をどんどん進んだ。廊下の

311

ほのお

先に、ロウソクの炎の形を模したような形のアーチがあり、その先はひときわ明るくなっ ている。そこを目指した。 ぬ

めぐ

ふ

 アーチを抜けると、張り出したテラスに出た。天井まで吹き抜けになっている。三十メー かざ

つた

えが

トルくらいはありそうだ。円形の部屋で、壁の周囲を階段が巡っている。ワタルは踏み出 へり

わた

し、テラスの縁を飾る、優美な蔦に似た曲線を描いた手すりごしに下を見た。そして、あっ と声をあげた。 わき

 階下の円形広間の中央に、差し渡しがワタルの身長くらいありそうな、大きな円い鏡が す

ひじか 

い す 

据えられている。真実の鏡だ。その脇に、まるでその鏡の番人を務めているかのように、 きゃく

つち

はな

一脚の肘掛け椅子にもたれて、白いローブの男、ワタルに呼びかけたあの男が、ぐったり

とくずおれていた。彼の手にしていたあの槌、それも今では、力なく垂れ下がった手を離 か

れて、彼の足元に落ちている。

かんむり

ま ちが

 ワタルは階段を駆け降りた。何と呼びかけたらいいか思いつかず、しゃにむに駆け寄っ うで

て、ローブの男の腕をつかんだ。 ゆ

﹁しっかり！ しっかりしてください！﹂ まゆ

ねんれい

 ワタルが男を揺さぶると、彼の額の銀の冠がずれた。真実の鏡のなかで見た光景に間違 はくはつ

いはなく、男は白髪だった。眉も白い。でも年齢は、あのとき思ったよりも若い。三十歳 にもなっていないのじゃなかろうか。

312

こ

かたむ

か ら だ

うめ

あんど 

 男の首が力なく折れるように傾き、目が開いた。ワタルはその顔をのぞきこんだ。安堵 が込みあげてきた。 ねむ

﹁ああ、良かった。助けに来たんです。僕に呼びかけたのは、あなたですよね？﹂

 男は眠たげにまばたきをすると、椅子のなかで身体を起こそうとして、痛そうに呻いた。

ひとみ

す

はだ

ワタルは手を貸して、彼が椅子の背もたれによりかかれるようにしてあげた。 じか

﹁君が⋮⋮〝旅人〟だね﹂

 直に聞くと、やはり若々しい声だった。瞳も澄んでいるし、肌には張りがある。それな のにこの白髪。 ﹁そうです。ワタルと言います﹂

 キ・キーマとミーナが、ようやく階段を降りて追いついた。男は三人の顔を見回した。 いっしょ

す ば 

﹁僕の旅の仲間たちです。一緒にここに来てくれました。手間取ってすみません﹂ ﹁どうやって⋮⋮ここに？﹂ ﹁ドラゴンに乗ってきたんです﹂ ほほえ 

ヴィジョン

めずら

 ちょっと目を見開き、男は頬笑んだ。﹁それは素晴らしい。君はドラゴンに出会ったの

か。僕は⋮⋮会えなかった。〝幻界〟でも、もうとても珍しい生きものだからね﹂

 ミーナの真実の鏡を通して呼びかけてきたときには、﹁私﹂と角張って名乗っていた。 こしょう

今、﹁僕﹂という気取りのない呼称を聞くと、ワタルには、このヒトがますます若く、気

313

なぞ

さくな存在に思えてきた。それがなおさら謎めいて感じられた。

はいえん

﹁とにかく、ここを出ましょう。ひどい顔色ですよ。きっとこの寒さで肺炎にかかってる んだ﹂

に

 ワタルは男の額に手をあててみた。熱があるだろうと思ったのに、冷え切っていた。顔 なまりいろ

色は鉛色だ。 ふ

だれ

﹁他にもヒトがいるんですか？ 一緒に逃げましょう。もっと温かいところに﹂

じちょう

ひび

 すると、男はゆっくりと首を振った。﹁もう誰もいないよ。みんな死んでしまった。僕 が最後の生き残りだ。僕だけだ﹂ きょうおう

みな

 その口調には、悲しみよりも、自嘲するような響きがこもっていた。

かく

ざと

﹁僕のことは、〝教王〟と呼んでくれ。皆にもそう呼ばれていた。僕は皆のリーダーだっ た。一応ね⋮⋮﹂

 教王。デラ・ルベシ特別自治州が、老神教につながる信者たちの隠れ郷であったならば、 それは確かにふさわしい呼称だ。

えきびょう

 でも⋮⋮それにしてはおかしなことが散見する。 ﹁この様子、どういうことです？﹂ ひざ

 ミーナが男の膝の近くにしゃがんだ。﹁疫病ですか？ それでみんな死んじゃったの？  ここは前からこんなに寒いの？﹂

314

うな

﹁話は後まわしだ。早くここからおさらばしようぜ﹂キ・キーマが唸るように言った。

﹁ミーナ、ちょっと俺の背中をさすってくれ。そしたら元気が出るからさ。このヒトを背 負っていくよ﹂

め がみ

 白いローブの男は、ワタルの手に片手を重ねた。﹁僕はここから離れることができない。 ほろ

みは

ここはまもなく滅びる。僕も死ぬ。逃げ出すことはできないんだ。そんなことは、女神さ まがお許しにならない﹂

 女神さまが？ ワタルは目を瞠り、軽く両手を広げて周りを指し示した。

﹁どういうことです？ だってここは││あなたたちは老神教の信者なんでしょう？ こ

おお

こに隠れ住んでいるんでしょう？ だからあなたも、〝教王〟と呼ばれていたんじゃない んですか？﹂ はくへん

﹁いや、違うよ。ただ、地上ではそういうことになっている﹂

いたずら

さわ

 男はうっすらと頬笑んだ。氷の薄片が欠け落ちるように、彼の顔から無表情という覆い は

が剥がれてゆく。 ふく

﹁それも女神さまとの盟約の内に含まれていた。徒に地上を騒がせず、地上とのつながり

を絶つには、そういうことにしておくのが、この南大陸の政情では、いちばん都合が良かっ

たからだ。だから僕らは約束を守った。ずっと守ってきた。でも、とうとう破約のときが

ずる

来た。いつかはそうなるということを、女神さまはご存じだったのだろう。ヒトは狡く、

315

もろ

ばつ

ちか

ほ ご 

その心は脆い。いつかは必ず心弱き者を生み出して、永遠にと誓った約束を反故にする。 そして皆でその罰を受けるんだ﹂ つぶや

 歌うような独り言の呟き。ワタルの頭はついていかれない。 ﹁何を言ってるんです？﹂ おとず

 白髪の若き教王はワタルの目を見た。﹁かつては僕も、君と同じ〝旅人〟だったんだよ﹂ うつしよ

 現世から訪れた人間だったというのか。

﹁ここには僕も含め、十一人の現世の人間が住んでいた。全員、かつての〝旅人〟だ。自 かなめのみとびら

らの運命を変えることを望み、要御扉を通って、この幻界を訪れた﹂ なつ

おのれ

 懐かしむような瞳の色。 よう

﹁だけど僕ら十一人は、己の望みをかなえることができなかった。幻界の旅の険しい道の ほうき 

とが

あご

つか

りに負け、旅を放棄することを選んだ。でも、自分の運命の有り様を何ひとつ変えること や

ができないままに、おめおめと現世へ帰ることも望まなかった││﹂ だま

かげ

 ワタルは黙って、教王の痩せて尖った顎の形を見ていた。澄んだ瞳に、疲れたというよ たいくつ

りは、退屈をもてあましているような翳りが見えることも気になった。

 それにこのヒト、誰かに似ている。僕は以前にこのヒトに会っているような気がする。 ﹁だからあなたたちは、幻界に残ったの？﹂ ただよ

 ミーナが小声で問いかけた。呼気が白く漂う。

316

ひそ

ざ せつ

いんとん

﹁ああ、そうだ﹂教王はうなずいた。﹁そういう挫折した〝旅人〟のために、女神さまは

あお

この都を造った。そして僕らは、ここで密やかな隠遁生活を送ることを命じられた。それ が幻界に残るための条件だった﹂

かく

た

 ミーナは、あらためて感じいったように、しげしげと高い天井を仰いだ。﹁みんなで、 おも

ここに閉じこもって？ 外の世界には一歩も出ずに？﹂ う

 心に浮かんだ想いを隠すことには向いてない、くるくると表情を変えることにこそ長け

あ

た小さな顔には、︵わたしにはとてもガマンできない︶という感想が、はっきりと浮き出 ている。 たず

あた

 ミーナに代わって、ワタルは訊ねた。﹁ずっとここにいて、飽きるとか⋮⋮退屈するこ

かたわ

とはなかったんですか。あなた方には、何かここで果たすべき役割が与えられていたんで すか？﹂

ふ

 教王は顔をあげると、彼のすぐ傍らにある、あの大きな真実の鏡に目をやった。 ﹁僕らの役割は、これを守ることだった﹂ ﹁これ││真実の鏡ですよね﹂

み いだ

 キ・キーマが一歩鏡に歩み寄り、ごつい手で鏡面に触れてみようとして、やめた。 とちゅう

 教王はうなずいた。﹁〝旅人〟は皆、幻界の旅の途中で真実の鏡を見出す。一人にひと めぐ

つ、必ず巡り合う。旅が終わるときには、それを女神さまに返さなくてはならない。幻界

317

もど

に戻すことは許されないんだ。だって、危険だからね﹂ ﹁危険？﹂ かしこ

さと

﹁そうさ。真実の鏡を使えば、現世と行き来することができるのだから﹂  ワタルはミーナの顔を見た。ミーナは賢く悟って、

﹁わたし、この鏡は家のお守りだから肌身離さず持っていなくちゃならないって教わって

育ったけど、鏡の働きのことは、何も知らなかったわ。お父さんお母さんも知らなかった んじゃないかしら﹂

﹁それは封じられた知識だからね﹂教王は言って、ミーナに頬笑みかけた。﹁でも今は、 君も知ってしまっただろ？﹂

 ミーナはためらいがちにうなずいた。﹁でもわたし、それで何かしようなんて思わない けど﹂

﹁この幻界には、そういうヒトばかりがいるわけではないということさ﹂

すべ

 教王は、足元に落ちていた槌を見ると、白髪となった眉をつと持ちあげてから、ゆっく の

りと拾いあげ、膝の上に載せた。今の今まで、力の抜けた手からそれが滑り落ちていたこ とにさえ、気づいていなかったようだった。 ゆうごう

﹁この真実の鏡は、ここで暮らしていたかつての〝旅人〟たち十二人の鏡を集めたものだ。 たましい

真実の鏡は、それ自体に魂を持っている。それらが融合して、ここにこの形を成した。そ

318

どうき 

たくら

して僕らはそれを守っていた。誰かを現世と幻界を行き来して、何かをしようと企む者を 寄せつけぬように﹂ ふ きつ

 十二人。さっきは十一人と言っていた。ワタルの胸に、不吉な動悸が打った。 ﹁人数が一人増えてますね﹂ びしょう

そむ

 教王はワタルを見ると、微笑した。﹁そうだ。つい最近、一人逃げ出してしまった。今 だっそう

り はん

も逃げている。彼は脱走者であり、女神さまとの盟約を破り、女神さまに背く者だ。僕ら

のなかから、そういう離反者が現れた。だから僕らは、女神さまの罰を受けねばならない﹂ のど

﹁それがこの││﹂言葉が、ワタルの喉につっかえた。﹁凍りついた都？ 女神さまはあ こ

なた方を懲らしめるために、この都を凍らせて、滅ぼそうとしているというのですか？﹂

 教王はうなずく。顎が胸のあたりにまでさがり、彼は目をつぶってしまった。 ろ れつ

あや

じ ひ ぶか

﹁そりゃ、少し厳しすぎるじゃないか﹂キ・キーマが口を開いた。寒さでマヒしかけてい

るのか、ちょっと呂律が怪しい。﹁俺たちの女神さまは慈悲深いお方だ。たった一人が約

束を破っただけで、あんたたち全員を滅ぼそうとなさるなんて、行きすぎだよ。何かの間 違いじゃないか？﹂

﹁神は本来、厳しいものだ﹂教王は目を閉じたまま言った。﹁そしてヒトは弱い。いつか たが

は必ず、己の目先の欲に目がくらんで、神との盟約を違えようとする。女神さまはそれを く

よくご存じなんだ。こんなことは、今までにも何度となく繰り返されてきたんだから﹂

319

いか

とうぼう

 十二人のうちの一人。逃げ出した。今も逃げている。女神はそれをお怒りになっている。 ワタルの動悸は激しくなった。 と

﹁地上では今、ハイランダーたちに緊急の指令が下されているんです。ある逃亡者を追っ て捕らえるようにと﹂

ぬす

 ワタルの言葉に、ミーナがぱっと目を丸くした。﹁そうだわ！ 重大な国家機密を盗み ほお

出して、北へ渡ろうとしている脱走者。もしかしたら、それ││﹂  ワタルは説明した。教王の頬がこわばる。

﹁そんなことが起こっているのか。それはたぶん⋮⋮うん、間違いないだろうね。そうか ⋮⋮女神さまが直々に命じられたか﹂

 例の逃亡者が、いったいどこから来た者なのかという謎も、これで解ける。  彼はデラ・ルベシの脱走者なのだ。

﹁俺たちもハイランダーなんだ﹂キ・キーマが胸をそらして言った。彼の目に、ここに来

て初めて興味の色が浮かんだ。﹁その脱走者があんたたちの仲間だったなら、あんた、何 つか

か手がかりを知らないか？ そいつを捕まえるのは、俺たちの役目でもあるんだ﹂ こし

 教王は椅子の背につかまって立ちあがろうとした。膝に力が入らないのか、うまくいか あきら

ない。諦めてまた腰を落とすと、ワタルに言った。﹁それならば、話は早い。君に助けを こ

請うたのも、わざわざここまで来てもらったのも、その脱走者を捕らえてほしいからだっ

320

かか

たんだよ。僕は確かに手がかりを持っている。君たちに、今その脱走者がどこにいるのか、 正確な場所を教えてあげることができる﹂ ﹁どうやって？﹂ ﹁この真実の鏡に映すのさ。ちょっと手を貸してくれないか？﹂ にぶ

 キ・キーマは動きが鈍っているので、ワタルとミーナが両脇から教王の腕を抱えるよう な

と

おどろ

にして、何とか立ちあがらせた。教王は真実の鏡に近づくと、その前に立ち、両手で円い 鏡の縁を、するりと撫でた。 しゅんかん

 すると、真実の鏡に映っていた教王の像が、溶けるようにしてぼけた。驚きにぱちぱち の

ぱし

とまばたきしたワタルは、次の瞬間、そこに町の風景が映し出されているのを見つけて、 また息を呑んだ。 すきま 

 港町のようだ。立て込んだ倉庫のような建物の隙間から、切れっ端のような海が見えて こぶし

か

いる。トタンと材木を組み合わせただけの貧相な造りの倉庫の壁に、黄色いペンキか絵の にぎ

具で、ヒトの握り拳の絵柄が描いてあった。何かの印のようだ。

﹁こいつは⋮⋮ソノの町だ﹂キ・キーマが目を細め、用心深い口調で言った。﹁間違いな よご

さび

い。建物が古いし、くすんでるだろ。アリキタじゃ、昔は漁師町として栄えたところなん さか

だが、アリキタで工業が盛んになると、海が汚れて漁ができなくなってさ、すっかり寂れ くらが 

ちまった。それで商業港に鞍替えしたんだけど、もともと小さな漁港だから、ハタヤやダ

321

かざぶね

クラの港のようにはいかない﹂ ﹁北への風船は出てるの？﹂ ひそ

﹁大きな船は無理だ。でも、中型船ならいくつもある﹂ ﹁脱走者はここに潜んでるんですね？﹂ かた

 ワタルの問いに、白髪の教王は真実の鏡につかまり、肩で息をしながらうなずいた。

しゅっぱん

﹁きっと、風向きがよくなる折を待っているんだろう。知っているだろうけど、北大陸に

渡る風船は、星読みたちが天空を観察して風を読み、天候を予知してくれないと、出帆す ることができない﹂ ﹁船出にふさわしい風は、いつ吹くの？ キ・キーマ、知ってる？﹂

 太い首をひねって、キ・キーマは考え込んだ。﹁正確なところは知らねえよ。でも、確 は

かに今は、風船の渡る時機だ。年に三度か四度、そういう時機が来る﹂

﹁じゃ、急がなくちゃ！﹂ミーナはしっぽをぴょんと跳ねらかした。﹁ぐずぐずしちゃい しら

くわだ

かくま

られないわ。みんなにも報せなくちゃ。この拳みたいな形の印のある船会社か、商店の船 を探せばいいのよね？﹂

﹁真実の鏡はそう教えてくれている。脱走者は密航を企てて、時機が来るまで船主に匿っ てもらっているのかもしれないな﹂

 キ・キーマとミーナは、今にも駆け出しそうな様子になった。でもワタルは動かなかっ

322

た。教王の、白い眉毛に隠れそうな瞳を見つめて問いかけた。﹁その脱走者が持ち出した

はや

国家機密って、いったい何なんですか？ あなたは、それが何だか知ってるはずだ﹂ き

﹁そんなこと、本人をとっ捕まえてから訊きゃいいよ﹂と、キ・キーマは逸る。

 教王がよろめいて、椅子の肘にもたれた。彼が動くと、白いローブに包まれた身体が、 ひどく痩せていることがよくわかった。

くったく

か け ら

﹁脱走者は││あの男は、真実の鏡を通って現世に戻り、動力船とモーターの設計図を持 ち帰った。それを持って、北大陸に渡ろうと企んでいる﹂ む じゃき 

つぶ

 それなあに？ という無邪気な疑問が、ミーナの顔に浮かんだ。屈託の欠片もない。キ・ キーマもぼんやりしているだけだ。

さえぎ

 ワタルは一人、この恐ろしい事実に押し潰されそうになるのを、必死にこらえていた。 ていこく

きり

﹁北の帝国に、それを売りつけようというんですね？﹂ せ

 モーターのついた動力船がたくさんあれば、〝針の霧〟に遮られることもなく、風向き たよ

こわ

に頼ることもなく、北大陸はいつでも望むときに南大陸に攻め込んでくることができるだ ろう。

﹁ねえワタル、それどういう意味？ 売りつけるって、何を？ どうしてそんな怖い顔を してるの？﹂

 ワタルはミーナに向き直ると、動力というものがどういうものなのか、それで動く船が

323

どんなものなのか、話して聞かせた。

 その効果は絶大だった。ミーナの瞳の底に、めらめらと怒りが燃えあがった。 しんりゃく

﹁何でそんなバカなことを！﹂ミーナは叫んだ。﹁〝旅人〟だったヒトが、どうして北大 おもしろ

陸の侵略に協力するようなことをするの？ どうして？ この国に、南大陸のわたしたち うら

に恨みでもあるの？ 幻界の平和を乱して、何が面白いっていうの？﹂

 教王は、ミーナではなくワタルの顔を見て答えた。﹁彼はそれを、幻界の産業革命だと 言っていた﹂ ﹁サンギョウカクメイ？﹂ か

﹁現世の歴史で、実際に起こったことだよ﹂ワタルはミーナに説明しながら、その言葉を 噛みしめた。 な

 動力。人力に頼らない機械の力。ワタルもここを訪れたばかりのころ、何度となく考え

た。幻界ではヒトの力で為していることの大半を、現世では動力と機械がこなしている。

その違いに、何度も目を瞠ったものだった。﹁僕は思うんだ││﹂教王は独り言のように

いま

とうらい

呟いた。﹁彼ともよくこのことで話をした。意見も言って聞かせた。産業革命も動力の開

発も、時が来れば、自然に幻界のなかに生じるはずのものだ。それが未だ到来しないのは、 時が満ちていないからだと﹂

ち え 

﹁現世だってそうだった﹂と、ワタルは言った。﹁世界じゅうのあちこちに知恵が生まれ、

324

く ふう

努力と工夫と研究が続けられて、それが歴史を変えるほどの大きな発明につながってきた ・

・

・

・

・

・

んだって、僕は学校で教わったよ。みんなみんな、小さなことの積み重ねの結果だって﹂ ・

はんえい

﹁彼はそれをまどろっこしいと言った﹂と、教王は続けた。﹁現世にあるものを、幻界に

持ち込んで何が悪い？ そう言ったよ。幻界を富ませ、繁栄させるものなのだから、いい じゃないかと﹂ す なお

﹁その⋮⋮動力ってものがあったら、ホントにわたしたち繁栄するの？﹂

 ミーナの素直な問いに、ワタルは返事をすることができなかった。それは〝繁栄〟の意

ぐう

味による。その〝繁栄〟が、幻界の幸せにつながるものであるかどうかによるのだ。 ﹁彼の言い分は、もちろん建前さ﹂ ﹁じゃ、本音は何なのよ？﹂  教王はミーナに向き直った。

﹁北の帝国は、喜んで彼を受け入れるだろう。彼を帝国の要人として遇するだろう。ネ族 じょう

のお嬢さん。君の心配しているとおり、動力船があれば、北の帝国はまたたく間に南大陸 せいふく

を征服してしまうだろうさ。今度こそ本当に、幻界の統一帝国をうち立てることになる。

そうなったら、我らが脱走者は偉大な興国の功労者だ。北の帝国の皇帝一族に混じって、 幻界の頂上に君臨することができる﹂ うす

 ミーナの目の色が薄くなった。﹁それだけのために││﹂

325

﹁そうだ。たったそれだけのために、彼は現世の知識を幻界に持ち込んだのだ。己の欲の ため。だからこそ女神さまはお怒りなんだ﹂

 ワタルは真実の鏡に目をやった。平らな鏡面は、今はまた、ローブの男と彼を囲むワタ ルたちの姿を映しているだけだ。

﹁脱走者は、そんなに簡単に、北の帝国と渡りをつけることができるかな？ 動力船の設 ふ

計図だって言ったって、すぐに信じてもらえるかしら﹂

﹁信じるだろう﹂いささか気の毒そうに目を伏せながら、教王は言った。﹁僕の知ってい

る限りでも、北の統一帝国は、ずいぶん以前から、真実の鏡を集めようとしてきた。皇帝

一族は、真実の鏡の働きを知っているようだね。現世との通路が開けば、どれだけ大きな

力になるか、承知しているのだ。だから、何とかして今ここにあるような真実の鏡を作ろ て あら

うと、一時はかなり手荒なこともやっていたようだ﹂

おそ

 ワタルはミーナを見た。ミーナの小さな顔からは、表情らしい表情が消えてしまってい た。心が過去に飛び戻っている。 ねら

ら ち 

 北の帝国の特殊部隊〝シグドラ〟が、ミーナの家族を襲ったのも、ミーナの家に伝わる

真実の鏡を狙っていたからなのだ。彼らが南大陸への亡命者を拉致して本国へ連れ帰って かか

いるというのも、真実の鏡を求める活動と関わりがあるのではないのか。

 つと眉をひそめて真実の鏡を見つめながら、教王はワタルたちに問いかけた。

326

とうわく

・

・

・

・

・

﹁君たちは、そもそもこの真実の鏡というものが何であるか、知っているかい？﹂  ワタルは当惑した。質問の意味がわからなかったのだ。 ﹁何って││だから現世との通路を開く││仕掛けというか﹂

﹁もちろんそれも重要な働きのひとつだ。だが、真実の鏡は、そのためだけに存在してる わけじゃない﹂ つかさど

 文字どおり、これは﹁幻界の真実﹂を司る存在なのだと、教王は言った。痩せた指で、 真実の鏡の縁をそっと撫でている。 もと

﹁幻界を幻界ならしめている要素││世界の素。世界を構成する正しきものの集積。そん なふうに言えばいいのかな﹂  世界の素？ やっぱりよくわからない。ワタルは首を振った。

くう

﹁まあ、すぐ理解できなくても仕方ないかな。何といっても、君はまだ子供なんだし﹂  少しばかり皮肉な笑みが、教王のこけた頬に浮かんだ。 きょ

﹁幻界は、虚にして実。有にして無。存在するが、実在するわけではない空の世界だ﹂ はいちょう

 ますますわからない。教王の一方的な演説を拝聴している感じになる。 ﹁君は幻界の成り立ちも知らないだろう？﹂  ワタルはちょっとムッとした。

﹁いいえ。知っています。幻界は、現世の人間の想像力のエネルギーが創りあげている世

327

界だって﹂ ﹁うん⋮⋮まあ、その表現も間違っているとは言えないけれど﹂ はざま 

﹁正しくもないって言うんですか？﹂ さ

﹁幻界はね、ふたつの鏡の狭間に存在しているんだ。ふたつの鏡が幻界の素なのさ﹂ しょうげき

 ようやく衝撃から醒めたミーナが、ゆっくりとまばたきしながら顔を上げる。 とこやみ

あ

﹁ふたつの鏡。そのうちのひとつが、言うまでもなくこの真実の鏡だ。そしてもうひとつ は、〝常闇の鏡〟と呼ばれている﹂ ﹁常闇の鏡││﹂ ・

・

・

﹁真実の鏡が正しきものの集積ならば、対する常闇の鏡は、たぶん悪しきものの集積なん

だろう。たぶんと言うのは、僕も現物を見たことはないからだ。でも、常闇の鏡は必ず存

在するはずなんだ。確信がある。なぜなら幻界は、そのふたつの合わせ鏡が造りあげてい る〝有にして無〟なのだから﹂

か け ら

くだ

 キ・キーマがそっとワタルの表情をうかがった。ワタルは教王の顔を見ていた。まばた きすることも忘れて。

﹁真実の鏡││幻界を司る真実の集積は、無数の欠片に打ち砕かれて、幻界じゅうに散ら し る べ

ばっている。そして〝旅人〟が訪れるたびに、彼らを導く道標の役割を果たす。だが、常 闇の鏡はどこにあるのか？﹂

328

 自問自答するように、教王は言った。

いっつい

﹁おそらく、まず間違いなく、北大陸にあるのだろう。北と南で一対となり、幻界を造り あげているんだ﹂

﹁でも、そんなのおかしいわ﹂ミーナが声をあげた。﹁わたしの真実の鏡は、両親から受 つ

け継いだものだって言ったでしょ？ わたしの一族は、北大陸の出身なんです。というこ

とは、真実の鏡の欠片は、南大陸だけじゃなく、北大陸にも存在してるということでしょ

う。つまり真実の鏡は、幻界じゅうに散らばっているんです。だったら、それと対になる

常闇の鏡だって、たくさんの欠片になって、同じように散らばっていると考える方が、自 然だわ﹂

 ワタルはちょっと目を瞠った。ミーナがこんなふうに、理屈っぽいほど筋道立った意見 を述べるのを、初めて見たからだ。急にミーナが大人びて見えた。

 教王はミーナに微笑みかけた。その名にふさわしく、無知な信者に教えを垂れるかのよ うな表情だ。

﹁真実は無数にうち砕かれ、数え切れないほどのヒトびとのあいだに散らばっている。だ

が、一方の常闇は││悪しきものは、まだひとまとまりの実体となってどこかに存在して

いる。それが幻界の、今の有り様なのではないかと考えることはできないかな？﹂

 俺には難しすぎるというように、キ・キーマがかぶりを振っている。顔色はますます白

329

い。 ﹁だから幻界は幸せなんだ。今はまだ﹂ は

 謎めいた言葉を吐いて、教王は独りでうなずいている。

﹁しかし、悪しきものがどこか一ヵ所に集められて、誰かがそれを守っているというのは、 本当に正しいことなのだろうか？﹂ ぎゃくさつ

 教王の問いに、キ・キーマが反応した。寒さのせいで言葉は鈍いが、声は大きい。

﹁それはもしかして、北の統一帝国が差別や虐殺をしているのは、その常闇の鏡とやらが 北大陸にあるせいだって言ってるのか？﹂

 教王は答えず、ゆっくりとワタルたちに背を向けて、真実の鏡に向き合った。

﹁わからない。だが、常闇の鏡はまず間違いなく北大陸にあるのだと思う。そして、北の

きょうい

統一帝国にとっては、それがたいへんな重荷になっているのじゃないだろうか。だからこ

そ、皇帝は、手荒な方法を使ってでも、真実の鏡を求めているんだ。常闇の鏡の脅威を封 たいこう

じるために、それに対抗できるだけの力を備えた、完全なる形の真実の鏡を必要としてき

たんだ。あるいは、ひょっとしたら、そちらの方こそが切実な望みであって、真実の鏡を

通して現世の知識を取り入れるというのは、むしろ、その経過で発生した付属的な要素で しかないのかもしれない⋮⋮﹂

 しばらく黙っていたので、くちびるがくっついてしまい、ワタルはうまくしゃべれなかっ

330

し

た。恐ろしいほどのここの冷気が、あらためて身に染みる。 さず

﹁め、女神さまは、それについては、あな、あなたに知識を授けてはくれなかったんです か？﹂

びょうし

 教王は首を振った。﹁もとより、授ける必要のない無用の知だからね。旅を打ち切った、 ひ弱な〝旅人〟には﹂ したじ 

 そして、話の筋をぐいと引き戻すように、くるりと振り返ってワタルを見た。

﹁ともあれ、そんな下敷きがあるのだからね。脱走者が北へ渡れば、話はトントン拍子で

進む可能性があるよ。脱走者は、今からちょうど十年前に要御扉が開いたときに、幻界に いだ

やって来た〝旅人〟だ。彼の現世の政情に対する知識は、僕らよりもずっと新しかった。

ひょっとすると、旅を打ち切ったときから、今回の企みを胸に抱いていて、機会を待って いたのかもしれない﹂

いたわ

 ミーナは両手を口元にあて、しゃがみこんでしまった。キ・キーマが心配そうに、その きゃしゃ

華奢な背中を撫でてやる。彼の方もひどく具合が悪そうなのに、その手つきには労りが満 ちていた。

﹁お願いだ﹂教王はそっとワタルの腕に触れた。本当はぐいとつかみたかったのだろう。 う

でも、彼にはもうその力が残っていないのだ。凍りつく寒さと、飢えと、おそらくは絶望 うば

と諦めが、彼から気力と体力を奪い去ってしまった。

331

こんがん

た

﹁脱走者が北へ渡る前に、何としても捕まえてほしい。そして僕らの魂を救ってほしい﹂

 自分よりも年上のヒトに懇願されるなんて、ワタルには耐えられないことだった。だけ ど耐えねばならないこともわかっている。

﹁脱走者が出て以来、僕はずっと、この鏡を通して〝旅人〟に呼びかけていた。今は要御

扉が開いているときで、新たな〝旅人〟が幻界を訪れていることは知っていたからね。何 とか聞き届けてほしいと願っていた﹂

﹁あなたは僕を呼んだとき、〝あなたもまた、幼い子供だったのですね⋮⋮〟と言いまし た﹂と、ワタルは言った。 こた

﹁それはつまり、僕の前にもあなたの呼びかけに応えて、ここを訪れた〝子供の旅人〟が いたということですよね？﹂  教王は静かにうなずく。

﹁それはミツルという少年だったんじゃありませんか？ 僕みたいな剣士のタマゴじゃな くて、子供ながらに立派な魔導士です﹂ ﹁ああ、そうだ﹂教王の目が広がった。﹁知っているのか？﹂ ﹁ええ。僕の友達なんです﹂ ﹁驚いたな﹂ あやつ

 ミツルは呼びかけに応え、ほんの数時間の後には風の大魔法を操ってここを訪れたのだ

332

という。 ゆうしゅう

﹁彼の方が⋮⋮僕より優秀なんです﹂ たの

﹁しかし彼は、僕の頼みを聞いてはくれなかった﹂と、教王はかぶりを振った。﹁自分が

幻界に来たのは、女神さまに会うためだ。幻界の政情にも南大陸と北大陸の対立にも興味 はない、関係ないと言い捨ててね﹂

は

 いかにもミツルらしいと言えば言える。自らの運命を変えるという〝旅人〟の目的を思

えば、当然の反応であるとも言える。それなのに、ワタルはそれを自分のことのように恥

ひと

じた。ミツルのために弁解してやりたいという気持ちと、ミツルへの腹立たしさに、おな こ

かの底が焦げつきそうになった。 せっかい

﹁そのとき、言われたんだ。今の幻界には、もう一人〝旅人〟が来ている。そいつはお人 よ 

好しでお節介だから、あんたの頼みを聞いてくれるかもしれないよ、と。だけどあのとき の口調では、彼が君と友達だとは、とうてい思えなかった﹂

かろ

 ワタルは、今度は自分のために赤面した。ミツルにそんなふうに軽んじられている自分 はじ

を恥じた。それを恥と感じる自分を恥じた。

﹁ミツルは、ワタルをこの件に巻き込むことで足止めして、先に運命の塔へ行こうとして

るんじゃないのか？﹂キ・キーマが鼻の穴をふくらませながら言った。怒っているのだが、 お か 

やっぱり呂律が怪しいし動作も鈍くなっているので、何だか可笑しい。

333

かん

 その可笑しさに救われた思いで、ワタルは笑った。﹁そんなことないよ、キ・キーマ﹂ ﹁でもよう！﹂

﹁それより、事情はわかったんだ。早くここを出て、ソノの港町へ行こう﹂

しん

﹁そうね。あんまり長いこと待たせてると、ジョゾが凍りついちゃうし﹂ けなげ 

 ミーナが、健気にすっくと立ちあがりながら言った。彼女のこういう芯の強さには、感 たん

嘆せずにいられない。 ﹁すぐ出発だ。僕らにつかまってください。歩けますよね？﹂  ワタルが差しのべた手を、教王はゆっくりと押し戻した。 ﹁どういうことです？﹂ ﹁僕は逃げられない。言ったろう？﹂ のが

﹁だって⋮⋮あなたは僕に、助けてくれと言ったじゃないですか﹂

﹁我々の魂を救ってくれと頼んだんだ。死を逃れたいと思ったわけじゃない﹂

 教王は、椅子につかまりながら移動すると、椅子の上に置いていた槌を手に取った。持 ちあげられず、膝のあたりにだらりと垂れてしまう。

﹁僕らは脱走者を出し、盟約を違えて女神さまの怒りをかった。だから罰を受ける。仲間

はもうみんな死んだんだ。リーダーである僕が、おめおめ生き延びるわけにはいかない。 女神さまもそれをお許しにはなるまい﹂

334

﹁だけど！﹂

﹁君たちが脱走者を捕らえ、彼の企みを砕いてくれれば、僕らの罪も許されるだろう。そ じょうか

い

よど

く おん

して魂が浄化され、いつかは次の世界に生まれ変わることもできるはずだ。だけどこのま

までは、僕も、先に逝った僕の仲間たちも、みんなみんな魂が淀んだまま、永遠に久遠の

谷を漂うことになってしまう。だから頼んでいるんだ。助けてくれと﹂ なっとく

 そんな意味だなんて、思ってもいなかった。聞かされても納得はできない。

﹁あなたは生きていたくないんですか？ まだまだ若いのに。どうしてそんなに簡単に、 今の自分を諦めてしまうことができるんです？﹂ きつもん

ゆが

 思わずという感じで、詰問がワタルの口から飛び出した。教王は、ワタルが予想もしな

かったほどの勢いで振り向くと、口元を歪めた。﹁自分を諦める？ 僕が？﹂ ﹁ええ、そうです﹂  教王は吹き出した。 けが

﹁諦めてなんかいないさ。むしろ、僕は自分を守りたいんだ。死んでいった仲間たちだっ ご めん

てそうだったろう。僕は今さら、穢れた下界になんか降りたくない、現世でも幻界でも、

どっちでも御免だ。僕らの至福の世界はここにあった。ここに、ここにこそ﹂ きよ

 手を広げ、周りを指し示しながら、天井を仰いでぐるりと回る。踊るように。 い

﹁ここを失うなら、もうこの命なんか要らない。浄められた魂で再び生まれ変わり、次の

335

おび

生でまた楽園を見出す方が、ずっとずっと望ましいことだ﹂  怯えて、ミーナがワタルに寄り添った。 むな

たた

つぶ

﹁現世では││﹂と、教王は槌を持っていない方の手で拳を握り、胸を叩いた。﹁何ひと

つ僕の思い通りにはならなかった。努力はすべて空しく、夢はすべて叩き潰された。誰も ど こ 

僕を理解してくれず、何処も僕を受け入れてくれなかった。僕の人生は、僕を愛してはく

れなかった。僕の人生は、僕に何ひとつ与えてはくれなかった。だから僕は、幻界に来た んだ﹂  ローブの下で、足が地団駄を踏んでいる。

﹁だけどこの幻界でも、僕の望みはかなわなかった。運命の塔にたどり着くどころか、町

から町へと旅をすることさえおぼつかない。何ひとつ思いどおりにはならないことは、現 こ

そうれい

世にいるのと同じだった。だから僕は旅をやめた。女神さまと取引する道を選んだ。そし て、ここに籠もったんだ﹂ ぬく

ころも

 この造られた神の郷に？ ヒトの温もりを欠き、暮らしの活気を欠き、壮麗でありなが しんでん

ら空虚な神殿のような町に？

﹁女神さまは、そんな僕らをよく知っていた。ここはね、女神さまの衣の下に隠された都

なんだ。僕らは選民だった。神との盟約に支えられた、雲上人だった。女神さまとの約束、 すうこう

真実の鏡を守るという崇高な役割を与えられて、僕らはようやく、僕らの住むべき世界を

336

いっさい

せ ぞく

見出した。穢れた下界とは一切関わりを持たない。このデラ・ルベシこそが、僕らの楽園 だった﹂ いや

 しかし、それを理解せず、卑しい世俗の欲を捨てきれなかった一人の不心得者により、 盟約は破られてしまった││  教王は骨張った拳を額にあてた。

こ こう

﹁僕らはここで、神々のように暮らしていた。幻界を下に見て、孤高で清浄な日々がここ

にはあった。これこそが僕の望んでいたものだった。だからこそ僕は〝教王〟と呼ばれて い

ほう

いたのだ。地上に容れられず、無知な世間の連中の理解の届かない教義を胸に抱く王だ。 わかるだろう？﹂  何を教える？ 何を奉じる？ 何を司る教王だ？

﹁もしもあんたが﹂キ・キーマがのろのろと口を開いた。﹁本当にそんな立派な教えをも やから

たらすことのできる〝教王〟だったなら、どうしてあんたらを裏切り、ここから逃げ出し い

て、北へ渡って自分だけ好い思いをしようなんていう輩が現れたんだ？﹂

 教王は答えなかった。キ・キーマの問いかけが聞こえなかった││いや、そんな問いか けなどなかったかのような横顔を見せている。

 ややあって、教王は静かに呟いた。﹁僕らを理解しない者は、僕らの仲間ではなかった。 あいつはそもそも、ここにいる資格のある人間ではなかったんだ﹂

337

﹁脱走者がここにいたころから、あなたはそう思っていたんですか？﹂と、今度はミーナ

が問いかけた。﹁そう見抜いていたの？ だったら、こんなことになる前に、どうして手 を打たなかったんです？﹂

 教王は振り向くと、口元を尖らせた。﹁君らに僕を責める権利なんかない。あんなヤツ

つら

のせいでこんな事態になってしまった。裏切られて傷ついて、僕がどれほど辛い気持ちで いるか、ちっともわかってないくせに﹂ ﹁だって⋮⋮﹂ ﹁第一、そんな言い方は、女神さまの選民に対して非礼だぞ﹂ あき

 ミーナがワタルの顔を見た。困ってもいるし、呆れてもいる。

 ワタルはふと思った。僕には、どうしてこのヒトが幻界の旅を打ち切ったのか、その理 由がわかるような気がする。

 きっとこのヒトは、いつもこんなふうだったんだ。胸にあるのは自分の言い分だけ。見

るものも、自分の見たいものだけ。求めるものも、自分のほしいものだけ。傷つくのも、 いつも自分だけ。

 思いどおりにならないものを捨て、気に染まないものを切り離し、そこにあっても見な

いふりをして、ひたすらに求めるものはただひとつ。自分が求めるにふさわしいものだけ。

 それでは何処にも居場所なんかつくれるわけがない。誰の親切も届かなければ、誰に裏

338

切られようと、その兆候を感じることだってできるはずがない。

さんぜん

 そして、ようやくたどり着いた安息の地は、女神との盟約という、燦然と輝く空虚だ。

がら

 選民だ。教王はそう言った。それは何だ。何から、どんな理由で選ばれたのだ。抜け殻 になることで、見返りに得たものがそれだというのか。 うつ

つく

 教王じゃない。虚王だ。虚ろの王様だ。なるほど女神はそれをご存じだった。だからこ まが

じゅうぶん

こご

そ、こんな紛い物の神の郷を創ってお与えになったのだ。  もう充分に凍えている身体に、それでもなお寒気が走った。

ひらめ

 思い当たったのだ。さっき、教王の顔が誰かに似ていると思った。それが誰なのか、閃 お じ 

いたのだ。ルウ伯父さんと買い物に出かけたとき、道ばたでワタルにぶつかり、転んだワ

もうれつ

タルに謝ることも、助け起こすことさえせずに、手を踏んづけて通り過ぎようとしたあの 若者の顔だ。

 あの時ルウ伯父さんは、猛烈に怒っていた。あの若者も、そんなルウ伯父さんに腹を立

てているように見えた。だけどその実、なぜルウ伯父さんがそんなに怒るのか、理解して

・

・

・

・

・

いる様子はなかった。なんで見ず知らずの他人に文句を言われなくちゃならないのかと、 ふてくされていた。 ・

 あの若者には、本当にワタルの存在が見えなかったのだ。ワタルは存在していなかった。

少なくとも人間の子供としては、そこにはいなかった。あの若者にとっては、ワタルはた

339

ふさ

かん

ぶくろ

だ通り道を塞ぐ障害物でしかなかった。だから、手を踏んづけて通り過ぎようとしただけ

だったのだ。道ばたの空き缶や、空っぽになったコンビニのビニール袋を踏むように。

 もし、あの若者が幻界を訪れたなら、彼もまた教王になるのではないか。それこそがい ちばん自分にふさわしいと、心の底から満ち足りて。  よそう。考えすぎだ。 かみ

﹁あなたのその髪は⋮⋮﹂ ちょうばつ

 最後にひとつ、ワタルは小さな声で訊ねた。

かいこう

う

﹁その白髪。この都が女神さまの懲罰を受けて凍りついて、恐ろしさのあまりにそうなっ てしまったんですか？﹂

 教王の表情に、ここで邂逅したとき最初にワタルが見た、倦み疲れて退屈しきったよう

な色が戻りつつあった。だるそうに口の端をさげて、彼は答えた。﹁僕は望んでこうなっ

たんだ。若さなんて要らなかった。若さにつきまとう未熟さは、神の選民にふさわしいも のじゃないからね﹂  そうか。それならもう、これ以上訊ねることは残っていない。

 キ・キーマとミーナは、根がはえた上に凍ってしまったみたいに動かない。ワタルは教 王の顔に目を据えたまま、言った。 ﹁二人とも、行こう﹂

340

﹁でも、ワタル⋮⋮﹂

え

﹁いいんだよ。このヒトは、ここに残ることを望んでるんだ。僕らには││僕にはそれを 邪魔する権利はない﹂ ﹁ああ、行くがいい﹂ たいぎ 

 教王はゆっくりと顔をほころばせた。そして大儀そうに槌を持ちあげると、一度その柄 を肩に乗せてひと息つき、真実の鏡へと向き直った。

﹁僕の最後の仕事がこれだ。この真実の鏡を打ち砕く。僕らが集めてここに奉じていた真

実の鏡は、再び元の欠片に戻り、幻界のヒトびとのなかに散らばるだろう。そして、それ

ぞれの役目を果たすために、新たな〝旅人〟に見出されるときを待つのだ。それこそが幻

界の〝真実〟の、もっとも正しい有り様だと女神さまはお考えになっている﹂ いの

 教王は祈るように目を閉じた。

﹁これが終われば、女神さまの最後の懲罰が下される。君たちも、巻き添えになりたくな かったら急いだ方がいい﹂  最後にもう一度だけ、教王の目がワタルの目をとらえた。

す がお

﹁行きなさい。そして旅をまっとうするんだ。僕らには果たせなかったことを、君にはや と

り遂げてほしい﹂ せつな 

 その瞬間、その刹那だけ、教王の仮面が剥がれ、その下の素顔がのぞいた。それを見た

341

と、ワタルは思った。現世でもたらされた自らの運命を変えようと、固い決意と悲壮な願 いを胸に、何のあてもないまま幻界を訪れた、孤独な〝旅人〟。

 あまりに悲しくて、ワタルは泣き叫びそうになった。やっぱり、あなたをここに置き去 りにするなんて、僕にはできない。僕にそんなことをさせないで。 おも

・

・

・

・

 だが、教王はワタルの想いを読み取り、それが言葉として発されることを許さなかった。 ・

ひたとワタルの目を見据えて、彼は命じた。﹁行くんだ。悪しきものに気をつけろよ﹂

 ワタルはそろそろと後ずさった。ミーナがワタルの腕を引っ張る。教王は痩せた腕に力

を込め、槌を持ちあげようとする。ワタルは急に糸が切れたようになって、走り出した。

広間の階段を駆けあがり、アーチの前で振り返ってみると、教王がよろめきながら、真実

の鏡に向かって槌を振りあげているところだった。その光景が、ワタルの目に焼きついた。 き おく

さっかく

教王の顔が、記憶のなかの若者の顔とダブった。でもそれは、さっき思ったほどには似て し だい

いないように見えた。ワタルの錯覚であるのかもしれなかった。 せま

 立ち去るワタルの足どりが、次第に速くなった。ミーナもキ・キーマも走り出す。たと ほうかい

えこの都に崩壊の時が迫っておらず、安全な場所であったとしても、やっぱり同じように

ごと

逃げ出すことだろう。振り返ることもなく、一目散に逃げ出すことだろう。逃げなければ、 ちんぼつ

離れなければ、置き去りにするものの重さに引かれて、沈没する船に巻き込まれるかの如

く、自分もここで、一緒に滅びてゆくことになるという、恐ろしい確信があったから。

342

﹁あ、君たち！﹂  ジョゾの大きな身体が飛び跳ねている。 ﹁やっと戻ってきたね。心配してたんだよ。用は済んだの？﹂ ﹁う、うん﹂

 ワタルには言葉がなかった。しばらく地下にいたあいだに、神殿のような町の寒さはい しび

や増していた。そのせいだ。またくちびるが痺れてくっついちゃったんだ。気持ちのせい じゃない。

ま

す

﹁間にあわないんじゃないかと、ハラハラしてたんだ。すぐ飛びあがるからね。しっかり つかまってるんだよ﹂ つばさ

﹁間にあわないって││ジョゾ、どうかしたの？﹂ しんく 

 ジョゾは真紅の翼の先で、空の一点を指し示した。﹁あれを御覧。真っ直ぐこちらに飛 んでくる﹂ こうしつ

 デラ・ルベシを覆う雲のなかに、ダイアモンドのような硬質の光を放つ、真昼の星が見 しもべ

える。よく見ると動いている。翼があるようにも見えるのは、目の迷いか。

﹁あれは女神さまの僕だよ。きっとここに懲罰の風を運んできたんだ﹂ジョゾは言って、 ふる

ぶるりと震えた。﹁僕はそんな場所にいたくないよ。さ、行くからね！﹂ ま

 たちまち、ジョゾは高く舞いあがった。一気に雲のなかに突っ込むと、デラ・ルベシか

343

ら遠ざかろうとする。

 分厚い雲の流れのなかで、ワタルは近づいてくる星を見た。それには本当に翼があった。 ひょうへん

それは、まさに氷そのものだった。

 無数の氷片が寄り合い、重なり合って形を作っている。氷の神鳥だ。ジョゾよりももっ がた

と大きい。翼をひとうちするたびに、耐え難い冷気を吹きおろす。  氷の神鳥は、まっしぐらにデラ・ルベシへと向かってゆく。 ﹁ジョゾ﹂ ﹁なあに？﹂ まわ

﹁できたら、この辺をぐるぐる廻っていてくれる？ デラ・ルベシがどうなるか、気にな るんだ﹂ ﹁見ても怖いだけだよ。およしよ﹂ ﹁お願いだよ。見届けなくちゃいけないんだ、僕は﹂

 しょうがないなあと鼻を鳴らして、それでもジョゾは鼻先をデラ・ルベシへと戻した。 せんかい

ゆるりと大きく旋回する。

 氷の神鳥は、デラ・ルベシを囲む二重の城壁の、内側の方に止まると、そこでいったん 翼を休めた。それから大きく両の翼を張り直し、羽ばたきを始めた。 ふ ぶ き

 ひとつ羽ばたく。吹雪が巻き起こる。ふたつ羽ばたく。空気が凍る。氷結した建物が、

344

かたまり

れいど 

こ

道が、絶対零度を超えて崩壊してゆく。 くだ

び さい

つぶ

けっしょう

てんがい

 雪の塊が、空から降ってきたときの、微細な結晶に戻ってゆく。ドームの天蓋を支える ちょうぞう

かえ

彫像たちが倒れる。回廊が砕けて、氷の粒が空に舞う。波にさらわれる砂の城のように、

数々の円柱に囲まれた神殿たちが、端から形を失くして還ってゆく。城壁が倒れる。まず

こ

外側が。ついで内側が。氷の神鳥は舞いあがり、デラ・ルベシの上を旋回しながら冷気を 送り続ける。 ﹁あれを見て﹂  ミーナがワタルの隣で指さした。 こわ

﹁文様が壊れてゆくわ﹂

 ワタルたちを運んでくれたエレベーター。文様を描く氷の筋が、いっせいに濃く浮きあ

がったかと思うと、それと地面との隙間に、氷のため息を吐き出した。そしてゆっくりと

下降してゆく。最初は水平に降りていたが、すぐに片方へ傾き、角が欠け、一筋、二筋と

ひびが入り、下降を続けながら崩壊し、やがて数え切れないほどの氷の破片と化して、地 な だ 

響きと共に地下へと雪崩れ落ちていった。

﹁女神さまがお怒りだ﹂と、ジョゾは言った。彼は事情を知らないはずなのに、すべてを

承知しているみたいな、悟りきった瞳をしていた。﹁ああ、悲しいね。悲しい味が濃くなっ なげ

たよ。女神さまはお嘆きだ。いったいここにいたヒトたちは、どんな罪深いことをしたん

345

だい？﹂

 ジョゾの首にしがみつき、くちびるが凍るのを感じながら、ワタルはデラ・ルベシの最 後を見届けた。  空しいものは空しく、無は無へと還る。

 ほどなくアンドア台地には、雪と氷と、ありのままの自然だけが残された。

か な た

 来たりた時と同じように、氷の神鳥は音もなく飛び去り、雲の彼方へと消えた。ワタル

はそれを見送らなかった。ジョゾは遠巻きに、もう神鳥に近づこうとはしなかった。  静まりかえった空。雲の流れ。  少しずつ、視界が晴れてゆく。懲罰の時は終わったのだ。 ﹁もう行こうぜ﹂ そで

 キ・キーマがカスカスとかすれる声で呟いた。﹁俺、もう限界だ⋮⋮うん？﹂

 そうだね、帰ろうと言いかけたワタルの袖を、キ・キーマの指が不器用につかみ、ワタ ルの身体を一方にねじ曲げた。 ﹁どうしたの？﹂ ﹁あれ、あれは何だ？ 何か光ってるぞ﹂

 キ・キーマの指さす方、今や見渡す限りの雪原となったデラ・ルベシで、確かに何かが 赤く輝いている。小さいけれど強い輝きだ。

346

﹁ジョゾ、あんなところにウロコを落とした？﹂ ﹁落とさないよ。そんなもったいないことしないってば﹂ ﹁じゃ、あれは何？﹂

 ワタルの胸がときめいた。ここ数時間のうちで初めて、吉兆に動悸が速くなった。 しんぼう

うわめ づか

﹁キ・キーマ、あと五分辛抱できる？﹂ ﹁お、おう﹂ まなこ

﹁ジョゾ、降りられるかな﹂

・

・

・

 ジョゾの大きなぐりぐり眼が、上目遣いにワタルを見た。﹁本気なの？﹂ ﹁うん。ごめんよ﹂

 やれやれ⋮⋮鼻息をぶふふと吐き、ジョゾはＵターンしつつ下降を始めた。アンドア台

地に積もる雪の粒は、そのひとつひとつが限界まで硬く凍っているので、小麦粉みたいに

軽く舞いあがり、風に吹き飛ばされてゆく。ジョゾの背に乗っているうちはよかったが、

地上に降りると、たちまちのうちにワタルは雪の粒のヴェールに覆われてしまった。 ﹁キ・キーマはここにいて。すぐ戻るよ﹂

 期待があった。それと同じぐらい強い確信もあった。顔や肩先から痺れるほど冷たい粉

雪をはらい落としながら、ワタルは赤い輝き目指して雪原をかき分けた。すぐ後ろに、ミー ナもついてくる。

347

﹁ワタル、もしかして⋮⋮﹂ ﹁うん。僕もそう思う﹂ あとかた

 今はもう、あの台座は跡形もなく消えてしまった。花木の植え込みも凍って砕け、無に りんかく

帰した。でも、あのオブジェは残っていた。元の大きさの、四分の一ぐらいあるかないか たま

だ。でも、丸い珠の輪郭の一部が残っていた。それは受け皿のようにちんまりと雪原に据 えられて、赤い輝きは、その中央でまたたいていた。

かか

 ワタルが近づき、手を差しのべると、赤い輝きはすうっと宙に浮きあがった。もう、間 違えようがない。 とつじょ

 第三の宝玉だった。ワタルは勇者の剣を抜き、右手で掲げた。 まと

 宝玉がまたたく。その光は、雪原に突如出現した、小さな小さなオーロラのようだ。そ ゆ

ひい

うと

のオーロラのただ中に、真紅の衣を身に纏い、白銀の胸当てをつけた少女の姿が現れた。 結い上げた黒髪が一筋だけ乱れて、秀でた額に垂れている。  ││待っていました、〝旅人〟よ。 せいれい

まも

 精霊の呼びかけに、ワタルはその場でひざまずいた。

 ││私はこの世の希望を護り育て、ヒトの未来を司る精霊です。私を疎んじ、私を恐れ、

私を必要としないヒトびとの手で、長らくこの台地に封じられておりました。解き放って くれて、ありがとう。

348

よみがえ

 ワタルの心の目に、すべてを捨て、ようやくこの地で安息を得ていたのにと、噛みしめ

るように語ったときの教王の姿が蘇った。彼らが希望を捨て、未来を封印することによっ へいおん

て得ていたかりそめの平穏は、跡形もなく滅び去ってしまった。  ││振り返ってごらん、勇者よ。

 ワタルが後ろを見ると、ミーナと二人分の足跡が、雪原の上に残っていた。

 ││私が存在することができるのは、倦まずたゆまず歩み続けるヒトの道の上だけです。

歩みを止めたヒトのもと、絶えてしまった道の先には、永らえることができません。どん

し る べ

なときでも希望を胸に、未来を仰ぎ、顔を上げて進みなさい。さすれば、私はいつでもあ

ひら

なたと共にありましょう。あなたの後ろに残る道こそ、あなたの行く手を拓く道標となる ことを忘れずに。 つば

 希望と未来の精霊は頬笑み、姿を消した。第三の宝玉はひときわ明るく輝くと、勇者の

剣の鍔へ、吸い寄せられるようにしてそっと収まった。勇者の剣に、また新たなエネルギー

が注ぎ込まれ、精霊の守護の力がいや増すのを、ワタルは全身で感じ取った。

 目を閉じ、両足を踏みしめてしっかりと雪原に立つと、頭上高く、勇者の剣を差し上げ

た。それを待ち受けていたかのように、分厚い雲間から一条の陽光がさしかけて、ワタル を包み、祝福を与える。  残る宝玉は、あとふたつ。

349

 40 離れる心      港町││ソノ。 さび

あし

ぶ

わ

のきさき

 船着き場の一角、古びた板張りにトタン葺きの屋根の倉庫が、佗びしく立ち並ぶ。海風 あまどい

ゆ

かべ

さび

に雨樋はすっかり錆つき、死んだ虫の脚のように折れ曲がって、軒先からぶらさがってい よど

こ

る。それをまた海風が揺すり、雨樋が壁にぶつかって、かたん、かたんと寂しい音をたて にお

る。町から見おろす海は青黒く、潮の匂いは淀んで濃いけれど、港町の活気はここには足 おく

かざぶね

りゅうせい

ちくせき

らず、うねうねと続く街路を歩くヒトびとの足どりも、心なしか重たげである。 れいさい

 ソノは乗り遅れた町だった。風船航路の開発と共に隆盛となり、富に富を蓄積してさら ゆうち 

うんぱん

に勢いを増す、風船持ちの大商人たちの誘致が後手に回った。零細風船商人たちによる、

中型の風船の交易で運び込まれ、また運び出されてゆく商品の、陸路での運搬ルートと手 おく

段の確保にも後れを取った。規模こそ小さいがかつては活発な漁師町だったソノには、魚

あつか

や魚を原料とする加工食品の運搬の経験の蓄積こそあったものの、北大陸がほしがり、ま

たその見返りにと南大陸に売り込もうとする種々雑多な品々を取り扱うには、いささかノ よ こ 

こっとう

けんま 

ウハウが足りなかったのだ。食品と雑貨を同じ倉庫で管理することはできない。北の統一 ていこく

帝国の特権階級が風船商人たちに売って寄越した骨董家具は、デリケートな修復や研磨が

350

よ そ 

と まど

必要なものばかりで、手をかければ高価なものになると見当はついても、ソノの港の男た す

ちの無骨な手には余った。他所の町へ持ち込むにも、運び出す手順に戸惑っているうちに、 と

すなど

年に数度の商業機会を待ち受けて、感覚を研ぎ澄ましている風船商人たちに見限られ、や がて相手にしてもらえなくなってしまった。 かて

 もともと、正しい意味での〝海の男〟というよりは、漁る男たちであったソノの働き手 はな

や

たちは、海から糧を得ることができなくなったと見切りをつけると、散り散りになってソ

はんえい

きわ

ノを離れていった。残った者たちは、少しずつ痩せてゆくソノの町の経済に、すがるよう にして細々と暮らしを続けてきた。 かんし か 

ゆえ

めぐ

 だが、時を経て、ハタヤやダクラのような堂々たる工業港、商業港が繁栄を極め、当然 まわ

かんさつ

のことながら連邦政府の厳しい監視下に置かれ、統制を強められていったが故に、巡り巡っ とぼ

き

わた

うで

だれ

てこのソノの小さな港には、皮肉な役回りが廻ってきた。交易の鑑札を得ることができず、

元手も乏しく、連邦政府に顔も利かないが、海を渡る腕と度胸と山っ気だけは誰にも負け やみ

ないというもぐりの風船商人たち││闇のブローカーという言葉こそふさわしいヒトびと ちゅうかい

の必要を満たす役回りが。  密航の仲介である。 かく

 今では、それはソノの町の隠れた資金源となっていた。誰も知らないことになっており、 せま

また知らない者にはまったく届かぬ知識。しかし、必要に迫られて知ろうとする者には、

351

こっそりと裏口の戸を開けて招じ入れる、密航の仲介者と船乗りたち。内職というには大

規模すぎ、産業と呼ぶには後ろ暗いながら、町を生きながらえさせるために、ソノの港に いちまつ

とくしゅ

生きてきたヒトびとは、この役回りを演じるしかなかった。またそれには、他の町でも他

たたず

つぶ

の方法でも満たすことのできない楽しみと一抹のスリルがあるという、特殊な付加価値も あるのだった。 かた

ふ ぜい

たた

にぎ

こぶし

 肩を並べて海風のなかに佇む倉庫街は、道ばたで時間を潰しながら仕事が来るのを待っ

ている労働者たちのような風情を湛えている。そのなかに、ヒトの握り拳の形を商標とす いろあ 

えが

る小さな船会社があった。この会社の所有するたったひとつの倉庫の壁には、やはり同じ は め いた

し

かび

にお

まどわく

びんぼう

ふんい 

商標が、色褪せてなお目立つ黄色いペンキで描かれている。二階部分にある事務室は、壁 や

の羽目板に染みついた潮と黴の臭いと、がたついた窓枠のせいでひどく貧乏たらしい雰囲 き 

そう

キャプテン

・

・

気ではあったが、それを気に病む事務員は一人もいなかった。この会社の社長であり、や

はり一艘しかないオンボロ中型風船の船長でもあるアンカ族の老人は、港にもやってある

船のなかで生活している。他に家を買ったり借りたりする金の節約になるし、自身で船の う

手入れと警備をすれば、その経費も浮くからである。

 そして、事務員もおらず客の一人も寄りつかない事務室は、北大陸への密航を希望する かくま

南のヒトびとを、出航のときまで匿っておくための、たいへん便利な隠れ家として機能し

ていた。もっとも最初から、船長が望んでそうしたわけではない。誰かを匿うなどという

352

まえばらいきん

なんぎ 

作業は、実際にやってみるとかなり難儀なものである。できるならば、密航を望むヒトと

・

・

・

・

の話がまとまり、前払金を受け取ったなら、後はいざ出航というときに港で落ち合うまで たが

さび

さわ

ふ しん

とが

は、互いに顔を合わせずにいた方が快適だ。だが、そんなふうにして船出まで泳がせてお ろ けん

いた客が、寂れた町で騒ぎを起こしたり、挙動不審を咎められてブランチにひっぱられた かぎょう

じ ごく

うなばら

りして、話がおじゃんになるだけでなく、こちらの稼業まで露見しそうになるというアク とど

シデントを何度か経験して、船長は学んだ。いざ船に乗り込み、板子一枚下地獄の海原に

出てしまうまでは、客を自分の目の届くところに留めておく方が安全だと。

ひそ

 なに、いずれにしろ北へと出航できる時期は、年に三度か四度あるだけだ。年がら年じゅ と

う誰かを匿ってやらねばならぬというわけではない。しかもそのたびに、事務室が密かな

客を泊めるのは、せいぜいひと晩かふた晩、長くても四、五日のことである。各地の星読 こ

ぬ

みたちが、出航好適の合図を出してくれたなら、とっとと客を船底に押し込めて、大型風

船で混み合う沖合をするりと抜けてしまえばいい。それでオサラバだ。 ちが

 しかし、今回の客は少々勝手が違った。 おど

つの

 若い男だが、とにかくやたらに急いでいた。何が何でもできるだけ早く北へ渡りたいと、

脅すような口調で言い募るのだ。彼が船長のもとを訪ねてきたのは、まだ出航好適時機の

来る数日前のことだったのに、今夜にでも船を出せと迫るので、しまいには船長も腹を立 ててしまったほどである。

353

ふ

おこ

ぬす

 風が吹かねば風船は出せぬ。時期が来ても、港まわりを警備しているブランチの目を盗

いか

くる

まないとならないので、出航するタイミングも難しい。怒りながらも船長はそう説明し、 い す 

け

誰か他の仲介者をあたってくれと、男を追い出そうとした。すると男も怒り狂って、そこ たお

らの椅子だの壁だのをドカバカ蹴っ飛ばした挙げ句、倉庫から出ていこうとして、階段を ふ

ほう

あや

転げ落ちた。足を踏み外したのではなく、倒れてしまったのだった。興奮しすぎて目を回 してしまったらしい。

 船長は往生した。このまま道に放り出してしまってもいいのだが、近所で怪しい行き倒 か

かいじゅう

れが出れば、ブランチのハイランダーたちがあたりを嗅ぎ回ることになるだろう。ソノの かか

すべ

かたぶつ

町では、密航に関わっている船主や船乗りたちは、それなりにブランチを懐柔し、見て見

うかが

ぬふりをしてもらう術を心得ていたが、ハイランダーたちのなかには買収のきかない堅物 こわもて

がいるし、ソノのブランチも、他のブランチとのバランスをとり、首長の顔色を窺う必要

に迫られて、ときには抜き打ちで強面に出ることもあるから、油断ならないのだ。 かいほう

かか

 仕方ない。船長は失神している若い男を事務室に運び込み、介抱してやった。男は手荷 かみづつ

すずめ

くつ

物らしいものをほとんど持たず、ただ、紙筒みたいなものを後生大事に抱え込んでいるだ

けだった。ガリガリに痩せていて、着た切り雀の服はボロボロ。靴の底も抜けかけている

あと

し、足には豆がいっぱいできている。手にもロープでできたような切り傷の痕がたくさん いぶか

残っていた。山登りでもしていたのだろうかと、船長は訝った。

354

もど

 さらに不思議だったのは、この客がまだ意識を取り戻さないうちに、彼を訪ねて別の来 ま どうし 

い

たけ

訪者があったことだった。しかもそれはガキだった。星読みか、鉱山と工業の国アリキタ めずら

つえ

では非常に珍しい存在である魔導士みたいな出で立ちで、足首まで届く丈の長い黒マント

を羽織り、ごたいそうな宝玉のついた杖を手にしているが、逆さまにしてみたって、せい

ぜい十一、二歳の子供である。そして、やっぱり北へ渡りたいという。 う

﹁おまえさん、この男の連れかね？﹂

 船長の質問に、血の気の失せた顔で横たわっている若い男を横目に見ながら、そのガキ いっしょ

は答えた。﹁連れじゃない。ただ、この男と一緒にいれば、確実に北へ渡れると考えて追 いかけてきたんだ﹂

うぶげ 

 およそ親しみの感じられない口調だったから、本当に知り合いでも何でもないのだろう。 まゆげ 

かくにん

倒れた若い男を見ても、眉毛の一本も動かさなかった。いやいやこの子供の場合は、産毛 一本そよがせなかったと言った方が正しいか。 たず

うす き   み   わる

 金は持っていると、魔導士みたいなガキは言った。船長はそれを確認し、前払金を受け かせ

ね

取った。どうやって稼いだのか訊ねかけて、やめた。何だか薄気味悪かったのだ。

 連れではない知り合いではないと言いつつ、魔導士みたいなガキは、寝込んでいる若い

男の持っていた紙筒を勝手にいじり回し、中身を検分した。フンフンとうなずいている。 き

それは何だと船長が訊くと、あんたには関係ないと言う。生意気なガキだと言うと、それ

355

でも客だと言い返された。

 紙筒の中身は、何かの図面のようだった。少なくとも船長にはそう見えた。 だんぺん

も

 やがて若い男が意識を取り戻すと、魔導士みたいなガキは彼と何かひそひそ話を始めた。

から

事務室に食事や水を持っていくときに、船長はその断片を漏れ聞いたが、たいていはガキ の方がしゃべっていて、 こわ

﹁あんたのことはキョーオウから聞いた﹂ ﹁鏡は壊されるだろう﹂ ﹁あんたの目的なんかに興味はない﹂ だ

おそ

た ち う 

 そっけない口調で、そんなわけのわからないことばかり言っている。若い男の方は、身

体が弱っているせいもあってか、すっかり恐れ入り、ガキに太刀打ちできないようで、あ

るときなど、どうか自分も一緒に連れて行ってくれと、ぺこぺこ頭をさげていた。どうや た だ 

ら若い男は、船長に前払金を払ったことで、一文無しになってしまったらしかった。俺は あや

危うく無料働きをするところだったと、船長は苦り切った。

 こんな具合だったから、船長はいつにも増して注意深く、この客を事務室に留めておく

ことに心を砕き、目を離さなかった。ただ、ガキと若い男は、まったく外に出ようとしな

かったから、さほどの手間はかからなかった。それに、好んで接近したい相手ではなかっ

た。船長が何か話しかけるたびに、魔導士みたいなガキから、凍りついてしまいそうな冷

356

た

ふ ゆ かい

たい視線を向けられるのも不愉快だ。 ひ

ふところ

 薄気味悪さは、日が経つほどに増した。実は、魔導士みたいなガキの懐が温かそうなの たた

うば

と、彼の持ち歩いている杖があまりに立派であることに興味を惹かれ、船長の腹に、少し

ばかり悪い考えがかすめたことがある。ガキを叩きのめして、あの杖を奪っちまおう││ と。

さと

 もちろん、そんな考えは腹の底に収めて、顔には出さなかった。悟られるはずはない。

かべぎわ

だが、何度目かの食事を運んでいったとき、船長の目がつと壁に立てかけられた杖の方に そ まつ

向くと、事務室の粗末な備品のひとつである木の机が、いきなり壁際からずるずると動い こし

て、船長と杖のあいだに割り込んだ。誰が動かしたわけでもなく、ひとりでに動いたのだ。 船長は腰を抜かしそうになった。

 うふふと含み笑いが聞こえて振り向くと、ボロボロになってスプリングの飛び出したソ

ファに腰かけ、足をぶらつかせながら、魔導士みたいなガキが笑っていた。 とうとつ

﹁余計なことを考えない方がいいよ﹂ の

つぼ

こ 

 そう言った。と、またぞろ唐突に机がずるずると後退して、元あった場所に戻った。机

の上に載せてあった古いペン立てとインク壺が、はずみでころりと転げて床に落ちた。

あお

 壁際で、杖の頭についている宝玉が、最初は赤く、次に薄緑に、そして蒼く、最後に琥 はく

珀色にとまたたきながら色を変え、意味ありげに光った。

357

か

たた

に

 口のなかで、舌を噛みそうなほどの勢いで女神を讃える言葉を唱えながら、船長は逃げ

かぎ

かんぬき

出した。ありゃ本物の魔導士だ。とんでもない術士だ。くわばら、くわばら。 とびら

 こうして││今日で五日が過ぎた。

 船長は倉庫の扉を開けて中に入ると、しっかり鍵をかけ閂をかった。客を泊めているあ

いだは、いつもこうするのだ。そして二階の事務室にあがっていった。 にちぼつ

やっかい

 今夕、日没後に出航する。それを伝えに来たのだった。正直、ほっとしていた。あんな

客、とっとと厄介ばらいしてしまいたい。反面、あの不気味な魔導士のガキを乗せて海に

乗り出し、北大陸へ渡るまで、半月近くを一緒に過ごすことになるのだと思うと、気が重 おど

かった。わしももう、こんな暮らしから足を洗う潮時がきとるのかもな⋮⋮。

 階段の踊り場まで来たとき、頭上で﹁うぎゃっ﹂というような悲鳴が聞こえた。船長は

か

その場で凍りついた。ありゃ何だ？ 誰の声だ？ あのチビの魔導士が、またぞろ何かや いたばさ

しゅんじゅん

らかしとるのか？ 回れ右して階段を降り、逃げてしまおうという思いと、事務室まで駆 ど な 

けあがって怒鳴りつけてやろうという思いの板挟みになって、船長は逡巡した。と、もう くも

こ

ぱ み じん

ばくはつ

一度﹁わああ﹂という││今度は悲鳴というより、泣くような声だった││叫びが聞こえ

てきて、事務室のドアの、上半分にはめられていた曇りガラスが木っ端微塵に爆発した。 は

次にはドアそのものがばたんと外側に開き、壁にぶつかって跳ね返る。ガラスの破片が船 長のところにまでパラパラと落ちてきた。

358

ぼうぜん

ふる

 船長は呆然とした。もしも、ガラスの割れたところから、震えあがるような冷気が吹き

かみ

くちひげ

下ろしてこなかったなら、そのまま立ちすくんでいたことだろう。冷気に顔を洗われて、 は

とち

船長はようやく我に返った。這うようにして階段をのぼり、そのあいだに、顔や髪や口髭

つ

にくっついたガラスの破片を振り落とした。 ﹁い、い、今のは何だね？﹂ ゅう

 事務室のドアから、おそるおそる顔を突っ込んで、船長は訊ねた。が、その言葉は、途

中でくしゃみに変わった。痛いほどの冷気が鼻に飛び込んできたからだ。おお、寒い！  耳たぶが凍りそうだ！

おどろ

 魔導士のガキは、壁際に立って、片手を腰に、片手で杖を持って、何かを見ていた。ガ キの足元にうずくまっている││ かたまり

 氷の塊を。

 それはヒトの形をしていた。何かに驚き、きゃっと叫んで逃げ出しかけて、それが果た

せず、救いを求めるように片手を壁に張りつけて、そのまま凍りついてしまったというよ うな形だ。 ﹁こりゃ⋮⋮何だ﹂  船長の問いに、魔導士のガキは肩をすくめた。﹁あんたの客だよ﹂ ﹁あ、あ、あの、わ、若い男か？﹂

359

・

・

﹁そうだよ﹂ ・

・

 船長ははいはいする幼児のようになって、魔導士のガキの足元に這い寄った。

﹁い、いったいどうしたというんだね。何で凍っちまったんだ？ この寒さは何だ？﹂

 魔導士のガキを見あげて、船長は目を見開いた。﹁おまえがやったのか？ ま、魔法を かけて﹂ てんばつ

﹁僕じゃない﹂魔導士のガキはかぶりを振る。 ﹁そうだな⋮⋮これは、言ってみりゃ天罰ってところだよ﹂ ﹁天罰？﹂

まくらもと

﹁うん。きっと、デラ・ルベシに女神さまの審判が下ったんだろう。だからこの男も、逃 げても逃げ切れなかったってことさ﹂ すそ

ぐさ

 魔導士のガキはさっと黒マントの裾をはためかせ、あの若い男が寝ていたベッドの枕元 から、例の紙筒を取りあげた。 ﹁おまえさん、それ││﹂ ぼう

﹁こうなっちまったら、この男には宝の持ち腐れだ。僕が利用させてもらう﹂ ﹁だけど、そりゃ他人のものだぞ、坊ず﹂ しか

 船長は、思わず子供を叱る口調になった。が、ガキの魔導士はおよそ子供らしくない目 つきで船長を見やり、

360

ほ

﹁こいつだって﹂と、紙筒の先で氷と化してしまった若い男を指すと、﹁どこかからこれ を盗んできたのさ。褒められた話じゃない﹂と言い捨てた。 ﹁ところで、出航はいつなの﹂

﹁え？ ああ、今夕だ。本当は夜中の方がいいんだが、今夜は月がないから、あまり暗く てい

なると危険なんでな。ブランチの警備艇が周回パトロールを終わったころを見計らって船 出するよ﹂ ﹁あ、そう。ずいぶん待たされたよ﹂ こわ

 船長はガタガタと震えていた。寒いのと怖いのと、両方だ。 ほ

と

﹁この⋮⋮氷をどうしたらいい？﹂ ﹁放っときゃ、溶けて水になるよ﹂ いや

 しかし、元はヒトなのだ。﹁溶けたら、血が流れやしないかね﹂ ひ

たの

﹁そんな心配はないと思うけど、嫌なら僕が片づけてやってもいいよ﹂ のど

 船長はごくりと喉を鳴らした。喉が干あがっていた。頼むと言いたいが、言ったら何を ば れ 

されるかわからないという気もした。 ﹁ブランチに⋮⋮露見ねえか？﹂

﹁ブランチ？ ああ、ハイランダーとかいう手合いか﹂魔導士のガキはつまらなさそうに は

吐き捨てる。

361 あ

﹁そうだ。ここで手入れを食ったら、出航できねえ。あいつらを見くびると、えらい目に 遭うぞ﹂ あとかた

﹁心配ないよ。跡形もなくきれいに消してあげるから﹂

 にやりと笑う。船長はまた寒くなった。やっぱりこんな客、引き受けなきゃよかったと こうかい

いう後悔の念を噛みしめて││ そ

 そのとき、階下の出入口の扉を、閂が反るほどに強く叩きながら、大声で呼ばわる声が 聞こえてきた。

﹁おーい、船長！ そこにいるか？ いるなら開けてくれ。こちらはブランチの者だ。あ んたに訊きたいことがある﹂

 船長は魔導士のガキの顔を見た。自分でも、情けないほどにすくみあがっているのがわ じゃま 

かった。だが、魔導士のガキは落ち着き払っている。 ﹁どうやら邪魔が入ったようだ﹂  そう言って立ちあがった。 ﹁あんたの船は、すぐにでも出航できる状態になってるんだな？﹂ ﹁あ、ああ。準備はできてる﹂ ﹁じゃ、出かけよう﹂ ついせき

﹁しかし、ブランチに追跡されながら港を出ることはできねえよ﹂

362

だいじょうぶ

﹁大丈夫だよ。沖まで、僕が運んでやる﹂ かがや

 魔導士のガキが杖を手にすると、また宝玉が輝いた。 かいどう

 ワタルたちは、アリキタとボグの国境、関所に近い街道沿いの森のなかでジョゾと別れ みな

た。ジョゾはこのままソノの町まで皆を乗せて行くと申し出てくれて、一度は空を飛んで こ

国境を越えたのだけれど、小さな町の上をいくつか通過しただけで、下界でかなりの騒ぎ

が起こっていることに気づいたのだ。ドラゴンはただでさえ珍しい生きものだが、工業国 すで

よご

のアリキタでは、既にしてほとんど神話のなかだけの存在になっているらしい。ジョゾが きら

言うには、アリキタは南大陸の他の場所よりも空気が汚れているので、ドラゴンたちにも

嫌われていて、彼も彼の仲間も、ほとんど飛んできたことがないのだそうだ。ヒトびとの じんじょう

どうよう

驚き様が尋常ではなくとも、無理はない。

 それでなくても人心が動揺している昨今、余計なトラブルは起こしたくない。ジョゾを

りゅう

危険に巻き込むのも望ましくない。だからワタルたちは引き返し、ジョゾを龍の島へ帰し

て、それから関所に駆け込んだ。デラ・ルベシの実状から説明を始めていたらかえって手

間がかかってしまうので、出所は明かせないが確かな情報だと、例の倉庫の件を伝えて、

居合わせたカルラ族に、まずソノの町のブランチへ急行してもらった。そして自分たちも その後を追った。

363

れんらくいん

 ワタルたちがソノのブランチに着いてみると、指揮官の所長と連絡員一人を残して、既

に全員が問題の倉庫へと出向いた後だった。黄色い拳を商標とする風船会社は、アンカ族

の老船長が一人いるだけの零細会社で、これまでにも何度となく密航を仲介していた疑い

があるという説明を聞き、ワタルは事実を確認してむしろほっとしたが、キ・キーマは ちょっと苦い顔をした。どうしたのと小声で訊いてみると、 ひそ

﹁ここのブランチじゃ、今まで、よほどのトラブルが起こらない限り、たぶん、密航の仲

介を見逃してきてるんだよ。本音と建前の使い分けさ﹂と、声を潜めて教えてくれた。

ことがら

 そういうことはあるんだろう。ワタルだって現実の世界で、そういう事柄がニュースと して取りあげられるのを見聞きしている。

﹁でも、今度ばかりは全力でかかってくれるさ。首長命令なんだもの。ね？﹂ ﹁そうだな。うん、そうだ﹂

 さほど待たされることもなく、倉庫に向かったハイランダーの一人が駆け戻ってきた。

老船長の倉庫には誰もいない。ただ、二階の事務室にはヒトがいた形跡があり、しかも、

﹁信じられないような話だが、ヒトが凍ってるんだ。というか、ヒトの形をした氷の塊が あるんだよ﹂

 ワタルたちは顔を見合わぜた。ミーナがはっとたじろいで手をあげて、心臓のあたりを 押さえた。

364

﹁脱走者だわ⋮⋮﹂ ちょうばつ

 女神がデラ・ルベシに懲罰を下したとき、彼もまたそれを受けたのだ。どれほど遠く離 のが

な ぜ 

れようと、女神の怒りからは逃れることができなかったのだ。

 でも、そんなことができるならば何故、女神はわざわざ首長たちのもとに光臨し、逃亡

者を追って捕らえろと命じたのだ？ 彼を罰することができるならば、そんな必要はなかっ たはずじゃないか。  ワタルの胸が騒いだ。

﹁その事務室のなかに、見慣れないものは残されてませんでしたか？ 図面なんです。紙 の束かもしれないし、筒に入ってるかもしれません﹂

﹁さて⋮⋮なにしろ事務室のなかは散らかってるからな。とにかくうちのメンバーは、港 へ向かった。船長の居所がわからないし、風船を調べてみないと﹂

﹁じゃ、僕らは倉庫へ行って、探してみてもいいでしょうか﹂ワタルは所長に願い出た。 ﹁ああ、いいだろ││﹂

ろうきゅうか

 所長の言葉が終わらないうちに、突然、ブランチの建物全体が揺れ動いた。ここのブラ

ンチもまた材木とトタンを組み合わせただけの小屋で、かなり老朽化している。最初のひ

と揺れで、羽目板がびりびりと鳴った。揺れが続くと窓枠が外れ、床が波立ち、立ってい るのも難しくなってきた。

365

じ しん

﹁な、何だこりゃ﹂

 地震かと思った。が、窓枠にしがみついて外を見たミーナが、悲鳴のような声をあげて たつまき

皆に教えた。﹁竜巻よ！﹂

 ワタルたちは外に飛び出した。確かに竜巻だ。それもひとつやふたつではない。差し渡

しが五メートルから十メートルくらいの竜巻が、あちらにもこちらにも、まるでソノの町 ゆる

の空を支える風の柱のように、にょきにょきと立ち現れている。

 それらはひとつの方向を目指して、緩やかに移動していた。集合しようとしている。通

り道にあるソノの町の粗末で古びた建物を次々と打ち壊し、巻きあげてはまき散らしなが ら。向かってゆく。ひとつの目的地に。  海だ。 ﹁あっちが港なんですね？﹂

 ワタルは竜巻たちの行く手を指さし、風に負けない声を張りあげて問いかけた。ブラン チの所長が裏返った声で叫んだ。 よみがえ

﹁ああ、そうだ。このままじゃ風船が危ないぞ！﹂ ぬま

 ワタルの心に、トリアンカ魔病院での光景が蘇った。信者たちを巻き込み、密集したス なげ

ラの木々をなぎ倒し、ワタルを嘆きの沼まで運んでいったあの竜巻。ミツルが行使した風 の大魔法。

366

 港に、ミツルがいるのだ。 ﹁行かなくちゃ！﹂ とうかい

 ワタルが叫んだとき、ブランチの建物がべりべりと倒壊した。

 ソノの町のうねうねとした坂道を、港に向かって駆け降りながら、ワタルは見た。いく

つもの倉庫や住宅が屋根を飛ばされ、柱を倒され、窓が砕け、雨樋が折れて吹き飛ぶ。あ

お ば 

るものは倒れ、あるものは歪み、建物から飛び出してきたヒトびとが、頭を抱えて逃げま せんたくもの

うわごと

く

ねこ

どうのを。洗濯物がロープごと空に飛ばされ、あんぐりと口を開けてそれを見送る小母さ ま

なべ

の

かまど

んがいた。あたしのエプロン││と、譫言みたいに繰り返している。犬や猫も飛ばされて ざんがい

ゆく。植木が舞いあがる。お鍋を載せた竃が、そっくりそのまま宙をよぎってゆく。 たて

が れき

あっ

 通過した後に町の残骸を山積みにしながら、竜巻たちは進んでゆく。キ・キーマの大き

きょり 

な身体を盾に、ワタルたちはそれを追いかけた。竜巻が通り過ぎた場所には、瓦礫と、呆 け 

うずま 

はば

気にとられたヒトびとと、ぽかんとした静けさが残るだけだが、少しでも竜巻との距離を つ

ど こ 

かつ

詰めようとすると、渦巻く風に阻まれて、前を向いていることさえ難しくなった。それで

もキ・キーマは動じず、途中で何処かから外れて飛んできた木の扉を担ぎ上げ、それを器 よ

用に動かしては飛んでくる障害物を避けて、進路を切り開いてくれた。 ﹁俺につかまってろよ！﹂

367

 キ・キーマの大声は、風のなかでもよく通った。ワタルは身をかがめ、キ・キーマの腰

ふ とう

に両手でしがみつき、背中に頭を押しつけていた。ミーナがそれに続く。ミーナのしっぽ どう

はワタルの胴に巻きついていた。  港まであと一区画。坂の上から埠頭が見える││ や

 そこまで来たとき、唐突に風が止んだ。舞いあげられていたものすべてが、重力に引か あお

れてゆっくりと落下し始める。

せき

 ワタルは空を仰いだ。港の上空を。ミーナもそうした。キ・キーマも、まだ身体の前に かか

木の扉を担ぎ掲げたまま、呆然として上を見ている。 さんばし

 十数個の竜巻は、今、すべて海上にあった。港の桟橋のひとつにつながれた、一隻の風 ただよ

船の周囲に寄り集まっている。そして、すでに竜巻らしい形を失っていた。それぞれが、 な

かたむ

ぐるぐると渦巻く丸い風の塊となって、わずかに上下しながら漂っているだけだ。

 だから港のなかは凪いでいた。風の塊に包囲された風船は、マストの傾いた老朽船で、

横腹に描かれた黄色い拳のマークも、半分以上は消えてしまっている。あっちこっち錆だ ほ

もろ

らけだ。帆はたたまれ、帆柱だけが、すっかり落葉した貧相な立木のように突っ立ってい

る。しかし、その脆そうな船体をゆっくりと揺すっているのは静かな波の動きだけ。他の けいりゅうくい

桟橋や繋留杭に留め置かれた風船たちも、何事もなかったかのように、マストの旗をだら りと垂らしている。

368

 ワタルは、風の塊を従者たちのように従えた風船に向かって駆け出した。ミーナが続く。

ふしょく

ひと呼吸遅れて、キ・キーマも盾にしていた木の扉を放り出して、二人の後を追った。 すきま 

 桟橋も古びて、板と板のあいだが隙間だらけになっていた。そこから海が見えた。腐食

とも

してささくれ立った板のひとつに足をとられて、ワタルは桟橋の真ん中あたりでつんのめっ た。息を切らして立ち止まる。 ﹁ミツル！﹂  身体じゅうの力を集めて呼びかけた。 ひとかげ

 と、風船の操縦席の後ろの扉が開き、小さな人影が現れた。艫の方へとやってくる。

おきあい

 黒衣の魔導士。ミツルだった。片手に杖、片手を船端において、その顔には半ば驚き、 半ば笑っているような表情が浮かんでいる。 ﹁何だ、おまえか﹂

 波が桟橋を洗う音が聞こえる。竜巻のあいだ、恐れをなして沖合に逃げていた海鳥たち が舞い戻ってくるのが見える。 せ り ふ

﹁こんなところで何してるんだ？﹂ ﹁それはこっちの台詞だ！﹂

 叫び返したとき、操縦席の奥で、誰かの頭が動くのが見えた。きっと船長だ。 ﹁俺は見てのとおりだよ。風船に乗っているんだ。これから出航さ﹂

369

 ワタルのように叫んでも怒鳴ってもいないのに、ミツルの声はよく聞こえた。 ﹁北の帝国へ渡るつもりだっていうのか？﹂

とうめい

たま

ふう

 ミツルは答えなかった。まるで機械の調子を見るかのように、宙に浮いている風の塊の

群をぐるりと見回す。ついさっきまで暴れ回っていた竜巻たちは、透明な珠のなかに封じ

込まれてしまったかのようにおとなしく収まって、ただぐるぐると音もなく渦巻いている だけだ。 ﹁他に行き先があるのかよ？﹂と、ミツルは問い返した。

 ワタルは風船に歩み寄り始めた。一歩、二歩。ミーナとキ・キーマがついてこようとし さえぎ

たので、手で遮った。﹁どうして北へ行かなきゃならない？﹂ ﹁決まってるだろ。宝玉を集めるためさ﹂ あいづち

 ミツルの手のなかの杖のてっぺんで、そうですよねと相槌を打つみたいに、宝玉が光っ た。最初は赤く、ついで緑に、そして蒼く、次に琥珀色に。  四色だ。すでに四色。 けん

つば

 ワタルの勇者の剣と、ミツルの杖とでは、宝玉を集める仕組みが違っているのだろう。

勇者の剣は、集めた宝玉を鍔に収めてゆくことで成長してゆく。でもミツルの杖は、その

頭の部分に取りつけられた珠が、ミツルが新しい宝玉を見つけるたびに、そのエネルギー を吸い込んで力を増してゆくらしい。

370

﹁あとひとつなんだ﹂杖に目をやりながら、ミツルは言った。﹁残りのひとつは北大陸に ある。だから、どうしても行かなくちゃならない﹂

﹁先を急いでるから、デラ・ルベシの教王の頼みを聞いてるヒマなんかなかったってこと かい？﹂ ひとみ

 ミツルの黒い瞳が大きくなった。﹁へえ、それじゃおまえ、やっぱりデラ・ルベシに行っ たのか﹂ ﹁うん、行ったよ﹂ ひとよ 

まど

ま

す

﹁お人好しだなぁ。まさかと思ってたのに、ホントにあんな場所まで行ってやったのか﹂ ほろ

 からかうような口調に惑わされずに、ワタルは真っ直ぐミツルを見あげていた。 ﹁デラ・ルベシは滅びたよ。教王も死んだ﹂  ミツルは何も言わなかった。 ﹁脱走者も死んだ。生きながら凍りついて。知ってるんだろ？﹂ だま

 やはり黙っている。トリアンカ魔病院で再会したときよりもさらに長くなった髪が、潮 風になびく。

﹁おまえは脱走者と一緒にいたんだろ？ 彼が北へ渡ろうとしていると知って、利用しよ うとしたんだな？﹂ とら

﹁情報として捉えただけだ﹂と、ミツルは言った。﹁それに泣きつかれたしな。あいつ、

371

す

船長に前払金を払ったら、一文無しになっちまったんだって﹂

 ワタルはミツルの顔に視線を据えたまま、訊ねた。﹁脱走者の持っていた図面はどこに ある？﹂

 なぜかしら、ミツルは目を細めて頬笑んだ。それでわかった。返事になっている。

 ワタルは、風船の艫に向かって右手を差し出した。﹁返してくれ。今すぐ﹂ かんはつ

 間髪入れず、ミツルは反問した。﹁なぜ﹂

﹁そんなものが北の統一帝国の手に渡ったら、南大陸を危険にさらすことになるからだよ﹂ お か 

 ミツルの頬笑みが広がった。﹁可笑しなことを言うヤツだな﹂ ﹁可笑しくなんかあるもんか﹂ ﹁動力船の設計図なんかが、なぜそんなに危険なんだ？﹂ じ

 ワタルは焦れた。﹁知らないのか？ わからないのか？ そんなはずないだろ？﹂ ﹁北の統一帝国のことは、よく知らない﹂  ミツルは、わざとはぐらかしている。 ﹁この南大陸のことだって、知らないことの方が多い﹂

 つとソノの町に視線を飛ばす。自身の魔法の力でめちゃめちゃにしてしまった、佗びし い港町の光景を。 ヴィジョン

﹁だって俺は観光旅行に来たわけじゃないからな。〝幻界〟の国の事情に、いちいちこだ

372

いっぱい

せい

わってはいられないんだ。そんな時間はなかった。自分の旅の目的を追うことで、俺は精 一杯だったから﹂  そして、ちょっと笑った。

い じ 

﹁おまえはずいぶん寄り道してるみたいだけどな。何だよその腕輪は。この前会ったとき よ ゆう

かくご 

に気づいてたよ。それ、ハイランダーとやらの印なんだろ？ 〝幻界〟の治安維持のため がんば 

に頑張ります、か。余裕があるんだな﹂

 その言葉は、ミツルが意図した以上に、それどころかワタル本人が覚悟していた以上に、

ワタルの痛いところを突いた。もう迷ったりしないつもりだったのに、痛かった。

﹁北だの南だの、そんなことは知らない。興味もない。でもワタル、考えてみろよ。おま

えの大好きなこの南大陸に限ったって、たとえばこのアリキタは││﹂

 ミツルは軽く両手を広げた。船の艫に立って演説しているみたいだ。

﹁鉱山と工業の国だ。どちらも今はまだヒトの力だけで、すごく原始的な形で行われてる。

でも、やがては誰かが動力を発明するだろう。時間の問題さ。幻界だって進歩するんだ。

いや、進歩しなくちゃならない。そのために必要な要素を、どうしてそんなに忌み嫌う？﹂  ワタルはためらわずに答えた。

﹁それが幻界で生み出されたものであるならば、ミツルの言うとおりだよ。だけど、その うつしよ

設計図は違う。現世から持ち込まれたものだ。そんなのは間違ってるよ！﹂

373

す ばや

﹁なぜ間違ってるんだ？﹂

 素早く問い返されて、返事ができなかった。それを見越していたように、間をおかずに ミツルは続けた。

﹁ま、いいや。そんな問答をする気もないんだから。とにかく、俺はこの設計図が要るん だ。だからおまえに渡すことはできない﹂ ﹁何のために必要だっていうんだよ？﹂  ワタルは思わず、すがるような声を出してしまった。 おうかん

う

 応じるミツルは冷静だった。﹁皇帝ガマ・アグリアスⅦ世と取引するためさ。俺の求め いつ

つまさき

る五つ目の宝玉は、北の統一帝国の皇家に伝わる王冠に埋め込まれているんだ﹂

 ワタルは全身の血の気が引き、爪先から流れ出てゆくのを感じた。下を向けば、桟橋の かんむり

板の隙間から、自分の血がたらたらと海に流れ落ちてゆくのが見えそうだ。

﹁皇帝の冠だぜ。ただ頼んだだけじゃ、くれやしないだろうな。だから、向こうが飛びつ

いてきそうな取引の材料が必要なんだ。実を言うと、デラ・ルベシの教王に呼びかけられ いだ

しんらい

るまでは、何のあてもなくて困ってた。だから渡りに船だったよ﹂

 ミツルに対して抱いていた││抱いていたはずの信頼や親しみが、アルコールのように

し

蒸発して消えてゆくのを、ワタルは感じた。そして、心のなかで今までそれが占めていた もうれつ

位置に、新たに生まれた猛烈な怒りがとって代わった。

374

せ

﹁││向こうが飛びついてきそうな材料だって？﹂

﹁ああ、そうさ。北は南に攻め込みたがってるんだろ？ 俺も、その程度のことは知って るからさ﹂  ワタルの怒りが爆発した。

﹁それじゃおまえは、第五の宝玉を手に入れるために、南大陸のヒトたちを北の統一帝国

おもしろ

け ねん

に売り渡そうっていうのか？ おまえのやろうとしていることは、そういうことなんだ ぞ！﹂ き づか

 ミツルの顔から、からかうような、面白がっているような表情が消えた。不審と懸念、 さじ

それにほんのひと匙、ワタルを気遣うような色が、瞳に浮かんだ。

﹁三谷﹂と、ミツルはワタルを現世の名前で呼んだ。﹁おまえ、大丈夫か﹂

 本当に心配しているのだ。それが何故なのか、ワタルには見当がつかなかった。こいつ は何が言いたいんだ？

かなめのみとびら

﹁おまえの言ってることは、寝言だぞ。譫言だ﹂ ﹁違う﹂

﹁違わない。おまえは、自分が何のために要御扉を通って来たのか、忘れてるんじゃない

か？ ハイランダーになるためだったのか？ 幻界のヒトたちと仲良く暮らすためだった のか？ 違うだろ？﹂

375

こうべん

 今度は、ワタルが黙る番だった。出口のない抗弁が、ワタルの身体を内側から揺さぶっ て震わせた。

﹁おまえは自分の不条理な運命を変えるためにここに来たんだ。幻界は、俺たちの居場所

じゃない。運命を変えて、現世に戻れなければ、ここにいたって意味はないんだ。それこ かんじん

なっとく

そがいちばん肝心なことなのに、おまえはすっかり忘れてるじゃないか﹂  何も言い返せない。

 久しぶりに、ワタルは思い出した。父さんに叱られて、それが納得できなくて、自分の

言い分を並べて言い返すときって、いつもこんなふうだった。父さんは時間をかけてワタ くず

ルの足場を崩した。そして言い聞かせた。間違っているのはワタルの方なのだ。ただ、あ

まりに深くその間違いのなかにはまりこんでいるので、自分が間違っていることさえわか らなくなっているのだと、ワタルが認めざるを得なくなるまで。 ﹁目的を忘れてなんかいない﹂

 やっと、小さな声でそう言った。でもミツルには聞こえたようだ。というより、ワタル がそう言い返すと見抜いていたのだろう。 ﹁いいや、忘れてる。頭を冷やして、よく考えてみろよ﹂ か

 ミツルはため息をつくと、杖を左手に持ち替えた。

﹁悪いけど、俺は先を急いでる。おまえのために待ってはいられない。設計図が北に渡れ

376

しんこう

ば、侵攻が始まるのは時間の問題だ。南大陸は今でも混乱してるけど、それに輪をかけた

騒ぎが始まるだろう。宝玉をいくつ集めた？ 争乱が││いや戦争が起これば、今よりもっ と探しにくくなるぞ。早くした方がいい﹂

 むらむらと込みあげてくる思いを押し戻せずに、ワタルは言った。﹁ミツルが先に運命

の塔にたどり着いてしまったら、僕が宝玉を探す必要なんか失くなるんだ。残った一人は はんしん

〝半身〟になるしかないんだから﹂

 ミツルは艫から離れかけていたが、驚いたように向き直った。﹁〝半身〟？ 何のこと だ？﹂

 ミツルにも知らないことがあるのか。驚くと同時に、ワタルは皮肉な痛快さを味わった。

﹁〝大いなる光の境界〟を張り直すためには、現世からのヒト柱も必要なんだよ﹂

 興奮と混乱で、ワタルの説明はおよそ上手なものとは言えなかったけれど、ミツルの理 解は速かった。 ﹁そうか﹂と、短く言ってうなずいた。目を大きく見開いている。 ちんもく

 ひと呼吸するあいだだけ、沈黙が落ちた。海鳥が鳴く。

 ミツルは、いささかも口調を変えることなく、続けた。﹁だったら、なおさら急がなきゃ

な。俺とおまえは、ここまで来てはっきりと利害が対立したわけだ。この競争には勝ち負

けができたんだから、二人仲良くゴールインというわけにはいかない。お互い、運が悪かっ

377

たな﹂

 ミツルにどんな反応を期待していたのか、自分でもわからない。彼が動揺する様も、ま

してや怯えた顔など、どう頭をひねってもワタルには想像することができないから。

 だから今の返事は、他のどんなリアクションよりも、ミツルらしかった。ミツルは幻界 を旅して、より強く、よりミツルらしくなっていた。 なみだ

な ご 

ほこり

 涙が出てきそうになって、ワタルはまばたきをした。悲しいからじゃない。潮風のせい だ。竜巻の名残りの埃のせいだ。 ﹁ワタル﹂

 気がつくと、ミーナがすぐそばまで来ていた。キ・キーマもいた。ワタルは振り返った けれど、二人の顔をまともに見ることはできなかった。 ﹁今の話は⋮⋮本当のこと？﹂  ミーナの声は震えていた。ワタルは黙ってうなずいた。 つぶや

﹁そんなバカな﹂キ・キーマが呟く。あの大きな身体のどこから、こんなか細い声が出て くるのだろう。 ﹁俺は信じない。信じないぞ、ワタル﹂

 キ・キーマは大きく一歩踏み出すと、ワタルの肩をつかんで振り向かせた。 ﹁ワタルがヒト柱に選ばれるだなんて、そんなの信じないぞ﹂

378

 ワタルはキ・キーマの大きな顔を仰いだ。いつだって親切そうな、丸い目を仰いだ。

﹁でも、幻界のヒト柱のきまりは信じるだろ？ だったら、それと同じだよ﹂ ﹁同じじゃねえ！﹂

﹁同じさ。大勢のなかの一人か、二人のうちのどちらか一人だという違いがあるだけだ﹂ さと

 ワタルはキ・キーマの手を握った。﹁サーカワの郷の長老も、このことはご存じだった よ。だけど僕に、迷っちゃいけないって言ってくださった﹂

 とたんに、キ・キーマの身体が、ひとまわりもふたまわりも小さくなったみたいに見え たましい

た。魂が半分ぐらい抜け出してしまったかのようだ。 ﹁長老が⋮⋮﹂

 言葉が続かない。ワタルは心からすまなく思った。ごめんね、キ・キーマ。

﹁ワタルはそのことを、いつ知ったんだ？ どうして⋮⋮どうしてもっと早く教えてくれ なかったんだよ。俺たち、仲間じゃないか﹂ ﹁うん﹂

﹁このことを知ってたら、俺だってミーナだって、何がなんでも旅を急いで、ワタルが早 あふ

く女神さまに会えるように⋮⋮俺だってもっともっとワタルの役に立てたのに﹂ うる

 キ・キーマの目が潤んでいる。今度こそ本当に涙が溢れそうになって、ワタルはぐいと かぶりを振り、風船に向き直った。

379

﹁ミツル！﹂ ﹁まだ何かあるのか﹂ だ め お 

﹁もしも僕が││﹂

 どうしてこんな駄目押しの質問をするのだろう。答はわかりきっているというのに。

﹁今、南大陸の平和なんてことのためじゃなくて、ミツルが最後の宝玉を手にするのを邪

りん

魔するために、ミツルとの競争に勝つために、設計図を取り返しに来たんだと言ったら│ │それなら﹂ ﹁それなら？﹂ ﹁││どうするつもりだった？﹂

つらぬ

 ミツルはためらいを見せなかった。声も凛としたままだった。 ﹁おまえと対決した﹂  ミツルの視線は揺るがず、ワタルの瞳を貫いた。

﹁そして勝った。俺の方が強い。それはおまえもよく知ってるはずだ﹂ つば

 ワタルはうなだれた。たまりかねたようにミーナが飛んできて、ワタルの肩を抱きなが ら、唾を飛ばしてミツルに叫んだ。

﹁何よ、あんた！ それでも友達なの？ あんたにはヒトの心ってものがあるの？﹂

 ミツルはにこりともせず、無言のまま両手で杖を持った。ミーナには目もくれない。

380

﹁何とか言いなさいよ！﹂

じゅもん

 ミーナは泣き声になっている。ワタルはそっと彼女を押しやった。﹁いいんだよ、ミー ナ﹂ ﹁だって⋮⋮﹂ あおむ 

 ミツルは仰向くと、杖の宝玉を頭上に掲げた。呪文を唱え始める。ここからでは聞き取

ることのできないほど低い声だけれど、その様子はいかにも板について、堂にいっている。

 海の上に浮いていた風の珠が、騒ぎ始めた。ほどけて広がり、ひとつに集まってゆく。 ころも

うてな

すぐにそれは大きな風の衣と変じ、風船をすっぽりと包み込んでしまった。 のぼ

 ミツルの乗る風船が、ゆっくりと海面から浮きあがってゆく。風の台に乗り、しずしず と昇ってゆく。  ワタルは顔をあげた。艫から見おろすミツルと目が合った。 ﹁さよなら﹂と、ミツルは言った。

パ イ プ

おぼろ

 風の衣は大きくはためき、果てしない海の彼方へと延びる風の導管に変わった。ミツル すべ

を乗せた風船は、するするとそのなかを滑ってゆく。

 遠ざかる。小さくなる。そして、空と水平線がひとつになり、朧にかすんでいるあたり で、ふっと消えた。  行ってしまった。

381

﹁沖へ出たんだ⋮⋮﹂  キ・キーマは呆然としている。 あやつ

﹁あんなふうにして外海に出られちまったら、もうこっちの風船じゃ追いつけねえ。沖に

ひらめ

出てしまえば、たとえ魔法が切れたって、帆を上げて船を操って、北大陸まで一直線だよ﹂  ミーナの震える腕が、ワタルをぎゅっと抱きしめた。 ︵さよなら︶

 そう言ったとき、ミツルの瞳の奥底で、かすかな光が閃いた。それをワタルは見たと思っ

しょうげき

た。あれは火花だった。たった今得た〝半身〟の真実がどれほど衝撃的であろうとも、そ こく

の帰結する先がどれほど酷であろうとも、いやそれだからこそ、今ここで深く考え、判断

を保留すれば、動きがとれなくなってしまう。そう主張する心の半分と、いや立ち止まれ、

友達の言葉に耳を貸せ、友達を置き去りにすることはできないと、必死で説得する残りの 半分が、ミツルのなかで衝突して飛び散った火花。

 いや、違うか。あれはミツルの瞳の奥にあった光なんかじゃなかったかもしれない。ミ

ツルは正しい、僕は間違っていた、負けを認めようと折れるワタルの心の半分と、負けて

ない、僕は正しいと頑張る心の半分が衝突し、火花が出た。それがミツルの瞳に映っただ けのものだったのかもしれなかった。

382

ゆうやみ

 41 ガサラの夜      ガサラの町は夕闇に包まれていた。 きょだい

へい

はな

 町の出入口の大門は閉じ、ぐるりを囲む巨大な塀のそこここに、ぱちぱちと火の粉を飛 たいまつ

ばしながら、松明が燃えている。ワタルがここを離れたころよりも、松明の数がぐっと増 えていた。警備を固める必要が生まれたからだろう。 おとろ

 それでも、〝ハルネラ〟が引き起こした混乱の最中に、交易の町ガサラのなかでは、目 さわ

ゆうふく

め がみ

立った騒ぎは起こっていなかった。活気も衰えてはいない。ひとつには、ここの町はやは

も

り全体に裕福で、命ひとつしか女神に差し出すものがないというような貧しいヒトたちが 少ないからだろう。 こ

 もともとガサラでは、多くの種族が入り交じって商売に精を出し、町を守り立てていた。 わく

種族の枠を超えて、この町のヒトびとは、まずガサラのヒトであった。危機のときには、 しの

まずガサラの市民として行動することが、当たり前になっていたのである。 ていこく

 交易の町であるからこそ、北から老神教の教えが忍び入る機会が多いのではないかとい け ねん

う懸念があった。だが、裏返してみればそれは、北の統一帝国の実状についての情報も入 やす

り易いということでもあったのだ。だからリリスの町のように、〝ハルネラ〟が﹁アンカ

383

な

はば

あお

いんぼう

ヴィジョン

さかのぼ

族の救世主を亡き者にするための女神の陰謀である。老神教こそが〝幻界〟を救う﹂など

という世迷い事が幅をきかせ、それに煽られたアンカ族のヒトびとが、頭に血を逆上らせ

てしまうなどという事態も起こらなかった。北の統一帝国が、現状どんな様子であるのか。

亡命者や商人たちを通して、断片的であれ生々しい情報を知る機会のあったガサラのアン ほう

カ族たちは、老神教が国教として奉じられている彼の地でも、すべてのアンカ族が幸福に し らん

きじょう

安楽に暮らしているわけではないということを、実感としてよく知っていたのだから。

 そして何よりも、ここのブランチには、〝棘蘭のカッツ〟という気丈な所長がいた。そ

だれ

め

れがリリスとのいちばん大きな差だ。〝ハルネラ〟の真実に、彼女はけっして動じなかっ あらが

た。町のヒトびとが動ずることも許さなかった。幻界を守るため、女神が誰かをお召しに ぽこ

おび

なるのならば、なぜそれに抗うことがあろう？ 女神がお召しになるその者は、選ばれて あた

うった

使命を与えられるのだ。誇りを持ちこそすれ、怯える必要がどこにあろう。

 それでも不安を訴える者がいると、彼女は鼻先で笑い飛ばしてこう言った。 おくびょう

﹁フン、うぬぼれるんじゃないよ。女神さまはすべてお見通しだ。ヒト柱になりたくない、 かんじょう

死にたくないと泣き騒ぐような臆病者を、どうしてあてにするものか。あんたなんか、最 初から勘定に入っちゃいない。安心しな﹂ たと

 ワタルは物見台の上に立っていた。現世のビルに喩えれば、地上六階ぐらいの高さに相 はしご 

当するだろう。梯子をのぼるとき、ここの張り番は忠告してくれた。

384

ぼう

とちゅう

ほお

﹁坊ずがどうしても物見台のてっぺんにあがりたいというのなら、しょうがねえ。でも、 いったん梯子につかまったら、絶対に途中で下を見ちゃいけねえよ﹂ ﹁うん、わかった﹂ ﹁しかし、もの好きだねえ﹂ ﹁高いところが好きなんだ﹂ め まい

 忠告に従って、ワタルは途中で下を見なかった。無事に物見台にたどり着き、夕風を頬

たた

に感じて手足をのばしたとき、初めてあまりの高さに目眩を感じたけれど、しっかりと手 こし

すりにつかまって事なきを得た。 かた

さ

うでぐ 

 すぐ後ろにいる張り番は、腰にロープをたばさみ、銅板を叩いて丸めて作ったメガホン

にぎ

を肩から提げて、腕組みをしている。きっかり五分ごとに、東西南北へと視線を移す。一 ひ

日三交代で、こうして町を見守る。それが仕事なのだ。 ゆうげ 

にお

ただよ

 ガサラの町の無数の窓に灯がともる。宿屋や酒場からは、そろそろ賑やかな客たちの声 も

よご

は

が漏れ始めている。家々の窓から湯気が立ちのぼり、夕餉の匂いが漂う。ダルババ屋では、 か ら だ

わき

キ セ ル

だんしょう

ど こ 

身体を洗ってもらって長旅の汚れを落としたダルババたちが、ゆっくりと飼い葉を食んで どうたい

いる。その脇では、水人族たちが長い煙管でタバコをふかしながら談笑する。何処かで誰 げん

かが、調子を確かめるように楽器を鳴らしている。十五弦の、胴体のまん丸なギターに似 かどづ 

た楽器だ。流しの芸人が門付けの準備をしているらしい。

385

ゆうだい

ゆうひ 

 町の外に目を転じれば、ガサラを囲む雄大な草原が、視界いっぱいに広がっている。点

在する岩場。こんもりとした木立の集まり。すべてが夕陽に染まり、一日の終わりに安ら りょうひじ

の

あお

まがまが

いでいる。鳥の群が黒い点の集まりになって空を横切り、遠い森へと消えてゆく。

かがや

 ワタルは深く息を吸い込むと、両肘を手すりに載せて、夕空を仰いだ。 まがぼし

 北の凶星。 あか

 紅く、強く輝いている。それでも、この夕闇のヴェールのおかげだろうか、禍々しい光

が まん

みは

には見えない。手をのばして空から取り外し、ミーナにプレゼントしたら、きっときれい なペンダントになるだろう。 びしょう

 ワタルは星とにらめっこをした。まばたきをしない、我慢比べだ。ぐっと目を瞠ってい

もど

ると、凶星の方が先にまたたいた。何だか微笑を投げられたような気がした。何をムキに なっているんだね、君は？

 ソノの町でミツルと別れると、ワタルはキ・キーマとミーナと共に、このガサラへと戻っ おとず

てきた。迷うことはなかった。ヒト柱の一人となることが定まってしまった以上、後はそ ちか

のときを待つだけだ。それならば、幻界で最初に訪れたこの町、仲間たちに出会ったこの 町、ハイランダーの誓いを立てたこの町で待っていたかった。 だま

 ソノからの道中、ミーナはよく泣いた。キ・キーマは黙りがちで、そのせいかダルババ も元気がなかった。

386

たの

ゆ

 ワタルはミーナに、歌ってほしいと頼んだ。旅のはじめのころ、よくダルババ車に揺ら ふる

れながら歌ってくれたじゃないか。ミーナは承知して、きれいな声で歌い出す。でも、歌 なみだ

き

の一番も終わらないうちに、その声は涙でかすれ、震えて調子が外れてしまうのだった。

 そんなときは、ワタルが歌った。ミーナの歌を聴き、うろ覚えで覚えた歌を。あるいは、 うつしよ

現世で慣れ親しんだ歌を。 しんりょう

 ガサラに戻ると、キ・キーマはダルババ屋を手伝いながら、ハイランダーとしても警備

の仕事をした。ミーナは診療所の先生の助手をしている。ワタルもまたカッツの部下の立

場に戻り、キ・キーマと同じようにパトロールをしたり、トローン一人の手に余る書類仕 いそが

事を片づけたりした。 あら

﹁ここんところ忙しくてな。書類なんぞをかまってるヒマがなかったんだ﹂ め が ね

け げん

 トローンは陽気に言い訳をして、けっこう人使いが荒いところを見せた。何か察してい

るのか、眼鏡の奥で怪訝そうな目をしていることはあったが、口に出して問いかけてくる ことはなかった。

 戻るとすぐに、ワタルは、カッツにだけは、何から何までうち明けた。同情してもらお

うと思ったわけではない。だいたい、棘蘭のカッツはそんなにヤワじゃない。ただワタル きも

たま

は、自分がヒト柱として召されるときが来ても、周囲に混乱が起こらないように、誰より しんらい

も信頼できて、ワタルが知っている限りでは誰よりも肝っ玉の太いカッツに、すべて承知

387

しておいてほしかったのだ。

 思ったとおり、カッツはまったく動じなかった。﹁わかった﹂とひと言。そして、 めんどう

﹁宿屋暮らしじゃ何かと不便だろうし、あんたが召されるときに、周りに他人がうじゃう

じゃいるんじゃ面倒になる。ブランチの二階に、物置にしてる部屋があるから、そこを片 ね お 

づけて寝起きするといい。足りないものがあったら、トローンに言えば都合してくれる﹂  そう言っただけだった。

 あんたが召されるとき。カッツはそれを、﹁あんたが出かけるとき﹂と言うのと、まっ

たく同じ口調でさらりと口にした。またそれ以来、〝ハルネラ〟についてもヒト柱につい がた

ても、まったく何ひとつ語らなくなったことも、彼女らしい思いやりだろうと、ワタルは 有り難く思っていた。 こわ

かくご 

 物見台に登りたかったのは、できるだけ空に近い場所で、北の凶星を見ておきたかった

からだ。僕は怖がってない⋮⋮全然怖がってないわけじゃないけど、覚悟はできている。 うそ

それを伝えたかった。嘘かもしれない。本当は怖いのかもしれない。自分でもよくわから

なかった。だからこそ、北の凶星に伝えたかったのだ。伝えてしまえば、心の底が固まる。 そんな気がした。 そうぐう

 ソノで遭遇してから、今日でもう八日目になる。ミツルは北大陸に着いたころだろう。

どうあがいても、ワタルには追いつくすべはない。二引く一は一なのだ。そのことだけを

388

考えていた。いや、考えるように努力していた。だって、もうどうしようもないのだから。

 北の凶星が、ちらちらとまたたいた。その光に変化の様子はなく、輝きに衰えも見えな

い。〝ハルネラ〟は、まだ終わらないの？ いつ終わるの？ あとは幻界からもう一人選 ぶだけだというのに、手間取っているんだね。 ﹁おや﹂ めずら

ご よう

 物見台の張り番が声をあげ、梯子のそばに歩み寄ると片手を差し出した。 ﹁珍しいですね。何か御用ですか﹂ こ

くろかわ

むち

 カッツが登ってきたのだ。物見台まであと三段を残して、張り番の手にはつかまらず、 いりょく

ひらりと飛びあがると身軽に手すりを乗り越えた。腰から提げた黒革の鞭が、夕陽を浴び し げき

てつやつやと光っている。その威力のほどを知らない者には、カッツの服装とあいまって、 き ばつ

この鞭も、ちょっと奇抜で刺激的なアクセサリーにしか見えないことだろう。

か

﹁夕陽見物さ。あたしもたまにはロマンティックな気分になってみようと思ってね﹂ かみがた

 ワタルがガサラを離れているあいだに、カッツの髪形が変わっていた。刈りあげに近い

ショートカットだったのが、短めのボブカットのようなスタイルになり、それがよく似合っ そ

ている。黒ずくめの革のファッションに、右肘の肘あてと左手首のファイアドラゴンの腕 しんく 

輪が、真紅のアクセントを添えていた。 ﹁何さ、そんなポカンとした顔をして﹂

389

 片手を腰に、ちょっと首をかしげて、カッツはからかうように笑った。 ﹁あたしに見とれてるってわけかい？ なにを今さら﹂

 ワタルは赤くなった。実際、見とれていたのだ。ホントに今さらながらの話ではあるけ

れど、カッツは美人だ。幻界に来ることがなければ、ちゃんとした大人の女性で、しかも

こんな美しいヒトに出会う機会など、まだまだ訪れなかっただろうと、ワタルは思ってい いっしょ

た。

 一緒になって笑っている張り番の男に、カッツは言った﹁あたしはこの坊やと、ちょっ と話があるんだ。しばらくここを借りていいかい？﹂

﹁喜んで﹂張り番の男はうなずき、銅のメガホンを外すと、ワタルに差し出した。 ﹁それじゃ、こいつは坊ずに預けておくとしよう﹂ しら

﹁はい。何か見つけたら、大声で報せます﹂ ﹁おう、頼んだぜ﹂ ゆうば 

 張り番の男が梯子をおりていってしまうと、カッツはさっきまでのワタルと同じように、 いと

手すりに肘を載せた。愛おしむように目を細め、夕映えの草原を見渡している。 ﹁あんた、ここに登るのは初めて？﹂ ﹁はい﹂ なが

﹁いい景色だろ。あたしはここからの眺めがいちばん好きなんだ﹂

390

﹁僕も好きです﹂ きり

は

ふ ぜい

つ

﹁朝焼けもきれいだし、雨や霧のときも、それはそれで格別な風情があるんだよ﹂ ふ

かいたく

 カッツは首を振って前髪をさらりと撥ねあげ、手すりに腕を突っ張って夕空を仰いだ。

﹁あたしの生まれ故郷は、山のなかの小さな開拓村でね。段々畑と痩せた林に囲まれて、 そ まつ

粗末な小屋がひしめきあっていた。ガサラまで出てきて、初めてこのだだっ広い草原を見 つぶ

たときには、肝を潰したもんだよ。世の中はこんなにも広かったのかって﹂

 カッツの故郷の話を聞いたのは初めてだ。一人で村を出てきたのだろうか。何歳のとき？  何かはっきりした目的があったのだろうか。 い ごこち 

ちんもく

とうとつ

しゃく

その話は続かなかった。カッツは黙り、ワタルも黙って彼女と並んでいた。それはそれで 居心地のいい沈黙だった。 た

 かなり経ってから、カッツが唐突に口を開いた。﹁まったく、癪にさわるったらありゃ しない﹂

おこ

 誰のことを言っているのか、ワタルにはわからなかった。自分が怒られたのかと思った。 ﹁え？﹂ ﹁あいつさ﹂カッツは北の凶星を指さした。

つか

﹁宝石みたいにきれいに輝いて。あんなふうに空の高いところにいられたんじゃ、捕まえ てとっちめるわけにもいかないじゃないか﹂

391

 いかにもカッツらしい言いぐさだったので、ワタルは吹き出した。﹁カッツさんの鞭な ら、届きそうな気がするけど﹂

え

﹁やってみようか﹂と言って、カッツは腰の鞭に手をかけた。そしてにやりと笑い、ワタ ルの顔を見た。 しんけん

 その目は笑っていなかった。怖いほどに真剣だった。ワタルも笑みを消した。 かくにん

﹁あんた、本当に覚悟はできてるの﹂

 問いかけというより、確認するような口調だった。ワタルの返事はわかっている、と。 ﹁うん⋮⋮たぶん﹂ あきら

﹁諦めがいいんだね﹂ ふ

﹁そうかな。自分でもよくわからない。仕方がないって感じなのかも﹂ りゅう

 肩をすくめてポケットに手を入れると、指先に龍の笛が触れた。

﹁ガサラに戻って来る道中で、一度や二度は││ジョゾを呼んで、いちかばちかで、ミツ

わた

ルの後を追いかけようと思ったこともありました。ドラゴンに乗れば、北大陸に渡ること ま どうし 

もできる。でも、もしミツルに追いつくことができたって、勝つことができるとは思えな い。あいつはものすごく強い魔導士だ﹂ おく

 それにワタルは、宝玉の数でも後れをとっている。

﹁どっちにしろ手後れだ。これでいいんだって、そう決めたら心が落ち着きました﹂

392

うば

 カッツは腕組みをした。胸が豊かなので、革のベストの前がぐんと張り出し、彼女の腕

の上に乗っかるような感じになる。ワタルは目を奪われ、また赤くなりそうになった。そ ちが

れをごまかすためにも、急いで続けた。

﹁幻界からヒト柱に選ばれる誰かと違って、ものすごい人数のなかの一人じゃない。二人 のうちの一人です。だからかえってふんぎりがついちゃうのかな﹂

 カッツは何も言わない。ベストのポケットから紙巻きタバコとマッチを取り出すと、夕 風のなかで上手に火をつけた。 くわ

﹁それに⋮⋮詳しく話したことはなかったけど、そもそも僕が幻界に来られたのは、友達

の││もう一人の〝旅人〟であるミツルのおかげなんです。それだけじゃない。彼が助け

せん

に来てくれなかったら、僕はとっくに死んでた。現世でも一度。幻界に来てからも一度。 僕は彼に助けてもらった﹂

ゆず

 母さんがマンションでガス栓をひねったときと、トリアンカ魔病院でギロチンにかけら れそうになったとき。

は

﹁彼がいなかったら、とっくに落としていたはずの命なんです。だから、彼に道を譲るな らそれでもいいかって気がする﹂ けむり

 カッツはゆっくりとタバコをふかし、長々と煙を吐き出した。そして手すりに押しつけ がら

てもみ消すと、その吸い殻を指のあいだでもて遊んだ。

393

﹁あたしはね﹂ ま

す

 声の調子が、ちょっと変わった。目は真っ直ぐに草原を見ている。 こうべん

﹁あんたのそんな言い訳を聞こうとは思わないんだ﹂

 言い訳なんかじゃない、本当の気持ちですと抗弁しようとしたけれど、カッツの声の勢 いに押されて、割り込めなかった。

き

﹁ヒト柱になるのは怖くないのかとか、キ・キーマやミーナを悲しませることになっても

平気なのかとか、女神さまに会えないままでいいのかとか、そんなことを訊くつもりもな

い。あんたはこの幻界に、自分の運命を変えるためにやってきた。ヒト柱になってしまえ ねら

ば、その目的は果たせない。それでいいのかと訊くつもりもない﹂

 その腰に提げた鞭と同じ、ためらいのない強い言葉。狙いを定めてカッツは続けた。 しゅんかん

﹁あんたは現世にお母さんを残してきた。そのお母さんにも、二度と会うことはできなく

なる。今この瞬間にも、あんたの身の上を、死ぬほど心配してるに違いないお母さんだろ

あ

うに、彼女はもう永遠に、あんたの消息を知ることができなくなる。帰らぬあんたを待ち さび

たず

続け、残りの人生を寂しく棒に振ることになる。お母さんをそんな目に遭わせて、どうし てあんたは平気でいられるんだなんて、訊ねるつもりも全然ないよ﹂  訊ねてるじゃないか。ワタルの心に痛いことばっかり。 ﹁あんたは頭のいい子だ。勇気もある﹂

394

ほ

 怒った口調で、カッツは褒めた。

﹁だからあたしが何を訊ねようと、あんたはそれにふさわしい答を作りあげるだろう。今 なっとく

みたいにね。こっちがふむふむと納得するだけの、ちゃんとした答を用意することができ

るだろう。もともとあんたにはその必要があるんだし。他人よりも、まずあんた自身を納 はる

得させるためにね。そっちの方が、あんたにとっちゃ、遥かに切実なことなんだし﹂

 カッツはようやくそこで間をおいたけれど、ワタルには何も言うべきことが見つからな かったので、黙っていた。 あいいろ

 夕暮れが夕闇を差し招き、空の明るみが、藍色の夜の深みに席を譲り始めた。つい今し

す

方までは、輝くものといえば北の凶星だけだったのに、他の星々もぽつりぽつりと姿を現 している。 ま

 その空を背景に、カッツはワタルに向き直ると、ワタルの目を真っ直ぐに見つめた。

﹁それでもあたしには、まだたったひとつだけ、あんたに訊きたいことが残っている﹂  ワタルはたじろぎ、ちょっとだけカッツから離れた。 ﹁あんた、ミツルを放っておくつもりかい？﹂ ﹁放っておく？﹂ ﹁彼のやりたいようにさせておいていいのか、ってことだよ﹂

 ワタルはまばたきをした。意味がつかめない。カッツは何が言いたいんだ？

395

﹁どういうことです？﹂

﹁どうもこうもないさ！﹂カッツは片手でばんと手すりを叩いた。﹁そのミツルって子は、

やりたい放題やってるじゃないか。考えてもごらん。彼は何をした？ 何をしてる？ ト かいめつ

リアンカ魔病院でも、ソノの町でも、魔法を使って大勢のヒトを殺したり傷つけたりして

う ろ た

ぬ

あら

る。ソノの町も港も、その子の招いた竜巻のせいで壊滅状態だそうじゃないか。あんたそ れをどう思う？﹂

きょうしん

 ワタルはすっかり狼狽えてしまった。心が裏返しになり、ほつれた縫い目が露わになる。 ﹁だ、だけど﹂ ﹁だけど何さ？﹂

﹁トリアンカのときは仕方なかった。相手は老神教の狂信者たちで、ああしなかったら僕 ぬ

か

は殺されていたし、ミツルもあの結界のなかから抜け出すことができなかったし﹂

 それに、それに、ワタルは裏返しになった心のなかを駆けずり回り、言い分を探す。 めいわく

﹁みんなの迷惑になることばっかりやってるわけじゃない。マキーバの町で聞いたんです。

彼は魔法を使って、大きな山火事を消し止めた。放っておいたら大変なことになるところ だったんだ﹂

 でも駆け回っているうちに、ミツルがデラ・ルベシの教王の頼みをあっさりと退けたと

いうことも思い出してしまった。時間がない、と言い捨てて。しかも彼は、デラ・ルベシ

396

すぐ

おんわ 

の脱走者の後を追いかけたのに、捕まえるどころか、彼に便乗して北へ渡ろうとした││

﹁それほどの優れた魔法の使い手なら、トリアンカ魔病院でもソノでも、もっと穏和なや

こわ

り方があったはずだ。幻界のヒトたちを傷つけたり殺したりせず、町を壊すこともなく、

ひ

つ

先に進む方法を選ぶことだって、きっとできたはずじゃないか。どうしてそうしなかっ た？﹂ きつもん

 カッツの詰問に、ワタルはよろりと一歩退いた。カッツは間を詰めてきた。

﹁あんたに代わって、あたしが答えてあげるよ。それはね、ミツルって子が、幻界なんて とう

どうなってもいいと思ってるからだよ。運命の塔にたどり着き、女神さまに会って目的を と

遂げたら、それでオサラバだからね。二度と足を踏み入れることなんかない。だから、誰

を傷つけようが困らせようが、知ったこっちゃないと思っているからさ。自分が通り過ぎ はいきょ

た後に死体の山ができようが、廃墟がいくつも残ろうが、おかまいなし。手っ取り早い方 法を選んで、とっとと先に進めればいいと思っているからさ﹂  カッツの手が伸び、ワタルの肩をつかんだ。

﹁あんたはそれでいいの？ あんたは、そのやり方が正しいとお思いかい？﹂  正しいとか⋮⋮正しくないとか⋮⋮そんなこと⋮⋮

﹁ミツルは友達なんだ﹂と、ワタルは小さな声で言った。心を底までさらっても、その答 しか見つからなかった。

397

﹁あたしはそんなことを訊いてるんじゃない。ミツルのやり方を、あんたは許せるのかと 訊いてるんだ﹂

 ワタルをぐいと押しやるようにして、カッツは手を放し、背中を向けた。ワタルはまた よろめいて、手すりに背中を押しつけた。

なきがら

﹁北へ渡っても、ミツルって子は同じやり方を続けるだろうよ。通り道に障害物があれば、 が れき

根こそぎ壊して道を開ける。瓦礫の山をこしらえて、ごろごろ転がるヒトの亡骸をまたい で先に進むんだ。運命の塔を目指してね﹂

﹁だ、だけどミツルは﹂ワタルは途切れ途切れに言った。﹁そうしなきゃいられないくら つら

い、自分の、う、運命を変えたがってるんです。あまりにも辛い運命だったから、どんな ことをしても変えたくて。それは僕より││僕よりずっとずっと﹂ ま

あ

 カッツは髪が舞うほどの勢いで振り返った。﹁だったら、どんな手段をとってもいいっ

ていうのかい？ 許されるっていうの？ 自分がひどい目に遭って失ったものを取り返す

ほこり

ためなら、他人はどうなってもいいと？ もう一度訊くよ。あんたはそれが正しいと思う のかい？ それを許すの？﹂

 ワタルの心の底には、もう埃さえ残っていない。何も答えられない。 きょうい

﹁北の統一帝国は、確かに今のあたしたちにとっては脅威だよ。だけど、あの国にだって、

たくさんのヒトたちが暮らしてるんだ。皇帝のやり方に賛成してるヒトたちばかりじゃな

398

しいた

り 

い。虐げられて、苦しんでるヒトたちだって、きっといるはずだ。あんたはさっき、トリ

アンカじゃ仕方なかったって言ったね？ 相手が狂信者たちだったんだからって。その理 くつ

いか

屈をあてはめるなら、北のヒトたちがどんな目に遭ったって、やっぱり仕方ないってこと かい？ 相手が相手なんだからって﹂ こ

いっつい

ふたご 

 夕闇が濃くなっていた。いつの間にか、空には満天の星だ。その下で、カッツの怒れる ひとみ

瞳もまた、一対の双子星のように輝いていた。

﹁ミツルの求める最後の宝玉は、北の皇帝が持ってるんだろう？ ミツルはえらく頭の切 えさ

れる子らしいから、動力船の設計図を餌に、上手に皇帝と取引して、自分の目的を果たす せ

んだろうさ。ミツルも幸せ、北の皇帝も幸せ。めでたし、めでたし。でも、その後はどう

なる？ 動力船を造って、北は南に攻め込んでくる。戦争が起こる。大勢のヒトたちが死 かか

ぬ。それは正しいことかい？ あんたはそれを許せるの？ ここで黙ってじっとして、頭 を抱えて見ないふりをする？﹂  ワタルはようやく、カッツの顔を仰いだ。 た

﹁カッツさんは、僕にどうしろって言うんです﹂

 そしてまた、耐えられなくなって目をそらしてしまった。カッツはわずかに両肩を落と した。

﹁あんたはそれを、あたしに訊くの？ あんたの心に訊くべきことなのに﹂

399

 僕の心に。答は僕の心にある││

 また手すりに両手を載せ、遠くに目をやりながら、カッツは言った。﹁あんたはミツル

こいびと

は友達だと言った。だけどねワタル。友達だって、肉親だって、恋人だって、正しくない

ことは正しくないんだ。あんたの心が、それは間違っていると感じたなら、あんたにはそ の心に従う義務がある﹂ にぎ

 カッツのほっそりとした指が、きつく手すりを握りしめている。 ﹁あたしは昔、自分の愛したヒトと対立したことがある﹂  唐突な告白だった。うなだれていたワタルはカッツを見た。 おそ

しょうこ

﹁もう十年以上も昔のことだけどね。ある男がいた。ヒト殺しだった。自分の欲のために、

大勢のヒトを殺した。だけど恐ろしくずるがしこい男でもあったから、はっきりした証拠

を残さなかった。周りのヒトたちのことも、舌先三寸の嘘で言いくるめていて、だからあ たしたちは、そいつのしっぽをつかむことができなかったんだ﹂

わな

 だがあるとき、貴重な機会を得て、カッツたちはそのヒト殺しを罠にかけた。

うれ

﹁後にも先にも、二度とないようなチャンスだった。あたしがどれほど嬉しかったか、言 葉で説明したって伝わらないだろう﹂ ゆうはつ

れんぽう

 ところが、ようやく裁判に持ち込めるというところまできて、カッツたちは告発された。 し か 

罠を仕掛けて犯罪を誘発するやり方は、連邦政府の法に反していると。

400

も

い ほう

おとりそ う さ  

しゃくほう

ばつ

﹁揉めに揉めたよ。それで結局、そのヒト殺しは釈放された。ああ、そうさ。確かにあた

あざ

したちは、違法な囮捜査ってやつをやったんだ。ヒト殺しにふさわしい罰を与えるのに、 わら

ろうや 

ごうとう

みなごろ

それしか方法がなかったからだ。だけども、それは間違いだと言われた。あたしたちを嘲 笑いながら、ヒト殺しは大手を振って牢屋から出ていった﹂ と

 そして、十日も経たないうちにまたヒトを殺した。商家に強盗に入って、一家を皆殺し つ

しば

にしたのだ。今度は悪運も尽きたのか、その場で捕らえられた。

﹁そいつがどうなったかって？ 縛り首になったよ。だけどね、もしもそいつを釈放しな

かったなら、最後の強盗殺人は起こらずに済んだろう。たとえ違法でも、あのときはああ さと

することが正しかった。あたしは今でもそう信じている﹂

 ワタルははっとして悟った。﹁もしかして⋮⋮カッツさんたちを告発したのは﹂ き し 

ゆうげき

 カッツはうなずいた。﹁ボリス・ロンメル。あのころは、あたしと同じハイランダーの

一員だった。今じゃシュテンゲル騎士団遊撃隊の隊長になっちまったけどね。あんたも会っ たことがあるだろ﹂

 トローンが言っていた。カッツは昔、ロンメル隊長にフラれたことがあると。

﹁ボリスは法を尊んだ。議会もあのヒトを支持した。ブランチの首長たちも、彼の意見を い

は

受け容れた。だけどあたしは││あたしはヒトの命の方が大切だと思った。確かにあたし そむ

は法に背いた。だけどもそれを恥じてはいない。だから、あたしを告発したあのヒトを、

401

どうしても許すことができなかった。そして、あのヒトもあたしを許さなかった﹂  だから二人は別れたのだ。

はし

﹁カッツさんは、ロンメル隊長が好きだったんでしょう？ 二人は好きあってたんでしょ う？﹂ ・

・

・

 カッツはワタルに目を向け、くちびるの端っこで、そっと微笑した。﹁そうだよ、だけ ・

ど、それでも許せない、許さないということはある。あたしは今でも、あのヒトが、あの

不運な商人一家を殺したも同然だと思っているよ。ボリスはボリスで、今でもあたしのし

たことが間違っていると信じているだろう。あいつはそう簡単に、自分の信念を曲げる男 じゃないからね﹂  だけど今でも││きっと好きなんだ。

﹁ボリスの側から見れば、あたしの方が間違っていた。だから彼は、自分が正しいと信じ

ることをした。どっちの側にも真実がある。結局は、その真実を、どっちの側から見るか

というだけのことに過ぎないのかもしれない。あたしは譲れなかったし、ボリスも譲らな

かった。あたしは彼が譲らないだろうことを知っていた。この世の誰よりも、ボリスのこ

とをわかっていたから。ボリスも、あたしのことをわかっていた。あたしが譲らないだろ

うことを知っていた。だからこそ彼は、あたしを告発することに、ためらいはしなかった。 あたしを止めるには、それしか方法がないことを知っていたから﹂

402

あお

えいち 

たた

 ロンメル隊長の蒼い目を、ワタルは思い出した。ワタルの瞳の底まで見通してしまいそ おも

うな、深い落ち着きと叡智を湛えていた。カッツの燃える黒い瞳と、隊長のあの瞳がぶつ たが

かって、互いに譲らなかったというその場面を想うだけで、ワタルの心は波立った。 ﹁ワタル﹂

 カッツは音もなくワタルに近寄ると、身をかがめ、今度は両手をワタルの肩に置いた。

﹁ミツルはあんたの友達だ。きっと大切な友達なんだろう。だけど、それでも、もしもあ

んたがミツルのやり方を許せないと思うのならば、あんたは行動しなくちゃいけない。黙っ

ていてはいけないんだ。わかり合えることなんか期待しちゃいけないけど、諦めてはいけ

ないんだ。あんたが許せないと思うのなら、許せないということを伝えなくちゃいけない﹂

とばり

 だから訊ねているんだよ、あんたはミツルを許せるのかと││カッツはそう言葉を結ん で、身体を起こした。 たたず

まざま 

 いつしか、草原は夜の帳に包まれていた。燃える松明は地上の星に、天上の星は空に散 か け ら

らばる無数の光の欠片に変じ、物見台に佇むカッツとワタルは、その狭間で二人ぼっちだ。 ﹁僕は﹂  長い、長いためらいの後、ワタルは言った。 ま ね 

﹁ミツルにあんな真似をしてほしくはない。運命の塔にたどり着くために、幻界のヒトび

とを苦しめるようなやり方をしてほしくはない。だってそれは⋮⋮それは間違ったことだ

403

もの﹂ かげ

 見る影もなく破壊されたソノの町。 じゃま 

ひきょう

﹁だけど⋮⋮だけどそれを言うのは⋮⋮卑怯なような気がしてた。自分が負けたくないか

ら、ミツルを邪魔しようとして、その口実になるものを探しているみたいな感じで﹂

﹁それは間違いだ﹂と、カッツは静かに言った。﹁そんなのは、あんたが自分で自分を諦

ののし

めてしまうための、言い訳に過ぎない。ミツルにあんな真似をさせたくないのなら、ミツ

ルが間違っていると思うのならば、ミツルにどう思われようと、たとえ卑怯だと罵られよ うとも、あんたはミツルを止めなくちゃいけない﹂ ﹁友達だから？﹂ ﹁いや、違う﹂カッツはきっぱりと首を振る。 ﹁あんたは大切なことを忘れているね﹂ ﹁大切なこと？﹂  カッツはワタルの左手をつかむと、高く持ちあげた。 ﹁あんたがハイランダーだということさ﹂  一度、二度、強く揺さぶりながら言った。 さきもり

﹁あんたは誓いを立てた。幻界の平和を守り、護法の防人として立つことを。それならば、

幻界の平和を乱すものを放置しておいてはいけないんだ。見て見ぬふりをするならば、あ

404

んたにはファイアドラゴンの腕輪をはめる資格はないのだから﹂

ぬく

 星の光に、ファイアドラゴンの腕輪がかすかに光った。気のせいだろうか。また温もり

たたか

を感じる。リリスのシスティーナ聖堂で、ダイモン司教と、命がけで闘ったあのときと同 じように。

﹁あんたが〝旅人〟であることも、ヒト柱の一人に召されることになるかもしれないこと

も、ミツルがあんたの競争相手となってしまったことも、今はもう何の関係もない。あん

さけ

たはハイランダーだ。だったら、女神さまに召されるそのときまで、あんたの命が尽きる

か

瞬間まで、ミツルを追いかけ続けなくてはならない。そして、声を嗄らして叫び続け、ミ

ツルに呼びかけなくてはならない。ミツルが彼の目的のために、平然と破壊し、踏み潰し

て通り過ぎようとしているものの価値を訴え続けなくてはならない。彼が間違っていると

いうことを、あんたが彼のやり方を許しはしないということを、伝えなくてはいけない。 彼を止めなくてはいけないんだ﹂ なつ

 ふと、懐かしいような甘い気持ちで、ワタルは思い出した。ルルドの天文台で別れると

き、ロンメル隊長はこう言った││カッツと同じようにワタルの肩に手を置き、ワタルの 目を真っ直ぐに見て。

 ││君は〝旅人〟だ。君がまっとうするべきは、君の使命だ。それを忘れるな。

おさ

 ││棘蘭のカッツも、きっと私と同じ意見を持っているはずだ。彼女は君の長だ。今の

405

言葉は、彼女の命令だと思って聞いてほしい。

ほほえ 

 違っていた。カッツの想いは別のところにあった。彼女は最後の最後まで、ワタルにハ イランダーとして行動してほしいと願っているのだから。

 あなたたちはまたすれ違っている。どちらも正しいのに、正しいままで。何だか微笑ま

しいような、それでいて悲しいような。ワタルはまぶたが熱くなるのを感じた。こんなに

もすれ違い、でもあなたたちは、そっくり同じ目をして僕に問いかけてくる。

 問題は、ひとつの真実をどちらの側から見るかということ。そして僕は、どちらの側に

立つ？ ワタルはカッツを見あげ、大きくうなずいた。カッツは微笑み、うなずき返した。 ﹁あたしと││あたしたちと一緒に、北へ渡ろう﹂  計画があるんだ、と言った。 ﹁あんたの力が必要だ。手を貸しておくれ﹂

406

 42 深夜の会話     ゆ

い ねむ

ぬ

あまつぶ

 夜の雨に、番人たちの小屋を囲む森の木立がしとしとと濡れている。大きな雨粒に頭を たた

叩かれて、時折こくりと揺れる木の葉は、居眠りでもしているかのようだ。まだ起きてい

なくてはいけない。まだ眠り込むわけにはいかない。なぜなら、小屋のなかでは導師さま

が起きておられるから。森の木の葉たちは、ラウ導師が眠りにつくまで、こっくり、こっ こ もりうた

くりしながら付き合っている。雨音を子守歌にして。 じく

め が ね

の

 ラウ導師は机に分厚い書物を何冊も広げ、軸の長いペンを片手に、熱心に書き物をして すべ

いた。頭のすぐそばまでランプを引き寄せ、鼻先には小さな丸眼鏡を載せている。 ゆ えん

せま

 静かな小屋のなかに、ペン先が紙の上を滑ってゆく音が聞こえる。ランプの灯心がじり りと燃えて、油煙が立ちのぼる。 だれ

 不意に、誰かに呼びかけられたかのようにつと手を止めて、ラウ導師は顔を上げた。狭 たたず

い小屋のなかではあるが、ランプはさらに小さい。それが作り出している光の輪の外、ぎ りぎりの境界のところに、誰かが佇んでいた。 こ

 ラウ導師は鼻眼鏡を外し、目を凝らした。 ﹁オンバさま⋮⋮﹂

407

み ぶる

あわ

 導師に名を呼ばれると、その﹁誰か﹂は小さく身震いするように笑った。光の輪の境界 線から、さらに半歩ほど後ずさる。 おどろ

ようせい

﹁そんなに驚かなくてもいいでしょう？﹂

すみ

すそ

 甘い少女の声だった。ワタルが〝妖精〟を連想し、そのくすぐったいしゃべり声に、淡 あこが

い す 

い憧れを寄せたこともあった相手││ ﹁しかし、そのお姿は﹂  ラウ導師はペンを置き、椅子を引いて立ちあがった。 かく

﹁似合わない？ ヒトの形を借りるのも、たまにはいいかと思ったの﹂ うすくら

こわ

たた

ヴィジョン

 薄暗がりに隠された小屋の隅で、オンバさまはぐるりと回ってみせた。スカートの裾が ふわりとふくらんだ。 きゃしゃ

みにく

 ほっそりと華奢で、壊れ物のような美を湛えた少女の姿である。服装からして〝幻界〟 のヒトではない。 ふ だん

﹁あたしだって、普段、好き好んであんな醜い姿になってるわけじゃないもの。たまには てんかん

気分転換したいのよ﹂ ﹁その少女のお姿は、どこから借りてきたものでございますか﹂ とう

﹁運命の塔にいたの﹂ うつしよ

﹁それでは、現世の者でございますな﹂

408

﹁そうね。きっとあの子の友達よ﹂

ほお

 オンバさまは言って、かりそめの姿のかりそめの右手を上げると、かりそめの自分の頬 ふ

に触れた。

﹁ガールフレンドなのかしら。ともかく、あの子││ワタルがずっと気にかけてる女の子 だわ﹂ だま

 オンバさまの気持ちをはかりかねて、ラウ導師は黙っていた。

みょうあん

﹁この姿でワタルの前に現れたら、あの子もわたしのこと、もっと好きになると思いませ ん？﹂ おだ

 ラウ導師は穏やかに言った。﹁あまり妙案とは思われません﹂

﹁そう？ わたしはただ、あの子を喜ばせたいと思っただけなんだけど﹂

 喜ばせてやれば、自分の味方になると思っているのだろうか。ラウ導師は思った。ヒト

の気持ちはそれほど簡単なものではない。このお方は、まだそれがおわかりになっておら れない。

﹁けっこう気に入ったわ、この姿﹂オンバさまはもう一度くるりと回ってみせた。今度は

さっきと逆回転だ。スカートの裾がひるがえる。しかしラウ導師には、オンバさまの心も かろ

同じように軽やかにはずんでいるとは思えなかった。 ちんもく

 沈黙が落ちると、雨音が聞こえる。

409

﹁あの子、北へ行くわよ﹂と、オンバさまは言った。

 教えられるまでもなく、ラウ導師は知っていた。幻界じゅうの鳥たちが、手分けして しら

〝旅人〟の様子を調べ、間断なく報せにきてくれるからである。

おお

﹁とうとう、そこまでたどり着いたってわけよ。運命の塔まで、あと一歩ね。いよいよ大 づ 

詰めだわ﹂

 ラウ導師はゆっくりと応じた。﹁そこから先の道のりこそが、本当の試練です﹂ りんかく

まどぎわ

 オンバさまもそれはよくご存じでしょうと続けたが、相手は聞いていないようだった。 ふ

光の輪に踏み込まないよう、注意深く輪郭の外を歩いて、窓際へと寄ってゆく。 きら

﹁よく降る雨だこと。わたし、雨は嫌い﹂ こ

 ほの温かいランプの光の輪のなかからオンバさまの横顔を見ていると、ラウ導師の心に あわ

は、悲しみと憐れみばかりがひたひたと込みあげてきた。

﹁あなたはどちらの味方なの？ ミツル？ それともワタル？ どちらに勝たせたいと思っ ているの、導師さま﹂ めいおう

﹁〝旅人〟の道行きに、勝ち負けの差はございませぬ﹂ ご さいだん

﹁だけど、どっちか一人はヒト柱に選ばれて、冥王にならなきゃならないのよ﹂ め がみ

﹁それも女神さまの御裁断によるものです﹂ ﹁いつもそうやって、何でもあのヒトが決めてしまうのよね﹂

410

まどわく

 オンバさまは言い、かりそめのヒトの美少女の手で窓枠をぐっとつかんだ。

﹁まあ、わたしはどっちだっていいんだけど。ワタルが勝っても負けても、わたしの気持

いっしょ

ちは変わらないもの。あの子が冥王になるなら、わたしは女神さまになるわ。そして一緒

に幻界を治めるの。あの子が現世へ帰るというのなら、わたしはこの姿のまま、あの子に ついて現世へ行ってもいいわ﹂ あ

ま かい

せ

ほろ

 もうこの幻界には飽き飽きしたのと、オンバさまはくたびれたみたいにため息まじりに 言うのだった。 あふ

﹁いっそのこと、今度こそ〝魔界〟に攻め滅ぼされてしまったって、いいじゃないの。現 こんとん

ふち

かく

しず

世のヒトたちの溢れる想像のエネルギーは、また新しい幻界をこしらえることでしょうよ。 す てき

混沌の深き淵には、未分化の幻界の核が、たくさん沈んでいるんでしょう？ そのひとつ

もど

が成長して花開いて、まったく新しい幻界となる。素敵だわ﹂ ﹁本心からそう申されますか？﹂ ﹁ええ、本心だわ﹂ ふ

 ゆるゆると首を振りながら、ラウ導師は椅子に戻った。ランプに手をのばし、灯心を引 き出そうとしかけると、 するど

﹁やめて！﹂と、鋭い制止の声が飛んできた。 あか

﹁灯りを大きくしないでちょうだい﹂

411

﹁今のそのお姿を気に入っておられるのではないのですか﹂ つら

﹁気に入ってるわ。でも、見たくはないの﹂ はな

ひざ

ひとみ

さと

 元に戻ったとき、なおさら辛くなるからだ。言外の意味を、ラウ導師は悟った。ランプ から手を離すと、膝の上に載せた。 ﹁わたし、戦うわよ。そして今度は勝つわ﹂ こ よい

 ランプの灯りの届かない場所で、オンバさまの瞳が光る。

﹁今宵は、それを告げるためにおいでになったのでございますかな？﹂ ﹁ええ、そうよ﹂ ﹁わざわざ？﹂

﹁そうよ。今度こそ、あなたたちの力では、わたしを止めることはできないって、教えて あげようと思って﹂ ﹁止めだては不可能だと﹂

﹁ええ。わたし、ワタルと手を組むんだもの。きっとそうしてみせる﹂ ﹁ミツルではいけませんかな？﹂

 ラウ導師は、返事がわかっていて問いかけた。そして予想どおり、オンバさまはミツル の名を聞くとたじろいだ。 すき

﹁ミツルには、付け入る隙がなかった。そうでございますな？﹂

412

だ め 

 ややあって、やっとオンバさまは答えた。 ふ

﹁あの子は駄目よ﹂苦々しい口調だった。 ゆうしゅう

ぬ

 ラウ導師は目を伏せた。いきさつを、想像することができたのだ。ミツルは飛び抜けて 優秀だ。あの子の目は鋭い。 は

﹁オンバさまがミツルに呼びかけただけで、ミツルはオンバさまの真のお姿を見抜いた。 こた

かた

そしてぴしゃりと撥ねつけた。そういうことだったのでございましょう？﹂

 オンバさまは応えない。しかし、少女の姿を借りている今、その華奢な肩がこわばって いるのが、ラウ導師にはわかった。 やさ

﹁⋮⋮ワタルの方が優しいわ﹂  オンバさまは小さな声で言った。

おとず

たよ

﹁だからわたし、あの子と手を組むの。それに、あの子の決意は、これまで幻界を訪れた

どの〝旅人〟たちとも比べものにならないくらい強固のようだから、きっとすごく頼りに なるわ﹂ えり

ごと

 ローブの襟をかきあわせ、にわかに強まったように感じられる夜の冷気に震えて、ラウ

導師は言った。﹁岩の如く固い意志は、ワタルだけではない。ミツルも同じです。なぜ、

あの二人の決意がそれほどまでに固いのか、オンバさまにはおわかりになりませぬか﹂ うすやみ

 薄闇の向こうで、オンバさまはラウ導師の方に目を向けた。

413

か こく

たいじ 

ぜんれい

しぼ

﹁それは、あの二人が幼いからでございますよ、オンバさま。小さき者たちが、おのれを

巻き込む過酷な運命に対峙するためには、全身全霊の力を振り絞らねばなりませぬ。だか か かん

らこそ、あの子供らは果敢なのです﹂ ひ

 その果敢さには、あなたでも歯が立ちますまい。いくらワタルが優しくとも││。導師

か

は

は、後に続けるべきその言葉を言わず、胸の底に秘めておいた。 うま

﹁素敵ね。素敵だわ﹂

 言葉とは裏腹に、旨くないものを噛んで吐き出すように、オンバさまは言い捨てた。  間断ない雨音が、夜の更けてゆくのを計っている。 う ま 

﹁ワタルならきっと、わたしの正体を知っても、わたしを撥ねつけたりなんかしないわ。 だから今度は、上手くいくわ。絶対にね﹂

 ラウ導師は机に向き直り、ペンを取りあげた。書き物を始める。数語も書き留めないう ちに、窓際のオンバさまの姿が消えた。

ゆか

 ラウ導師は顔を上げなかった。書き物を続けた。それでも気配は感じられた。床の上を、 どんじゅう

何か鈍重で醜い生きものが、ランプの放つ光の輪を嫌い、のろのろと離れてゆくのを。

まゆげ 

あごひげ

 その気配が完全に消えてから、ようやくラウ導師はもう一度椅子から立ちあがり、窓際 よろいど

に寄ると、鎧戸を押し開けた。細かな雨が、導師の顔に、長く白い眉毛と顎鬚に、まつわ りつくように降りかかる。

414

みな

 森の木立が揺れていた。ざわざわと枝をすり合わせ、頭を振っている。皆、すっかり目 を覚ましてしまったのだ。 やす

﹁おお、すまなかったな﹂と、導師は小声で木立に呼びかけた。

いた

﹁もうお寝み。何も心配することはない。この幻界には何事も起こるまいよ。だから安心 して、朝までぐっすり寝むがよい﹂ おび

 雨は静かに降り続いていた。何かに怯えつつ、何かを悼むように、森の木立はひっそり

と肩を寄せ合い、銀の粉のような雨粒を浴びながら、番人たちの村を包み込んでいた。

415

 43 暗殺計画     しんだい

およ

さ

ひ ざ 

まぶ

 一夜明けると、昨日、深夜にまで及んだカッツとの話が、すべて夢だったような気がし そ ぼく

た。素朴な木の寝台の上で、ワタルは何度も目をこすった。窓から射し込む陽射しが眩し い。 と ほう

 僕は起きてる。目が覚めてる。新しい一日の始まりだ。あれは夢なんかじゃない。 ていこく

しの

 昨夜カッツは、ワタルに途方もない計画をうち明けてくれたのだった。ハイランダーの せんばつ

選抜隊が北の統一帝国に忍び込み、皇帝ガマ・アグリアスⅦ世を暗殺するというのだ。そ してその計画に、ワタルも参加してほしいというのである。 かざぶね

まぎ

﹁暗殺計画自体は、ずいぶん前から練られていたんだ。ただ、方法が限られていた。交易 りゅう

の季節に、商人たちの風船に紛れてこっそり忍び込むってね。でも、それだと危険が多す ふ

ぎるから、なかなか踏み切れなかったんだよ。だけどあんたが龍の笛を手にしたことで、 わた

まるっきり事情が変わった。ドラゴンに乗れば、空から北へ渡ることができる。それも、 一直線に皇帝の居城へと﹂

 つまりホントのところ、必要なのは僕じゃなくて、ドラゴンなんだな。それはちょっと、 苦笑いだけど。

416

まくら

かく

 でも、昨日物見台の上で、カッツが僕に言ってくれたことは正しい。僕はミツルを追い かけなくちゃいけない。 き が 

 ワタルは手早く着替えを済ませ、枕の下に隠しておいた龍の笛を取り出すと、そっとポ

ケットへ忍び込ませた。これを使ってジョゾを呼べる機会は、あと一度だけ。 し たく

ごくひ 

﹁いつでも出発できるように、支度しておくんだよ﹂と、カッツは言っていた。﹁例の脱 にが

走者を取り逃してしまって以来、南大陸の四人のブランチ首長が集まって、極秘会議を重

ねてきたんだ。いよいよ暗殺計画実行の決定がくだされれば、その命令書を持って、ギル 首長がここへ来られるという段取りになっている﹂

 今目か明日か、とにかく数日中にはそういう運びになる。そしたら出発だ。 ﹁他のメンバーは？﹂

いっしょ

﹁当初の計画では、あたしと、他には志願者が三人。つまり、ナハト、ボグ、アリキタ、 ササヤの四国を代表して一人ずつってわけさ﹂ ﹁それじゃ僕はオマケですね﹂ つわものぞろ

﹁強力なオマケもあったもんだね。あとの三人は、ギル首長と一緒に来ることになってる。 強者揃いさ。楽しみにしておいで﹂ せいえい

 それで五人だ。少数精鋭主義と言えば聞こえはいいけれど││

﹁それから、ついでに言っとくけど、この隊の隊長はあたしだ﹂カッツは不敵に笑ったも

417

のである。﹁どうしてかって言ったら、そもそも暗殺計画の言い出しっぺがあたしだから なんだよ。指揮も責任も、あたしがとるんだ。いいね？﹂

﹁わかりました。あの⋮⋮この任務のことは、しゃべっちゃいけないってことはわかるけ ど⋮⋮でも⋮⋮﹂

﹁トローンは知ってるよ。あいつはここの副長だからね。隠しておくわけにはいかなかっ だま

た。あたしがあんたを連れて行くということも承知してる。あんたも、キ・キーマやミー

しず

ナには黙っていられないだろう。ただ、それ以外のヒトたちの耳には入れないようにして おくれよ﹂ もぐ

 ワタルはしっかりとうなずき、心の奥に秘密が重く沈むのを感じながら、昨夜ベッドに 潜り込んだのだった。 けん

たずさ

つる

こしおび

 出発の支度といっても、ワタルの荷物などたかが知れている。いざとなったら身ひとつ

しつむ 

す

で、勇者の剣さえ携えて行けばいい。ワタルは、剣を吊している腰帯をしっかりと締め直 し、部屋を出た。 し た 

ふ つう

 階下のブランチ執務室に下りてゆくと、トローンが澄ました顔で書類を読んでいた。ワ タルに気がつくと、 ね

﹁おいおい、やっと起きたか。寝ぼすけだな。早く朝飯を食ってこい﹂と、これまた普通

も さ 

の声で言った。極秘任務のことなんか、おくびにも出さない。今さらながら、猛者だなぁ

418

と思った。 はん

 近くの宿屋の食堂で、朝ご飯と昼ご飯の中間の食事をしながら、ワタルは考え込んだ。 お い 

ご飯は美味しいはずなのに、味がしない。

 この件を、ミーナとキ・キーマに、どう説明したらいいだろう。頭はそのことでいっぱ いぶくろ

いで、舌や胃袋なんかの働きにかまっていられないらしい。 ちが

 二人を連れていくわけにはいかない。危険すぎる。キ・キーマは強いしミーナは身軽だ

けれど、今度の作戦はねじオオカミ退治なんかとはわけが違うのだ。ワタルの気持ちとし ても、もうこれ以上、あの二人を巻き込みたくはない。 うそ

い

 本当のことを話せば、二人はワタルと一緒に行くと言い出すだろう。絶対に引き下がる

まい。嘘をつかなくちゃ。でも、どんな嘘を？ もう二人の手助けは要らないというか？

いや

 気が合わなくなったから、もう仲間になるのはやめだよって？ そんなの嫌だ。キ・キー マとミーナの心を傷つけるなんて、できない。

﹁あんたから言えないなら、あたしが話してもいい﹂と、カッツは言っていた。﹁ブラン

チ長として、二人にはここに残れと命令するよ。まだまだ〝ハルネラ〟の混乱が続いてい

るからね。幸いガサラは落ち着いてるけど、ブランチはどこもてんやわんやで、手が足り ない。あの二人には、いくらでも別の任務が出てくるよ﹂ かたが 

 そうやってカッツに責任を肩代わりしてもらったとしても、問題は残る。この作戦で北

419

もど

へ渡れば、結果がどうあれ、ワタルはもう、南大陸に戻ってくることはないだろう。

 自分の身にどんな結末が待っているのか、今はまだ、ワタルにもわからない。ミツルが とう

め がみ

運命の塔にたどり着き、時間切れでヒト柱になるのか。何とかミツルに勝って、運命の塔 に行き、女神に会って運命を変えて、現世に帰るのか。 ど こ 

 あるいは、作戦が失敗し、北の皇帝の居城の何処かで命を落とすのか。

 どの結末が待っているにしても、いずれにしろ、あの二人とは、これでお別れなのだ。

だったら、どんな形でもいいから、ワタルは二人にサヨナラを言いたい。二人がいてくれ

たことで、どんなに心強かったか、二人のことがどれほど好きか、ちゃんと伝えてから別 はな

れたい。なしくずしに離ればなれになってゆくのは嫌だった。  でも、どう言い出せばいいのか見当もつかない。 か

 ぼんやりとパンを噛んでいると、宿屋のおばさんに声をかけられた。 ﹁おや、今日は食が進まないね。スープのお代わりは要らないの？﹂

 食堂には他のお客の姿はなく、おばさんは皿洗いを片づけたところだった。今朝はワタ おそ

ルが来るのが遅いので、どうしたのかと思っていたと言った。 ﹁ごめんなさい﹂ だれ

﹁謝ることなんかないよ。誰にだって、寝起きのよくない日はあるもんだ﹂

そうどう

 ガサラの町のなかにいると、〝ハルネラ〟の巻き起こしている混乱も騒動も遠いものに

420

い ごこち 

すず

さ

感じられる。南の連合国家の平和を守るために、北の皇帝を暗殺しなければならないなん か

て話も、清潔で居心地のいいこの食堂で考えてみると、てんで絵空事だ。 にぎ

か

 食堂の窓の外を、賑やかに声を掛け合い、ダルババ車がすれ違う。首から鈴を提げた新

聞売りの男の子が、りんりんと音をたてながら駆けてゆく。この新聞というもの、現世で めずら

は珍しくも何ともないが、幻界ではごく最近〝発明〟されて、たいへんな人気を呼んでい

る。ルルドの天文台から〝ハルネラ〟の真実が公開された時に、政府から出されるおふれ

だけでなく、もっと詳しく、もっと細かいことを知りたいと思った誰かが、色々と聞き歩 ほ

き、それを記事にして、版画みたいに彫り、刷ったものを売るということを思いついたの いっぺんとう

かいどう

だ。これはたちまちブームになり、短期間でほうぼうにいくつもの新聞社ができた。記事

れんさい

の内容も〝ハルネラ〟一辺倒ではなく、街道の交通情報や、あちこちの町の事件や出来事 の

まで報じている。宿屋や居酒屋の宣伝も載るようになった。

 現世の新聞も、起源は同じようなものだったのかもしれない。そのうち、連載小説や四 まんが 

コマ漫画なんかも載るのかな。暗殺計画が成功したら、もちろんそのことだって記事にな る。トップ記事間違いなしだ。 か ら だ

ただよ

 現世は、今ごろどんな様子だろう。新聞にはどんなニュースが載せられているだろう。 ふんい き 

 母さん。ワタルの心は、食堂の温かな雰囲気のなかで、身体を離れて漂い出た。母さん、 お じ 

ルウ伯父さん。元気かな。僕はこんな遠くにいて、さらに遠くへ行こうとしています。きっ

421

と帰ると約束したけど、もしかしたら帰れなくなってしまうかもしれません││ ﹁ワタル？ いたいた、おはよう！﹂ ね ぼう

 ミーナの元気な声に、ワタルは我に返った。 ﹁あら、今ご飯なの？ 寝坊したんでしょ﹂ となり

ブリー・グレイ

かがや

ひとみ

 戸口からひとっ飛びでひらりとワタルの腰掛けの隣に着地すると、ミーナは明るい目を はげ

ふ

向けた。陽のあるうちは灰色に、夕まぐれから夜にかけては深い青灰色に輝くこの瞳に、

どれほど励まされてきただろう。鼻先がツンとしそうになって、ワタルは顔を伏せ、食べ ほおば 

かけのパンを頬張った。 のど

﹁そんなにあわてて食べると、喉につっかえちゃうわよ﹂  ミーナは声をたてて笑い、ワタルの背中をさすってくれた。 こ おど

しら

﹁う、うん。ミーナ、どしたの？ 何だか楽しそうだね﹂

﹁わかる？﹂ミーナは腰かけの上で小躍りした。﹁いい報せがあるの。ブブホ団長たちが、 ガサラに来るのよ！﹂

 ミーナが所属しているエアロガ・エレオノラ・スペクタクルマシン団が、ガサラの町で 興行するため、こちらに向かっているというのである。 あて

﹁今朝着いたダルババ屋さんが、団長からわたし宛の手紙を預かってきてくれたの。もう とうちゃく

すぐそこまで来ているから、今日じゅうに到着するって！﹂

422

あんど 

 ワタルの胸を、温かな安堵の波が洗った。ブブホ団長たちがガサラに来るのならば、ミー

ナを残して出発することが、ずいぶんと楽になる。もしもミーナがどうしてもワタルと一

緒に行くと言い張っても、きっとブブホ団長が説得してくれるだろう。ワタルとしても、

その方がずっとずっと心軽くミーナと別れることができるというものだ。 ﹁よかったね、ミーナ﹂

﹁うん！ でもね、いい報せはそれじゃないのよ﹂ミーナはワタルのそばにぴったりとくっ

ついて、声をひそめた。﹁ね、前に団長たちに会ったとき、ババさまと話をしたでしょ？  覚えてる？﹂ ろうば 

 ババさまと呼ばれるアンカ族の老婆は、ワタルに、もしも女神さまに会えなかったらど

うするつもりかと問いかけたのだった。ワタルは、会えなかったときのことは考えていな たず

いと答えた。するとババさまは、それならもうお尋ねすることはないと言って、それっき りだった。 ﹁覚えてるけど⋮⋮﹂

うらな

﹁あのときは詳しく話さなかったけど、ワタル、ババさまはね、すごい占い師なの。ババ

さまには未来が見えるの。そんなに遠く先のことじゃないけど、でも見えるの。神通力を

まがぼし

持ってるから。実は、ワタルに初めて会ったあのころ、ババさまにはもう北の凶星が見え

ていて、すぐに〝ハルネラ〟が来ることもわかっていたんですって！﹂

423

よ こ 

 わかっていたから、ワタルにあんな質問を投げて寄越したんだろうか。やがて〝ハルネ

ラ〟が来て、ワタルがヒト柱になるかもしれないということまで見えていたから？ ﹁そう⋮⋮それで？﹂ そ

 ミーナの喜びように、ワタルはまだついてゆかれない。しかしミーナは両手でワタルの にぎ

手を取ると、ぎゅっと握りしめ、さらに強く寄り添ってきた。

すべ

﹁それでね、ワタル。わたし、ソノの町での出来事のあと、ババさまに手紙を書いたの。

ワタルの未来のことを教えてください、そして、その未来を変える術があったら教えてく

すいしょう

ださいって。その手紙が届いて、ババさまは未来を見てくれた。占いに使う、大きな水晶

玉に映してね。そしたらね、見えたんですって！ ワタルが運命の塔に続く階段をのぼっ てゆく様子が！﹂

 ワタルは身を引き、まじまじとミーナの顔を見つめ直した。﹁それ、どういう⋮⋮﹂

﹁どうもこうもないわ！ ワタルの未来よ！ ワタルは運命の塔に行けるのよ！ ヒト柱

なんかにはならないのよ！ ちゃんと女神さまにお会いして、旅の目的を果たすことがで きるんだわ！﹂

 だからこそブブホ団長は大急ぎで手紙を書き、ミーナに報せて寄越したのだ。そしてワ じか

タルを励まし、元気づけるために、ババさまの口から直にお告げを聞かせたいと、わざわ ざガサラに向かっているのだという。

424

うれ

﹁ね？ いい報せでしょ？ わたし嬉しい！ ワタルは、あのミツルって子に負けたわけ

じゃない。ワタルは勝つの。ババさまのお告げに間違いはないんだから！﹂ そうぐう

 ソノの町でミツルと遭遇し、ミーナとキ・キーマも、とうとう〝旅人〟とヒト柱の真実

を知ってしまった。以来、キ・キーマとのあいだには、何度かやりとりがあった。そのた ふ

びに、まだ終わったわけじゃない、あとふたつの宝玉を探し続けようと、キ・キーマは提 く

つら

た

案した。ワタルがそれに首を振ると、大きな身体を小さく縮めて、力になれなくてすまな

いと悲しんだ。それを繰り返し、とうとうどちらも辛さに耐えられなくなって、二人でそ

の話をすることはなくなった。ガサラの町に落ち着いてからも、キ・キーマは毎日の仕事 いそが

に忙しく過ごしていて、ワタルとはゆっくり向き合うことがないままだ。 りん

え がお

 しかし、ミーナは違っていた。以前と変わらぬ明るい顔でワタルと話し、ワタルのそば かたく

す

を離れず、しかしワタルがヒト柱のことで水を向けると、凛としてそれを撥ねつけ、笑顔 のなかに頑なな目を据えて、何も話し合おうとはしなかった。 かんたん

 その態度の裏には、こういう理由が隠されていたのか。あらためて、ワタルはミーナの しん

芯の強さに感嘆した。

﹁イヤだ、ワタルったらぼんやりしちゃって﹂ミーナはワタルの顔の前でひらひらと手を

振った。﹁わたしの言うこと、わかった？ ね、こんないい報せはないでしょ？ 水晶玉

には、他にもいくつかの光景が映ったんですって。それはきっと、あとふたつの宝玉を探

425

すための手がかりなんだわ！ ババさまに会って詳しい話を聞いたら、すぐ出発しましょ

う。きっと見つけられるわ。だってワタルは運命の塔に行くんだもの！﹂ ばんざい

 喜びに勢い余って、ミーナは腰掛けの上に立ちあがり、万歳をした。宿屋のおばさんが びっくりして台所から飛び出してきた。 ﹁何事かい？﹂ ﹁あ、いえ何でもないんです、スミマセン﹂

 ワタルはあわててミーナを引っ張りおろし、もう彼女が躍りあがったりできないように、 両手で両肩をしっかりと押さえた。 ﹁ミーナ、ミーナ、ありがとう﹂

 ワタルも混乱していて、何から話したらいいかわからない。とにかく、口から言葉がこ ぼれ出るに任せてしまった。

﹁僕のためにそんなに心配してくれて、ホントに本当に感謝してるよ﹂

﹁何言ってるのよ、水くさいなぁ。仲間じゃない。それにわたし、決めたの。ルルドでも ま

言ったでしょ？ わたし、ワタルの行くところにはどこにだってついてゆくの﹂  ミーナはワタルごと舞いあがりそうな勢いだ。押さえきれない。 ﹁ミーナ、落ち着いて。聞いてほしいんだ。いいね？﹂

 躍っていたミーナの瞳が、喜びと期待に輝きながらも、つと動きを止めた。小首をかし

426

げ、肩に置かれたワタルの手の上に手を重ねながら、彼女は訊ねた。﹁どうしたの、ワタ ル。嬉しくない？﹂

﹁嬉しいよ﹂ワタルは、何よりも自分を落ち着かせるために、ゆっくりと言葉を選んだ。

﹁僕にもまだチャンスがあるんだね。ババさまのお告げは、それを教えてくれている﹂ ﹁ええ、そうよ！﹂

﹁だけどね、ミーナ﹂ワタルは大きくひとつ呼吸して、続けた。﹁僕は、もう残りの宝玉 こお

を探す旅に出ることはできないんだ。他にやらなくちゃならないことがあるから﹂ しゅんかんれ い と う

 ミーナの目が、太陽を瞬間冷凍したみたいに凍りついた。 ﹁他に││何ですって？﹂ ﹁僕は、北へ行く。北の統一帝国に﹂

 言い切ってから、ワタルは食堂を見回した。誰もいない。おばさんも台所の奥に引っ込 んでしまっている。 あた

﹁ハイランダーとして、果たさなくちゃならない任務を与えられたんだ。カッツさんをリー

ダーにして、ジョゾに乗って北へ行く。任務を果たして戻ってこられればいいけど、とて

も難しい仕事だから、どうなるかはわからない。でも、それでも僕はやる。やるって決心 したから﹂

 たっぷり深呼吸みっつ分くらいのあいだ、ワタルもミーナも黙って向き合っていた。見

427

にら

ちんもく

にお

つめ合うというよりは、睨み合うような張りつめた沈黙に、食堂に漂う食べ物の匂いが、 場違いに平和だった。 き

﹁北へ行く？﹂と、ミーナが小声で訊いた。 ﹁そう﹂ ﹁〝旅人〟としてじゃなく、ハイランダーとして？﹂ ふ

﹁そうだ。ガマ・アグリアスⅦ世を暗殺するために││﹂  思いがけず、ミーナはワタルの顔に向かってまともに吹き出した。

﹁ヘンなの。どうしてそんなことをするの？ 南の連合国家は、北に戦争を仕掛けようと む だ 

いうの？ そんなの無駄だわ。動力船の設計図は、もう帝国の手に渡ってしまったのよ。 負けるに決まってる﹂ かせ

﹁時間を稼ぐんだよ﹂と、ワタルは説明した。 かじ

﹁皇帝が暗殺されれば、北の統一帝国だって、少なからず混乱するはずだ。皇帝一族の独 とつぜん

こうけいしゃ

裁国家なだけに、突然リーダーがいなくなったら、舵のない船みたいになってしまうから つ

ね。ガマ・アグリアスⅦ世は四十歳ぐらいだっていうから、彼の後継者は、きっとまだ若

い。皇帝の座を継いでも、すぐには力量を発揮することはできないはずだ。そうして国が

せ

う

乱れれば、しばらくのあいだは、動力船を開発したって、海を渡ってこっちへ攻めてくる

むか

ことはできなくなる。そのあいだに、南の連合国家は守りを固めて、帝国を迎え撃つ準備

428

をすることができる。外交的な取引の材料を考えることだってできる。あるいは、和平を

結ぶ機会だって生まれるかもしれないじゃないか。とにかく、今は時間が必要なんだ﹂

 それはカッツの話してくれた内容そのままであったけれど、ワタルもその策に異論はな かった。

﹁僕もこの計画については、昨夜聞かされたばかりなんだ。だけど、僕の力が必要だって、

カッツさんは言った。僕もそう思う。ジョゾを呼べるのは僕だけだし、たとえそうでなく

ても、ジョゾをこんな任務に巻き込む以上、僕が参加しないわけにはいかない﹂

たましい

 ミーナの顔から、すべての表情が消えた。作られたばかりでまだ魂の入っていない人形 とうとつ

のようだと、ワタルは思った。何を心にし、そこからどんな感情を選び出せばいいのか、 あまりにも唐突すぎて、ミーナにもわからないのだろう。

 ややあって、その平たい顔のまま、ミーナは言った。﹁それなら、わたしも一緒に行く わ﹂

 そう口に出した瞬間、ミーナの顔に生気が戻った。瞳が燃えあがった。 よみがえ

﹁わたしもワタルと一緒に北へ渡る。ワタルを手伝うわ。そうよ、そうする﹂  笑みが蘇った。ワタルの手に重ねている手に力が入る。

﹁言ったでしょ？ わたし決めたの。ワタルが行くところ、どこにでもついてゆくって。

ええ、そうよ。北の帝国へ行きましょう。それでいいんだわ。ババさまのお告げにだって、

429

ふく

きっとそのことが含まれているのよ。ワタルは北へ行って、ミツルに追いついて、ミツル あふ

よりも先に宝玉を揃えて、そして運命の塔へ行くんだわ。そうよ、そうよ││﹂ ほんりゅう

つ

 ミーナの口から奔流のように言葉が溢れ出てくるあいだじゅう、ワタルは首を横に振っ みは

ていた。ミーナは、なかなかそれに気づかなかった。言葉が尽きて、それでもまだワタル

ふる

がかぶりを振っているのを、不思議そうに目を瞠って見つめた。 ﹁││ワタル？﹂

﹁駄目だ﹂と、ワタルは言った。声は震えていなかった。そのことを、自分でも意外に思っ

た。大人の男の声みたいに落ち着いて、揺るぎない口調になっていた。 ﹁ミーナは一緒に来ちゃいけない。南大陸に残るんだ﹂

 空白。そしてミーナはワタルに飛びかかってきた。﹁どうして？ 何でよ？ なぜわた

しが一緒に行っちゃいけないの？ どうしてワタルはそんな意地悪なことを言うのよ﹂ ﹁意地悪してるわけじゃない﹂ ﹁してるわよ！﹂

 ミーナはワタルを突き飛ばした。ワタルは腰かけから転げ落ちそうになり、そこを今度 はミーナにつかまれて引き留められた。

﹁わかった！ カッツさんの命令なのね？ そうなんでしょ。あのヒトがわたしを置いて たの

いくようにって言ったのね？ だったらいいわ、わたし頼むから。カッツさんにかじりつ

430

いて、一緒に連れて行くって言うまで、てこでも動かないんだから！﹂ ﹁違うよ、ミーナ。僕が決めたことだ﹂ えりくび

 ワタルの襟首をつかんでいるミーナの手が、わなわなと震え始めた。 ﹁わたし⋮⋮﹂

あ

﹁ごめんよ。だけどミーナ、もうこれ以上、君とキ・キーマを危険な目に遭わせたくない うで

は

んだ。だから一緒には行かれない﹂  震えが手から腕へと這い上り、くちびるまで震え始めた。 こわ

﹁危険なんか⋮⋮そんなの⋮⋮怖いことなんかないのに﹂ さと

﹁僕が怖いんだよ﹂と、ワタルは言った。それが正直な気持ちであり、どんな言い訳や説 明よりも正解なのだと悟りながら。

﹁君とキ・キーマを連れて行って、危険に巻き込んで、命を落とさせてしまうかもしれな なっとく

い。僕はそれが怖い。自分が死ぬかもしれないことよりも、ずっとずっと怖い。自分のこ あきら

となら諦めもつくし、納得できる。でも君たちのことは違う。君たちは大切な仲間だ。友 つぶや

達だ。僕のせいで、死なせるわけにはいかないんだよ﹂  死ぬって決まったわけじゃないのにと、ミーナは呟いた。

﹁そうだね。でも、予想はしておかなくちゃいけない。その可能性は大きいもの﹂

 ワタルは呼吸を整えた。そうすると、自分の内側に、ミーナと同じくらいぶるぶる震え

431

たお

ている小さな自分が隠れていることに気がついた。もうちょっと、もうしばらくのあいだ、 姿を見せずにしっかり隠れていてくれよ。 う ま 

﹁もしかしたらすべてが上手くいって、皇帝を倒した上で、僕はミツルに先んじて、運命 の塔に行くことができるかもしれない﹂ ﹁ええ、そうよ﹂ こうかい

﹁でもそのときに││その目的を果たすために、君やキ・キーマが命を落とすことになっ

たら、僕は一生後悔するよ。運命の塔で女神さまに会って、思いどおりに運命を変えて、

現世へ帰れるとしても、残りの人生を幸せに過ごすことなんか、絶対にできない﹂

 だから││ずるいと承知しながらも、ワタルは言った。﹁友達だから、仲間だから、僕 のために、安全なところにいてほしいんだ。お願いだよ、ミーナ﹂ おお

 ミーナは両手で顔を覆うと、静かに泣きだした。ワタルはもう一度、彼女の両肩に手を 置いた。

﹁出発が正確にいつになるか、まだわからない。でも、すぐであることは間違いない。ギ

ル首長がガサラに着いたら、すぐに。だから今のうちにお別れを言っておきたかったんだ。 うめ

今までありがとう。言葉になんかできないくらい、感謝してるよ。本当だよ﹂ すきま 

 指の隙間から、呻くように、ミーナは言った。﹁キ・キーマには⋮⋮﹂ ﹁これから話す﹂

432

 ミーナが動かないので、ワタルはそっと腰かけから立ちあがった。

﹁ありがとう、ミーナ。ずっとずっと、元気なミーナでいておくれよ。スペクタクルマシ

ン団のスターになって、南大陸じゅう、いや幻界中のヒトたちを楽しませておくれよ。ね？  約束だよ﹂  ミーナは返事をしてくれなかった。

433

 44 ガサラ脱出    

ちゅうけい

 ミーナとのやりとりの後、すぐにキ・キーマに会う元気を出すことはできなかった。も う少し時を置こう。幸い、仕事もあった。 あきな

 ガサラの周辺には、ガサラよりも小さいけれど、商いの中継地点となる町が散在してい

ひ なんみん

る。それらの町でも〝ハルネラ〟にからんで治安が乱れており、ときどき、家財道具を背 に

負ってガサラまで逃げてくる住人たちが現れる。今日も何組かそうした避難民がガサラの おとず

さわ

門を訪れたので、ワタルは彼らの世話を焼くことに追われた。

なな

﹁こんな騒ぎが続くくらいなら、いっそ、あたしがヒト柱になるから、早く元の平和な国 もど

つか

に戻ってほしいと思っちゃうよね﹂ しゅくはく

 幼い子供の手を引き、疲れ切った妻の顔を斜めに見ながら、避難民の男がそんなことを つぶや

ふ ろ 

呟いた。彼らのために設けられている簡易宿泊所には最低限の設備しかないけれど、それ うれ

しんぼう

でも嬉しい、風呂に入ってちゃんと飯を食ったのは四日ぶりだ、とも言った。

﹁〝ハルネラ〟は、もうすぐ終わりますよ。あとちょっとの辛抱です﹂ なぐさ

 ワタルの慰めに、男はゆるゆるとうなずく。

﹁そうだね⋮⋮﹂ため息と共に、独り言のように言う。﹁しかし、ヒト柱は本当に必要な

434

め がみ

んかね。女神さまのお力があれば、そんなものなくたって、〝大いなる光の境界〟を張り

直すことはできるんじゃないのかね。あたしは最近、〝ハルネラ〟を招く女神さまの真の ご意思は、別のところにあるんじゃないかと思うようになったよ﹂ ﹁真のご意思？﹂

う ろ た

﹁うん。この広い世の中の、大勢のヒトたちのなかで、たった一人だけを選んでイケニエ か わ い

にするぞ││そう言われただけで、あたしらはこんなにも見苦しく狼狽えて騒いでしまう。

ヒトってのは、弱いものだ。結局は、みんな自分の身が可愛い。そのくせ世の中が乱れれ もう

みにく

・

・

ふ だん

ば、それに乗じて儲けようとしたり、気に入らない連中をやっつけようとしたりする。そ よくぶか

ヴィジョン

はんえい

れも欲だよ。欲深なんだ。醜いね。ざまはないよ、でも普段は、自分たちのそんな醜い部

分のことなんか、きれいさっぱり忘れちまってる。〝幻界〟が平和で繁栄を続けていたら、 い だい

ゆ

おのれ

なおさらだ。ヒトってのは偉大な生きものだ││ぐらいに思い上がってさ。だから女神さ

し か 

まは、ときどきあたしらヒトを揺さぶって、己の弱さや醜さを思い出させ、それ以上うぬ いまし

ぼれが積もることがないように戒めるために、わざと〝ハルネラ〟なんていう仕掛けをこ しらえていなさるのじゃないかねえ﹂  ワタルには思ってもみないことだった。

﹁でも⋮⋮もしもそうならば、女神さまはヒトに対して、意地悪っていうか、厳しいって いうか﹂

435

むな

やさ

﹁そうだね、うん。だけど神さまは、もともと、そういうものじゃないのかね。優しくし

てたら、何も治まらないからさ。言葉は空しいものだ。どれほど尊い教えでも、日々の繁 う

栄のなかでは重みが失せてゆく。ヒトは忘れっぽい生きものなんだ。だから女神さまだっ

て、千年にいっぺんぐらいの割合でさ、こんなふうに世の中を揺さぶることで、あたしら に教えを思い出させるしか手がないんだろうよ﹂ はな

 思いがけず話し込んでしまったので、ワタルが簡易宿泊所を離れたときには、午後もず

みょう

のきさき

いぶんと過ぎていた。朝から重かった心に、さらに重たい問いかけを乗せられて、ブラン チに戻る足どりもはずまない。 うつむ

 ところが、俯きがちに町を歩いていると、妙なことに気がついた。道ばたや軒先にヒト

しんりょう

かばん

さ

びとが集まり、ひそひそと話をしている。どの顔も険しく、ちょっぴり不安そうだ。何事 だろう？

 ちょうどそのとき、角を曲がったところに、診療所の医師が、往診用の鞄を提げて、町

のヒトと立ち話をしているところにぶつかった。すぐに声をかけたけれど、先生はそれに さえ気づかないほど、熱心に話し込んでいる。 ﹁あの、何かあったんですか？﹂ う

﹁おお、君か！﹂先生は、ムクムクの毛に埋もれそうになっている小さな目をぱちぱちさ せた。﹁何かって、何も知らないのかね？﹂

436

﹁町の様子がおかしいですけど⋮⋮﹂ おどろ

のんき 

 先生をはじめ、立ち話の輪をつくっている全員が驚いた顔をした。 うでわ 

き し 

ゆうげき

﹁その腕輪、あんたハイランダーなんだろ？ そんな呑気なことを言ってていいのかね。

小一時間ばかり前から、ガサラはシュテンゲル騎士団の遊撃隊に包囲されちまってるんだ よ！﹂ ぎょうてん

 ワタルは仰天した。﹁包囲って││なんでまたそんなことに？ 門番や物見台の番人は 何をしてたんだろう？﹂

﹁何をしてたもかにをしてたもないよ。草原を遠くから、シュテンゲル騎士団の小隊が進

軍してくるなぁ││補給なんぞで立ち寄るのかなぁ││と思って、気づいたら囲まれちまっ てたらしいんだ﹂ いっさい

﹁今は正門も閉じているよ﹂と、先生が言った。﹁出入りは一切禁止だ﹂  まったく気づかなかった。﹁僕、ずっと簡易宿泊所にいたんです﹂ へび

﹁その気になれば、シュテンゲル騎士団は風よりも速く、蛇のように静かに動けるという ことだな﹂

えり

 感心してる場合ではない。包囲の目的は何なのか確かめなくては。 ﹁ブランチに戻らなきゃ！﹂ か

 駆け出そうとしたワタルの後ろ襟を、診療所の先生がぐいとつかんだ。

437

﹁待ちなさい。今は様子をうかがった方がいい﹂ ﹁どうしてです？﹂

﹁さっきロンメル隊長が部下を引き連れて、ブランチへ乗り込んで行ったよ。どうやら彼 みは

らの目的は、ブランチにあるようだ﹂ ふ

 ワタルは目を瞠った。﹁犯罪者を追いかけてきたとか、そういうこと？﹂ れんぽう

しょうにん

 先生は首を振る。﹁君もハイランダーなら、知っているだろう？ 先にブランチの四首

長が、連邦議会の承認なしに、ハイランダーたちを動かしたことが問題になっているのを。 ロンメル隊長がやって来たのも、それと関連がありそうだ﹂ ふんい き 

 ワタルはあっと思った。ルルドの天文台前で別れるとき、ロンメル隊長の小隊と、居合 いか

ちか

わせたハイランダーたちのあいだに立ちこめた険悪な雰囲気。そしてロンメル隊長の言葉。 ど こ 

ブランチ長と彼らに従うハイランダーたちが連邦議会の怒りをかえば、議会に忠誠を誓っ

きょう

ているシュテンゲル騎士団とも、この先、何処かで敵対しなければならない局面が発生す るかもしれない││ と

 あの警告が、実現してしまったのだ。今がその時なのだ。 み がら

こうそく

﹁どうやら隊長は、カッツを捕らえに来たようだ﹂先生の小さな優しい目は、ワタルの驚 がく

愕を読み取っている。﹁連邦議会から、彼女の身柄を拘束し、首都まで護送するように命 令がくだされたらしい。何があったか知らないが││﹂

438

こうてい

も

 ワタルは知っている。あの暗殺計画だ。きっと、あれがどこかから漏れて、連邦議会の

しゅぼう

たいほ 

耳に入ったのだ。そして議会には、北の皇帝を暗殺するという策を、良しとしないヒトび ともいるのだ。 いっしょ

わた

 カッツはこの計画の言い出しっぺだと言っていた。首謀者だ。逮捕されたら、きっと重

ふる

罪に問われる。ああでも、ギル首長はどこにいるのだろう？ 一緒に北へ渡るはずの、あ も さ 

と三人の猛者たちは？

 足元から冷気が駆けのぼってきて、ワタルを骨まで震えあがらせた。

﹁どんな罪状だろうと、わしらはやすやすとカッツ所長を渡したりしねえよ﹂  町のヒトの一人が、鼻の穴をふくらませて言い切った。

は な 

かんじょう

﹁シュテンゲル騎士団なんざ、政府の飼い犬だ。信用できるもんじゃねえ。だいたい、ア ちが

ンカ族ばっかりの集団だろ。あいつらは、わたしら他種族のことなんか、最初から勘定に 入れてなかった。ブランチとは違う！﹂ こぶし

 そうだそうだと、立ち話の輪が盛りあがる。拳が振り回される。 ね

﹁カッツ所長を守るためなら、わしら、騎士団と一戦交えたっていいんだ！﹂

 診療所の先生は、困ったように耳を寝かせてしまった。﹁町の住人たちの気持ちは、連

邦政府だって騎士団だって承知しとるだろうよ。だからこそ包囲しておるんだ。下手に逆 らったら、ガサラの町はとんでもないことになるよ﹂

439

だま

ふうさ 

いか

﹁じゃあ先生は、カッツ所長がひっぱられるのを黙って見てろっていうのかよ！﹂ ﹁そんなことは言うておらん﹂ けんか 

﹁だったらさあ！﹂ と

 喧嘩に発展しそうになってきたところで、ワタルはそっと逃げ出した。 は

か

 正門まで駆けてゆく。ホントだ、門は閉じられ封鎖されている。騎士たちが厳めしい顔 こうぎ 

じゅうじん

ど な 

つきで立ち並び、門には何か書状が貼り出されている。カッツの逮捕状だろうか。噛みつ

かんばかりの勢いで抗議している獣人族の住人と、これまた怒鳴りつけるような口調で応

おび

対しているシュテンゲル騎士。道の反対側では、お母さんのスカートにすがった子供が怯 えて泣きべそをかいている。

 ちょうど町を出ようとしていたところなのか、ダルババ車が一台、門のそばで立ち往生 ぎょしゃ

していた。御者の水人族が、やはりシュテンゲル騎士の一人と問答をしている。こちらは ひそ

口論にこそなっていないけれど、御者はたいそう困っているようだ。ワタルは大きな車輪 かげ

みな

の陰に潜んで、二人のやりとりに耳をそばだてた。 ごくじょう

い

﹁だからさ、あっしは何も騎士団の皆さんに逆らおうなんて気持ちはないんですよ。ただ、 せんど 

ぼう

この積み荷は極上のシュルシュワでね。騎士さん、食ったことない？ シュルシュワの活 うま

き作りはこの世でいちばん旨い食い物だけど、鮮度が命なのさ。ここで立ちん坊してるあ いだに、どんどん値が落ちちまうよ﹂

440

がい

いたずら

ぼう

﹁我々も、任務さえ果たせばすぐに包囲を解くことができるのだ。徒にガサラの通商を妨 害する意図はない。いましばらく待っておれ﹂ くさ

﹁そんな難しいこと言われたってさあ、シュルシュワが腐っちまったらどうすんの﹂

﹁抗議するなら、ブランチにしたまえ。我々は連邦政府の意に従って行動しているのだ。 ようせい

しの

さぐ

ここのブランチ長が我々の要請に従ってさえくれれば、すぐにも町は元どおりの状態にな るだろう﹂

 やっぱりだ。カッツはどこにいるのだろう。ともかくブランチに忍び込んで、様子を探っ けん

てみなくてはならない。ワタルは勇者の剣をつかんだ。

 ブランチの前には二重のヒトの輪ができていた。外側の輪は、集まった町の住人たち。 こ

えが

ふ

内側の輪は外よりずっと人数が少なく、正味五人のシュテンゲル騎士が、輪というよりは 弧を描いて足を踏ん張っている。

 トローンがなかにいるはずだ。ワタルはちょっと考えてから、建物の裏に回った。窓は よろいど

まぎ

すべてきっちりと閉ざされている。二階のワタルの部屋の窓も、今朝出るときは開けてき たはずなのに、今は鎧戸まで閉められている。 ご

 ワタルはブランチの正面に戻ると、ヒト混みに紛れて機会をうかがった。集まった住人

たちは、てんでにしゃべりあったり、騎士たちに抗議したり質問を投げたり、全然応じて

441

ば せい

とびら

がんば 

そうおん

くれない騎士に罵声を浴びせたりからかったりと、とにかく騒音がやかましい。 ど

だれ

か ら だ

 と、ブランチの出入口の扉が開いて、その真ん前に頑張っている体格のいい騎士が、 わき

すきま 

ちょっと脇へ退いた。誰かがブランチのなかから、彼に話しかけている。騎士は身体をよ じり、扉の隙間に頭を突っ込んで、ふんふんとうなずいている。 す ばや

また

 ワタルは勇者の剣を構えると、思念を集中して、例の姿を消す結界を張った。そのまま ぬ

しつむ 

すみ

ヒトびとのあいだをすり抜けて、素早く身をかがめ、出入口に立つ騎士の股の間をくぐり 抜けた。 ﹁おろ？﹂と、騎士が声をあげた。﹁今、何か通ったぞ﹂ とうたつ

すわ

 自分の股ぐらを見おろしている。そのときにはもう、ワタルはブランチの執務室の隅に 到達していた。 す

 正面に据えられているカッツの事務机には、トローンがでんと構えて座っていた。その

正面に、ロンメル隊長が立ちはだかっている。トローンを囲むようにして、隊長の部下の こし

騎士が二人、それぞれ両手を腰の後ろにあてて直立している。

 他のハイランダーたちは、うまく身を隠すことに成功したようだ。姿が見えない。それ とも、もう連行されてしまったのか。 たず

﹁もう一度だけ訊ねる﹂

 ロンメル隊長が、張りのあるいい声でトローンに呼びかけた。今までにも何度か隊長の

442

はなづら

い かく

め が ね

声を耳にしたことはあるけれど、これほど威嚇的な口調になっているのは初めてだ。

 でもトローンは動じていない。鼻面に眼鏡を乗っけて背もたれに反っくり返り、だらし なくずっこけている。今にも鼻をほじったりしそうだ。

﹁所長のカッツはどこにいる？ 町を出ていないことはわかっているのだ﹂

﹁そこらにいるんじゃないかな。俺は知らん。所長のお守り役じゃないからね﹂

さ

﹁君が答えなくても、彼女をかばうことにはならないぞ。我々は必ずカッツを探し出し、 連行する﹂ あた

﹁だったら、とっとと探しに行けばいいだろ！ 知らんものは知らんのだよ﹂ そうさく

﹁我々が町を捜索すれば、住民たちに余計な不安を与えることになる。そういう事態を避 あお

あせ

けたいからこそ、協力してくれと言っているのだ﹂ つか

め じり

 ロンメル隊長の蒼い目は冷静そのもので、焦っている様子はなかった。ただ、ちょっぴ り疲れているようには見えた。目尻のしわが深い。

﹁君はこのブランチの副長であり、カッツが不在のときには治安を守る責任者となる存在

だ。その立場を自覚しているのか？ 徒にガサラの町に混乱を招くことを、カッツが望ん でいるとは思えないが﹂ いっしゅん

するど

﹁所長の考えなら、あんたに説教されるまでもなく、俺はよく承知している﹂ とげ

 トローンの言葉に棘が混じった。だらしない姿勢のままに、一瞬だけ目が鋭くなった。

443

なっとく

﹁だいたい、なんで所長が連邦議会まで連行されなくちゃならないのか、俺には納得がい かないんだ。これは不当逮捕だよ﹂ たた

ま

 トローンの右側を固めていた若い騎士が、思わずカッとなったという感じで、平手でば

しんと机を叩いた。トローンの前に並べられていた書類がぱっと舞いあがり、ペン立てが 派手な音をたてて転がり落ちた。 かぶと

あご

﹁この逮捕状が見えないのか！﹂

 兜と顎あての隙間からのぞく目の周りが紅潮している。ロンメル隊長は、トローンの顔

に視線を据えたまま、つと手をあげて若い部下を制した。若い騎士は、さらに赤くなって 姿勢を戻した。

﹁それでなくたって、連邦政府の発令する逮捕状なんて、生まれて初めて見たし││﹂

つめ

 トローンは、本当に鼻をほじり始めた。毛むくじゃらの丸い指から爪をちょろりとのぞ かせて、器用に鼻の穴に突っ込むのだ。

ぎ 

﹁反逆罪なんて、そもそもそんな法律があることさえ、俺は初耳だった。だからさ、この にせもの

おもしろ

書類が本物かどうかも判別がつかん。ひょっとしたら偽物かもしれないだろ？﹂

 さすがに、ロンメル隊長の目つきが険悪になった。﹁ほう、面白い。我々が逮捕状を偽 ぞう

造したとでも言うつもりかね？﹂ きば

﹁やりかねねえな、あんたらなら﹂トローンは片っ方の牙をちらりと見せて、せせら笑っ

444

きも

たま

えさ

た。﹁議会のなかにいるあんたらの飼い主は、あんたらに、いい餌を食わしてるらしいか

なぐ

らな。飼い慣らされて肝っ玉の抜けた犬は、ご主人さまの言いつけには何だって従う。拾っ だ

てこいと命じられれば、クソ溜めのなかにまで追いかけて行くんだろ﹂

 ご苦労なこった││と言い終えないうちに、さっきの若い騎士がトローンに殴りかかっ す で 

た。みだりに剣を抜かないことは騎士のたしなみか。あるいは素手で飛びかかるのは見苦 ・

・

・

・

・

・

しいのか。ロンメル隊長ともう一人の部下が止めに入り、出入口の戸が開いてさらにもう あし

めぐ

一人が飛び込んできた。ブランチを土台ごと揺さぶるようなどしんばたんに紛れて、ワタ すべ

ルはトローンの足元に滑り込み、机の下に身を潜めた。脚の周りに板を張り巡らせてある 机なので、ひとまず隠れることができる。 りょうかた

 結界を張るためにエネルギーを消費しているので、息があがっていた。ワタルは両手で わめ

口元を押さえ、声を漏らさないように気をつけながら、両肩でぜいぜいと呼吸した。

 怒鳴ったり喚いたりボコスカやったりが収まって、机の上にどすんと重いものが落ちか ゆか

かってきた。トローンの両足が、床から持ちあがっているのが見える。どうやら、机に押 ふ

もうそう

し伏せられてしまったようだ。 ﹁下品な妄想をたくましくするのは君の勝手だが││﹂  ロンメル隊長の声が聞こえた。何事もなかったみたいに平静だ。

﹁我々は連邦議会に忠誠を誓い、その総意を受けて行動を起こしている﹂

445

けんこう

 トローンは、机に顔をおっぺされていても意気軒昂だった。﹁そりゃどうかねえ﹂ くわだ

﹁ブランチの四首長が連邦議会の制止を聞かず、勝手にハイランダーを動かしただけでな こうい 

く、北の統一帝国に対してテロ行為を企てていたことを、我々は知っているのだ。すでに

ギル首長の身柄は拘束した。首長に同行していたハイランダーたちから、ガマ・アグリア しょうさい

スⅦ世暗殺計画についての詳細も聞き出してある。つまり、もう尻は割れているというこ とだ、トローン﹂

 ロンメル隊長は、初めて砕けた口調になった。ワタルは机の下で身を縮めた。ギル首長

は逮捕されてしまったのか。一緒に北へ渡るはずだったメンバーも⋮⋮。 て づ 

 手詰まりだ。何としてもカッツだけは無傷で助け出さなくては。

しんらい

どうほう

﹁君はカッツとの付き合いが長い﹂と、ロンメル隊長は言った。﹁だから彼女の過去も知っ たもと

ているだろう。私もかつてはハイランダーの一員であり、カッツとは信頼しあう同胞だっ あつか

た。ある事件がきっかけで、カッツとは袂を分かつことになったが、彼女の仕事ぶりには いだ

や

常に敬意を抱いてきたし、彼女が不当に扱われることは望んでいない。またそれ以上に、 そむ

何よりも、彼女が国家に背くような行為をしようと企んでいるのならば、それを止めさせ たいのだ﹂ あら

 トローンは黙っている。荒い息が聞こえる。

﹁教えてほしい。カッツはどこにいる？ 私は彼女を助けたいのだ。今ここで投降しなけ

446

らくいん

こ どう

れば、本当に反逆者の烙印を押され、自身の意見を述べる機会もないままに、幻界じゅう

を追われる身になるんだぞ。君はカッツをそんな立場に追い込みたいのか？﹂ こいびと

 カッツとロンメル隊長。どこまでもすれ違う恋人たちだ。ワタルはようやく鼓動のおさ まってきた胸が、ちくりと痛むのを感じた。

 ややあって、トローンが低く言った。﹁カッツは、今さらあんたなんかに助けてもらい たいなんて思っちゃいねえよ﹂  ロンメル隊長の武具が、かちりと鳴った。

﹁昔はどうあれ、今のあんたとカッツは、立場も意見もまったく違う。希望も、主義も、

何を大切にするかということも、全然違っちまってるんだ。カッツはそれをわかってる。 あんたは││まるでわかっちゃいねえようだな﹂

 男はそんなもんかと、独り言のおまけがくっついた。そして続けた。﹁連邦議会の腰抜

けどもは、動力船とやらの設計図が北に渡ってしまったことで、すっかりビビっちまって せ

るそうじゃねえか。何とか事を丸く収めて、北の統一帝国に攻められる前に、ほどほどの

ところで友好和平条約とやらを結ぼうとしてる。議会にはもともと、北の統一帝国のシン ・

・

・

やつ

パが巣くっていやがるんだから、連中の考えそうなことぐらい、こっちはお見通しだよ。 ・

で、そのほどほどのために、見返りとして、北の奴らに何を差し出そうっていうんだ？ 

ぎゃくさつ

北の皇帝がやってることを、知らないとは言わせねえぞ。非アンカ族に対する差別と虐殺

447

ど れい

さえぎ

し

さくしゅ

だ。奴隷のような労働を強いて、搾取を重ねる非道なやり方を、あんたらだって承知して るはずだろう？﹂ ﹁我々は││﹂ だいしょう

あ

 ロンメル隊長を遮って、トローンは声を張りあげた。﹁北の帝国と手を結び、とりあえ へいおん

ずの平穏を取り戻す代償に、南大陸の非アンカ族がどんな目に遭わされようと、シュテン かゆ

ゲル騎士団にゃ、痛くも痒くもねえだろうよ。あんたらはもともと、南大陸のための騎士

団じゃねえ。多数民族のアンカ族のために剣をとってきただけの存在だ﹂ ﹁それは誤解だ！﹂ い じ 

﹁誤解なもんか！ 現にリリスを見てみろ！ あんたのお仲間のサイゼク隊長が、まさし

の

ちんもく

く連邦議会の治安維持命令とやらを旗印に、リリスでやらかしたことを思い出してみろ よ！﹂

 ぐっと息を呑むような短い沈黙のあと、思いのほか落ち着きを取り戻した口調で、ロン メル隊長はこう言った。﹁私はサイゼクとは違う﹂ ﹁違うもんか。犬はみんな犬だ﹂

﹁いや違う。私は北の統一帝国のシンパではないからな。彼らの意向を実現するために剣

をふるう気は毛頭ない。もしも議会が、和平友好の美名のもとに、北の統一帝国の思想が

この南大陸に入り込むことを黙認するつもりなのだとしたら、私はそれを許さない。そん

448

な動きには、断固身体を張って対抗する﹂

 机の上で、またどたんと音がした。今度は騎士がトローンをどうにかしたのではなく、 トローン自身が机に身体をぶつけたらしい。 ﹁犬にそれができるかよ？﹂  隊長は冷静に切り返した。

﹁時には、主人に逆らう犬もいるだろう。犬にも犬の意思があるのだから﹂

 トローンは黙った。ロンメル隊長は、トローンの反応を見守っている様子だった。張り つめた空気が、ワタルの隠れている机の下にまで流れ込んできた。 あくしゅ

ご めん

 少しかすれたような声で、トローンは言い出した。﹁たとえそうでも、見返りに何も差

し出さずに済んだとしても、俺は北の統一帝国と握手するなんて、御免だね。俺たちの同

ゆず

胞を奴隷扱いし、ゴミのように使い捨ててきた国を許すことはできねえ。それくらいなら、

戦争になった方がましだ。戦って戦って、どこまでも戦い抜いてやる。命より大事な、譲

れないものが俺にはあるんだ。俺たちハイランダーには、確かにあるんだ。あんたら騎士 団に、果たしてそれがあるのかね？﹂

﹁では君たちは、その命よりも大事な大義とやらのために、皇帝暗殺というテロ行為をし

ようというのか？ 目的は、本当にそこにあるのか？ 私には、君たちがやろうとしてい ることは、単なる報復行為にしか見えない﹂

449

うな

 トローンは唸る。返事はなかった。

き

﹁⋮⋮この男を拘留しろ﹂と、ロンメル隊長が命令した。﹁ここの拘置室に放り込んでお け。頭を冷やしてもらおう﹂ ﹁カッツはどうしますか﹂と、部下の騎士が訊いた。 じゃま 

﹁二手に分かれて町の捜索を始める。捜索を邪魔する住民がいたら、公務執行妨害で拘束 ぞうえん

していい。そろそろ増援部隊が到着するころだ。このブランチを臨時の司令本部とする。 日暮れまでにはカッツを発見、首都へ連行する手はずを整える﹂

 部下たちがきびきびと応じ、執務室からトローンが連れ去られてゆく。 せっちんづ 

いったん

 忍び込んだはいいが、結局カッツの居所をつかむことはできないままだった。机の下に

雪隠詰めのワタルは、しかし、今までおぼろげにしか知らされていなかった真実の一端に ふ

あっとう

触れて、結界を張っているわけでもないのに、息が詰まるような思いをしていた。

 連邦議会のなかにいる、北の統一帝国のシンパ。圧倒的多数民族のアンカ族と、少数民

たて

族である他種族のヒトびと。アンカ族中心で構成された〝連邦国家の盾〟シュテンゲル騎 そうこく

士団と、南大陸の長い歴史のなかで自然発生してきた自警団組織であるハイランダーとの 相克の根っこにあるもの││ ゆえ

 ワタルのなかに迷いが生まれ、それ故にまた、駆り立てられるような思いに、ワタルは 震えた。

450

 カッツを逮捕させるわけにはいかない。一緒に北へ行くのだ。カッツが正しいのか、ロ

ンメル隊長の言葉に理があるのか、今のワタルにはどちらとも決められない。その判断の

結果から生じるものが、あまりにも重すぎて。でも、だからこそ、事実を確かめ、この目 で見なければならないのだ。

 執務室に騎士たちがせわしく出入りを始めた。ワタルは結界を張り、机の下から忍び出 かべ

ると、壁を伝ってじわじわとカニ歩きをしながら、出入口の扉へと近づいていった。

 ロンメル隊長は、机のすぐ脇に立っている。町の地図を広げ、部下たちに指図を飛ばし ほ

ている。視線は地図の上に落ちている。彫りの深い横顔が見える。 あや

そで

だいじょうぶ

 扉まで、あと一メートル足らず。誰にも気づかれていない。駆け込んできた一人の騎士 と危うく袖が触れそうになったけれど、大丈夫、大丈夫。 とう

﹁隊長、増援部隊からの伝令が着きました！﹂

 騎士が隊長に通信筒を差し出す。ロンメル隊長は受け取ろうと顔をあげ││ いっつい

 そして一対の蒼い目が、出し抜けにワタルをとらえた。目と目が合った。 のどもと

つ

しっぷう

ほお

 どうして？ 見えないはずなのに？ そう思った次の瞬間には、隊長はほんの数歩で部

屋を横切り、抜き放った剣の先端をワタルの喉元に突きつけていた。疾風がワタルの頬を

かすめただけで、今度は武具が鳴る音さえしなかった。まるで手品だ。 ﹁さっきからおかしな気配がすると思っていたら、なるほどな﹂

451

 ニコリともしていない。 ひょうし

 ワタルは自分の身体を見おろした。驚いた拍子に集中が切れ、結界は解けていた。 しょうえい

ま ほう

﹁た、隊長さん﹂

﹁消影の魔法など、いつ身につけたんだね？ それも〝旅人〟の力か﹂ ﹁これ、消影の魔法っていうんですか。知らなかった﹂

すご

 すごくバツが悪い感じがして、ワタルはしおしおと笑った。﹁隊長さんには僕が見えた

んですか？ それとも、姿は見えなくても、感じられたんですか？ 凄いな﹂ ねら

 隊長は笑わない。剣の切っ先も、ぴたりとワタルを狙ったまま動かない。 ﹁君もカッツの部下だったな。彼女は今どこにいる？﹂

﹁知りません。僕はこの騒動が起こっていることさえ気づかなかったんです﹂ ﹁間抜けな話だ﹂ ﹁⋮⋮はい﹂ かた

となり

つか

 ロンメル隊長は、首をよじって肩ごしに部下に命じた。﹁この少年もハイランダーだ。 ちょうしゅ

事情聴取をするから、トローンの隣にでも放り込んでおけ﹂ ﹁わかりました﹂ ・

・

・

 部下の騎士が、鋼のブーツをがちゃがちゃいわせながら近づいてくる。ああ、捕まっちゃ ・

う。万事休すだ。

452

そろ

 そのとき、心のなかに呼びかけてくる声が聞こえた。  ││ワタル。 みっ

す

せいれい

 ││宝玉は三つ揃いました。あなたはさらに新たな力を手に入れた。

 ││さあ、唱えなさい。アズロ・ロム・ロム、大気を統べる風の精霊よ、時を追い抜き、 光より速く我を運べと。 ﹁時を追い抜き││﹂ワタルは唱和した。 ﹁何だ？﹂と、騎士が足を止めた。 ﹁光より速く我を運べ﹂  ワタルから離れかけていたロンメル隊長が、こちらを見る。  ││さあ、構えて！ ﹁バニッシュ！﹂

じょうしょう

 朗々と唱えると同時に、ワタルは自分の体重が消えるのを感じた。視界いっぱいに、ま あふ

ばゆい光が溢れる。 つか

にぎ

のぼ

 飛んでゆく。舞いあがる。騎士たちの驚きの声を足元に残し、ワタルは光のなかを上昇

する。勇者の剣の柄をしっかりと握りしめて。昇る、昇る、空までも！ ほうだん

 と、次の瞬間、まるで砲弾になって空に発射されたかのように、青空のなかへと飛び出 していた。

453

﹁うわぁ！﹂ う

 身体がふわりと浮き、瞬間静止した。それで周りの景色が見えた。ガサラの上空だ。飛 んでる。いや浮いてる。いや落下が始まって││ ﹁落ちるぅ！﹂

 そんなに高いところにいたわけじゃなかった。どすんとお尻から落っこちて、目から火 が出た。 ﹁こ、ここは？﹂

や   ね  がわら

 ガサラの町の東端、何度か訪れたことのある小間物屋さんの屋根の上だ。赤い屋根瓦の

あお

上にへたりこんでいる。ワタルのせいなのか、瓦が一枚、ひび割れてしまっている。

 道を歩いているヒトたちが、ぽかんと口を開け、目を瞠ってワタルを仰いでいる。指さ

しているヒトもいる。小間物屋のご主人が、お店のなかから飛び出してきた。 ﹁今のは何だぁ？﹂

きょり 

 三つめの力は、ワープの力なのだ。瞬間移動。だけどたいした距離じゃないし、これじゃ 危なくってしょうがないんじゃない？  ││ごめんなさいね、ワタル。  宝玉たちの声が聞こえる。  ││今のあなたの力では、まだコントロールがきかないようです。

454

﹁うん、でもいいよ、助かった！﹂

 ワタルは屋根の上で立ちあがった。町中の捜索を始めていたのだろう、数人のシュテン

ゲル騎士たちが、ワタルの出現に気づき、こちらに向かって走ってくる。どうしよう？ ﹁おい、ワタル！ おーい、おーい！﹂

さけ

 キ・キーマだ。騎士たちの後ろから、やっぱりこっちに駆け出してくる。 つつ

﹁そんなところで何やってんだぁ？ タイヘンなんだぞ！﹂

﹁知ってるよ！﹂ワタルは両手を筒にして口元にあて、声を限りに叫んだ。

はじ

﹁キ・キーマ、気をつけて！ 騎士に捕まっちゃいけないよ！﹂ ﹁え？ 何だこいつらか﹂

ふ

 キ・キーマは走りながら騎士たちにタックルした。弾き飛ばされた騎士たちが道に転が り、壁にぶつかる。﹁き、貴様！ 公務執行妨害だぞ！﹂ ﹁何だよ、俺はハイランダーだぞ！﹂ ﹁だったらなおさらだ！ 貴様も逮捕する﹂ りゅう

﹁キ・キーマ、逃げるんだ！﹂

 ワタルはポケットから龍の笛を取り出した。青空に向かって吹き鳴らす。ジョゾ、ジョ ゾ、早く飛んできて！ か な た

 空の彼方に、輝く赤い光点が現れた。ワタルはそれに向かって両手を振り、それから屋

455

は

ほ

根の上でぴょんぴょん跳ねながら、やたらめったらに吠えて叫んだ。﹁カッツさん！ カッ

つじ

ツさん！ 出てきて！ 逃げるんだ！ ドラゴンに乗って逃げるんだよ！ どこにいる の？﹂

だ

 キ・キーマが屋根に登ってきた。町の辻を、何組もの騎士たちが駆けてくる。あっちの 角を曲がってくる集団の、先頭にはロンメル隊長がいる。 ﹁その少年を捕らえろ！﹂

 突然、ワタルの頭上が暗くなった。ジョゾが近づき、舞い降りてきたのだ。 ﹁ワタル、呼んだ？﹂ つばさ

﹁呼んだよ！ 早く乗せて！﹂

 ジョゾの翼が巻き起こす風に、屋根の上から飛ばされそうだ。キ・キーマに抱き留めら たつまき

せんぷう

れて姿勢を立て直し、ワタルはジョゾの背中によじ登った。キ・キーマも続く。 だいきょうらん

 町の辻を吹き抜ける、時ならぬ竜巻のような旋風に、騎士たちもひるんでいる。住人た かか

ちは身をかがめ、頭を抱えてきゃあきゃあわあわあ、大狂乱だ。 ﹁カッツさーん！﹂  ワタルは町の四方に呼びかけた。 ﹁ジョゾ、町の上を低空で飛んで！ カッツさんを探すんだ！﹂ ﹁わかったよ。だけど凄いね、このヒト出。お祭りかい？﹂

456

﹁そうだよ、お祭りだよ！﹂

かっくう

 ジョゾは翼をすぼめると、ガサラの町の家々の屋根をかすめて滑空した。また住人たち の悲鳴があがるけれど、何だかみんな喜んでるみたいにも聞こえる。 ﹁わーい、ドラゴンだ！﹂  小さな子供が窓から身を乗り出し、手を振っている。

﹁お母さん、見て見て！ ドラゴンだよ、ホントにドラゴンだよ、絵本で見たのとおんな じだよ！﹂ たる

くず

 やあやあコンニチハとジョゾが翼を振り、必死で追いかけてきていた騎士たちが、その たお

突風でなぎ倒された。道ばたに積みあげられていた樽が崩れ、騎士たちといっしょくたに なって転がってゆく。 ﹁カッツさぁぁぁーん！﹂

 驚きで大きな優しい目をしばしばさせているダルババの前を飛び過ぎる。御者が座席か ら転がり落ちる。 ﹁ワタル！﹂

 町の反対側の民家の二階の窓から、カッツが身を乗り出して両手を振っていた。ワタル

がそちらを見ると、彼女はうなずき、窓から壁づたいに屋根の上へとよじ登り始めた。 ﹁カッツだ！ あそこにいるぞ！﹂

457

おど

むち

 騎士たちが押し寄せる。いちばん近くにいた一団は、民家のなかへと躍り込み、ああ、 今もう窓から首を出している。カッツの後を追いかける。 ゆうが 

﹁ああ、もう、邪魔くさいね！﹂ うな

 カッツは片手を屋根にかけ、優雅に宙にぶらさがったまま、もう片手で鞭を抜いた。黒 せんこう

い閃光がひゅっと唸って、騎士が悲鳴をあげ、窓から落ちる。 ﹁ジョゾ、カッツさんを乗せるぞ！﹂

 翼のひと振りで、ジョゾは民家の上へと飛んでいった。カッツが屋根を走って駆け寄っ

てくる。何人かの騎士が身軽に屋根に登り、風に逆らいながら、わらわらと追いついてき ふ

は

あお

た。カッツは鞭を振ろうとするが、翼の風に流されて、鞭が思うように動かない。 ﹁ジョゾ、火を噴いて！﹂ ﹁いいのぉ？﹂ ﹁いいよ、特別に許可する！﹂ のど

 ジョゾは胸をふくらませると、喉を鳴らしてごおっと炎を吐き出した。熱風に煽られて、

こ

騎士たちがあちあちあちと逃げ出してゆく。その隙に、カッツはひらりとジョゾに飛び乗っ た。 かみ

﹁あたしの髪まで焦げちまったよ！﹂  それでもカッツは大笑いしている。

458

たいくう

﹁さあ、行こう！﹂

 ジョゾは滞空しながら翼を返し、上空へと顔を向けた。ワタルはジョゾの首にしっかり としがみつく。 ﹁ワタル、待って！ わたしも連れてって﹂

 ミーナの声だ。あわてて見回すと、信じられない、ミーナは家から家へ、屋根を飛び移っ てこっちへ近づいてくる。 ﹁ミーナ！﹂ ﹁おいてけぼりなんて、ひどいわよ！﹂ ふち

 ミーナは二軒先の家の屋根から、えいっとばかりに大ジャンプをした。しなやかに反っ

た足が、弧を描いてこちらの屋根の縁にひっかかる。と、その足を、下からのびてきた騎 士の腕がむんずとつかんだ。 ﹁きゃ！ 何よこのスケベ騎士！﹂

にお

 レディの足をつかむなんて失礼よと言うなり、ミーナは腰のポシェットから何かを取り 出し、ぱっとばらまいた。

 パンパンパンと派手な音がして、火薬の臭いが広がった。色とりどりの火花が散って、

宙にきれいな花の形を描く。まったく、いつの間にこんなものをこしらえていたんだろう？

おお

 騎士は花火の直撃をくらい、思わずミーナの足を離し、手で顔を覆った。

459

﹁お待たせ！﹂  ミーナはワタルの隣に飛び移った。 きんきじゃくやく

﹁ジョゾ、飛んで飛んで！ うんと高く飛んでよ！﹂

ぼうぜん

 ジョゾは舞いあがった。ガサラの町が、欣喜雀躍している町のヒトたちが、呆然と立ち

え がお

すくんでいる騎士たちが、どんどん小さくなってゆく。それでもワタルが、追いかけてく るロンメル隊長の視線を感じるのは、気のせいだろうか。 し げき

﹁言ったでしょ？ わたし、どこまでだって、ワタルと一緒に行くんだから﹂ ほ て 

 頬を火照らせ、火薬の刺激的な臭いに鼻をぴくぴくさせながら、ミーナは大きな笑顔を 浮かべた。 ﹁ワタルは自分勝手よ。わかってる？﹂ ﹁ぼ、僕は﹂

﹁ワタルがわたしたちのことを心配するのと同じように、わたしたちもワタルのこと心配

なの。わたしたちが一緒にいなかったせいで、わたしたちが全然知らない場所で、ワタル こわ

が命を落としてしまうかもしれないと思うと、たまらないの。怖いの。いてもたってもい

られないの。だから、どんなに危険でも、一緒にいたいのよ。ついてゆきたいのよ﹂

 ワタルは言葉もなくミーナを見つめ、それからキ・キーマの大きな顔を仰いだ。水人族 はうなずいていた。

460

﹁何だか知らんけど、俺もミーナの意見に賛成だな﹂

﹁喧嘩は終わりかい？﹂と、カッツが言った。﹁それじゃ行こうかね。まったく、あの家 かくま

の地下室に匿ってもらってたんだけど、逃げ隠れするなんて性にあわないからね。いい加

減腹が立ってたところだったんだ。ボリスの奴の間抜け面、見たかい？ いい気味だった ね！﹂ て ごわ

 たくましく、手強い女たち。上空の風に、くらくらしそうな頭を冷やしながら、ワタル はジョゾの翼に乗っていった。

461

 45 皇都ソレブリア      ミツルは空を見ていた。 ていこく

クリスタル・パレス

よう

 北の統一帝国皇帝の居城﹁水晶大宮殿﹂は、皇都ソレブリアの中央に位置している。城 しん

さいげつ

を芯にして放射状に延びる十数本の街路に沿って、百万人の人口を擁する大都市が今日の 姿を成すまで、二百年以上の歳月がかかっていた。 い よう

 大理石に似た乳白色の石で造られたこの威容、クリスタル・パレスの本丸、皇帝の居室 ふ かん

にもほど近い最上階の客室のテラスに立てば、ミツルは、眼下に広がる都の景観と同時に、

北の統一帝国の歴史そのものを俯瞰することができた。ソレブリアの町の構成は、今現在 そうごん

はな

の北の統一帝国を形成している国民の階層と生活ぶりをも、そのまま映しているからであ

る。城を中心とする官庁街の荘厳な町並み。その外側の商業地区の華やぎ。さらにそれを はんい 

じょじょ

しきさい

取り巻く市民たちの住宅街は、規制の範囲内におとなしく収まりつつも、それぞれの富と はな

個性を主張する豊かな活気に満ちている。 ほ

ほり

たかみ 

 しかし、それらの中心地区から離れるにつれて、町は徐々に色彩を失ってゆく。中心街 へだ

とその外側を隔てている、深く掘りさげられた堀が境界線となり、高処から見おろす者は、 ま

内と外との歴然たる差を目の当たりにすることができるのだった。

462

じょうさい

く

がいえん

めぐ

じょうへき

 皇都ソレブリアはそれ自体が城塞都市である。初代皇帝がここに皇都を定めたときから、 かざぶね

おどろ

営々と築き上げられ、増築と補強を繰り返してきた都の外縁を巡る長城壁は、いつも、南 おとず

つうしょう

ず

い

ど

う

にぎ

大陸から北を訪れる風船商人たちの目を驚かせてきた。しかし、この長城壁にたった一ヵ ほか

ふ

所だけ設けられている関所を通過し、通称〝商人隧道〟とも呼ばれる賑やかな一本道を通っ たいざい

て商業地区へと向かい、そこに滞在するだけで、皇都の他の場所へは足を踏み入れること すべ

ほうし 

れいぞく

を許されない彼らの目には、長城壁の内側でさらに二重構造となっている皇都の真の姿を

知る術はない。富める者と貧しい者。君臨する者と服従する者。奉仕される者と隷属する ろ てい

か こく

れき

者。その位置関係を、これほど正直に露呈している都の形など、南大陸では想像もつかな いものだ。

 クリスタル・パレスからもっとも遠く、また北大陸の過酷な気候が生み出した独特の暦 ほう

けいむ しょ

ほこ

れんが 

法により、もっとも忌むべき方向とされている町の北北東には、皇都の治安を乱そうと試

みた者たちが収容される刑務所が威容を誇っている。この煉瓦造りの建物の裏手には、長

か な た

城壁から外部に通じるもうひとつの関所があった。そこを通る者が何者であれ、これは常 き かん

しゅうじんか い ど う

に、帰還なき道へと通じる関所であった。関所からさらに北北東の彼方へと延びる道は

〝囚人街道〟と呼ばれ、その終着点である強制収容所の位置は、皇立国家地理院発行の地 き さい

図には記載されていない。その規模も知られてはいなかった。

 かつてそこにもっとも大勢収容され、そこで命を落としていった〝囚人〟たちが、単に

463

つみとが

非アンカ族であるという以外には何の罪科もないヒトびとだったという歴史を、残された

ぼうきゃく

たいこう

ヒトびとは知っていた。知ってはいたが、それを口にすることは許されず、またそれに刃 きょうふ

向かうこともできなかった。すでに通り過ぎてしまった恐怖には、忘却という手段で対抗

するしかない。地図上の空白も、その手段のうちのひとつだった。あったことを忘れれば、 なかったことと同じになる。 も

ひそ

たいざい

 それでも、真実はいずこからか漏れ出る。ヒトは語れずとも、建物は語る。自然が語る。

そうして語られたものを、ヒトが密かに書き残す。皇都に滞在して今日で十日。ミツルは は あく

北の統一帝国の歴史と実状を、かなり正確に把握していた。その大部分は、クリスタル・ ひんきゃく

むか

きゅうでん

パレス内に設けられた歴史研究所のなかの書物から得た知識だった。 びた

 皇帝からじきじぎに賓客として迎えられたミツルは、宮殿内を、かなり自由に歩き回る かんげい

さず

ことを許されていた。彼はもっぱら歴史研究所に入り浸り、研究員たちも、探求心豊かで

知力の高いこの〝旅人〟を歓迎して、さまざまな知識を授けてくれた。ミツルは、彼らの ふんしょく

たて

差し出す歴史的知識が、彼らに都合よく粉飾されたものであることを承知の上で、快く受 あいそ 

あき

け取った。なぜなら、愛想の良い対応を心がけておれば、それが盾となり、ミツルが本当 ふういんじょう

に知りたいことを書き記した書物に近づくことが容易になるからだ。実際、それは呆れる ま ほう

ほど簡単だった。歴史書のいくつかは、魔法による封印錠がかけられていたが、その程度 さと

のものならば、造作なく解いて、解いたことを悟られないようにまたかけ直しておくこと

464

もぐ

など、今のミツルには易しいことだった。

 こうしてミツルは、南から潜り込んでいる工作員たちが、五年がかりでもまだつかむこ

とができていないであろう情報まで、しっかりと手の内に収めてしまった。しかし、本当

に求める情報は、まだ得られていない。そこに近づく方法が、ぼんやりと推察できるよう になっただけ││ あお

うす

こお

あ

 だから、ともすると空ばかりを仰ぐことになる。心の内の物思いを、空に映して。

そでぐち

えりくび

 北大陸で仰ぎ見る空は、南大陸の空よりも色が薄かった。凍りつき、褪せている。この ゆる

ほお

季節、北ではそれでも寒気の緩む時期だというけれど、テラスに立つと、袖口や襟首から しの

じゅんかん

冷気が忍び込んでくる。空を横切る鳥の群も、南大陸よりは数が少ない。 う

かんがい

 生きにくい気候が、生きにくい社会をこしらえた。意地悪な循環だ││ミツルの頬に、 くしょう

は けん

子供らしくない苦笑が浮かんだ。しかし、それ以上の表情も感慨もない。

 非アンカ族を根絶やしにし、この北大陸で覇権を勝ち得たアンカ族。同じ者ばかりが寄

はくがい

り集まって、ではようやく平和に暮らせるようになったのか。とんでもない。今度はアン しょうこ

だれ

しぼ

カ族同士で同じことをやり始めた。その証拠がこの皇都の二重構造だ。非アンカ族を迫害

した歴史を血に染みこませた北大陸のアンカ族たちは、いつも誰かを迫害し、その生を搾

り取っていなければ、生きている実感が湧かないようになってしまったらしい。結局、同 じことを繰り返しているというのに、誰も気づいていない。

465

きょうもう

ち ぐ 

あわ

 ばかばかしい。救いがたい狂妄と痴愚。 いと

いか

 何ひとつ共感するところもなければ、憐れみ愛おしむ気持ちを呼びもしない。怒りもな いさ

おろ

ければ、諫める気にもなれない。だが、それで当然なのだ。たとえ北大陸の人民がこれほ まぼろし

うつしよ

もど

どまでに愚かではなかったとしても、ミツルにとっては同じだったろう。 ヴィジョン

しゅんかん

うつそみ

〝幻界〟での出来事など、すべては幻だ。現世に戻れば消えて失くなってしまう、一時の 夢に過ぎない。

と

〝旅人〟の資格を得た瞬間に、ミツルは少年という現身を捨てた。いや、捨てることを許 うつわ

されたのだ。現世でミツルを閉じこめていた器も、幻界ではミツルを捕らえることはでき ない。

あいぼ 

 今ではもう、ミツルはたぶん、人間でさえないのかもしれない。たったひとつの属性は、 ぎ ふん

〝旅人〟であるということ。そして〝旅人〟にあるのは、ただ目的のみ。同情も愛慕も、 友情も義憤も、余計なものは、何もない。

 さて、この空の下に広がる皇都ソレブリアを、どう料理したものだろう？ む だ 

 具体的な手段を講じなければならない。冷たい風に目を細め、ミツルは思案した。もう これ以上、無駄に待たされるわけにはいかないのだ││

 ここに至るミツルの道中に、困難と言えるほどのものはなかった。南北の大陸を隔てて

うば

いる大海の上には、たった三日間いただけだった。風船の船長は、海図を奪い取り、航路

466

たよ

おおうなばら

きょり 

を聞き出してしまうと、ほとんど用なしになってしまった。大海原に出て、距離感をつか

み、方向さえわかってしまえば、風船などという頼りない物理的移動手段よりも、魔法の

・

・

・

方がずっと早くて確実だということが、わかってしまったからである。それ以来、風船の しず

船体は、単なる足場として機能しただけに終わった。 とうちゃく

とし

じょうぶ

 そして北大陸に到着すると、風船は北の近海に沈めて、船長だけを連れてきた、あれは ひそ

ひ ろう

いや

あれで役に立ちそうだと思ったからである。歳の割には丈夫な﹁素材﹂だ。 ちょうしゅう

ねんぐ 

ちょうぜいり

そうぐう

 北大陸に降り立つと、手近な港町に潜んで疲労を癒し、ミツルはすぐに皇都を目指した。 たず

せんめつ

ざん

折良く、街道で、今年徴収した年貢を皇都へと運んでゆく微税吏の一行に遭遇したので、 がい

ちり

道を尋ねる手間も省けた。ついでに﹁素材﹂もいくつか確保できた。殲滅した徴税吏の残

骸は、風の魔法で塵と散らしてしまったので、誰にも気づかれることはなかった。帝都の おく

く し 

さぐ

税務庁で、到着の遅れている徴税吏に首をひねっている役人がいるかもしれないが、そん なのはたいした問題じゃない。 しょうえい

ねむ

 皇都に着くと、消影の魔法を駆使してクリスタル・パレスに入り込み、内部の様子を探っ つ

まくらもと

ね ま き 

ふ

て、皇帝の居室を突きとめた。後は簡単。深夜を待って、いぎたなく眠りこけているガマ・ あら

アグリアスⅦ世の枕元へと現れ、用向きを告げるだけで事足りた。 い ふ 

 皇帝は驚き、畏怖を露わに、寝間着姿のままミツルの足元にひれ伏した。それは、ミツ ルが予想もしなかった以上の反応だった。

467

じょうきょう

 南大陸では、自身が〝旅人〟であることを知られる機会はなく、またそんな状況を招か しょうげき

たいじ 

なくても、ミツルは容易に旅を続けることができた。だから、〝旅人〟の存在が幻界のヒ あた

あこが

いだ

トびとに与える衝撃を、北の皇帝と対峙して、ミツルは初めて実感したのだった。  我らは現世への憧れを抱いているのですと、皇帝は言った。

 ││我らにとって、そこは神聖なる地。神のおわしますところ。私はこの北大陸を、少 しでも現世に近い国へと進歩させたいと願っておるのです。 さつりく

かえり

ま ちが

 その言葉を聞いたとき、ミツルは思わず笑ってしまった。現世の歴史が繰り返してきた ふんそう

い わ かん

紛争と殺戮とを顧みれば、皇帝の言っていることも、あながち間違いとは言えまい││と 思ったからだ。 たお

す

こいねが

 しかし、一方では強い違和感もおぼえた。聞きかじりではあるけれど、統一帝国では、 め がみ

けんぞく

創世の女神を否定し、女神を倒して老神の統べる世をうち立てることを希う、老神教が国 い

きら

教になっているはずである。また老神教では、現世からの〝旅人〟は女神の眷属であり、 かた

〝ザザ・アク〟すなわち神を騙る者として、忌み嫌われているらしいのに、皇帝にはまっ たず

たくその様子がない。  訊ねると、皇帝は少しばかりたじろいだ。

 ││さすがに〝旅人〟の耳は早い。我が国教についての知識も得ておられましたか。

 皇帝は語った。﹁確かに我が帝国では、表向き、老神教を国教と定めております。しか

468

たみくさ

あが

とう

し、それはただの方便。民草をとりまとめ、創世の女神を崇める南の連合国家に対峙する ための、政策のひとつでしかありません﹂

﹁では皇帝陛下も、実は創世の女神さまを崇めているというのですか？﹂ つかさど

 ミツルの問いに、皇帝は笑った。﹁そうではありません。確かに運命の塔はこの幻界の ど こ 

・

・

・

・

・

・

・

・

・

何処かに存在し、そこには、現世のヒトびとの運命を司る女神さまが住まっているのでしょ ・

・

かか

う。しかし、それは幻界の〝神〟ではない。運命の塔と女神さまは、現世のヒトにとって

のみ、神としての機能を持っている。我ら幻界の住人には、いっさい関わりはありません﹂ どの

 なぜならば、幻界の神は、﹁現世﹂そのものであるはずなのだから。 つく

﹁幻界の成り立ちを、ミツル殿はご存じでしょう？ 幻界は、現世のヒトびとの想像力の

ふく

エネルギーが創りあげている世界。ならば、幻界の創世の〝神〟は現世のヒトびとだ。違 り くつ

いますかな？﹂  理屈としては、そのとおりだ。 むじゅん

﹁しかし、それならばなぜ、その現世からやってくる〝旅人〟を迫害するような教義を含 かか

かなめのみとびら

んでいる老神教を、看板に掲げるのです？ 政策だとしても、矛盾している﹂

すぐ

 ミツルの反論は、軽くいなされた。﹁ミツル殿。十年に一度の割合で、要御扉は開きま きた

きょじゃく

す。そのたびごとに、現世からどんな〝旅人〟が来るのか、我々にはわかりません。優れ じゃあく

た人ならばよろしいが、時には邪悪な者も、虚弱な者も来るかもしれぬ。我らが真に仰ぐ

469

かんきょう

べき現世からの〝旅人〟、現世という聖地よりの使者を見分けるためには、厳しい環境を こしらえておかねばなりません﹂ がくぜん

ざ せつ

 愕然としながらも、ミツルは思い出していた。番人のラウ導師は言っていた││旅の厳

しさに、挫折する〝旅人〟は数多いと。旅を打ち切る。幻界の何処かで命を落とし、現世 に帰還できぬまま消息を絶つ。 うやうや

﹁しかし、ミツル殿はここにたどり着いた。たった一人で、この私の居室へと﹂ じゅうぶん

 皇帝はもう一度、恭しく礼をした。 ぐう

むか

つか

﹁お力のほどは、それだけでも充分に推察されます。ようこそおいでくださった。私はあ かんじん

なたを神の使者として遇し、我が盟友としてこの城に迎えましょう。まずは旅の疲れをと るのが肝心﹂  こうして、ミツルはクリスタル・パレスの賓客となった。

 ミツルは訊ねた。これまで、僕と同じようにこの地を訪ねてきた〝旅人〟は、何人ぐら いいたのですかと。

 我が国の歴史上では、統一戦争の激しかった最中に、たった一人訪れたきりですと、皇 帝は答えた。

﹁その〝旅人〟もまた、力の強い真の使者であったそうです。彼は我が国に、種族統一と はんえい

いう思想をもたらされた。平和と繁栄、富と力は、ひとつの血のもとにこそ訪れるもの。

470

ばん

き 

その思想が我が国の土台となり、統一戦争の勝利を呼び、やがては統一帝国そのものの基 盤ともなりました││﹂ ぎゃくさつ

ゆえ

 何ということだろう。北大陸における非アンカ族迫害と虐殺の原因は、現世からの〝旅

人〟にあったのだ。しかも目の前の皇帝は、その〝旅人〟は、強かったが故に真の使者で あり、邪悪ではなかったと言っているのだ。

も

 ミツルは、自分が衝撃を受けていることに驚いた。現世での過酷な運命に揉まれて、も

どうよう

う何があろうと、何を見聞きしようと、けっして驚きはしないと心に決めていたのに。 むち

 しかし次の瞬間には、その心に鞭をくれていた。こんなことで動揺しているわけにはい かえ

かない。幻界での出来事など、自分には何の関わりもないのだ。運命の塔にたどり着き、 いと

目的を達して現世に還る。目指すべきはそれだけなのだから。 ごうしゃ

しんだい

 そのためになら、どんな手段をとることも厭わない、と。

 翌日、豪奢な貴賓室の寝台で目を覚ますと、ミツルの賓客としての生活は、すでに始まっ じょうきげん

かんげい

ぎ しき

ていた。上機嫌の皇帝に、皇帝一族の者たちや、クリスタル・パレスの臣下たちに引きあ い

あせ

わされ、大々的な歓迎の儀式の準備が始められていることを告げられた。宮殿内を案内さ れ、城の謂われを聞かされ、統一帝国の歴史を説かれ││

めずら

 だがミツルが求めているのは、もちろん、そんなものではない。珍しく焦りをおぼえて、 ミツルはもう一度、皇帝との内密な話し合いを求めた。

471

わた

ほうかん

かざ

 そしてうち明けた。自分が北へ渡ってきた理由を。皇帝一族の保持する宝冠に飾られた

宝玉が、自分の求める最後の宝玉であることを。それさえ手に入れることができれば、運

命の塔への道が開ける。一刻も早く、ミツルは宝玉を手にしたいのだ。

いっさい

 さらに、南大陸を出る直前になって、旅を急がねばならない理由が、他にも存在すると 知ったことをも説明した。言うまでもなく、〝ハルネラ〟である。 せま

 運命の塔への競争で、ワタルに負ける気はしなかった。そんな心配は、一切していない。

しかし、二人に一人がヒト柱に選ばれるという確率の高い危険が迫っているのならば、少 しでも早く幻界を立ち去るにこしたことはないはずだ。 うった

 しかし、ミツルのその訴えを、あろうことか、皇帝は大らかに笑い飛ばしたのだった。

﹁〝ハルネラ〟などという事象は、我が統一帝国ではまったく知られておりません。歴史 だま

学者の誰も、そのようなものの存在を認めていないのですよ。あるいはそれは、南大陸の

連邦政府による、悪質なデマであるかもしれぬ。ミツル殿は騙されているのです﹂

 そうかもしれない。だが、そうでないかもしれない。あんたらがただ無知なだけなのか は が 

もしれないじゃないか。ミツルは内心で歯噛みしつつ、それを表情に出さないようにする ために、大変な労力を費やした。

﹁では皇帝陛下は、〝ハルネラ〟など心配するに足らずとおっしゃるのですか？﹂ ﹁そのとおりですよ、ミツル殿﹂

472

う

﹁しかし、たとえそうであっても、僕は運命の塔への旅を急ぎたいのです﹂

か ら だ

 すると皇帝は、ひどく困ったような顔をした。装飾の多い衣装に埋もれそうな身体を起 こし、軽く額に手をあてると、

﹁お気持ちはわかりますが、しかし、しばらくはお待ちいただくほかに術がないのです﹂ おごそ

 と、厳かに宣言した。 なにゆえ

﹁何故にです？﹂

﹁ミツル殿のお求めになっている宝玉を飾りつけた宝冠││それはまず間違いなく、我が かんむり

一族代々の宝である〝封印の冠〟のことでしょう﹂ ﹁〝封印の冠〟││﹂

さいやく

﹁左様です。それをお渡しすることが、今は難しい。なぜならば、〝封印の冠〟をその保

おそ

管場所から動かせば、必ず、我が統一帝国に││いえ幻界全体に、恐ろしい災厄が降りか

かると、我々は知っているのです。ミツル殿のお探しの宝玉が、幻界をその災厄から守っ

ている。だからこそ、その宝玉を飾った冠が、〝封印の冠〟と呼ばれているのですよ﹂ つ

 さすがのミツルも言葉に詰まった。

・

・

・

・

﹁では、どうしろとおっしゃるのです？ 幻界を災厄から守っている宝玉ならば、永遠に 僕の手には入らない﹂ ・

﹁いや、それは違います。だからこそ、今は難しいと申しあげました。実は、その災厄を

473

封印する手だては、他にもあります。もうひとつの方法が。しかしその方法を実行するた

ものう 

めには、残念ながら、我が統一帝国の力だけでは足りません。南大陸からも、そのための 材料を集める必要があるのです﹂  いったい、どういうことなのだ。 こうちゃく

﹁少し以前であるならば││﹂皇帝は玉座にもたれ、物憂い声で続けた。﹁我が統一帝国 きっこう

つ

と南大陸の関係が拮抗し、膠着状態にあったころならば、その材料集めはほとんど不可能

に近いことでした。それなりに手を尽くしてはみたのですが、はかばかしい進展が望めな くわ

かったのです。しかし現在は、事情が違う。詳しいことはまだわかりませぬが、南大陸に せんにゅう

けいせき

潜入させている我が国の工作員たちの報告によれば、かの国から我が国へと、両国の力関

そくざ 

係を激変させるほどの力を持った何かが、ひそかに持ち込まれた形跡があるとか。その

せ

〝何か〟を見つけ出すことさえできれば、我らはすかさず南大陸へと攻め込み、即座に平

らげることまでは難しくとも、こちらの意向を通しやすい状況を作りあげることもできる でしょう﹂ おやじ 

 その〝何か〟について、ミツル殿はご存じか││

 問われて、ミツルは顔をあげた。このタヌキ親父め、本当は知ってるんじゃないのか？  わざと知らん顔をして、探りを入れてるんじゃないのか？  ミツルは、現世から持ち込まれた動力船の設計図を取り出した。

474

﹁たぶん、これのことでしょう﹂  こんなふうに取引するつもりではなかったのに。 つか

 設計図は皇帝の手に渡った。その喜びようときたら、浅ましいほどだった。

﹁聖地よりの使者よ、神の遣いよ。この設計図さえあれば、すでにして勝利は我が統一帝

あっとう

国のものだ。来るべき勝利を、我々と一緒に分かち合っていただきたい。どうぞそれまで、 我が帝国、我が居城での滞在を、心ゆくまで楽しまれますように！﹂

 そしてミツルは待たされることになったのだ。皇帝が南の連合国家を圧倒し、封印の冠 を動かしても安全な方策を講じることができるその時まで。

 失策だ。ミツルはほぞを噛んだ。今の事態は自分の失策が招いたことだ。だが、これか

こぶし

にぎ

らは違う。皇帝よ、あんたが南の連合国家を攻め落とすまで、僕をのんびり待たせておけ よ こ 

ると思ったら大間違いだ。ミツルはテラスの手すりの上で、ぎゅっと拳を握りしめた。

ふる

 すぐにも宝冠を寄越さなければ、その災厄とやらが降りかかってくる以前に、皇都が丸 ほろ

ごと滅びるぞ。そう言って、それができることを見せつけて、皇帝を震えあがらせてやる

のだ。封印の冠が何を封じているにしろ、そんなのは、ミツルには関係のないことなのだ。 その対策なら、勝手に考えろ。  ただ、それにはまだ││ ﹁ミツル殿﹂

475

ふ

 呼ぶ声に、ミツルは、テラスの手すりにもたれたまま、首をよじって振り返った。 ちょくめい

 賓客室の両開きの扉を開けて、アジュ・ルパが姿勢を正し、礼をしている。クリスタル・ しつむ 

ねんれい

おんわ 

ふうぼう

パレスの執務官の一人で、皇帝の勅命を受け、ミツルの世話係を務めている男だ。歳は四

十代も後半と見える。その年齢と、学者的で穏和な風貌に騙されてはいけない。ミツルは にら

彼を、ただの政務官ではないと睨んでいた。 とちゅう

しゅうげき

〝シグドラ〟と呼ばれる皇帝直属の特殊部隊のことは、南大陸にいるときから聞き知って ざんさつ

いた。旅の途中で立ち寄った小さな村の宿屋で、昔この村に〝シグドラ〟が襲撃をかけ、 はら

ある村人の家を焼き払い、家人を惨殺したことがあるという昔話を聞かされたのだ。

ふ しん

 その当時は、まだ〝封印の冠〟にまつわる話など知らなかったから、ミツルは、戦争で

もないのに、北の統一帝国の特殊部隊が、なぜ南でそんな事件を起こすのかと、不審に思っ

た。だが、今ならわかる。それが皇帝の言っていた〝材料集め〟とやらで、はかばかしく 進まなかったやり方なのだろう。

 その昔話をしてくれた宿屋の主人は、声を潜めて言っていた。﹁北の帝国では、北から に

南へ逃げてきた難民を、〝シグドラ〟を使って連れ戻したり、殺させたりしているんだよ。

目的はわからねえ。何かを取り返そうとしてるんだとか、その難民の口をふさぐためとか、 いろいろあるようだけども﹂

 それを聞いて、ミツルは、北へ渡るときには、シグドラの動きによく注意しようと思っ

476

たのだった。 した

いつわ

ぱ

 アジュ・ルパは、おそらくシグドラの一員である。しかも下っ端ではなく、リーダー格 けいかい

の存在なのだろう。皇帝はミツルを歓迎しているし、それは偽りではないのだろうが、だ

からといってまったく警戒していないわけはない。皇帝の都合でミツルに待ちぼうけをく うで

わせていることがわかっている以上、なおさらだ。腕の立つシグドラのメンバーを、ミツ あずまや

ルの身辺に張りつけておこうとするのは当然の処置と言える。

な

﹁ゾフィ様が、よろしければまた、〝戦勝の庭園〟の四阿にて、午後のお茶をご一緒にど うかと申されております﹂ ていちょう

ひとりむすめ

 アジュ・ルパは丁重にそう申し述べた。

 皇女ゾフィは、皇帝の一人娘である。順当に行くならば、現皇帝亡き後は、彼女がガマ・ たいかん

アグリアスⅧ世として戴冠し、統一帝国初の女帝となることだろう。

うわさ

かげぐち

 もっとも、そこまでの道のりが、あまり平らかではなさそうな様子であることを、ミツ みな

ルはすでに知っていた。クリスタル・パレスの住人たちは、皆おしゃべりだ。噂、陰口、

ことがら

ひそひそ話。自身の口が軽いことを意識しておらず、その軽い口が、大切な事柄を漏らし

さそ

てしまうことがあるという危険にも気づいていない、実に操縦しやすいおしゃべりの集団 である。 がた

﹁少しばかり退屈していたところに、有り難いお誘いです。すぐ参りましょう﹂

477

こご

しきち 

かかと

まと

 ミツルはそう応じると、クリスタル・パレスの敷地内を縦断し、〝戦勝の庭園〟へ着く

までのあいだに凍えてしまうことがないように、踵まで届く長い毛織物のローブを身に纏っ た。 あふ

 クリスタル・パレスは、緑溢れる幾多の庭園に取り囲まれている。それぞれの庭園は個々

まつ

に趣向を異にし、個別の名称を与えられている。いちばん多いのは、歴代の皇帝と皇帝一

か れつ

族の重要人物の誕生日を記念して造園されたものだが、〝起源の庭園〟や〝服ろう者の泉 ぶんれつ

の庭園〟など、外部の者にはすぐに名前の由来がわからないものもあった。 ぬ

とりで

〝戦勝の庭園〟は、三百年前、北大陸じゅうに分裂散在していた小国家群との長く苛烈な

内戦を勝ち抜き、ガマ・アグリアスⅠ世が統一帝国を立国したとき、この地にあった砦の

砲台の土台石を、そのまま活かして造られたものである。四阿の柱と屋根にも、砦の素材

であった材木や煉瓦を再利用しており、初めて訪れたとき、ミツルは、野趣という以上に、 さつばつ

いささか殺伐としたものを感じた。

かんぼく

 しかし、皇女ゾフィはこの庭園を気に入っているようである。お茶の招待を受けるのは

これで四度目だが、場所はいつもここだ。北大陸の烈風と寒気に強い灌木が主体の造園で、

こうひ 

もともと、クリスタル・パレスの庭園は華やぎに乏しい。それでも、歴代皇妃の庭園や、

〝光臨の庭園〟と呼ばれるバラ園など、花と色彩に溢れた造りの庭も、ないわけではない

478

め

のだ。なのに、とりわけ殺風景なこの庭園を、皇女ゾフィがなぜ愛でるのか。ミツルには わからなかった。

か ちく

 また〝戦勝の庭園〟は、クリスタル・パレスの敷地内では、城からもっとも離れた場所

に位置している。、ミツルは〝パホ〟と呼ばれている現世の子馬に似た家畜の背に乗って あやつ

行くが、皇女は従者が操る人力車に似た乗り物を利用しているようだ。ひょっとしたら、

ひ せん

たぐい

ゾフィはこの乗り物の方をこそ好んでいて、これに乗る機会をつくるために、〝戦勝の庭 園〟を使っているのかもしれなかった。 ︵あるいは、乗り物を操る従者を好んでいるのかもしれない︶ このえ  き し 

 この従者は紅顔の若者で、近衛騎士どころか兵士でさえない卑賤の者である。武具の類

は一切身につけることを許されず、統一帝国の象徴である太陽を模した文様の入った簡素 チュニック

か

な胴着を着ているだけだ。彼は〝戦勝の庭園〟まで皇女を乗せてくると、彼女のお茶と散

策が終わってまた城へ戻るまで、盾の形に刈り込まれた植え込みの陰に下がって、静かに ひか

控えている。ミツルの知っている限り、皇女が彼の名を呼んだことはないし、彼も言葉を 発したことはない。

 しかし皇女が彼に向ける視線に、何がしかの意味を感じたことは、一度ならずあった。 かたひざ

 初めてお茶に招かれ、植え込みの陰で片膝と片手を地面について礼をしている従者の存

在に気づいたとき、ミツルは彼もシグドラの一員だろうと考えた。クリスタル・パレスの

479

じゅんかい

敷地内であっても、万が一のことを思えば、皇女には身辺警護が必要であろうし、それに

は、これみよがしに敷地内を巡回している警備兵たちや近衛兵たちだけでは心もとない。 ま どうし 

つえ

皇女の身近に、従者に身をやつしたシグドラが付き添っていたとしても不思議はない。

ひ

 だが、今ではそれに確信が持てない。ミツルの持っている魔導士の杖は、その頭部を飾っ よっ

ている魔石がすでに四つの宝玉の力を吸収しているので、様々な威力を秘めている。その とうし 

なかには、軽くかざしてみるだけで、対象物を透視することのできる便利な機能もあった。

とうき 

たとえばアジュ・ルパに杖を近づけてみると、彼がひそかに身に帯びている武器がすべて けんし 

見えるし、それを使う腕前のほどをも推察することができた。剣士の能力が、闘気のオー かがや

ラとなってその身体を包み込んでいるのを、杖が見せてくれるのだ。そしてそのオーラの 色合いや輝きの強さで、どの程度の使い手であるのかを知る。

た

 しかし皇女の従者に限っては、何度杖を向けてみても、隠し武器も見つからなければ、

闘気を感じ取ることもできないのだ。よほど自身の正体を隠すことに長けているのか。そ つつ

れとも、やはりただの無害な車引きに過ぎないのか。 す ばや

た づな

くら

 問題の従者は、今日も植え込みの陰に慎ましく控えていた。ミツルの姿を見つけると、 こし

素早く立ってパホの手綱を取り、ミツルが鞍から降りるのに手を貸してくれた。 い す 

 皇女ゾフィは、四阿に設置された背もたれのある椅子に腰かけ、頬笑んでいた。この椅

子も、元は砦の壁の素材だったという日干し煉瓦を積みあげて造られたもので、そのまま

480

よ すみ

こ

ししゅう

ではいたく座り心地が悪いので、ふっくらとしたクッションが敷かれている。同じ煉瓦製

か し 

わ

の丸テーブルの上には、四隅に凝った刺繍のほどこされたクロスがかけられ、銀器が陽光 に輝いていた。

 皇女がここにお茶に来るたびに、茶器や菓子はもちろん、湯を沸かす道具など、必要な きゅうじ

ものをすべて運び込むために、ざっと十人ばかりの女官たちがぞろぞろとくっついてくる。 さ さい

こた

かた

彼女たちは、お茶の時間のあいだじゅう、こまめに給仕として働き、手の空いている者も、 の

皇女とその客のどんな些細な要求にでも即座に応えられるようにと、ぐるりを取り巻き固 ず 

唾を呑んで待機している。最初のうちは、この大げさな歓待のなかでお茶を楽しむのは、 き い 

なかなか難しいことだった。皇女の自然なふるまいが、奇異に見えた。もっとも、それが

王族というものなのだろう。生まれつき、大勢の他人にかしずかれることを当然として育っ ていれば、誰でもそのようになるのだ。

 くだらない││と、腹の底では思っている。一人に対して十数人が奉仕する、特権的な

仕組み。それによって、もっと有意義に使うことができるはずの人材のエネルギーを無駄

に費やしていることに、まったく無自覚なのだ。しかしそれは、かつての現世の歴史でも

ある。幻界を訪れることは、その意味では、タイムマシンに乗って過去を訪れることに等 しいと、ミツルは考えていた。

﹁今日はことのほか冷えるようです。庭園でのお茶には、あまりふさわしくない陽気でし

481

たね﹂ すす

ひざがしら

 皇女が椅子から立ちあがり、ミツルを出迎えた。従者と同じ格好で、すっと地に膝頭と あいさつ

あお

たましい

きよ

拳をつけて挨拶すると、ミツルは勧められた椅子に近寄った。

﹁しかしこの空の蒼さは格別です。魂まで洗い浄められるような美しさですね﹂ うれ

かお

﹁それは嬉しいお言葉ですわ。ご存じでしょうか。わたくしのゾフィという名前は、古語 では青色を示す意味を持っているのです﹂

 皇女は楽しげに女官たちに指図を与え、薫り高いお茶や色とりどりの茶菓を、テーブル よ

ご ぜん

いっぱいに広げさせた。そのあいだにも、さえずるような声で話し続ける。朝起きたとき ぶ とう

かりぬ 

の気分が好かったことに始まり、いつもの歴史学者による御前講義が難しかったこと、新

としごろ

うわ

けいはく

しい舞踏着の仮縫いに時間をとられてしまったこと、皇都で評判になっている新作歌劇に ついて、女官たちから聞いたこと││

あいづち

 ゾフィは十五歳である。皇女であっても年頃の小娘だ。浮ついて軽薄で、おしゃべりで か もく

あることは、そこらの町娘と変わりない。ミツルは寡黙に、時折ふさわしい相槌のみを入 れながら、皇女のおしゃべりの受け皿となりきった。

 頬笑んだりうなずいたり、驚いたり感心してみせたり。ミツルの反応を、皇女は心から

楽しみ、年少ながら利発な話し相手を得たことを喜んでいるようだ。ミツルもまた、彼女

にはけっして悟られることのない秘密の理由で、このひとときを楽しんでいた。

482

と

くわだ

おもざ 

 初めて皇女に引き合わされたとき、息が停まりそうになるほど驚いた。彼女の面差しが、 ミツルのよく知っている人物に、あまりにもよく似ていたからだ。 お ば 

うわき 

 現世に残してきた叔母││ミツルの父の末妹にあたる女性である。

 ミツルの父は、ミツルの母の浮気を怒り、子供たちを道連れに無理心中を企てた。結果 そこ

として母と小さな妹は父の手にかかり、父は自宅から逃げ出して、二人を追いかけて自殺 しんせき

した。そしてミツルだけが生き残った。殺され損ね、死に損なったのである。

 ミツルは親戚の家を転々とした後、叔母のもとへと引き取られた。いや、ミツルに言わ

せれば、叔母はババ抜きのババを押しつけられたのだ。大学を出て社会人となったばかり やさ

の歳若い彼女は、ミツルの身の上に同情しつつも、きっと途方に暮れていたに違いない。

ミツルに優しくしようとしては失敗し、ミツルをコントロールしようとしては、自身のコ と まど

ントロールを失って、泣いたり怒ったりを繰り返していた。  不幸な人だった。いつも悲しげな、戸惑ったような目をしていた。

 他でもないこの自分という存在が、叔母を不幸にしているのだと、ミツルは知っていた。 うら

にく

そしてミツルをその立場に追い込んだ亡き父を、もう一度この手で殺してやりたいと思う

ほどに恨み、憎んだ。その思いが幻界への道を開き、あの建築途中で放置されたビルの階 かなめのみとびら

段の上に、要御扉を出現させたのだ。

 ちょっとした仕草。表情の変化。声の調子。皇女ゾフィのすべてが叔母を思い出させる。

483

叔母が、前途に何の不安もない女子高生だったころには、きっとこんな美少女だったのだ ろうと、ミツルは思うのだった。 ほうふつ

いたずら

 扉の番人のラウ導師は言っていた。ミツルが幻界を旅するうちに、あるいは現世で親し

い誰かを彷彿とさせるようなヒトに出会うこともあるかもしれないが、そんなときも徒に さわ

騒いではいけないと。

 ││どれほどよく似ていようとも、そのヒトは現世の人間とは異なっている。何ひとつ、

共有している要素はない。なぜなら、おまえの心のエネルギーが、そのヒトの姿をそのよ うに作りあげているだけなのだから。 いまし

 ミツルはその戒めを、導師の他の戒め同様、しっかりと心に刻み込んでいたが、幸か不

なが

幸か北大陸に来るまでは、現世の誰かと似ているヒトに出会うことはなかった。皇女ゾフィ が初めてである。

 そして今││こうしてゾフィの顔を間近に眺めながら、心の底で思うのだった。実は幻 よじょう

界は、現世の人間の想像力のエネルギーの余剰によってできた世界であるという以上のも そうご 

のなのではあるまいか。現世と幻界は盾の裏表、相互に補完しあう関係にあるのではない か。

 現世で切り捨てられたもの。現世で実体化しなかった事象や、かなえられなかった夢や

幻が、幻界を形づくっている。きっとそうに違いない。それだからこそ〝ハルネラ〟にも、

484

くったく

現世と幻界から一人ずつ、ヒト柱が必要なのだ。

 そうであるならば、ゾフィの屈託のない笑顔や、何不自由のない幸せは、実は本来、現 あかつき

きょう

世のミツルの叔母にこそ与えられるべきものなのではないだろうか。ミツルが運命の塔へ

達し、不当にねじ曲げられた運命を修正し、現世に帰還した暁には、今ここでゾフィが享 じゅ

受している幸福のすべてが、叔母のものとなるのだ。

 それは、ミツルにとって、きわめてわかりやすい道標だ。叔母とゾフィの関係は、いわ

ば見本である。その法則は、母にも、妹にも、ミツル自身にも適用されるのだから。 しぼ

 残るひとつの宝玉を前に、知力を振り絞らねばならない局面で、ミツルが、現世の人間 がんば 

に似たヒトに出くわした意味も、そこにあるのではないか。運命の塔はミツルを差し招き、

大詰めのひと頑張りにミツルを奮い立たせるためにこそ、皇女ゾフィと巡り合わせたのだ ろう。 と

は

 だから、ミツルは、ゾフィの他愛ないおしゃべりに付き合うたびに自身の果たさねばな さいにんしき

しょうてん

らない目的の重さを再認識し、それをし遂げたときに得られるものの大きさに、思いを馳 せることになる││ ﹁ミツル様？﹂ ひとみ

 呼びかけられて、ミツルはつと瞳の焦点を絞った。ゾフィがこちらをのぞきこんでいる。

心のなかの思いに気をとられて、会話への集中が切れていたのかもしれない。

485

ただよ

ゆうが 

﹁これは失礼いたしました。あまりに心地よいので、心が空に漂い出そうになってしまっ たようです﹂ くさり

 ゾフィはにっこりと笑った。多彩な色石を銀の鎖でつないで作られた髪飾りが、優雅に 揺れた。 かか

﹁お気になさらないでください。ミツル様が心配事を抱えておられることを、わたくしは し

よく存じております。いえ、その心配事の原因が、わたくしの父にあることも⋮⋮﹂  ミツルは表情を引き締めた。

 ゾフィはずらりと居並ぶ女官たちの方に顔を向けると、命じた。﹁わたくしはこれから、

ミツル様と大事なお話があります。こちらから呼ぶまで、下がっておいで﹂  女官たちはしずしずと立ち去った。〝戦勝の庭園〟から出てゆく。 ﹁おヒトばらいを？﹂と、ミツルは訊ねた。﹁よろしいのですか﹂

﹁はい。女官たちを去らせたところで、いずれどこかで、アジュ・ルパの手の者が聞き耳

を立てていることでしょうけれども、かまいません。それというのも、ミツル様とこのお

話をするように、わたくしに勧めたのが、他ならぬアジュ・ルパだからです﹂

 前者については驚くようなことではなかった。〝シグドラ〟の目は、どこにでも光って いる。しかし後者は意外な展開だ。 ﹁ルパ殿は、何とおっしゃったのですか﹂

486

 ゾフィは軽くくちびるを噛むと、ミツルの頭ごしに、例の従者が控えている植え込みの 方へと視線を向けた。

﹁それをお話しする前に││ミツル様は、わたくしの車を引く従者の正体に、お気づきに なりましたか﹂

487

とこやみ

とうとつ

 46 常闇の鏡    

びしょう

う

 話が唐突にそれたので、ミツルは口をつぐんだまま皇女の顔を見つめていた。 ﹁アジュ・ルパが申していました﹂ ぎょうし

み ぬ 

 ミツルの凝視を受け止めて、少しはにかんだように微笑を浮かべると、ゾフィは続けた。

﹁ミツル様は〝旅人〟の持つ不思議な力で、ヒトの正体をよく見抜くお方だと。きっとそ つえ

ひじ

の杖をお使いになるのでしょうね﹂ い す 

 そう言って、ミツルの椅子の肘に立てかけてある杖の方に目をやった。 け げん

﹁わたくしの従者にも、一度ならず、その杖の力を働かせておられたのではありませんか。 するど

なら

そしてミツル様が怪訝そうなお顔をされるのを、わたくしは見たことがあります﹂  意外に鋭い。ミツルは皇女に倣って微笑をつくった。 そうめい

﹁おっしゃるとおりです。やはり、皇女様はたいへん聡明でいらっしゃる。感服するばか りです﹂

 ゾフィは喜ばなかった。﹁それで、何が見えましたの？ いえ、はっきり申しましょう。 いぶか

何も見えなかったのですわね。だからミツル様は訝られたのです。そうでしょう？﹂ す なお

 ミツルは素直にうなずいた。皇女はいったい何を話そうとしているのか。

488

ウロ

﹁見えなくて当然です。あれはヒトの姿をしてはおりますが、ヒトではないのですから﹂ おのれ

 あの従者は〝虚〟というものなのですと、ゾフィは言った。 たましい

﹁魂なき存在です。主人の命令には忠実に従いますが、己の意思を持つことはありません。

感情もなく、痛みをおぼえることもない。病を得ることはあり、殺せば死にますから、命 つぶや

はあるのでしょう。でも命があるだけで、果たして生きていると言えるものでしょうか﹂ あわ

れんあい

 哀れです││と呟く。ゾフィがあの従者に向ける視線の意味は、そういうことだったの だ。ほのかな恋愛感情などではなかった。

﹁ウロというもの、初耳です﹂と、ミツルは言った。﹁南大陸では聞いたことがありませ んでした﹂

ふ

﹁ええ、当然です。あれはこの北大陸だけのものなのです﹂ かみかざ

﹁病が原因ですか？﹂

げ か 

そ ち 

 ゾフィは、髪飾りが落ちそうになるほど強くかぶりを振った。﹁いいえ！﹂ まじゅつ

おび

おそ

 ミツルは目を細くした。﹁では、薬や魔術？ それとも何らかの外科的な措置をほどこ すのでしょうか﹂

 ゾフィのミツルに向ける視線に、初めて怯えの色が混じった。﹁恐ろしいことをおっしゃ いますのね﹂ ﹁思いつきです﹂

489

とこやみ

あま

ひび

おさ

 椅子に座り直し、髪飾りを直すと、皇女は持ち前の甘やかな響きの声を少し抑えた。

ゆえ

﹁ヒトは、〝常闇の鏡〟をのぞきこんでしまうと、ウロになるのです。理由は、常闇の鏡 か ら だ

に

に魂を吸い取られてしまうからだとも、そこに映る光景があまりに恐ろしい故に、魂がそ

のヒトの身体から逃げ出してしまうからだとも言われていますが、はっきりわかってはお かしこ

こうてい

りません。ただ、どんな強いヒトでも、賢いヒトでも、常闇の鏡をひと目見れば、みんな いそが

ウロになってしまいます﹂ ひそ

 ミツルの頭は忙しく活動を始めた。どうやらゾフィは今、皇帝である父親がミツルから かく

はかり

隠しているものについて、密かにうち明けようとしているらしい。ミツルが図書室の資料 つ

すみ

を読み尽くしても知ることができなかった、皇帝一族だけの秘密。

 しかも、それはアジュ・ルパの差し金だという。ミツルは心の隅で、思案の秤を動かし

たくら

た。ゾフイはそのことの意味を理解しているのだろうか？ アジュ・ルパは何を企んでい る？

﹁その〝常闇の鏡〟というもののことは、今初めて教えていただきました。へえ⋮⋮﹂  と、ミツルは首を振ってみせた。

﹁恐ろしい鏡ですね。それは、この北大陸のどこかに存在するのですか？﹂ こうき しん

きんちょう

おどろ

 好奇心を表しながらも、あくまでもこれまでの会話の続きで、のんびりと質問した。ゾ ほしょく

フィは、捕食動物の足音を聞きつけた野ウサギのように緊張している。少しでも驚かされ

490

しんちょう

わた

れば、巣穴のなかに逃げ帰ってしまい、二度と首を出してはくれないだろう。慎重にしな くては。 うかが

 案の定、ゾフィはそろそろと目をあげて、ミツルの顔色を窺っている。

﹁父は││ミツル様に、常闇の鏡のことをお話ししてはおりませんか。差し渡しがわたく たけ

しの身の丈ほどある、銀色の鏡。形は、たいそう美しい鏡です﹂ うかが

﹁ほう。伺ったことはありません﹂ ﹁本当に？﹂

のどもと

しばい 

 ミツルは笑ってみせた。﹁本当です。そんなに張りつめたお顔をされるほどに、それは ことがら

大切な秘密の事柄なのですか？﹂ うそ

とう

 小さなため息を漏らすと、ゾフィは片手を喉元にあてた。芝居がかった仕草ではあるけ おうのう

め がみ

れども、その懊悩は嘘ではなさそうだ。

ほうかん

かざ

﹁ミツル様は、創世の女神さまがそこにいるという、運命の塔を目指しておられるのです ね﹂ い

﹁それが〝旅人〟の使命であり、目標ですから﹂

かんむり

﹁それにはあとひとつ、宝玉が要る。その宝玉は、我が皇帝一族が持っている宝冠に飾ら れている﹂ ふういん

﹁ええ、封印の冠ですね﹂

491

まつげ 

ふ

﹁それはご存じでしたか。そうですか﹂  ゾフィは長い睫毛を伏せる。 ﹁大切な冠で、みだりに動かすことはできないというお話でした﹂

たず

﹁おっしゃるとおりです。だから父は││こうしてミツル様をお待たせしております﹂ ていねい

 お待たせする理由について、父からは何と説明を受けたでしょうかと、ゾフィは訊ねた。 しょうさい

いか

 ミツルは姿勢を正して、皇帝とのやりとりの詳細を、丁寧に説明した。

 そんなことをすると、またぞろ腹が立ってくる。怒りは、ミツルの顔の皮一枚下にまで じゅうまん

充満していた。今ここで、ゾフィの可愛らしい顔に面と向かって、僕はあなたの父上の勝

が まん

ほろ

手な言い分に振り回され、待ちぼうけをくっていることに、もう我慢がならないのです。

だからここに来る前も、居室のテラスから城下を見おろして、この皇都を滅ぼしてやろう そうかい

は

と考えていましたと言ってやることができたなら、どんなに爽快なことだろう。

 しかしミツルの賢さと、その怒りの強さ故に、かえって仮面は剥がれない。語るミツル にゅうわ

の柔和な表情を、ゾフィは一心に見つめている。そしてミツルが言葉を切り、冷めかけた お茶を一口飲もうとすると、小声で訊ねた。 ﹁何だか歯がゆいようだと、お思いにはなりませんでしたか﹂ ﹁どういうことです？﹂ さいやく

﹁封印の冠がどれほど大切なのか、それを動かすとどんな災厄が降りかかるというのか、

492

父は具体的にお話ししておりませんもの﹂

﹁そうですね﹂ミツルはゆっくりと言葉を選んだ。﹁僕もお訊ねしてみたのですが、それ 以上立ち入ったことは教えていただけませんでした﹂

 皇女は急に身を乗り出すと、つと手をのばしてミツルの手の上に重ねた。 さ

いみごと

﹁お許しください。言い訳をするのではありませんが、父は父なりにミツル様のためを思 けが

うつしよ

い、細かなお話は避けたのです。なぜならば、封印の冠にまつわる事柄は、忌事であるか

らです。穢れであるからです。現世という聖地からの神の使者であるミツル様のお耳に入 れてはいけないと、父は考えたのでしょう﹂ やさ

 ミツルは、重ねられた手をそのままに、さらに優しい口調で問いかけた。

﹁わかりました。しかし今、皇女様は、僕にその忌事について教えてくださろうとしてい つ

る。そうですね？﹂

 ゾフィは思い詰めたまなざしのままうなずいた。そして、急にはっとしたようにミツル はな

の手から手を離し、テーブルから身を起こす。 がた

しか

﹁お気持ちは有り難く思います﹂ミツルは頭をさげた。﹁でも、心配ですね。そんなこと をなさっては、皇帝陛下に叱られませんか﹂ ﹁それは⋮⋮﹂

 先回りをして、ミツルはさらに微笑を広げる。﹁教えていただいたことを、僕がこの胸

493

だいじょうぶ

ひとつに収めておけば大丈夫だと。そういうことですね？﹂ え

 ゾフィは、他愛ない秘密を共有する親しい友達同士のように、笑みを浮かべた。そわそ ぬぐ

わと、慣れない手つきでお茶のポットを取りあげ、カップに注ぎ足そうとして、こぼして

しまった。ミツルがナプキンでそれを拭っていると、ゾフィは小声で言った。﹁アジュ・

ルパが申していたのです。ミツル様はお一人でいるとき、とても悲しげなお顔をなさって いることがあると﹂  スパイめ。ミツルは内心で毒づいた。

しず

﹁それはきっと、現世のことを思い出しておられるときなのですね。現世に残してこられ なつ

たお身内の方たちや、お友達││懐かしい方々のお顔を思い浮かべて、心が沈んでしまう のでしょう﹂

 ミツルは口をつぐんでいることで、ゾフィの言うとおりだと認めてみせた。

﹁一日でも早く運命の塔へ至り、目的を果たして現世にお帰りになりたい。ミツル様はそ

・

・

・

はげ

う思っていらっしゃるのだと、ルパは申しました。わたくしもそう思います。それが当然 ・

だと思いますもの﹂  でも、それでもと声を励まし、

﹁父がミツル様をお待たせしていることにも、本当にそれだけの理由があるのです。ルパ なっとく

は、皇帝陛下のご説明では、ミツル様にご納得いただくには足りないと考えています。そ

494

すす

れでわたくしからお話ししてはどうかと勧めてくれたのでした﹂  すべては、常闇の鏡のせいなのですと、ゾフィは言った。

﹁封印の冠が封じているのは、常闇の鏡です。あの恐ろしい鏡の力を抑え込むことができ

るのは、封印の冠に取りつけられた、あの尊い宝玉だけなのです。ミツル様がお求めのそ の宝玉を、わたくしたちは〝闇の宝玉〟と呼んでいるのですが﹂ ヴィジョン

 闇の宝玉。ミツルの胸がざわついた。

﹁そも闇の宝玉は、〝魔界〟から〝幻界〟へと持ち込まれたものです。だからこそ、常闇 の鏡を封じることができるのです﹂ たんてき

ほか

 ミツルは端的な質問を放った。﹁常闇の鏡とは、いったい何なのです？ それに魔界と かげ

えんりょ

は？ 現世と幻界の他に、まだそういう世界があるのですか？﹂ い

 ゾフィの活き活きとした顔色が翳り、口調も遠慮がちになった。 つい

﹁今さらミツル様に、わたくしがこんなことをご説明するのもおかしいのですけれども、 しんぼう

つく

少しご辛抱くださいませ。現世と幻界という、対になる世界。しかし幻界は、現世あって へだ

こそ存在できる世界です。現世の想像力のエネルギーが、幻界を創るのですから。そして、 ふち

両者のあいだを隔てているのは、〝大いなる光の境界〟。さらに現世と幻界は、等しく こんとん

〝混沌の深き淵〟に取り巻かれてもいる││﹂  ミツルはうなずいた。ゾフィは続ける。

495

はかな

あわ

﹁より正確には、現世も幻界も、〝混沌の深き淵〟のなかに浮かんでいると言った方がい

ま ちが

いのです。無限の淵の表面に浮かぶ、儚き泡のようなもの。でも、これほど美しい泡はあ りません。

 さて、わたくしは先ほど、現世と幻界を、対になる世界だと申しました。それは間違い

ではありませんけれども、対になるといっても、一対一ではありません。なぜなら、現世 あずか

はたったひとつだけですが、幻界は複数が同時に存在しているからです。わたくしたちが

こうして暮らしている幻界の他にも、わたくしたちの与り知らぬところで、時を刻んでい る幻界がいくつもあるのです﹂

 ラウ導師でさえそんなことは言っていなかったけれども、ミツルはさして驚かなかった。

想像力が形成する世界なら、それもおかしくはない。現世には無数の人が存在する。それ

はつまり、それだけの数の人に見合うだけの想像力││思想や夢や心情があるということ

でもある。幻界が複数存在するというのは、むしろ自然なことなのかもしれない。

﹁〝並行世界〟ですね﹂と、ミツルは言った。ＳＦ小説で読んだことがある。 ﹁へいこう││？﹂ ﹁いえ、何でもありません。それで？﹂ こし

 ゾフィは集中が乱れたのか、ちょっと瞳を泳がせた。話の腰を折られることに、まった く慣れていないのだ。

496

つ

あふ

﹁多くの場合、幻界は平和な世界です﹂と、考え考え言葉を継いだ。﹁わたくしたちが今

きょうふ

こうして暮らしているような。そうですわね？﹂ ﹁はい、まったく﹂

﹁でもなかには、暗黒に満たされ、恐怖に満ちた幻界もあります。敵意と害意に溢れた闇 の世界││﹂ ﹁それが〝魔界〟なのですね？﹂ ・

・

・

・

・

・

・

・

・

・

にく

 うなずいて、ゾフィは言った。﹁そうです。わたくしは、歴史学者たちからこう教わり ・

しんりゃく

ました。魔界とは、いわば幻界になり損なった世界なのだと。だからこそ、幻界を憎み、 ねら

それを滅ぼすことを望んでいる。そこに立ちこめている闇は、常に幻界を侵略することを 切望し、機会を狙っているのです﹂ すこ

ゆが

 混沌の深き淵の底には、いずれ幻界へと形をなす未分化の種が、たくさん沈んでいる。

それらが健やかに幻界へと育ち上がれば幸いだが、どこかで何かが間違い、歪み、曲がる だ

と、魔界へと堕してしまう││ ふる

 ゾフィは語りながらも震えるほどに怯えているが、ミツルは少しも怖くなかった。現世

の人間の想像力が創り出す世界なら、すべて魔界になったっておかしくないと思うからだ。

むしろこののんびりした幻界の方が、現世の人間が生み出す仮想の世界としては〝異種〟

が よく

なのではないか。そう冷静に判断できるほどに、ミツルは、人間の悪意や我欲について、

497

よく知っているのである。 ただ

﹁でも、幻界も魔界も、元を質せば同じものです。だからどんな幻界のなかにも、少しば おろ

かりは魔界に似た要素が含まれています。魔界との接点と申しましょうか。それがあるの かじ

です。敵意や害意や愚かさが存在しない世界はあり得ないのですもの﹂ どうさつ

﹁なるほど。正しい洞察です﹂ミツルは言って、会話の舵をゾフィから取りあげることに

した。﹁そして、我々が暮らすこの幻界の場合は、その接点となるものが〝常闇の鏡〟な のですね？﹂ ﹁はい﹂ しんこう

し ごく

﹁だから、魔界よりの侵攻を防ぐために、〝封印の冠〟で封じておかねばならない。そう

であれば、〝封印の冠〟をみだりに動かすことができないのは、当然至極のことです﹂ あんど 

 ほっと安堵して、ゾフィはしばらくぶりに頬笑んだ。 ふさ

﹁これは僕の勝手な推察ですが、もしかすると皇帝陛下の御一族は、この幻界の始源の時 ほう

かがや

より、〝常闇の鏡〟を奉じ、それによって魔界との通路を塞ぐ、尊いお役目を果たしてこ られたのではありませんか？﹂  驚きと喜びで、ゾフィの顔が輝いた。

﹁ええ、そうです！ おっしゃるとおりなのです！ ですからこの北大陸ばかりか、幻界

全体を統一し、平和に治めることが、我が一族の悲願なのです。いえ、使命なのです。わ

498

うかが

たくしたち一族の遠い祖先は、幻界の始まりの時に、創世の女神さまから〝常闇の鏡〟の 管理をゆだねられた選ばれた一族なのですもの﹂ おごそ

﹁たいへんな使命です﹂ミツルは厳かに言ってのけた。﹁このお話を伺えば、僕のもうひ とつの、ごくささやかな疑問も解決します﹂ ﹁どんな疑問です？﹂

しんぎ 

﹁南大陸では、北の統一帝国の国教である老神教は、創世の女神さまを否定していると聞

いや

かされてきました。ですから僕は、皇帝陛下にお目にかかるとすぐに、その真偽をお訊ね かた

したのです。なぜなら老神教では、僕のような〝旅人〟は神を騙る卑しい存在とされてい るのですからね﹂ ﹁ごめんなさい﹂と、ゾフィは小さくなった。 ・

・

あお

たいこう

﹁いえ、いいのですよ。皇帝陛下はすぐにお答えくださいました。老神教を国教としてい

るのは、あくまでも創世の女神を絶対と仰ぐ南大陸に対抗するための政策だと。真に仰ぐ は、幻界の源である現世だと﹂ ﹁ええ、そうですわ！﹂

﹁それはでも、創世の女神さまを否定するということではない。女神さまは確かにおわし ただ

まし、運命の塔に住んでいる。但し、女神さまは現世の人びとにとっての運命の神であり、

幻界のヒトびとの神ではないのだともおっしゃっていました。僕にはそれが、少しわかり

499

す

にくかった。でも、今のお話を聞けばスッキリします。皇帝陛下の御一族は、創世の女神

さまから幻界の管理を任された、聖なる管理者なのですね。女神さまは幻界を統べている

こ

わけではなく、その役割を皇帝陛下の御一族に託されて、安堵して運命の塔に籠もってお られる。そういうことなのですね﹂

す ば 

 両手を胸の前であわせると、ゾフィは満面に笑みを浮かべた。﹁ミツル様は、今のわた つたな

くしの拙い話だけで、それらのことを理解してしまわれるのですね！ 素晴らしいわ﹂ こむすめ

﹁いえ、皇女様のお話のおかげですよ﹂ としごろ

 ゾフィは、この年頃の小娘にしかできない角度で首をすくめて、少しばかりスネたよう

な顔をした。﹁もしも、南の愚かなヒトたちが信じているように、本当に創世の女神さま

が幻界のすべてを統治しておられるのならば、常闇の鏡なんて、そのお力ですぐに封じて

しまえるはずでしょう？ でも、女神さまはそれをなさらない。それは真の神のあるべき 姿ではないと思いますの﹂ ﹁まったくです﹂ けいべつ

けんお 

﹁でも、そういう真実を、南大陸のヒトたちは何ひとつ知らないのです﹂

 皇女ゾフィの表情のパターンのなかに、軽蔑と嫌悪と呼べる種類のものも存在している ことを、ミツルは知った。

﹁しかし、困りました﹂と、ミツルは片手を額にあててみせた。﹁封印の冠がそれほど大

500

いっかい

ふ ぜい

切なものであるのなら、どうして一介の〝旅人〟風情である僕などが、それを手にするこ とができましょう﹂ かんじん

﹁ですから、それが││﹂ゾフィはまた身を乗り出した。﹁肝心なことなのです。常闇の

鏡を封じる方法は、もうひとつあるのです。ミツル様は、〝真実の鏡〟のことはご存じで すか？﹂ めぐ

 もちろん知っている。出発の時にラウ導師に教えられた。旅のはじめに、ミツルは真実

の鏡を持つヒトと巡り合うだろう。真実の鏡は〝旅人〟の道標となる大切なものだ。また、

もど

それを持って現れるヒトは旅の仲間であり、ミツルの助力者となる。真実の鏡と、ミツル み いだ

が順番に見出しては手に入れてゆく宝玉の力を組み合わせれば、一時的に現世に戻ること もできる、と。

 確かにラウ導師の言うとおりだった。番人たちの村を出るとすぐに、ミツルはある場所 で、真実の鏡を持つ南大陸のヒトに出会った。

なりわい

 そのヒトは、ミツルが〝旅人〟であることを知り、真実の鏡を必要としていることを知 やと

じゅうじん

ると、自分を雇わないかと持ちかけてきた。どうやらその種の用心棒のようなことを生業 にしているらしい、獣人族の男だった。 ご めん

 ミツルは、そんな男を旅の仲間にするなど、まっぴら御免だった。そもそも仲間など必

要ない。しかも自分を雇えと││つまりは対価を要求してくるような相手に、どうして信

501

を置くことができようか。

 だからミツルは、その獣人族の男を殺してしまった。そして真実の鏡を奪ったのだ。今 も、身につけて持っている。

くだ

﹁ええ、存じています。しかし真実の鏡は、常闇の鏡とは違い、完全な形をしてはいない だんぺん

ようですよ。細かな断片となっている││﹂ ちりば

﹁そうなのです。真実の鏡は、幻界のはじめのころに創世の女神さまの手で打ち砕かれて、

幻界じゆうに鏤められてしまいました。その結果、その価値を知らぬヒトたちの手に、広 く渡ることになってしまっているのです﹂

﹁しかし、それらを集め、また完全な形の真実の鏡を再生させることができるならば？﹂ と、ミツルは問いかけた。

﹁はい。その力で、常闇の鏡を封じることができます！﹂ゾフィは声を強めた。﹁常闇の

鏡は魔界に通じ、真実の鏡は現世へと通じる道を開くもの。ですから、そのふたつを合わ そうさい

せ鏡にすれば、相殺することができるのです﹂

そう

 だからこそ、代々の皇帝は、手を尽くして真実の鏡を集めようとしてきたのだという。

﹁時にはかなり乱暴な手段も講じてきました。でも幻界は広く、北から南へ海を渡り、捜 さく

索の手を伸ばすのは難しいことでした﹂ じょうきょう

 しかし、今は状況が違う。動力船という新たな力を得て、今度こそ、この統一帝国は真

502

た や す

の統一国家をうち立てることができるだろう。そうなれば、真実の鏡の捜索と再生も容易 いことになる。

﹁真実の鏡の力で常闇の鏡を封じてしまえば、封印の宝冠は必要ではなくなります。ミツ

ル様のお望みのままに、いつでも宝玉を取り外していただくことができるのです。だから

こそ父は、こうしてミツル様をお待たせしている││お待ちいただかなければならぬ深い うやうや

こし

理由を、ご理解いただけましたでしょうか﹂

 ミツルは席から立ちあがり、恭しく腰を折った。﹁よくわかりました。これほど大切な かんだい

いだ

ことを僕にお話しくださった皇女様の寛大なお心と深い思いやりに、心から感謝申しあげ ます﹂

 ひとしきり、ゾフィは喜んだり照れたり、ミツルの手を取ったり我が胸を抱いて安堵し ほとばし

たり、忙しく感情を迸らせていた。そのあいだ、ミツルは腹の底で冷たく思考していた。

う

 この小娘は││いや、皇帝自身も、真実の鏡を再生させ、常闇の鏡を封じてしまえば、

こんきょ

それを守り管理しろと女神から命ぜられたという皇帝一族の特権の根拠も失せてしまうと

だれ

めんどう

いうことに、気づいているのだろうか。幻界を平定してしまえば、誰もそんなことなど気 にしないからかまわないということか。 う

 あるいは、常闇の鏡を封じるという役割に、疲れたか、倦んだか、それが面倒になって

つら

きているのかもしれない。世界の管理者といえば聞こえはいいが、案外辛い役割なのかも

503

しれない。  だが、そんなこともミツルにはどうでもいい。 じゅんすい

﹁もう少々││そう、これは現世からの〝旅人〟である僕の純粋な好奇心を満たすために、 お訊ねしてもいいでしょうか？﹂ か

 ゾフィは危なっかしく茶をいれ替えながら、明るい目でうなずいた。ミツルは彼女をや さえぎ

んわりと遮った。

﹁お茶は僕がいれましょう。さあ、もう難しいお話は済んだのですから、皇女さまはおく つろぎになってください﹂ ﹁はい、ではお任せします﹂

しゅうばん

﹁実際、魔界の力というのは、どれほど恐ろしいものなのですか？ それについて、この し

栄えある統一帝国の学者たちも、知識を持っているのでしょうか﹂

 ゾフィの口元が引き締まった。﹁かつて一度だけ⋮⋮統一戦争の終盤に、ごく短いあい

だのことですが、封印を解いて魔界の力を招き寄せたことがあるそうです﹂ なにゆえ

て ごわ

﹁それはまた、何故に？﹂

く

﹁我が帝国に反抗する、手強い敵を平らげるためだったそうですわ。原野をさまよい暮ら や ばん

す部族集団で、野蛮で、国の体を成していないが故に、しつこく帝国の軍勢の足元に食ら いたずら

いついてきて⋮⋮。そんな蛮族のために、徒に帝国軍の軍勢を疲労させるわけにはいかな

504

いと、魔界の力を借りることにしたのです﹂

みなごろ

 常闇の鏡を通って飛来した魔界よりの魔族の軍勢は、またたくまに蛮族を皆殺しにして しまった。

﹁恐ろしい⋮⋮。しかしそれでは、帝国軍にも被害が出たのではありませんか？﹂

﹁蛮族たちを原野に招き寄せ、その近くに常闇の鏡を移動させ、慎重に作戦を立てていた

ので、幸いなことに、被害は最小限で済んだそうです。それに、蛮族を平らげると、すぐ しゅんじ

ちり

き

に封印は戻されました。その間││せいぜい一時間ほどだったと聞いています﹂ ま

 封印を戻すと、幻界に舞い降りた魔族たちは、瞬時にして黒い塵となって消え失せたと いう。 ﹁魔族はどんな姿形をしていたのでしょう﹂

はばか

﹁わかりません。図書室の古い戦史をひもとけば、図版のひとつぐらいはあるかもしれま せんが⋮⋮﹂

か

 ミツルが知っている限りでは、そんな図版などない。記録に残すことさえ憚られるほど の恐怖だったということか。

﹁魔族が蛮族に襲いかかった原野は、今でも草木一本はえない枯れ野のままです。ここか ら遠く離れたところですから、わたくしは存じませんけれど﹂ そ

 そこでゾフィは、また話が逸れるような質問を投げてきた。﹁ミツル様は、石造りのこ

505

クリスタル・パレス

か な た

い よう

い

の城が、なぜ〝水晶大宮殿〟と呼ばれているのか、その謂われをご存じですか？﹂ し てき

 ミツルは、彼方のクリスタル・パレスの威容を仰ぎながらかぶりを振った。 しゅうりょう

﹁いえ、何も。確かに、ご指摘を受ければ不思議なことですね﹂

﹁統一戦争が終了したのは三百年前のことですが、ここが帝都と定められたのは、それか とうめい

らさらに百年ほど後のことです。城を築き、常闇の鏡を安置すると、その一瞬、この城が、 すいしょう

あたかも全体が水晶でできているかのように、透明でまばゆい光を放ったのだそうです。

その美しさを記念するために、クリスタル・パレスと名づけられたのですよ。蛮族を平ら

まなざ 

げた戦いの折も、封印を解いたときとかけ直した時に、同じような光が溢れたという話を おそ

しんけん

聞いたこともあります。それはきっと、常闇の鏡の意思の発露なのでしょうね﹂  解放の喜び？ 畏れられ敬われることへの満足？ 鏡の意志か。  しかし、期せずして話は、ミツルの都合のいい方向へ流れてきた。

﹁そうすると、常闇の鏡はクリスタル・パレスのなかにあるのですね？﹂ きゃしゃ

﹁はい﹂ゾフィは気軽にうなずいたが、こればかりは隠しきれないミツルの真剣な眼差し ど こ 

にひるんだのか、あわてて、華奢な手をひらひらと振りながら続けた。

﹁でも、何処にあるのか、わたくしは存じませんの。知っているのは父と、神官長だけで す﹂

﹁しかし、鏡を安置する部屋や、聖堂のような場所があるはずでしょう？ 城の設計図を

506

見れば││﹂

はば

﹁結界で隠されているのです。ですからそのお部屋が何処にあろうと、結界に阻まれて、 誰もたどり着くことはできません。そもそも、見えないのですもの﹂

 ゾフィはあっさりと答えたが、ミツルには重い返答だった。思わず、どさりと椅子の背 にもたれてしまうほどの。

ま どう

 結界か││なるほど。だから今まで、宝冠つまり最後の宝玉のある場所を、探り出すこ とができなかったのだ。 し さ 

 これまでの旅では、宝玉を探すことにも、ほとんど苦労をしなかった。最初はこの魔導 ねむ

ありか 

の杖が、第一の宝玉の眠る場所を示唆してくれた。そうして最初の宝玉を見つけると、そ

の宝玉が二番目の宝玉の在処を、二番目を見つければ、それが三番目の宝玉の在処を、次

す

から次へと指し示してくれたのだ。ミツルはただ、宝玉の声に耳を澄ましてさえいればよ

かった。最後の宝玉が北大陸にあることだって、宝玉たちが教えてくれたのだ。北へ渡り、 皇帝に会え。皇帝がすべてを知っている、と。 ちんもく

 それなのに、いざ北へ来てみると、魔導の杖は沈黙してしまった。最後の宝玉がどこに

あるのか、皇都なのか他の場所なのか、それさえも教えてくれない。場所がわかりさえす れば、ミツルだってどうにでも行動を起こすことができたのに。  その理由が、やっとわかった。胸のつかえが消えてゆく。

507

よっ

 皇帝一族が代々守ってきた常闇の鏡だ。その安置場所を隠す結界ならば、さぞかし強力

な魔法の力を集めてつくられていることだろう。四つの宝玉の力を吸収している魔導の杖 た ち う 

す

でも、太刀打ちできなかったとしても不思議はない。

かたむ

﹁その結界は、帝都のあちこちに、魔法石を据えることによって形成されているというこ とです﹂ ゆうが 

 優雅にお茶のカップを傾けながら、ゾフィは言った。

﹁というより、そもそもこの帝都そのものが、常闇の鏡を守り隠す結界を構成するために、 いしずえ

き

設計されているそうですわ。ですから、帝都の主要な建物の礎に、その魔法石が使われて いるのでしょうね、きっと﹂

 ミツルは、笑いだしそうになるのを必死でこらえた。こちらが何も訊かないうちに、こ

んな大切なことを教えてくれるとは。おしゃべりで頭の軽い皇女様。何という有り難い存 在だろう。

こうい 

 皇女ゾフィこそ、ミツルの旅の真の助力者であるのかもしれない。 はや

 ││皇都そのものが結界であるのなら。

は かい

 ミツルは逸る気持ちを抑え、深く静かに息をついた。 こわ

 ││皇都を壊してしまえば結界も消える。 おど

 皇帝を脅すための材料としてではなく、皇都を破壊するという行為そのものに、意味が

508

じゃき 

生まれた！

 邪気のない瞳でミツルを見つめている皇女に、胸の内で語りかける。あなたは何と気持 ひとよ 

ちが優しく、お人好しであることだろう。あなたは、あなたが対面しているこの僕が、本

当は何を考えているのか、一瞬でさえ疑ってみることをしない。あなたに、この話をうち そそのか

じ

はんえい

明けろと唆したアジュ・ルパの真意がどこにあるのか、探ってみようとなどとは思いもし ない。 ぼうけい

 三百年このかた北大陸の富を独り占めにし、繁栄してきた皇帝一族には、当然のことな えんせき

がら縁戚も数多い。そのなかには、傍系の家系で、皇帝の座など望むべくもない身分なが はんい 

ふくへい

ひそ

ら、現皇帝に叛意を抱き、その座を狙おうとしている者たちもいる。ゾフィの女帝への道

のりが平らかではなさそうなのも、もちろんそのような伏兵が潜んでいるからである。 えさ

ね がえ

〝シグドラ〟は皇帝の飼い犬だが、しかし飼い犬にもその意思はある。より強く、より好

い餌をくれる側に寝返る準備は、いつでもできているものだ。アジュ・ルパもその一人だ。

彼が皇女を唆し、うち明け話をさせたのは、そうすることによってミツルを動かし、何ら うま

かの事を起こさせて、それを皇帝の失策とすることができるかもしれないと、企んだから

だろう。もちろん彼の背後には、さらに彼を唆し、旨い餌で釣っている誰かの存在がある はずだが││  そんなのは、どうでもいい。

509

 ││あんたの腹は読めているよ、ルパ。でも、それでもあんたに礼を言おう。

 何も知らないのは皇女だけではない。アジュ・ルパも同じだ。ミツルが本当に立ちあが な

れば、それは、ガマ・アグリアスⅦ世の失策などというレベルには留まらない大事へとつ ながるなどと、想像もしていない。結局、ミツルを舐めているのだ。  しかし、それは計算違いというものだ。 か ぜ 

め

﹁そろそろ女官たちを呼び戻しましょう。風が出てきました﹂と、ミツルはにこやかに言っ ほお

た。﹁皇女様がお風邪を召されては、僕は安らかに眠れません﹂ うれ

 ゾフィは嬉しそうに頬を染めた。女官を呼ぶ銀の鈴に手をのばした彼女を、ミツルは ちょっと止めた。

﹁最後に、もうひとつ教えてください。常闇の鏡が、それほどまでに厳重に封じられ隠さ

れているのならば、なぜヒトがそれをのぞきこんで、ウロになってしまうなどという事故 が起こるのですか？﹂

 とたんに、ゾフィは、今まででいちばん後ろめたそうな顔になった。頬の紅潮が、一気 に冷める。 ﹁それは⋮⋮あの⋮⋮﹂ けいばつ

﹁一種の刑罰であるとか？﹂

 ミツルの問いかけに、差し出された手にすがるように飛びついてきた。

510

きょうせい

きょうあく

﹁ええ、そうですわ。そういう場合が多いのです。凶悪な犯罪者や政治犯を、どうしても 矯正することができない時に﹂ しお

ざんこく

﹁一時的に結界を解いて、その者に、わざと常闇の鏡を見せるのですね？﹂

﹁そうです﹂皇女は目に見えて萎れた。﹁残酷なことですわ。でも、仕方がないのです﹂ ﹁わかりますよ、ええ﹂

﹁それに、わたくしたち一族の身の回りの世話をする者などの場合、いっそウロである方

が、安全で便利なのです。城の下働きの者たちなど、どのみち⋮⋮その⋮⋮武人や学者と ひ せん

は違いますものね。卑賤の者たちです﹂

 一方でそんなことを言いつつ、﹁哀れだ﹂と睫毛を伏せてみせる。勝手だ。 ぎ しき

﹁でも、そんなことが、しばしば行われているわけではありません。それに結界を解いて そろ

かんとく

常闇の鏡に近づくには、父と神官長の二人が揃い、儀式を行わねばなりませんの。たいそ

うな手間がかかります。神官長は、布教と教会監督のために、皇都を留守にしていること

て かせ

しゅうじん

も多いですし。ミツル様も、まだ神官長には会っておられませんでしょう？ あのヒトは、 父よりも忙しい立場にあるのです﹂

 うなずきつつ、ミツルは想像した。手枷足枷をされた囚人の列が、近衛兵たちに連行さ じゅず 

ち ぐ 

れて、数珠つなぎになり、常闇の鏡の前へと、順番に押しやられてゆく光景を。 きょうもう

 これもまた、救いがたい狂妄と痴愚。

511

けいはい

﹁そうするとクリスタル・パレスの軽輩の者たちのなかには、これまで僕が気づいていな かっただけで、相当な数のウロがいるのですか﹂ およ

﹁はい⋮⋮。でも、わざわざお探しになるには及びませんわ﹂

﹁もちろん、そんなつもりはありません﹂ミツルはにっこりした。﹁申しあげたでしょう。 〝旅人〟の好奇心からお訊ねしたまでです﹂

 皇女は女官たちを呼び寄せ、お茶の席を片づけさせ始めた。ミツルは、新たに得た知識

すそ

を元に、注意深く女官たちを観察した。クリスタル・パレスで、ヒトびとに混じって働い ているウロを見分けることができれば││  皇都を出て、わざわざ﹁素材﹂探しをする手間が省ける。

わき

にぎ

 城に戻る皇女を見送った後も、強まってきた風に髪とローブの裾をなびかせながら、し たたず

ばらくのあいだ、ミツルは〝戦勝の庭園〟に佇んでいた。両手は身体の脇で、固く握りし められていた。  その手のなかにあるのは決意。  皇都ソレブリアの命運は決まった。

512

 47 ドラゴンたちの島    

か な た

にお

 前方に南大陸の海岸線が見え始めると、上空の風が一段と冷たくなった。潮の匂いも強 くなる。 かた

﹁あれは││ボグの漁港、バチスタだわ﹂

ちが

 ミーナがワタルの肩ごしに手を差しのばし、右手の彼方に見えるひとかたまりの人家を 指さしてみせた。 すなはま

う

 港といっても、ソノとはずいぶん感じが違っていた。平らに長い海岸線に沿って、白い

砂浜がうねうねと延びている。小さな漁船があちこちに浮かんでいるが、どれも海岸線か はな

らさほど遠く離れてはいない。砂浜には女性や子供たちが散らばり、何か作業をしている。 魚を干したり、貝を採ったりしているようだ。 うつしよ

ちゅうけい

 ジョゾは、デラ・ルベシに向かったときのように、高いところを飛んではいなかった。 きょり 

おどろ

地上までは、ちょうど現世のニュース番組で、ヘリコプターからの中継画面を映している とつじょ

ときみたいな距離感だ。頭上を飛ぶドラゴンの姿に、砂浜のヒトたちが驚いて見あげる。 ふ

手を振る子供たちもいる。突如現れたこのドラゴンが、けっして危険なものではないこと を示すためにも、ワタルたちは手を振り返した。

513

すご

﹁ファイアドラゴンは凄い人気だな﹂  キ・キーマが感心している。 こご

かがや

﹁伝説の存在だもの！﹂と、ミーナが顔を輝かせる。 ﹁でも俺は、やっぱ凍えそうだ﹂ ﹁もう少し高度をさげようか﹂ げんこつ

ひとみ

 ジョゾが申し出た。ワタルの拳骨ほどもある大きくて真っ黒な瞳が、ぱちりとまばたく。 ﹁ねえ、ワタル﹂

﹁何だい、ジョゾ﹂ワタルはジョゾの首にまたがり、彼の顔をのぞきこんだ。

わた

﹁いよいよ海に出るけど⋮⋮でも、さっきの話は本当かい？ 本気で北大陸へ渡るつもり なの？﹂  言いにくそうな口振りである。 ﹁本気だよ。ジョゾ、何かまずいことがあるの？﹂ ひそ

 いちばん後ろに座っているカッツが、耳ざとくワタルの質問を聞きつけて、身を起こし えんりょ

た。ワタルはちらりとカッツを振り返り、声を潜めた。 ﹁まずいことがあるのなら、遠慮しないで話してほしいな﹂ ど こ 

﹁うん⋮⋮﹂ジョゾはまたしばしばとまばたきをした。﹁何処へでも乗せて行ってあげる よって約束したのに、悪いんだけど﹂

514

つばさ

ばん

﹁北へは行かれないとか？ ジョゾの翼でも遠すぎるとか﹂ するど

きば

﹁そんなことはないよ。まっしぐらに飛べば、ふた晩くらいで連れて行ってあげられる﹂ いっしょ

 ただね││と、はえそろった鋭い牙のあいだから、ちらりと舌をのぞかせた。 ちょうばつ

﹁この前、一緒にデラ・ルベシまで行ったろ？ あの後、僕はいっぺん僕らの島に帰った め がみ

の。そしてね、竜王様に、デラ・ルベシで女神さまの懲罰の風を見ましたって、報告した んだ﹂

 すると竜王はたいへん険しい顔になり、島のドラゴンたちを集めて、当分のあいだ、勝

手に遠出をしてはいけないと、厳しく言い渡したのだという。いつでも集合できるように、 ふ だん

島の近くにいなさいと。

﹁普段はそんなこと、ないんだよ。僕ら子供ドラゴンにとっては、いろんなところに飛ん おきて

で行って、いろんなものを見て来るのはいいことだっておっしゃってる。もちろん、うっ

かり地上のヒトと仲良くなっちゃいけないっていう掟はあるけどね。僕らはホラ、ミーナ めんどう

が言ったみたいに、長いこと忘れられてる伝説の存在だし、その気になれば強いから、地 りゅう

上のヒトたちの争いに巻き込まれると面倒だものね﹂

 ワタルは反省した。龍の笛を使えるからと言って、何も考えずに、頭からジョゾの翼を あてにしていた││ こた

﹁ごめんよ。そんな事情があったなら、もしかしたら、僕の笛に応えてガサラに来るのも

515

まずかったんじゃない？﹂ ﹁い、いいんだよ﹂ ゆ

い ぜん

 ジョゾは急いで首を振った。そのせいで、ちょっと揺れた。キ・キーマが転びそうになっ

て、翼の付け根にしがみつく。ミーナは吹き出したが、カッツは依然、こちらに注目した ままだ。 お れい

﹁だってワタルは僕の命の恩人だもの。竜王様も、地上のヒトに恩を受けたら、必ずそれ に御礼をしなさいっておっしゃってる。だから、ワタルは特別さ﹂

﹁ありがとう。でも、竜王様がそんなことをおっしゃったというのは、気になるね﹂

﹁うん。だから僕ね、北へ渡る前に、僕たちの島へ寄りたいんだ。たいして時間はかかりゃ

そくとう

しないよ。通り道だしね。それで竜王様に、きちんとお願いをしてから出かけたいんだ。 だ め 

駄目かしら﹂

 ワタルには、即答できない。思わずもう一度カッツを振り返ると、彼女はそろりと立ち

まゆ

あがり、中腰になったままワタルに近づいてきた。 ﹁どうかしたかい？﹂

 ワタルは説明した。カッツはちょっと眉をひそめていたが、やがてジョゾの顔の方に身 たた

を乗り出し、彼の首をぽんぽんと叩きながら言った。﹁こんなことに巻き込んじまって、 すまないね。だけどあたしたち、どうしても早く北へ渡りたいのさ﹂

516

﹁あなたがリーダーさんなんですよね？﹂と、ジョゾは訊いた。﹁北へ行く目的は、何で すか？ どうも、危険なことがありそうな気がするんですけど﹂

 カッツはどこまで話すつもりだろう。ワタルは彼女の顔を見た。しかしカッツが何か答 える前に、ジョゾは言った。 ﹁ワタル、龍の笛を出してみて﹂ さぐ

 ワタルはポケットを探った。取り出した龍の笛は、ぽっきりと二つに折れていた。 ﹁ほら、もう使えないでしょ。音が出ないよ﹂ ﹁そうだね⋮⋮﹂

﹁ワタルたちが危険な仕事をしに北へ渡るのだとしたら、僕、心配だな。ワタルたちを降

ろして、僕が飛び去ってしまったら、何か困ったことがあって僕を呼びたくても、もうど じゃま 

うしようもないよ。だからといって、僕が近くを飛び回って待機していたら、すっごく目 しっこく

かみ

ほお

立っちゃってワタルたちの邪魔になりそうだ。そうじゃないですか、リーダーさん﹂ くしょう

 カッツは苦笑している。翼の巻き起こす強い風に、漆黒の髪がなびいて頬に張りつく。 ﹁ドラゴンさんは、頭がいいね﹂ ﹁ジョゾです。よろしく﹂

﹁あたしはカッツ。そういえば、まだ名乗ってなかったね。ナハトのガサラの町のブラン チ長だ。あんたたちのご先祖様を、とっても深く尊敬している﹂

517

うでわ 

﹁うん。その腕輪でわかります﹂ すみか 

おこ

﹁ありがとうよ。あんたの話はよくわかった。ドラゴンの島へ寄っていこう。でも、あた

う

したち地上のヒトをあんたたちの住処へ連れて行ったりしていいのかい？ 後で怒られた りしないかね﹂ だいじょうぶ

﹁それは大丈夫﹂ジョゾは請け合った。﹁あなたたちはハイランダーだから。それに、竜

王様があんなことをおっしゃるには、きっと深い理由があるはずなんだ。ハイランダーさ んには、その理由を聞いてもらった方がいいのかもしれないし﹂ ﹁そう⋮⋮なの？﹂

﹁うん。僕のお父さんとお母さんも、そう言ってたもの。もしかしたら、島を出てヒトと

力を合わせなくちゃならないようなことが、また起ころうとしてるのかもしれないって﹂  ワタルはカッツと顔を見合わせた。 ﹁昔、そんなことがあったの？﹂

﹁僕が生まれる前の話だけどね。三百年ぐらい前に、北大陸である事件があって、そのと

きはドラゴンたちも島を出て、地上のヒトたちと一緒に戦ったんだってさ﹂  それはいったい、何事だったのだろう。 つぶや

 カッツが小声で呟いた。﹁三百年ぐらい前と言えば、北大陸では統一戦争が終わるころ だね﹂

518

﹁その戦争に、ドラゴンも参加したってことでしょうか﹂

﹁そんなはずはないよ。ファイアドラゴンが、地上のヒト同士の戦争で、どっちかに味方 するなんてことがあるわけない。ましてや北の統一戦争なんかにさ﹂

いみごと

 確かにそうだ。﹁ジョゾ、お父さんとお母さんは、そのとき何と戦ったって言ってた の？﹂ ま ぞく

 ジョゾはすぐに答えた。﹁魔族だよ﹂  魔族？ そんなの初耳だ。カッツもきょとんとしている。 ﹁それ何？﹂ ヴィジョン

ほろ

﹁僕もよく知らない。魔族のことは、あんまし口に出しちゃいけないんだ。忌事だから。

けど、すっごく強くて恐ろしい敵らしいよ。放っておいたら〝幻界〟が滅ぼされちゃうか もしれなかったんだ﹂

 もっともそのときの事件は、規模としては大きなものじゃなかったらしいけど││と、 ジョゾはあやふやに付け加えた。

き

﹁北大陸の歴史なら、あたしたちには知らないことの方が多い。竜王様とやらに訊いてみ るしかなさそうだね﹂ ﹁僕らに教えてくれるでしょうか﹂ ﹁ま、それはこちらの話の持ってゆきようじゃないか﹂

519

しょうかい

 カッツには、相手がドラゴンでもヒトでも、あまり関係ないようである。

﹁それじゃきまりだね。ワタル、僕のお父さんとお母さんに紹介するよ！ お父さんは凄 じ まん

いよ。僕の三倍くらい強いんだから﹂

 ジョゾは自慢げに目を細める。そうだな、ジョゾはまだ子供で、お父さんお母さんが心

きり

配してるんだよなと、ワタルは胸の内で思った。それなのに僕らは、こっちの勝手な都合 ばかり考えていた。

﹁さて、いよいよ外海に出たからね。そろそろ〝針の霧〟のなかに突入するよ。みんな、 かく

頭を低くして、僕の翼のあいだに隠れていてね。絶対に立ちあがったりしちゃいけないよ。 さ

霧がちくちく突き刺さっちゃうからね﹂

かたすみ

ねむ

 言葉と同時に、翼にいっそうの力がこもり、ジョゾはぐんとスピードを上げた。 ただよ

 その島はまるで、霧の漂う大海の片隅で静かに眠っているドラゴンのように見えた。

あご

 島そのものが、本当にドラゴンの首の形をしているのだ。二本の角がある。大きな瞳は あお

こご

まぶたを閉じている。丸い鼻の穴が、空を仰いで並んでふたつ。長く突き出した大きな顎 たと

と、鋭い牙。空気がこんなにも冷たくはなく、海がこんなにも凍えたように青白く見えな ふ ろ 

いならば、﹁のんびりとお風呂につかるドラゴンの図﹂に喩えることもできるだろう。 ﹁説明されなくても、ひと目でわかるな﹂

520

かげ

 ジョゾの翼の陰から顔をのぞかせて、キ・キーマが呟いた。 ふるさと

﹁あれがドラゴンの島なんだろ？﹂ はば

﹁うん、僕の故郷だよ！﹂

 濃い霧に阻まれて視界はよくない。それでも、ドラゴンの島の周囲には一面にだだっ広 ポジション

い海が広がっているばかりで、他の島影も、岩影さえも見あたらない。その様子は、幻界 こ どく

におけるドラゴン族の孤独な立場を、そっくりそのまま映していた。

﹁みんな、そんなにのび上がっちゃダメだってば﹂ジョゾがあわてた声を出す。﹁まだ針 の霧のなかにいるんだから﹂ しずく

﹁ホントだ﹂と言いながら、ミーナが顔に手をあてた。﹁チクンとしたわ﹂

 見ると、右目の下に、小さな血の雫がぽつりと浮いている。カッツは﹁あたしもだ﹂と

もっ

言いながら髪を押さえている。額に二筋、血が垂れている。ワタルはぞっとした。 すべ

 ミツルもこの針の霧のなかを渡って行ったのだ。彼の魔法の力を以てすれば、バリアを かざぶね

張るとか風の流れを作り出すとかして、身を守る術はいくらでもあっただろうけれど⋮⋮。 かいひ 

 これだもの、南大陸から風船で海に乗り出すには、時期が限られていて当然だ。針の霧

を回避しつつ、北へ向かう風向きを読む星読みたちの力がどれほど大切かということも、 しみじみと実感することができる。 ほ

 風に左右されず、帆を張る必要もなく、船室に閉じ籠もっていても操縦することのでき

521

がんじょう

る動力船が、この幻界にとって、いかに画期的な存在であるかということも。  それにしても、ジョゾのウロコは頑丈だ。 ﹁ジョゾは目も痛くないの？ 鼻がムズムズしたりしないの？﹂

﹁なんてことないよ。ちょっと寒いだけ。でも、島に着けば暖かいよ﹂

しんちょう

 ドラゴンの島は火山島なのだという。いったいどこに火山があるのかと、ワタルは慎重 ふ

みは

に首を伸ばして視界を広げ、探してみた。と、ちょうどいいタイミングで、ドラゴンの島 の鼻の穴の部分から、白い蒸気が噴き出すのが見えた。 つ

 距離が詰まってくると、今度は一同、ドラゴンの島の大きさに目を瞠ることになった。 か ら だ

まあ、子供のジョゾでもこのサイズの身体を持っているのだから、成体のドラゴンはもっ いっとうぼ 

ほ

ぬ

と大きいのだろう。小さな島ですし詰め状態になっていては、息が詰まってしまう。 きょだい

 ごつごつした灰色の巨大な岩を、一刀彫りで龍の頭の形に彫り抜いた││そんな島だ。 草木は一本も見えない。

 ジョゾはこの巨大なドラゴンの首の、二本の角のあいだを目指している。霧の流れに阻

まれてよく見えないけれど、そこには円形の平らな広場のようなものがあるようだ。ドラ えが

ゴンたちの発着所かもしれない。 ら せん

はし

 ゆっくりと螺旋を描きながら、ジョゾは広場に向かって降下してゆく。ようやく針の霧 うす

も薄れてきて、ワタルは、広場の端に二頭のドラゴンが待っていて、こちらを仰いでいる

522

ル ビ ー 

しず

あざ

あ ず き

ことに気がついた。紅宝石のように鮮やかな赤色のジョゾと比べると、その二頭のファイ

アドラゴンの色は、もっと沈んだ色調で、えんじ色や小豆色に近いようだ。 ﹁ただいま！﹂  ジョゾが地上の二頭に向けて元気な声を出した。 ﹁お父さん、お母さん、ワタルを乗せてきたよ！﹂

 では、あれがジョゾの両親なのだ。もしかしたら、ジョゾをアゴで使っていると叱られ

るかもしれないと、ワタルはちょっぴり心配になってきた。ジョゾに比べて、彼の両親の

身体はさらにふた回りほども大きく、牙でさえワタルの手首ぐらいの太さがありそうなの だ。  しかし、それは取り越し苦労に終わった。

﹁お帰り、ジョゾ。ようこそいらっしゃいました、〝旅人〟さん。ジョゾはお役に立ちま したか？﹂

むか

 着地したジョゾの背中から、おっかなびっくり地上に降りたワタルたちを、ジョゾの両 ひ

親は、熱風みたいな鼻息と、音量こそ大きいけれど、春の陽のように温かな言葉で迎えて くれたのだった。 すす

 まずは温泉に入り、凍えた身体をほぐしなさいと勧められて、驚いた。

523

﹁温泉が出るの？﹂

にぶ

﹁そうだよ。火山があるんだから、不思議じゃないでしょ。ちょっとしょっぱい温泉だけ どね﹂ とちゅう

 冷気で動きが鈍っていたキ・キーマはもちろん、ミーナは﹁温泉なんて初めて！﹂と大 じ

い

喜びだ。が、カッツは焦れている。大事なミッションに向かう途中なのだから当然だ。  が、ジョゾのお母さんが言うのには、

﹁竜王様は今お休み中の時間だし、〝牙と翼の会合〟を開くには、準備も要るんです。皆 さんが温泉から出てくるまでには用意ができると思いますから﹂ ﹁〝牙と翼の会合〟って何ですか？﹂

 今度はジョゾのお父さんが答えた。﹁我々ドラゴン族の全体会議のことをそう呼ぶので おさ

つかさど

す。この島の自治││というほど大げさなものではありませんが││は、日ごろは竜王様 みな

と、〝七本柱〟と呼ばれる各族の長たちの集まりで司っているのですが、大きな決め事が す

ある時には、島に棲むドラゴンを一頭残らず集めて、皆で話し合いをします﹂ まつえい

 この島のドラゴンたちは、もちろん皆ファイアドラゴンの末裔なのだけれど、それでも

少しずつ翼の形とか牙の本数とかが違っている。それらの特色で分けると、七種類になる

のだそうだ。その七種類を〝族〟と呼び、それぞれの族の長を〝柱〟と呼ぶ。だから七本 柱なのである。

524

こうれい

 また、幻界そのものよりもちょっと若いだけ││というほどの高齢である竜王様は、一

日の半分以上をうとうとと眠って過ごしており、起こすのにも、ちょっと手間が要るのだ なっとく

めいろ 

どうくつ

とか。それらの説明を聞き、カッツも納得して、温泉のご招待にあずかることになった。

 ドラゴンの島は、その内側に、複雑に入り組んだ迷路のような洞窟を隠していた。うね

うねと続き、無数に枝分かれした通路に沿ってたくさんの横穴が空き、そこがドラゴンた

ちの巣になっている。大まかに、族ごとに分かれて住んではいるけれど、ドラゴンたちは

仲良しなので、ひとつの大きな巣穴に三家族が共住まいしていたり、年老いたドラゴンを にぎ

しげ

他のドラゴンたちが面倒をみたりと、行ったり来たりも賑やかなのだそうだ。 お い 

 島の外側は岩ばかりだけれど、洞窟の内部には豊富に草木が茂っていた。そこここに、

ちょっとした森までできている。花木もあれば、美味しそうな実をつけた木もある。ドラ しんせん

か

ゴンたちの主食は海の魚だというけれど、洞窟の奥でも、魚の匂いなどほとんど感じない。 てんじょう

新鮮な緑の気が立ちこめて、そこにほんのちょっぴり潮の香が混じっているだけだ。 ろ てん

 温泉は露天風呂だった。洞窟の上部にあるので、天井がぽっかり空いているのだ。熱い すきま 

お湯に、冷たい外気。露天風呂を囲むごつごつした岩の隙間に草木が根を張って、湯気の 向こうで揺れていた。 ごくらく

﹁ああ、極楽、極楽﹂

 ワタルが思わず、温泉につかったときのニッポンのおやじのきまり文句を呟くと、キ・

525

キーマが笑った。 ﹁何だそりゃ、ゴクラクってのは？﹂ とう

﹁うーんとね、神様のいるところ。現世ではそういうんだ﹂ ﹁じゃ、運命の塔みたいなところか？﹂

 聞き返して、とたんにバツの悪そうな顔になった。ワタルに、いろいろと思い出させて しまったと思ったのだろう。

じ ごく

お

 ワタルは知らん顔をしていた。﹁ちょっと違うかな。死んだヒトの行く場所でもあるん だよ﹂ ﹁死んだら、誰でもそこに行かれるのか？﹂

﹁ううん。悪いことをしたヒトは行かれない。地獄ってところに堕ちるから﹂

 そういえば、幻界では死んだヒトはどこに行くことになってるんだろう。今まで、訊ね てみたことがない。

 キ・キーマは顎までお湯につかり、気持ち良さそうに半目になりながら、 ﹁俺たちはみんな、死んだら光になるんだよ﹂と教えてくれた。 ﹁光？﹂ ふら

﹁そう。陽の光になって、地上を照らす。そして順番にまた生まれ変わる。ただ、生きて こんとん

いるうちに悪いことをすると、光にはなれずに、〝混沌の深き淵〟の底に沈むんだ。そう

526

なると、ちょっとやそっとじゃ生まれ変われない﹂ じょうか

 そういえば、デラ・ルベシの教王が、同じことを言っていたと、ワタルは思い出した。 たましい

女神さまとの盟約を破ったまま、魂が浄化されずに死んでしまうと、我々は次の世界に生 まれ変わることができない││と。

おもしろ

﹁幻界のヒトが、次に生まれ変わった時には、現世のヒトになるってことは、ないのかな﹂ た

 独り言のつもりで呟いたのだけれど、しばらく経ってから、キ・キーマは答えた。

﹁そんなことがあればいいな。そンで、今度は現世で、またワタルと仲間になれたら面白 いだろうな﹂

 そうだねと答えて、ワタルはうふふと笑った。現世でもキ・キーマは、宅配便の配達員

まんえつ

さんだったりしてね。身体が大きくて元気がよくて、力持ちで親切で、きっと人気者の配 達員さんになることだろう。

 同じころ、カッツとミーナは別の岩風呂でくつろいでいた。二人ともご満悦だけれど、 しん

温泉で身体の芯まで温まったせいか、針の霧でできた傷が開いて、また血が流れ出した。 なんこう

﹁けっこう痛いね﹂カッツは顔をしかめた。

﹁さっき、ジョゾのお母さんがよく効く軟膏があるって言ってたから、後で分けてもらお は

うか。あんたの目の下の傷、腫れてるし﹂ し

 塩水の温泉が染みるのだ。

527

﹁ねえ、カッツさん﹂ ﹁何だい﹂ ﹁さっき聞いた話││ドラゴンたちの長の、七本柱のこと﹂ ﹁うん﹂ めずら

﹁柱って呼び方、珍しいですよね。大いなる光の境界を張り直すためのヒト柱と、何か関 係があるんでしょうか﹂  カッツはちょっと黙り、やがて言った。 かか

ゆる

﹁ドラゴンは幻界の創世に関わる存在だから、あってもおかしくはないよね。だけど、あ んまり深く考えない方がいいよ﹂

 そうですねと、ミーナは答えた。温泉で気が緩んだせいだろう、何だか急にやるせなく なみだ

なり、涙が出てきそうになったので、ミーナはあわてて顔を洗った。  一同が温泉からあがると、ジョゾが待っていた。 ﹁準備ができたから、会合の洞窟へどうぞ﹂

 案内された場所は、これまで見てきたなかで、いちばん大きな洞窟だった。飛行場にあ たいまつ

る、ジェット機の格納庫ぐらいはあるだろう。あちこちで松明が燃えているけれど、全体 うすぐら

に薄暗い上に、あまりに天井が高いので、てっぺんまで目が届かない。ときどき冷たい空

528

気の流れを感じるのは、壁に空気抜きの穴があるからだろう。 お

びみょう

さぐ

う

にぎ

も

ね

 壁という壁、岩場という岩場を、何十頭ものドラゴンたちが埋め尽くしていた。色もサ いっせい

イズもとりどりで、よく見ると翼の形や尾の長さが微妙に違っている。 ささや

 彼らの大きな黒い目が、一斉にワタルたちを注目した。鼻息がどっと漏れる。 こわ

﹁ちょ、ちょっと怖い﹂と、ミーナが囁き、ワタルの手を探って握りしめた。 あし

し

 竜王様は、洞窟の一方の端の、高い岩場の上に座っていた。いや、もしかしたら寝そべっ

ているのかもしれない。翼をたたみ、脚を身体の下に敷いて、しっぽはだらりと垂れてい たいぎ 

る。ワタルたちが中央の開けた場所に通されると、大儀そうに首を持ちあげた。が、まぶ たは半分ほど閉じたままである。 むらさきいろ

や

つや

 竜王様の身体のサイズは、ジョゾの両親と大差がない。身体は、赤色がほとんど退色し さ

かざ

かんむり

てしまい、褪めた紫色に近くなっている。ウロコも痩せて艶を失い、首や手足の付け根な

どに、何重にもしわが寄っている。二本の角のあいだに、キラキラ光る飾りのついた冠の の

ようなものを載せている。 こ

 竜王様の座の左右には、七頭のドラゴンが座していた。七本柱と呼ばれる長たちだろう。

黒みがかった濃い赤色の身体に、それぞれ色の違う首飾りをかけている。 ﹁ようこそ、客人よ﹂ み す 

 一頭のドラゴンが立って、ワタルたちを見据え、それから集まったドラゴンたちを見渡

529

した。 のっと

そろ

ご ぜん

へいふく

と

﹁しきたりに則り、これより竜王様の御前にて、〝牙と翼の会合〟を執り行う﹂ なら

 ドラゴンたちが揃って首を垂れ、平伏した。ジョゾより小さな子供ドラゴンたちも、行 儀よく親たちに倣っている。 そ

 まず、両親に付き添われたジョゾが一歩前に進み出て、客人を案内してきたことを、集 かんげい

まったドラゴンたちに報告した。それを受けて、ワタルも前に出た。

﹁突然訪れたのにもかかわらず、僕たちを歓迎してくださって、とても感謝しています。 竜王様、島のドラゴンの皆さん、ありがとうございます﹂  座は静まりかえっている。ワタルは心臓がドキドキしてきた。

﹁ジョゾから龍の笛をもらったことで、僕はこれまでに二度、危険な場所から救ってもら

うことができました。そして今回、もう一度ジョゾの力を借りる必要ができて、彼の翼に 乗せてもらうことになりました││﹂

あかし

 竜王様が首を上げ、ワタルに呼びかけた。 ﹁〝旅人〟よ﹂ ﹁は、はい！﹂ こしおび

﹁あなたが〝旅人〟であることの証を、ここで示してはくださらぬか﹂ けん

 ワタルは勇者の剣を腰帯から外し、差し出した。七本柱のうち、ワタルにいちばん近い

530

うやうや

あらた

ところにいたドラゴンがそれを受け取り、恭しく竜王様の前に運んでゆく。

 竜王様のまぶたは、依然として半分閉じている。それでも、剣の検めはとどこおりなく もど

済んで、勇者の剣はワタルの手に戻された。 ﹁番人のラウ導師はお達者か？﹂

 急にくだけた感じになって、竜王様はワタルに訊いた。ドラゴンの表情を読むのは難し いけれど、口元がにっこり笑っているみたいだ。 ﹁はい、お元気です！﹂ さず

﹁幻界を訪れたとき、導師からペンダントを授けられなかったかの？﹂

 ずっとつけっぱなしなので、かえって忘れていた。そっちの方こそが〝旅人〟の証であ

るはずなのだ。ワタルはあわててペンダントを引っ張り出した。が、首から外そうとする と、竜王様はのんびりと止めた。

くず

﹁よい、よい、そのままで。あいわかった。確かにあなたは〝旅人〟である﹂ きんちょう

﹁はい﹂ワタルは姿勢を正した。緊張のあまり、ちょっとバランスを崩してしまい、それ に気づいたドラゴンたちが、さわさわと笑ったようである。 ﹁〝旅人〟よ、そしてハイランダーたちよ﹂ ひび

 竜王様の声が、重々しく響く。カッツがきりりと顔を上げた。

﹁我らファイアドラゴンは、幻界の創世のときより息づくもの。今はこの大海の片隅に、

531 せいじゃく

静寂と平和のなかに時を過ごしておる﹂

しか

 ワタルたちに語りかけると同時に、集まったドラゴンたちにも話している。 たて

まも

﹁しかし、幻界の守護神としての我らの役割がなくなったわけではない。然るべき時、然

るべき手段を以て、女神さまの剣と盾となり、幻界を護るが我らの使命であることに、い ささかの変化もない﹂

 ドラゴンたちが一斉にうなずく。七本柱たちの視線が、心なしか鋭くなった。

〝旅人〟よ。何も言わずとも、わしは知っておるよ。北大陸へ渡ろうとする、あなた方の 目的を。それがヒトの争いに根を持つものであることも﹂  なぜわかるのだ？ ワタルがひるんでいるうちに、

﹁お言葉ではございますが﹂と、カッツがピンと張りつめた声を出した。﹁わたしが北へ ゆる

か かん

渡るのは、ヒトの争いの根を絶つためでございます﹂

 竜王様の口元が、また緩んだ。﹁果敢なるハイランダーよ。その心意気や良し。しかし ヒトの争いの根を絶つことなど、ヒトの身でなし得ることではない﹂ ﹁いいえ、わたしは││﹂  遮って、竜王様は静かに続けた。 こ だま

つ

むな

﹁憎しみは憎しみを呼び、悲しみは悲しみに木霊し、死は次の死を差し招く。憎しみは大 く

地深く根を張り、悲しみは大海よりも汲めども尽きず、死が孤独を嫌うことは、空しく厳

532

か

しい真実であるのだから﹂  カッツはくちびるを噛みしめている。 か たん

﹁本来ならば、ヒトとヒトとの争いに、我らドラゴンが荷担することは許されぬ。しかし

〝旅人〟よ、ハイランダーよ。あなた方がこの島を訪れることを、我々は知っていた。ま たあなた方が北へ渡ることに、我々が助力せねばならぬことをも﹂

 ワタルは顔を上げた。﹁ジョゾに聞きました。竜王様は、しばらく前から幻界の異変を

察知しておられたと。ドラゴンたちが島を出て、ヒトと力を合わせなくてはならないよう な事態が発生するかもしれないと、案じておられたと﹂  竜王様は、ゆっくりと二度うなずいた。

﹁それはどういう事態なのですか？ 僕らに、それを止めることができるのですか？ だ

からこそ、竜王様は、僕らを助けてくださるとおっしゃるのですか？﹂ とこやみ

 竜王様は、さらにもう一度、しわしわの首をうなずかせた。 ふういん

﹁〝旅人〟よ。この幻界には、真実の鏡と対をなす、〝常闇の鏡〟が存在する。それは今、 こうてい

北大陸の皇帝の手の内にある。そしてその封印が解かれようとしているのを、わしは感じ

ておるのだ。この予兆に間違いはない。なぜならば、これを感じ取り、防ぐことこそが我 らの役目なのだから﹂

 そしてワタルはようやく、常闇の鏡と魔界、そして、常闇の鏡を封じてきた封印の冠│

533

│最後の宝玉について知ることになったのだった。

 話を聞き終えた時には、温泉で温まっていたはずのワタルの手足は、すっかり冷えてし まっていた。洞窟が寒かったのではない。恐ろしかったのだ。

 ミツルだ。ミツルは常闇の鏡の封印を解こうとしているのだ。宝玉を手に入れるために。 ただそのためにだけ。

 拳を握りしめるワタルを、カッツが見つめている。カッツの懸念はあたっていたのだ。 あ

ミツルは本当に、幻界のことなんかどうなってもいいと思っているのだ。 おのれ

﹁北大陸の皇帝は、三百年前にも一度、己に加勢させるため、敢えて封印を解き、魔界の 軍勢を呼び寄せたことがあった﹂ なげ

 嘆かわしいと、竜王様は続けた。﹁その折にも、我らドラゴンは北へ飛び、魔界の軍勢

せんめつ

を退けるために、ヒトに混じって戦った。あの当時、北の皇帝は魔族の力をあてにしつつ おろ

も、その本当の恐ろしさについては無知であった。封印を解き、魔族に敵軍を殲滅させた ぐ こう

後、また封印を戻せばそれで済むと考えていたのだ。その愚かさよ。大海を傾けても洗い 流すことのできぬ愚行じゃ﹂

 もしもあの時、封印が解かれたことをいち早く察知したドラゴンたちが動き出さなけれ あとかた

ば、今ごろ幻界は跡形もなくなっていただろうと、竜王様は言った。七本柱たちもうなず

534

いている。

﹁それでも、三百年前のその折には、常闇の鏡の封印が解かれていたのは、ほんのわずか

の間のことであった。しかし今回は、それでは済まぬであろう。封印は完全に解かれ、も

はや戻す術を失うことだろう。幻界じゅうの軍勢を集めても、魔族を遮ることはできはし ない﹂

 止めなきゃ││と、ミーナが震える声で言った。ワタルは立ち上がった。

﹁そんなことはさせません。必ず止めてみせます。封印を解こうとしているのは、僕の友

めぐ

ひか

達なんです。もう一人の〝旅人〟なんです。あいつにそんなことをさせちゃいけないん だ！﹂

 竜王様は首を巡らせると、脇に控える七本柱のドラゴンたちを見回した。彼らもまた起 きあがった。

﹁〝旅人〟よ。七本柱と共に行きなさい。彼らはきっと、あなたの力となるだろう。ヒト

の世に限りはあっても、幻界に限りはない。限りあるヒトの力で、幻界の命を絶ってはな らぬ﹂ ﹁お約束します！﹂  ワタルがきっぱりと言い切ったとき、ジョゾが幼い声をあげた。 ﹁僕は？ 竜王様、僕も一緒に行っていいでしょう？﹂

535

 ワタルはあわててジョゾの首を押さえた。 ﹁ダメだよ、ジョゾ！ 君はダメだ﹂ ﹁どうして？ ワタルが行くなら、僕も行くよ﹂ ﹁お父さんとお母さんが心配するよ﹂

 ジョゾの両親は、悲しそうに目をしばたたかせている。ジョゾはそれを見て、みるみる かたく

つぶらな目を潤ませた。それでもしっぽを振って、頑なに言い張る。

﹁だけど行くよ。ワタルを乗せて行くよ。いいでしょ、お父さん、お母さん﹂

 ジョゾのお母さんはうなだれてしまった。お父さんが言った。﹁竜王様のお許しがある のなら﹂ ﹁そんな！﹂

せま

 ワタルは竜王様を振り仰いだ。ずっと垂れ下がっていた竜王様のまぶたが、ちょっとだ け持ちあがって、ジョゾを見た。 ﹁ジョゾよ。易しい戦いではないぞ﹂ ﹁はい、わかっています﹂

﹁こうしている間にも、封印が解かれる時が近づいているのを、わしは感じる。危機は迫っ て ごわ

ている。魔族は恐ろしく、手強いぞ。それでも〝旅人〟と共に行くか？﹂  ジョゾはぶるりと身震いして、答えた。

536

﹁ワタルに助けてもらった命だもの。僕はワタルと行きます！﹂  再びまぶたをおろしながら、 えにし

﹁いいだろう﹂と、竜王様は言った。

﹁ひとたび〝旅人〟と縁を結んだ以上、それもまた守護神たるファイアドラゴンの末裔の 宿命じゃ﹂

 眠ったような半眼がワタルを見る。そこから強い視線が放たれるのを、ワタルは感じた。

﹁〝旅人〟よ。このジョゾをあなたの助力とし、そして、かなうならばこのドラゴンの島 へと戻してやってくだされ﹂ ちか

 必ず、必ずと、拳を固めてワタルは誓った。

﹁ご武運をお祈りする。あなたに運命の女神さまの加護のあらんことを﹂ いの

えいしょう

 すべてのドラゴンたちが竜王様の言葉に唱和し、その声はやがて、洞窟をどよもすよう な、力強い祈りの詠唱となっていった。

537

 48 皇都壊滅     わた

つばさ

 ドラゴンの七本柱たちは渡り鳥のように編隊を組み、海上の気流にその力強い翼を乗せ おく

けんめい

て飛行していた。先頭のドラゴンの首にはカッツがまたがり、ワタルたちを乗せたジョゾ さいこうび 

ていこく

とこやみ

は最後尾につきながらも、彼らに後れをとらぬよう、懸命に羽ばたいていた。

まも

ふういん

かんむり

 目指すは、北の統一帝国の皇都ソレブリア。常闇の鏡はその中心、皇帝の居城にあると、 竜王様は教えてくれた。 まじゅつ

そ ち 

かく

﹁統一帝国の皇帝は、常闇の鏡を護るため、ただ封印の冠を用いるだけでなく、おそらく

は魔術的な措置をほどこし、その安置されている場所がわからぬように、厳重に隠してい すぐ

ま どうし 

るはずじゃ。そのままでは、外部の者は手出しができぬ。しかし〝旅人〟よ、あなたの友

であるというもう一人の〝旅人〟が優れた魔導士であるというのならば、必ずや、その魔

法を解こうとするはず。彼が常闇の鏡の置かれた場所を突きとめ、それに近づこうとする ゆいいつ

ふ

その時こそが、彼を止める唯一の好機となりますぞ﹂

 ドラゴンたちは、うっかりしていると振り落とされそうなほどのスピードで飛んでいる。

しっかりとジョゾの背にしがみつき、ワタルは念じていた。速く、もっと速く！ ミツル のいる場所へ！

538

こお

な

うす

か ら だ

きょうれつ

 北大陸の地平が見え始めた。凪いだ海も大地の色も、南大陸と同じようにのどかに広大

さけ

に、しかし空の色合いだけが凍りついたように薄く見えるのは、身体に感じる強烈な寒さ のせいだろうか。 ﹁あれ⋮⋮あれは何だろう？﹂ けむり

 先頭を行くカッツが、遠く前方を指さして叫んだ。 いくすじ

 幾筋もの黒い煙が、空に立ちのぼっている。

﹁皇都ソレブリアの方向だ﹂と、七本柱ドラゴンたちが口々に言った。 ﹁火災だ！ 火事が起きているぞ！﹂ きょだい

じょうさい

じょうへき

 ひときわスピードを増し、空を行くワタルたちの目に、やがて、信じがたい光景が見え

あり

てきた。巨大な城塞都市││城壁に護られた百万都市ソレブリアに異変が起きている。城 に

つちぼこり

壁に設けられた城門が焼け落ち、そこから逃げ出してゆくヒトびとが、遠く小さく蟻の列

のように見える。城壁の向こう、色とりどりの無数の屋根がひしめきあう町筋に、土埃と ま

煙が舞いあがる。 かみ

﹁何てことだ！ 何なんだよ、これは！﹂

 カッツが毒づき、髪を乱して身を乗り出す。ドラゴンたちは翼を張りスピードをあげぐ

んぐんと下降を始めた。近づくにつれて、皇都ソレブリアがワタルの眼下いっぱいに広がっ てゆく。

539

おそ

たお

ほのお

くず

た

 そこらじゅうで建物が倒れ、その上を炎が走ってゆく。煙が流れ、ヒトびとの退路を断っ ひび

て襲いかかる。あちらでは城壁の一部が崩れた。こちらでは家々がなぎ倒されてゆく。耳 ろう

を聾するような響きと熱風には、ヒトびとの悲鳴が混じっている。 ﹁いったい何が││﹂ はし

 ワタルはジョゾの翼の端から首をのばし、視界に収まりきらないほど広いソレブリアの はる

なかで、何か大きなものが何体も││そう、ヒトの形をしている││でも、ヒトなんかよ

どう

ふ

りも遥かに大きい、ドラゴンよりももっと大きな灰色のものが暴れ回っていることに気づ いて声を失った。 かた

 あれは││何だろう？ まるで岩で造られたロボットみたいだ。 ふ

とうかい

 丸い頭、広い肩、太い胴。無骨な手足を振り回し、見ると、それがどすんと足を踏み出 つぶ

すたびに、人家が潰れたり、路上のヒトびとがどっと倒れ伏したりしている。倒壊した建

いくえ 

さくそう

物から、ひと呼吸遅れてまた新たな火の手があがる。火に追われ、方向もわからず必死で ばくはつ

とどろ

ふる

逃げるヒトびとの群を、またあの重い足が踏み潰す。叫び声や泣き声が幾重にも錯綜し、 の

それらを呑みこんで爆発音が轟く。 ﹁こいつらはゴーレムだ！﹂ みは

 ワタルと同じように目を瞠って下を見おろしていたキ・キーマが、大きな身体を震わせ ど な 

ながら怒鳴った。

540

﹁ゴーレム？﹂

﹁魔導士のこしらえる石の巨人だよ！ 造った魔導士はその主人となって、自由自在に動 かすことができるんだ﹂ ﹁そんなの⋮⋮お話だと思ってた﹂ つぶや

 色を失って震えながら、ミーナが呟いた。 ﹁ホントにあるなんて、信じられない﹂

﹁俺だってそうさ。だけど、現にこいつら動き回ってるじゃねえか！﹂

 のっぺりとした巨大な石人形たちの顔には、目鼻立ちらしいものは見あたらない。やみ かたまり

くもに破壊と前進を続けながら、ときどき機械的に首を左右に振る。不格好な両手は、ほ

とんど手の形を成していない。ただの岩石の塊だ。それがぶうんとうちおろされ、地響き と共に町並みを崩してゆく。 ﹁ミツルだ﹂ なみだ

 煙で目がちかちかする。涙が出てくる。 ﹁ミツルがゴーレムを造って、操っているんだ！﹂  ソレブリアを破壊しようとしている。どこだミツル、どこにいる？ ちょくげき

 ジョゾのすぐそばで、どかんと火柱があがった。熱風の直撃をくらったジョゾはバラン ざんがい

スを崩し、翼の右端が建物の残骸をかすめそうになる。振り落とされかけたミーナが悲鳴

541

をあげた。 ﹁何体いるのだ？ 数え切れんぞ！﹂ き や つ

﹁あれを見ろ！ 彼奴らはまだまだ数を増しているぞ﹂ こぶし

ふ

なぐ

ろうぜき

うで

 ゴーレムたちは町じゅうにいた。東西南北、どの方向にも。暴れ回り、踏み潰し、狼藉 たが

の挙げ句に、互いの拳が触れ合って、殴り合ってしまうゴーレムたちもいる。それで腕が つうよう

ちまた

落ち、頭の一部が欠けても、彼らは何の痛痒も感じず、平然として動き続けている。そし

てドラゴンたちが叫んでいるとおり、破壊と混乱の巷のなかから、そこでも、ここでも、 ごうおん

たた

また新たなゴーレムが轟音と共にむっくりと起きあがり、両手を振りあげるのだ。次から 次へと。

は

﹁やっつけなきゃ！ やっつけてよ！﹂ミーナは叫び、ジョゾの背中をぱんぱんと叩いた。 ﹁だけど、どうすればいいの？﹂

ぞ

 ジョゾは半泣きの声を出し、それでも口を開けて炎を吐こうとした。ワタルはあわてて ジョゾの首ッたまにかじりついた。 せんかい

かげ

﹁ダメだよ！ 火を吐いたら町のヒトまで巻き添えにしちゃう！﹂

 高度をさげて、右往左往と旋回するドラゴンたちの翼が地上に影を落とすと、炎の色が か

くっきりと赤く浮かび上がる。頭のすぐ上を飛び交うドラゴンたちの姿に、ソレブリアの おび

ヒトびとは怯えながら逃げ出してゆく。しかしその先にはゴーレムたちが待ち受けている。

542

﹁助けて、助けて！﹂ ﹁お母さん、どこにいるの？﹂ えんとつ

だ

 ぎりぎりの低空飛行で、ワタルの耳にも、個々の悲鳴が聞き分けられる。たった今ジョ

きょうふ

ゾが飛び過ぎた三角屋根の家の煙突に、若い男が両腕で抱きついて助けを求めていた。反 もど

射的に、ジョゾ、戻ってとワタルは叫び、煙突に向かって手を差し出した。若い男は恐怖 はな

に目を泳がせながら、それでも片手を煙突から離し、ワタルの方に腕をのばした。手と手

かたむ

あっ

の先が近づき、あとちょっとでワタルの手が若い男の手首をつかめる││と思ったとき、 えが

近づいてきたゴーレムの一撃で、三角屋根がぐしゃりと潰れ、煙突がゆらりと傾いた。呆 け 

しゅんかん

が れき

気にとられたようにぽかんとして、空に半円を描きながら倒れてゆく煙突にしがみついた まま、次の瞬間には、若い男は地上の瓦礫のなかに姿を消していた。

 もうもうと舞いあがる土埃のなかで、ワタルは自分でもわけのわからないままに叫んだ。 どうして、どうして、どうして？ きゅうでん

﹁〝旅人〟よ、落ち着け。どうやら、彼奴らは宮殿を目指しているぞ﹂ かたわ

むち

に おうだ 

 傍らに飛んできた七本柱のドラゴンの一頭が、ワタルに呼びかけてきた。カッツを乗せ

ている。彼女は得物の黒い鞭を構え、ドラゴンの首の付け根に足をかけて仁王立ちしてい た。 ﹁よくごらん、ワタル！﹂

543

かく

 ゴーレムたちは輪になって、ソレブリアを取り囲みながら破壊の進軍を続けていた。進

むにつれて、彼らの輪も小さくなってゆく。その輪の中心には、皇都ソレブリアの核、乳 白色の大宮殿があった。 ﹁あれが皇帝の居城だ。クリスタル・パレスだよ！﹂ じょうしょう

 カッツは片手を口の横にかざし、火災の巻き起こす強い上昇気流に負けじと声を張りあ げた。

﹁あんたのお友達のミツルは、皇都をめちゃめちゃにしながら、クリスタル・パレスに向 かってるんだ！﹂

﹁さしものゴーレム使いでも、ゴーレムから遠く離れては、彼奴らを操縦することはでき

ぬはずだ。必ず、彼奴らのそばにいる﹂と、七本柱のドラゴンが言った。﹁我々は何とか かえ

して、少しでも彼奴らを足止めしてみよう。そのあいだに、あなたはミツルという〝旅人〟 を探すのだ。ゴーレム使いを倒せば、ゴーレムどもは土に還る！﹂ ﹁わ、わかった！﹂ なら

せ

たて

 ワタルはカッツに倣い、ジョゾの背中で立ちあがった。たちまち、強い風に押されて身 かか

体がよろめき、煙で咳き込んでしまう。キ・キーマがワタルの盾となり、ミーナがワタル こし

の腰を抱えてしっかりとつかまえた。 ﹁ミツル！ ミツル、どこにいるんだ！﹂

544

あやつ

 瓦礫の山をかすめんばかりに、ゴーレムたちの鼻先を、ジョゾは飛び回る。振りおろさ

れたゴーレムの拳をすれすれに回避しながら、ジョゾは歯を食いしばって翼を操る。ワタ ルはミツルを呼び続けた。 ﹁ミツル！﹂ たたず

 そのとき、煙と埃の幕の向こう、じりじりとクリスタル・パレスに迫るゴーレムたちの えんじん

たずさ

しっこく

円陣の一角に、ワタルは見つけた。一体のゴーレムの肩の上に佇むミツルを。片手でゴー

レムの頭に触れ、片手にあの魔導の杖を携え、漆黒のローブは風を受けてひるがえる。 ﹁あそこだ！﹂ こた

 指さすワタルに応えて、ジョゾは飛んだ。ミツルの姿がぐんぐん近づいてくる。目と鼻

の距離まで迫ると、ワタルはためらいもなくジョゾの背中からジャンプして、ミツルの立 つゴーレムの肩の上へと飛び移った。 ﹁ワタル、気をつけて！﹂

ろうか 

 勢い余ってゴーレムの肩の上から転がり落ちそうになったワタルを、ミーナの声が追い かけてくる。

 ようやく立ちあがったワタルを、ミツルは、学校の廊下でばったり会ったというくらい

の、ほとんど無関心に近い冷静な目で見つめていた。こうして見れば、岩石の塊以外の何 はさ

物でもないゴーレムの、頭を挟んで、左右の肩の上に立つ二人の〝旅人〟は、視線を合わ

545

せた。 ﹁こんなところで何してるんだ？﹂

おもしろ

 ゆっくりと、ミツルは問いかけてきた。ほんの少しだけれど、面白がっている。でも同

時に、ほんの少しだけれど驚いている。ワタルが追いついてきたことに。 ﹁おまえこそ何やってんだ﹂ ひざ

こわ

﹁見てのとおりさ﹂ミツルはつと手を広げてみせた。﹁なかなか面白いだろ？﹂

うた

ばんじゃく

 今さらのように、ワタルは膝ががくがくするのを感じた。怖いんじゃない。腹が立つん だ。 ﹁面白い？ これが？ この有様が？﹂

こわ

﹁皇帝のお膝元、聖なる皇都ソレブリア﹂ミツルは謳うように言った。﹁盤石のはずの都 も、呆気ないもんだな﹂

 すぐそばで別のゴーレムが大きな屋敷をぶち壊した。倒壊してゆく建物のなかから、そ

なべ

の

の衝撃に、手品のように何かがぽんと飛び出して、空をよぎって落ちてゆく。ワタルの目 かまど

に映ったものが間違いでないならば、それは大きな竃だった。ひと抱えもあるお鍋を載せ たまんま飛んでいった。

しんどう

 ゴーレムたちの引き起こす破壊と、彼らの巨体が移動するときの振動で、まともに立っ

ていられないほどだ。それなのに、ミツルはケロリとして、魔導の杖を抱くようにして腕

546

組みをした。 ぎゃくさつ

﹁こんな破壊と虐殺に、何の意味がある？ 今すぐやめるんだ。やめてくれよ、お願い だ！﹂ ﹁意味？ 意味ならあるさ。うんと大きな意味が﹂

か け ら

 ミツルは言った。彼の髪にも、瓦礫から舞いあがった埃や石の欠片がくっついている。 ﹁どうしてもこうしなきゃ用が足りないから、やってるんだ﹂

﹁宝玉を手にするために？ 常闇の鏡の封印を解こうとしてるんだろ？﹂  初めて、ミツルの表情が動いた。﹁そこまで知ってるのか﹂ しんこう

﹁常闇の鏡の封印を解き、魔族が侵攻してきたら、どれほど大変なことになるのかわかっ てるのか？ 現に三百年前にこの北大陸で││﹂ ・

・

・

・

ばんぞく

﹁知ってるよ﹂と、ミツルは遮った。ワタルは口を開いたまま固まってしまった。 ﹁知ってる？﹂ め ざわ

﹁ああ。初代皇帝が、目障りな蛮族を片づけるために、魔族の力を借りようとしたんだ。 実際、効果てきめんだったらしい﹂ ほろ

 ワタルの頭に血がのぼった。﹁効果てきめんだって！ ドラゴンたちが駆けつけてきて ヴィジョン

くれなかったら、〝幻界〟が滅びるかもしれなかったんだぞ！﹂ けむ

 ミツルは煙たそうに目を細めながら、ゴーレムたちのあいだを飛び交う七本柱のドラゴ

547

ンたちを見やった。

﹁あいつらか。おまえ、いつドラゴンなんかにわたりをつけたんだ？﹂

﹁そんなことはどうでもいいだろ。僕は彼らに教えてもらったんだ。三百年前は、封印が

解かれていたのはほんの短いあいだだった。それでも、ホントに危なかったんだ。今おま えがやろうとしていることは、それ以上のことなんだぞ！﹂ ﹁そうなんだろうな﹂ ﹁だったらなぜ？﹂ し れいとう

ゆ

 ミツルの乗るこのゴーレムは、いわば司令塔なのだろう。それ自体はまったく動かず、 あ   び  きょうかん

周囲の阿鼻叫喚をよそに、じっと佇んでいる。それでも地面がぐらぐらと揺れ、熱風にさ

さんじ 

らされているので、その大きな頭を越えてミツルに近づくことができなかった。 けん

つか

 操り手の魔導士を倒せば、ゴーレムは土に還る。ミツルを倒せば、この惨事を終わらせ

ることができる。だけれど、勇者の剣を抜くことができない。柄にかけた右手がどうしよ うもなく震えてしまう。

 ミツルは、そんなワタルをじっと見つめている。彼の後方、さほど離れていないところ で、大きな建物がまたひとつ倒壊した。 ﹁おまえ、まだ目が覚めてないようだな﹂

あき

 ミツルは言った。こんな簡単な計算問題を解くこともできないのかと、呆れているみた

548

いな口調で。 き

﹁ソノの港で訊いたよな？ おまえは幻界に、ここのヒトたちと仲良くなるために来たの か？ 幻界の平和を守るために来たのか？﹂

 心のなかに、ガサラでのカッツとのやりとりを思い浮かべようとしてみた。たとえ友達 でも、間違っていることは間違っていると言わなくてはいけない。 ・

・

・

・

・

・

・

・

・

・

﹁違うよ。僕は自分の運命を変えるために幻界にやって来たんだ。でも、そのためならど けいだい

んな手を使ってもいいとは思わない。そうは思えないんだよ﹂ うつしよ

 ミツルは、現世の学校で、神社の境内で、ワタルが彼に会うとき、いつも見せていたあ あご

そうおん

の仕草をした。ちょっと肩をすくめ、顎の先をつと持ちあげて、目をそらす。 ﹁俺はそう思える。だからやる﹂  それ以上、話すことなんかない││

﹁聞違ってるよ﹂自分でも情けないくらい小さな声しか出てこなかった。騒音に負けて、 ミツルの耳には届かないかもしれない。

﹁ミツルは間違ってる。こんなことをしちゃいけない。皇都ソレブリアのヒトたちだって、 生きてるんだ。僕らの勝手で命を奪ったりしちゃいけないんだよ﹂ す ばや

 ミツルは素早く振り返った。﹁それは、ハイランダーとしての意見か？﹂

 ワタルが答える前に、ミツルはゴーレムの肩の上で、ぽんと軽く足踏みをした。

549

とうとつ

﹁こいつが何でできてるか、知ってるか？﹂  唐突に、何を訊くのだ。 ぎ じ 

﹁い、岩だろ。魔法で造られたゴーレムなんだろ﹂

﹁そうだ。俺が土と岩をこねあげてこしらえた、疑似生命さ。だけど材料は、土と岩だけ じゃない﹂ い

た

﹁素材﹂としてのヒトが必要なんだと、ミツルは言った。

﹁ゴーレム一体につき、ヒトが一人要る。いくら魔法に長けていても、こればっかりはど

うしようもない。俺がそれを、どうやって調達したと思う？ この数だからな﹂ ふ つう

たいくつ

 ワタルはミツルの顔から目を離すことができなかった。何てことを言うんだ。まるっき り普通の口調で。退屈な授業を聞いているときみたいな顔をして。 し

 強いて視線を動かし、今や煙と炎の海になっている皇都を見渡せば、ゴーレムたちの数

たましい

がら

は数え切れないほどだ。これがみんな、元はヒトだったと？ それをゴーレムに変えてし まったというのか？ ウロ

﹁常闇の鏡をのぞきこむと、ヒトは〝虚〟になってしまう。魂のない抜け殻だ。皇帝一族

は、自分たちの勝手な都合で、しばしばヒトをウロにしてきた。強制的に常闇の鏡を見せ げ ぼく

こうせい

てウロに仕立て上げ、下僕として使ったり、辺地で働かせたりしてきたんだ。政治犯や犯 けいむ 

罪者にも、同じようなことをしてきた。刑務所に収容して更生させるより、その方が手っ

550

取り早いからさ﹂ ﹁⋮⋮本当に？﹂ じか

うそ

ゆうしゅう

﹁皇女から直に聞いたんだから、嘘じゃないだろうさ。現に、こいつらは優秀なゴーレム になってくれたしな﹂

 クリスタル・パレスのなかにも、大勢のウロがいたんだと、ミツルは続けた。 やつ

す なお

﹁ゴーレムを造る素材として、ヒトは不可欠なものだ。だけど、ヒトには魂がある。どん

なくだらない奴でも、魂を持っている。だから、そのままではなかなか素直に言うなりに

なるゴーレムを造ることができないんだ。うんと面倒くさくなるんだよ。だけど、ここじゃ

ざんこく

簡単だった。そこらをうろうろしているウロは、最初から魂を持っていない。素材として 最適だったんだ﹂ み す 

 言葉もなく青ざめるワタルを見据えて、ミツルは言った。﹁おまえは、俺が残酷なこと

す

をしているという。でも、ウロをつくったのは俺じゃないぜ。皇帝だ。ハイランダーとし がた

てのおまえは、それをどう思う？ 許し難いと思うか？ だったら、そんな皇帝の統べる

皇都なんか、滅びたっていいじゃないか。一族もろとも、滅ぼしたっていいじゃないか。

ソレブリアの市民たちも││いいや、北の統一帝国の国民全員が同罪だ。代々の皇帝の所 もくにん

しか

行を黙認してきた。時には進んで支持さえしてきた。自分たちの利益になるから。あるい か わ い

は、自分たちの身が可愛いから。こんな連中は、罰せられて然るべきだ。ハイランダーと

551

かす

してのおまえは、それをどう思う？﹂

 目が霞むのは、煙のせいだ。頭がふらふらするのは、絶え間ない振動のせいだ。耳が聞

こえなくなりそうなのは、壊されゆくソレブリアの、このもの凄い悲鳴のような音のせい だ。  どちらが正しい。何が正義だ。

そ

﹁おまえは幻界が大切だという。だけどこの帝国は、南大陸の連邦国家ほど甘くないぜ。

し か 

俺はむしろ、南大陸には感謝されてもいいんじゃないかな。北の侵攻の危険を削いでやっ たんだから﹂  ミツルはちょっと首をすくめて笑った。

﹁皇都がこの有様になっちゃ、いくら動力船を造ったところで、南へ戦争を仕掛けるどこ ろじゃないだろうからな﹂

 どんな感情よりも先に身体が動いて、ワタルはミツルに飛びかかろうとした。  そのとき││ ほとばし

 唐突に、まばゆいばかりの白光が迸り、地上を、空を、包み込んだ。飛び交うドラゴン たちと、ゴーレムたちの巨体がくっきりと黒い影に変じる。

 反射的に手で目を守り、ワタルは身をかがめた。迸る光は、生まれたときと同じように、 一瞬のうちに消えた。

552

﹁よし﹂と、ミツルがうなずいた。

ゆうだい

せんとう

 ワタルは顔を上げてみた。あの白光は消えたものの、周囲の光景の、何かが違っていた。 明るい。太陽とは別の光源が││

すいしょう

 皇帝の居城、クリスタル・パレスだ。あの雄大な城全体が、中央の尖塔のてっぺんから、 そうしょくよ く ろ う

足元を固める土台石まで、張り出した装飾翼廊の端々までもが、本当に水晶でできている みたいに、内側からさしかける光に輝いているのだった。 ﹁皇都の崩壊﹂ さんぜん

 燦然と輝くクリスタル・パレスを仰いで、ミツルは言った。 ﹁それすなわち結界の消滅だ﹂

 それじゃな││と短く言うと、魔導の杖をさっと振った。ワタルの目の前から、ミツル ワ   ー   プ

の姿がかき消えた。  瞬間移動の魔法だ。ミツルはクリスタル・パレスに向かった！

553

 49 鏡の広間     ﹁ワタル、こっちよ！﹂

いっしゅん

し れいとう

りょううで

 立ちすくむワタルのすぐそばへ、風を切ってジョゾが飛んできた。ミーナが両腕を差し のべている。

 ミツルの去った一瞬の空白の後、これまで司令塔の役割を果たしていたゴーレムが、戦 ふ

つばさ

くず

列に加わって両腕を振りあげた。ワタルは横っ飛びに飛んでミーナの手につかまった。ゴー こぶし

よ

ま

か ら だ

レムの拳が、ジヨゾの翼すれすれのところで空を切った。ジョゾはバランスを崩しながら も、きわどく避けて舞いあがる。 ﹁ミツルは？﹂ つ

ほのお

は

すす

 カッツを乗せたドラゴンがジョゾに追いついてきた。ドラゴンたちの身体は、ソレブリ な

アを舐め尽くしつつある炎に赤く照り映えている。カッツの顔は煤で真っ黒だ。 ﹁ク、クリスタル・パレスへ││﹂ ﹁追いかけるんだ！ ぐずぐずしてるんじゃないよ！﹂

 カッツはドラゴンの角につかまり、身を低くした。人龍一体となって、ドラゴンが翼を かっくう

たたみ、まっしぐらにクリスタル・パレス目指して滑空を始める。

554

だいじょうぶ

﹁ジョゾ、大丈夫？﹂

や け ど

﹁任しといて！﹂と、ジョゾは歯を食いしばって後に続く。でも傷だらけだ。火傷のせい は

だろう、ウロコがあちこち剥げている。 そうだい

が れき

た

 ソレブリアを包囲しつつ、ゴーレムたちもまたクリスタル・パレスに向かって輪を縮め すきま 

に

ていた。振り返ってみると、もはや壮大な瓦礫を焼く焚き火と化しているソレブリアの、 せま

ぼうぜん

迷路のようになった狭い隙間に、何とか生き残ったヒトびとが火に追われつつも逃げ場を

探し、あるいはうずくまり、あるいは方向を見失って呆然としているのが一望できた。ワ タルは周囲を飛ぶドラゴンたちに向かって声を張りあげた。

じょうへき

いんせき

﹁皇都のヒトたちを、クリスタル・パレスから遠ざけてください！ 城壁の外へ逃がすん だ！﹂ ﹁わかった！﹂

 先を行くカッツとドラゴンが、ワタルの拳ぐらいの大きさに見える。赤い隕石のように、 クリスタル・パレスめがけて一直線に飛び落ちてゆく。 ま ほう

 そのとき、ワタルは〝気〟を感じた。魔法の気配としか言いようがない。トリアンカ魔

りんかく

ゆが

病院で、ソノの港町で、ミツルが風の大魔法を行使してみせたときと同じ空気の流れ。 ﹁カッツさん、気をつけて！﹂ さけ

 叫んだ瞬間、クリスタル・パレスの輪郭が、かげろうに包まれたかのように歪んでにじ

555

ら せん

えが

きょだい

たつまき

ぼうちょう

んだ。次の瞬間、城の内部、深奥の一点を中心に、巨大な竜巻が立ちのぼった。急流のよ もんぜつ

うな風の流れは渦となり、螺旋を描きながらまたたくまに膨張し、ワタルの目にカッツを ちょくげき

がいえん

はじ

乗せたドラゴンがその直撃を受けて、あたかも悶絶するようにきりもみ状態になる様子が 飛び込んできた。 ﹁危な││﹂ せんたくそう

か な た

 ジョゾも竜巻の外縁の風に弾き飛ばされた。ワタルの声も宙に消えた。上下左右もわか

らぬまま、洗濯槽のなかのハンカチみたいにぐるぐる回りながら、空の彼方までも飛ばさ れてゆく。

とうかい

 キ・キーマとミーナの叫び声に、ジョゾの悲鳴も混じる。空と地上、モザイクのように

入れ替わる視界。巨体のゴーレムたちでさえ、竜巻の強風に一歩二歩とよろめく。倒壊し う

た建物の瓦礫が舞いあがり、倒壊しかかっていた建物が吹き飛ばされる。石造りの家がま

るまる一棟、手品のように宙に浮き、少しずつ分解されながら飛んでゆく。燃える物見台

だろうか、内部に柱の輪郭がうっすらと見える巨大な火の玉が、無力に飛ばされてゆくジョ

ゾのすぐ上を通り過ぎ、城門脇の城壁にぶつかって火花と共に消えた。 ﹁つかまっててぇ！﹂

 ほとんど泣きながら、ジョゾが叫んだ。キ・キーマが片手でミーナをつかまえ、片手で ジョゾの翼にぶらさがり、

556

つ

がんば 

﹁ワタル、頑張れ！﹂

じょうしょう

 ぐいと突き出された足に、ワタルは両手でしがみついた。腰から下は宙に泳いでいる。 せま

落下する。落ちてゆく。ぐんぐん地面が迫ってくる。落ちる、落ちる││

きょうふ

 大きな手ですくいあげられたみたいに、ワタルの視界は地面すれすれをかすめて上昇し

は

た。ジョゾがコントロールを取り戻したのだ。空が広がる。あまりのきわどさに、恐怖の ほ

あまりか、ジョゾが吠えるような泣き声と共にひとかたまりの火を吐き出した。

きわ

﹁大丈夫？ 大丈夫？ みんないるね？﹂ ﹁いるよ、ジョゾ！﹂ けんめい

 気がついたら、城壁の際のところまで吹き飛ばされてしまっていた。ドラゴンたちも、

竜巻の外周で懸命に羽ばたいている。ワタルは七本柱の数を数えた。一頭、二頭││みん そろ

な揃っている。カッツは無事だった？ どこだ？ ﹁カッツさーん！﹂

いた

 呼ぶ声も風にさらわれてゆく。 かたよく

﹁こっちだ、こっちだよ！﹂

は

 カッツのドラゴンは、片翼を傷めたのか不自由な飛び方で、ワタルたちよりもずっと低 た

いところでふらついていた。ジョゾが降りてゆく。彼の首のところまで這っていって、大 なみだ

きな頭の上に乗り出し、ジョゾの目にいっぱいの涙が溜まっていることに気がついた。

557

こわ

﹁こ、怖いね﹂と、ジョゾは言った。﹁今のは何だろ？﹂

な

﹁風の大魔法だよ。ミツルが、僕たちを寄せつけないために、クリスタル・パレスを竜巻 で包んじゃったんだ﹂

 ワタルは一生懸命ジョゾの頭を撫でた。気がつくと、自分も泣きそうになっていた。 け が 

 何とかバランスを保ちながら並んでみると、カッツも怪我をしているのがわかった。焼 こ

け焦げだらけだし、右目のすぐ上が切れて血が流れているので、そこだけ煤が洗い流され ている。 にぎ

﹁ちくしょう、あれじゃ近づけやしない！﹂ むち

 鞭を握りしめる手にも血がついている。 ﹁あの魔法を何とかできないのかい？﹂

ワ   ー   プ

﹁僕の力じゃ無理です﹂ワタルは必死に呼吸を整えた。﹁もう瞬間移動魔法を使うしかな い。やってみます﹂

ど こ 

 カッツは、傷を負った片目をも痛々しいほどに大きく見開いた。﹁そんなことができる なら、何でもっと早くやらないんだよ！﹂

﹁自信がないんだ。ミツルみたいに正確にコントロールできない！ 何処へ飛ばされるか、 僕にもわからないんだもの﹂ ﹁それだって、やるっきゃないだろ！﹂

558

 言うなり、カッツは軽々とジャンプし、ジョゾの上に飛び移ってきた。 ﹁さ、行こう﹂と、ワタルの腕をむんずとつかむ。 いっしょ

﹁行こうって？﹂

﹁一緒に行くんだよ！ あんたにつかまってりゃ、あたしも移動できるだろ？﹂

 ワタルはキ・キーマとミーナを振り返った。ミーナがもがくように立ちあがる。 ﹁ワタル││﹂ あた

たの

﹁二人は、皇都のヒトたちを助けて﹂と、ワタルは言った。素早く、しかしミーナに反論 すき

の隙を与えず、決然と。 ひとみ

﹁ミツルのことは、僕とカッツさんで何とかする。だから頼むよ、ね？﹂

ひざだ 

 ミーナの青灰色の瞳に、今や皇都の空までを染めている炎の色が照り映えている。 ﹁わ、わかったわ﹂

ゆうどう

﹁気をつけろよ﹂キ・キーマが膝立ちになった。﹁よし、ジョゾ！ ワタルたちが魔法で

ワ   ー   プ

消えたら、俺たちは皇都を巡るんだ。逃げ場を失ってるヒトたちを、上から誘導するんだ ぞ！﹂ しず

 ジョゾが翼を大きく振った。﹁うん！﹂ けん

 ワタルは勇者の剣を抜いた。心を鎮め、集中するんだ。ガサラで瞬間移動したときのこ

とを思い出せ。できるはずだ。きっとできる。クリスタル・パレス。クリスタル・パレス

559

みっ

へ。  三つの宝玉の力を集めて。 じゅもん

ほうだん

こ

えが

 目を閉じて呪文を唱えると、突然身体が軽くなった。視界が光に満たされ、炎の熱さも

風の強さも感じなくなった。魔法の砲弾だ。空へ打ち出される。上昇し、上昇し、弧を描

いて空を飛び、ゴーレムたちの頭上、皇都ソレブリアの上空をよぎって、クリスタル・パ レスへ││

そうしょく

 ぱっと現実が戻ってきた。ワタルは宙に浮いていた。カッツが一緒だ。二人で空を飛ん い よう

せんとう

かげ

き し 

でいる。足元にはクリスタル・パレスの威容が迫っている。広いテラス。装飾のほどこさ せつな 

れた見張り台。ぐるりを巡る石の手すり。中央尖塔に陽光がぴかりと反射する。

 刹那のそのとき、テラスのあちこちに、城の内部に続くアーチ型のゲートの陰に、騎士 かぶと

はがね

たちが倒れているのが見えた。血、血、血。そこらじゅうに血が飛び散っている。どうし

てあんなところに銀の兜だけが転がっている？ なぜあんな場所に鋼のブーツだけが落ち

やいば

ている？ バラバラだ。騎士たちが身体をバラバラにされて死んでいる。風の魔法の刃に かかって││ ﹁降りるよ！﹂ ち のり

 カッツが叫んだ。二人で石のように落ちてゆく。血糊の飛び散る石敷きのテラスに。  しかし、そのとき。

560

じゃま 

とどろ

﹁邪魔するな！﹂ ひらめ

げきとつ

 ミツルの声が轟いた。ワタルの目の奥で光が閃いた。着地しようとしていた身体が、見 ゆが

ばくはつ

えない壁にぶつかったみたいに弾き飛ばされる。魔法と魔法の激突に、ワタルを包む世界 が歪んで爆発する。 いか

 カッツが怒りの悲鳴をあげて、ワタルの腕をつかんでいる││

 どさっと音をたてて、二人は落下した。地面の上だ。腰から落ちた。頭がくらくらする。 ﹁こ、ここは？﹂

かか

 へたりこんだまま、カッツが周囲を見回している。ワタルは両手で頭を抱え、回る視界 を押さえようと、ぐっと目をつぶった。

きょり 

 そして顔を上げ、目を開いてみると、ようやくそこが緑地であるとわかった。どこだ？ かがや

 さっきよりは、確かにクリスタル・パレスに近づいている。それでもまだ距離はあるが、

輝く尖塔と城壁が、皇都にいたときよりはくっきりと見てとれる。城の窓のいくつかから、 けむり

細い煙の筋が流れ出ているのもわかる。 いくた 

﹁こりゃ⋮⋮庭園だよ﹂カッツが気抜けしたような声を出した。

 クリスタル・パレスを取り囲む幾多の美しい庭園。そのうちのひとつに、二人は移動し あずまや

てきたのだった。無骨な土台石に支えられた四阿と、砲台の跡。そこは戦勝の庭園だった。

よし

ミツルが皇女ゾフィと会見した、あの庭だ。もちろんワタルには知る由もない。

561

あ

﹁やけに静かだね﹂カッツは立ちあがり、右目に流れ込む血をうっとうしそうに手で拭っ た。﹁騎士の一人もいやしない﹂ ﹁風の大魔法の内側に入ったんですよ﹂

とちゅう

 立とうとすると、膝が崩れそうになった。カッツが支えてくれた。 ﹁じゃ、ここは何事も││﹂ こんせき

かし

か べん

かたむ

さく

 なかったのかねと言おうとしたのだろうが、カッツは途中で口をつぐんだ。庭は荒れて

いた。強い風が通過した痕跡が、傾いだ樹木に、散り落ちた花弁に、傾いた柵に、乱れた 地面に残っている。

かま

 植え込みの陰に、警備兵らしいヒトが二人、手足を投げ出すようにして倒れている。身 体から流れ出る血が、砂地を黒々と染めている。 た

 竜巻の外周の風が通り過ぎたとき、城の周りにいたヒトびとは、鎌のようなその刃に、 命を断ち切られてしまったのだ。 たず

﹁さっき、見ませんでしたか﹂と、ワタルはカッツに訊ねた。﹁一度は城のテラスまで移

動したんです。一瞬だけど、城内の様子が見えました。騎士の首が落ちていた。そこらじゅ

はば

うに血が飛び散っていた。城の内側でも、風が通過した瞬間には、ここと同じことが起こっ かんむり

たんです﹂ ふういん

 封印の冠を目指して突き進むミツルは、進路を阻む者すべてを、騎士であれ城の文官た

562

ようしゃ

き

ちであれ、情け容赦なしに風の大魔法の刃で斬り捨てていったのだ。 しきち 

 ワタルは城に背を向け、皇都の方向をぐるりと見渡してみた。大魔法でつくりあげられ へだ

しんく 

た巨大な風の輪が、広大なクリスタル・パレスの敷地をすっぽりと包み込んでいる。ソレ

ブリアを焼き尽くす炎が、風のバリアを隔てた向こう側で、真紅のオーロラのように揺ら めいている。 ワ   ー   プ

﹁どうしてあのままテラスに降りられなかったんだろう？﹂

﹁ミツルに追い返されちゃったんです。あいつ、僕が瞬間移動してくることを知って、魔 法で弾き飛ばしたんだ﹂ てき

 しゃべると、口元がわなないた。カッツの足元に、血が一滴、二滴と落ちている。

ふさ

﹁カッツさん、手当しないと。ひどい血だ﹂ ﹁これぐらい、何てことないよ﹂  気丈に言うけれど、右目はほとんど塞がってしまっている状態だ。 ﹁もう一度やってみます。大丈夫ですか﹂ ﹁誰に訊いてるんだい？﹂

 カッツは鞭を束ね直し、腰にしっかりとくくりつけると、ワタルの腕をつかんだ。

 ワタルは目を閉じた。やみくもに念じても駄目だ。僕の持っている三つの宝玉の力で、

封印の冠││闇の宝玉のある場所まで飛ばしてもらうんだ。僕の意志じゃなく、宝玉の意

563

志に従って誘導してもらうんだ。 ﹁お願いだよ、連れて行って﹂ つぶや

 ワタルは小さく呟いた。 ﹁今度こそ！﹂  ワタルとカッツの姿が、戦勝の庭園からかき消えた。 と

 無になり、光と化し、時を停め、空をよぎる││

しょうげき

ぱく

 今度の落下は長かった。頭から落ちているのか、足から落ちているのか。無意識のうち に両手が空をかく。

ゆか

 ワタルとカッツは、こんがらがって着地した。落下の衝撃に一拍遅れて、カッツの足が ワタルの背中にどすんとぶつかった。 あお

とうめい

こお

 二、三秒のあいだ、気絶していたらしい。気がつくと、ワタルはつるつると平らな床の うつぶ

上に俯せに倒れていた。何だろう、この蒼く透明な床は。デラ・ルベシ？ あの凍れる都 にそっくりじゃないか││

いただ

 はっとして、しゃにむに両腕を突っ張って身体を起こすと、一挙に視界が開けた。 ぼ

こうてい

 ぐるりを円柱に囲まれた、そこは広間だった。ひとつひとつの円柱に、宝冠を戴き重た まと

げなローブを身に纏ったヒトの像が浮き彫りにされている。これは歴代の皇帝の像じゃな

564

たたず

いか││と思ったとき、ミツルが見えた。  広間の中央に、ぽつりと佇んでいる。 なめ

せいじょう

 すべてが蒼く透き通っている広間。ミツルの魔導士の黒いローブが、足元の床に、高い

けんめい

天井に、円柱のあいだをつないでいる滑らかな壁面にも映っている。鏡││清浄な蒼い光 を放つ、これは鏡だ。  鏡の広間だ。 ﹁ワ、ワタル﹂ かた

あお

 カッツがワタルの肩に手をかけ、一瞬だけがくりとよりかかってから、懸命に姿勢を立 て直した。

はし

わた

 二人の視線は、ミツルに吸い寄せられている。ミツルと、彼が整った横顔を見せて仰い とこやみ

でいるあるものに。  常闇の鏡。 こ

かんぺき

なな

 それは広間の北の端に、左右に円柱を従えて安置されていた。差し渡しはワタルの身の たけ

みなぎ

丈を超えている。間然するところのない、完璧な円形。斜め上方を向けて立てかけられた 姿勢になっているその鏡には、  ││闇だ。 ふち

 闇が満ちている。銀色の円周の縁ぎりぎりのところまで、闇が漲っている。ふつふつと

565

音もなくたぎっている。

 ゆらりと、ミツルが一歩踏み出して、常闇の鏡に近づいた。そのとき、ワタルは気づい かたど

ほうかん

た。常闇の鏡の脚元に、小さな星形の文様が描かれている。その中央に、シンプルな輪に

波形の模様を象り、額の部分に宝玉をはめこまれた宝冠が据えられていることに。  封印の冠と、闇の宝玉だ。

 闇の宝玉もまた、常闇の鏡の内に満ちている闇と同じ、漆黒の色にまたたいていた。

 ミツルは目をさげて、封印の冠を見た。また一歩、大きく踏み出す。と、それまで彼の かざ

かみ

身体の陰に隠されていたヒトの姿が、ワタルの目に飛び込んできた。 ゆうが 

ごうしゃ

 女の子だ。優雅な白いドレスに、飾りをつけて編み上げた髪。横座りになって、床に倒 れた誰かの頭を膝の上に抱き上げている。

ししゅう

 あれは││皇帝ガマ・アグリアスⅦ世そのヒトではないのか。刺繍をほどこした豪奢な

ローブが、破れてぼろぼろになっている。手足からは完全に力が抜けて、だらりと床に垂 れている。 ぬ

 少女の顔は泣き濡れている。よく見ると、彼女のドレスには血がいっぱいにじんでいる。 彼女の血か、それとも皇帝の血か。 ﹁ミ、ミツル様﹂ ふる

 女の子が震える声でミツルに呼びかけた。しかしミツルはまばたきさえしない。封印の

566

み い 

冠と、闇の宝玉に魅入られたかのように。 だれ

ワ   ー   プ

ふ か 

よ

 あの少女の顔││どこかで見た覚えがある。ワタルは、瞬間移動の負荷に、酔っぱらっ くも

たように雲った頭で考えた。誰かに似ている。誰だろう││

﹁しつこいな﹂と、ミツルが言った。正面を向いたままだけれど、声の切っ先はワタルに 向いていた。 ﹁これが常闇の鏡だよ﹂

 ミツルの言葉に応じるように、鏡の縁まで押し寄せている闇がさざめいた。 ﹁そしてこれこそが最後の宝玉、僕の求める闇の宝玉だ﹂

 ミツルはゆっくりとかがみ込むと、片膝をついて宝冠に手をのばした。 ﹁お願い、やめてください。やめて﹂ こんがん

 泣き崩れながら、白いドレスの少女が懇願した。 ﹁常闇の鏡の封印を解かないで。どうぞお願いです﹂

おど

 少女の身体が揺れ、膝の上から皇帝の頭が滑り落ちた。無様な、ごつんという音がする。 ただの物体になってしまっている。完全に死んでいるのだ。 け

ちょうやく

 ワタルが何をするよりも早く、カッツが鞭を抜いてミツルに躍りかかった。彼女のブー かかと

ツの踵が床を蹴り、力強い跳躍に両肩が反り、黒い髪がなびく。

 ミツルはやはりこちらを見もせずに、魔導の杖を握った腕を、無造作にカッツに向けて

567

まり

は

突き出した。ただそれだけで、カッツは鞠のように宙で跳ね返され、ワタルの頭を越えて 吹っ飛ばされてしまった。 うめ

﹁悪あがきはよせというんだ﹂

あっけ 

 カッツが呻いている。ワタルは勇者の剣を構え、素早く魔法弾を打った。ミツルは魔導

の杖を振った。魔法弾は火花になって、その残光が周囲の壁面に散った。 ﹁やめろ！﹂

 ワタルは剣を構えて突進した。滑る床に、足が走る。と、次の瞬間にはまたぞろ呆気な

く飛ばされていた。前のめりに弧を描いて広間を横切り、白いドレスの少女のすぐ傍らへ と、頭から転がり落ちた。

﹁常闇の鏡の封印を解けば何が起こるかなんて、今さら教えられなくても知ってるよ﹂ とら

 ようやく、ミツルの視線がワタルを捉えた。その目が笑っていた。口元が、今まで見た こともないような格好に歪んでいた。

﹁どうしてです？﹂少女はすすり泣いている。﹁なぜこんなことを？﹂ ﹁僕は〝旅人〟なのですよ、皇女﹂  ミツルは少女を見おろして答えた。

﹁最後のひとつ、この闇の宝玉を手に入れさえすれば、運命の塔への道が開けるのです。 ヴィジョン

僕はそのために〝幻界〟を旅してきた。何度同じことを言わせれば気が済むのです？﹂

568

しょうてん

 カッツが半身を起こし、懸命に鞭を構えようとしている。その様子がおぼろに見える。

焦点があったり、ぼけたりを繰り返す。床に激突したときの衝撃で、手も足もバラバラに あせ

なったみたいだ。勇者の剣をしっかりと支えているだけで精一杯だ。カッツも同じなのだ

ろう、焦るあまりに鞭を取り落としかける。出血がひどくなって、顔が真っ赤に見える。 ﹁運命を変えるために？﹂ しずく

せつな 

ひとみ

 顎の縁から涙の雫を落としながら、少女がミツルに問いかけた。 おだ

﹁そのとおりです﹂ こわね 

はかり

 ミツルの声音は穏やかだった。その刹那、彼の瞳のなかに、少女に対する親しみのよう なものがよぎった。

とうわく

﹁皇女ゾフィ、貴女の側に、不当なほど大きく傾いていた幸福の秤を、正しい位置まで戻 なぞ

させていただく﹂

 謎のような言葉だった。泣き乱れた少女の表情に、さらに当惑が加わった。 だんぺん

 やっぱりこの顔││誰かに似ている。僕はこの少女を知っている。 き おく

お ば 

 記憶の断片が、動揺するワタルの手の届くところに舞い降りてきた。

﹁叔母さんだ﹂と、思わず言った。﹁ミツルの叔母さんだ。叔母さんによく似てるんだ﹂

 わたしもまだ二十三歳なの。背負いきれないわ、こんなこと。涙を浮かべて呟いた││  ミツルが鋭くワタルを振り返った。

569

 あまりにも不当な運命。強いられた不幸。それを変えるためにこそ、続けられてきた幻 界の旅。

 どうしてそれを止められよう？ 誰に止める権利がある？ ワタルのなかに、一瞬だけ、 しかし取り返しのつかない一瞬の、大きすぎるためらいが生まれた。 ふ

たましい

おごそ

 封印の冠に手を触れると、ミツルは、そっとそれを持ちあげた。誰に対するときの、ど やさ

こ だま

つい

んな手つきよりも優しく。おそらくは、自分自身の魂に触れるときよりも厳かに。 ﹁やめろ！﹂ むな

 ワタルの叫びが空しく広間に木霊する。片手に宝冠を、片手に魔導の杖を。遂に完成さ たけだけ

れた〝旅人〟ミツルは、猛々しく魔導の杖を宙に突きあげ、呪文を唱えた。 ﹁最後にもう一度だけ、友達のよしみだ。さあ、逃げろ！﹂ ごうぜん

 轟然と巻き起こった風が、ワタルたちを包み込んだ。足が床を離れ、身体が浮きあがる。

ワタルは夢中で両手を振り回し、すぐ傍らにいたあの少女の白いドレスをしっかりとつか んだ。 ﹁つかまって！﹂  広間の光景が、瞬時に消えた。

570

ほうかい

 50 別れ     の

 崩壊し、焼け落ち、死者の群を呑みこみ、命びろいした数少ないヒトびとの列を、破れ じょうへき

つつ

そうきゅう

たかみ 

た城壁のそこここから、傷口からの出血のように垂れ流している皇都ソレブリア。 せんとう

 その中央で、静まりかえるクリスタル・パレス。 はな

 今、その尖塔の頂上から、一本の光の筒が立ちあがり、蒼穹の高処に向かって延びてゆ お だく

く。汚濁の地を離れ、天上へ、天空へ。 そろ

か

だれ

さえぎ

 それこそは、五つの宝玉を揃えた〝旅人〟のみがたどることのできる、運命の塔へと至 る道。 はば

 黒いローブに身を包んだミツルが、光の筒のなかを駆け登ってゆく。もう誰も彼を遮る あお

ことはできない。何者も、彼の行く手を阻むことはできない。 あお

 生き残ったヒトびとは、天を仰ぎ、光の筒を見あげ、やがてそのなかを駆け登る小さな かげ

たつまき

黒い影が、蒼い空に吸い込まれるようにして消えてゆくのを見届けた。

ゆ

 それと同時に、風もやんだ。竜巻は去った。ソレブリアの内にひしめいていたゴーレム たちが、ぴたりとその動きを止めた。 しんどう

 ごく小さな振動が、ゴーレムたちを内側から揺るがせた。彼らを動かしていた。ミツル

571

まりょく

ちんもく

か

かた

つちぼこり

どう

の魔力のスイッチが切られた。自らの掻きたてていた土埃が立ちこめるなかで、ゴーレム たちは沈黙した。 はし

くず

かえ

 あるものは頭の端から、あるものは肩の先から、またあるものは胴のなかほどから、見

くだ

こぶし

こわ

えない波に洗われ、崩れてゆく砂の城のように、ゴーレムたちは土に還り始めた。さらさ かたひざ

らとした土の流れは、みるみるうちに勢いを増し、彼らを食い破ってゆく。 が れき

あとかた

か け ら

しゅうねん

 地に片膝をつく。頭が砕けて肩の上に崩れ落ちる。拳が消える。声もなく壊れてゆく。 瓦礫にまじり、跡形もなく。 な

ほのお

ぐ れん

ごと

 ゴーレムたちが消失し、彼らのいた場所に土と岩の欠片の山だけが残ると、執念深く皇 し だい

ぱし

う

は

都の瓦礫を舐めている炎の他に、動くものはなくなった。紅蓮の如く燃えあがっていた炎

くうきょ

たけだけ

も、次第次第に力を失い、切れっ端のような赤い舌が、飢えを残してちらちらと這い回り く

うたげ

ながら、まだ喰らうものはないかと探している。  破壊という宴の後の空虚││ ふる

 しかしヒトびとは、やがて足元が震え始めるのを感じた。地の底から、猛々しく押し寄 とどろ

すいしょう

こうしつ

かがや

せてくるものの足音の轟きにも似て、それは波のように近づいてきた。 とう

 クリスタル・パレスがその名の如く、今一度、水晶のように硬質な輝きを放った。 かたむ

 その光が消えると、城は形を変え始めた。四角く張り出した棟が崩れる。正門のアーチ ゆが

が歪む。尖塔が傾く。テラスが歪む。

572

しょうげき

こ

ふ きつ

おどろ

ともな

 ヒトびとは我と我が目を疑った。これ以上どんな不吉な光景を見せられても驚かないつ ま ひ 

もりだった。衝撃は許容限度を超えていた。身近で失われた命の痛みさえまだ現実味を伴 あ ぜん

わぬほどに、誰もが唖然としていたのに、その麻痺した心さえもさらに揺さぶるような光 景が、今、眼前に広がってゆく。

 クリスタル・パレスは崩壊してゆく。ただ崩れ行くだけではない。内側に、城の深部、 こうてい

きょだい

知っている者ならば、そこが皇帝の玉座の間のある場所だとわかる││その一点を中心に、

収縮してゆくのだった。乳白色に輝く巨大な石の城が、折りたたまれてゆく。吸い込まれ

きり

てゆく。ぽかりと空いた無数の窓は、声のない悲鳴をあげる口だ。呑みこまれてゆく。 か

 ものの数十秒で、クリスタル・パレスは地上から姿を消してしまった。

 と、それと入れ替わりに、たった今城を吸い込んでいった一点から、真っ黒な霧が立ち びしょう

し

つばさ

えが

おお

つ

ふじょう

のぼり始めた。微小な黒い鳥の群のようにうごめき広がりながら、たちまちのうちに、今 しっこく

しがたまでクリスタル・パレスが占めていた空間を覆い尽くす。 つい

 黒い霧は天空に、一対の漆黒の翼を描き出した。翼はゆっくりと羽ばたき、浮上する。 ねむ

とこやみ

地に眠っていた何かを、上空へと持ちあげてゆく││  常闇の鏡を。

 空に現れ出た常闇の鏡は、さながらそこにあるもうひとつの太陽のように見えた。地上 はいきょ

の廃墟に、傾きかけたとは言えまだ明るい光を注いでいる太陽とは裏腹の、闇に満ちた異

573

おもて

はら

ふういん

種の太陽。そこに孕まれるは無限の暗黒。 は

め が ね

 常闇の鏡の面が、永き封印から解放された喜びに身震いをするかのようにさざめいた。 ほんりゅう

そして、その内から、黒い奔流を吐き出し始めた。

な じ 

 そのとき、ルルド国営天文台の研究室で、バクサン博士は鼻眼鏡をかけ、分厚い書物の はげ

で し 

にぎ

せわ

上に目を落としていた。お馴染みの木でできたブーツの上にちょこんと乗っかり、周りで

作業に励む弟子たちの話し声に包まれて、小さな手に握りしめた小さな羽根ペンを忙しく 動かしながら、興味深い一節を解読しようと││

 唐突に、誰かにどやしつけられたみたいに、博士は目をあげた。顔からすうっと血の気 が引いてゆく。 ﹁どうしたんですか、博士？﹂  気づいたロミが声をかけた。 だ

 バクサン博士は小さな口をぽかんと開けていた。その目が泳いで、窓の外へ向いた。 つぶや

かいげんれい

とうちゃく

たいざい

﹁い、いかん﹂と、博士は呟いた。そしてロミが抱き留める間もなく、ブーツの上から転 がり落ちた。 き し 

 シュテンゲル騎士団による戒厳令下のガサラに到着し、滞在中のスペクタクルマシン団

574

たいほ 

みな

は、夕べの公演前の準備に追われていた。ギル首長が逮捕され、ブランチが力を失ったガ

サラでは、町に出入りするときばかりか、町内の移動にも制限がかけられていた。皆、気 おび

落ちして不安に怯えている。ブブホ団長は、限られた時間と機材で、できるだけ陽気な出 けいこ 

し物を演じ、ガサラのヒトびとを元気づけようと考えていた。 かるわざ

 パックたちの軽業に稽古をつけていた団長を、団員の一人があわてた様子で呼びにきた。 いぶか

﹁ババさまが、すぐ団長に来ていただきたいと言ってるんです﹂

あお

 団長は訝りながらも、ババのテントに急いだ。入口の垂れ幕をあげて顔をのぞかせると、 うらな

ババは占いに使う水晶玉を前に、両目をわずかに細めて座り込んでいた。 ﹁ババ、どうしたね﹂  団長の問いかけに、ババは目をあげた。 ひとみ

﹁封印が解かれてしもうた﹂

と

 ババの瞳に、水晶玉の放つかすかな光が映っていた。その声は震えていた。 ﹁常闇の鏡じゃ。おお、魔族が来よる！﹂ どうくつ

 同じ時、ドラゴンの島では、竜王が洞窟の割れ目から、針の霧に閉ざされた空を仰いで どうぶる

か

ぬ

いた。他の誰にも見えない印を、竜王ははっきりと見てとった。 きょうふ

 恐怖と共に、決意の胴震いが、竜王の老いた身体を駆け抜ける。

575

﹁皆の衆よ﹂  竜王はゆっくりと身を起こした。 め がみ

いの

ほうこう

ヴィジョン

ほとばし

わた

﹁封印は解かれた。常闇の鏡が地上に現れた。戦いの時じゃ。今一度、〝幻界〟の守護と ちか

して、我らが鋼の翼に女神さまの加護を祈ろう﹂ なげ

 ドラゴンたちの怒りと嘆き、誓いと決意の咆哮が、島の内からどうどうと迸り、海を渡 り針の霧さえも震わせる。  ここは││どこだ？ にお

 ほっぺたが地面にくっついている。埃の匂いがする。

かたわ

けん

たお

 ワタルはまぶたを開けた、平べったい地面。目の前に投げ出された、土埃にまみれた両 ひじ

手。でも右手には、しっかりと勇者の剣を握ったままだ。 くつ

ぬ

よご

 肘をついて顔を起こす。すぐ傍らに、あの白いドレスの少女が倒れていた。壊れた人形 うつぶ

のように俯して、片方の靴が脱げてしまっている。ドレスは見るかげもなく汚れて、ワタ ルと同じように土埃にまみれている。

 クリスタル・パレスの鏡の広間から、ミツルに飛ばされたんだ。ワタルは膝立ちになっ

てみた。視界がぐるりと回り、腰が抜けたように座り込んでしまう。頭を振って、もう一 度立ちあがる。

576

む

くさはら

 ソレブリアの城壁が遠くかすんで見える。こんなところまですっ飛ばされたなんて、信

じられない。見回せば、周囲には点在する森。枯れて地面が剥き出しになった草原に、と ころどころ岩が飛び出している。

 寒い。北の大陸の風がまともに吹きつけてくる。しかしこれは自然の風だ。

 クリスタル・パレスはどうなった？ ミツルはどうなった？ 僕が気絶しているあいだ に、何が起こった？  カッツの姿が見えない。どこへ飛ばされてしまったんだ？ うめ

 白いドレスの少女が痛そうに呻いて、手足を動かした。ワタルはぎくしゃくと駆け寄り、 だいじょうぶ

彼女を助け起こした。 ﹁しっかりして。大丈夫ですか？﹂

しょうてん

 少女の目がぼんやりと開き、かなり手間取ってから、ようやくワタルの顔に焦点を結ん だ。 ﹁こ、ここは？﹂ に

﹁ソレブリアの近くです。でも、道もない森と草っぱらの真ん中だ﹂

きり

 最後の一瞬、ミツルは言った。﹁逃げろ！﹂と。あれはどういうことだったんだ。 ﹁常闇の鏡は││﹂ の

 皇都ソレブリアの方向に目をやって、ワタルは息を呑んだ。何だ、あの黒い霧は？ わ

577

か

さわさとうごめきながら、ソレブリアの上空に群れている。

まと

 ドラゴンたちはまだソレブリアの上を飛び交っている。あの霧と戦っている││霧に纏 いつかれ、今、一頭がたえかねたように地上に落ちていった。

 ワタルは前後を忘れ、ソレブリアに向かって駆け出しながら、勇者の剣から空に向け、 ま ほうだん

魔法弾を打った。 ﹁ジョゾ、ジョゾ、どこにいる！﹂

 何発も立て続けて魔法弾を打つうちに、空の低いところに真っ赤な点が見えてきた。ジョ

かたまり

ゾだ。こっちにやってくる。すごいスピードだ。そのすぐ後ろから、黒い霧の塊が追いか けてくる。 ﹁ジョゾ！ 僕はここだよ！﹂

がくぜん

 走りながら両腕を振って大声で呼びかけ、しかし次の瞬間、ワタルは愕然として立ち止

まった。ジョゾが近づいてくるにつれ、彼を追っている霧の塊の様子が見えてきたのだ。 かぎづめ

や

 翼だ。真っ黒な翼がはえている。何という数だろう！ 一体一体はヒトと同じくらいの するど

大きさだが、鋭い鉤爪のはえた手足に、痩せさらばえた胴。どこもかしこも真っ黒だ。  こいつらが魔族なのか！ ﹁ワタル！﹂ かっくう

 ジョゾはまっしぐらに滑空してきた。地面すれすれにまで高度を落とす。

578

げきとつ

﹁乗って、乗って、早く乗って！﹂

 ワタルはジョゾの翼に激突する寸前、頭から飛び込むようにしてその上にジャンプした。

着地と同時に、翼の付け根にしがみつく。反動でジョゾの身体が揺れて、足が地面に着き そうになった。 ﹁あの子も、あの子も乗せるんだ！﹂

いや

 白いドレスの少女は、さっきと同じ場所にまだへたりこんでいる。ワタルは身を乗り出

し、ジョゾが彼女のそばをかすめて通過するときに、両腕で抱き上げた。

ぴき

 少女の上半身がジョゾの上に乗った。そのとき、追いついてきた魔族の一匹が、嫌らし

ど く ろ

い腕をのばして少女の片足をつかんだ。前のめりになっていたワタルは、まともに魔族と しん

顔を合わせた。 がいこつ

 骸骨だ。芯まで黒い骸骨だ。ケタケタと笑う髑髏の、目があるべきところには空っぽの

穴がふたつ並び、くちびるのあるべきところには、剥き出しの、そこばかりは異様に白い きば

牙がずらりと並んでいる。指の一本一本も、骨張っているというより骨そのもの。翼をは かんだか

ためかせながら、金属をこすりあわせるような甲高い声をあげている。足をつかまれた少

女が、ぐいとひっぱられて振り返り、初めて魔族に気づいて、けたたましい悲鳴をあげた。 ひ ふ 

すきま 

ワタルは彼女を片手でぶらさげたまま、身体をひねって勇者の剣を振りあげた。魔族の胴 よご

体には、汚れた皮膚一枚の下にごつごつとあばら骨が並んでいる。その隙間めがけて剣を

579

突っ込んだ。 と しゃぶつ

は

 叫ぶというより、ダミ声を吐瀉物のように吐き散らしながら、魔族が少女の足を放した。 き

ぬま

ちゅうと はんぱ 

ワタルは少女をジョゾの背中の上に引っ張りあげると、それでも追いすがってこようとす る奴にもう一度斬りつけた。 ﹁ジョゾ、上昇だ！ 振り切れ！﹂ なげ

 ジョゾはぐんと高度をあげた。嘆きの沼でワタルに先っぽを切られたきり、中途半端な

長さになったジョゾのしっぽの先に、二匹の魔族が食らいついている。ワタルは勇者の剣

たま

をふるってそいつらを斬り落とすと、後方の群に向かって魔法弾を打った。光の弾があた ると、魔族たちはぎゃあぎゃあと騒いで群が崩れた。距離があいた。 ﹁ジョゾ、火を吐いて！﹂ ほんりゅう

 ジョゾは翼を張って、魔族の群の方に頭をねじ向けた。﹁ワタル、伏せてね！﹂

 ワタルの顔のすぐ脇を、炎の奔流が飛びすぎた。直撃をくらった魔族たちが火に包まれ、

煙の筋を引きながら落ちてゆく。群の大半がひるんで遠ざかり始める。 おさ

﹁ジョゾ、みんなはどこ？﹂

﹁ミーナとキ・キーマは、長たちと一緒にいる﹂ジョゾはぜいぜいと息をしていた。﹁僕 つか

が疲れて落っこちそうになったから。ああ、どうしようワタル﹂

 七本柱のドラゴンたちは、まだソレブリア上空にいるのだ。さっき一頭が落下したよう

580

に見えたけれど、どうしたろう？

あふ

 ジョゾは疲れ切って、身体のあちこちから血を流していた。目から涙が溢れている。飛 だ こう

び方も不安定になり、あがったりさがったりしながら蛇行している。

 白いドレスの少女は、恐怖のあまり全身をこわばらせ、ただ口元ががくがくするばかり で、声も出せないようだ。

﹁ジョゾ、この女の子を乗せて、あの森へ行くんだ﹂ワタルは前方右手のこんもりとした 木立の塊を指さした。 かく

﹁森のなかに降りれば、魔族たちから隠れていられる。僕がみんなと一緒に合流するまで、 そこでじっとしてるんだよ、いいね？﹂

 ジョゾはぼろぼろと涙を流した。﹁う、うん。ごめんよワタル。ワタルはどうするの？﹂ ふたた

いの

﹁僕なら大丈夫。さあ、逃げて﹂

 ワタルは再び勇者の剣に祈った。ミーナのいるところ。ミーナを乗せているドラゴンの 背中まで、僕を飛ばしておくれ！ ワ   ー   プ

 瞬間移動は成功した。気がつくと、ワタルは七本柱のドラゴンの一頭、頭のてっぺんに

トサカに似た冠を戴いた長の背中に飛び降りていた。ミーナはドラゴンの首ッ玉にかじり ついていたが、ワタルに気づくと跳ね起きて、飛びついてきた。 ﹁ミーナ、怪我は？﹂

581

﹁あ、あたしは大丈夫！﹂  真っ青になって泣いている。 ﹁あ、あれを見てワタル。あれを！﹂ おお

わ

 そしてワタルは見た。一対の巨大な翼で空に浮く常闇の鏡を。そこから湧き出る黒い魔 か

族の軍団を。涸れることのない悪意の泉だ。ソレブリアの上空を覆い尽くし、北へ南へ、 東へ西へと飛び去ってゆく。  幻界じゅうへと飛んでゆくのだ。 か かん

 ワタルたちを乗せたドラゴンの長は、果敢にも常闇の鏡めがけて飛ぼうと試みていた。

きょうじん

火を吐き、強大な翼を振り、近づく魔族たちを叩き落としてゆく。しかしこれでは多勢に 無勢だ。 ﹁これじゃ無理だよ、常闇の鏡には近づけない！﹂

﹁しかし││一撃でも││くらわせてやらねば！﹂長い首を強靭にしならせて、食らいつ いてきた魔族を振り落とす。

﹁いったん逃げよう。数には勝てない。下にいるヒトたちを魔族から守って、森に逃げ込 むように呼びかけるんだ。そして僕らも森に隠れよう！﹂ くちお 

﹁口惜しいぞ！﹂ うな

 牙を剥き出して唸りながら、大きな火球を続けざまに吐き出して魔族たちを退けると、

582

ぜんめつ

ドラゴンの長は向きを変えた。ワタルは彼の背に立ちあがり、あらん限りの力で声を張り あげた。 たいきゃく

﹁みんな、森へ向かえ！ 退却だ！ このままじゃ全滅しちゃう！﹂ ﹁ワタル！﹂ おの

 近づいてきたドラゴンの背で、キ・キーマが大きな斧をふるいながら、割れるような大

声で応じた。ここに来て初めて耳にする、元気を失っていない声だ。キ・キーマは後ろに、

怪我したソレブリアのヒトたちを何人か乗せている。怯えて縮こまっている彼らを大きな

ほ

身体を張って守り、しつこい羽虫のようにたかってくる魔族を斬り払いながら、吠えるよ うな悪態を浴びせかける。

さ

﹁何だこのデキソコナイは！ おまえらなんざ、こうしてくれる！ こうだ、こうだ、こ うだ！﹂

 ギャッというダミ声の悲鳴もろとも、一匹の魔族が頭からまっぷたつに斬り裂かれた。 しかしよく見れば、キ・キーマの肩口や二の腕も傷だらけだ。 ﹁森だ！ 森へ行くんだよ！﹂ ﹁わかった！﹂ う

 視界を埋め尽くすほどの数の魔族が、空いっぱいに飛び交っている。ワタルはカッツの

名を呼びながら飛び続けた。一体、また一体と退却してゆくドラゴンの背に、彼女の姿が

583

あせ

見えないのだ。

 恐怖と焦りに目が泳ぎ、見ているのに見えないのかもしれない。落ち着け、落ち着くん おそ

だ。ワタルは襲いかかる魔族を魔法弾で退け、ミーナがドラゴンに方向を指図する。

 と、前方の瓦礫の谷間で、カッツが鞭をふるっている姿が見えた。ソレブリアのヒトを

えんご 

かばっている。一人は倒れ、一人はうずくまっている。しかも、子供だ！ ﹁カッツさん、こっちだ！﹂

 滑空してカッツに近づきながら、ワタルは援護の魔法弾を打った。カッツは瓦礫を駆け む じん

あがり、飛び降りながら、縦横無尽に鞭を動かしていた。四方八方から襲いかかってくる たいくう

魔族たちが、カッツの鞭にかかって面白いように翼を切り裂かれ、首を落とされてゆく。

 ドラゴンを低く滞空させておいて、ワタルはカッツのそばに飛び降りた。ミーナが素早

くしっぽをドラゴンの翼に巻きつけ、身体を宙に投げ出して両腕で子供の一人をかき抱く と、くるりと反転してドラゴンの上に抱き上げた。続いてもう一人。 ﹁子供たちは大丈夫よ、乗せたわ！﹂

 ミーナの声に、ワタルはカッツを振り返った。﹁カッツさんも早く！﹂ ﹁こいつを片づけてからね！﹂

 びゅんと音をさせて水平に鞭を振り、前方の魔族を叩き落とす。カッツの右目はもう完 つぶ

全に潰れている。それに左腕の様子がおかしい。ほとんど動かせないようだ。ミツルの魔

584

いた

法で鏡の広間から飛ばされたとき、傷めたのかもしれない。 ﹁僕に任せて！ 早くドラゴンに乗るんだ﹂  カッツのベストの背中をつかみ、ワタルはぐいと引っ張った。 ﹁何すんのよ！﹂ ﹁早く乗って！﹂

 牙を剥き出して飛びかかってくる魔族を、勇者の剣で切り伏せる。ドラゴンの長が火を 吐いて、前方の群を追い払う。 え

 ドラゴンの背に乗るために、カッツは鞭の柄を口にくわえた。左手は役に立たない。右

ひやあせ

手一本で身体を持ちあげる。ワタルは魔族たちを追い散らしながら、全身に冷汗をかいて いた。 ﹁しっかりして、カッツさん。つかまって﹂

 ミーナがカッツの腕をひっぱる。そのとき、ミーナの背後で子供たちが悲鳴をあげた。

よ ゆう

死角から魔族が二匹、突然ドラゴンの身体をよじ登って顔を突き出したのだ。 ﹁ミーナ、後ろ！﹂ す で 

あしげ 

 とっさにカッツは叫び、口元から鞭が落ちた。拾う余裕もなしに、カッツはドラゴンの おど

背中の上に躍りあがると、素手で魔族たちに飛びかかった。一体を足蹴にして突き落とし、

もう一体に組みついてゆく。魔族はカッツに押し戻されながらも、牙をぎらぎらさせて、

585

あざ

ふ

一瞬の隙に、彼女の首ねっこにかじりついた。驚くほど色鮮やかな血が、パッと噴いた。 ﹁何すんだよ、このバカ！﹂

 カッツは怒りに任せて魔族の首に右手をかけた。ミーナも魔族の胴を蹴り、爪で顔をか

きむしる。バランスを崩してカッツがどっと倒れ、その上に魔族がさらにのしかかる。 ﹁スケベ！﹂ すべ

せま

 大きく叫んで、カッツは右手だけで魔族の首をねじ切り、もぎ取ってしまった。首を失っ

た身体だけが、ドラゴンの身体から滑り落ちる。ワタルはドラゴンの周りに迫る魔族の群 に魔法弾を浴びせかけて、素早くその背中に飛び乗った。 ﹁いいよ、飛んで！﹂

 ドラゴンが舞いあがる。泣き叫ぶ子供たちを、ミーナがしっかりと抱きしめる。ワタル あおむ 

は仰向けに倒れたままのカッツのそばに這い寄った。

 カッツはまだ、ねじ切った魔族の首をつかんでいた。それを顔の前に持ってくると、 ﹁男前にはほど遠いね﹂と、舌打ちしてポイと投げ捨てた。 ほど

ぬ

﹁あたしの首にキスするなんて、身の程知らずにもほどがあるよ﹂

 首筋の傷は深く、血がどくどくと流れていた。ワタルは上着を脱ぐと、それを丸めて傷

か

にあてた。土埃と煤と汗で汚れた上着を、真っ赤な血が染め変えてゆく。それと入れ替わ りに、カッツの頬からは色が失せていく、

586

ふ てき

﹁大丈夫だよ。そんな顔しなさんな﹂

 そう言ってにやりと笑い、その不敵な笑顔のまま、カッツはぷつりと気を失った。

 七本柱のはずのドラゴンたちは、五柱になっていた。ジョゾは横倒しになり、苦しそう な寝息をたてて眠っている。

 ワタルたちの逃げ込んだあの森のなかには、ソレブリアのヒトたちも隠れていた。何人

うつ

ぐらい助かったのだろう││せいぜい二、三十人ぐらいまでしか数えることができない。 じょうさい

他の場所にも、逃げ延びているヒトたちがいるだろうか。 よう

つら

 百万の人口を擁する城塞都市が、半日でこの有様だ。

 無傷のヒトは誰もいない。座っていることさえ辛そうなヒトもいれば、虚ろな目を空に なぐさ

向けたまま、誰が何を話しかけても反応しないヒトもいる。泣いている子供を、別の子供 が慰めている。 そうい 

 手当をしようにも、薬さえない。ドラゴンたちも満身創痍だが、傷を舐めて出血を止め るだけだ。ぐったりと首を落として翼を休め、目を閉じている。

 夕暮れが過ぎ、すでに夜が近づいていた。糸のように細い三日月だけが光源だ。森のな にぶ

かは、深海の底のような静けさと、身体の動きを鈍らせる、水圧にも似た重い悲しみに包 まれていた。

587

とが

なが

 北大陸の針葉樹の木々、深緑色の尖った葉をびっしりと身に纏い、寒気のなかで肩を寄 おもむ

せ合うように立ち並んでいる。上空からただ眺めるだけならば、南大陸の豊かな森林の景 いろど

色に比べれば、彩りにも趣きにも欠けて、よそよそしく見えたことだろう。しかし今は、

ふところ

とげとげした枝を張りのばす木々たちが、精一杯に手を広げて、ワタルたちをかばおうと ほしょう

してくれているように思われた。寒い国の無口な歩哨たち。逃げ延びてきたヒトたちを懐 せいひつ

に隠し、何事もなかったかのような静謐な顔を空に向けて。

 時折、森の上空を飛びすぎてゆく魔族の翼の音が聞こえる。しかしそれも散発的なもの

であり、彼らの侵攻はいったん終息しているようだ。あの異形の怪物たちも、夜の闇のな うかが

かでは動きにくいのだろうか。休む時間が必要なのだろうか。それとも、闇に溶けこんで 身を潜め、機会を窺っているだけなのだろうか。 ﹁休息をとって力を回復したら、とにかく我らの島へと戻ろう﹂  ドラゴンの長たちは、ワタルに提案した。

し たく

﹁封印が解かれたとき、きっと竜王様がその気配を察知され、戦いの支度を整えているは ずだ。すでにこちらへ向かっている仲間たちもいるやもしれぬ﹂ ﹁いずれにしろ、この手勢では、どうすることもできぬよ﹂

 ミーナとキ・キーマは、怪我人たちのあいだを回って声をかけている。なかには地理に 詳しいヒトもいるらしく、戻ってきたミーナは言った。

588

わ

どうくつ

﹁近くに湧き水があるんですって。森を抜けて西に向かえば岩山があって、そこの洞窟に

隠れれば、ここよりもっと安全じゃないかって話しているの。何とか夜明け前までに、み んなをそこへ逃がすことはできないかしら﹂

 移動するならば、理由はともあれ魔族の動きが沈静化している今のうちがいい。ひょっ

としたら、森のなかのヒトたちが生き延びる、唯一のチャンスかもしれない。

しら

むか

う

﹁そうだな。ここのヒトたちを洞窟まで無事に送り届けたら、俺たちもドラゴンの島へ戻

ろう。そんで、南大陸へ帰らなきゃ。ちょっとでも早くこのことを報せて、魔族を迎え撃 つ準備を整えなきゃいけないからな﹂

 キ・キーマの言葉に、ワタルはうなずいた。でも心のなかには、それで間にあうだろう

かという疑問があった。いいや、それどころじゃない。間にあったとしても、それでどう

なるんだ？ 南大陸じゅうのハイランダーたちを集めても、シュテンゲル騎士団が集まっ ても、魔族に太刀打ちすることなんかできるんだろうか。

 もう、おしまいだ││その言葉が、くちびるのすぐ内側で震えている。常闇の鏡の封印 を守ることはできなかった。失敗だった。

 何もかも、終わりじゃないか。木立に背中をもたせかけると、絶望が身体の内側を満た してゆくのを感じた。

 何もかも放り出して、逃げ出して、地面に穴を掘って隠れてしまいたい。どのみち、も

589

うワタルには時間がないのだ。

こ がら

 ミツルに負けた。今度こそ、決定的な敗北だ。 えんりょ

﹁もし││﹂

 遠慮がちに呼びかけられた。顔をあげると、小柄な老人がこちらを見ている。着ている かみ

ものはボロボロだし、髪が焦げている。 ﹁何でしょう﹂ ﹁あちらの、あなたのお連れだが﹂

 と、向こうの草むらの方をそっと振り返る。下草のなかにカッツが寝ているのだ。 ﹁あなたを呼んでほしいと言っている﹂

 ワタルは木の幹に手をかけて、何とか立ちあがった。よろめいてしまうと、老人が支え てくれた。 ﹁あ、ありがとう﹂ ﹁何の何の。歩けるかね﹂ ねんざ 

 ワタル自身も、小さな傷なら数え切れないほどだ。捻挫をしたのか、左足首がズキズキ 痛む。

 老人が声をひそめた。﹁私は医師ではないけれど、若いころに帝国軍で衛生兵をしてい たことがある。怪我人の様子を見ることぐらいはできる﹂

590

 ワタルは老人の顔を見た。

﹁あなたのお連れは、容態がよくないようだ。このままでは、たぶん││﹂

 思わず老人の腕を引き、立ち止まってしまった。老人は無言のまま、慰めるように軽く ワタルの腕を叩いた。 ﹁何とかできないですか。助けてあげてほしいんです﹂

﹁ひどい傷で、出血が多すぎた。手のほどこしようがないよ。どうやら、本人もそれと察 しているようだ﹂  だからワタルを呼んでいるのか。

 できればその現実に直面したくない。知りたくない。それでなくても足を引きずってい る。ワタルの歩みは鈍い。

 それでも、進むうちに、草の陰に横たわっているカッツの姿が見えてきた。

 身体の上に誰かのシャツがかけられている。傷には衣類を裂いてつくった包帯が巻かれ ている。傍らに老婦人が一人付き添ってくれていた。

﹁私の家内だよ﹂と、老人が言った。﹁二人でここまで逃げ延びることができた。あなた たちのおかげだ﹂

 カッツの顔色は月よりも青白かった。ワタルはそっと近づき、彼女の手を取った。その つゆ

手は、森の露よりも冷たくなっていた。

591

 カッツはちゃんと目を開いていた。瞳が動いて、ワタルを見た。それだけで、ワタルは 泣きだしたくなってきた。 ﹁あんた、大丈夫かい？﹂  いつものカッツの言葉つきだった。でも力が抜けていた。 ﹁うん。僕は何とか﹂  ワタルは言って、不器用な笑みを浮かべてみせた。

﹁カッツさんもね。ちょっとやられちゃったけど、でも大丈夫だよね﹂ だ め 

 うふふと、カッツはくすぐられたみたいに笑った。 たんたん

﹁それがね⋮⋮どうも今度ばかりは駄目みたいだよ。自分でわかる﹂

 淡々とした口調だった。身体が弱っているせいじゃない。カッツはとても静かだった。 い す 

しず

いつもいつも、じっとしている時だって、ただブランチの椅子に腰かけているだけだって、

身体の内では血が騒いでいる。そんなヒトだったはずなのに。今は鎮まってしまっている。 ﹁弱気なことを言わないでくださいよ﹂  わざと突っ放すように、ワタルは言った。

﹁一晩休めば元気になりますって。ドラゴンの島へ戻って、手当してもらいましょう。ね？ しんぼう

 ちょっとの辛抱ですよ﹂

 カッツは、彼女の指を握っているワタルの指をほどくと、その手を持ちあげて、ワタル

592

の頬にあてた。 やさ

ささや

﹁ごめんよ﹂と、優しく囁いた。

﹁あんたに無理を言って、こんなところまで連れてきて。なのに、何ひとつちゃんとでき なかった﹂ ﹁カッツさんのせいじゃない﹂ い

 どうしようもなく声が震え、目の奥が熱くなった。

﹁こんなことになって、先に逝ってしまうあたしを⋮⋮許しておくれと言う資格なんか、 ないよね⋮⋮﹂ ﹁そんなことを言わないで！﹂

 カッツは頬笑み、ワタルに目を向けて、その頬をゆっくりと撫でた。 たたず

 下草を踏む足音が聞こえた。ミーナかと思って、つと肩ごしに目をやると、それはあの 白いドレスの少女だった。両手で身体を抱くようにして佇んでいる。 ﹁皇帝は、死んでたね﹂カッツの声がかすれる。 ﹁うん﹂

 ミツルのそばで倒れていた。常闇の鏡の広間で。確かに死んでいた。 うつむ

 背後で白いドレスの少女が俯いた。

﹁だけどあたしの計画は⋮⋮成功したとは言えやしない。鞭も失くしちまったし﹂

593

ふ

なめ

かんしょく

 ワタルの頬に触れるカッツの指。その滑らかな感触。こんなに優しい、きれいな手をし ているヒトだったなんて、ちっとも知らなかったよ。 ま ちが

﹁もしかしたら、あたしは、とんでもない間違いをしていたのかも⋮⋮しれない。今度ば かりじゃない。ずっと、ずっと、何度も﹂

 違うよと言おうとして、ワタルは口を閉じた。カッツはワタルに言っているのではない。 おもかげ

なつ

けんそう

心に映る、別のヒトの面影に向かって話しかけているのだ。遠い目をしていた。心はすで

に、南大陸に帰っているのだ。その耳には、懐かしいガサラの町の喧噪が聞こえているの かもしれない。 ﹁カッツさんは、僕のブランチ長だ﹂  ワタルは言って、カッツの手の上に自分の手をかぶせた。

さきもり

﹁立派なハイランダーだ。いつだって任務に忠実で、幻界の護法の防人にふさわしい行動 をしてきたじゃないか﹂  カッツは頬笑んだ。 ﹁ありがとう﹂  瞳のなかに、ワタルの顔が映っている。 ﹁ワタル。何とかして⋮⋮生き延びるんだよ。死んじゃいけない﹂  ワタルはうなずいた。涙が溢れてぽとりと落ちた。

594

あきら

﹁あんたの旅は、終わったわけじゃ、ないんだもの﹂

まぎ

 諦めちゃいけないよと、カッツは言った。言葉の最後の方は、もう浅い呼吸に紛れて、 ほとんど聞き取ることができなかった。

 さっきの老人が、カッツに付き添う老婦人に並んで、静かに膝を折ってかがみ込んだ。

﹁私ら夫婦は、あなたたちに助けていただいたソレブリアの者だ。聞こえますか﹂ め がみ

め

 カッツはほんの少しだけ首を動かして、彼らの顔に視線を向けた。

かくご 

﹁あなたはこれから女神さまのもとに召される。再び生まれ変わるそのときまで、幻界を 照らす光となるのですよ﹂

ささ

 カッツは目を閉じ、深くひとつ呼吸をすると、かすれた声で囁いた。﹁ええ、覚悟はで きています﹂ しょくざい

﹁地上を旅立つその前に、贖罪の祈りを捧げたいかね？ それならば、私らがお手伝いを しようと思うが﹂

 カッツはうなずいた。くちびるが動き、お願いしますと言ったようだけれど、声になっ ていなかった。 の

 老人がカッツの片手を取った。そして自分の片手を胸にあてた。老婦人も同じように片 いたわ

み もと

手を胸に、空いた片手をカッツの額に、労るようにそっと載せた。 じんかい

﹁我ら、女神の申し子。地上の塵芥を離れ、今まさに御許に昇らんとす﹂

595

おだ

おや

みなもと

きよ

たま

 穏やかな祈りの声が、老人の口元から流れ出る。 はら

く

﹁我らの祖にして源なる浄き光よ、導き給え。旅立つこの者の、不明の足元を照らし給え。 けが

穢れを祓い、浄き魂を天空の一座に迎え取り給え﹂  老婦人が、カッツの乱れた髪を撫でている。 そむ

﹁小さき子よ、地上の子よ。神のご意思に背いたことを悔いているか﹂ まぶた

いさか

きょぎ 

ぐ もう

 カッツは瞼を閉じたまま、かすかに顎を動かしてうなずいた。

おのれ

あた

たま

﹁時に争い、時に諍い、虚偽に踊り、愚蒙に走り、ヒトの子の罪を重ねたことを悔いてい るか﹂ いつわ

 もう一度、カッツはうなずく。

﹁時に偽り、己の欲に従い、神の与え賜いしヒトの子の栄光に、顔を背けたことを悔いて いるか﹂

 三度目に、カッツはうなずいた。老人もそれに応え、励ますように大きくうなずく。 へいおん

﹁ここに深く悔い改め、地上のあなたの罪は許された。安らぎなさい、ヒトの子よ。召さ とこしえ

れゆくあなたを、永遠の光と平穏が包むだろう。ヴェスナ・エスタ・ホリシア。ヒトの子 の生に限りはあれど、命は永遠なり﹂ め じり

 カッツの目から、一筋の涙がこぼれた。目尻を伝い、黒髪のなかへと流れ落ちる。

 ワタルの手のなかで、ワタルの頬に触れていたカッツの手が、かくりと力を失った。

596

 うっすらと頬笑み、傷だらけになりながらも、眠っているような安らかな顔で、カッツ は事切れた。 うる

 老人の目も潤んでいた。老婦人は泣きながら、いつまでもいつまでも、優しくカッツの 額を撫でていた。彼らの唱和する声と一緒に、ワタルもまた呟いた。  おやすみ、ヒトの子よ。おやすみ。

597

だれ

なみだ

いや

 51 〝旅人〟の道     かく

 誰の涙を見るのも嫌だったし、自分の涙を見られることも嫌だった。ワタルは森の出口 かげ

かか

けんめい

しぼ

まで独りで歩き、木立の陰に入って、三日月の細いまなざしから隠れながら、少しのあい せんたくもの

だ声をあげて泣いた。 つら

 心はずぶぬれの洗濯物だ。両手で抱え、一所懸命に絞っているのに、あとからあとから あふ

涙が溢れる。重くて辛くて、支えていられないほどなのに、投げ出してしまうことはでき ない。  これほどの悲しみは、いったいどこから来るのだろう。 のが

 家を出ていった父さんと、公園で再会したとき、やっぱり悲しかった。母さんがあの理

なぐさ

香子という女と言い合いになって、その光景から逃れたくてベッドの下に隠れたとき、す お じ 

ごく悲しかった。そのあと、ルウ伯父さんが探しに来てくれて、ワタルを慰めようとしな

がら泣きだしてしまったのを見たときにも、こんな悲しいことは二度とないだろうと思う ほどに悲しかった。

ヴィジョン

 そうだ。もう悲しむのが嫌だったから、運命を変えるために、ワタルは〝幻界〟に来た。

なのにその幻界で、今、心が破けそうになるほどの悲しみに、こうして手放しで泣いてい

598

る。

うつしよ

が まん

 こんなことなら、いっそ最初から、何もしなければよかったのか。現世でじっと我慢し た

わた

か

ていたって、結果は同じことだったのか。どこへ行っても悲しみはついてくる。いつまで ほじゅう

経っても悲しみは失くならない。心はひとつ、生まれたときに渡されたきりで、取り替え

みき

だ

ることもできなければ修理もきかない。どこからともなく補充されるのは悲しみばかりじゃ たくわ

りょううで

ないか。これ以上、心のどこに、それを蓄えろというのだ。 ほお

しず

 ひとしきり泣いて、息が苦しくなった。両腕を木の幹に回して抱きつくと、がさついた き はだ

木肌に頬を押しつけて、呼吸が鎮まるまでじっとそうしていた。  ││僕の運命。

 変えようと試みて、また新しい悲しみにぶつかる。それをまた変えようとしたら、その 先には何が待っているのだろう。

ほろ

かたすみ

 ││変わるべきなのは、変えるべきなのは、僕の、僕の、 ま ぞく

 ││いったい何だ？ ふ

こう

 このまま魔族に滅ぼされてしまうかもしれない幻界の片隅で、僕は何をすればいい？

 下草を踏むかすかな足音が近づいてくる。ワタルは顔を起こし、あわてて手の甲で目の ぬぐ

周りを拭った。 ぬ

 ミーナだった。やっぱり泣き濡れている。

599

﹁こんなとこにいたの﹂

 声を出すと、それがきっかけになってまたしゃくりあげてしまいそうになるのだろう。 そ

ため息にほんの少し音を添えただけの、小さな小さな呼びかけだった。 ﹁うん﹂ ﹁わたしも⋮⋮カッツさんにお別れしてきた﹂ ひとみ

いた

 ミーナの瞳は、森の夜の色だ。今は僕の目も、きっと同じ色に見えるのだろうとワタル おお

は思った。僕たちが、カッツを失った傷み、すべてが失敗に終わったことへの敗北感を、 たが

ていさつ

互いの目のなかに見つけなくても済むように、森が覆いをかけてくれているのだ。 ﹁みんなは？﹂ ﹁休んでるわ﹂ ﹁それなら良かった﹂  ワタルはふと思いついた。ここから動き出す口実を。 どうくつ

﹁ソレブリアのヒトたちを洞窟まで送ってゆく前に、僕はちょっと偵察に行ってくるよ。 ふ

まだ生き残ってるヒトがいるかもしれない、取り残されていたら気の毒だ﹂  ミーナは首を振った。﹁誰もいやしないわ﹂ ﹁でも、確かめてみなきゃ﹂ もど

﹁偵察って、どこまで？ 皇都に戻るのは危険すぎるわ﹂

600

﹁気をつけるから││﹂ かげ

つか

 言い終えないうちに、キ・キーマの大きな影が、のっそりとミーナの後ろに姿を現した。 こご

あた

まだ凍えている顔だ。何もかもが寒くて冷たく、疲れ切っている。トカゲに似た水人族の 肌に、あるはずのないしわが寄っているみたいに見える。 は き 

 ワタルは思った。いつだって、カッツの熱気が僕たちに覇気を与えてくれていたのだ。

そんなことのできるヒトは、めったにいない。もうカッツに代わるヒトはいない。  しかし、キ・キーマはそれでも言った。 ﹁偵察だって？ なら、俺も行く﹂  耳がいい。ワタルはため息をついた。

おの

え

﹁皇都の城門のあたりまで戻ってみようかと思うんだ。動けなくなってるヒトとかいるか もしれないだろ﹂

﹁そうだな﹂キ・キーマは背中にしょっていた斧の柄に手をかけ、するりとおろした。ミー ナに目をやって、 うつむ

おく

﹁俺たちはハイランダーだ。北大陸にいたって、俺たちの役目に変わりはない﹂  ミーナは俯いている。 に

 キ・キーマは言った。﹁カッツなら、きっとそうする。逃げ遅れているヒトがいないか 調べに行こうって。だから俺は││﹂

601

め じり

た

かた

 みるみるうちに、ミーナの目尻に涙が溜まってゆく。キ・キーマは大きな手を彼女の肩 に置いた。 いっしょ

あご

ひょうし

すうてき

﹁おまえさんはどうする？ ここに残って張り番をしてくれるなら、それでもいいぞ﹂

やつ

﹁一緒に行く﹂ぐいと顎を持ちあげて、ミーナは答えた。その拍子に、涙が数滴頬を転が り落ちて、キラキラ光った。 つばさ

﹁よし、用心深く行こうぜ。今のところは静かにしてるみたいだが、なにしろ魔族の奴ら

かん

は翼を持ってるからな。どこから見てるかわかりゃしねえ。できるだけ暗がりを選んで歩 くんだ。頭を低くしてな﹂ ﹁キ・キーマがいちばん目立つんだからね。でっかいんだから﹂ ﹁わかった、わかった﹂ ぼく

しげ

ひそ

まと

 かそけき三日月の光。ワタルたちが周囲を見回すときにはあたりを照らし、草むらや灌

木の茂みに身を潜めるときには、雲を纏って光度を落としてくれるように思われた。こん

じょうへき

つ なみ

な高いところにいて、何も手伝うことはできないけれど、少なくともあなたたちの味方だ くず

よ││というように。 ほうかい

き かい

は

なが

 皇都の崩れた城壁は、それ自体が大きな石の津波になったかのように、うねうねと曲線 えが

しゅみ 

を描いている。崩壊が作り出した奇怪な再生。這うような速度で少しずつ近づきながら眺 こうてい

めていると、皇帝の趣味で、最初からこんな形に造りあげられていたんじゃないかとさえ

602

とこやみ

思えてくる。 ﹁常闇の鏡が見えないわ﹂ つぶや

 ミーナが目を細めて呟いた。

﹁空のあのへん││クリスタル・パレスがあったところに浮かんでいるはずなのに﹂

 確かにミーナの言うとおりだった。三日月も、あんな忌まわしいものを照らしたくない まぎ

のかもしれない。 にお

ただよ

﹁闇に紛れてるんだろう﹂ あと

は

が れき

あくしゅう

ふく

なきがら

 焼け跡の臭いが漂ってくる。さすがに火は収まって、夜風のなかに熱気は感じられない。 もと

ただ冷え冷えとして、そのくせ吐き気をもよおすような悪臭を含んでいる。

うば

 悪臭の因のひとつは、死臭だろう。瓦礫の山の下に、焼け跡に、どれほどの数の亡骸が 存在しているのか。

 ミツルは一人で、数え切れないほどのヒトの命を奪ってしまった。こうなることはわか か

さわ

りきっていたのに、針路を変えようとはしなかった。手段を選ぼうともしなかった。 くつ

 さわさわと、靴の下で枯れ草が騒ぐ。 ﹁ミツルに飛ばされて気絶してたから、僕は見ていなかったんだ﹂ とうとつ

 唐突にワタルは言い出した。キ・キーマとミーナが足を止めた。 ﹁何をだ？﹂

603

せんとう

ま

す

つつ

﹁さっきソレブリアのヒトが話してるのを聞いたんだ。常闇の鏡が姿を現すその前に、ク

リスタル・パレスの中央尖塔から、天に向かって真っ直ぐ光の筒が立ちあがるのを見たっ か

て。柱みたいにも見えたって。そしてそのなかを、小さな人影が駆け登っていった﹂

けいかい

 ミーナは逃げるように背中を向け、森の方へと目をやった。もう、だいぶ離れた。草む ゆ

らと灌木が、夜風に揺れる。 ﹁それ││二人は見た？﹂

のぼ

 歩き出し、ワタルの前に出て周囲を警戒してから、キ・キーマは答えた。 ﹁見たよ﹂ ﹁そう﹂ ﹁確かに天に昇っていくみたいに見えた﹂ ふ

 言ってから、何かを振り切るみたいに、キ・キーマはさっと斧を振った。

﹁だけども、だからってミツルが無事に運命の塔まで行けたかどうかはわからねえよな。

か け ら

し げき

さと

俺が女神さまだったら、あんな奴、追い返すぜ。幻界をこんな有様にしながら、自分の願 き おく

い事だけかなえに来たのかって﹂

 その言葉が、ワタルの記憶の欠片を刺激した。サーカワの郷の長老が言っていた││速 く走る者が、先に運命の塔にたどり着くとは限らない、と。 なぐさ

 今さらここで思い出しても、何の足しにもならない慰めかもしれない。

604

あおむ 

まがぼし

あみ

す

うす

 ワタルは仰向いて、夜空を見た。網のように透けた薄い雲が、三日月の前をゆっくりと 横切ってゆく。 かがや

ぬ

 そして、赤く輝く北の凶星。まだそこにある。消えてはいない。〝ハルネラ〟は終わら ざんこく

ず、ヒト柱が定まったわけではないのだ。 いま

 未だに。それはいっそ残酷な保留だ。 さけ

 突然、ミーナが押し殺した声で叫んだ。 ﹁誰？ そこにいるのは誰？﹂

けん

 ワタルもキ・キーマも、身構えながら振り返った。ワタルは勇者の剣を抜いた。 すそ

 三人の後方、キ・キーマの足なら十歩ほど離れたところに、ねじ曲がった貧相な木がは えている。その陰から、白いドレスの裾が寒そうにのぞいていた。

﹁あの子だ﹂ワタルはキ・キーマを手で制して、白いドレスに呼びかけた。 ﹁何してるんです？﹂

た

 少女はこわごわ顔をのぞかせると、両手で口元を押さえてしゃがみこんでしまった。ワ タルは彼女のところに駆け戻った。 ﹁なぜ森を出てきたんですか？﹂ ﹁こ、皇都へ行くのでしょう？﹂ ふる

 少女はぶるぶる震えていた。このドレスでは寒気に耐えられまい。歯の根があわずにガ

605

チガチ鳴っている。 ぬ

わた

﹁わたしも連れて行ってください。誰か││城の誰かが残っているかもしれません﹂ いっしゅん

 ワタルは一瞬ためらってから、自分の上着を脱いで少女に渡した。着せかけてあげるに は、彼女はワタルより背が高すぎる。

あきら

﹁とりあえず城壁の近くまで行ってみるだけです。中に入れそうになかったら、諦めるし かない﹂ ﹁それでもいいのです﹂ しんし 

 震えながら、少女はワタルの上着で自分の肩を覆った。紳士のたしなみとはいえど、シャ みな

ツ一枚になったワタルの方が、今度は寒さに凍えそうになってきた。

﹁森で、皆さんの話を聞かなかったんですか？ クリスタル・パレスは失くなってしまっ

こ どく

たんです。常闇の鏡に吸い込まれてしまったらしい。城のヒトたちが生き残っているとは 思えないけれど﹂ きょうふ

 少女の青ざめた頬が、寒さと恐怖、そして孤独で鳥肌立っている。それでもワタルがキ・ こうび 

キーマたちの方へ引き返し始めると、一緒に歩き出した。

 合流して四人になった。ミーナがいちばん後尾についた。じっと白いドレスの少女を見 つめている。そして歩きながら後ろから呼びかけた。 ﹁あなた、お城のヒト？﹂

606

 少女はちょっとひるんだ。答えない。 ﹁それ、高価なドレスだもの。貴族？﹂ とげ

 やはり無言だ。ミーナの問いかけに混じっている棘を感じているのだろう。

﹁身分の高いヒトなんでしょうね。教えてくれない？ 皇都がめちゃくちゃにされてると はさ

きに、皇帝の軍隊はどうしてたの？ 今もどこにいるの？ 国民を助けようとしないの？﹂ き し 

ふ

 ワタルがとりなす前に、キ・キーマが口を挟んだ。﹁ゴーレムたちが暴れてるとき、城

から騎士団が何組か出てくるのが見えたぞ。もっとも、全然太刀打ちできなくて、すぐ踏 つぶ

み潰されちゃってたけどさ。残って城を守っていた部隊がいたとしても、常闇の鏡が出て きたとき、一緒に││﹂  ミーナはたたみかける。 とくしゅ

﹁じゃあ、他の軍隊は？ 北の皇帝直属の特殊部隊だとかいう、シグドラは？ どこで何 してるの？ あなた知ってる？﹂

 常闇の鏡の間で見た光景から、ワタルは少女の身元を察していた。たぶんこのヒトは、 むすめ

お ば 

皇帝ガマ・アグリアスⅦ世の娘だ。皇女と呼ぶのが正確なのだろう。

 そして、現世にいるミツルの不幸な年若い叔母さんとそっくりな顔をしている。 そうぐう

 ワタルが父さんや理香子にそっくりなヒトたちに遭遇してきたように、ミツルもまた現 ぎわ

世の親しいヒトの分身に出会っていたのだ。去り際に、ミツルが皇女に投げかけた言葉の

607

なげ

ぬま

ふ りん

かたむ

はかり

意味は、ワタルにもよくわからない。不当なほど大きく傾いていた幸福の秤？ どういう

ことだろう。嘆きの沼でワタルが出会ったあの不倫の男女は、現世にいる父さんや理香子 り くつ

と、同じ理屈で同じことをやらかしていた。でも、どちらが幸福とか不幸とかいうことは

なかった。ミツルはミツルの幻界で、どんなヒトたちに会い、何を見聞きして、どう考え てきたのだろうか。 ﹁シグドラは、軍隊ではありません﹂  消え入りそうな声で、ようやく皇女はそう答えた。 ﹁ですからこんなときには﹂ ﹁役に立たないってわけ？ フン﹂  ミーナは早口に割り込んで、鼻先でバカにしたような声を出した。 このえ 

ぜんめつ

 皇女はキ・キーマの陰に隠れるようにして歩きながら、くちびるを震わせ、身を縮めた。

﹁城を守っていた近衛騎士団は、この方のおっしゃるとおりならば、早々に全滅してしまっ せいえい

たのでしょう。アジャ将軍率いる帝国軍の精鋭部隊は、折悪しくソレブリアを離れていま とちゅう

した。今こちらに急行しているところかもしれませんが、途中で魔族に遭遇すれば、きっ とそこで戦いになって││﹂ ほろ

﹁国民を助けるために戦ってるはずだって言いたいの？﹂ミーナの口つきが、意地悪そう とが

に尖った。﹁ソレブリアは滅びてしまったのに？ 皇帝もいなくなったのに？ これから

608

先、誰が統一帝国を束ねて、帝国軍に命令するの？﹂

 血筋からいけば、この皇女こそがその立場のヒトだ。彼女もそれをわきまえているから こそ、城の生き残りを探そうとしているのかもしれない。 ﹁やめなよ、ミーナ﹂ いさ

 やんわりと、キ・キーマが諫めた。 ﹁おまえさんの気持ちはわかる。でも、今はやめときな﹂ ﹁何をやめるの？ あたしはただ質問してるだけなのに﹂ さえぎ

﹁だから、それをやめろって言ってるんだ。大きな声を出すと、魔族に見つかるぞ﹂ かいどう

 城壁の残骸が間近に見えてきた。前方に立ちはだかり、視界を遮っている。城門がある

場所は、ここからもっと東寄りのはず││大きな街道が通っているから、すぐにわかるだ

ろう。しかし、街道みたいな開けた場所に、不用意に出てゆくのは気が進まない。

﹁よじ登るわけにもいかないしな。ちょっとばかり壁沿いに進んで、なかに入れそうな場 所を探してみようか﹂

ひじ

 今度はキ・キーマが最後尾に、ワタルが先頭になった。皇女はワタルの肘のすぐ後ろに

くっついている。そのせいか、彼女に向けて、ミーナの身体から放散される敵意が、夜の の

ふうふ 

冷気をものともせずはね除けて、ワタルのところにまで伝わってきた。 いの

﹁さっき⋮⋮カッツさんのために祈ってくれたご夫婦ね﹂

609

す

 ミーナが言い出した。キ・キーマとワタルは、瓦礫の隙間をのぞきこんだり、耳を澄ま きゃしゃ

にら

したりして、ヒトの気配を探しているのに、彼女はそんな自分の役割を忘れてしまってい つ

るようだ。思い詰めた小さな顔は、皇女の華奢な背中を睨みつけている。

﹁十年くらい前に、子供さんたちがお孫さんを連れて、南へ亡命したんですって。あのご

夫婦も、ずっと南へ逃げる機会を探していたんですって。それでわたし、わかったの。あ

めぐ

のお祈りは、女神さまの祈りの一節よ。北の老神教の信者が唱えるようなものじゃないか ら、おかしいなって思っていたんだけど﹂  わたしの家族と同じだわと、うんと小さな声になった。 つら

えつ

﹁統一帝国に暮らすヒトたちは、たとえ皇都ソレブリアに住むことを許されるような恵ま

れた立場にいても、やっぱり辛かったのよ。悦にいってたのは、皇帝の一族と、その取り ふういん

巻きだけだったのよ。国民はみんな苦しめられていた。そのうえ何よ、今度は、常闇の鏡

の封印まで解いてしまって、北大陸どころか幻界そのものを危険にさらしてる。皇帝なん

て、クソの役にも立たないじゃない！ 今だって、自分はさっさと逃げ出しちゃって、ど こかに隠れているんじゃないの？﹂

 耐えかねたように、皇女はミーナを振り返った。﹁父は死にました！﹂ みは

﹁父？﹂キ・キーマがぐりぐり目を瞠った。﹁じゃあ、あんたは││﹂ ﹁ガマ・アグリアスⅦ世の娘、ゾフィです﹂

610

き ぜん

けいしょう

 わななきながら、少女は毅然と姿勢を正し、キ・キーマとミーナの顔を見回した。

﹁わたくしが皇帝の位の継承者です。父の亡き今、国民を守り、軍を動かす責任が、わた きょ

くしにはあるのです﹂

 さすがに虚をつかれたのか、ミーナはぽかんと口を開いた。が、すぐ体勢を立て直し、 せんとう

前にも増して戦闘的に目を光らせた。

いか

﹁だったら、あんたこんなところで何やってんのよ！ さっさとやるべきことをやったら いいじゃない！﹂  ワタルは二人のあいだに割り込んだ。 ﹁やめなよ﹂ ﹁だって！﹂ ﹁ミーナらしくないよ。そんな言い方﹂

 水をかけられたみたいに、ミーナは表情をすぼめた。瞳のなかの怒りが消えた。

﹁いくら皇女さまでも、この状態で一人ぼっちじゃ、何もすることができなくても仕方な い。そう思わない？﹂

 キ・キーマが、うんと小声で応じた。ミーナはぷいと乱暴に背中を向け、その拍子にしっ わきばら

ぽの先がワタルの脇腹をぶった。 キ・キーマは波打つ城壁の残骸を見あげる。

611

ど こ 

﹁それより、何処まで行く？ 中に入るのはやっぱり危険だと思うがなぁ﹂

﹁ちょっとだけでも、城壁を登って中をのぞくことはできないかな？﹂

﹁この高さがあるところじゃ無埋だ。もっと派手に崩れ落ちてる場所はないかな﹂

 再び城壁沿いに歩き出すと、しばらくして、ひゅうひゅうと震えるような音が聞こえて

ふうどう

きた。一瞬、ヒトの泣き声かと思ったが、注意深く耳を澄ませてみると、風の鳴る音のよ うである。 ﹁だけど変な音だな。どこかに風洞でもできているのかもしれない﹂ こ

 あれか││と、キ・キーマが前方を指さした。城壁が崩れ落ちてできた瓦礫が、大きく つ

手前に盛りあがっている。焼け焦げた柱の残骸が、残飯のなかの魚の骨みたいに、あちら

へこちらへと突き出している。そのせいで隙間ができて、風が通り抜けているのかもしれ ない。 ﹁あれを足場に、登れないかな？﹂

 近づいて足をかけてみると、ガサリと崩れてしまった。砂山を登ろうとするみたいなも のだ。 ﹁おかしいね⋮⋮﹂

 家や建物の残骸ならば、もうちょっとしっかりしていそうなものだ。何だこの砂と土と 岩の欠片の集まりは││

612

い

 ハッと気づいた。ゴーレムだ。この一山は、一体のゴーレムが、魔法を解かれて動きを よみがえ

止めた後の亡骸なのではないか。 きょじん

ぎ せい

 ミツルの言葉が生々しく蘇る。一体のゴーレムにつき、﹁素材﹂のヒトが一人要る。皇

都を破壊した石の巨人も、元をたどればミツルに利用された犠牲者でしかない。 そで

﹁ワタル﹂ミーナがワタルの袖をつかんだ。﹁あの奥で⋮⋮何か光ってない？﹂

かたまり

 ミーナの示す方向をのぞきこむと、ゴーレムのなれの果てである砂と土の塊の隙間で、 確かに小さな光がまたたいている。

かか

 もしかして？ いや、そんなことがあるわけない。迷いながらも、ワタルが勇者の剣の つか

う

柄に手をかけたとき、その光が大きく、強くまたたいて顔を照らした。  光はふわりと浮かび上がり、ワタルに近づいてくる。 せいれい

 間違いない。ワタルは今度こそ落ち着いて勇者の剣を抜き、目の高さに掲げた。 こ どく

 宝玉に宿る精霊の声が、心に語りかけてくる。 ろうごく

きよ

とばり

しろがね

 ││永き時の牢獄で、私は孤独に待ち続けていました。〝旅人〟よ。 まと

 ワタルの前に、浄い光の帳が広がってゆく。その帳を開いて、白銀色の袖の長いローブ

を纏い、同じ色合いのヴェールで髪を覆った、すらりと長身の男の姿が浮かび上がってく る。 じょうきょう

 第四の宝玉だ。こんなどんづまりの状況、底なしの絶望のなかで、しかし宝玉はまだワ

613

まこと

ご けい

タルを見捨ててはいなかった。 つかさど

 ││私はヒトの真を尊び、互恵と友愛とを司る信義の精霊です。この北の大地に、熱き こお

う

ねむ

し

血の通うヒトの命はありながら、それを尊び許し合う、正しき道は永らく忘れ去られてお おもて

りました。凍れる土に埋もれ岩に抱かれて、私は眠りを強いられてきたのです。 かたひざ

 ワタルは精霊に敬意を示し、片膝をついて、しっかりと面を上げた。 いたずら

ゆる

え がた

が よく

 ││徒に命をかけることなかれ。徒に命を奪うことなかれ。信義あるところには、親愛

たが

と共に赦しがあり、赦しあるところにこそ得難き真の平等がある。我欲に迷い、安楽を求 お

いつわ

なぐさ

め、ヒトの道を踏み外すのは安きこと。ヒトは弱く、多くが知らずに道を違えます。なれ ばんにん

はば

もっ

ど、万人の堕ちるところが天上であると説くは大いなる偽りの慰め。〝旅人〟よ、あなた

ごと

ま

つば

の進む道を阻む者を、信を以て赦しなさい。しかし、その者の歩みが真を裏切るものなら よっ

ば、義を以て遮りなさい。

ふ

 四つ目の宝玉が、光臨する如く舞い降りて、勇者の剣の鍔へと収まってゆく。勇者の剣 が一瞬輝き、力強い波動をワタルの身体に送り込んだ。 ﹁こ、これは││﹂

 キ・キーマがあえぐように息を吸い込み、やおら地面に伏して、深々と頭をさげた。 ﹁宝玉のお導きだ！﹂ は

 そして跳ね起きると、両腕でワタルを抱き上げて、高々と持ちあげた。

614

﹁見たか？ 見たよな？ 女神さまはまだワタルを待っておられるぞ！ 旅は終わったわ けじゃないんだ！﹂

 あれだけの戦いの後で、どうしてこんな力が残っているんだろう。振り回されて、ワタ ルは目が回りそうだ。 ﹁わ、わかったよ、キ・キーマ！ 降ろしてってば！﹂ ふ きつ

 カッツの死にもこらえていた涙が、キ・キーマの頬を濡らしている。大男の水人族の涙

は、北大陸の夜風の冷たさを、魔族の気配の不吉さを、瞬時に退けるほどに温かかった。 しょうてん

﹁あなたも〝旅人〟だったのですね﹂ おどろ

 皇女ゾフィが、驚きのあまり焦点を失ったような瞳で、ワタルを見つめている。

﹁そうです。ミツルと僕は││現世の同じところから来ました。友達なんです﹂

﹁それじゃあなたも運命の塔を目指しているというのですか？ ミツル様の後を追ってゆ くのですか？﹂ こうよう

 高揚していた気分が、いっぺんで冷めた。

 それにはまだ、宝玉がひとつ足りない。勇者の剣は完成していないのだ。

 ミツルの最後の宝玉は、闇の宝玉だった。クリスタル・パレスの鏡の間に隠されていた。

ではワタルの最後の宝玉はどこにあるのか。それを探すだけの時間が残されているのか。  また、ひゅるるると風が鳴った││

615

 ミーナがぴくりと耳を立てた。 ﹁これ、何の音？﹂  ぴゅるるるるー ﹁今度は風じゃないわ！ 何かの鳴き声よ﹂

か な た

 それぞれに身構えて、不思議な鳴き声の聞こえてくる方向を定めようと、ワタルたちは しず

あたりを見回した。城壁の上？ 瓦礫の向こう？ 夜に沈む草原の彼方？

 そのとき、三日月を遮っていたひときれの雲が流れ、光が増した。さえざえとした月光 を横切って、何か小さな素早いものが、まっしぐらに飛んでくる。 くう

 風が空を切る。

あ ぜん

 バサバサと、羽ばたく音が間近で聞こえた。あっと思う間もなく、一羽の真っ白な鳥が、 ワタルの左肩にふわりと着地した。 ﹁こらこら、そうあわてるでない﹂ くちばし

 赤い嘴を動かして、鳥がしゃべった。 ﹁な、何これ？ 何よこの鳥？﹂

 状況を忘れて、ミーナがすっとんきょうな声を出す。唖然として口を開いているキ・キー マの背中に、ゾフィが隠れる。 ﹁わしじゃよ、わしじゃ﹂

616

こた

けむり

の

 鳥は応え、同時にぼわりと白い煙に包まれた。ワタルは思わず飛び退いた。  目の前に、ラウ導師が立っている。 おごそ

だま

まゆげ 

 たっぷり数秒のあいだ、誰も何も言えなかった。ラウ導師も、誰かが先に何か言うこと を期待しているのか、厳かな顔つきで黙っている。  しーんとした。 ちんもく

﹁何じゃ、この沈黙は﹂

 ワタルは口をパクパクさせた。ラウ導師は、長い眉毛を上げ下げすると、 はいりょ

﹁せっかくのわしの登場に、場を盛り上げようという配慮もないのかの？﹂ ﹁も、も、も、盛り上げる？﹂  声が完全に裏返ってしまった。心がひっくり返っているからだ。 いっせい

 ワタルたちは一斉にしゃべった。 ﹁ラウ導師さま！ どうしてここに？﹂ ﹁ワタル、このおじいさんが導師さまなの？﹂

たた

﹁〝旅人〟の導き手の導師さまって、このじいさんなのか？﹂  ゾフィには言葉もないようだ。 つえ

 ラウ導師は杖を持ちあげて、ワタルの頭をぽんと叩いた。 たず

﹁どうしてここに来たかと、わしに訊ねるのか？ おまえが呼んだから、わしは来たの

617

じゃ。用がないなら帰るがの﹂ ﹁ぼ、僕が呼びましたか？﹂ し かん

﹁呼んだではないか。おぬしの最後の宝玉はどこにあるのか知りたいのだろう？﹂

 そのひと言に、弛緩していた場が、ラウ導師の期待していた盛りあがりとは別の、痛い きんちょう

ような緊張に包まれた。 ﹁教えてくださるんですか﹂

 ワタルの声はうわずっている。心はもう一度ひっくり返って元に戻ったが、まだ胸のな かに落ち着いてくれない。 ﹁おぬしに、まだ旅を続ける意志があるのならば、教えよう﹂ か

 ゆったりとした口調でそう言ってから、導師はちらと夜の闇の向こうに目をやった。 にお

﹁急がんと、魔族がおまえたちの匂いを嗅ぎつけたようじゃ。のんびりしてはおられんぞ﹂

 急に現実感が戻ってきた。背中を冷気が駆け上る。﹁教えてください！ お願いしま す！﹂

 たった今急げと言ったくせに、ラウ導師はワタルの顔をじっと見つめた。ワタルは番人

たちの村で、初めて導師に会ったときのことを思い出した。あのときも、こんなふうに導

師は、ワタルを見えない秤に載せて、目盛りを読むみたいなまなざしをしたじゃないか│ │

618

 いや、あのときとは違う。今の導師の視線の方が、もっと厳しい。秤の種類が違ってい

るのだ。ワタルが重くなったから？ 以前の秤が使えなくなったから？ ﹁おぬしは、まだミツルの後を追えるか？﹂ ﹁え？﹂ たいじ 

﹁ミツルの後を追いかけて、彼と対峙する用意はあるかと訊ねたのじゃ﹂

 ワタルは、ミーナの顔を振り返り、キ・キーマの目を仰いだ。それからやっと答えた。 ﹁あります。今までだってそうしてきました﹂ ﹁この先は、これまでとはわけが違う﹂  ラウ導師は言って、杖の先で地面をとんと突いた。

﹁なぜならば、おぬしにとっての第五の宝玉、勇者の剣を退魔の剣へと完成させるために

必要な、最後の宝玉││それも、やはり〝闇の宝玉〟なのだから。〝旅人〟は二人おって も、最後の宝玉はひとつしかないのじゃ﹂

 それじゃ、もう手に入らないじゃないか。ミツルは先に行ってしまったのだから。こん な大事なこと、何でもっと早く教えてくれないんだよ。

 とっさの反発を、ラウ導師はちゃんと読み取っていた。もう一度、杖がこつんとワタル を小突いた。〝おためしのどうくつ〟のときと同じだ。

﹁番人であるわしに対して、そんな不作法な顔をするものではない。さよう、最後のひと

619

・

・

・

・

つは、今は、ミツルの手のなかにある。つまり、おまえがそれを求めるならば、今度こそ、

ミツルから奪い取らねばならぬということだ。よいか？ 奪い取るのじゃぞ﹂ めぐ

 今までは、ミツルと、時を競うことはあっても、宝玉を巡って争うことはなかった。奪 い合いなんて、したことがなかった。  最後の最後に来て、最大の困難。

﹁僕はミツルと戦わなくちゃならない。戦って勝たなくちゃならないんだ﹂

 半ばは問いかけ、半ばは自分に言い聞かせる言葉だった。しかし、ラウ導師は答えない。

 勝てるよ││と、誰かが言った。最初は誰の声だかわからなかった。初めて耳にする、 こわね 

高ぶった声音だったから。  ミーナだった。か細い三日月の光を受けて、瞳が輝いている。 ﹁勝てるよ。ワタルなら勝てる。必ず勝てる。だから行かなくちゃ﹂

 その確信はどこから来るの？ ワタルのなかで、気弱に心が縮んでいく。あのゴーレム

の上で対決したとき、僕はミツルの前で、どうしても剣を抜くことができなかった。言い 負かすことさえできなかったのに。

 ミーナはそれを見ていないじゃないか。弱い僕を見ていないじゃないか。

﹁勝てずとも行く。行かねばならぬ。その決意がなければ、わしは道を開かぬ﹂

 ラウ導師の声に、ワタルは目を上げた。導師の目。おじいさんの目だ。しょぼしょぼと

620

うる

さ

潤んでいる。それなのに、心に突き刺さるこの視線は何だ？  導師は口を結んでいるのに、問いかけてくる声が聞こえる。

・

・

・

・

・

・

・

・

・

・

・

 ││おまえは運命の塔で何を願う？ 今このとき、おまえがもっともかなえたい願いは ・

何じゃ？ ・

 僕がもっともかなえたい願い。 ちか

 カッツの言葉が、今でも彼女がすぐそばにいるみたいに、鮮やかに聞こえてきた。あん

たはハイランダーなんだ。幻界の平和を守る誓いを立てた。その誓いを破るならば、あん たには、ファイアドラゴンの腕輪をつける資格はない。 ふ

 ワタルは左手首の腕輪に目を落とした。そっと、指先でそれに触れてみた。  今、僕がもっともかなえたい願いは？

 導師の問いかけの意味が見えた。自分が何を求めているのかわかった。 へんこう

こうかい

 わからない方がどうかしてる。だって、間違えようのない一本道じゃないか。 ・

・

・

・

・

・

・

・

・

・

・

・

・

 でも、その道を選べば、もう変更はきかない。それでいいのか？ 後悔はしないのか？ ・

じ ひ 

えいち 

 この旅の目的は果たされるのか？  慈悲と叡智、勇気と信義をこの剣に集めて。  変えるべきなのは僕の運命じゃなくて、  ││僕自身なんだ。

621

とら

 ワタルは正面から導師の瞳を捉えた。

﹁行きます。ミツルを追いかけて、必ず、闇の宝玉を手に入れます。僕は運命の塔に行か なくちゃいけない。導師さま、僕に道を開いてください﹂

622

 52 ワタルひとり      夜空に立ちのぼる、一筋の光の柱。 おどろ

れいたん

あか

かがや

たた

ゆる

 三日月さえも驚いて、さらに目を細めたようだ。雲の流れもその足を緩めた。ただ北の まがぼし

きよ

ふ

凶星だけが、冷淡なほどの落ち着きで、紅い輝きを湛えている。

つ

つえ

か ら だ

 ワタルのすぐ目の前に、浄い光の輪があった。一歩踏み出せば、その内に入ることがで ど

きる。ラウ導師の開いてくれた道へと。 わき

ねんれい

きずな

 導師は脇に退いて、地面に突き立てた杖に身体を預け、静かにワタルを見守っている。 ﹁では、行くかね？﹂ こ

 ワタルはうなずいた。そして、ミーナとキ・キーマを振り返る。

ちが

 二人は種族を超え、年齢を超え、性別を超え、ただ﹁ワタルの仲間﹂という絆だけに結 う

ばれて、そっくり同じ表情を浮かべていた。 びしょう

いっしょ

 限りなくサヨナラに近いけれど、微小な一点で決定的にサヨナラとは違うもの。 ﹁ひとりで行くんだよね﹂  ミーナが問いかけた。思わず、ワタルはにっこりした。 おこ

﹁うん。今度ばかりは、ミーナがどんなに怒ってもすねても、一緒に連れて行ってあげる

623

ことはできない﹂ ﹁わたし、そんなに怒ったりすねたりしてた？﹂ しか

﹁違うよ。ミーナは僕を叱ってくれたんだよね﹂

﹁俺もよく叱られた﹂と、キ・キーマが真顔で言った。﹁けど、ミーナはいつも正しかっ たような気がする﹂ ﹁僕もそう思うよ﹂

はな

 二人の顔を見比べて、ワタルは今さらのように気がついた。これは出発じゃない。別れ

にぎ

なんだ。ここから先は僕ひとり。どんな結果が待っていようとも、仲間たちとはここで離 れなければならないのだ。

 手を差しのべて、二人の手を握り、ありがとうと言おうと思った。でも、寸前で思いと

じか

どまった。まだ早い。二人に感謝し、別れを告げるのは、僕が自分の役目を果たしてから でなければならない。 せきべつ

ふる

 たとえ、その感謝と惜別を、もう言葉にして直に伝えることはできなくとも。

だ

 ここで言うべきこと、言っていいことはただひとつ。 ﹁行ってきます﹂ とつぜん

 突然ミーナが飛び出して、しっかりとワタルを抱きしめた。全身が震えている。 ﹁気をつけて、ね。気をつけるんだよ﹂

624

﹁うん﹂

とう

 ミーナの温かくしなやかな身体を、ワタルも固く抱きしめ返した。キ・キーマが近づい ひとしずく

てくると、大きな胸に、二人をそっくり抱き取った。

たた

 何も言わない。泣いてる。大きな身体に小さな一滴の涙。 ﹁手伝えなくて、ごめん﹂ ヴィジョン

﹁違うよ、それは違う﹂ワタルはキ・キーマの胸をぽんと叩いた。﹁僕が運命の塔にたど

り着いて願いをかなえるまで、みんなには〝幻界〟を守って戦うっていう使命があるじゃ

みは

め がみ

ないか。僕たちは、これからそれぞれ違う役割を果たすんだ。だけどそれは、やっぱりお たが

ぬ

互いを助け合うことなんだよ﹂ さえぎ

 ミーナが涙に濡れ目を瞠った。﹁ワタル││あなた、女神さまに何を││﹂ ほほえ 

 ミーナにすべてを言わせないように、ワタルは頬笑んで遮った。﹁それは内緒。あとで ね、ミーナ﹂ うで

 二人の腕から離れると、ワタルは姿勢を正した。 ﹁キ・キーマ！﹂ ﹁お、おう！﹂ ﹁僕はまだ、水人族にとっての〝幸運の印〟だよね？﹂ ﹁ああ、もちろんさ！﹂

625

さず

 ワタルは笑顔を大きくした。﹁よし、それじゃ、僕はキ・キーマに幸運を授けます。ど んな戦いにも、けっして負けないように﹂ こぶし

ま ぞく

ぬ

 キ・キーマは両の拳を握りしめた。﹁任せとけ！ 俺の目に入るものすべて、この腕の 届く限りのものすべてを、魔族から守り抜いてみせるからな！﹂ さび

とこやみ

かく

ふういん

 皇女ゾフィは、ワタルたちから独り離れて、寂しさと寒さに包まれている。しかし、ワ とうとつ

タルが彼女に目を向けると、唐突に言った。 ﹁許してください﹂ こうべ

ありか 

 両指を組み合わせ、頭を垂れて。 やみ

﹁ミツル様に、闇の宝玉の在処を教えたのはわたくしです。常闇の鏡を隠している封印を わ

く のう

は

解けば、宝玉に近づけることを話してしまいました。その結果が││これです﹂ おも

 身内から湧きあがる苦悩と痛みに、声がかすれる。吐き出せば吐き出すほどに、言葉と なった想いがゾフィを責めさいなむ。

﹁こんなことになるとは思ってもみませんでした。わたくしはただ││ミツル様の気持ち なぐさ

つら

あやつ

を慰めたいと思っただけでした。クリスタル・パレスに留め置かれていたあの方が、あま りにも悲しそうで、寂しそうで、見ていることが辛かったから﹂ だま

 ゆっくりと、ラウ導師が口を開いた。﹁ミツルはあなたを騙しましたかな。あなたを操っ て、利用したのですかな﹂

626

さか

 ゾフィは激しくかぶりを振った。﹁わたくしにはそうは思えません。でも、でも、結果

は同じです。わたくしには、ミツル様が考えておられることがわからなかった。賢しらに、

あの方の心を理解したつもりになっていただけで、その実、何もわかってはいなかったの です！﹂ なだ

うつしよ

お ば 

 慰めようとか、宥めようとか、思ったわけではなかった。気がついたら、ワタルはこう なぞ

や

言っていた。﹁あなたは、現世にいるミツルの叔母さんに、よく似ているんです﹂

 ラウ導師には、謎のようなこの言葉の意味がわかるはずだ。ワタルは導師の痩せた顔を あお

仰いだ。導師は静かにうなずいた。幻界は、そこを行く〝旅人〟の心を映して姿を変える。

いきさつ

﹁ミツルに会ったら、あなたが傷ついていることを、ちゃんと伝えます。どんな経緯があっ

たのか、僕らにはわからない。でも、あなたが悲しんでいることは本当だ。お父上を失っ おお

ふ

たあなたの悲しみを、彼は知らなくちゃいけない。僕はそう思う﹂  ゾフィは両手で顔を覆った。 やさ

 もう一度だけ、ミーナとキ・キーマの手に優しく触れて、ワタルは頬笑んだ。そしても まぶ

う何も言わず、光の輪のなかへと足を踏み入れた。  眩しい。

 どこまでも高く、どこまでも遠く、光の柱が立ちのぼっている。最初は何も見えなかっ どうき 

た。が、高鳴る動悸を数えているうちに、天上へと続く階段が見えてきた。光から生まれ、

627

光でつくられた階段だ。 か

 のぼってゆく。一歩、また一歩。やがて駆け足になり、息をはずませ、ワタルはもう振 り返らなかった。

よそお

 ミツルの時と同じだ。光の柱のなかを、立ち止まることもためらうこともなく、ひたす こ

らに駆けのぼってゆく。雲を足の下に、三日月を追い越し、冷淡な無関心を装う北の凶星 を後ろに、ワタルの後ろ姿がどんどん小さくなってゆく。 か な た

 そして夜空の彼方に消えた。 つぶや

﹁行ってしまったわ﹂  ミーナの呟きが、風に乗る。 ﹁もうお別れなのね﹂

﹁いや、違う﹂キ・キーマは首を振る。﹁ワタルが言ってたこと、忘れたのか？ 俺たち

うそ

は別々の使命を果たしに出発するんだ。別れ別れになったけど、サヨナラをしたわけじゃ ないんだぞ﹂

 しかし、支えを失ったように、ミーナは取り乱し始めた。﹁そんなの嘘よ！ 口では何

とでも言える。だけどわたしたち、もうワタルには会えないんだよ。ワタルの身に何が起 こっても、それを知ることさえできないんだよ！﹂

628

りんかく

すそ

むすめ

と

 ラウ導師がミーナに歩み寄った。﹁ネ族の娘よ。本当にそう思うかね？﹂

 光の輪の輪郭がぼけ始めた。裾の部分から、ゆっくりと夜に溶けるように消えてゆく。

﹁ワタルが運命の塔にたどり着き、女神さまに願いをかけ、それがかなえられたなら、きっ

とおまえにもそれがわかるはずだ。ワタルはそう約束していったではないか﹂ ﹁約束？﹂  あとでね、ミーナ。

 それじゃワタルはやっぱり││ミーナとキ・キーマは、上空に消え残る、光の柱の最後 オ ー ラ

の光輪を仰ぎ見た。

﹁さあ、幻界の子らよ。行きなさい。おまえたちには、おまえたちの試練が待っている﹂

 ラウ導師の声に、二人が我に返ったときには、もう導師の姿は消えていた。現れたとき と同じように唐突に、鳥の羽ばたきだけをかすかに残して。

629

 53 取り戻せるもの     たましい

む しゃぶる

か

ふ

 こんなに走ってのぼっているのに、ちっとも疲れない。息は切れるけれど、それは心が たか

昂ぶり、魂が武者震いしているせいだ。 かがや

 光の柱のなかを、ただ上へ進むことだけを思って駆けのぼる。勢いよく踏み出す足の下 を、輝くステップが、流れるように通過してゆく。

そろ

 そしてとうとう、広々とした空間にたどり着いた。ワタルは両足を揃えて立ち止まり、 はずむ呼吸を整えた。  天上に出たのだろうか。 きり

まと

てのひら

 明るさに変わりはなかった。ただ白光の輝きを放つ霧が、ワタルの周囲を流れている。

つまさき

手をあげてはらってみると、霧はふわりと乱れながらも纏いつき、指先や掌にやわらかな かんしょく

感触を残す。 おお

あさせ 

わた

 頭上はすっぽりと、霧のドームに覆われている。足元も霧に満たされて、自分の爪先を こうばく

見ることもできなかった。歩き出すと、霧の浅瀬を、しとやかなさざ波をたてながら渡っ だれ

てゆくかのようだ。何も見えない。誰もいない。限りない広漠に、けれどこの身はほの温 どうき 

かな安心感に包まれて、動悸が治まってゆく。

630

だれ みは

 不意に、どこか高いところから、鳥のさえずりが聞こえてきた。  ││来たのは誰？ おどろ

 驚きに、ワタルは目を瞠った。  ││来たのは勇者？

 ラウ導師の番人たちの村を訪ねたとき、森のなかで聞いた鳥たちのさえずりと同じだ。  ││来たのは誰？ よっ

 今度は後ろの方から聞こえた。ワタルはさっと振り返ると、流れる霧の向こうに答えた。 ヴィジョン

いっせい

か

﹁僕の名前はワタル。〝幻界〟を旅し、四つの宝玉を集め、ラウ導師のお導きでここまで たどり着きました﹂  姿の見えない鳥たちが、霧のなかで一斉にさえずりを交わす。  ││ワタル、ワタル。 たずさ

 ││ここまで来たワタル。 けん

 ││勇者の剣を携えて。  ││ようこそ、ワタル。  ││よく来たね、ワタル。 ま

 鳥たちの声が合図になったように、霧が晴れ始めた。舞いあがるように立ちのぼり、空 に吸い込まれて消えてゆく。それにつれて視界が大きく開けた。

631

の

 ワタルは息を呑んだ。 す

あお

 天上に在る、まったく新しい世界の入口に、ワタルは立っていた。 クリスタル

う

つ

のき

かたむ

 水晶の都だ。すべてが透き通り、蒼く輝いている。何という広さ。何という大きさ。そ ほ

ぬ

きょ

して都を埋め尽くす建物の数、数、数。びっしりと軒を連ね、屋根を傾け、窓を開いて立

はる

か な た

せいひつ

ち並んでいる。それはまるで、最上にして最大の水晶の鉱脈を彫り抜いてつくられた、巨 だい

大な都のオブジェだ。 とう

すその 

 そしてワタルの正面、前方の遥かな彼方に、蒼々とした静謐を映す空を背景に、姿勢正 たたず

いの

しく佇む貴婦人を思わせる美しい塔が立っていた。水晶の都を長い裾野に、水晶のなかか

め がみ

あお

ら生まれ出た、優美な高層の塔。その頂上はヒトの祈りの形、左右の掌をぴたりと合わせ

せんたん

た形をして、天上のこの地の、さらなる天の高みを向いている。 がっしょう

 あれこそが運命の塔だ。  あの頂き、合掌する指の先端に、運命の女神が待っている。 やさ

 しばらくのあいだ、ワタルは、まばたきをすることさえ忘れて塔を仰いでいた。近づき がた

難いほどに美しく、しかし優しい造形がワタルを招いている。さあ、ここまで来なさい。 ここがあなたの目指す場所である。 ダ ブ ル

いっしょ

 足を踏み出し、ゆっくりと歩き始める。ワタルの姿が、水晶でできたあちらの家に、こ かべ

ちらの壁に、足元の道に、ちらちらと映っては無数の分身をつくる。分身もワタルと一緒

632

に歩んでゆく。

 都のなかをいくらも歩かないうちに、ワタルは気がついた。思い出したのだ。この家の なつ

屋根の形には見覚えがある。この街角を、僕は知っている。

 ああ、ここは懐かしいガサラの町だ。そしてあっちのあの平らな屋根の連なりは、ティ

アズヘヴンの町並みじゃないか？ いったん気がつくと、もう夢中になってしまって、ワ あまどい

タルは駆け出した。あれは？ すぐ右手の先には、番人たちの村のラウ導師の住まいにそっ

くりな、こぢんまりとした小屋が立ち並んでいる。折れた雨樋をぶら下げたあの倉庫はソ きゅうしゃ

ま びょういん

ノの港町だ。マキーバの厩舎がある。あの遠いところ、ルルドの国営天文台そっくりな建 み と 

物を、星読みたちの学舎が囲んでいる。あの不気味なトリアンカ魔病院も、透き通った水 晶に姿を変えると、見惚れるほどに美しい。 ちが

 天上のこの都は、ワタルが今まで旅してきた町や村の姿を寄せ集め、再構成し、再現し

ているのだ。違っているのはすべてが水晶でできていて、ワタル以外に誰もいないという ことだけ。

き おく

よみがえ

 この水晶の都を通り抜けてゆくことは、ワタル自身の旅の道筋を再現することなのだ。 にお

 ティアズヘヴンの家の壁にワタルが映る。サラと言葉を交わした記憶が蘇る。ソノの港 とびら

と

町を思わせる坂道を上る。潮風の匂いを思い出す。おや、ここはリリスのレンガ職人通り こうぼう

だ！ ファンロンの工房の扉は、ここでもやっぱり固く閉ざされている。

633

しゅくしゅく

おも

 道は完全な一本道で、迷うことはなかった。水晶でつくられた想い出のオブジェのなか

こ こう

を、ワタルは粛々と進んでゆく。歩けば歩くほどに深く都のなかに分け入って行くけれど、 きょり 

運命の塔は少しも近づかない。いつ仰いでも、視界いっぱいに広がるその孤高の姿は、ワ タルとのあいだに変わらぬ距離を保っていた。

 小さな陸橋の下を通過する。するとその先は、ティアズヘヴン独特の〝通路の家〟になっ

ていた。親切な町長に案内されて、初めてここを通ったとき、家具がないので面食らった ものだった。通り抜けるためだけに造られた部屋の連なり。

びょうしょう

すみ

 ひとつ抜けて、次の部屋へ。また次の部屋へ。こうやって、サラの母親サタミが病床に ついているのを見舞ったっけ││

 そこは病室ではなかった。空っぽで四角いだけの部屋だ。が、何かがあった。部屋の隅 しょくだい

とりかご

に、燭台みたいなものが立っている。

 鳥籠だ。やはり水晶でできた鳥籠がひとつ、ぽつりとぶらさがっている。

つばさ

ひとみ

 真っ白な小鳥が一羽、止まり木の上で小首をかしげている。ワタルは近づいて、そっと ふち

籠の縁に触れてみた。

 カナリヤぐらいの大きさで、翼はしみひとつない純白。つぶらな瞳はうっとりするよう な青い海の色だ。

 チチチ⋮⋮と、小鳥はさえずり、ワタルの指が触れているすぐそばまで飛んできた。じっ

634

か

とワタルを見ている。しきりに首をかしげ、また羽ばたいて、今度はワタルの指に止まろ うと試みる。 ﹁籠から出たいの？﹂

きゃしゃ

 チチチと小鳥は応じた。返事をしてくれたのだ。 ﹁じゃ、出してあげる。ちょっと待ってね﹂ つめ

 鳥籠の扉には、ワタルの爪ぐらいの大きさの華奢な掛け金がかかっていた。それを指先

で押し上げると、扉は音もなくすうっと開いた。白い小鳥はちょこんと飛んで、扉の上に

えが

翼を休めた。それから今度は大きく飛びあがり、ワタルの頭上でくるりと輪を描いてから、 みぎかた

何の迷いもなく右肩の上へ降りてきた。

まぼろし

 ちょっと驚いて、ワタルは後ろに下がった。重さなど、ほとんど感じられない。でも小 ぬく

鳥の温もりが肩の上にある。 ゆうれい

 そしてそのとき││瞳の奥に幻が展開した。 うつしよ

くるまい す 

 現世の光景だ。ワタルは夜ふけの〝幽霊ビル〟の前に立っている。大松父子の顔が見え ・

・

・

・

・

しょうてん

る。そしてすぐそばに車椅子があって、そこに座っている││座って││  大松香織だ。 ほお

かみ

 黒い瞳。彼女以外の誰にも見ることのできない何かの上に焦点を結んで。言葉を失い、 なめ

外界とのつながりを断たれた、滑らかな頬と輝く髪の、本当にきれいな女の子。

635

 まばたきをすると、幻は消えた。小鳥の瞳がワタルを見ている。  この白い小鳥は││大松香織の心なのか。 ﹁ずっとここにいたの？﹂

はな

とら

 おそるおそる手をあげて、ワタルは小鳥の小さな頭に触れてみた。 ﹁ここに閉じ込められていたの？﹂ な

か ら だ

 ワタルに頭を撫でられて、小鳥は目を閉じた。

﹁そうなんだね。香織さんの心は、身体から離れてここに囚われていたんだね﹂

 なぜ？ という疑問さえも押しのけて、解放された小鳥の喜びが、ワタルの心に伝わっ じゅうぶん

てくる。それで充分だった。 ﹁それじゃ僕と一緒に行こう。一緒に現世へ帰ろうね﹂

 白い小鳥を右肩に乗せて、ワタルはまた歩き始めた。ところが次の部屋に進むと、そこ にもまた鳥籠があった。もう一羽、小鳥が閉じ込められている！ くちばし

 今度の小鳥は真っ黒だ。嘴の先まで黒く、瞳だけが赤い。

 ちょっとのあいだ突っ立ったまま、ワタルは思案した。こっちは誰の心だ？

 黒い小鳥が嘴を開き、およそらしくないダミ声でがあと鳴いた。やっぱりカナリヤぐら からす

ひ

いの大きさなのに、鳴き声は烏そっくりだ。 にんしき

 パチリとスイッチが入るように、認識の灯がともった。ああ、そうか！

636

﹁石岡だね！ 石岡健児だ﹂ たましい

ぬ

 幽霊ビルのなかで、彼と彼の仲間たちにやっつけられていたミツルが、バルバローネを しょうかん

招喚したあの後、石岡は魂を抜かれたようになってしまったという。そう、大松香織と同 じように。 ﹁ここにいたんだ﹂ だんがん

てんじょう

しょうとつ

 ワタルは急いで鳥籠の扉を開けた。黒い小鳥は弾丸のように飛び出すと、四角い部屋の

なかをバサバサと飛び回り、やたらめったら壁や天井に衝突した。黒い羽根が舞い落ちる。 だ め 

﹁こら、そんなことをしちゃ駄目だよ。こっちへおいで﹂ おおさわ

 ワタルは左肩を差し出した。黒い小鳥はワタルの頭に飛び移り、髪の毛をひっかけ、ギャ アギャアと大騒ぎをしてから、やっと左肩の上にとまった。 ﹁手がかかるなぁ﹂

 思わずそう言うと、黒い小鳥はいきなり嘴の先でワタルの、耳を突っついた。 イテ

﹁痛ッ！ やめてくれよ﹂  ワタルは吹き出した。ホントに石岡だ。 ﹁おとなしくしてないと、連れて帰ってやらないぞ﹂

 黒い小鳥はしおしおとまばたきをしている。用心深く掌で撫でてやると、震えているの が感じられた。

637

こわ

いっしゅん

﹁怖かったんだね﹂

おび

 瞳の裏に、また一瞬、現世の出来事が幻になって再現された。歯を食いしばり頬を紅潮 しっこく

させて、自ら招喚した漆黒のバルバローネを見つめるミツルの姿。怯えてすくむ石岡健児 の、くしゃくしゃになった顔。 だいじょうぶ

﹁もう大丈夫だ。おまえも一緒に帰ろう﹂

 運命の塔の足元に広がる水晶の都のなかに、現世にあるべきふたつの魂が閉じ込められ ていた。それが今、ワタルの両肩の上に乗っている。

 歩みを進めると、ティアズヘヴンの建物を通り抜けて、リリスの住宅街へと出た。パム

へんけん

所長に案内されてここを訪れたとき、リリスに巣くう非アンカ族への強い偏見に、気分が 悪くなったことを思い出す。 さ

とが

 小公園みたいな広場に出た。ベンチがあり、植え込みがある。これもリリスだろう。す

かた

べて水晶になっている。植え込みに咲いている花の一輪までも。  何気なく足元に目をやって、ワタルは立ち止まった。 りんかく

 文様があるのだ。うっすらと輝いている。水晶の地面に、硬く尖った何かで刻みつけら れたみたいだ。見つめるほどに輪郭がはっきりしてくる。 もど

 ここからいったん、現世に戻れる？ そうか、四つ目の宝玉を手にいれたから。 か け ら

 でも、今はもうワタルひとり、真実の鏡の欠片を持ったミーナはそばにいない。それで

638

も文様を踏めば、光の通路が生じるというのだろうか。

 チチチと、右耳のそばで白い小鳥がさえずった。話しかけられている。 ﹁ああ、そうか。そうなんだ﹂  ワタルはうなずいた。﹁君たちを先に帰すことができるんだね？﹂

 この都の果てるところでは、ミツルとの対決が待っている。必ず勝つ││勝たなければ

ならないけれど、でも負けたら？ 考えたくもないけれど、でも負けたら？ ワタルの連

れとなった二羽の小鳥も、またこの都に取り残されてしまうことになる。 しんこう

 では、誰に会いに行こうか。ワタルには、多くの時は残されていない。こうしているあ たく

いだにも、魔族の侵攻は幻界じゅうに広がっているのだ。細かいことを話さず、大急ぎで 二羽の小鳥を託してもいい相手││ おこ

 ワタルの顔がほころんだ。ああ、今まで忘れていたなんて。思い出さなかったなんて。 怒られちゃうよ。

 カッちゃんだ。僕の友達。僕の大切な現世の仲間だ。彼のところへ行こう！  現世では、どうやら夕刻らしい。

 カッちゃんは二階の部屋にいて、自分の机に向かっていた。両足がぶらぶらと動いてい

ほおづえ

る。机の上に教科書とノートが開いてあるが、勉強しているわけではないらしい。頬杖を

639

ついている。 ゆうやみ

あかねいろ

む

お ば 

ただよ

せん

 窓の外には夕闇と、茜色の夕焼けの最後の一筋の光が見える。小村の小母さんはもう洗 たくもの

し た 

いそが

濯物をしまったらしく、物干しは空っぽだ。蒸し暑い空気がどんよりと漂っている。  階下から、居酒屋﹁小村﹂の、忙しく働いている気配がする。 ﹁はい、はい、生ビールふたつね！﹂ ほほえ 

 小母さんの声だ。わあ、相変わらず元気だよ。ワタルは頬笑んだ。

 光の通路を抜け、ワタルはカッちゃんのすぐ後ろに出ていた。ちょっとのあいだ、懐か

しい友達の、真っ黒に日焼けしたうなじを見ていた。夏休み、毎日のようにプールに通っ ているのだろう。 ﹁カッちゃん﹂

すご

 呼びかけても、カッちゃんはすぐ振り返らなかった。忙しなく足をぶらつかせながら、 何か考え込んでいる。 ﹁カッちゃん﹂  もう一度呼んで、ワタルは彼の肩に手を置いた。

 カッちゃんは椅子から飛びあがった。それがあまりにも凄い勢いだったので、ワタルは 後ろによろけてしまった。

 カッちゃんの目は、季節はずれのふたつのドングリだった。ぐりぐりと見開いて、つい

640

で口がぽっかりと開く。 ﹁おどかしてごめん﹂

 ワタルの声を聞くと、カッちゃんの顔から血の気が引いた。これほど日焼けしていても、 やっぱり顔色って変わるんだ。 ﹁み、三谷？﹂

 ミタニか、ミタニなのかと繰り返す。うん僕だよと、ワタルは答えた。

 カッちゃんが飛びついてきた。自分でも思いがけず、ワタルはちょっと泣きだした。 うで

﹁何だよ、おまえ何してんだよ？ 何があったんだ？ どこ行ってたんだ？﹂ や つ 

 矢継ぎ早に問いかけながら、カッちゃんはワタルの腕をつかんで揺さぶった。 ﹁そ、それ、それは﹂

﹁オレ心配してたんだぞ！ ホント死ぬほど心配してたんだぞ！ うちの父ちゃんも母ちゃ あふ

んも、そうだよ三谷のおばさんとこ行って、そンで、そンで﹂ なみだ

 あわあわと言葉を並べ立てるカッちゃんの目から涙が溢れている。 くわ

﹁ごめんよ、カッちゃん。今はそのことを、詳しく話してる時間がないんだ﹂ ﹁え？ え？ 何だって﹂

 あのねカッちゃんと、今度はワタルがカッちゃんの両腕をつかまえた。 たの

﹁頼みがあるんだ。この小鳥﹂

641

 二羽の小鳥は、翼をバタつかせながら、必死でワタルの肩にしがみついている。爪が食 い込んで、ちょっとチクチクする。 に

﹁窓から逃がしてやってくれるかな。それだけでいいんだ。カッちゃんにしか頼めないん だ。やってくれる？﹂ ばくはつ

 カッちゃんの目が泳いでいる。爆発的に溢れ出した涙のせいではない。目を回しかけて いるのだ。 ﹁カッちゃん、しっかりしてよ﹂

 カッちゃんの首がぐらぐらする。そして裏返ったような声で問いかけた。﹁おまえ、何 かヘンなカッコしてない？﹂  ワタルは笑った。﹁うん﹂ ﹁それコスプレか？ ﹃ロマンシングストーン・サーガ﹄じゃん﹂

﹁だよね。後で話すよ。ちゃんと帰ってきたら、全部話すよ。だけど今は急いでるんだ。 ごめんよ﹂

あつか

 まず白い小鳥を優しくつかんで、カッちゃんに差し出した。動物好きのカッちゃんは、

さぞ頭がぐるぐるに混乱しているだろうに、それでもワタルよりずっと上手に小鳥を扱う ことができた。 つか

﹁どこで捕まえたんだ、この鳥﹂

642

﹁捕まえられていたのを、助けてきたんだ﹂

の

 手も日焼けしている。爪ばかりがピンク色だ。その手で小鳥を撫でながら、カッちゃん つぶや

は呟いた。﹁オレ、夢見てるのかな﹂ ﹁そんなもんだと思ってくれていいよ。窓開けて。ほら、早く﹂ こう

 カッちゃんは夢遊病者のようにふらふらと歩き、右手の甲に白い小鳥を載せたまま、左 しんちょう

手で慎重に、物干し台に続く窓を開けた。

 そっと手を差し出すと、白い小鳥は二、三度羽ばたきをして、パッと舞いあがった。物 干し台の手すりをかすめて、夕空に消えてゆく。 ﹁こっちも﹂

 ワタルは黒い小鳥を差し出した。小鳥は暴れ、カッちゃんの手の甲にとまらずに、カッ つ

ちゃんの頭を突っついた。 ﹁何だよ、こいつ！﹂

 カッちゃんはあわてて手を振り回し、むんずと小鳥をつかんでしまった。 つぶ

お か 

﹁わ！ 潰れちゃうよ、気をつけて﹂  ワタルは可笑しくて仕方がなかった。

なや

﹁でも、ちょっとぐらいならいいかな。こいつには、今までさんざん悩まされたもんね﹂ ﹁この鳥が？ オレらを？﹂

643

 カッちゃんの目がまたぐりぐりする。 ﹁そうなんだ。でも、逃がしてやらなくちゃね﹂ う ろ た

ざお

あお

 黒い小鳥の羽ばたきは不器用で、物干し台の手すりにぶつかったり物干し竿にとまった

り、まるっきり狼狽えてジタバタした。カッちゃんは窓ごしに身を乗り出し、両手で扇い で小鳥を空へと追いやった。  やっと、黒い小鳥も飛び去った。 ﹁これでいいのか？﹂ ﹁うん﹂ な じ 

 ほっとして、胸が晴れた。ワタルはひとつ深く息をついて、小村家のカッちゃんの部屋

はな

の、馴染み深い匂いを吸い込んだ。 ﹁三谷││﹂  カッちゃんが洟をぐすんとすすった。 ﹁ありがとう。さ、僕はもう戻らなきゃ﹂ かね

 光の通路の奥で、鐘の音がした。 ﹁戻るってどこへ？ おまえ、どうしちゃったんだよ﹂

 ごめんよ。今はそれしか言えない。ワタルは決意を新たにした。カッちゃんに説明する ぼうけん

ためにも、幻界の冒険のすべてを話して聞かせるためにも、僕は必ず帰ってこなくちゃい

644

けないんだ。

﹁もうそんなに長いことかからずに、戻ってこられるよ。絶対に戻ってくるよ。そのとき ね。それまで待っててよ﹂

 光の通路へと後ずさる。カッちゃんは一瞬手をのばしてワタルをつかまえようとしたが、 その手が力を失ってぽとりと落ちた。 ﹁三谷！﹂

 光の通路を駆け戻るあいだじゅう、カッちゃんの呼ぶ声が聞こえていた。

 文様の上に戻ると、再び水晶の都。ワタルはまた完全な孤独へと戻った。  よし、行こう。ミツルに会うんだ。

645

ヴィジョン

 54 決闘    

じょうへき

あっかい

クリスタル

かべ

が れき

み わた

ざんがい

はい

〝幻界〟の町や村のコラージュのような水晶の都を歩き、やがてワタルは見渡す限りの廃 きょ

墟へと出た。 くず

 皇都ソレブリアだ。

 崩れた城壁、圧壊した家々。折れた柱や割れた壁の瓦礫のなかに、ゴーレムの残骸も混 くっせつ

かがや

じっている。もちろんこれらもすべて水晶でできているから、まっぷたつに折れた柱の断 は

び れい

面や、瓦がまだらに剥がれ落ちた屋根などに宿る屈折した輝きが、これまで通過してきた どの町よりも不可思議で美麗な景観をつくりあげていた。 ちゅうしょうか

や ゆ 

ご い 

いた

 水晶の造形によって抽象化されてしまえば、廃墟こそがいちばん美しいものになる。ワ

き 

タルには、まだその皮肉さを揶揄するだけの語彙はなかったけれど、傷みを感じることは かいめつ

とうめい

ひ さん

できた。地上のソレブリアの壊滅と、あの戦いの厳しい結末は、ワタルのなかで、まだ記 おく

きょうふ

いか

うす

憶などという生やさしいものに落ち着いてはいない。透明な水晶が瓦礫の山の悲惨さを中

和していても、あの場で味わった恐怖や怒り、悲しみまで薄めることはできない。 しんこう

 地上では今ごろ、ミーナやキ・キーマはどうしているだろう。無事ドラゴンたちの島へ ま ぞく

帰り着くことができたろうか。南大陸では、もう魔族の侵攻に気づいているだろうか。

646

きょだい

ふ

か

ふさ

ぬ

 ワタルは目を伏せて、駆け足になった、走って走って走り抜け、するといきなり目の前 しょうとつ

に、何か巨大なものがぬっと立ち塞がった。 あや

とど

 危うく正面衝突するところだった。ワタルは息をあえがせながらその障害物を見あげた。 こうてい

とびら

ちんざ 

 大きな門だ。クリスタル・パレスの正門なのだろう。何もかもが原形を留めていないソ かなめのみとびら

はる

あお

レブリアの模造品のただ中に、皇帝の居城に通じる両開きの扉だけが鎮座している。 いっしゅん

 一瞬、要御扉を思い出した。でも、スケールは遥かに小さい。てっぺんを仰ぎ見ること ぼ

もんしょう

ができないほど巨大な要御扉に比べれば、これなどミニチュアみたいなものだ。 う

けん

たて

き し 

ほうかん

ず がら

 左右の扉の中央に浮き彫りされているのは、皇帝一族の紋章だろう。ぐるりには、星々 せんさい

の運行を図案化したらしい繊細な模様に、剣と盾、騎士とドラゴン、そして宝冠の図柄が あしらわれている。  押しても引いても、扉はぴくりとも動かなかった。行き止まりだ。

 周囲を見回してみた。きらきら光る瓦礫の海のなかに、抜け道らしいものはまったく見 あたらない。ここを通過しなければ、先には進めないのだ。 すべ

と び ら

け

 よじ登れというのではあるまい。つるつる滑って手がかりがないもの。何とかして扉を 開けなければならないのだ。  どうしろっていうんだよ？ まぎ

 頭をかきむしりながら、ワタルはそこらを歩き回った。腹立ち紛れに門扉を蹴っ飛ばし

647

てみた。 つまさき

 おお、痛と、爪先を押さえてうずくまっていると、門扉の前の地面に、うっすらと何か 図柄のようなものが見えることに気がついた。

だれ

 形は、光の通路を作り出すことのできる文様に似ている。でもこちらの方がずっと小さ うつしよ

えが

い。現世のマンホールをさらにふた回りほど縮めたくらいのサイズだ。 いつ

 ひとつ、ふたつ数えると、五つあった。半円形を描いて並んでいる。  試みに、そのひとつの上に足を乗せてみた。

はじ

 とたんに、ワタルの心のなかに喜びの感情が生まれ、耳の底で笑い声が弾けた。誰が笑っ

う

てる？ これは何だ？ びっくりして飛び下がると、笑い声は消えた。喜びの感情も失せ た。

となり

 もう一度やってみると、やはり同じ現象が起こる。そこで、今度は隣の文様の上に乗っ

よっ

てみた。と、今度は急に怒りをおぼえた。やはり、文様から降りると怒りは消える。 みっ

 その隣。三つ目の文様の上に乗ると、心が悲しみに満たされるのを感じた。四つ目に乗

うでぐ 

ると、その場でスキップしたくなるほど楽しくなった。 きょり 

 五つ目では何も起こらない。 しんちょう

 慎重に五つの文様から距離をとり、ワタルは腕組みをした。 き ど あいらく

 喜怒哀楽。ひとつの文様に、ひとつずつ。

648

 目が晴れた。

 そうか、番人たちの村で、ラウ導師が住まっていた小屋だ！ 怒りの小屋では怒り、悲 おとず

しみの小屋では悲しみ、笑いの小屋では笑いを浮かべているのだと、ラウ導師は言ってい た。自分の勝手な気分で、訪れる〝旅人〟を迷わせないように、と。 なぞ

さぐ

 あれと同じことなのではないか。喜怒哀楽それぞれの座している文様の上で、それにふ いだ

さわしい感情を心に抱きなさいという、これは謎かけなのだ。

 喜び。ひとつ目の文様の上に両足で立つと、ワタルは目を閉じて、心の内を探った。幻 めぐ

界で巡り合った喜びの出来事。

 キ・キーマの顔が浮かんできた。番人たちの村を離れ、だだっ広い草原で、初めて彼に 出会ったときのこと。 つちぼこり

﹁おーい、おーい、そこのヒト！﹂

 呼びかけてきた元気な声。土埃を蹴立てて走る彼のダルババ車。バクワの実を食べ過ぎ こわ

るとおなかを壊すと教えてくれた。 すいじん

だ

か ら だ

 そしてワタルが〝旅人〟だと知ったときの、彼の手放しの大喜び。〝旅人〟は、俺たち

水人族にとって幸運の印なんだぜ！ ワタルを抱き上げて、大きな身体でぴょんぴょんは ま ちが

ね回った、キ・キーマの喜び。それは間違いなく、幻界に訪れたワタルが初めて味わった

喜びでもあった。心細い旅のはじめに、いっぺんで心を明るくしてくれた。

649

 シュンというような音がして、足の下の文様が消えた。ワタルはまばたきをした。同時

だま

どろぼう

に、クリスタル・パレスの門から、何かがカチリと外れるような音が聞こえてきた。  ひとつ目はクリアしたということか。

しの

 次は怒りだ。文様に乗るとすぐに、造作もなく浮かんできた。ミーナを騙し、泥棒の手

しんりょう

伝いをさせていたアンカ族の少年二人が、傷ついたミーナの休んでいる診療所へ忍び込み、 おど

彼女を脅しつけている。その光景を思い出すだけで、頭がかっと熱くなる。ミーナを守ろ うと、前後を忘れて診療所の窓から飛び込んだときのこと。  シュン。文様が消えた。また、カチリという音がした。 いま

なぐさ

はげ

 三つ目。悲しみは？ 喜怒哀楽の哀。思い出そうとするまでもない。あまりにも生々し な

やさ

かんしょく

く、未だ傷口から血を流している記憶。カッツの死だ。最後の最後まで、ワタルを慰め励 ほお

まそうと、頬を撫でてくれたあの優しい手の感触。  三つ目の文様も消えた。ワタルは四つ目の上に足を移した。 さと

うたげ

お い 

 楽しみ。ああ、数え切れないほどたくさんある。ダルババ車の上で聞いたミーナの歌。 む だ 

こうがい

サーカワの郷の水人たちとの宴。宿屋で囲んだ美味しい食事。休息のひとときのとりとめ のない無駄話でさえ、みんなみんな輝いている。 い

ぶ たい

 それらのなかから、ワタルは、マキーバの町の郊外で、スペクタクルマシン団の公演を み

観たときのことを思い出した。いつだって活き活きとしているミーナだけれど、舞台の上

650

あざ

ま

く

かるわざ

の

でこそが本領発揮だった。パックとコンビになって繰り広げる軽業の数々や、息を呑むよ み と 

うな高所での鮮やかな宙返り。花を撒きながら歌っていたエンディングでは、そのころに はくしゅ

はもう見慣れていたはずのミーナの顔に、照れくさいほどに見惚れてしまった。手が痛く なるくらい拍手したっけ。

と

 思い出してみれば、喜びも悲しみも、みんな仲間たちと過ごした時のなかにある。 ひび

じゅうこう

 シュン。四つ目の文様も消えた。四回目のカチリという音が聞こえ、閉ざされていた門

し か 

は、ワタルの腹の底に響くような重厚な音をたてて、ゆっくりと内側に開き始めた。 にぎ

 やった！ こぶし

 拳を握り、思わずその場でぴょんと飛びあがってしまった。解いてみれば易しい仕掛け じゃないか。 ふ

 でも、五つ目の文様はまだ残っている。

 念のために、もう一度その文様を踏んでみた。やっぱり何も感じない。これはワタルを から

迷わせるための、空のトラップにすぎないのだろうか。

 喜怒哀楽。ヒトの感情に、他には何がある？ 要求されていない以上、もう気にするこ とはないのか。  門は開いたことだし⋮⋮。

 ためらいは残ったけれども、自分には時間がないことも思い出した。ワタルは門の内側

651

へと足を向けた。心臓がどきどきしてくる。

 通り抜けるあいだだけ、周囲がすうっと暗転した。ほんの数歩のあいだだろう。でも、 なげ

ぬま

再び視界が明るくなったときには、周囲の光景は一変していた。  ここは嘆きの沼だ。 かく

かいぎょ

ひそ

 水晶で再現された、嘆きの沼の全景だ。のっぺりと平らな水面は、その下に、静けさで いんしつ

む

え もの

はなく陰湿な不安を隠している。それもそのはず、水のなかには怪魚カロンが潜み、ノコ とが

ギリのような歯を剥き出して、獲物を待っているのだ。周囲を取り囲む湿地にしょぼしょ しげ

たた

しび

ぼと茂る尖った草は、不用意に近づくヒトの手に傷をつける。足をとられて転べば、沼地 こご

うば

おそ

の泥に身体が凍える。しかも嘆きの沼が満々と湛えている暗黒の水は、ヒトの身体を痺れ させ、自由を奪う恐ろしい毒の水だ。  この沼を渡っていけというのか⋮⋮。

 おそるおそる一歩踏み出してみると、沼の水面はしっかりとワタルの足を受け止めた。

はら

凍りついているみたいに固まっている。そう、どんなに形はそっくりでも、これもやはり あお

水晶でできた模造品だからだ。それでもワタルは、蒼く静かな光を孕んだこの沼の水面下

にも、やっぱりカロンが泳ぎ回っているのではないかと、一歩ごとにビクビクせずにはい おど

られなかった。いつこの水晶の水面が割れて、カロンが躍り出てくるかもしれない。 だいじょうぶ

 大丈夫、大丈夫、そんなことはない。しばらくのあいだぎくしゃくと進んで、やっとワ

652

おそ

タルにも確信が湧いてきた。このままどんどん歩いて、向こう岸まで渡りきってしまえば それでいいのだ。 げんかく

 地上の嘆きの沼では、恐ろしい幻覚に襲われた。忘れようにも忘れられない。ワタルの

なかからもう一人のワタルが分かれて、父と父の愛人にそっくりな、ヤコムとリリ・ヤン

ヌという男女を殺してしまった。そしてそのもう一人のワタルは、ワタルの手にかかって ぼう

死んだ黒衣の女の腹から生まれ出た赤ん坊に、どこまでもどこまでも追いかけられたのだ。

ふ

 あれも沼の水の毒のせいだったのだろう。父さんや理香子にそっくりなヒトに出会い、 すき

し

彼らが幻界でも父さんや理香子と同じふるまいをし、同じ身勝手な理屈を振り回している しょうげき

ことを知り、その衝撃でできた心の隙に、暗黒の水が染みこんで、あんな幻覚を生んだの

だ。もう二度と嘆きの沼を訪れる機会などないと思っていたのに、こんな形で再び通り過 ぎることになるとは。 に

 早く渡ってしまおう。サタミやサラの顔も、思い出さないように心の目を閉じていよう。 うら

はいはいをしながらワタルへの恨み言を並べ、逃げても逃げても追いかけてくる赤ん坊の よみがえ

はら

記憶なんて、新たにすることはない。

 それでも蘇ってしまうものを振り払うために、ワタルは足を止め、強くかぶりを振った。 ちょうど沼の真ん中あたりまで来ていた。

ふち

 これは、地上の本物の嘆きの沼では、見ることのできない景色だ。湿地と茂みに縁どら

653

かんぺき

れて、嘆きの沼の形は、こうしてみると、ほとんど完璧な円に見える。

 ふと、おかしなことを思いついた。これってまるで円形の舞台みたいだ。ワタルはその 舞台に出ている、たった一人の役者みたいだ。

 観客は？ 陰気な湿地の空気と、薄暗い草むらか。パッとしないなぁ。  そのとき、どこからか呼びかける声が聞こえてきた。 〝旅人〟よ。  ワタルはとっさに身構えた。  幼き〝旅人〟ワタルよ。

もっ

 無機質な、色のついていない声だった。もしも水晶そのものがしゃべりだしたなら、きっ しっか 

とこんな声なのだろう。

・

あかし

・

め がみ

ごと

たましい

さ ま よ

ふる

 あなたが真に私の膝下を目指すものであるならば、その身を以て、あなたが勇者である ・

ことの、証をたてねばなりません。 ・

ゆうずつ

 私の膝下？ では、これは運命の女神の声なのか？ さと

 夕星が、野に遊ぶ子を母の手に連れ帰すが如く、分かたれし魂を、彷徨えるものを、故 郷へと呼び返しなさい。あなたのもとへと連れ返しなさい。  何を連れ返せというのだ？ 証を立てろとはどういうことなのだ？ あた

 ワタルに迷う時を与えずに、女神の声は宣言した。

654

ぼうぜん

つ

こ

 さあ、乗り越えなさい！  呆然と突っ立っていたワタルは、見た。 ひとかげ

 嘆きの沼の向こう岸から、何かがこちらに近づいてくる。

みょう

 小さな人影だ。歩み寄ってくる。一歩、また一歩と確実に。その足どりには妙に見覚え かた

あさおび

はさ

は

かかと

がある。頭の形、肩の角度。薄気味が悪いほどに見慣れた姿形。  なぜならそれは鏡像だから。 こし

 もう一人のワタルだった。 ぬ

ゆが

らんらん

ひとみ

 上着を脱ぎ、腰の麻帯に剣を挟み、履き古したブーツの踵の減り具合までそっくりその まま。

 違っているのは表情だけだ。不敵に歪んだ口元に、燗々と輝くふたつの瞳。頬骨の飛び や

出した痩せた顔や、ああ、よく見ればシャツの胸の前に、点々と血を飛び散らせて。

 嘆きの沼の幻覚のなかに現れたワタルの姿だ。ヒト殺し、赤ん坊殺しのワタルの姿だ。 まぼろし

 あれは幻だったはずだ。本物なんかじゃなかった。悪い夢だった。あんな事は起こらな うそ

かった。嘘だ、嘘だ、嘘だ！ たが

まつげ 

 おののきながら、ワタルはずるずると後ずさりした。もう一人のワタルは、着々と間を つ

詰めてくる。互いの顔がはっきりと、つと伏せた睫毛が頬に落とす影までもが見分けられ なめ

るほどの距離まで近づくと、今、迷いのない滑らかな動作で、勇者の剣を抜き放った。

655

 もう一人のワタルが口を開いた。飛び出してきたのは、嘆きの沼でワタルを追いかけた、 あの赤ん坊の声だった。 りつぜん

さと

﹁待っていたぞ、このヒト殺し﹂

・

けっとう

ダ ブ ル

 慄然として、ワタルは悟った。この再現された嘆きの沼の光景は、舞台なんかじゃなかっ ・

た。そんなもんじゃない。 ・

・

・

・

・

・

ふ

 闘技場だ。決闘の場だ。ここでワタルは、立ち塞がるもう一人のワタル、幻の分身と戦 ・

わねばならないのだ。 ・

 乗り越えなさい！ おもて

つか

 もう一人のワタルの足が、沼の面を蹴った。 あご

するど

 何も考えられなかった。勇者の剣の柄に手を触れることさえできない。次の瞬間には分 せま

あおむ 

たお

身が間近に迫り、その手のなかの勇者の剣が、ワタルの顎の下を鋭くかすめていた。ワタ いたずら

ルは腰が抜け、仰向けにどっと倒れた。勢いのついた身体が水面を滑る。 てんかん

 方向転換することもできず、徒に滑って手足をジタバタさせていると、先回りしていた さ

か け ら

分身の足にぶつかって止まった。まともに剣が振りおろされる。ワタルは声にならない悲

鳴をあげて横に転がった。分身の剣の切っ先が水面に突き刺さり、水晶の欠片がばっと飛 び散る。 は

 這うようにして何とか立ちあがると、今度は分身が後ろにいた。振りおろされる剣の動

656

よ ゆう

しずく

そ

きが巻き起こす風は、それだけでワタルの耳を削ぐほどに鋭い。血が飛び散った。

 痛みを感じる余裕などなかった。血の雫の温かみを頬に感じ、シャツに赤い染みが点々

と飛んで、ワタルと分身、分身とワタル、どちらが主でどちらが従なのか、どちらが本体

でどちらが鏡像なのか、混乱と恐怖でぐるぐる回る頭のなかでは、もう自分でも見分けが つかない。

 逃げるワタルのシャツの背中を、分身の腕がぐいとつかんだ。引き寄せられながら、ワ

タルは瞬間、自分から分身の方に体重を預け、体当たりで倒れかかった。 いっしょ

 分身とワタルは一緒くたになって倒れた。折り重なると、分身の身体の冷たさに、ワタ きょうがく

ゆうれい

ルは驚愕した。こいつは何だ？ 氷でできてるみたいじゃないか。 なぐ

 実体はあるのに、動き回っているのに、生きものではなく幽霊でもない。

こ

にく

 分身が腕を振りあげ、勇者の剣の柄でワタルの頭をぶん殴った。目から火花が出て、起

ののし

きあがろうとしていたワタルはくらくらとよろけた。 ﹁殺してやる！﹂ ふる

 分身がワタルの声で、ワタルの言葉で罵った。そこに込められた憎しみの波動が、ワタ ルの全身を震わせる。

 ワタルは勇者の剣をつかんだ。言葉など浮かばない。ただ願った。飛んで！ ワ   ー   プ

 瞬間移動魔法が発動し、またたきする間に、ワタルは沼の縁へと飛ばされていた。背中

657

ひざ

から落っこちて、もがくように立ちあがる。

え

 ようやく、剣を抜くことができた。膝からがくがくと崩れそうだ。バカみたいに手が震 えて、ぜいぜいと両肩であえいでいる。

 分身は沼の中央にいて、しゃくにさわるくらいすっきりと立っていた。歪んだ笑みも消 さ

えてはいない。ニヤニヤ笑いで口が裂けそうだ。どうして僕があんな顔で笑っているんだ？ ﹁お、おまえは﹂

 わななく口を動かして、ワタルは言った。両手で勇者の剣を構えた。戦う姿勢なんかじゃ ない。 いのちづな

 腰が引けて、命綱につかまるみたいに勇者の剣にしがみついている。 ま ほうだん

き せき

﹁おまえは、僕じゃない。僕じゃないんだ。おまえは存在しない。おまえは幻だ！﹂ よ

は

 ワタルは魔法弾を放った。輝く軌跡を残して宙を飛ぶ魔法弾を、分身は軽々と身をかわ

して避けた。最後のひとつの光弾は、分身の勇者の剣で撥ね返され、場違いな流星のよう に沼の上空へと飛んでいった。 さけ

﹁おまえは幻なんだ！﹂

 声を限りに叫んで、ワタルは分身に向かって突進した。分身もワタルめがけて走り出し

おおまた

た。突き出す勇者の剣が分身に届くかと思ったそのとき、分身は大股に飛びあがり、勇者

の剣を握りしめるワタルの手の上へと足をかけて、ワタルを飛び越えた。

658

ぶ ざま

 背後を取られた。しまった！ と思ったときには、したたかに背中の真ん中を蹴飛ばさ れ、無様に前のめりになって吹っ飛んだ。

 なんというスピードだ。これじゃどうすることもできない。絶望と無力感が恐怖にとっ

じゅもん

てかわり、ワタルはもう震えることさえできなかった。次はどうする？ どうしたらいい？ た ち う 

 何をすれば太刀打ちできるんだ。  結界！ い じ 

ふ か 

 とにかく身を隠すんだ。息苦しさをこらえて、ワタルは呪文を唱えた。それでなくても ど う き

激しい動悸に、結界を維持することでさらに負荷がかかり、心臓と肺が悲鳴をあげる。

 ワタルの姿が消えてしまうと、分身は目を細め、片手を腰に、片手に勇者の剣をぶらつ かせながら、にんまりと笑った。

 ワタルは結界に隠れたまま、じりじりと移動していた。何とかこのまま分身に近づいて、 剣を突き立てることができれば。 しょうもう

し かん

 消耗してゆく。息苦しさに目が飛び出しそうだ。頭のなかが真っ白になる。意識が飛ん でしまいそうだ。

 ヒトをバカにしたような弛緩した姿勢で立っていた分身が、ワタルに背を向けた。こち がんば 

らの姿が見えていないのだ。チャンスは今しかない。頑張れ、頑張るんだ！  あと三歩。あと二歩。あと一歩で分身の背中に剣が届く。

659

す ばや

じゃあく

 ワタルが剣を振り上げたとき、邪悪なニヤニヤ笑いをいっぱいに浮かべて、分身が振り 返った。 あざけ

﹁無駄だよ！﹂

 嘲りの言葉と共に、素早く剣が突き出される。両手で勇者の剣を握り、腕を振りあげて、

がら空きになっていたワタルの胸に、分身の剣が深々と突き刺さった。 も

 ワタルはがくりと口を開いた。止めていた呼気が漏れて流れた。両手を上げたまま、突 き刺さった分身の剣へと、ゆっくり、ゆっくり目を落とす。 せんけつ

 じわじわと鮮血がにじみ出し、シャツを染めてゆく。分身の勇者の剣は、柄のところま う

でワタルの胸のなかに埋まっていた。

 痛みは感じなかった。ただ、とても冷たい。分身の剣先がワタルの心臓にまで達し、分 じか

身の身体の冷たさを、直にワタルのなかに注ぎ込んでいるかのように。  僕は死ぬんだ。 あっけ 

 呆気ない結論だった。ここで自分の分身に倒され、血を流して死んでゆくのだ。 ひざがしら

 力が抜けて、両膝が折れた。膝頭が沼の水面にあたり、ワタルはぺたりと座り込んだ。

両腕が落ちた。それでもまだ勇者の剣をつかんでいたが、その切っ先は、両膝のあいだで 力なくうなだれている。

 胸の傷口から、乱暴に剣が引き抜かれた。その反動で、ワタルはどさりと横ざまに倒れ

660

た。

やつ

みじ

ゆ

おど

 ケラケラと笑い声が聞こえる。分身だ。最初は肩を揺すって笑っていたが、やがてこら あわ

かろ

えきれないようにおなかを押さえ、身体を折って笑い転げ始めた。 ﹁哀れな奴。惨めな奴。おまえはもうおしまいだ﹂ もど

したた

ち だ 

 くるりとワタルに背を向けて、向こう岸へと戻り始める。軽やかなその足どり。踊るよ うにステツプを踏みながら。

 片手にぶらさげた分身の勇者の剣の切っ先から、ワタルの血が滴っている。  ワタル。  ワタルの勇者の剣に宿る、宝玉たちが呼びかけてきた。  しっかりしなさい、ワタル。  女神の声を思い出して。  戦ってはいけない。  あの分身は、あなた自身。  女神の言葉を思い出して。

 傷口から流れ出す血が、水晶の水面の上にも広がってゆく。ワタルは自ら流した血溜ま りのなかに倒れている。  女神の言葉？

661

 薄れてゆく意識のなかで、暗黒のなかに滑り落ちてゆく前に、正気の縁にしがみつこう と、ワタルは必死に手をのばす。  呼び返しなさい。  分かたれし魂を、彷徨えるものを。 みなぎ

 憎しみを漲らせているワタルの分身。

 嘆きの沼で見た幻は、幻ではなかったのだ。あれはワタルの一部だったのだ。あのとき、

父に似た男と、父の愛人に似た女と、その二人のあいだに生まれようとする赤子を、ワタ ルは確かに僧んでいた。そしてこの手にかけたのだった。 そむ

 ただ、その事実から目を背けていただけで。  呼び返しなさい。  分かたれし魂を。  憎しみのあまりにヒトの命を奪ったあの分身を？ はし

 そうそうなんだ。あれはワタルなのだから。 ひじ

 頭を起こすと、口の端から血が滴った。力が入らない。ああ、もう周りは血の海だ。

 それでも肘をつき、身体を起こした。宝玉たちが呼びかけてくる。ワタル、ワタル、死 あきら

んではいけない。諦めてはいけない。 こ どく

 あなたの分身を、あのまま孤独にしておいてはいけない。認めなさい。受け入れなさい。

662

 ようやく沼の縁に座ることができた。分身はすでに対岸、湿地の茂みのなかへと姿を消 そうとしている。 ﹁おい！﹂  ワタルは呼びかけた。残された力をすべて集めて声にした。 へび

は や て

 分身が立ち止まった。蛇が身体の向きを変えるように、音もなくするりと振り返る。 ﹁まだ⋮⋮負けたわけじゃないぞ﹂

 ワタルの言葉に、分身の顔から薄ら笑いが消えた。再び剣を構えると、  受け入れなさい。 ほこ

 勝ち誇ったような叫びをあげて、分身は突進してきた。近づいてくる。疾風のようなそ のスピード。剣先が光る。 ふ

 ワタルは目を閉じ、分身に向かって静かに両腕を広げた。呼吸をひとつ。また新たな血 が噴くき出す。

おそ

 しかしワタルはひるまなかった。分身に向かって呼びかけた。心は平静だった。怖れる ことなどない。ただ呼び返すだけなのだから。  自分自身から分かたれた魂を。 かえ

 さあ、還ってこい！

 分身はワタルの身体に衝突し、その瞬間にかき消えた。ワタルのなかに吸い込まれ、ワ

663

タルと一体になった。 かみ

 分身の残した衝撃波が、ぱっとワタルの髪を散らした。強い反動に、ワタルは仰向けに 倒れていった。  嘆きの沼に、静けさが戻ってきた。

 まぶたを開けると、両手両足を大の字に広げて、ワタルは天上の空を仰いだ。身体の下 かた

かわ

に、嘆きの沼の水面の、硬い感触がしっかりと存在している。

こ 

 そっと手を動かし、胸に触れてみた。シャツは乾いていた。首を持ちあげてみる。傷口 など、どこにもなかった。  血溜まりも消えていた。  立ちあがってみた。両足はちゃんとワタルを支えてくれた。 ほほえ 

 生きているんだ。

 頬笑みが浮かんだ。温かな感謝が、身体の内側を洗ってゆく。片手を胸にあてると、鼓 どう

動を感じた。

 嘆きの沼で別れて以来、ずっと一人歩きを続けていたワタルの〝憎しみ〟が帰ってきた。 やっと故郷に、ワタル自身のもとに戻ってきた。

 ワタルはやっと、理解した。この決闘場に来るために、通らなければならなかった扉。 かぎ

それを開ける鍵となっていた五つの文様。喜怒哀楽の四つの他に、何も反応しなかった五

664

つ日の文様が、﹁憎しみ﹂だったのだ。

 ずっとずっと、ワタルはそれを遠ざけていた。自分のものではないと、自分に嘘をつい てきた。

 父さんを憎んでいるなんて、思いたくなかったから。そんな気持ちがあることを、どう しても認められなかったから。自分で自分を騙していた。 いつわ

 でも、その偽りが﹁憎しみ﹂に満ちた分身を生み出し、一人歩きをさせていたのだ。 ﹁お帰り﹂ つぶや

 自分自身の心に向かって、ワタルは優しく呟いた。 は

きり

 震えを帯びたため息を吐き出し、立ちあがった。勇者の剣を腰に収める。

あわ

 そして、周囲を流れる霧に気づいた。さっきまでは霧なんてなかったのに、どこから立 なみだ

ぬ

ちのぼっているのだろう。嘆きの沼の水面を、すっぽりと覆っている。淡く輝き、ひそや かな涙のように、しっとりと濡れている。 みは

 ワタルは両目を瞠った。

 嘆きの沼の中央に、霧の流れのその中に、黒いローブが落ちている。くしゃくしゃになっ

たローブ。その端から、ブーツの先がのぞいている。乱れた髪がのぞいている。  ミツルだ。

 ワタルは駆け出した。夢のなかで走っているみたいに、なかなか先に進まなかった。滑

665

あせ

らかな水晶に足を取られる。もどかしさに焦り、泳ぐように両手で霧をかき分ける。 ﹁ミツル！﹂

 叫びながら身を投げ出して、倒れているミツルに飛びついた。最初は、まるで感触がな かった。

 霧をかき混ぜるだけで、何も手に触れてこない。確かに黒いローブが見えるのに、影を つかもうとしているみたいだ。 ﹁ミツル、ミツル！﹂ けんめい

 呼びながら、懸命に手探りをした。そのうちに、ミツルの実体がはっきりとしてきた。 しょうてん

映像でしかなかった姿に、血肉がついてきた。焦点が合ってきた。  やがてワタルは、両腕でミツルを抱き上げていた。 そうはく

 ミツルの顔は蒼白で、目は閉じていた。顔じゅう傷だらけだ。腕はだらりと垂れている。

かげ

つえ

どさりと投げ出された両足。左足首が、変な方向に曲がっている。折れているのかもしれ ない。 ﹁ミツル、しっかりしろ、ミツル﹂

 ミツルの身体を揺さぶると、黒いローブの陰から、まっぷたつに折れた魔導の杖が転が り落ちた。

むご

 この血の気の失せた顔、このぐったりとした身体。腕のなかのミツル自身の惨い有様よ

666

りも、無惨に折れた魔導の杖が、ワタルに事実を突きつけ、確信させた。  ミツルは負けたのだ。

 ミツルもやはり、彼にとっての嘆きの沼で、彼の分身と戦ったのだ。そして敗れたのだ。 ﹁ミツル⋮⋮﹂

はる

 今なら、ワタルにもわかる。知りたくないことだけれど、逃げることができないほどに、 はっきりとわかってしまった。

 一人歩きを続けていたミツルの憎しみは、ミツル自身よりも遥かに巨大に成長してしまっ

たのだ。だからもう、ミツルにはそれを呼び返すことができなかったのだ。憎しみが、ミ ツルの本体をうち負かしてしまったのだ。  幻界なんか、どうなろうと知るものか。 とう

いと

 運命の塔へ行くことができればいいんだ。  そのためにはどんな手段をとることも厭わない。

 固い決心。強い意志。そして〝旅人〟に与えられた宝玉の力が生む、強大な魔力。ミツ あやつ

とこやみ

ふういん

ルはそれを自在に操って旅を続けてきた。多くのヒトを傷つけ、町を破壊し、嘆きを生み、 とうとう最後には常闇の鏡の封印を解いて。

 それはみんな、ミツルのしていることだと思っていた。ワタルだけでなく、ミツル自身

もそう思っていたはずだ。だけど真実は違っていた。破壊も、殺意も、他者を踏みつけに

667

はばか

ごうまん

して憚らない傲慢も、ミツルのものではなかった。ミツルの憎しみを背負った、分身のも

のだった。ただその憎しみが、あまりにもミツルの心に等しいものだったので、いや、憎

しみ以外のものは自分にはない、それ以外のものなど必要ないと、ミツルが自分で自分を

騙していたから、いつの間にかミツルには、憎しみの分身と、自分自身の区別がつかなく なってしまっていたのだ。 ほか

 ワタルが最初、そうしたように、ミツルもまた自らの分身を倒そうとしたのだろう。し かしそれは、自分で自分を倒すことに他ならなかった。

 出し抜けに、ワタルの目から涙が落ちた。ミツルの痩せた顎の上に落ちた。  まぶたが震え、ミツルは目を開いた。

 ワタルは声を出すことができなかった。しゃくりあげそうになるのを、必死でこらえる せいいっぱい

だけで精一杯だ。

 ミツルの黒い瞳が、かなり手間取り、苦痛をこらえて意識を集中し、やっとワタルの顔 の上に焦点を結んだ。 ﹁⋮⋮おまえか﹂

 ワタルはうなずいた。何度も何度もうなずいた。うなずくたびに涙が落ちた。 ﹁どうしてだよ﹂

 先生に居残りを命じられて、文句を言うみたいな口調だった。それはやっぱり、ミツル

668

らしかった。 ぶ ざま

﹁ここまで来て⋮⋮なんでこんなことになるんだ？ 無様じゃないか﹂

 あとひと息だったのにと、かすれる声でミツルは言った。目が天上の空を向く。

﹁運命の塔が見えていたんだ。すぐそこまで来ているんだ。それなのに⋮⋮﹂

す

 しゃべっちゃいけないと、ワタルは言った。抱きかかえていると、ミツルの身体が、も

う快復のすべがないほどに、こっぴどく痛めつけられているのがよくわかった。

﹁三谷﹂と、ミツルは呼びかけた。ワタルは彼を見た。もうひとりの〝旅人〟の、澄んだ 瞳のなかをのぞきこんだ。 ﹁何がいけなかったんだ？ 俺はどこで間違ったんだろう？﹂

 速く走る者が先に運命の塔にたどり着くわけではない。サーカワの郷の長老は言ってい

た。女神さまはまだおまえを待っていると、あのソレブリアの廃墟を前にしても、キ・キー マは僕を励ましてくれた。

 ワタルの行くところには、どこにだってついてゆく。けっしてワタルを一人にはしない。 ごうじょう

わたし、そう決めたんだから。そうやって、強情なほどにワタルのそばにいてくれたミー

ナ。そしてとうとう別れる時には、固くワタルを抱きしめて、気をつけてね、気をつける ささや

んだよと、祈るように囁いたミーナ。  僕には仲間たちがいてくれた。僕の道を照らす光に守られていた。

669

ざんこく

 だけどミツルは一人だったね。独りぼっちの旅だった。ミツルが道を踏み外していても、 それを教えてくれるヒトはいなかった。

こ

 それがミツルの望んだやり方だったとしても、あまりにも不幸だ。あまりにも残酷な結 果じゃないか。 ﹁ごめんよ﹂ ゆる

 僕には今、それしか言えない。赦しを請うためではなく、ミツルと共に歩まなかったこ

とを、たとえラウ導師の教えに背いたとしても、ミツルと一緒に旅をしなかったことを、 あやま

それは大いなる過ちだったと、自分自身に認めさせるために。 ﹁なんでおまえが謝るんだよ﹂

 ミツルは笑おうとしていた。鼻先でワタルをあしらうような、あの強気の笑みを浮かべ ようとしていた。

﹁おまえは勝ったんだ。もっと喜べよ。なんで泣くんだよ。最後の、最後まで、おまえっ ひとよ 

て⋮⋮ホントにお人好しだな﹂ ﹁最後だ、なんて、い、言わないで﹂ ﹁嘘はつけない﹂  ミツルの口調が、急に優しくなった。

﹁俺は負けた。ここで死ぬんだ。運命を変えることは、できなかった﹂

670

じ ごう

どうさつ

 自業自得なんだろうなと、小さく呟く。ワタルと同じ洞察を、もちろん、ミツルももう 手にしているのだ。 ﹁だけど俺は、運命の塔へ行きたかった﹂

 どうしても、どうしても、どんなことをしても、行きたかったんだ。

﹁わかってるよ﹂と、ワタルは言った。﹁他の誰にもわからなくても、僕にはわかる。わ かってるよ、ミツル﹂  目を閉じて、ミツルは頬笑んだ。 ほう

﹁さあ、行けよ。宝玉を持って、俺のことなんか放って、行っちまえよ﹂ いや

あら

﹁い、嫌だよ。ミツルを一人で残していくなんて、嫌だ﹂ ﹁バカ。いい加減にしろ﹂ けいれん

 ミツルの身体が痙攣した。呼吸がぐっと詰まり、荒くなる。 ﹁⋮⋮俺は、一人でいい﹂ さいご 

 意地を張っているのではない。ミツルだから、最期までミツルらしくふるまうだけ。  死にゆくときも。

 ミツルの身体を揺さぶらないように、できるだけ優しく、慎重に手を動かして、ワタル

は、ミツルを抱きおろし、嘆きの沼に横たえた。支えを失い、目を閉じて長々と横たわっ たミツルは、いっそう死に近づいたように見えた。

671

 もう、ワタルにできることはない。ミツルは一人にしてほしがっている。

 そのときふと、心のなかに、ある光景が浮かんだ。カッツと別れたときの、あのしんと した森のなかで││ ﹁ミツル﹂ ﹁何だよ﹂ い

﹁最後に、お祈りをさせてもらえないか﹂ ﹁祈りなんか⋮⋮要らない﹂ ﹁僕が、そうさせてほしいんだ﹂

 ミツルは目を開いた。瞳がワタルをとらえた。お願いだと、ワタルは言った。 ﹁ふん、好きにしろ﹂

はな

み もと

 ワタルは右手をのばし、ミツルの手を取った。左手をミツルの額にあてた。  祈りの言葉、覚えているだろうか。 そら

 たどたどしく、ワタルは諳んじた。 ちりあくた

﹁我ら、女神さまの申し子。地上の塵芥を離れ、今まさに御許に昇らんとす﹂ みなもと

きよ

たま

 ミツルはまた目を閉じてしまった。ワタルはその額を撫でた。 おや

﹁我らの祖にして源なる、浄き光よ。旅立つこの者を導き給え﹂  指と指を組み合わせて、しっかりとミツルの手を握る。

672

のど

﹁小さき子よ、地上の子よ。神のご意思に背いたことを悔いているか﹂ おさ

・

・

・

・

・

きょ

 くちびるが震え、言葉はぎくしゃくとおぼつかない。声を出すと、喉の奥が熱くなる。 ちんもく

また泣きだしちゃいけないと、ワタルは懸命に自分を抑えた。間があいた。 こた

いさか

 ワタルの乱れた呼気だけが聞こえる、長い沈黙。すると、ミツルの口元が動いた。 お えつ

﹁はい﹂と、言った。祈りに応えて、はいと言った。悔いていると言った。 ぎ 

ぐ もう

つみ

 涙が込みあげてくる。嗚咽を押し返して、ワタルは続けた。﹁時に争い、時に諍い、虚 偽に躍り、愚蒙に走り、ヒトの子の罪を重ねたことを悔いているか﹂ たま

 わずかな間のあと、ミツルは﹁はい﹂と答えた。 おのれ

あふ

め

﹁偽り、己の欲に従い、女神さまの与え賜いし人の子の栄光に、顔を背けたことを悔いて いるか﹂ ﹁⋮⋮はい﹂  どうしても止められない。涙が溢れる。 ゆる

﹁ここに深く悔い改め、地上のあなたの罪は赦された。安らぎなさい、ヒトの子よ。召さ と わ 

れゆくあなたを、永遠の光が包むだろう﹂

 ぼろぼろと涙をこぼし、泣きながら、ワタルは祈りをしめくくった。

﹁ヴェスナ・エスタ・ホリシア。ヒトの子の生に限りはあれど、命は永遠なり﹂  ミツルはゆっくりと、痩せた頬をほころばせた。

673

﹁最後の⋮⋮﹂ ﹁え？﹂ ﹁ヴェスナ・エスタ・ホリシア。どんな意味か⋮⋮わかる、か？﹂  ワタルはかぶりを振った。 ﹁〝再びあいまみえる時まで〟という、意味だよ⋮⋮﹂  目を閉じたまま、ミツルは囁いた。 ﹁さよなら﹂  何度目のサヨナラだろう。  今度こそが本当の別れだ。

と

 ミツルの姿が薄れてゆく。再び、霧が集まってきた。抱くように、やわらかく彼を包ん でゆく。

 ミツルは霧に溶けてゆく。それに従い、霧は明るさを増してゆく。ミツルの命を吸い込 じょうか

み、浄化してゆく。 りんかく

 薄れてゆくミツルの輪郭を、その場にひざまずき、言葉もなくただ涙をこぼしながら見

つめていたワタルは、そのとき、頭上からゆっくりと射しかけてくる、ひと筋の光に気が

ついた。掌ほどの大きさの、スポットライトのような光だ。淡い金色に輝き、温かみに溢

れて、霧に溶けてゆくミツルの方へと、まるで手を差しのべるかのように降りてくる。

674

 ミツルもまた、その光の感触に気づいた。霧に包まれた彼の頭が動き、顔がわずかに持

ち上がる。眠たげに閉じられていたまぶたがかすかに開く。小さな光の輪は、その瞳をの ぞきこむように優しく照らす。  この光││。これは││これは、もしかしたら││ の

 瞬間的な洞察に、ワタルは思わず息を呑み、そして自分の口元がほころぶのを感じた。 傷ついた心に喜びと安堵が満ち、溢れ出てくる。

 ヒトは死んだら光になる。光になって、地上を照らす。やがて生まれ変わるその時まで。

 この光はきっと、ミツルの妹だ。幼いミツルの妹が、彼がどうしても現世へと連れ戻し

ほほえ 

てやりたかった妹が、運命を曲げてもその命を取り戻してやりたいと願った妹が、今、ミ ツルのもとにやって来た。  彼を迎えにやって来た。

またた

 ミツルにも、それがわかったのだ。うっすらと微笑む。力の抜けた指先が、光の描く小

さな輪に向かって動く。幼い妹と手をつなごうとしているかのように。 ﹁兄さんと一緒に行くんだね？﹂

 光に向かって、ワタルは小さく呼びかけた。金色の光が、一瞬、うなずくように瞬いた。

 やがてミツルの姿は完全に消え、ひとかたまりの、まばゆく輝く霧となった。金色の小 じょうしょう

さな光の輪はそれを包み込み、それを導きながら、静かに上昇を始める。

675

のぼ

 ワタルは膝立ちになったまま、頼りなく羽ばたく小鳥を守るように両の掌を広げ、天上 へ、天上へと昇る兄妹の魂の光を見送った。 ひとしずく

 すべてが終わると、嘆きの沼を覆っていた霧も消えた。ワタルの顎の先から、最後の涙 の一滴が落ちた。

 ワタルは、足元に落ちている魔導の杖を拾い、ゆっくりと立ちあがった。 うすむらさきいろ

たかみ 

 魔導の杖の頭についた宝玉が、薄紫色に光っている。やがて、その宝玉からひとつ、ふ

たつ、みっつ、よっつの光点が現れて、ミツルの後を追うように、天の高処へと昇っていっ た。 ただよ

 最後にひとつだけ残った光点が、ワタルの目の高さに漂っている。ワタルは勇者の剣を 抜いた。  闇も光も、勇者よ、あなたと共に。  闇の宝玉に宿る力が、ワタルに囁きかけてきた。 つば

 勇者の剣の鍔に刻まれた星の文様に、最後のひとつの宝玉が収まってゆく。

 剣の付け根から切っ先に向けて、力強いエネルギーが駆け抜けた。それはワタルの腕を 伝い、ワタルの心まで届いて力を与えた。  勇者の剣に五つの宝玉を集めて、ここに〝退魔の剣〟は完成した。

 ワタルは顔をあげた。嘆きの沼を渡ったところ、そこに何が立ち現れているか、わかっ

676

ていた。 ふところ

ら せん

 運命の塔が、その懐を開き、頂上へと続く長い長い螺旋階段の登り口をワタルに向けて、 静かに差し招いている。

677

きょだい

とう

 55 運命の塔     へきめん

はば

ら 

 中空の巨大な塔の壁面に沿って、かろうじてワタル一人が歩けるくらいの幅しかない螺 せん

旋階段が、果てしなく上へ上へとのぼっている。 ず かん

め まい

 科学図鑑で見たことのある、ＤＮＡの二重螺旋の模型を思い出した。こちらの階段は一

あお

重しかないけれど、あまりの高さにふらりと目眩をおぼえると、それがにじんで二重にも ぬ

三重にも見えて、ますますよく似てくる。 かがや

す

クリスタル

とうめい

 運命の塔もまた、これまでに通り抜けてきた町や都のコラージュと同じく、内側から蒼 ま ちが

ふ

い輝きを放つ透き通った水晶でできていた。手すりのない階段は、どこもかしこも透明で、 きょり かん

かべ

ふ

うっかりすると距離感を失ってしまいそうだ。間違っても足を踏み外したりしないように、 ワタルは右手で壁に触れながらのぼっていった。 れいり 

となり

 輝きは怜悧なのに、触れるとほの温かい。目をやると、ワタルの顔が映る。 ・

・

・

・

ぼう

だ

 いや⋮⋮ワタルの顔だけじゃない。その隣、水晶の壁面の奥で、笑っているあの顔は？  母さんだ。ワタルは足を止めた。母さんの姿が映っている。 かみがた

 今よりも若い母さんだ。髪型が違う。パステルカラーのセーターを着て、赤ん坊を抱い だれ

て笑っている。赤ん坊？ あれは誰？

678

ち の 

あご

か

さわ

 僕だ。僕自身だ。やっと首がすわったばかりの乳飲み子。小さな手で母さんの顎に触ろ

うとしている。いないいない、バア！ あやしてもらって大喜びしている。 う

 何段か上の壁面に、別の映像がおぼろに浮かび上がり、動き始めた。ワタルは駆けのぼっ は

けんめい

た。今度は誰だ？ 父さんだ。夏の日の市営プール。ワタルに泳ぎ方を教えようとしてい にぎ

る。両手を差し出してワタルの手を握り、バシャバシャと水を撥ね上げながら懸命にバタ はげ

がんば 

おも

足をするワタルを励ましている。ゆっくりと後ろに下がりながら││そう、もうちょっと でプールを横断することができる。ワタル、そら頑張れ。 いろど

 次々と、壁面を彩って過去の映像が浮かび上がる。ワタル一人のために用意された、想 はな

かた

かばん

い出を上映する映画館さながらに。ワタルは壁面から目を離すことができないまま、ひと つひとつの映像を目に焼きつけつつ、螺旋階段をのぼっていった。 ようち えん

 やがてカッちゃんが現れた。ワタルと同じ幼稚園の園服を着て、肩から黄色い鞄をかけ しか

ている。そわそわと落ち着かないカッちゃんは、ワタルにふざけかかったりしては小村の お ば 

小母さんに叱られている。覚えている。この光景。入園式の後で、幼稚園の門のところで さつえい

記念撮影をしたのだった。  再現されてゆく過去の出来事。

いっしょ

 雨の日の遠足。運動会のお弁当。冬の日に、カッちゃんの家のコタツにもぐって一緒に こ ねこ

宿題をした。拾った子猫を家に持ち帰り、うちでは飼えないと叱られて、泣き泣き公園ま

679

めんどう

かか

おそ

さが

で捨てに行った。抱えている段ボール箱。その夜、遅く帰ってきた父さんが、ワタルがき

ちんと面倒を見ることができるなら飼ってもいいと許してくれて、一緒に公園まで捜しに

か 

いった。だけどもう子猫の入った段ボール箱はなくなってしまっていた。誰かが拾ってく

れたんだよ、安心しろ。あのとき、父さんはワタルをおんぶしてくれた。 はいえん

あざ

 イタズラばっかりしていて、母さんにベランダに閉め出され、わんわん泣いたこと。風 ぜ 

そ

そうはく

邪をこじらせて肺炎になりかけ、夜中に救急車で病院へ運ばれたこと。鮮やかな映像となっ

て映し出されてゆく。付き添ってくれた母さんの蒼白な顔。カッちゃんが小村の小母さん み ま 

と一緒にお見舞いに来てくれた。小母さんはしきりと謝っていた。うちの子はバカみたい じょうぶ

に丈夫なもんだから、ワタルちゃんに無理させちゃって。そう、雨の日にサッカーをやっ たのがいけなかったんだね。

ぶくろ

 マンションの中庭で、父さんとキャッチボールをしている。そこへ母さんが、買い物袋

をぶらさげて通りかかる。父さんからボールを取りあげ、ちょっと投げさせてと大暴投。 まど ガ ラ ス

一階の奥のお宅の窓硝子を割っちゃって、三人でペコペコ謝りに行って、父さんにからか ぬす

われた母さんは逆ギレしちゃって、その日はずっとプリプリしていた。父さんとワタル、

母さんの目を盗んでそっと視線をかわし、笑いをこらえるのに苦労した││

 ワタルはまだ十一年とちょっとしか生きていないのに、その年月のなかに、こんなにも

たくさんの想い出が詰まっている。人の心は底なしの不思議な入れ物だ。何でも入る。い

680

つでも取り出すことができる。

つの

 さらに階段をのぼってゆくと、ミツルが現れた。神社で出会ったときの、あのぶっちょ づら

かんぬし

う面。〝ここは神域なんだ〟と、大人びた口調でワタルに言った。

 おや、神主さんの姿も見える。ワタルは神主さんに乱暴に何かを言い募り、それから鞄

うで

をつかんで走り出す。あれはそう、神様はホントにいるの、いるなら、何ぼさっとしてる お ば 

んだよなんてことを言ったときだったろうか。

と ほう

 そして見えてきた。ミツルの叔母さんの顔だ。腕にはめていた銀の細いバングルを覚え まいご 

ち ば 

ば あ 

ている。ミツルの身を案じながらも、迷子になった小さな女の子のように途方にくれてい お じ 

た。こうしてみると、本当に皇女ゾフィによく似ている。

まぎ

 運命の塔の透き通った壁面は、ルウ伯父さんの姿も映している。千葉のお祖母ちゃんの

やみ

家の庭で、一緒に花火をしたときの光景だ。ルウ伯父さんは、夜の闇に紛れると、どこに

ふ

いるのかわからないくらいに日焼けしている。にっと笑うと、真っ白で頑丈そうな歯並び お か 

ゆが

に

だけがぽっかりと浮かび上がり、それが可笑しくてワタルは笑い転げた。今でも吹き出し そうだ。

 それなのに次の映像では、ルウ伯父さんの顔が歪んでいる。ベッドの下に逃げ込んでし

よみがえ

まったワタルに呼びかけている。出ておいでと呼んでいる。胸の痛みが蘇る。僕はあのと

き、これほどの悲しみを、ルウ伯父さんに味わわせてしまっていたんだ││

681

ゆ

ヴィジョン

くわ

えり

 あの上の方で揺れているのは？ ワタルだ。カルラ族に襟の後ろをつかまれて、危なっ さ ばく

かしくぶらさがっている。まだ〝幻界〟のことを詳しく知らないうちに迷い込み、ねじオ ぎょしゃ

オカミたちの巣くう不帰の砂漠に迷い込んでしまったときの出来事だ。

 キ・キーマが御者台にいる。ダルババ車に乗り込んで、草原を駆けてゆく。ワタルはそ

の隣で、馬車の揺れに今にも振り落とされそうだ。壁面のなかを駆けあがってゆく想い出 のダルババ車を追いかけて、ワタルもまた階段を駆けのぼる。

ま ぞく

か

きば

む

かぎづめ

 そこで、壁面が急に暗くなった。闇ではない。ただ真っ黒なものが、数え切れないほど つ

たくさんうごめいている。飛び交っている。 おお

 空を覆い尽くす魔族の群だ。しゃれこうべを思わせる不気味な顔に牙を剥き出し、鉤爪 をカチカチとかち合わせる音まで聞こえてきそうだ。 おそ

い

 これは││今の幻界の光景だ。 へり

しゅんじ

 恐ろしさと忌まわしさに、ワタルは両腕をだらりと垂らしたまま、ふらふらと壁面から かかと

後ずさりをしかけた。ブーツの踵が階段の縁にかかり、バランスを失いかけて、瞬時に我 に返った。 かす

ふ

 いつの間にか、こんな高いところにまで登っていた。塔の出入口が見えなくなっている。 はる

遥か眼下の下界はぼんやりと霞み、かすかに吹きあげる風だけが、そこに距離と空間のあ ることを教えてくれる。

682

き おく

たる

ばんそう

 再び塔を登り始める。記憶を再現する映像も、ワタルを伴走して登ってゆく。

あお

 ガサラの町だ。あちこちに、家具だの木箱だの樽だので構成された、不格好なバリケー き し 

ドが造られている。物見台の上には見張り番が立ち、険しい顔で空を仰ぐ。街路を駆け抜 けてゆくシュテンゲル騎士団の先頭に立つのはロンメル隊長だ。 か な た

けん

いっせい

たいまつ

とも

 ガサラを取り巻く草原の彼方に、ひとかたまりの黒雲が現れる。みるみるうちにふくら に おうだ 

おの

んで、近づいてくる。隊長たちが剣を抜く。一斉に松明が灯る。キ・キーマが屋根の上に

りゅう

仁王立ちになり、斧を構える。ミーナ、あれはミーナだ。お年寄りや子供たちを、安全な 地下室へと逃がしている。 か ら だ

とうし 

たた

こ

 壁面が揺れて映像がにじむ。と、今度はドラゴンたちの島が現れた。龍の首の形をした は

しわが

火山島から、ドラゴンたちが飛び立ってゆく。燃えるような身体に闘志を湛え、空をも焦 ほのお

あやつ

おき

こわ

がす炎の息を吐き、わらわらと飛び嗄れ声で鳴き交わす魔族の軍団へと突っ込んでゆく。 あり

へ さき

 ソノの町ではヒトびとが、船を操って沖へと逃げ出してゆく。ミツルの魔法で打ち壊さ みにく

なつ

しんこう

れた町並みに、醜い蟻のように魔族がたかっている。どの船も舳先までヒト、ヒト、ヒト まんぱい

で満杯だ！

 ワタルの知っている懐かしい幻界の町が、村が、魔族に侵攻されている。今、この瞬間

にもあの町で、この村で、勝ち目のない必死の戦いが行われている。運命の塔の壁面は、 その事実をワタルの目の前に突きつける。

683

 急がなくちゃ！ 延々と続く戦いの映像に心をひっぱられながらも、ワタルはしゃにむ に螺旋階段を駆けのぼった。 とつぜん

うつしよ

 すると突然、階段が途切れた。ここが終着点か？ 塔の頂上だろうか。

えが

 幻界と現世をつなぐ、あの文様の形をした広間に出た。星形の頂点が、それぞれに異な る色合いに光っている。ワタルはその中央へと進み出た。 がっしょう

ちゅうけい

 星形の文様のてっぺんが指し示す先には、優美な縦長の半円を描くアーチがある。よく

見ると、塔の頂上と同じ、合掌するヒトの手の形を模したアーチだ。ここは中継地点、通 め がみ

り抜ければ、女神のいる場所へと行くことができるのか。  アーチの方へと足を踏み出しかけると、背後で声が聞こえた。 ﹁ワタル﹂ かた

はし

たたず

 甘い声だ。女の子の呼び声だ。一瞬身を硬くしてから、ワタルは振り返った。

 いったいどこから現れたのだろう。星形の文様の端に、少女が一人、佇んでいた。 ﹁ワタル、やっと会えたわね﹂ ようせい

やさ

 聞き覚えのある声だ。何度となくワタルに話しかけてきた。現世でも、幻界に来てから ぎわ

たお

そそのか

も。ワタルはこの甘い声の主を、妖精だと思っていた。でも、この優しげな愛らしい声が、 さと

サーカワの郷の波打ち際で、﹁女神を倒せ﹂と唆してきたことを、ワタルは忘れていなかっ た。

684

つ

 敵なのか味方なのか。目的も正体も明らかにしないまま、ずっとワタルにつきまとって きたこの声││ おどろ

ほほえ 

さ

 驚きのあまりまばたきをすることさえ忘れ、息を詰めて、ワタルは少女の顔を見た。 ひとみ

 なぜなら少女が、大松香織その人に生き写しだったから。 きゃしゃ

 ほっそりとした手足。華奢な首。大きな黒い瞳。その美しい顔に頬笑みを咲かせて。 か い 

﹁待っていた甲斐があったわ。よかった！ あなたなら、きっとここまでたどり着けると 信じていたの﹂

まゆ

 親しげにそう言って、少女は近寄って来る。ワタルは、彼女が詰めてきた距離の分だけ、 しんちょう

慎重に後退した。

こわ

 少女は足を止めた。新品の筆みたいな、きれいな曲線を描いている眉が、ちょっと持ち あがる。 ﹁どうしたの？ そんな怖い顔をして﹂

こし

ぶ とう

 様々な問いかけのなかから、ワタルはひとつを選んで投げかけた。﹁君は誰？﹂ ﹁わたし？﹂と、少女はおどけたように両手を広げ、 かたひざ

﹁この姿、気に入らない？ 喜んでくれると思っていたのに﹂ すそ

 スカートの裾をつまむと、軽く片膝を折って腰をかがめた。正装して舞踏会に出席した あいさつ

少女が、初めてのダンスのお相手に挨拶するみたいに。でもここは舞踏会の会場じゃない。

685

ふ だんぎ 

少女もドレスを着てはいない。うろ覚えの記憶だけれど、ワタルが初めて大松ビルの前で しょうてん

会ったときの香織と同じ服装だ。こざっぱりとして清潔な、中学生の女の子の普段着姿。 くるまい   す  

その格好で、現世の香織は車椅子に座っていた。瞳は焦点を失い、周囲に誰かいることさ え気づいてはいなかった。 たましい

 それも当然だった。香織の魂は、この天上の水晶の都に閉じこめられていたのだから。 かろ

ついさっき、ワタルがそこから解き放つまで。 つや

 軽やかに歩み、くるりと回ってみせる、目の前の大松香織。スカートがふわりとふくら ひざがしら

み、丸い膝頭が艶やかに光る。そんな姿を、ワタルは今初めて目にする。

 いかにも香織らしく、しかし絶対に香織ではない存在。これは誰だ？  正体は何だ？ うれ

﹁君は何度も、僕に話しかけてきたよね﹂

 少女は嬉しげにくすくす笑った。照れている。﹁覚えていてくれたのね？ 嬉しい﹂ ﹁忘れるわけないよ﹂ たの

 最初のうちは好ましく思えた。頼もしくも思えた。妖精だとばかり思いこんでいたとき には。しかし、今はまったく違う。

﹁君の目的は何だ？ 何のために近づいてきたんだ？ 君は僕に何をさせようというん だ？﹂

686

け しき

こぶし

﹁ずいぶん気色ばんだ声を出すのね﹂ ま ね 

﹁当然じゃないか﹂ワタルは拳を握った。 きら

しゅみ 

﹁香織さんの姿を真似て出てくるなんて、趣味の悪いことをして！﹂

﹁あら、嫌いだった？ だけどあなたの心には、いつもこの女の子がいたじゃないの。い つもこの女の子のことを、あなたは気にしていたじゃないの﹂

 そうだったろうか？ 香織のことを？ 僕が？ そんなはずはない。忘れていた││そ む く 

うた

れとも、それは単に意識していなかっただけなのだろうか。 うば

﹁奪われし無垢の魂﹂ たくせん

ぎ せい

 少女はすらりと姿勢を正し、託宣するように謳いあげた。

なぞ

﹁不当にも傷つけられ、歪められし運命の犠牲者。そう、あなたと同じ身の上の、現世の この少女││﹂  だからいつも、香織のことが心にあった。 え

 ワタルは身構え、呼吸を整えた。借り物とはいえ、ようやく姿を現した謎の声の持ち主 するど

は、どれほど鋭くワタルの心を読んでいようと、どれほど甘い笑みを浮かべていようと、 けっしてワタルの味方ではない。 き

﹁もう一度訊く﹂と、ワタルは声を強めた。 ﹁君の目的は何だ？ また僕に、女神を倒せと唆すのか？﹂

687

は

うす

 少女はまるで寒気をこらえるかのように、我と我が腕で華奢な身体を抱きしめた。薄い 笑みはまだその顔から剥がれ落ちない。 ﹁知りたい？﹂ ﹁ああ、知りたい﹂ ﹁教えてほしいの？ どうしても？﹂ ﹁どうしても﹂ ﹁それなら約束してちょうだい﹂  黒い瞳が燃えあがる。

ひび

﹁このわたしの正体を見ても、わたしを嫌いにならないと。わたしの姿を見ただけで、わ おど

たしを遠ざけたりはしないと﹂ こんがん

ふ

みは

 その言葉は懇願ではなく、脅しのような響きを持っていた。少女はワタルの返事を待た ず、ゆっくりと顔を伏せた。 う

 その身体が急に縮み始めた。香織の姿が消え失せてゆく。目を瞠ったワタルは、さっき かげ

まで少女の立っていたところに、歪んだ円形の小さな影だけが落ちていることに気がつい た。 てのひら

 その影から、ぬるりと黒い手がのびた。丸太ん棒ほどの太さだ。まず右に。次に左に。 う ち わ

団扇のような掌がべろべろと空をかく。ヒトの手ではない。形は似ているけれど、あの不

688

きゅうばん

ゆか

格好な指先の吸盤は、けっしてヒトのそれではない。

はだ

 伸ばした両腕を、腕立て伏せでもするかのように床に突っ張って、 かげ

﹁これがわたしの顔﹂  影のなかから、ふくれあがった頭が持ちあがる。  思わず息を吸い込んで、ワタルは後ずさりした。 め

﹁わたしの本当の顔よ。お気に召さない？﹂ め

 甘い声だけはそのままだ。しかし、その声を発しているのは││ がえる

こ

・

・

 大きなガマ蛙だ。でろりと広がった口。飛び出した眼。青緑色の肌に、醜いいぼが点々 と浮いている。 ﹁どうなの？ 答えてちょうだいよ﹂ あし

 言葉を続けながら、さらに腕に力を込めて、ガマ蛙は影のなかから全身を引っ張り出し

いろがら

まと

た。太い後ろ脚がどさりと床に落下する。全身を覆うまだらな模様は、その色も形も、ワ がいこつ

タルにあるものを連想させた。 つばさ

 魔族の姿だ。翼のある骸骨。魔族の姿を色柄に、身に纏った巨大なガマ蛙。 か わ い

 これが妖精の正体だったのか！ ひ ふ 

ふる

﹁驚いているようね、可愛いワタル﹂ のど

 たるんだ喉の皮膚をぶるぶると震わせて、ガマ蛙はそう言った。

689

こうむ

﹁それでもこれはおまえの求めた解答。おまえがつかんでたぐり寄せた真実。さあ、とっ くりと見るがいい。これがわらわの本当の姿なのだから﹂ ﹁あなたは⋮⋮﹂

﹁ラウ導師はおまえに教えなかったのか？ わらわの存在を？ おまえが現世で被ったの ひ あい

と同じ悲運を、同じ悲哀を、この幻界で味わっているわらわのことを？﹂

 わらわの名はオンバと、巨大なガマ蛙は続けた。少女の甘い声のなかに、野太く乱れた どら声が、不協和音のように混じっている。 け しん

﹁かつてこの幻界が生まれし時に、創世の女神より、不要のものと切り離され、うち捨て ふ

られたすべての負なるものの化身﹂  負なるものの集合体││

﹁幼き〝旅人〟よ。ここまでたどり着いたおまえならば、〝負なるもの〟の意味はわかろ

う。〝負なるもの〟は、この世に望んで足らぬ、あらゆるものじゃ。美を望んでそこに至 しゅう

ふんぬ 

らぬ醜。幸を望んでそこに至らぬ不幸。等しきを望んでそこに至らぬ不等。足らぬものを す

求め、至らぬことを悔やむすべての憤怒と欲望こそ、わらわの真の姿﹂

 オンバさまに目を据えて、じりじりと後ずさりしながら、ワタルはかぶりを振った。 ﹁僕にはわからない﹂ ﹁いや、わかるはずじゃ！﹂

690

あわ

や び 

 不協和音のなかで、野卑などら声が勝利を収めた。これこそがオンバさまの肉声だ。 ほんろう

よう

のろ

﹁哀れなヒトの子よ。わらわは現世でおまえが味わう悲運を知っていた。だからこそ、お り ふ じん

まえに親しく近づいたのだ。やがて理不尽な運命に翻弄され、現世の有り様を呪って〝幻 界〟にやって来るはずのおまえと知っていたからこそ﹂

 確かに、あの甘い声が初めてワタルに呼びかけてきたのは、ワタルがまだ父さんと田中

ほころ

理香子のことなどつゆ知らず、平和に暮らしていたころだった。この日常のどこかに綻び が生じるなど、夢にも思っていなかったころだった。 か わ い そう

﹁ワタル、あなたは本当に可哀想。だからわたしはあなたの力になりたかったの﹂ とつぜん

 突然、オンバさまの声が甘い少女の声を取り戻した。何度となく耳にした快い声。

﹁やめろ！﹂と、ワタルは叫んだ。﹁もうそんな声で話しかけたりしないで！﹂ ころ

こうしょう

 オンバさまは笑い始めた。ころころと玉を転がすような少女の笑い声から、もとの肉声

へと戻ってゆく。やがてでろりと大きな口を開けて、そこから哄笑を溢れ出させる。

おとしい

﹁おまえならわかるはずだ。ヒトはなぜ一方が幸に恵まれ、他方が不幸に陥れられる？  ふたおや

おまえばかりがなぜ、両親の不和に苦しまねばならぬ？ なぜおまえなのだ？ なぜ他の

子供ではない？ おまえはそこに怒りをおぼえるはずだ。その不公平を、憤怒をもってく つがえしたいと願うはずだ！﹂

 ワタルはただ首を振り続けた。オンバさまがどさりと一歩前に踏み出し、距離を詰める。

691

うら

かつぼう

しっと 

はらわた

ほんしょう

うば

﹁他にありて我にないものを求め、それを与えられぬことを怒る。我から奪われ他に与え くだ

られるものを恨み、渇望と嫉妬とに腸を燃やす。それこそがヒトの本性よ。なれば本来は か け ら

〝負なるもの〟も、真実の鏡と同じく、幻界じゅうに細かく砕け散り、ひとつひとつは軽

く無害な欠片となって、無数のヒトびとのあいだに安住の地を見つけるはずであった。し

ま ね 

かし愚かなるヒトは、〝負なるもの〟をその身の一部と認めることを嫌い、遠ざけた。 くわだ

〝負なるもの〟の存在を、あらざるものとして見ぬふりをした。創世の女神の所行を真似

お

て、ヒトめらもまた、〝負なるもの〟を追放しようと企てたのだ！﹂ ほ

 吠えるような声だった。 さ ま よ

あた

﹁行き場を失って彷徨う〝負なるもの〟は、魔界へと堕ちる他にすべがなかった。しかし

うらや

すき

く

魔界は〝負なるもの〟に力を与え、わらわという化身を生み出した。そしてわらわは幻界 へと戻ってきたのだ﹂

 オンバさまもまた、魔界から来たというのか。幻界を恨み、羨み、隙あらば喰らおうと ねら

狙う闇の世界から。 す

﹁さればこそわらわは、ヒトを求める。本来はヒトの心にこそ棲むわらわには、ヒトの心 は故郷じゃ﹂

 巨大で不格好な頭をかしげて、オンバさまはワタルの瞳をのぞきこむ。

﹁おまえとて、わらわに親しんでくれたではないか。わらわがおまえを助けたことがある

692

おさ

ふる

のを、よもや忘れたわけではあるまい？﹂

 ワタルは抑えようもなく震えていた。怖いのか悲しいのか、悲しいとしたらなぜなのか、 こぶし

にぎ

心ではわかっていたけれど、それを伝えることができなかった。歯がゆかった。やみくも に首を振り続け、ぎゅっと目を閉じて、拳を握った。 ﹁僕はあなたの正体を知らなかった。あなたの目的も知らなかった﹂ つぶや

か

﹁わらわの正体﹂と、オンバさまは低く呟いた。﹁それはおまえだ。おまえの内にうずく

まる〝負なるもの〟もわらわの一部なのだから。おまえがわらわと言葉を交わし、わらわ

の真の姿を見ることができるのは、ひとえに、おまえのなかにわらわが存在するからこそ﹂  ワタルのなかにある〝負なるもの〟。

 意識したことはなかった。そんな余裕はなかった。だけれどそれは、確かにあった。運 あ

命を変えようと願う心のなかには、どうして僕だけがこんな目に遭うのだという、悲憤の 叫びがあって当然のことなのだから。 ダ ブ ル

 憎しみが独り歩きして分身になったのと同じように、ワタルの知らないうちに、ワタル

のなかの〝負なるもの〟が、オンバさまを呼び寄せていた。すべての〝負なるもの〟の化 身が、ワタルの心に近寄っていた。 まなこ

﹁さあ、眼を開くのだ。おまえにこのような悲運を与えた現世をくつがえしてしまえ。お

まえ一人の運命を変えるなど、なんと小さな望みであろう。運命の塔に来たりた今、おま

693

わき

えはおまえの望む世を、その手につかむことができるのだ﹂

 そして悲運を脇に押しやる？ 自分の思いどおりになる世界をつくって？ ﹁それがあなたの望みでもある？﹂  ワタルの問いかけに、オンバさまは大きな頭をうなずかせる。 したた

いか

﹁それこそが、わらわの勝利だ！ すべての〝負なるもの〟の勝利だ！﹂ ねんえき

 粘液を滴らせる口の端から、怒りに満ちた言葉と共に、どす黒い舌がちらちらと出入り する。 し

﹁わらわは求める。わらわの世界を。わらわこそが神となり、わらわを憎み遠ざけた、す しっか 

べてのものを膝下に敷く世界を﹂

 目的はそれなのか。だからワタルに呼びかけ、ワタルの心を動かし、女神を倒せと唆す ことまでやってのけた││

﹁〝旅人〟よ、今一度わらわはおまえに問う。創世の女神を倒し、共にこの運命の塔に君

まさ

臨することを望まぬか？ 幻界も現世も、おまえの手の内に収めることこそを望まぬか？﹂  おののきながらも、ワタルの心に迷いはなかった。 ﹁望みません﹂ お かん

 答える声は、少しも震えていない。身体を走る悪寒よりも、意志の力が勝っていた。 ﹁あなたの望みは間違いだ﹂

694

 オンバさまの大きな口が、さらに大きく、顔の半分ほどにまで広がって、にんまりと笑っ た。ごろごろと喉が鳴る。 いと

﹁愛しき幼子の〝旅人〟よ。わらわがおまえに、最後の機会をくれてやろうというのがわ

からぬのか。ここでわらわにうなずくだけで、おまえは、女神にひざまずくのではなく、 運命の塔の頂点に座ることができるのだ﹂ いや

な

よ

﹁僕は嫌だ﹂ワタルは声を張りあげた。﹁あなたと手を組むことなんかできない﹂ せんたく

 オンバさまの目がまたたき、舌がべろりと自身の顔を舐め回した。 おろ

﹁さても愚かな選択よ﹂ な ぜ 

むな

 青ぶくれた手が動き、ぬるりとワタルに近づいた。ワタルは身体をかわして避けた。

﹁何故だ？ なぜわらわを退ける？ この身が醜いからか？ 姿形という空しいものが、 おまえには、神の座よりも大切なものだというのか﹂

﹁そうじゃない﹂ワタルはかぶりを振った。﹁あなたが醜いからじゃない。あなたが僕を だま

騙そうとしたからです﹂

 最初から話してくれればよかった。姿を見せてくれればよかった。〝醜〟の化身の苦し みを、うち明けてくれればよかったのだ。

 そうしてわかり合えたならば、一緒に手をたずさえて、ここまでのぼってくることだっ てできたかもしれないのに。

695

ざ

 ワタルの言葉に、オンバさまの口がくわっと開いた。﹁口先だけの戯れ言を！ もしも

わらわが最初からこの姿で近づけば、わらわの言葉になど耳を貸さずに逃げ出したろう に！﹂

﹁確かに驚いたでしょう。でも、あなたの本当の言葉を、もっともっと早く受け取ること

ができたなら、その想いの重さを感じることができたなら、僕は逃げたりしなかった﹂ うそ

﹁嘘つきめ！﹂

 言い放つと、オンバさまは両手で床を打った。﹁わらわを裏切る〝旅人〟よ、おまえの ちり

おそ

命運はここに尽きた！ 今はただ、わらわの手にかかって魔界の塵と化すことのみを、最 お たけ

後の幸運と思い知るがいい！﹂

 雄叫びと共に、グロテスクな巨体を持ちあげて、オンバさまはワタルに襲いかかってき ぬ

た。濡れた皮膚を覆う魔族の形をした模様が、生を得たようにうごめきだす。

 ワタルは勇者の剣を抜き、横っ飛びに避けてオンバさまの脇に回った。 ほとばし

なまぐさ

 剣先から光が迸る。一瞬、ワタルは目がくらんだ。この輝き！ そして軽いことは羽根 のようだ。

 オンバさまは身をよじり、大口を開けて生臭い息を吐き出した。突風のようなその呼気 や け ど

によろめき、息が詰まる。顔や手足が、火傷したみたいにぴりぴりする。毒の息だ！ ゆうわく

﹁今までも、あなたはこうやって、〝旅人〟たちを誘惑してきたのか？﹂

696

 床に転がって起き直りながら、ワタルは叫んだ。﹁いつもいつも、何度も何度も同じこ

とを言って、運命の塔のこの場所で、〝旅人〟たちの前に立ち塞がってきたのか？﹂  何という不毛の繰り返しだろう。痛ましい間違いの歴史だろう。 ﹁あなたは、なんて哀れなんだろう﹂ ﹁ヒトの身の分際で、わらわを哀れむか！﹂ いちげき

 オンバさまのずしりと重いパンチの一撃を受けて、ワタルは反対側へと吹っ飛ばされた。 の

息が苦しい。目を開けているのも辛い。このままでは毒にやられてしまう。 ほこり

﹁おまえの命など埃よりも軽い。ひと呑みにしてくれるわ！﹂ な

 長い舌が生きもののようにうごめきながら、しゅっと音をたてて空を飛び、ワタルの身

体に巻きつこうとする。勇者の剣で薙ぎはらうと、オンバさまはぐえっと悲鳴をあげた。 き せき

 鮮やかな剣の軌跡に、光が走る。ワタルを、退魔の剣の力が導く。

 今こそワタルは真実を知った。運命の塔を登り、女神に会うために、なぜ退魔の剣が必

か

要なのか。旅の終わりに立ちはだかる、この魔の誘惑を退けるためなのだ。運命を変える ささや

資格を持ったなら、いっそ神の座におさまり、望みのままに、世界ごと造り替えてしまえ おど

ばいいと囁く〝負なるもの〟を乗り越える。これが最後の試練なのだ。 おそ

 ならば、何も怖れることはない。ワタルはオンバさまの前に躍り出ると、両足を踏ん張っ て剣を構えた。

697

うな

﹁あなたは、僕には勝てない。この剣に勝つことはできない﹂

きょうらん

 オンバさまがけだもののような唸り声をあげる。皮膚の上では魔族の模様が狂乱する。 ののし

﹁生意気な！﹂  罵りと共に毒の息が吐き出される。

﹁心が通じないままに、繰り返されてきた間違いを正す、今がその時だ。オンバさま﹂ ど こ 

 勇者の剣││〝退魔の剣〟が力強く輝く。

かえ

﹁もうあなたは何処へもいかない！ 魔界にも帰らず、彷復うこともない。この幻界こそ

ま

す

があなたの居場所だ。創世の時と同じく、あなたこそが塵となってヒトびとのなかに還 る！﹂

 怒りの叫びをあげて躍りかかってきたオンバさまに、ワタルは真っ直ぐ突進した。退魔 み けん

の剣の切っ先は、ぴたりとオンバさまの眉間を狙っていた。恨みに燃える両の目の真ん中 を。 て ごた

 手応えがあった。深々と剣が突き刺さる。オンバさまの悲鳴が響きわたる。 まぶ

 一瞬、オンバさまは太陽のように眩しく光り輝いた。その光のなかで、皮膚を覆ってい た魔族の模様が、断末魔の苦しみに身をよじる。 ばくはつ

と

はかな

 そして爆発した。無数の塵となる。飛び散り、小雪のように空に舞う。もうどこにも原 とど

形を留めていない。空に溶けこみ、儚く消えてゆく。

698

さや

ただよ

あせ

ぬぐ

 長い長い悲鳴のしっぽだけが、最後まで漂っていた。  ワタルは退魔の剣を鞘に収めた。額の汗を、片手で拭う。 ﹁ありがとう﹂  誰に向けてでもなく、自然にその言葉が口をついてこぼれ出た。

 ワタルは広間を横切り、星の文様の頂点の輝きを踏みしめて、合掌する手のあいだを、 最後のアーチをくぐり抜けた。

699

 56 ワタルの願い     ら せん

おど

 再び、長い長い階段だ。だが今度は螺旋をのぼるのではなく、踊り場ごとに右へ左へと ジグザグに折り返している。 とう

 そして、終点が見えている。 うすあお

とうめい

 周囲に広がっているのは、塔の内側の光景ではなかった。過去を映して見せてくれた、 へきめん

う

あの壁面も消えている。夜明け前の空のような薄蒼い空間に、透明な階段と、その終着地 め がみ

えが

である真円形の女神の座が、ただぽっかりと浮いているのだった。まるで宇宙にいるみた いだ。空に浮かぶ階段が、そこに未知の星座の形を描き出している。 か

ゆ

 駆けのぼり、駆け寄る。視界のなかで女神の座が近づき、その中心にひっそりと座って

すそ

いる姿が見えてきた。ワタルの心は準備を整えた。はずむ胸の底には、揺れ動くことのな い決意が固まっていた。  とうとう││最後の一段をのぼる時がきた。  女神の座。 えんばん

こし

ふ

ひざ

つつ

 クリスタルでつくられた円盤のようなその中央に、純白のドレスに身を包み、長い裾を ゆうが 

優雅に垂らして、少女が一人、静かに腰かけていた。顔を伏せ、両手は膝の上に慎ましく

700

そろ

かみ

ゆ

か ら だ

きよ

あご

オ ー ラ

揃えている。長い髪は頭の上できっちりと結い上げられ、耳元から顎、首筋にかけての美

しい線が、くっきりと見える。ほっそりとした身体全体が、浄い光輪に包まれている。

 少女が顔を上げると、黒髪が一筋、やわらかな曲線を描く白い額の上に垂れかかった。  それは再び、大松香織だった。

﹁ワタル﹂と、呼びかけてきた。桜のはなびらのようなくちびるを、大きくほころばせて。

か

﹁とうとう来たのですね。ここがあなたの旅の終着点です。あなたはたどり着いたのです よ、運命の塔の頂点へ﹂ ふ

かがや

 少なからず混乱して、ワタルは足を踏み替えた。後ずさりはしたくないけれど、近づく おそ

どうよう

のも恐ろしかった。

うつしよ

 ワタルの心の動揺を理解しているのだろう。大松香織の整った顔が、明るく輝いた。

ちが

﹁オンバさまと同じく、わたくしのこの姿も借り物です。あなたの心に在る現世の人びと

から、この少女の姿を借り受けました。でも、わたくしはオンバさまとは違います。あな たばか

い げん

たましい

と

たを謀るつもりもなければ、害するつもりもありません。安心してください﹂ りん

 わたくしが運命の女神です。  少女の声でありながら、凛とした威厳に満ちている。 かかと

た

﹁なぜ⋮⋮﹂と、ワタルは声を発した。何だか、自分の魂が溶けてしまって、水銀のよう こ

に濃く重くなり、踵のあたりに溜まっているみたいな感じだ。そうやって、かろうじて、

701

ただよ

ふわふわと漂い出しそうな身体をつなぎ止めてくれている。 ﹁どうして、香織さんなんですか﹂ ほほえ 

 女神はまた頬笑んだ。﹁その答は、あなたもすでに知っているのではありませんか。オ ンバさまに教えられたでしょう﹂

む く 

ざんこく

﹁僕が﹂と、ワタルは片手を胸にあてた。﹁香織さんのことを、ずっと心に留めているか らですか？﹂

 女神はうなずく。﹁彼女もまたあなたと同じく、幼き無垢な魂を、残酷な運命によって ぎ せい

傷つけられてしまった犠牲者だから。あなたはこの旅をまっとうすることによって、あな

た自身を救うと同時に、あなたと同じように苦しむすべてのヒトびとをも、救いたいと願っ てきたのですよ。それこそが、あなたの目的となっていたのですよ﹂ やさ

 気づいていませんでしたかと、優しく問いかける。 ﹁その犠牲者のなかには、ミツルも入っているんでしょうか﹂ ﹁ええ、もちろん。彼も、あなたの内に存在しているのだから﹂ ささや

 最初から││と、囁くような声でそっと付け加える。ワタルには、それがよく聞き取れ なかった。

﹁今、あなたがあなたの心にある願いを口にするならば、わたくしにはそれをかなえるこ

とができます。わたくしはそのために、ここにいるのです。わかりますね？﹂

702

ふる

 わかっています││答える声がうわずっている。頬は熱いのに、身体は震えている。  いよいよ、この時が来た。僕の願いをかなえてもらう時が。 ﹁さあ、こちらにいらっしゃい﹂  運命の女神は呼びかける。

うで

﹁わたくしの手を取り、あなたの願いを言葉になさい。わたくしの手に、あなたの願いを わた

渡してください﹂ おとず

ちんもく

しず

 すんなりとしなやかな少女の腕、大松香織の腕が、ワタルに向けて差しのべられる。 かんぺき

 完璧な静けさが訪れた。不純物のない沈黙の、何と安らかなことだろう。やっと鎮まっ たワタルの呼気だけが、ゆっくりと時を刻んでいる。

 ひとつ、ふたつ、みっつ。呼吸するたびに心臓が動く。生きているワタル。ここにいる ワタル。  ここにいないすべてのヒトたち。

 ワタルは一歩、前に出た。動き出すと、そこに流れができた。作法など教わってもいな しっか 

うやうや

い。ラウ導師でさえ、女神に会ったときにはこうしなさいと、指示してくれたことはなかっ

た。それでもワタルは自然に動き、女神の膝下にひざまずくと、右手で恭しくその手を取 こうべ

り、左手を胸にあてて、頭を垂れた。 ﹁僕の⋮⋮願いは﹂

703

うなが

﹁あなたの願いは？﹂ な

 優しく促す声が、髪を撫でてくれる。  願いを、言葉に。 はる

 ワタル自身が、これこそが自分の真なる願いだと気づく遥か以前から、ワタルの心は先 しんぼう

取りをして、辛抱強く待っていてくれた。だから、最初からそう定まっていたものである あふ

くだ

かのように、わずかなためらいもひっかかりもなしに、言葉は揺るぎなく完成して、ワタ ルの内から溢れ出た。 とこやみ

か け ら

ちまた

﹁女神さま。あなたのお力で、常闇の鏡を打ち砕いてください。常闇の鏡も、真実の鏡と こわ

ま かい

しんこう

た

ヴィジョン

同じく、ヒトの数と同じだけの細かな欠片となって、ヒトびとの巷へと散らばるべきもの

です。どうぞ常闇の鏡を壊してください。そして魔界からの侵攻の道を断ち、〝幻界〟を 救ってほしいのです﹂  ワタルの手のなかで、女神の白い指は動かない。 ﹁それがあなたの願いなのですか？﹂ ﹁はい﹂

﹁あなたは、それがどういう願いであるのか、理解をしているのですか？﹂ ﹁はい、理解しています﹂

﹁わたくしが、あなたの願いをかなえてあげることのできる機会は、この一度きり。二度

704

はないのですよ﹂ ﹁わかっています﹂ こうかい

﹁あなたは後悔しないのでしょうか。この願いをかなえたら、現世のあなたの運命は、何

ひとつ変わらないのですよ。あなたが幻界を訪れ、この運命の塔を目指して、数々の苦難 こ

を乗り越えてきたのは、本当に、今あなたが口にした願いをかなえるためだったのです か？﹂

 次々と、しなやかな布を繰り出してワタルを巻き取るように、女神は質問を投げかける。 ワタルはそのすべてを、しっかりと心に受け止めた。 おもて

おごそ

しんし 

﹁いいのですか？ 幻界を救ったところで、あなた自身は救われないというのに﹂

 ワタルは顔をあげた。女神の美しい面が、頬笑みを消し、厳かなほど真摯に張りつめた ひとみ

表情を浮かべて、黒い瞳はひたとワタルを見つめている。

﹁いいえ、それは違います。女神さま、幻界が救われれば、僕も救われるのです﹂ ひ さん

 ゆっくりと、女神は首をかしげる。 おそ

﹁あなたはここへ来る前に、幻界の悲惨な有様を見てきました。あなたの旅の仲間たちに

襲いかかる、魔族の群を見てきました。だから今は、そのことばかりが心に強く焼き付き、

仲間たちを助け、幻界を守ることが、何よりも大切なことだと思ってしまっているのでしょ もど

う。しかしワタル、考えなさい。あなたはもう幻界へ戻ることはありません。幻界はあな

705

たの生きる世界ではないのです。仲間たちにも、二度とあいまみえることはありません。 じ だんだ 

くや

あなたはここから現世へ戻る。戻れば、あなたは我に返るでしょう。幻界へ来たときと寸 は が 

おそ

分たがわぬ、あなたを包む過酷な運命に直面し、歯噛みし、地団駄を踏んで悔しがること

になるのではありませんか。それから後悔したところで、もう遅いのですよ﹂

 自分でも驚いたことに、ワタルは女神に頬笑みかけることができた。

り ふ じん

﹁おっしゃるとおり、僕は最初、僕自身の現世の運命を変えるために、この幻界にやって

来ました。旅を始めたときも、固く、固く決心していました。現世の理不尽な運命を正し い形へと戻すためにこそ、僕は運命の塔を目指すのだと﹂ かんちが

 でも、今は違うのだ。すべてが違っている。ワタルには、はっきりと見える。

つく

﹁それは僕の勘違いでした。僕は間違っていたのです。なぜなら女神さま、この幻界は、

ほか

僕の幻界だからです。僕は幻界を旅してきました。と同時に、旅を続けながら幻界を創り あげてきたのです。僕の幻界を﹂ はな

 この幻界を魔族から守ることは、ワタルがワタルの心を守ることに他ならない。 つら

﹁現世に戻れば、僕には辛い運命が、そこを離れたときそのままに、僕を待ち受けている

ことでしよう。それはわかっています。でも、もう以前とは違う。幻界に来る前の僕と、 今の僕とは違っています﹂ ﹁あなたは、強くなったと言うのですか﹂

706

ふ

 かぶりを振って、ワタルは続けた。﹁強くなったとは思いません。現世の僕は、一人で

さび

きょうふ

は生きていくことのできない子供です。だからこそ、辛い運命に泣いてばかりいました。 自分が無力だから﹂ おそ

 今だってそうだ。一人では何もできない。寂しさに泣き、恐怖に震える。大切なものが うば

奪われることを怖れ、傷つくことを恐れる。 にく

おこ

﹁幻界を訪れる前に、僕は現世で、一生のうちにこんな悲しいことは、もう二度とないだ

ろうというくらいに悲しんでいました。こんなに人を憎んだり、怒ったりすることは、も

う二度とないだろうと思うくらいに憎み、悲しんでいました。これほどの不幸は、もう二 す ば 

度とないだろうと思うくらいに不幸でした。だから、その運命を変えたかったのです。

 幻界の旅では、数々の楽しいことに出合いました。素晴らしいヒトたちに会いました。 うれ

時には旅の目的を忘れてしまうほどに、嬉しいことがたくさんあった。でも一方で、胸が

破れそうになるほど悲しいことも、死ぬほど恐ろしいことも、やっぱりあったんです。悲

おび

しみに、僕は泣きました。声をあげて泣きました。恐怖に、僕は震えました。怯えてすく に

んで立ちあがれないような経験もしました。だけど逃げ出すわけにはいかなかった。なぜ なら旅を続けたかったから。運命の塔にたどり着きたかったから。

 そして、ようやくたどり着くことができた今、わかったんです。幻界の旅は、運命の塔

というゴールにたどり着くことに、意味があったのではなかったと。この旅そのものが、

707

しょせん

僕にとってかけがえのないものだったと。この旅が、僕に教えてくれたのです。女神さま

めぐ

のお力にすがり、運命を変えることができようと、所詮それはひととき限りのものだ。僕 さ

はこれからも、喜びや幸せと同じように、悲しみにも不幸にも、何度となく巡り合うこと

でしょう。それを避けることはできない。ましてや、悲しみや不幸にぶつかるたびに、運 命を変えてもらうわけにはいかないのです﹂ もぐ

 自分の部屋のベッドの下に潜り込んで泣いたとき、二度とこんなふうに泣くことはない

だろうと思った。だけど、カッツの死にワタルは泣いた。ミツルを見送り、ワタルは泣い た。

そうしつ

べつり 

 別れ、失い、傷つくことは、これからも繰り返されてゆくだろう。何度運命を変えてそ

こから逃げ出そうと、変えた運命のその先には、またその運命のなかの喪失や別離が待っ ている。  喜びがある限り、悲しみがある。幸福がある限り、不幸もある。

﹁幻界の旅は、僕に数々の喜びと悲しみを味わわせてくれることによって、それを教えて いたずら

もっ

くれたのです。徒に運命を変えることによりかかり、大切なものを見失ってはいけないと。

真なるものは、たとえ女神さまのお力を以てしても変えることのできないもののなかにこ

ひら

そある。変えることができるのは、僕だけだ。僕が、僕の運命を変え、切り拓いていかな た

くては、いつまで経っても同じ場所にいて、同じことを繰り返すだけで、命を終えてしま

708

うことになる﹂ つ

うら

ほう

 だからこそ、ワタルはワタルの幻界を守る。ワタルの幻界を、恨みと憎しみから生まれ おお

たお

出る、魔族に覆い尽くさせるわけにはいかないのだ。

﹁非力な僕には││僕たちでは、自分の力で魔族を倒すことができません。このまま放っ の

ておけば、幻界は魔界に呑みこまれてしまうでしょう。ですからお願いするのです。僕の

幻界をお救いください。恨みや憎しみの闇を遠ざけ、僕に、僕の幻界に、未来をください。 僕の仲間たちに未来をください﹂

 言葉を切って口を結び、ワタルは女神の顔を見つめた。まぶたがかすかに震えている。

今にもそれがぱっちりと開き、ワタルを見つめ返してくれるのではないかと思った。

 が、女神は目を閉じたままだ。ワタルの手に預けた女神の白い手も、何の感情を表すこ はら

とも伝えることもなく、人形の手のように動きのないままだ。

﹁ここで魔界からの侵攻をうち払ったとしても、幻界に未来があるとは限りません﹂  そう言って、女神はゆっくりかぶりを振る。 ていこく

﹁あなたもよくわかっているでしょう。北の統一帝国と南の連合国家は、おいそれと和解

することなどできはしません。争いは続くでしょう。他種族差別を根絶することも難しい ゆず

ことでしょう。それでもあなたは幻界のヒトびとのために、現世での自分の運命を変える ゆいいつ

ことのできる唯一の好機を譲ってやろうというのですか？﹂

709

 ワタルには、迷いはなかった。 ﹁はい。そうしたいのです﹂ おろ

せま

 争いを重ねる愚かさも、自分の信じるものしか目に入らない心の狭さも、目先の楽にば

かり手をのばす性急さも、みんなみんな含めて、それがワタルの幻界なのだから。  ワタル自身なのだから。

けんめい

﹁間違いを繰り返しても、そこから引き返し、考え直し、生きて、懸命に生きて、また自

さわ

分たちの道を切り拓いてゆくことにこそ意味があります。僕の幻界に、そのチャンスを、 どうぞ与えてください。お願いします﹂ な

せいじゃく

 ワタルの心は凪いでいた。女神に差し出すべき言葉は、すべて差し出した。もう胸は騒

いではいない。重荷をおろしたような優しい静寂に、うっとりと身をひたすことを許され たのだ。  ワタルはもう一度、深々と頭をさげた。 にぎ

 やがて、女神のたおやかな指が、強くワタルの手を握りしめてくれるのを感じた。 ﹁わかりました﹂ まぶ

 女神は身を乗り出し、ワタルの頬に手をあてて、顔をあげさせた。頬笑みが戻っている。 オ ー ラ

女神を包む光輪が眩しい。 ﹁あなたの願いを聞き届けましょう。お立ちなさい﹂

710

けん

 ワタルは立ちあがり、正しく気をつけの姿勢をとった。

﹁あなたの剣、あなたが完成させた〝退魔の剣〟を、わたくしにください﹂ ささ

 ワタルは腰の帯から剣を外し、両手で捧げ持って女神に手渡した。  女神も、音もなくふわりと立ちあがる。 ﹁足元をごらんなさい﹂ しっこく

きり

つばさ

 目を落とし、ワタルは驚いた。女神の座の真円に、映像が映っている。 ふち

 かつてクリスタル・パレスのあった場所に、漆黒の霧の翼に支えられて浮かぶ常闇の鏡。 みなぎ

闇が漲るその縁から、魔族の軍団が、あとからあとから溢れ出てくる。ただの映像であっ い

ても、それは忌まわしく恐ろしかった。そこから目を離すことができないままに、ワタル はゆっくりと後ろに退いた。

 女神は退魔の剣を抜き放つと、純白のドレスの裾を引いて、前に出た。ぴんと腕をのば し、退魔の剣を、足元に映る常闇の鏡の真上へと捧げ持つ。

かえ

﹁〝旅人〟ワタルよ。運命の塔より、あなたのつかんだ解答を、今、地上へと還します﹂

 退魔の剣の切っ先を下に向けて、女神は静かに手を離した。落ちてゆく。女神の座を通 り抜け、退魔の剣が落ちてゆく。幻界へ。常闇の鏡に向かって。 しゅんかん

 その瞬間││

711

まがまが

お

 かつての皇都ソレブリアの中心に、禍々しく君臨する常闇の鏡。そこから侵攻する魔族 の群におののいていたヒトびとは、見た。 き せき

 一条の光が天からくだる。まっしぐらに落下してくる光の剣。輝きながら尾を引き、一 瞬の軌跡が空をふたつに分かつ。  そして光の剣は、常闇の鏡のなかへと吸い込まれていった。 はし

かたむ

 常闇の鏡を支えていた漆黒の霧の翼が、大きくはためいた。よろめくように一度、二度

いなずま

と空をかき、そして端から消え始めた。支えを失った常闇の鏡が傾き、漲る闇が地上へと

よっ

やっ

ほうかい

こぼれ出るかと思われたとき、その闇を押しのけるように、鏡の中央を稲妻のような光の き れつ

亀裂が駆け抜けた。 ちり

 常闇の鏡が割れてゆく。ふたつに、四つに、八つに、始まった崩壊が崩壊を呼び、分裂 び さい

が分裂を引き起こし、砕けてゆく。粉々に砕けてゆく。微細な塵へと化してゆく。 じんかい

かいどう

 今しも常闇の鏡から飛び出そうとしていた魔族の群が、鏡の崩壊と同時に魔界へと引き つ

戻され、あがくように突き出した腕や翼は、一瞬にして黒い塵芥になる。 きょじん

ごと

ばくはつ

 北大陸でも、南大陸でも、常闇の鏡が砕け散った瞬間に、町を、村を、街道を襲い、空

を覆い尽くしていた魔族たちが、見えない巨人の手で握り潰されたかの如く、爆発するよ

うな音をたてて、瞬時に黒い塵へと変わった。魔族に向かって武器を振りあげていたヒト

びと、魔族から逃げていたヒトびと、魔族への恐怖に泣き叫んでいたヒトびとは、次の瞬

712

あっけ 

みは

け しん

ざんし 

間に、武器を振りおろすべき相手が消えていることを知る。自分を追っていた魔の化身が

き

消えていることを知る。悲鳴はぷつりと断たれ、呆気にとられて瞠った目に、魔族の残滓 すす

の黒い塵が、頭からばさりと降りかかる。  ヒトびとは、煤まみれになった顔と顔とを見合わせる。 わ

 消えた。消えてしまった。魔族はいない。 かんき 

 やがて歓喜の声が沸き立つ。

のどもと

く

 ガサラの町ではその時、キ・キーマがブランチの屋根の上、襲いかかる三体の魔族を斬 つめ

り伏せようとしていた。頭に爪を立てる一体に、喉元に喰らいつこうとする一体に、背中

む

にしがみついている一体。彼らをふりほどこうと暴れるキ・キーマに、宿屋の台所から持 ち出してきたフライパンを構えて、ミーナが加勢していた。 ﹁離れなさいよ！ このバカ！ キ・キーマ、しっかりして！﹂ やつ

﹁しつこい奴らだぜ！﹂ とうし 

 傷だらけのキ・キーマは、それでもまだ闘志まんまん、ぐっと剥き出した歯で不用意な 魔族の指を噛みちぎる。 ﹁あんたたち、なんかに、負けるもんか！﹂

たた

 キ・キーマが振り落とした魔族の一体を、ミーナはフライパンでブッ叩いた。

713

 瞬間││そいつが消えた。

 みんな消えていた。ガサラの町を襲っていた、数え切れない魔族たちが消え失せた。キ・ ぼうぜん

キーマとミーナは、黒い塵をかぶって呆然と突っ立っている。 ﹁これ、何？﹂ は

 ミーナの問いかけに、答えようとしたキ・キーマは、言葉を発する前に、口に飛び込ん ざんがい

できた魔族の黒い残骸を、ぺっと吐き出さなければならなかった。

き し 

 二人は目と目を見合わせ、それから同時に空を見あげた。空のさらに上を見あげた。天 上の、運命の塔を。 ﹁ワタルだ││﹂

ひ なん

こうげき

 ガサラの町の門を守って、シュテンゲル騎士団の騎士たちが奮闘している。足弱な年寄

りや子供たちは、町の地下室へと避難している。何とかこの攻勢を退けて、次の攻撃の波

かげ

が来る前に、彼らを安全な岩場や森へと逃がさねばならない。そのためには、町の門を死 たいまつ

守せねばならないのだ。 かっちゅう

かぶと

 折れた剣を捨て、松明を振り回して応戦する騎士がいる。バリケードの陰には、力尽き どうほう

て息絶えた同胞たちが、甲冑をつけたまま倒れている。具足や兜が転がっている。 ﹁ひるむな！ 押し返すんだ！﹂

714

はげ

まさ

あせ

ぬぐ

 隊長の声が部下を励ます。無傷な者など誰もいない。数に勝り、力に勝る魔族たちの死 の翼に、一人、また一人と倒れてゆく。 ﹁隊長、危ない！﹂ おど

 続けざまに数体の魔族を叩き落として斬り捨て、目に流れ込む汗を拭おうと、つと腕を すき

あげたとき、そのわずかな隙をついて、魔族がロンメル隊長に躍りかかった。背後をとら

ほこ

れてよろめく隊長に、加勢しようと飛びかかった騎士が、急降下してきた魔族の体当たり

ぬ

を喰らってバリケードに叩きつけられる。魔族の群は鳴き騒ぎ、勝ち誇ったように爪を鳴 か

らし、忌まわしい翼で空を掻き乱し、その音で耳がおかしくなりそうだ。 ﹁隊長！﹂

 バリケードのなかからもがくように起きあがった騎士は、そのはずみで兜が脱げてしまっ

りゅうし

えんとつそう

た。頭も顔も剥き出しに、一挙に広がった視界に、立ちこめる一面の黒い黒い粒子。  これは何だ？

いっせい

 魔族の群は消えている。ガサラの町じゅう、いや幻界じゅうの町や村で、一斉に煙突掃 じ 

除をしたみたいに、いっぱいの煤が漂っている。  煤じゃない││これが魔族の残骸だ。 とうとつ

 唐突な勝利を、騎士たちはまだ信じることができない。それでもロンメル隊長の身を案 きょうき

じる騎士は、狂気にかられたかのように両手でバリケードをかき分けた。

715

﹁隊長、隊長！﹂ あお

う

 どこにもいない。姿が見えない。生き残った仲間の騎士たちは、みんな黒い塵にまみれ あ ぜん

ている。銀の甲冑も台なしだ。唖然として空を仰ぎ、さっきまで組み討ちしていた魔族が いたところに漂う塵を、手ではらって目を泳がせている。 どうけ し 

 額や鼻の頭を真っ黒にして、誰も彼も道化師のようだ。しかし戦いにこわばっていた顔 ゆる

が、ゆっくりと緩んでゆく。 みな

 終わったのか？ 終わったのだ。始まったときと同じように唐突に。 いの

 誰かが女神の祈りを唱え始める。すぐに皆がそれに唱和する。  でも、ロンメル隊長の姿が見えない。 ふ

 騎士の頭には、バリケードに突っ込む寸前に、この目で見た光景が焼きついていた。無 きば

あんど 

防備になった隊長のうなじに、魔族が牙を突き立てた││噴き出した血が魔族の牙を真っ さが

赤に染めて││魔族は消えた。そこここで、騎士たちが安堵と喜びの声をあげ始める。勝 どき

ち鬨が聞こえてくる。しかし彼はまだロンメル隊長を捜している。  魔族は消えた。しかし、ロンメル隊長も消えてしまった。

 常闇の鏡が塵となり、魔族の群も煤と化し、幻界の風にさらわれて、散り散りに、北大

陸じゅうに、南大陸じゅうに、本来あるべきヒトびとの内へと、拡散してゆくその光景を、

716

よみがえ

ワタルは静かに見守っていた。

 皇都ソレブリアに、青空が蘇る。それを見届けて、ワタルは女神に目を向けた。  女神は頬笑んだ。  ワタルも頬笑んだ。

 再び女神の手を取ると、ワタルはひざまずいた。﹁僕の願いは聞き届けられました。心 から感謝いたします﹂

 突然、その姿を借りているだけのはずの少女になりきってしまったみたいに、女神は身 だ

軽に身をかがめ、膝を折ると、その両腕でワタルを抱いてくれた。 ﹁ありがとう﹂

 香織の声で││ああ、きっとこれが大松香織の声なのだ││そう囁かれて、ワタルの心 つつし

がいっぺんにほどけた。慎みを忘れ、照れもどこかに置き去りに、それが運命の女神であ ることも忘れて、ワタルも香織を抱きしめ返した。 ぬく

ふ

 ずいぶん長いこと、そうやって抱き合っていた。女神の腕の温もりに、ワタルは様々な かたぐるま

ヒトの温もりを重ね合わせた。母さん。ミーナ。キ・キーマの肩車。頬に触れたカッツの 指先。  最後の祈りに、握りしめたミツルの手。 ﹁さあ、〝旅人〟よ。現世に還る時がきました﹂

717

 優しくワタルの肩を押しやって、言い聞かせるように、女神は言った。 ﹁はい﹂

﹁来た道をお戻りなさい。女神の座から降りて階段をくだれば、ラウ導師が待っているは ずです﹂

おも

 身を起こし、乱れた衣服を整える。女神が指先で、ワタルの髪をすいてくれた。 ﹁さようなら、ワタル﹂

 優しい笑顔に、大きくうなずきを返し、高ぶる想いを別れの言葉にすることはできない きびす

まま、ワタルは踵を返した。  空っぽになった気がした。

 嬉しいのに、安堵に目が回りそうなのに、だけど悲しくて、別れが辛くて、そしてそれ らすべての感情が、まだ自分のものではないような気がした。

 一歩一歩が、一段一段の下降が、空を踏むようだ。漂うようだ。目は開いているのに、 くうきょ

どろ

何も見えない。蒼い蒼い空虚のなかを、ただ泳いでゆく。

 だからすぐには気づかなかった。伏せた目のなかに、泥だらけの銀のブーツの先が見え てくるまで。かちり、かちりと足音が聞こえてくるまで。  ひとつ下の踊り場に、ロンメル隊長が立っている。

718

きんぱつ

 気づいたワタルの顔を見て、ひとつうなずくと、またゆっくりと階段をのぼり始める。 こ わき

近づいてくる。 プレート

つか

 銀の兜を小脇に抱え、乱れてごわごわになった金髪に、血や泥がこびりついている。甲

冑の胸板には、無数の長いひっかき傷。疲れた重そうな足どりで、ちょっと右肩をさげて かわ

いる。首筋にも大きな傷があり、乾きかけの血が固まっている。 ﹁⋮⋮隊長さんが⋮⋮どうしてここヘ？﹂

 ワタルと同じ踊り場までのぼってくると、ロンメル隊長はそこで足を揃えた。 ﹁なぜ運命の塔に来たんです？﹂

 ちょっとまばたきをして、静かに息を吐くと、ロンメル隊長は答えた。﹁私が選ばれた からだよ﹂ はんしん

 意味がわからなかった。ワタルの心は、大きな荷物をおろしたばかり。 ﹁選ばれたのだ。半身に。ヒト柱に﹂  豊かに響く声が、そう続けた。 めいおう

﹁もう一人のヒト柱、残りの半身と共に、冥王となって大いなる光の境界を張り直す。こ れから続く千年、幻界に生きる命を見守るという大役を果たすのだ﹂  ヒト柱││ハルネラ。 ﹁も、もう一人は？ 半身は？﹂

719

よご

てっこう

 ロンメル隊長は、すっかり汚れて壊れかけた手甲に包まれた大きな手を、ワタルの肩の 上に置いた。 おの

﹁君は旅をまっとうした。それならば、答は自ずと明らかだろう﹂  ミツルか。 み もと

あた

﹁私は女神さまの御許へと昇る。君とここで会えてよかった。幻界を去る〝旅人〟を見送 こ いき

つ

ることができるという特権を与えてもらえるならば、ヒト柱になるのも悪くない﹂  口の端を小粋に吊りあげて、ロンメル隊長は笑ってみせた。 かんしょく

 失われていた感覚が、肩の上のロンメル隊長の手の感触で、呼び覚まされてゆくようだっ しょうてん

た。足にも力が戻ってきた。心の焦点があってきた。 ﹁泣いてはいけない﹂ み す 

 先手を打たれた。ロンメル隊長の蒼い目が、厳しくワタルを見据えていた。

﹁これは悲しむべきことではないのだ。だから君は、泣いてはいけない﹂

 声が出せなかったから、ワタルは口をへの字に結び、ただうなずいただけだった。 ﹁君が常闇の鏡を砕いてくれたのだな？﹂  もう一度うなずく。

﹁ありがとう。幻界のすべてのヒトびとを代表して、君に感謝の言葉を捧げる﹂

 ワタルの心が、ワタルの言葉を思い出した。言いたいことはたくさんあったけれど、こ

720

こで言うべきことが、真っ先に出てきた。 ﹁た、隊長さん﹂  泣いてはいけない。

むち

﹁僕││僕は、カッツさんを、守れませんでした。カッツさんを死なせてしまいました﹂ まゆ

 隊長はつと眉を上げ、そして目を伏せた。 ﹁そうか﹂

﹁ソレブリアの子供をかばったんです。とっさのことで⋮⋮カッツさんは鞭を落として、 す で 

お えつ

それでも素手で魔族に向かっていきました﹂ ﹁彼女らしい﹂  ワタルは、込みあげてきた嗚咽を押し戻すためにうなずいた。 ﹁幻界では、ヒトは死ぬと、光になる﹂ ﹁はい、知ってます。キ・キーマが教えてくれました﹂ ﹁そうか。では、やがて生まれ変わることも？﹂ ﹁はい﹂  隊長の目元がやわらぎ、笑みが戻る。 せい

﹁カッツが生まれ変わり、次の生を生きる幻界を、私は見守ることになるわけだ。悪くな い。ますます悪くない﹂

721

 強がりなんかではなかった。

﹁願わくば、千年が過ぎて私が役割を終え、光となり、そして生まれ変わるとき、何度目

かの生を得た彼女と同じ場所に置かれることを。私はまだ、カッツとの論争にけりをつけ ていないからね﹂  これは強がりだ。 ﹁ホントは論争なんか、したくないくせに﹂  顎をそらして、隊長は短く笑った。 ﹁行きなさい。私にここで、君を見送らせてほしい﹂ ゆうかん

 ワタルは逆らわなかった。はいと応じて、一瞬、ひたと隊長を見つめた。 ﹁勇敢なる〝旅人〟よ﹂ こぶし

 ロンメル隊長は拳を胸にあて、騎士の礼をした。 ﹁現世の君の上にも、運命の女神さまの加護のあらんことを﹂ ﹁ありがとう﹂

つえ

 騎士の礼を返して、ワタルは歩き出した。隊長の視線が背中を押してくれるのを感じた。  だから振り返らなかった。 たたず

 階段を下りきったところに、ラウ導師が佇んでいた。杖を突っ張り、そこに両手を預け

722

のんき 

て、まるでワタルがちょっとお使いに行って帰ってくるのを待っている││とでもいうよ うな、呑気そうな顔をしている。 ﹁では、参ろうか﹂ ぬま

す

 それだけ言って、ワタルの先に立った。 なげ

 嘆きの沼も、町や村の透き通ったコラージュも消えていた。女神の座に続く階段と同じ、 こうばく

宇宙に浮いているようなぽっかりと広漠な空のなかを、ただ導師の背中を追いかけて、静

かく

かに歩んでゆく。足元に道があるのかないのか、それさえもわからない。  また、心が空白に戻る。 かなめのみとびら

 要御扉が見えてきた。その頂きを雲と霧のなかに隠した、現世と幻界の巨大な境界。  ここを通ってきたことが、もう千年も昔の出来事のように思える。

の

ふところ

 扉よりずいぶんと手前で、ラウ導師は足を止めた。首をかしげて、しげしげとワタルの 顔を見た。

あかし

﹁退魔の剣は、女神さまにお返し申しあげたのだな？﹂ ﹁はい﹂ ﹁では、〝旅人〟の証のペンダントを返してもらおう﹂ てのひら

 ペンダントを外して、導師の乾いた掌の上に、そっと載せる。導師はそれを、懐に入れ た。

723

﹁おぬしは良き旅をした﹂ ﹁はい﹂

﹁おぬしの旅路はおぬしのもの。何人もそれを取りあげることはできぬ﹂ ﹁はい﹂ あごひげ

 長い顎鬚が揺れる。導師が微笑んだのかもしれない。でもそれはごくわずかなあいだの

ことだった、あの親しみやすい、口うるさいおじいさんみたいだったラウ導師が、まった く違うヒトのように思える。 へだ

 僕が、還ろうとしているからだ。僕はもう、幻界のものではなくなるからだ。ラウ導師 や

か

とのあいだには、越えることのできない隔たりがあることを、思い出さなくてはならない。  導師は痩せた枯れ木のような手を、ワタルの頭の上に置いた。

﹁現世を生きる、小さき人の子よ。もうおぬしに会うことはあるまい。幻界のこの良き旅 の如く、現世でも良き旅を歩まれることを﹂  はいと答えて、ワタルはラウ導師を仰いだ。 ﹁導師さま、お願いがあるのですが﹂ およ

 導師は眉毛をぴくりとさせた。 ご

﹁この期に及んで、何があるのかな﹂  ワタルはファイアドラゴンの赤い腕輪を外し、差し出した。

724

﹁これを⋮⋮返していただきたいのです。これを見れば、僕が無事に旅を終えて現世に還っ たと知って、安心してくれるヒトたちのところに﹂ ずうずう

 ラウ導師がむぎゅうと顔をしわくちゃにしたので、ワタルはちょっとあわてた。 ﹁ダメですか？ 図々しいお願いですか？﹂

﹁難しい願いではないよ。しかし、そんなことをせずとも、おぬしの旅の仲間たちは、お と

ぬしが目的を遂げて現世へと還ったことを、もう充分に察していることだろうよ﹂ ﹁それでも、渡してほしいんです。お願いします﹂  ワタルは最敬礼をした。ラウ導師は動かない。

 頭の上から、ため息まじりの声が聞こえてきた。﹁ま、よかろう。引き受けよう。それ が気持ちというものだろうからの﹂  心の底から、ワタルは感謝した。

﹁おや﹂ラウ導師が、不意に頭上を仰いで声をあげた。﹁おお、ここからならばよく見え る﹂ たかみ 

 ワタルは導師の視線を追い、目を上げた。

オーロラ

 広漠とした中空。はるか高処を、白く輝く光の幕が、優美に裾をたなびかせながら横切っ さんぜん

てゆく。燦然と輝き、見つめるほどに浄い光の幕は、視界いっぱいに広がる極光のようだ。 なめ

滑らかな曲線が、幼子の頭に触れる母の指のように、優しく空を撫でてゆく。

725

まも

﹁新しき〝大いなる光の境界〟じゃ﹂ラウ導師が静かに言った。 は

 幻界を護る光の幕は、これから始まる千年の新鮮な輝きで空を掃き清め、みるみるうち に遠ざかっていった。 ﹁〝ハルネラ〟は終わった。おぬしはそれをしかと見届けた﹂

 ワタルはうなずき、手を差し出して、ラウ導師の手を握りしめた。何も言わず、しっか りと握りしめた。  そして踵を返し、要御扉を見上げる。

 音もなく、要御扉が開いてゆく。ワタルを送り出し、そして閉じれば、次に開くのは十

いだ

年の後。ワタルはもう、それを知ることはない。次の〝旅人〟が、切なる願いを抱いてこ こを訪れる。

﹁ワタル﹂と、導師が呼んだ。﹁おぬしはやがて、幻界を忘れる。この旅を忘れる。しか し、真実はその心に残る﹂ ﹁真実││﹂ なんじ

 ワタルがつかんだ旅の結論。 ﹁汝、立ち去る時にのみ真実を得ん﹂ の

 厳かにそう言って、ラウ導師は道を開けるように脇に退いた。

﹁帰りなさい、〝旅人〟よ。あなたには現世の子として生きる義務がある﹂

726

むか

 一歩一歩、もう戻ることのない歩みを踏みしめて、ワタルは進んだ。要御扉がワタルを 迎え入れる。

 現世には何が待っているのか。現世で何を感じるのか。これから現世をどう生きるのか。  すべてはワタルの心のままに。

いっしょ

 ここへ来たとき、ワタルは一人だった。今は一人ではない。みんなが一緒だ。ミツルも カッツも、ミーナもキ・キーマも。  運命の女神の美しき姿も、この心に。

まどぎわ

かたわ

そ

 ルルドの国営天文台で、バクサン博士はちょこなんと木のブーツに乗っていた。ブーツ

だま

は最上階の研究室の窓際に寄せてあり、ロミが傍らに寄り添っている。 ﹁博士﹂と、ロミが呼びかけた。

﹁おまえの言いたいことはわかっておる。しかし、今しばらく黙っておるのぢゃ﹂ ふしょう

 わしの不肖の弟子どもは、しっかりとこれを観測しておるだろうかと、博士は考えてい るのだった。 ﹁消えていきますね﹂

 ロミの言葉に、博士は返事をしなかった。二人は黙って空を見つめた。  やがて、博士が言った。﹁要御扉も、閉じるころぢゃ﹂

727

えり

 言葉と同時にハックションと、博士は特大のくしゃみをした。ロミはあわてて、博士が

ブーツから、さらには窓から転がり落ちないように、その後ろ襟をつかんでぶらさげた。

いそが

 ガサラの町のすぐ外に、スペクタクルマシン団は大きなテントを張り直した。臨時の病 けん

院兼避難所にしようというのだ。 しんりょう

にな

け が にん

 診療所の先生は、身体がふたつあっても足らないほどの忙しさだ。さっきまでフライパ

ンで戦っていたミーナは、今は看護婦役を担って、先生と一緒に怪我人たちのあいだを走 り回っていた。 こわ

 心を止めて、何か考えることが怖かった。ただ目の前のことを追いかけ、次々と発生す

る急な用事に、追い回されていたかった。あちらで子供が泣いている。こちらで怪我人が うめ

呻いている。包帯は？ 薬は？ ﹁ミーナ！﹂  大テントの入口で、ブブホ団長が呼んでいる。 ぬ

﹁こちらにおいで。ババさまがおまえにご用があるそうだ﹂

 ミーナは怪我人たちの列を縫い、時にはその足元をまたいで、やっとこさ団長のそばま でたどり着いた。

﹁手が五本も六本もほしいくらいなの。ババさまは急ぎの用事なのかな？﹂

728

き

﹁自分で行って、訊いてごらん﹂  ブブホ団長の目は優しかった。

い す 

の

つ

﹁そしておまえも少し休みなさい。深呼吸をひとつするあいだだけでも。そんな思い詰め た瞳をしていないで﹂  ミーナは外に出た。 けんそう

 ババさまは、大テントのすぐそばに、小さな机と椅子を出し、その上に水晶球を載せて、

ちんまりと座っていた。周囲の喧噪から切り離されて、ババさまの後ろ姿だけを見ている あかねいろ

ならば、幻界にもガサラにも、何も起こらなかったみたいだ。 ぼうさつ

かげ

 忙殺されているうちに、夕暮れになっていた。茜色の空が頭上に広がっている。魔族の 忌まわしい翼の影など、もうどこにも欠片も見えない。

か

 ワタルが、わたしたちを助けてくれたんだ。女神さまにお願いして、魔族を退けてくれ たんだ。 ︵あとでね、ミーナ︶ くず

 崩れたソレブリアの城壁のそばで、最後に交わしたあの言葉。  あれは約束だったのだ。その約束は果たされた。

 だけどワタルの願いは？ ワタルの旅は、この終わり方でよかったの？ 必死で考えな

いようにしていた疑問が、あとからあとから心に浮かび上がってくる。

729

 そしてミーナは自分を責める。そうした想いの様々を押しのけて、いちばん強く心を震 わせるのが、  ││もう、ワタルには会えないの？  その悲しみだということに。

 そんなの、あたしの勝手だ。ワタルは現世のヒトなんだから。ワタルは〝旅人〟だった んだから。

 ババさまはミーナの足音に、丸い背中をさらに丸めながら、振り返った。 ﹁おお、来たね﹂  水晶球をつるりと撫でて、その手をミーナに差し出した。 ﹁これをのぞかなくても、もう見える。ババに手を貸しておくれ﹂

 ミーナはババさまの手を取った。ババさまはミーナをひっぱり、大テントから遠ざける。 そして顔を上げる。 ﹁さあ、ごらん﹂

 言われたとおりにしてみた。しかし、夕空の美しさにも、ミーナの瞳は輝かない。 ﹁ババさま、何もないよ。お空が広がってるだけじゃない﹂ ﹁消えかけておる﹂  ババさまの指先が、空の一点を指し示す。

730

とが

 尖ったような赤い光点だ。いつも見えていた。見たくなくても目に入った。ミーナにとっ ては、時に魔族よりも忌まわしいものであったその光。 まがぼし

 北の凶星の輝きが、薄れてゆく。見つめるうちに、夕空のなかに吸い込まれてゆく。  ハルネラが終わってゆく。  幻界の、次なる千年が今始まる。 ほとり

め が ね

こ

 皆がそれを見ていた。皆がそれを見送っていた。見届けていた。

 嘆きの沼の畔では、シン・スンシが眼鏡を外し、凝った肩をぽんぽんと叩く。ティアズ

びょうしょう

ヘヴンでは門番が、魔族の残骸を掃き清める手を休めて空を仰ぐ。サタミの病床に付き添 りゅう

うサラが、窓に小さな手をかけている。

ちゅうとんち

 ドラゴンたちも龍の島へと戻ろうとしている。傷ついたジョゾは両親のあいだにすっぽ はさ

りと挟まって、岩の亀裂からのぞく空を見ている。

 皇女ゾフィは、ようやく合流したアジャ将軍の部隊の駐屯地で、どっしりとした天幕を のうり 

持ちあげて、空を見る。その脳裏に、クリスタル・パレスのミツルの寂しい横顔が蘇る。 ぎょしゃ

 かつてトリアンカ魔病院のあったスラの森では、なぎ倒された木々の上を静かな風が渡

り、小動物たちが駆け抜けてゆく。通りかかったダルババ車の御者台で、水人が夕暮れの 空を見ている。  ハルネラは終わった。

731

 大いなる白き光の境界は張り直された。女神の御代よ、永遠なれ。

せわ

 ミーナ、ミーナ！ 今度はパックが呼んでいる。振り返ると、大テントの脇で、忙しな

は

くぴょんぴょん飛び跳ねている。キ・キーマが一緒にいるけれど、その顔は疲れて悲しげ で、いかつい身体がひとまわり縮んでしまっているみたいだ。  ミーナの胸が騒いだ。 ﹁パック、どうしたの？﹂

 キ・キーマが大きな手で頭をかく。そんな顔をしていることを恥じているみたいに、バ

ツが悪そうに。パックはくるりと宙返りしてから、ミーナに駆け寄ってきた。 ﹁さっき、白い鳥が飛んできたんだよ﹂ ﹁白い鳥？﹂

﹁うん。おいらの肩にとまったんだ。とまったと思ったらもういなくなってた。そンで、 こいつが手のなかに落ちてきた﹂  パックはぱっと掌を開いた。  その真ん中に、ファイアドラゴンの腕輪が載っていた。  ワタルの腕輪だ。ミーナは手で口元を押さえた。

﹁これ、いつか会った。ミーナの友達のつけてた腕輪だろ？ ハイランダーの腕輪だろ？﹂ あいさつ

﹁ワタルのだ﹂と、キ・キーマが言った。﹁俺たちへの挨拶だよ。ワタルは無事に運命の

732

塔に行った。女神さまにお会いして、俺たちの幻界を救ってくれたんだ。そして還っていっ

め で た 

た││ワタルの世界に。それを伝えるために、ファイアドラゴンの腕輪を残していってく れたんだ﹂

 わかっているのに、これは目出度いことなのに、何で俺はこんなに悲しいんだろうと、 キ・キーマは言うのだった。そしてぐいぐいと顔を拭った。 なみだ

 ミーナは腕輪を手に取ると、それを頬にあてた。涙が溢れた。 ﹁ミーナ、どうして泣く？ なんで泣くんだ？﹂

 パックがあわてている。ミーナはゆっくりと膝を折り、しゃがみこんで顔を隠した。  ワタルは行ってしまった。幻界を去った。  旅は終わったのだ。 うる

﹁何て言えばいいんだろうな﹂

 キ・キーマの目が潤んでいる。大きな水人族が、全身で泣いていた。

﹁こんなとき、何て言うんだ？ やっぱりサヨナラかな？ 俺たち、ワタルにサヨナラを 言ってなかったよな﹂  ミーナはキ・キーマに抱きついた。

﹁サヨナラなんて、言わないよ！﹂パックが今度はバック宙をして、きかん気そうに口を

尖らせる。﹁ミーナ、教えてくれたじゃないか。おいらに教えてくれたじゃないか。サヨ

733

ふ

ナラの時、サヨナラって言っちゃいけないよって﹂

ゆうひ 

 涙を拭いて、ミーナは顔を上げた。﹁そうだっけ。そんなときは何て言えばいいって、 あたし、パックに教えたの？﹂

 得意そうに胸をふくらませて、パックは答えた。﹁元気でねって！﹂ いろど

とばり

 キ・キーマと顔を見合わせて、ミーナは頬笑んだ。涙に彩られた笑顔に、夕陽が映えた。 ﹁そうだね。それがぴったりだ﹂

 暮れゆくガサラの町の夕空に、北の凶星はもう完全に姿を消した。夜の帳と共に、星々

がもうすぐ輝き始める。降るように空を彩り、幻界を優しく寝かしつけるために。 つぶや

 ミーナとキ・キーマは、しっかりと抱き合いながら天を仰いだ。それぞれに心のなかで 呟いた。きっと聞こえる。ワタルに届く。 さち

 わたしたちの〝旅人〟。わたしたちの旅の仲間。ワタル、あなたがそうしてくれたよう に、わたしたちもあなたに幸多かれと祈ろう。  元気でね。

734

 章    終

735

 

736

      くさ

 ガス臭い。 は

か

もど

と ほう

きょり 

ゆる

 どこか遠い遠い場所から駆け戻ってきた。途方もない距離を飛び帰ってきた。その勢い わたる

のままに、亘は跳ね起きた。 ぬ

ざ ぶ とん

の

しょだな

 自分の部屋だ。ノートや参考書が積みあげてある学習机。ちょっとスプリングの緩んだ い す 

いっしょ

椅子の座部には、母さんが縫ってくれたキルトの座布団が載せてある。スチールの書棚に こうりゃく

こ づか

た

は、事典や科学雑誌が並んでいる。その後ろにはゲームの攻略本やコミックと一緒に、

うち

と

ふ ゆ かい

﹃ロマンシングストーン・サーガⅢ﹄を買うためのお小遣いを貯めている、秘密の貯金箱 かく

も隠してある。  僕の部屋。僕の家。 にお

 だけどガス臭い。クーラーは停まっている。どんよりとした夏の夜気に混じる、不愉快 うわが 

の

で危険なこの匂い。  上掛けをはね除けて、亘はベッドから飛び出した。 ﹁母さん！﹂ しんしつ

 大声で呼びながら、リビングに駆け込んだ。母の寝室のドアは開いている。台所から流

737

じゅうまん

ふ

れてくる強いガスの匂い。自分の部屋にガスが充満しやすいように、母さんはドアを開け 放っておいたんだ。 あか

ばくはつ

はな

て さぐ

 息を止めて台所に入り、とっさに灯りをつけようとして、スイッチに触れたところで気

がついた。ダメダメ、危ない！ 火花が出たら爆発しちゃう。ぱっと手を離し、手探りで せん

ガス栓を見つけてぎゅっとひねった。 ね がお

まくら

あお

 それからまたリビングにとって返すと、窓という窓を開け放った。どたどたと足音をた うす

か ら だ

てて母の寝室に入ると、青白くやつれた月のような寝顔が見えた。枕の上に頭を載せ、仰 む 

つら

向いている。夏用の薄い上掛けなのに、その下の身体の線がほとんど見えない。短いあい や

ま ちが

だに痩せてしまった。辛かったから。悲しかったから。 あせ

に

 だけど、死ぬことはない。死のうとするなんて間違いだ。 て ごわ

ゆか

 寝室のカーテンは重く手強く、気ばかり焦る亘の手から逃げてゆく。亘はカーテンに飛

びついてぶらさがった。ぶちりと音がしてカーテンごと床に転がり、からまってしまった。 かんせい

だいじょうぶ

それでも心は歓声をあげていた。もがきながら立ちあがって窓を開ける。 ヴィジョン

うつしよ

 間にあった！ 母さんは大丈夫だ。僕が助ける！ 助けることができる！

〝幻界〟から現世へ、戻ってきたのはこのポイントだった。ミツルがワタルを助けてくれ た、出発点のこのポイントだった。

ろう

 ガス臭さはだいぶ薄れた。それでも亘は用心に用心を重ね、真っ暗な部屋のなかを、廊

738

か 

となり

かべ

げんかん

下を、壁や家具にぶつかったり跳ね返されたりしながら駆け抜けて、玄関から外へ出た。 お隣さんは、すぐ起きてくれるだろうか？

けいこうとう

ふん

﹁すみません、電話を貸してください！ すみません、隣の三谷です！ 救急車を呼びた いんです、電話を貸してください！﹂

とも

 現世のこの夜に、月は出ていなかった。マンションの共用廊下に灯る蛍光灯が、亘の奮 とう

闘を静かに見守っていた。 お じ 

こし

 ルウ伯父さんは、千葉の家から車を飛ばして駆けつけてくれた。午前三時。救急処置室 かた

の外の廊下で、二人は肩を並べて腰をおろしていた。 しんちょう

 発見が早かったから良かったと、お医者さんは言った。 ぼう

て がら

はんにゅうぐち

ねむ

﹁お母さんの意識が戻るまでは、慎重に様子をみる必要がある。でも、命には別状ないと 思うよ。坊や、お手柄だったね﹂ きゅうかん

 若いお医者さんだった。急患の搬入口に救急車が乗りつけたときには、眠たそうな顔を

むなぐる

していた。でもストレッチャーを見るなりしゃっきりとした。そんなもんなんだ。お医者 さんもハイランダーたちと同じだと、亘は思った。 しんさつ

 亘も診察を受けた。目がチカチカしない？ しません。胸苦しくない？ 全然。頭が痛 くはない？ 痛くないです。

739

 僕は大丈夫です。母さんが目を覚ますまで、待っていてもいいですか？

 そうして伯父さんと二人、ずっとこうしている。廊下のベンチは大人サイズだから、深

けん

く腰かけると足が床に届かない。ぶらぶらしてしまう。僕は一人前のハイランダーなのに、 なんでこんなふうにお子さまみたいに座っているんだろう？

つぶや

 そして思い出す。僕はもうハイランダーじゃないんだ。勇者の剣もない。宝玉の力も消 えた。  僕は三谷亘に戻った。 ﹁都市ガスじゃ死ねないんだがな﹂ とうとつ

み つる

 唐突にぼそりと、ルウ伯父さんが呟いた。両肩を落として、大きな手はぐったりと両足 のあいだに垂れている。 せ り ふ

 以前にも聞いたことのある台詞だ。そう、美鶴がそう言っていたのだ。都市ガスじゃ死 ねないんだよ。でも爆発したらえらいことになる。

ひげ

の

あご

 美鶴││彼はもういない。いや、本当にいなくなったのだろうか？ 現世に戻ってきて いないのか？ ﹁亘、眠くないか？﹂ たず

 ルウ伯父さんが訊ねた。髭が伸びかけているので、顎や口の周りが青黒い。悲しげにし ふたえ 

ばたたく、二重まぶたの大きな目。

740

やさ

 気落ちしているときのキ・キーマそっくりだ。大きな身体も優しい心も。 ﹁眠くないよ、大丈夫﹂ ﹁くたびれたら、伯父さんによっかかって眠ってもいいんだぞ﹂ ﹁うん﹂ つか

うで

の

 疲れてはいなかったけれど、不意に、コントロールがきかないほど強い感情に呑みこま だま

れて、亘は伯父さんによりかかった。伯父さんは亘の身体に腕を回してくれた。  ちょっとのあいだ、そうやって黙っていた。 つら

なみだ

﹁ごめんな﹂と、伯父さんが言った。﹁大人の勝手で、おまえに辛い思いばっかりさせて ふる

る。ひでぇ話だ。ホントにひでぇ﹂

 割れて震える声だった。伯父さんの内側で伯父さんの心が泣いていて、その声が、涙な

んか流していないし泣きそうになってもいない伯父さんの、しっかりした大人の声のなか に混じっている。 ﹁伯父さん﹂ ﹁む？﹂ ﹁僕、伯父さんに会ったよね？﹂  伯父さんは頭を動かし、上から亘の顔をのぞきこんだ。 ﹁何の話だ？﹂

741

とうわく

 疲れて青ぶくれた顔が、きょとんとしている。本当に当惑している。

 あ、そうか。二つ目の宝玉を手にしたとき、光の通路を抜けて現世に戻り、僕は母さん おとず

・

・

・

・

・

・

の入院している病室を訪れた。そして帰ろうとしたときに、伯父さんがやって来たんだっ た。だからそれは、これから起こることなんだ。

・

 でも僕は、もう現世に戻ってきてしまっている。だからあの出来事はもう起こらない。 かんじょう

き かん

 時が戻っている。幻界で過ごした時は、現世の時として勘定されていないのだ。やっと

それが実感としてわかってきた。﹁ガスの夜﹂というポイントに帰還したということは、 そういうことなのだ。

なぐさ

 それならば、なおのこと気になる。芦川美鶴はどこにいる？ 大松香織はどうしている？  そういえば、石岡健児だって││ こ

 伯父さんがごつい手で顔をごしごしこすっている。亘は伯父さんを慰めたいと思った。

僕はもう大丈夫││伯父さんが思っている大丈夫の意味を超えて大丈夫なのだということ を知らせたいと思った。

かか

 だけども、何と話しかけていいのかわからなかった。うっかりすると、泣いてしまいそ

うな気もした。悲しいわけじゃなくても、手に余るほど大きな感情を抱えると、泣いてし まう。それは亘がまだ子供だからだ。  もう勇者のワタルではないからだ。

742

 亘は伯父さんにゆったりと身体を預け、深くもたれかかった。伯父さんの身体は温かく、 ローションの匂いがした。 ﹁伯父さん﹂ ﹁うん？﹂ ﹁安心したら、ちょっと眠くなってきちゃった。寝てもいい？﹂ ﹁いいぞ﹂

 亘は目を閉じた。浅い眠りに落ち込むと、すぐ夢を見た。ダルババ車に乗っている夢だっ ぎょしゃ

た。御者台にはキ・キーマがいて、陽気な声でダルババをせき立てている。 なつ

 そこで初めて涙が出た。現世に戻ってようやく流す涙には、懐かしい味がした。

ほおば 

 結局、夜明けまで病院にいても母さんに面会することはできなくて、伯父さんと亘は、 一度マンションへと引きあげた。 す

は

けむり

ただよ

 朝ご飯はマクドナルドで済ませた。早朝の店は空いていて、パンケーキを頬張る亘のす きつえん

ぐ隣にまで、喫煙席で新聞を読んでいる背広姿の男の人が吐き出す煙が漂ってきた。 ﹁亘﹂ ﹁なぁに﹂

 伯父さんはコーヒーの入ったプラスチックカップを手に、ちょっと首をかしげている。

743

﹁何？﹂ まゆ

 伯父さんはカップをトレイに置いた。困ったみたいに眉を寄せている。 ﹁おまえ、さ﹂ ﹁うん﹂ ﹁何だか、急にしっかりしたな﹂ おどろ

あふ

 静かな口調だけれど、驚きがこもっている。亘を見る伯父さんの視線のなかに、﹁観察﹂ という要素が入っていた。 ほほえ 

かがや

 亘は頬笑んだ。心のなかに、温かなお湯が満ち溢れるように、優しさと感謝と、それと ・

・

名づけようのない輝かしいものが広がってゆくのを感じた。

 急にしっかりしたわけじゃないんだよ、伯父さん。僕はずうっと旅をして、帰ってきた んだ。

﹁お母さんが死ななくて、よかったって思ってるんだ﹂と、亘は言った。﹁死んじゃいけ ないよね。そうだよね？﹂ うる

 そうだと答えるかわりに、伯父さんはうなずいた。目が潤んでいた。

お ば 

 学校はもう夏休みだ。行っても誰もいやしない。亘はまっすぐ芦川美鶴が叔母さんと住 んでいたマンションを目指した。

744

 朝のことで、管理人さんが集積所にゴミを積みあげていた。亘が自動ドアを抜けてロビー

に駆け込むときは知らん顔をしていたけれど、はあはあいいながら出てきたときには、作 いぶか

業の手を止め、訝しげな顔でこちらを見た。 ﹁何だね、坊やは﹂ ﹁あの、あの﹂

 芦川の表札は消えていた。郵便受けの、彼が叔母さんと暮らしていたはずの番号のとこ ろには、真新しい白いネームプレートがかかっているだけだった。 こ

﹁芦川さんて、引っ越しちゃったんでしょうか？﹂ ﹁アシカワ？﹂

﹁若い女の人と、僕ぐらいの男の子の二人暮らしのおうちです。僕、その子と友達だった んだ﹂

 管理人さんは額に手をあてて考えた。ああ、と声をあげて自分のおでこをぽんと打つ。 ﹁引っ越してったよ﹂ ﹁いつですか？﹂ ﹁つい最近だ。学校の夏休みが始まった日だったかなぁ﹂

﹁引っ越してゆく二人を見たんですか？ ちゃんと二人いましたか？ 男の子はいました か？﹂

745

つ

にら

 詰め寄る亘の勢いに、管理人さんはたじたじとなった。でもさすがは世慣れた大人で、 すぐに形勢を盛り返し、逆に亘をぎろりと睨んだ。 き

﹁何でそんなことを訊くんだね？ 坊やがその子と友達だったなら、とっくに知ってるは ずじゃないのかね？﹂

 本当は、ここに何しに来たんだね、おや、何だか坊やの顔には見覚えがあるようだ││

管理人さんが腰に両手をあて、本格的に睨みをきかそうとし始めたとき、亘はもうそこに はいなかった。

 誰に訊けばいいだろう？ カッちゃんにも早く会いたいけど、彼は芦川のことはよく知 らない。

めんどう

 宮原だ。宮原祐太郎がいる。優等生同士で芦川と仲が良かった。クラスも一緒だ。えー と、宮原の家ってどこだっけ？ か わ い

 宮原祐太郎は、古い木造の家の小さな庭で、弟妹たちと朝顔やヒマワリの面倒をみてい じょう ろ 

るところだった。よちよち歩きの妹の持っている赤い如雨露が可愛い。宮原は、彼の身長 よりも高く伸びたヒマワリに、支柱を立てている。 さく

 庭を囲むスチールの柵に手をかけて、亘がおはようと声をかけると、かなり驚かしてし まったのだろう、ぱっと振り返った。

746

﹁あれ、三谷じゃないか。おはよう。早くからどうしたんだよ﹂

 宮原もスチールの柵に近づいてきた。亘はもごもごと言い訳を並べた。弟妹たちは亘に さ

関心がないのか、咲いている朝顔の数を数えることに熱中している。 ﹁あのさ、宮原。芦川のこと、知ってる？﹂ ﹁芦川？ うちのクラスの？﹂

 何のためらいもなしに、宮原はそう訊き返してきた。そう！ 芦川はいるんだ、美鶴は いるんだ。 ﹁あいつがどうかしたの？﹂ ﹁今⋮⋮どこにいるか知ってる？﹂ ﹁どこって﹂宮原は目をパチパチさせている。﹁引っ越したよ﹂  ああ、やっぱりその返事か。 ﹁転校生だったよね？ もう引っ越しちゃったの？﹂ せわ

﹁うん。忙しなかったな。だけど家の都合じゃ、しょうがないだろ﹂  のんびりとした口調だ。 ﹁そうだね⋮⋮。芦川って、どんなヤツだったかな﹂ めんく 

 宮原は、今度こそ完全に面喰らったのだろう、まじまじと亘の顔を見た。亘の全体を見

回した。僕は三谷亘に化けた宇宙人と話をしているのじゃないかと疑っているみたいに。

747

﹁どんなヤツって言われても⋮⋮﹂  そして笑いだした。 じゅく

﹁ヘンだなぁ。だって三谷は、芦川のこと知らないだろ？ クラスが違うし﹂ ﹁塾で一緒だったからさ﹂

うわさ

﹁そうかぁ？ だけど話なんかしたことなかったろ？ あいつ無口だったし﹂  そうだねと、亘はうなずくしかなかった。

 芦川の家に起こった事件のこと、話題になったよね？ お母さんたちが噂していたよね？ あつか

 それが石岡健児たちの事件と重なって、芦川はモンダイジ扱いされてなかった？  訊ねたい。だけど、どう訊いても見当違いになりそうだ。

 亘の帰還した現世に、亘の知っていた芦川美鶴はもういない。いないのだ。  最初からいなかったみたいに、いなくなってしまったのだ。

﹁三谷﹂と、宮原が呼びかけた。今度は彼の方が、スチールの柵に片手を乗せている。亘 の手のすぐそばに。 ﹁あのさ﹂

 彼が言い出しかけたとき、弟が大きな声を出した。﹁お兄ちゃあん！﹂ ﹁マユミがじゃまするからアサガオ数えられないよう！﹂

 小さい妹がわっと泣きだした。宮原は亘と弟妹たちのあいだで、お兄ちゃんになりきろ

748

てっ

うなが

うか亘の友達に徹しようか、身体ごと迷っている。 ﹁チビちゃんが泣いてるよ﹂と、亘は促した。﹁う、うん﹂

 宮原は柵から手を離し、妹たちの方に身体を向けた。そこでちょっと迷い、気が変わら

お ば 

ないうちに大急ぎで言ってしまおうというように、早口になった。 ﹁学校のお母さんたち、おしゃべりだから﹂ ﹁え？﹂

み すい

﹁夏休み前に父母会とかあったし、噂好きの小母さんもいるからさ、うちの母さんが、 ちょっと聞いてきて││﹂ いっしゅん

 宮原が何を言おうとしているのか、亘にもわかった。一瞬、ガス自殺未遂の話がもう伝

わっているのかと思ったけれど、いくら何でもそれは早すぎる。宮原のお母さんの耳に入っ たのは、それ以前の噂話だろう。

 亘たちの暮らすマンションに、亘の同級生はいないけれど、同学年の子供たちはいる。 ば あ 

彼らや彼らの家族が何か聞きつけたり、察したりして、それが噂になったのだろう。 ち

 だって千葉のお祖母ちゃん、声がでかいからなぁ。 ﹁三谷ン家、いろいろ大変だって？﹂ す なお

﹁うん﹂亘は素直にうなずいた。安心してそうすることができる相手だ。そして亘も、ヘ かたく

ンに頑なにならずに事実を認めることができるほどに強くなった。

749

﹁うちも、ホラ﹂  宮原は照れくさそうに鼻の下をこすった。 さいこん

は で 

﹁親は再婚だから。いろいろゴタゴタしたんだよ﹂

ほ

 妹の派手な泣き声はおさまっている。二人でアサガオの根本にしゃがみこみ、何か掘っ ているみたいだ。 いや

﹁オレも⋮⋮すごく嫌だと思ってた。そのころって﹂ ﹁うん、わかる﹂ え がお

たた

 宮原は笑顔になった。﹁だけど、今じゃそう悪くないよ。妹も弟も、可愛いし。うるさ いけどさ﹂  今度は弟が泣きだした。チビちゃんに赤い如雨露で叩かれた。

﹁うん﹂と、亘は言った。胸が熱くなって、それ以上の言葉が出てこなかったのだ。 ・

・

・

・

﹁だからさ﹂宮原は自分で自分にうろたえている。﹁何かその⋮⋮なんていうか﹂ ・

 がんばれよ。正しい言葉が見つかってほっとしたみたいな顔でそう言った。 ﹁うん﹂

 おにいちゃぁあああんと、弟たちが二人で泣きわめく。宮原はアアはいはいと、それで もやっぱり楽しげに、二人のそばに引き返していった。  それにしても、アサガオ、いったいいくつ咲いてるんだろ？

750

ぬく

 家へと引き返す道、亘は頭も心も真っ白で、何も考えていなかった。不在の芦川美鶴が

つくった空白と、宮原がくれた温もりが、確かにそこにあるだけだった。

 だから、どこを歩いているのかさえ意識していなかった。道の反対側から、首からラジ

オ体操の出席カードをぶらさげて、大あくびしながらカッちゃんがやって来る。それを見 にんしき

ていても、認識するまで時差があった。 ﹁ふわわぁぁぁぁ││よう﹂

 カッちゃんは亘に手を振る。オハヨウと言ったつもりであるらしい。

 亘は足を止めた。その場で固まってしまってカッちゃんを見つめる。  小村君、転校生の芦川美鶴を覚えているかね？

﹁何だぁ？ 朝からこんなとこで何してンの？ ラジオ体操、こっちの方じゃないだろ？﹂ ﹁カッちゃん﹂ ﹁何だよ﹂  マ ジ 

 カッちゃんはひゅっと顎を引く。真面目じゃん、三谷。朝っぱらから。 ﹁鳥を逃がしてくれて、ありがとう﹂ ﹁あん？﹂

 カッちゃんの反応を見届けるまでもなかった。やっぱり、あの出来事も起こらなかった

ことになっているんだ。だって、時制からすれば、あれも未来の事だもんな。

751

﹁何でもないよ﹂と、亘は笑った。 ﹁顔洗ってねえだろ？ ていうか、寝てないような顔してんじゃん﹂ かしこ

 そうなんだと亘が答える前に、カッちゃんの賢い頭脳がくるくると働き、

﹁もしかして﹂と、心配そうな表情になった。﹁家で何かあったか？ おじさんのことで﹂

ゆ く え

 カッちゃんには隠せない。でも、今この場で言って心配させることもない。もっと落ち 着いてから話そう。 ﹁カッちゃん﹂ ﹁あ？﹂ ﹁六年生の石岡って、どうしてるかな﹂ ﹁石岡健児？ あいつのこと？﹂ たましい

ぬ

﹁うん﹂亘は言葉を選んだ。﹁記憶ソウシツとか⋮⋮そういうことになってない？ 行方

不明になって、やっと戻ってきたと思ったら、魂が抜けたみたいになっちゃってたとか﹂

ゆる

 カッちゃんは目を寄せて亘の顔を見た。それからずずいと近づいてきて、亘の鼻先で手 をひらひらと振ってみせた。 ﹁見えるか？ これ、わかる？﹂ ふ

い らいにん

﹁わかるよ﹂亘は吹き出してしまった。しかしカッちゃんは手を緩めない。 たんてい

﹁おまえがゆうべ寝てないのは、﹃探偵メドウズ 消えた依頼人﹄をやってたからだな？

752

けっさく

 推理アドベンチャーゲームとしては、シリーズ最高の傑作って言われてンだよ。ハマる

ゆ

と徹夜は確実だってな。三谷クン、目を覚ましてくれ。オレたちの現実生活のなかには、 しっそう

失踪者なんか一人もいないぞ﹂

 亘は笑い転げた。カッちゃんは亘をつかまえて、ミタニミタニしっかりしろと揺さぶっ た。笑いながら揺さぶり続けた。

こんじょう

﹁石岡は行方不明になんかなったことねえよ。記憶ソウシツにもなってねェ。けど、最近

おとなしくなったって話、聞いたな。誰かがあいつをつかまえて、あの曲がった根性を、 ちょっと直してくれたのかもな﹂  それだけ聞けば、充分だった。 れんらく

 病院から連絡があったのは、その日の昼過ぎのことだった。そのころには千葉のお祖母

ちゃんも来ていたけれど、亘はルウ伯父さんと二人で病院へ出かけた。

 母さんの病室に入るときは、伯父さんも廊下で待っていてもらった。  母さんは泣いたし、亘も泣いた。母さんは謝り、亘も謝った。

 だけど大切な言葉は、やっと二人の涙の波がおさまったころに、母さんの口からぽろり とこぼれ出た。 ﹁意識を失っているあいだ、ずっとね⋮⋮母さん、夢を見てた﹂

753

﹁どんな夢？﹂ ひとみ

か け ら

 それがねえ││母さんの瞳を見るだけで、亘にはわかった。母さんが見ていた夢の欠片 が、そこに残っていたから。

﹁不思議な夢だったの。あんたの好きなテレビゲームそっくりの⋮⋮別世界の夢だった。

そのなかを、亘が旅をしているの。見習い勇者になって旅をしているの。大きなトカゲ男

みたいな人と、ネコ耳の女の子と一緒に、楽しそうに旅をしているの﹂ ﹁母さん、その旅がどんなものだったか、覚えてる？﹂

 もしも覚えていなかったなら、僕が話して聞かせてあげる。残らず、すっかり話してあ げる。そしてその旅から、僕が何を持ち帰ったのかも。

﹁覚えてる。何もかも覚えているわ﹂と、母さんは言った。﹁亘、あなたは立派な勇者だっ たよ﹂ ﹁母さん﹂と、亘は言った。﹁それなら、僕らはもう大丈夫だね﹂ なげ

 失ったものを嘆いて自分を苦しめるよりも、今の自分たちを大事にすることができるよ。 ﹁お父さんが⋮⋮帰ってこなくても？﹂  母さんが小さく訊いた。

﹁うん﹂と、亘はうなずいた。﹁だって、世界はまだ残っているんだからさ﹂  僕の幻界。僕の現世。

754

し らん あお

はげ

 母さんの瞳に、ミーナの青灰色の瞳が重なって見える。最後まで亘を励ましてくれた、 〝棘蘭のカッツ〟の黒い瞳がかぶる。 き し 

だ

 騎士の礼で亘を見送ってくれた、ロンメル隊長の蒼い瞳が映る。  母さんは亘を抱きしめた。  それから数日後のことである。

 母さんが退院してきたので、亘と二人、しばらく千葉のお祖母ちゃんの家に行くことに

なった。お祖母ちゃんは、邦子さんはホントは小田原の実家へ行きたいんじゃないのなん か あ 

てスネていたけれど、

﹁今後のことを、お義母さんともゆっくり相談したいですし。お願いします﹂

 母さんにそう言われて、ほっとして、険しい顔を緩めて、いそいそと先に帰っていった。

お ば 

 父さんからは、何度か電話があった。母さんは、かなり長いこと話し込んでいた。でも、 さけ

もう泣いたり叫んだりはしなかった。  亘は、僕は大丈夫だよと、父さんに言った。 ﹁邦子さん、すまないね﹂  お祖母ちゃんがそんなことを言っているのも、ちらりと耳にした。 お じ 

 まず、カッちゃんに知らせなければならない。そして小村の小父さん小母さんが許して

755

くれたなら、カッちゃんも後から千葉の家に遊びに来るのだ。ルウ伯父さんは、夏休みじゅ ういたっていいぞと言ってくれていた。 ﹁そのかわり、二人にはうんと働いてもらうからな﹂  もちろん、カッちゃんは大喜びだった。 て ごわ

﹁だけどルウ伯父さんは手強いよ。スイカ割りバトルをやらされるからね﹂ ﹁そりゃ何だ？﹂

さそ

﹁スイカ割りなんだけど、棒を持って目隠ししてるのが一人じゃないんだ。全員なんだ﹂ ﹁ゲゲゲ！﹂ ま ぎわ

 小村家を出る間際まで、亘はある場所へ、カッちゃんを誘おうと思っていた。一人で行 く勇気が出なかったのだ。 ゆうれい

 でも、それじゃねと別れる時になって、一人で行くべきだと心を決めた。  そして、大松さんの幽霊ビルに足を向けた。

こわ

 あの場所がどうなっているのか、今までこの目で見る勇気がなかった。何も変わってい ちゅうと はんぱ 

いろあ 

ないのだろう。変わっているわけがない。でも、それを確かめるのが怖かった。建築途中 かたむ

で放置された中途半端な鉄骨が、色褪せた青いビニールシートに包まれて立っている。 しら

﹁建築計画のお報せ﹂の看板が、雨ににじんだ文字をさらして傾いている。そんな光景を 目にしたら、本当に本当にすべてが終わり、

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ま ほう

 ││魔法が解けてしまった。  それを実感することになるのが怖かった。 ふ

 だから亘はゆっくりと歩いた。どうしても伏し目がちにもなった。  それでも、音は聞こえた。 うな

はだか

がん

 重機の唸りだ。目をあげると、ブルドーザーとクレーン車が、幽霊ビルの前の路上に頑 ば 

は

張っているのが見えた。

かなめのみと

 ビニールシートが剥がされ、幽霊ビルが裸になっている。クレーン車のアームの先には、 さ

錆びかけた鉄骨がぶらさがっている。

たた

 お化けビルが解体されている。亘は駆け出した。

びら

 後ろからぽんと肩を叩かれたのは、あの鉄の階段、ラウ導師に出会った場所、亘を要御

扉へと導いてくれたあの通路が、ビルの本体から取り外され、ゆっくりと運び去られてゆ くのを見つめている時だった。 ﹁やあ、三谷君﹂  振り返ると、大松社長がニコニコ笑って亘を見おろしている。 ﹁こ、こんにちは﹂

﹁びっくりしたろう？﹂社長さんは、解体されてゆく鉄骨に向けて手を振った。

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こわ

﹁取り壊しちゃうんですね﹂ いた

﹁うん。雨ざらしで、すっかり傷んでいたからね。いったん壊して、一から建て直すこと

になったんだよ。やっと資金の都合もついたし、今度こそいいビルを建てるぞ﹂  お化けビルは地上から消えるのだ。 か どう

 視界が、ほんの少しだけにじんだ。たくましい重機の稼動音が、亘のため息をかき消し てくれた。  さようなら。 わき

かげ

 そのとき、大松社長がつと脇に寄り、親しげに身をかがめて、誰かに耳を寄せた。亘は、 は

社長さんの隣に、社長さんの陰に隠れるようにして、﹁誰か﹂がいることに気がついた。 ﹁そんなに恥ずかしがることはないだろう﹂ うれ

 社長さんは嬉しそうに笑い、その﹁誰か﹂の肩に手を回した。

ひざたけ

そで

﹁三谷君には、以前にも会ったことがあるんだよ。おまえは覚えていないだろうけれど﹂  大松香織だった。 はだ

まぶ

つや

くろかみ

ひ ざ 

 車椅子に乗ってはいない。ほっそりとしたきれいな足。膝丈までの、袖なしの白いワン

ピース。肌は眩しいほどに白く、ポニーテールにした艶やかな黒髪が、夏の強い陽射しを 照り返している。 ﹁最近、具合がよくなってきてね﹂

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な

 大松社長は、宝物に触れるように、そっと香織の肩を撫でている。

﹁今日もちょっと散歩しようと思って出てきたんだ。ほら香織、コンニチハは？﹂ み い 

か

き おく

 少女は魅入られたように亘を見つめている。どこかで会ったことがあるけれど、どこだっ

たのかは思い出せない。言葉を交わした記憶はあるけれど、その内容は忘れてしまった。

 思い出そうとしてつかめないけれど、確かにわたしはあなたを知っている。黒い瞳がそ う告げている。

かえ

 もう薄れゆくだけの記憶だけれど。 ﹁僕⋮⋮﹂ たましい

 魂は、あなたのもとに還っていた。ちゃんと、ちゃんと還っていた。 しの

 この肩に乗った、白い小鳥。 かいほう

﹁僕、このビルのなかに忍び込んで、ひっくり返っちゃったことがあるんです。それで社 長さんのうちで介抱してもらったんです﹂

 気がついたら、ぺらぺらしゃべっていた。自分の声じゃないみたいだった。  大松社長は笑った。﹁そうそう、そんなことがあったんだ﹂  亘はただ、大松香織を見つめていた。香織も亘を見つめていた。 ﹁こんにちは﹂と、彼女は言った。

きゃしゃ

 わたくしにあなたの退魔の剣をください。あのときの声だった。華奢な手を亘に差しの

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べた、あのときの姿だった。

 この腕が、幻界を去る亘を慰め励まし、温かく抱きしめてくれたことを、けっして、けっ して忘れはしない。  あなたは僕の運命の女神でした。 あいさつ

﹁初対面の挨拶ってわけだ。あらためてよろしくな、三谷君﹂

 大松香織は父親を振り仰ぎ、まぶしそうに笑った。その笑顔は、真夏の太陽よりも明る く、大松社長の顔を照らしている。 ﹁こんにちは﹂と、亘も言った。   ヴェスナ・エスタ・ホリシア。   再びあいまみえる時まで。   幻界に、現世に。   人の子の生に限りはあれど、命は永遠なり。

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＊本作は、学芸通信社の配信により、大分合同新聞︵一九九九 

 年十一月十一日∼二〇〇一年二月十三日︶、名古屋タイムズ、

 京都新聞、中国新聞、信濃毎日新聞、徳島新聞、高知新聞、 

 北日本新聞などに順次、連載されたものに大幅加筆したも  

 のです。                        

＊この作品はフィクションです。              

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ブレイヴ・ストーリー 下 平成十五年三月十日 初版発行 著 者 宮部みゆき 発行人 福田峰夫 発行所 株式会社 角川書店

平成十八年九月八日 入力・校正 ぴよこ