ブレイブ・ストーリー (上) (角川文庫)

ブレイブ・ストーリー 上  宮部みゆき

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ブレイブ・ストーリー 上 目次

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第一部 １ 幽霊ビル      ８ 現実問題 ２ 静かな姫君     ９ 戦車が来た ３ 転校生       10 途方にくれて ４ 見えない女の子   11 秘密 ５ 事件の影      12 魔女 ヴィジョン

６ 扉         13 幻界へ ７ 扉の向こう

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第二部 うつしよ

１ 番人たちの村    11 現世 ２ おためしのどうくつ 12 ミーナ ３ 見習い勇者の旅立ち 13 マキーバの町で ４ 草原        14 スペクタクルマシン団 ５ 交易の町・ガサラ  15 キャンプ ６ 高地人たち     16 リリス ７ 見捨てられた教会  17 町と聖堂 ８ 死霊        18 ミツルの消息 ９ 脱出        19 魔病院 10 第一の宝玉     20 ミツル

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Ｂ Ｒ Ａ Ｖ Ｅ   Ｓ Ｔ Ｏ Ｒ Ｙ

ブレイブ・ストーリー 上

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なんじ

ふ

あやま

汝は選ばれた。道を踏み誤ることなかれ。   

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１ 幽霊ビル

だれ

 最初はそんなこと、誰も信じていなかった。少しも信じていな うわさ

かった。噂はいつだってそういうものだ。  あれは新学期が始まったばかりのころだったろうか。いちばん はじめに言い出したのが誰だったのか、今となってはわからない。 噂はいつだってそういうものだ。  それでもみんな、自分が聞いたことはちゃんと覚えている。ど この誰から聞かされたのかも覚えている。それなのに、たどって いっても出発点がわからない。噂はいつだってそういうものだ。 こふねちょう

みはし

「小舟町のさ、三橋神社の隣にビルが建ってるだろ？ あすこに ゆうれい

幽霊が出るんだってさ」 み た にわたる

こむら

 三谷亘の場合、そんなふうに教えてくれたのは、居酒屋「小村」 かつみ

のカッちゃんだった。克美という名前は、彼が生まれるずっと前 ちょ

から決められていたもので、両親は女の子を期待していたし、超 うおんぱ

音波検査でも、小村さんのおなかで育っていのは女の子だと、産 婦人科の先生は言っていた。ところが十一年前の四月九日、予定 日より一週間も早く生まれてきたのは元気な男の子で、その大き ろうか

な泣き声には、産院の誰もが廊下の反対側からでもすぐに聞き分 とくちょう

けられるようになってしまったくらいの特徴があった。ちょっぴ りしゃがれ声だったのだ。 「父ちゃんがさ、オレって母ちゃんの腹のなかでタバコ吸ってた んじゃねえかって言うんだ」 ぼう

 ついでに言えば、小村克美君は顔色も浅黒い。これも赤ん坊の

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お

ば

ころからだそうで、ひょっとすると小母さんのおなかのなかで、 し お ひ が

タバコ吸いながら潮干狩りなんかしてたのかもしれない。コイツ ならそれくらいのことはあっても不思議はないと亘は思う。なに そろ

ぼうし

じょうとう

しろ、お揃いの黄色い帽子をかぶって城東第一小学校へあがった その年の十二月、教室があんまり寒いからといって、火力の落ち た古い石油ストーブにぴったりとへばりつき、先生が教室に入っ しか

てきてからもそのままへばりついていて、席に着きなさいと叱ら れると、 「オレにはかまわないでいいスからチャッチャッとやってくださ い、チャッチャッと」 あいそ

 と、愛想良く言い放ってしまったというコドモである。亘はそ ま

の現場を目のあたりに見て、あまりにおかしかったので家に帰っ て話したのだが、聞いた方はてっきり作り話だと思ってしまった のも無理はない。このエピソードは伝説化しつつあり、亘たちが じょうだん

五年生になった現在でも、冗談混じりに、 「小村、宿題はチャッチャッとやってるか？」なんて言う先生が いるほどだ。  亘に噂話を教えてくれたときのカッちゃんの声も、いつもなが らにしゃがれていた。ちょっぴり興奮しているのか、〝ユーレイ〟 と発音するときにはそこが裏返った。 「カッちゃんはユーレイ話好きだからなぁ」 「オレだけじゃないって、みんな言ってるって。夜中にあそこを もくげき

通りかかって、バッチリ目撃しちゃったヤツもいてさ、あわてて に

逃げ出したら追いかけられたんだって」 「どんな幽霊なのさ」 「ナンカじいさんらしい」

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めずら

 老人の幽霊というのは珍しくないか？ 「どんな格好してンの」  カッちゃんはごしごしと鼻の下をこすると、しゃがれ声を低く した。 「マント着てるんだって。真っ黒なマント。すっぽりと、こう」  と、頭から何かかぶる仕草をした。 「それじゃ顔見えないじゃんか。なんでじいさんだってわかるん だよ」  カッちゃんは顔をくしゃくしゃにした。スーパーや駅で、たま お

じ

にカッちゃんが小村の小父さんと連れだっているのに行き合うと、 小父さんもちょうどこれと同じような顔をして、「よ、元気か？」 と声をかけてくれる。 「わかるもんはわかるんだよ。そういうもんだろ、ユーレイは」  カッちゃんは言って、ニッと笑った。 むす

「おまえってヘンなとこマジメでカチカチね。やっぱ鉄骨屋の息 こ

子」 あきら

 亘の父の三谷明は製鉄会社に勤めている。製造業のなかでも製 鉄や造船は、基幹産業としての役割が縮小してくるにつれて、本 業以外のいろいろな分野に手を広げて会社の活性化を図らずには いられなくなって、だから今年三十八歳になる明も、製鉄の現場 には、新入社員のころのごく短期間しかいたことがない。以来ずっ と企画研究や広報の担当部署を回っていて、現在はリゾート開発 専門の子会社に出向している。それなのにカッちゃんは、製鉄会 ようちえん

社というだけで「鉄骨屋」と呼ぶのだ。幼稚園のときからの付き 合いなのだから、いい加減で覚えてもらいたいものである。 り

 それでも確かに亘には、頭の固いところがある──らしい。理

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づ

なっとく

詰めでないと納得しないところもある──らしい。本人はほとん してき

ど自覚していないが、そう指摘されることは少なくない。そして ゆず

この性質は、明らかに父親譲りのものであるらしい。最初にその ぼうそう

ことをズバリと口に出したのは房総にいる父方の祖母で、今から 三年ほど前のことだった。夏休みに帰省して、海でさんざん泳い からだ

だ後、身体が冷えているからかき氷なんか食べてはいけないと小 けんか

言を言われて、口答えしたのがきっかけで喧嘩になった。そのと き、 「まあまあ、この子も明とそっくりだ。口が減らないね。これじゃ くにこ

邦子さんもえらい苦労だよ」 ば

あ

 千葉のお祖母ちゃんはそう言ったのである。 よめ

 このとき、亘の母親でありお祖母ちゃんにとっては「嫁のクニ コ」である三谷邦子は、全然聞こえないフリをしていた。 「お母さんが千葉のお祖母ちゃんに、あんな同情的なことを言っ けっこん

てもらうのって、結婚十年にして二回目ぐらいかなあ」  母は後でそんなことを言っていた。なんでお祖母ちゃんと喧嘩 たず

したのと尋ねるので、 「海水浴の後でかき氷を食べちゃいけないっていうのなら、じゃ あなんでお祖母ちゃんとこでかき氷売ってるんだって訊いたんだ」  答えると、母は声をたてて笑った。三谷明の実家は房総半島の 大浜という海水浴場で飲食店を経営しており、海の家の経営権も いそが

持っているのだ。いちばん忙しい時期には、お祖母ちゃん自身が かき氷をつくったりしているのである。 「あんたの言うことはもっともよ」 な

 亘の頭をするするっと撫でて、邦子は言った。「だけどあんた りくつ

つ

が理屈っぽいっていうのも確かね。お父さんの頭を継いだのね」

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 当の明は、後日この話を聞かされて、そういうのは子供の減ら きら

ず口というのであって、理屈を重んじて筋の通らないことを嫌う ふ き げ ん

のとはまったく違うと、いささか不機嫌な顔をしたそうである。 そこ

その機嫌の損ね方もまた理詰めだと、まあ言えなくもない。 しょうぶん

 とにかく、そういう性分の亘に言わせると、そのユーレイとや らの噂話には、ヘンテコなところがたくさんあった。  そもそも、問題の三橋神社隣のビルというのは、正確には建築 中のビルで、まだ落成してはいない。亘の通学路のちょうど中間 あたりにあるので、毎日往復そこを通りかかる。だからよく知っ ている。噂では、その点がまず不正確だ。  実を言えはこのビル、ずっと建築中のままなのだ。工事が始まっ たのは、亘が二年生から三年生になる春休みのことだったから、 もう二年以上も前のことである。地上八階建ての鉄骨か組み上が り、全体が青いビニールシートで覆われるところまでは順調に進 んだようなのだが、そこから先はぴたりと作業が止まってしまっ た。亘が気がついた限りでは、作業員が姿を消し、作業用の重機 か

か

も出入りしなくなってしばらくして、青いシートが掛け替えられ た。その際に、そこに印刷されている工務店の名前も変わった。  ところが邦子の話では、そのあともう一度、シートが変わった という。そのときもやはり工務店の名前が変わった。だがそれ以 ちゅうと

来は何の変化もなく、中途のビルはビルになり損ねた青いほおか むりのまま、周囲の家々を見おろして寒そうに立っている。正面 かか

に掲げられていた「建築計画のお知らせ」看板も、あるときから 見えなくなってそれきりだ。 せこうぬし

「施工主と工務店とのあいだでイザコザでもあって、作業が止まっ ちゃってるんじゃないか？ そんなに珍しいことじゃないよ、昨

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今は」  父がそんなことを言うのを耳にして、フーンと思ったきり、亘 も忘れていた。ところがその後、邦子がいろいろ訊いてきたのだ。 ぶんじょう

 三谷家は、世帯数三百戸近い大型分譲マンションに住んでいる。 こうにゅう

わずら

亘が生まれてすぐに購入し、引っ越してきた。近所付き合いの煩 いを嫌ってマンション住まいを選んだ三谷夫妻だが、小さな子供 がいれば、その子供を通じた付き合いぐらいは生じてくるものだ。 いっしょ

亘もマンションのなかで仲良しの友達が数人できた。一緒に幼稚 むか

園のお迎えバスにも乗った。邦子も母親同士の友達の輪をつくっ た。そうしてできたご近所仲間のなかに、地元の不動産会社の社 くわ

長夫人がいて、地域のことにはいろいろ詳しく、ある日立ち話の しょうさい

ついでに、三橋神社隣の〝気の毒なビル〟の詳細について教えて くれたのだった。 「あたしずっと気になってたんだけど、あのビルは三橋神社のも のじゃないのよ」 の

 三橋神社は地元では歴史が古く、江戸時代の古地図にも載って ゆいしょ

いるくらい由緒正しいところなのだそうだ。 しきち

い

じ

「敷地だってすごく広かったでしょ？ それでやっぱり、維持し しゃでん

ていくのが大変なんだって。でね、古くなった社殿を改装工事す る時に、空いてた土地を売ったんだって。あのビルは、そこに建っ てるのよ。だから持ち主は神社じゃないの」 かんだ

 土地を買い、そこにビルを建てたのは、神田の方に本社のある だいまつ

「大松ビル」という賃しビル会社だという。ほかにも都内のあち かた

こちに物件を持っていて、神社が取引するくらいなんだから堅い 会社なのたろうが、大手ではない。大松三郎という古めかしい名 前の社長さんが一人で切り盛りしている個人会社だそうである。

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 亘たちが住むこの地域は、東京でも東側のいわゆる下町地区だ。 昔は町工場ばかりだったところだけれど、実は都心までの通勤時 間が三十分内外という足の便の良さがあって、ここ十年ほどで急 速にマンション開発が進んだ。それにつれて町の姿も変わった。 こし

やはり土地っ子である社長夫人は、「まるで町全体が玉の輿にで ぬ

も乗ったみたいよ。あか抜けちゃって」と表現している。 お だ わ ら

 亘の父は千葉の生まれだし、母の実家は小田原だ。だから、土 地の人たちの感じるところを百パーセント理解することはできな やす

いけれど、それでも「にぎやかだけど住み易い町だ」というぐら いの実感はある。ニョキニョキと立ち並ぶ新しいマンションの売 そんしょく

出価格が、都内で人気の地域のそれと比べても遜色ないというこ とも、広告を見るだけでよくわかる。だから、三橋神社の隣に土 地を買って貸しビルを建てるというアイディアも、悪くないとい しはら

う感じがする。事実「大松ヒル」は、結構なお金を支払ったらし いのだ。 「お隣が神社だから、テナントは何でもいいってわけにはいかな いわよね。あそこは商業地区だけど、すぐ後ろは第一種住居専用 地域だし」  邦子は社長夫人に教えてもらった覚えたての言葉を使って説明 した。 きっさてん

じゅく

「それでも、喫茶店とか美容院とか学習塾とか、テナントはいろ ちんたい

いろ見込めたらしいの。上の方は賃貸マンションにする予定だっ たそうだし。ところがね──」  鉄骨が組み上がってまもなく、最初に施工を請け負っていた工 とうさん

務店が倒産してしまったのである。「大松ビル」では急いで次の うけおいさき

請負先を探したが、こういう仕事を中途から引き継ぐと、作業が

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ふつう

めんどう

普通より倍も面倒になるらしく、それだけお金もかかるわけで、 なかなか折り合う条件のところが見つからなかった。そこで二ヵ 月ほどのブランクがあったが、やっとなんとか新しい工務店を見 つけて、仕事を続けてもらえることになった。このとき、青いビ ニールシートが替えられたのだった。 「で、新しいところが来たんだけど──」  なんと、ほんの数ヵ月で、今度はそこがまた倒産してしまった のだという。 ほんそう

「大松の社長さんも困り果ててね。あっちこっち奔走して、工務 店を探したわけよ。それで三つめの会社が見つかったんだけど、 そこは今までのふたつよりも小さいところで、社長さんが何から 何まで切り盛りしててね、そういう点では大松ビルとよく似てて、 いやぁ気の毒に大変ですねって感じで、なんていうのかしら、意 けいやく

気に感じてっていうか、人助けっていうか、とにかくそれで契約 してくれたんだそうよ」  ところが本契約の三日後、その工務店社長が急死した。脳卒中 だったそうだ。 あと

「小さい工務店だから、社長抜きじゃ動きがとれないわけよ。跡 つ

継ぎもいない。社長の息子さんはまだ大学生なんですって。結局、 ほ

ご

施工の契約も反古になっちゃって、ビルはまた立ちんぼう」  そして現在に至るという事情なのである。 つて

「大松の社長さんも必死で新しい工務店を探して──まあ、伝も あるでしょうからね。それにこの不景気でしょう、引き受けてく れそうなところが見つからないわけじゃないんですって。たけど、 経営が苦しくて、そういう仕事に飛びついてくるようなところに たの

頼んで、ちょっとのあいだにまた倒産されたんじゃ、また時間も

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む

だ

お金も無駄になるわけよね。それに、建築の世界って、ホラ家相 とかそういうのだってあるくらいだから、やっぱりまだまだいろ えんぎ

かつ

いろと縁起を担いだりするらしいの。それで、大松さんのあの貸 げん

いや

しビルは験が悪いって評判が立っちゃって、嫌がられてね。なか なか話がまとまらないんだってよ」  日々、登下校の途中で観察するだけでも、中途のまま放置され たこの不運なビルの状態が目に見えて悪くなってゆくことは、よ かわ

くわかった。コンクリートは乾いてひび割れ、鉄骨は雨ざらしで よご

汚れている。シートの足元には、心ない人が捨てていくゴミがいっ ねこ

ぱい散らばり、犬や猫のフンもそこかしこに落ちている。 あお

 春先には、強風に煽られてシートが一枚外れてしまい、以来、 おど

支柱の鉄骨の一部と、二階にあがる鉄製の階段のちょうど踊り場 あたりのところが、道ばたからもよく見えるようになった。それ うかが

でも、通行人がシートの内側の様子を窺い知ることができるのは しゅつぼつ

その場所からだけだから、問題のユーレイは、たぶんそこに出没 するのだろう。  いったいどこの誰の幽霊だというのだ。老人の幽霊だというの だから、これまでの不運な事情を聞いて、そのうえで思い当たる な

のは、工事を引き受けながら脳卒中で亡くなった三番目の工務店 の社長ぐらいのものだ。だけどフードをかぶっているって？ 工 務店の社長さんがそんな格好をするだろうか。百歩譲って、その 社長さんが生前フード付きのコートを愛用していて、だからそれ を着用した姿で幽霊となっているのだとしても、じゃあ何で出て ゆくえ

くるのだ？ 工事の行方が心配だから？ 契約していながら仕事 にとりかかることさえできなかったので、申し訳ないと思って？ りちぎ

 ずいぶん律儀な話だ。それに、同じ業界人なのたから、自分が

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幽霊になって出たりしたら、縁起を担ぐ建築屋さんたちがますま す工事の続きを引き受けてくれなくなって、かえって大松の社長 さんを困らせることになるとわからないはずはないだろう。  そんなふうに思っていた今日の休み時間のことだ、またぞろ幽 霊話が話題になったから、亘は自分の意見を述べた。するとクラ スメイトの女の子たちは、あのビルに出るのは〝ジバクレイ〟な のだと言った。 はな

「交通事故とかで死んだ人の霊が、あの場所から離れられなくて とりつ

憑いてるのよ」  しかしそれもヘンな話じゃないか。ビルの在る場所は、ちょっ と前までは神社の敷地のなかだったのだ。交通事故なんて起こる わけかない。 けいだい

「じゃあ神社の境内で自殺した人がいたのよ、きっと」女の子は 言い返した。「その人の霊か迷ってるのよ」 「あたし前から、あの神社へ行くと背中がすうっと寒くなって、 足がガタガタしてしょうがなかったの。フキッな感じっていうの？  そういうのを感じて」別の女の子が言う。また別の女の子が 「そうそう、あたしも」としきりにうなずく。 「ホントに境内で自殺した人がいるのかとうか、確かめたのかよ」 かんぬし

亘は彼女たちに尋ねた。「神主さんに訊いてみたのかよ？」  女の子たちは色めきたった。 「バカみたい！」 「そんなことするわけないじゃない！」 「なんであたしたちがそんなこと訊きに行かなきゃならないのよ う」 「あんな神社に近づくだけで気味悪いのに」

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 亘は負けずに言い張った。「だけど、それじゃ事実がわからな いじゃないかよ」 とが

 最初の女の子が口を尖らせた。「あそこに幽霊が出るってこと は、あそこにジバクレイがいるっていうことなのよ。何よ、事実 なんて言ってイバッちゃって。だから、みんな三谷なんか大嫌い なんだよ！ リクツばっかり言うんだもの」 「そんなこと言って霊とかバカにしてると、あんた、いつかきっ のろ

と呪われるわよ」 やつ

「イヤな奴！」 もど

 女の子たちはプンプンして、それぞれの席に戻っていってしまっ だま

た。亘はさすがにショックを受けて、黙って机に向かっていた。 どんなに向こうの言っていることが筋が通らないと思っても、 「みんなあんたなんか大嫌いなんだ」と言い放たれてはかなわな おの

い。心に斧を打ち込まれたようなものだ。  帰り道、カッちゃんと並んで歩きながら、何を話しかけられて も、昨夜、サッカーの日本代表チームがアウェイでイランの代表 ごかく

ふ

チームと互角に戦ったという心はずむ話題を振られても、ほとん もんちゃく

お

どおしゃべりする気分になれなかったのも、休み時間の悶着が尾 を引いていたからだった。一方のカッちゃんは一人で盛りあがっ すご

ており、やっぱりヒデは凄いぜとかオノはカッコいいぜとか、宙 こぶし

に向かって拳をぶんぶん振り回しながら力説している。昨夜の試 合を見ていなかった人でも、カッちゃんの演説をひととおり聞け ば、試合経過がばっちりよくわかることだろう。  二人は問題のビルの近くにさしかかった。普段なら、カッちゃ んはこのひとつ手前の角で右に曲がってバイバイする。今日はサッ じっきょうちゅうけい

カーの再現実況中継解説付きに夢中になるあまり、帰ることを忘

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れているらしい。 「ねえ、カッちゃん」  亘が声をかけると、ヒデが前半三十二分に通したスルーパスの てんぷ

角度について、ボディアクション添付で説明していたカッちゃん かた

は、片足をあげたま肩ごしに振り返った。 「あん？ 何？」 「ここなんだよな……」 おお

 亘はシートに覆われたビルを見あげた。鉄骨でできた空っぽの 細長い箱が、ボロボロの布をかぶってしょんぼりしている。今日 さ つ き ば

うすよご

はまた五月晴れ、空が真っ青だから、薄汚れた青いビニールシー みじ

さび

トがなおさらに惨めで悲しそうだ。見捨てられて寂しそうだ。 ま

じ

め

「何だよ、真面目な顔しちゃって」カッちゃんは体勢を立て直し、 亘の顔をのぞきこんだ。 「オレ、確かめてみたいんだ。本当に幽霊が現れるのかどうか。 現れるならどんな幽霊なのか」亘の言葉に、カッちゃんはちょっ あっけ

なら

と呆気にとられたように目をパチパチさせた。それから、亘に倣っ ほねさら

あお

て骨晒しのビルを仰いだ。しばらくのあいだそうしていたが、亘 が何も続けて言わないので、頭をかいて振り返った。 「どうやンの？」 「夜、張り込む」亘は言って、早足で歩き出した。「カッちゃん かいちゅう

とこ、でっかい懐中電灯があるよな？ あれ、貸してくンない？」  カッちゃんは走って追いついてきた。「いいけど、あれって持 おこ

ち出すのメンドウなんだ。非常用だって、オヤジが怒るから」  カッちゃんの父親の小村の小父さんは神戸の生まれである。も う東京に出てきてからの年月の方が長いし、カッちゃんもこちら おそ

だいしんさい

で生まれたのだが、それでも故郷を襲った大震災は、小父さんの

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しょうげき

あた

心に大変な衝撃を与えた。小村家の防災対策は、ひょっとしたら りょうが

ばんぜん

都庁あたりを凌駕するくらいの万全さである。 「そんならいいや」亘はますます早足になって、背中で言った。 「自分で都合する」 「待てよ。いいよ、持ち出してやるよ」  カッちゃんは少しあわて始めた。亘があまりに思い詰めている からだろう。 「おまえ、どうかしたの？ なんでユーレイなんかにそんなにこ だわるんだよ」  こだわっているのは幽霊じゃない。女の子たちに「大嫌いだ」 と言われたことだ。「理屈ばっかり言う」のが、そんなに悪いこ となのか知りたいだけだ。だって亘は、彼女たちの話のツジツマ があわなくておかしいから、自然に浮かんできた疑問を口に出し ただけだったのだから。  たとえ正しいことでも、みんなが信じてないことは言っちゃい けないのか？ みんなが気持ち良くウソウソとうなずいてくれな の

いことは、ぐっと黙って呑み込まなきゃいけないのか？ そうで ないと嫌われて、女の子たちにも相手にしてもらえなくなるのか？  だけどそんなこと、カッコ悪くて言えなかった。だから亘は黙っ たまま、怒ったような顔をして歩き続けた。 「何時だよ」後ろからカッちゃんが言った。「おい、返事しろよ」  亘は立ち止まった。「何時って？」 け

 カッちゃんは、空に浮かんだ見えないサッカーボールを蹴るみ つ

たいに、ぽんと右足を突き出した。 「張り込みだよ。付き合ってやるよゥ」 は

うれ

 自分でも恥ずかしくなるくらいに、亘は嬉しかった。「やっぱ

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り、真夜中だろ」 よい

ぱ

「十二時かぁ」カッちゃんは笑った。「オレんとこは宵っ張りの うち

商売だからいいけど、おまえ、家を抜け出せンの？」 れいじ

 言われてみればそのとおり、亘には、午前零時近くになって家 を抜け出すなんて、現実にはほとんど不可能なのだった。  亘の家は父と母と亘の家族三人だが、一年のうち二百日ぐらい おそ

は、母と二人暮らしのようなものだった。父の明は帰宅時間が遅 かか

いし、休日もなんだかんだと外出ばかり。リゾート開発に関わる ようになってからは長期の出張も増えて、一ヵ月のうち半分も家 にいればいいくらいだというような忙しさだ。だから、明は今ま で、亘の日曜参観や運動会に来てくれたことが一度もない。いつ も直前までは何とかして行くと約束してくれるのたが、その約束 が果たされることはなかった。  まあ、日曜参観なんてどうでもいい。そんなことをいつまでも グズグズ気にしているほど、亘は赤ちゃんではないのだ。父さん は忙しいのだし、仕事の約束は守らなくてはならない。それより も、目前の問題は、今夜も百パーセント確実に、父親の帰りは真 夜中過ぎになるだろうということた。そしてその父を、母は起き て待っているだろうということだ。編み物をしたり、雑誌を読ん おもしろ

だり、深夜のテレビに面白いものがないと、レンタルビデオを借 み

ふ

ろ

りてきて観ていることもある。帰宅した父を風呂に入れ、夜食を ね

食べさせ、その片づけを済ませてからでなければ、母は絶対に寝 ない。どうやってその目をごまかし、外出することができるだろ う。 きせき

 夕食を食べなから、亘は奇跡を願った。今日に限って父親の帰

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りが早くて、くたびれたとか言って、両親共早々に床については しの

くれないものか。二人が寝静まってからなら、足音を忍ばせて外 へ出ることもできる。万にひとつ、部屋をのぞかれたときの用心 ふとん

に、クマのぬいぐるみを布団の下に隠して替え玉にしておけばい ぼうねんかい

ちゅうせん

い。明が昨年の暮れ、会社の忘年会の抽選で当ててきたのだが、 一秒の百分の一のあいだも亘の関心を引くことのなかったぬいぐ かつやく

るみ君にも、それでやっと活躍の場ができるだろう。  しかし現実はあくまでも現実だった。いつものように母さんと 二人で夕食を食べ、宿題をちゃんとやりなさいよ、今日返しても らってきた作文は、文章や内容よりもまず先に漢字の間違いが多 しば

すぎるわねと小言を言われ、一時間ほど机に縛りつけられて、そ のあと風呂に入って、出てきたら「小村君から電話があったよ」 と言われた。 「急ぎの用じゃないみたいだったし、明日学校で話してねって言っ ておいたから。前にも言ったけど、母さんは、小学生の子供が夜 も九時を過ぎてから電話のやりとりをすることには反対です」  母さんは腰に両手をあてていた。 「小村君のお家は水商売だから、また考え方が違うんでしょうけ どね」 せりふ

 母さんのこういう台詞を聞かされると、亘はいつも（ナンだよ すみ

コンチクショウ）という気分になった。それは胸の隅っこのいち つめ

ばん皮の薄い部分を、爪の先でチクンとつねられるような感じだっ つ

た。そんなに目を吊りあげなくても、母さんがカッちゃんをよく 思っていないことはわかっている。小村の小父さん小母さんを嫌っ ていることも知っている。どうしてかと言ったらそれは小村の家 が居酒屋で、「教養がなくて下品で、良くない人たちが出入りす

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る家」だからなんだろう。  だけどカッちゃんは、亘にとっては友達なのだ。  小村の小父さんは、確かに品が悪いかもしれない。校庭開放の よ

当番に酔っぱらって赤い顔をして来て、先生に注意されたことが けしょう

こ

ある。小母さんは化粧が濃いので、商店街の反対側にいたって、 にお

匂いですぐわかる。カッちゃん本人が、うちのオフクロは顔がで あつぬ

はだいろ

かいし厚塗りするから、ファンデーションとかいう肌色のクリー ムが普通の人の倍かかるんだ、だから化粧品屋のお得意なんだと 笑っていたことだってある。だけど亘は小父さん小母さんが嫌い おうえん

じゃない。運動会に来れば、二人とも亘のことまで応援してくれ るし、三年生の春の参観日に、たまたま亘が算数でちょっと難し えら

い問題を解いたら、小父さんは大声で「おお、偉いぞ！」と努め てくれて、みんなにクスクス笑われても、全然気にしなかった。 亘はそんなふうに手放しで褒めてもらったのは初めてだったから、 かけら

その日のことは、土くれに混じって光る色ガラスの欠片のように、 かがや

ずいぶん長いこと心のなかで輝いていた。 けいべつ

 母さんが小村の人たちを軽蔑したような目つきをするとき、す のど

ぐに言い返そうと思うのだけれど、言葉はいつも、喉の真ん中あ たりでしょぼしょぼと消えてしまう。そうすると、小村の小父さ ん小母さんを、ひいてはカッちゃんを裏切っているような気分に なる。それなのに反論できないのは、心のどこかで、母さんの言 うことには一理あると認めているからかもしれない。「小村」に 出入りするお客さんたちを、亘は詳しくは知らないけれど、カッ ちゃんから話を聞くだけでも、父さんの会社の人たちとは、ずい ぶん性質の違う人たちの集まりだと感じる。進んで居酒屋の主人 になりたいかと問われたら、かぶりを振るだろう。まだ具体的に

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は言えないけれど、将来は大学で何か研究する人か、弁護士にな りたいと考えているから。いろいろな言葉を使うけれと、結局母 さんは三谷家と小村家は仲間ではないと言っているのであり、亘 にもそれは理解できるのだ。カッちゃんの電話は、今夜本当に抜 け出せるか、確かめるためのものだろう。三谷家の電話はリピン グにあるだけなので、こっそりかけることはできない。ひどく後 ろめたい気がして、亘は惨めになった。  ──いくじなしなんだ、オレは。 りょうひじ

あご

は

 机に両肘をついて顎を載せ、机の正面に貼られた時間割をぼん なが

やりと眺める。明日の一時間目は国語だ。確かまた作文を書かさ れるんじゃなかったっけ。カッちゃんは作文が大の苦手で、いつ も亘にいろいろ尋ねてくる。  だけどもしも今夜すっぽかしてしまったら、明日は怒ってそっ ぽを向いているだろう。当然だ。 だいじょうぶ

「大丈夫よ、そんなことないわよ」 とつぜん

 突然、背後で誰かがそう言った。甘い女の子の声だった。 い

す

 亘はぎょっとして飛びあがった。はずみで椅子がギシッと鳴っ じょう

た。振り返ったけれど、六畳の広さの子供部屋には、もちろん誰 もいるはずがない。去年の夏、一学期の成績が思いがけないほど 良かったので、ねだりにねだって買ってもらった十四インチのテ レビも、今はスイッチを切ってある。  しばらくあたりを見回してから、亘は視線を前に戻し、椅子に いねむ

座り直した。ぼんやりしているうちに、居眠りしたのだろうか。 あざ

そういう時に見る夢はすごく鮮やかで、現実と見分けがつきにく いものだって、このあいだテレビで学者の先生が説明していた。  ところが、同じ声がまた話しかけてきた。

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 「今夜出かけられるわよ。だから今のうちに、ちょっと眠って おいた方がいいわよ」 すばや

 今度こそ亘は椅子から転がり落ちた。素早く体勢を立て直して、 目が回りそうな勢いで部屋中を見回した。青いチェックのカバー をかけたベッド。参考書や童話の本の後ろにマンガを隠してしまっ ほんだな

わき

てある本棚。テレビの脇のゲーム機には、花模様のハンカチがか ぶせてある。亘はテレビゲームが大好きなのだけれど、母さんが 許してくれるソフトでしか遊ぶことができないので──買うのは ほう

もちろん、借りることにも母さんの許可がいる──放っておくと ほこり

ゲーム機はすぐに埃だらけになってしまうのだ。足元のカーペッ す

む

ぬ

トは椅子のキャスターがあたるところだけ擦り剥けて、亘が脱ぎ 捨てたスリッパが机の後ろの方に転がっている。  誰もいない。亘以外には誰も。 「あたしのこと探しても、見えないわよ」 ひび

 女の子の声が、亘の頭のなかに響いてきた。「今はまだ、ね」  心臓がバクバクする。パックマンみたいな形になっちゃってる んじゃないか？ 「た、だ、誰？」 か

 亘は声に出して、見慣れた部屋の嗅ぎ慣れた匂いの少し埃っぽ ささや

いような空気のなかに問いかけた。囁くような声だった。誰もい ないところに話しかけるなんてバカだ。頭のなかで声がするなん ておかしい。だけど、うんと小さな声を出すならば、そんなふる まいをすることに対する恥ずかしさも、少しは目減りするという ものだ。 「さあ、誰でしょう？」  見えない女の子の声は楽しそうに笑った。

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「そんなことより、早くお布団に入りなさい。夜遊びするんだか ちこく

ら、眠っておかないとダメ。明日学校に遅刻しちゃうよ」 しゅんかん

 瞬間的にさまざまな判断が入り乱れた。その数といったら博物 館で見た進化の系統樹の枝分かれした数よりも多いくらいだった けれど、亘はいちばん子供らしいものを選んだ。部屋を飛び出し たのだ。 「なあに、とうしたの？」 む

 邦子は台所のテーブルについて、リンゴを剥いていた。 みが

「ひとつ食べる？ 食べたら歯を磨いて、もう寝る時間よ」  へなへなと腰が抜けそうになって、亘は柱につかまった。 「あら嫌だ、顔色が悪いじゃないの」邦子は言って包丁をテーブ ルの上に置き、ちょっと首をかしげて亘を見た。「そういえば今 せき

か

ぜ

朝ちょっと咳をしてたでしょ？ 風邪をひいたのかしらね」  亘が返事をしないので、母は立ちあがって近づいてきた。亘の なめ

さわ

額に冷たく滑らかな手が触った。 ひやあせ

「熱はないみたいだけど……冷汗をかいてるの？ 気持ち悪いの？  吐き気がする？」  ううん大丈夫お休みなさいというようなことを、亘は口にした らしい。フラフラしたまま部屋に帰ってドアを閉め、よりかかっ た。背中に響くノックの音がした。 「亘？ ちょっとどうしたの？ 本当に大丈夫なの？ ねえ」 「平気だよ、具合なんか悪くない」  何とか気を取り直して、亘は答えた。母に何か説明することを 考えると、もっともっと面倒で混乱しそうだった。 や

 やっとノックの音が止んだので、ドアを離れてベッドの上に転 どうき

がった。あまりに動悸が激しくて息が苦しく、本当に目が回って

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きた。 かわいそう

おどろ

「ごめんね、可哀想に」女の子の声がまた聞こえてきた。「驚か すつもりはなかったの」 ふさ

 亘は両耳を両手で塞いで、ぎゅっと目を閉じた。そのまま気絶 するみたいにして、周りが暗くなるのに任せた。 くらやみ

 そんなつもりはなかったのに、眠ってしまったらしい。暗闇の なかから飛び出すようにして目を覚ますと、ベッドの脇の目覚ま し時計は十一時五十分を指している。亘はがばっと起きあがった。 短いあいだでも服を着たまま眠ったせいで、ちょっと汗っぽい感 じがして、だけどちょっと寒かった。  そっと部屋のドアを開けて、台所をのぞいた。テレビがついて いて、ニュースショウをやっている。母さんがいつも観ている番 組た。 ふ

 しかし、当の本人は眠っていた。台所のテーブルに伏して、ス ヤスヤと寝息をたてて。  お化けビルから一区画南側にある公園の入口のところ。待ち合 わせ場所に、カッちゃんは先に来ていた。カッちゃんはたいてい 早めに来る。これも親譲りのせっかちのせいかもしれない。 おく

「遅れ、て、ご、めん」  亘は息が切れて、ちゃんとしゃべれない。このくらい走っただ けでぜいぜいいうなんて恥ずかしいようなことだけれど、どうに も止まらなかった。おかしな出来事を家のなかに置いてきぼりに してきたせいだろう。 こわ

「小母さん、あんな怖い声出してたのに、よく出てこれたなぁ」 さく

 カッちゃんは公園の柵に飛びついて、猿みたいに忙しく動き回

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りながら言った。 「電話だろ？ ゴメン」 「ベツにいいけど。おまえんとこの小母さん、ウチにはいつもあ あいう感じたからサ」  カッちゃんはさらりと言ったか、亘は後ろめたさに首が縮んだ。 カッちゃんだって、母さんが小村家の人たちに対して、特につっ けんどんな態度をとっているってことぐらい、ちゃんと気づいて いるのた。 「小母さん先に寝ちゃったの？ そんなわけないよなぁ。小父さ んが帰ってくるまで、着替えもしないで待ってんだろ？ おまえ どうやって抜け出してきたの？」 ひとみ

 カッちゃんの真っ黒な木の実みたいな瞳が、驚きと好奇心に、 街灯の光を映してキラキラ光っている。その顔を見て、亘は今さ らのように、確かにあの母さんの様子は異常だと実感した。思わ ず、家の方を振り返った。 「それが──寝てんだよ」 「風邪ひいたの？」 みゃくらく

 亘は黙って首を振った。いくつもの、脈絡のない質問が喉元ま じょうざい

で込みあがってくるのを、飲みにくい大きな錠剤を飲み下すみた いにして押し戻す。カッちゃん、眠るんじゃなくて、目の前が真っ 暗になって、気絶したことってある？ 誰もいないところで、自 分以外の誰かが話しかけてくる声を聞いたことってある？ それっ て異常？ 女の子の声だったりしたら、もっと異常？ それより も何よりも、小村の小父さんや小母さんは、台所のテーブルに突っ 伏して、ぐうぐう眠ったりする？ 押しても引いてもビクともし ど

な

ま ど う し

ないんだ。耳元で怒鳴っても目を覚まさないんだ。まるで魔導士

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にスリープの魔法をかけられたみたいなんだ。頭の上から「ＺＺ Ｚ」のマークが出てるんじゃないかって、オレ探しちゃったくら いなんだ。誰かがそんな寝方するの、見たことある？ ヘンなん だよ。オレ、ちょっと怖いんだよ。 「ま、いいや。早く行こうよ」  カッちゃんは公園の柵の上からぴょんと飛び降りた。そのひと うず

声で、亘は質問の渦を呑み込んだ。うんと言って、走り出した。

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２ 静かな姫君

ゆうれい

あか

 幽霊ビルはこの時刻でも、青いシートに街灯の灯りを映して、 みょう

妙に安っぽく光って見えた。周囲の家々は門灯も消し、窓灯りも ねしず

となり

減って寝静まり、隣の三橋神社もこんもりとした黒い木立に囲ま れてしんとしているなかで、その明るさがかえってこのビルのデ キソコナイぶりを強調しているようにも見える。 きょり

うんどうぐつ

こうよう

 短い距離でも、運動靴の底を鳴らして走ったことで気分が高揚 はあく

し、ようやく亘は今夜の目的をはっきりと把握し直した。幽霊は 本当に出るのか？ この目で確かめるんだ。  だが、神社の前を通り過ぎてビルへ向かおうとすると、すぐ前 じゃま

を走っていたカッちゃんがパッと立ち止まり、手を広げて邪魔を だれ

した。「誰かいるよ」 ささや

 声をひそめて囁くと、神社の塀に背中をつけた。亘も反射的に なら

ひとかげ

それに倣ったけれど、人影なんか見えない。 「どこに？」  カッちゃんは指さした。 「ビルの向こう側。道のとこにライトが見えるだろ」 「どこ？ 街灯じゃないの？」 ちが

と

「違うよ、車が停まってんたよ」 こ

はな

 目を凝らしてみたが、亘にはよくわからない。神社の塀から離 れて、さっさと歩き出した。「行ってみようよ、ベツにいいじゃ ん、悪いことしてんじゃないんだ」  だいいち、ただ車が停まってるだけかもしれないじゃんか── と思いながら、幽霊ビルの前にさしかかったそのとき、青いシー

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トがずるりと持ちあがって、そこから人影が出てきた。 さけ

の

 亘はわっと叫んで飛び退いた。カランと音がして、シートが下 ほこり

ま

がって地面にあたり、埃が舞いあがった。 「あいたたた」と、シートが言った。いや、シートの内側からそ ういう声が聞こえてきたのだ。 か

かた

つか

「な、なんだ？」駆け寄ってきたカッちゃんが、亘の肩を捕まえ た。そのときもう一度シートが持ちあげられて、人影が顔を出し た。亘たちを見あげると、 「何だよ──あれ？ 君ら何やってんだ？」  とぼけたような声を出した。 は

た

ち

 ごく若い男の人だった。二十歳ぐらいだろうか。よっこらしょ とシートをくぐって、道路まで出てきた。すると、かなり背が高 めがね

いということがわかった。よれよれのＴシャツにジーンズ。眼鏡 かみ

か

かいちゅう

をかけていて、髪は短く刈っている。右手には懐中電灯。  さっきカッちゃんが「車が停まっている」と指さした方向で、 大型のヴァンのスライド・ドアを開閉するような音がした。そし のりゆき

て声が聞こえてきた。「則之、どうした？」  今度は中年男性の声だ。ずんぐりと角張った人影が見えてきた。 から

 亘はいっぺんに何とおりものことを考えてしまい、かえって身 だ

どろぼう

体が動かなかった。この人たちは泥棒か？ 夜回りか？ 何か探 してるのか？ 何か埋めてるのか？ ここに火を付けようとして るのか？ 「なんだ、子供じゃないか。こんな時間に何してるんだね？」 お

じ

 新しい人物は、声から想像するとおりのいかつい小父さんだっ にい

た。「則之」という眼鏡の兄ちゃんの隣まで来て、亘とカッちゃ んの顔を見回した。「こんな時刻」と言ったときには、時間を確

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うでどけい

かわ

かめるように腕時計に目を落とした。地味な黒い革のベルトの時 計だ。 「迷子ってことはないよねえ」眼鏡の兄ちゃんが口元をほころば がくしゅうじゅく

せる。「まさか、学習塾からの帰り道ってわけじゃないだろ？」 「あちゃー」と、カッちゃんが声をあげた。辞書的に説明するな おそ

ら、これは恐れ入ったことを表明する小村克美流の合いの手であ る。 あせ

 亘は焦るあまりに、考えをまとめないまま何かしゃべろうと口 を開いた。すると混乱する心のなかで、そのときたまたまいちば は

ん出口に近いところにいた言葉が、ポップコーンが跳ねるように 飛び出してきた。まあ、大人でも子供でも、失言というのは、お およそこういうメカニズムで発生するのである。 「け、け、警察を呼ぶぞ！」  眼鏡の兄ちゃんもいかつい小父さんも、そろってきょとんとし た。そして顔を見合わせ、次にまた申し合わせたように亘を見た。  気がつくと、カッちゃんもぽかんと口を開けて亘の顔を見つめ ていた。 いっぱく

たず

 それから、一拍おいて尋ねた。 「何で？」 かか

 とたんに、いかつい小父さんと眼鏡の兄ちゃんが、腹を抱えて 笑いだした。 おやじ

「親父、声が大きいよ」 たた

 兄ちゃんはいかつい小父さんの肩をぽんぽんと叩きながら笑う。 めいわく

「近所迷惑になるよ」 ばっ

「坊ちゃん、坊ちゃん」いかつい小父さんは、亘の方にずんぐり ふ

あや

した腕を振りながら言う。「私らは怪しい者じゃないよ、だから

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こわ

そんなに怖がらんでいいよ」 ひじ

だいじょうぶ

 カッちゃんが亘の肘をぎゅっとつかんだ。「ホントだ、大丈夫 だよ、この人たち」  亘はまじまじと目を見開いてカッちゃんを見た。見つめ返すカッ ちゃんは、だんだん笑いをこらえる顔になってゆく。こらえきれ ずに笑いだす。そこで初めて、亘は、この場が二対二ではなく、 三対一になっていることに気がついた。笑う三人と、笑われる一 人。顔が熱くなった。 「あ、いけない」兄ちゃんが笑いを止めて、いかつい小父さんが かおり

やって来た方向へと駆け出した。「香織を一人にしちゃってるな」  すぐに、兄ちゃんが消えた方向から、ライトブラウンの大型ヴァ ンがするりと出てきた。角を曲がり、幽霊ビルの前に横付けする。  つやつやした車体を見て、カッちゃんが「へえ、新車だ。でか いの！」と、感心する。 「たっかそー」 おどろ

 だが亘は別の発見に驚いていた。ヴアンの横っぱらに会社名が 入っているのだ。 「株式会社 大松」  亘は目をパチパチさせた。そして、あらためていかつい小父さ んの顔を見あげた。 「小父さんは──大松三郎さんですか？」 なみだ

 思わず尋ねてしまった。いかつい小父さんは、笑いすぎて涙を ぬぐ

し

拭っていたが、つと口元を引き締めて亘を見おろした。  返事は聞かなくても、その表情で、亘には、この人こそが不運 な幽霊ビルのオーナーである大松三郎社長であるとわかった。そ むすこ

して眼鏡の兄ちゃんは、大松社長の息子さんなのだ。

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 ヴァンのドアが開いた。何か機械音がして、奥からアームのよ くるまいす

うなものが延びてきた。その上に、するすると車椅子が進んでく る。車椅子が停まると、アームが降りて地面に着地した。  車椅子の上には、髪をポニーテールにした、ほっそりとした女 きゃしゃ

の子が座っていた。アームや椅子の動きにつれて、華奢な首に支 えられた形のいい頭がグラグラしている。 「ご近所の誰かに、私のことを聞いたのかね？」大松社長は亘に 尋ねて、自分で返事をした。「そうなんだ、私はここのビルの建 て主だよ。あれは息子の則之」  眼鏡の兄ちゃんが車椅子を押してこちらに近づいてくる。車椅 子の上の女の子は、亘たちの方にも、小父さんの方にも、目を向 けようともせずにただ首をグラグラさせている。その目は開いて はいるけれど、ほとんど何も見ていないようだ。 むすめ

「で、これが娘の香織」 ひじか

やさ

 大松社長は近づいてきた車椅子の肘掛けを、優しくぽんと叩い おお

あわ

た。香織の両手は、膝から下を覆っている淡いピンク色の膝掛け かく

こた

の下に隠れていて見えないし、父親のそうした仕草に応えようと する様子もまったくない。 「僕ら、怪しい者じゃないよ、本当に」 えがお

なだ

きづか

 大松則之が笑顔で言う。亘を宥めようとする気遣いが伝わって おび

くる。それほどまでにさっきの僕は、怯えて動転しているように か

見えたのだ──亘は舌を噛んで、ジガイしたくなった。 「妹を散歩に連れ出すついでに、ビルの様子を見ようと思って来 の ら ね こ

たんだ。このとおりの状態だから、ゴミを捨てられたり、野良猫 が入り込んだり、それこそ色々あるからね」 「そうですか、スミマセンでした」

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は

 恥ずかしさのあまり、社長とも則之とも、カッちゃんとさえ視 線をあわせなくていいように、深く深く頭をさげた。そうやって に

身体をふたつにたたんだまま、回れ右をして家に逃げ帰りたかっ た。 おそ

「こんな遅い時間に散歩するんスか？」  亘の気も知らず、カッちゃんはそんな質問を発する。亘がバカ こ

づ

やめとけよと小突く前に、大松社長が答えた。 「うん……娘はちょっと具合が悪くてね。あんまり人が大勢いる いや

ときに外へ連れ出すと、嫌がるんだよ」 「そっか、夜なら静かですもんね」 なっとく

 カッちゃんは深く考えるふうもなく納得したけれど、亘は、大 か

松父子がちらっと視線を交わして、ちょっとつねられたような顔 をするのを見てしまった。  大松香織はきれいな女の子だった。周りの人びとが彼女を指し て「きれい」 ほこ

と評するとき、「きれい」という言葉の精は、本当に誇らしくて うれ

嬉しくてたまらないだろう。「アラあたしそれほどのもんじゃあ りませんわ」と照れるかもしれない。それくらいの「きれい」だっ た。  亘はこれまでの十一年の人生で、こんな美人の女の子には初め て会った。これほどお人形に近い女の子にも初めて会った。しゃ いっさい

べらない。笑わない。外界に対して一切反応しない。視線はうつ ろ。ただまばたきをするだけの両目。目は心の窓というけれど、 この窓は人形の家の窓なのだ。 「香織は中学一年だから」則之が妹の方にちょっと身をかがめな がら言った。「君らよりは姉さんだな。君らは何年生？」

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 とっさに、亘は「六年生」と答えようと思った。亘もカッちゃ こがら

んも小柄な方なので、中学生ですというウソは全然通らない。で も、一年でも大人に見せたかった。  ところがバカ正直なカッちゃんは、 「五年です。城東の」と、お答えになった。 「城東第一小学校？ ああ、そうか。じゃあ君らもやっぱり幽霊 探検隊なんだな」  則之が吹き出した。大松社長も笑っている。がちっとした体格 ゆ

の

の社長が腰を揺らすようにして笑うと、彼が手を載せている香織 いっしょ

の車椅子も一緒に揺れる。彼女の首がグラグラする。 「探検隊って──」 うわさ

「このビルに幽霊が出るって、噂になっとるんだろ？ それを確 かめるために、子供たちが夜遅くにビルに近づいたり、中に入り 込んだりしようとする。君らが初めてじゃないよ。危険だから管 しか

理をしっかりしてくれって、城東第一小学校のＰＴＡからもお叱 りを受けたよ」 「いつごろですか？」 おやこ

 大松父子は首をひねった。則之が答えた。「もう半月は前かな」  亘はがっかりした。とっくに先を越されていたのか。 「僕たちも、事実を調べに来たんです」 と

「幽霊探検隊は、写真を撮りに来てたよ。心霊写真というヤツ か？」  則之がうなずく。「ポラロイド持ってね」 「僕らはそんな遊び気分じゃありません。ホントに幽霊の正体を 確かめたいんです」 とつぜん

「あ、そうか」カッちゃんが、突然声をあげてボンと両手を叩い

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た。「幽霊探検隊のヤツらって、六年生じゃないスか？ テレビ 局に幽霊の写真持ち込んでとか、そういう話じゃなかったスか？」 くしょう

「そうそう、その話」則之が苦笑混じりに大きくうなずいた。 「リーダー格の──なんて名前だったかな、態度の悪いガキだっ たんだけど」 いしおか

けんじ

「石岡でしょ？ 石岡健児」 「そう！ よく知ってるね。友達かい？」 つ

「全然。だけどうちのオヤジと石岡君のオヤジが釣り仲間なんス。 石岡君たちがテレビの心霊写真コーナーに出るとかなんとか、そ んな話をオヤジさんがしてたって、オレはオヤジから聞いたんで ス。あれ、こんがらがってるかな、わかりまス？」  石岡健児とその仲間たち数名は、六学年のトラブル・メイカー である。もともと要注意の生徒たちだったらしいけれど、四年生 の後半ごろから問題行動が激しくなり、今では城東第一小学校全 体の持て余し者となっている。  そもそも学校とは何をするところかということがわかっていな き

い。だから授業など聴かない。教室には好きなときに出入りする。 ちこく

さわ

遅刻、早退、無断欠席は当たり前。騒いで先生の邪魔をする。備 ぬす

こわ

いじ

品を盗む。壊す。同級生を虐める。お金をゆすり取る。 小学生でも、やることはほとんど非行高校生並みだ。 なげ

 ただ、嘆かわしいことに昨今、この程度の問題児ならば、どの かきね

学年にも一人や二人はいるものだ。石岡たちが、学年の垣根を越 えて、一気に〝全国区〟になったのは、去年の夏休みの校庭開放 わき

ちゅうしゃ

のときに、正門の脇に駐車してあった校長先生の自家用車を動か はなづら

して校庭中を走り回り、遊びに来ていた下級生たちを車の鼻面で け

が

追い回して、三人に怪我をさせるという事件を引き起こしてから

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のことである。 きんきゅう

 このときは、翌日すぐに講堂で緊急の父母集会が開かれ、校長 えんだん

先生が事件の経過説明をすると同時に、演壇に頭をすりつけるよ うにして謝罪した。あんな場所に、いくら短時間とはいえ、キー けいそつ

をつけたまま車を停めていた私が軽率でしたという謝罪である。  この日、校長先生は、自宅で使っている眼鏡が壊れてしまった ので、校長室の机の引き出しにしまってある予備の眼鏡を取りに 来たのだという。用事はたったそれだけで、しかも先を急いでい もよお

とちゅう

た。皮肉なことに、何か教育委員会が催す集まりに出かける途中 だったのだそうだ。  一学年上の生徒たちが引き起こした事件だったとはいえ、怪我 人のなかには亘の同級生もいたので、邦子はこの集会に出席した。 おこ

そして、プリプリ怒って帰ってきた。 「校長先生ったら、どうしてあんなに謝るのかしら。おかしいと とが

思わない？」と、母は口を尖らせたものである。 「何もかも車を停めておいたワタクシが悪かったのですなんて、 これはそういう問題じゃないわよ。勝手に乗り回した子供の方が 悪いんじゃないの」  それでも集会では、校長先生の責任を問う意見の方が断然優勢 だったのだそうだ。 「子供は何でもいたずらしたがるものなんだから、大人の方が気 をつけなくちゃいけないんですって。どうかしてるわ。それどこ ろじゃないのよ、小学生なのに車を操作することができるなんて たいしたもんだなんて意見まで出てたんだから。まったく、世も 末ね」 かす

 怪我をした三人が、ほんの擦り傷程度で済んだこともあってか、

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ざ

騒ぎはそれ以上拡大することにはならなかった。もちろん警察沙 た

汰にも新聞ネタにもならなかったし、校長先生の首もつながった。 足し算引き算が終わってみれば、石岡たちが増長して、ますます な

学校を舐めてかかるようになっただけだった。  そういう連中のことだ。亘は不思議だった。石岡と心霊写真？  どうやっても結びつきそうにない。 「その六年生たち、最初からテレビの心霊写真コーナーに出るの が目的だったのかな」 「そんな感じだったよ」則之が答えて、ちょっと横目になってビ ルの方を見た。「いい写真が撮れなかったら細工すれはいいんだ というようなことも言ってたしね」 「ひどいなぁ。そいつらもやっぱり、ここで大松さんたちと会っ たんですよね？」 「うん。でも、そのときには子供たちたけじゃなくて、大人が二 人一緒だった」 「あの大人たちは、テレビ局の人間だったんじゃないかねえ」と、 大松社長が腕組みする。 う

「あり得るね」則之がうなずく。「僕らと顔をあわせたときには、 バツが悪いのか保護者みたいな態度をとってたけど、ありゃテレ ビ局のスタッフだな」  亘はカッちゃんの方を振り向いた。「そのへんのことは小父さ んから聞いてないの？」  カッちゃんはかぶりを振った。「聞いてない。でも、出演する い

ば

ことは決まってるんだって、威張ってたらしいぜ」 み

「その番組、観た？」と、則之が聞いた。 「観てません。ここんとこ、石岡の小父さんもうちには来ないし

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──あ、うち居酒屋なもんスから」カッちゃんは商人笑いをした。 「ってことはその番組、お流れになっちゃったのかなぁ。うちの だま

オヤジも黙ってるし」 「それともこれから放映されるのか」 「あ、そうかもね。テレビって、案外時間かかるんでしょ？ そ うスね、きっと」 ふ

いっしゅん

 風が吹きつけてきて、青いシートがバタついた。みんな、一瞬 はっとした。 「なんで僕らまでぎょっとするんだろ」  笑いだしながら、則之が言った。気がつくと、みんなしてビル あお

を仰いでいた。 「ここに幽霊なんか出るわけがないってことは、僕らがいちばん よく知ってるのに。親父までそんな顔しちゃってさ」  大松社長は照れたように額をこすった。そんな仕草をすると、 ぎわ

はえ際がだいぶ後退していることがよくわかった。 はる

「そうだよな、幽霊なんぞより、生きてる人間の方が遥かに恐ろ しいんだ」  何気なく口にされた言葉だった。少なくとも亘の耳にはそう聞 こえた。お化けを怖がる小さな子供に、分別のある大人が言って せりふ

聞かせるにふさわしい台詞。  それなのに、口にした大松社長もそれを聞いた則之も、まるで ふ

恥ずかしいことでもしたかのように、てんでにさっと目を伏せた。 「さ、そろそろ帰ろうか」  則之が香織の車椅子の後ろに回り込むと、ストッパーを外した。 車輪がキーと鳴った。 「そうだな。君らも乗って行きなさい。家まで送ってあげる」

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「僕らは大丈夫です。すぐそこだから」 「そうはいかないよ。大人として責任があるからね。さ、乗った 乗った」 つ

 結局、亘もカッちゃんもヴァンに詰め込まれることになった。 車内で亘は、車椅子ごとシートに固定されている香織のすぐ隣に にお

座った。彼女の髪からシャンプーの匂いがした。車のなかで女の か

子の髪の匂いを嗅ぐなんて、少なく見積もっても五年は早いよう な気がしたけれど、それでどきりとするよりは、ツンと胸が痛ん だ。香織は動かず、笑わず、しゃべらず、ただ人形のように座っ ている。そんな彼女の髪が、こんないい匂いをさせているなんて。 はだ

彼女の顔がきれいなのも、肌がせっけんみたいに白くてすべすべ つら

なのも、手足がすんなりと長いのも、かえって辛い。 「小村」の方が近いので、まずカッちゃんを送り、それから亘の マンションへ向かった。 「僕は近くで降ろしてくれればいいです」  運転席で大松社長が笑った。「車で乗り付けたりすると、大き な音がするから、夜中に家を抜け出したことがバレるからかね？」 きょうしゅく

 亘は正直に恐縮した。「うちの父、いつも帰りが遅いから、 ひょっとしたらマンションの入口のところでばったり会っちゃう かもしれないんです──」 「だけど、こっそり忍び込もうとして、今度は君が泥棒に間違え られたりしたら困るだろ？」  結局、入口の手前の道路で降ろしてもらった。マンションに人 影はまったく見あたらず、建物ごと寝静まっていた。亘が走って エレベーターホールまでたどり着くのを見届けて、大松父子のヴァ てんめつ

ンはヘッドライトを一度点滅させると、すうっと立ち去った。

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 翌日のことである。 「バレなかった？」  一時間目の授業が終わると早々に、カッちゃんが寄ってきた。 「帰ったら小母さんが起きててサ、一晩中叱られてたなんてサ？」 ぬ

いぜん

 亘は首を振った。抜き足差し足で家に帰ったら、母さんは依然 ねむ

としてテーブルに突っ伏して眠っていたし、父さんはまた帰って いなかったのだ。 「じゃあ、全然セーフだったんじゃんか。なのに、なんでそんな 眠そうな顔してんだよ」 「カッちゃんはよく眠れたの？」 「帰ったらコロリ」 「どういう神経してんだよ」  カッちゃんはクリクリ目を丸くした。「眠れないとまずかった スか？」  亘は香織のことを考えていたのだ。大松社長と則之の、何か隠 しているような、深い事情がありそうな態度も気になって仕方な かった。帰宅して落ち着いてから考えれば考えるほど、どんどん おかしな感じが強くなってきて、それで明け方まで眠れなかった のだ。 「そうかなぁ。いい人たちだったじゃん」 「そりゃ、親切だったよ。だけど親切過ぎないか？」 「何で？」 ふつう

「あんなところでオレたちみたいな子供に出くわしたら、普通の 大人は怒るよ。だけどあの人たちは笑うだけで、ちっとも叱ろう としなかった」 「前に石岡たちのことがあって、慣れてたからじゃないの？」

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「そんなんじゃないよ」亘は言って、じっと机を見つめた。新学 あた

期に与えられたこの机は、つやつやした表面に、前の年にこれを みやげ

使っていた上級生からの置き土産が刻み込まれている。漢字が二 ごくあく

ほ

おもしろ

文字、〝極悪〟なんでこんなものを彫るのか。これのどこが面白 いのか。 「大松さんたちには、きっと、幽霊を探しにくるガキなんかより、 もっとずっと深刻なことがあるんだよ。そっちの方に頭も心もと よ

そ

ち

られてるから、夜中に出くわした他所ン家の子供なんて、気にし よゆう

てる余裕ないんだよ。どうでもいいから親切にできるんだよ」 ぼうず

 カッちゃんは、ほとんど坊主刈りに近いほど短く刈った頭をガ リガリかいた。そしてひどく困った顔をした。こういうことは、 しんけん

今までにもよくあった。亘にとって真剣なことが、ちっともカッ ちゃんに伝わらないのだ。すると亘はひどくイライラしてカッちゃ んに当たり散らしたくなるのだが、そういうときの自分の顔つき が、〝小村さんのところは水商売だから〟と言い捨てるときの母 邦子の顔とそっくりだ──という事実には、自分ではまったく気 がついていなかった。 「それってあの、香織って子のことかなぁ」 つぶや

 カッちゃんはぼそっと呟いた。きっと間違ってるに違いないか ら、亘に聞こえない方がいいな、でももしかして万にひとつあっ ていたら、そのときだけは聞こえてほしいな──というぐらいの 音量た。  そしてそれはあたっていた。 「決まってるじゃんか。そうだよ。それ以外にあるかよ」  カッちゃんがあてたので、亘はますます腹が立った。こっちが 言うセリフを、なんで先にあてちゃうんだよ。

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「あの子、病気かな」カッちゃんはますます気弱に呟いた。「顔 とか見ただけじゃ、元気そうなのにな。なんで全然口きかなかっ たんだろう」 ひとご

 亘は考えていた。あの〝散歩〟だって、すごくヘンだ。人混み きら

が嫌いだったら、公園とか水辺とかへ行けはいい。どうして夜中 に連れ出さなきゃならない？ だいいち、香織は具体的にどこが どう悪いのだろう。  ひょっとしたら、あの子があんなふうになってしまったことと、 はんぱ

かか

中途半端に立ち往生している幽霊ビルとのあいだに、何か関わり があるんじゃないだろうか。だからこそ、大松社長はひっそりと 目立たないように深夜を選んで、わざわざ香織をあそこまで連れ てきているのじゃないのか。  亘が黙り込んでいるので、カッちゃんはますます困り、もじも じした。 「あのさ、石岡たちのテレビのこと、今朝オヤジに聞いてみたん だ。あれから石岡の親父さんが何か言ってないかって」 お

ば

 商売柄、小村の小父さんも小母さんも夜が遅いが、朝食だけは そろ

しょくたく

家族揃って食べるのが習慣だ。一日に一度は、家族みんなで食卓 を囲みましょう。そういう標語みたいなことが、小村の人たちは うるわ

かな

みんな大好きだ。一日一善とか、仲良きことは美しき哉とか。 「わからないって。石岡の親父さん、ずっと来てないっていうん だ。だからテレビのことはよくわかんなかったよ」 「ふうん」と、亘は鼻先で返事した。 「あのビルの幽霊のことは、もういいよな？」カッちゃんはヘラ おんな

ヘラ言った。「石岡たちと同じことするなんて、バカっぽいもん な」

43

 亘は黙っていた。カッちゃんはまた頭をぼりぼりかいて、じゃ もど

そういうことでどうもネとかなんとか言って席へ戻っていった。 ベルが鳴り始めた。  亘はカッちゃんの後ろ姿を見た。あの頭は、小村の小父さんが バリカンで仕上げるのだそうだが、たいていの場合、ちょこっと トラになっている。トラ刈りの部分は毎回少しずつ場所を変え、 形も変わる。それでもカッちゃんは文句を言ったことがない。  香織の髪のシャンプーの匂いを思い出した。  小村の小父さんが二週間に一度、なんだかんだ話したり笑った おど

り、動くと耳まで刈っちまうぞと脅しながらカッちゃんの髪を刈 るように、無表情な香織に話しかけながら、笑いかけながら、彼 かわ

くし

女の髪をシャンプーして、乾かして、櫛でとかして、ポニーテー ルにしてあげる人がいるのだ。たぶんお母さんだろう。きっとす ごく悲しいだろう。香織が返事をしてくれないことが。生きてい ながら死んだようになっていることが。  いったい、香織に何があったんだろう？  大松家の三人は、亘にとって、今までと同じような想像力の働 かせ方をしていては、けっして理解することのできない暮らしを している人びとだった。亘の家はサラリーマン家庭だけれど、店 をやっているカッちゃんの家の暮らしぶりを想像することはでき る。隣の席の女の子は両親が二人とも教師だ。教師の家というの も想像することができる。同じようにして、父親が消防士だとい りこん

う家庭のことも、離婚して母親だけだという家庭も、父親が海外 ふにん

に単身赴任しているという家庭も、想像することはできる。たと えその想像が実像から遠くかけ離れていようとも、亘の側から 「あんなもんかな、こんな具合かな」と想像することさえできれ

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ば安心だ。  だが、大松家の人びとはそうではない。家のなかに、あんな状 こ

かわい

態に引き籠もってしまった可愛い女の子がいて、彼女をあんなふ みんな

うにしてしまった何かしらの原因があって、それを皆で抱え込ん らちがい

でいる──そんな暮らし、そんな家庭は、亘の想像の埒外にあっ た。だいたいこんな具合だろうと、わかったような気分になるこ とさえできない。子供は大人になるまでのあいだに、様々な形の ざせつ

挫折を経験するけれど、その挫折の大半は、今まで自分が教えら みが

れて磨いてきた価値観や想像力では手に負えないものにぶつかっ たことによるものだ──という成長の公式に、ここで亘は初めて ふ

触れているのだが、もちろん自分ではそれに気がついていなかっ ひ

た。だからイライラするのだし、だから興味を惹かれるのだとい うこともわかっていなかった。  その日は授業にも全然身が入らなかった。家に帰ると、邦子が せんたくもの

リビングいっぱいに洗濯物を広げてアイロンをかけていた。機械 的に手を動かしてＹシャツやズボンにアイロンをあてながら、目 くぎづ

はテレビに釘付けだ。それでいて折り目が曲がったりしない。 わざ

〝お母さんの曲芸〟と、父の明が称するところの技だ。 ま

す

 いつもなら「ただいま」もそこそこに、真っ直ぐ部屋に入って、 塾へ行くまでの時間をテレビを観たりゲームをしたりして過ごす のだが、亘は足を止めて、母に話しかけた。「ねえ、三橋神社の 隣の幽霊ビルのことで、最近何か聞いてない？」  邦子はうわの空で生返事をした。「え？」 「あの建てかけのビル、大松さんていう社長さんが建て主なんで しょ？ その人の家に、中学生の女の子がいるんだって」 えり

 邦子はＹシャツの襟をばんばんと叩きながら、「あらそう」と

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言った。一瞬だけテレビ画面から目を離し、手元を見て、くっつ いていた糸くずをつまんで捨てる。それからまたテレビの方に目 を戻す。 「お母さんの友達の不動産屋の奥さんなら、何か知ってるかな？」  邦子は返事をせずにテレビを観ている。サスペンスドラマのよ かぎ

うだ。鍵のかかっていないドアを開けてヒロインがある部屋に足 ふ

を踏み入れる。そこに死体が転がっている。キャーと叫んで、コ マーシャルだ。そこでやっと邦子が亘の方を見た。 「何？ 何が何だって？」 く

 亘は質問を繰り返そうとしたが、急に嫌になってしまった。 「何でもない」と、足元に向かって言った。 「ヘンな子ね。冷蔵庫にチーズケーキが入ってるわよ。今日は塾 でしょ？ 自転車で行くのはやめなさいね。今日はあのクローバー 橋のところで工事してるから。手を洗った？ うがい薬が切れて たら、洗面台の下の引き出しに、新しいのが入ってるから」  母さんは、亘が朝学校へ行って、午後家に帰ってきたときには 山のタヌキに変身していたとしても、ちゃんとただいまと言いさ えすれば気にしないんじゃないかと思うのは、こんなときである。 さっさとチーズケーキをもらって、部屋に入ろう──と立ちあがっ たとき、電話が鳴った。 「ちょっと、出て出て」  アイロン台の前に座り込んでいる邦子は、すぐには立ちあがれ ない。今年に入って二キロほど太ったら、正座するとすくに足が しび

痺れるようになって困ったわと、つい最近も電話で誰かとそんな おしゃべりをしていた。 すみ

かべか

 亘はリビングの隅の壁掛け電話機に近づき、受話器を取りあげ

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た。「はい、三谷です」  しーんとしていた。 「もしもし？ 三谷ですけど」  また、しーんとしている。もう一度もしもしと呼ひかけて、返 事がないのを確かめると、亘は受話器を置いた。 「間違い電話？」と、邦子が訊いた。 「そうみたい」 「最近、多いのよ。こっちか出ると、黙ってるの。そのうち切れ ちゃうの」  電話のそばに来たついでに、カッちゃんにかけて、今日はキゲ ン悪くてごめん、帰りもさっさと一人で帰っちゃってさらにごめ んと言おうかと思ったけれど、結局やめた。  そのとき、また電話が鳴った。最初のベルが鳴り終えないうち に、亘は受話器を取った。 「もしもし？」 き げ ん ち

そこ

 また、しーんとしている。それでなくても今日はご機嫌値が底 ね

値の亘は、瞬間的にブチッと切れた。受話器を顔の前に持ってく ど

な

ると、大きな声で怒鳴った。 「用がなきゃかけてくんな、バカヤロー！」  バンと受話器を戻すと、邦子が目を見開いてこちらを見ていた。 心配そうというよりは、面白がっているような目の色だった。  その日は塾でも勉強に集中できなくて、亘にしてはめったにな いことなのだが、二時間のあいだに三度も先生に注意された。三 度目のときには、「具合でも悪いのか？」と尋ねられてしまった。  亘自身にも、よくわからないのだった。気がつくと昨夜の出来 よみがえ

いと

事を頭のなかに蘇らせている。大松社長が愛おしげに車椅子の肘

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きゃしゃ

掛けをぽんと叩くと、香織の華奢な首がグラグラする。幽霊ビル ほお

を不格好に包み込むシートの色を映して、彼女の頬はまるでロウ みたいに青白く見える。そして彼女の髪からは清潔なシャンプー の匂いがする。同じ光景ばかりが心のなかでグルグル再生される のは、病気なのだろうか？ ビデオデッキだったら間違いなく修 理が必要なところだけれど、人間の場合はどうなのだろう。  ぼんやりとしたままの帰り道、また幽霊ビルに寄ってみようか と思った。塾は学校とは一八〇度逆の方向にあるので、遠回りど ころか家の前を通り過ぎてしまうことになる。それでも寄ってみ げんかん

ようかと思った。マンションの共同玄関が見えるところまで帰っ てきたところを、思いがけなく呼び止められたりしなければ、きっ とそうしていただろう。 「お帰り、今日は塾か？」  日をあげると、ほんの二、三メートル先に明が立っていた。右 かばん

さ

がさ

手に鞄を提げ、左手には折りたたみ傘を持っている。そういえば 今日、都心の方ではにわか雨が降ったらしい。 「お帰りなさい」と、亘も言って、父に近づいていった。明は亘 が追いつくのを待たずに、ゆっくりと共同玄関の方へ続くスロー プを歩き始めた。 「お父さん、今日は早かったんだね」  亘の左手首のデシタル腕時計は、午後八時四十三分を示してい せわ

る。忙しなくまばたきしながら一秒の百分の一から時を表示して くれるこの時計は、昨年の秋に明が仕事でロサンゼルスへ行った みやげ

ときに買ってきてくれたお土産だった。向こうではとても人気の あるバスケットボール・チームのロゴが入っている。実は亘は、 バスケットボールにはまったく興味がないので、この時計はあま

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り嬉しくなかった。それよりもワーナーの出しているオリジナル グッズがほしかった。だから普段はほとんどこの腕時計を使わな い。今夜はラッキーだった。父さんはきっと、亘がこの時計を気 に入っていると思ってくれるだろう。 「学校はどうだ」 「うん」と、亘は答えた。それだけだった。この問いと答は、こ こ一年ほどのあいだに、父子のあいたで完全に定番となってしまっ たやりとりだった。亘が「うん」の後に言葉を続けても、父は黙っ て聞いているだけだろうし、明が「どうだ」の後に何か具体的な ことを聞いても、亘は「うん」としか答えないだろう。そう、だ ろうだ。実際には、まだそういうことは一度もないから。  三谷明は、もともとあまりおしゃべりな人ではない。一方、邦 子はよくしゃべる。亘が聞いている限りでは、一対十くらいの割 た

か

合で邦子の方が断然優勢だ。日常生活のなかでは、発言量の多寡 は、そのままその発言者の意見の威力とイコールで結ばれる。要 するに、〝うるさく言った方が勝ち〟ってことだ。つまり三谷家 かじと

は、邦子の意向に添って舵取りされることになるわけだ。  ただ、事が「日常」ではなく、「日常の土台」に関わる問題と かもく

なると、様相は一変する。そして日ごろは寡黙な三谷明が、千葉 ば

あ

りくつ

のお祖母ちゃんの言うところの「腹が立つはどの理屈っぽさ」を こうにゅう

発揮するのも、そういう局面である。今のマンションを購入する 時がそうだった。邦子が亘を私立の小学校へ入れたがったときも そうだった。亘の学習塾を決めるときもそうだったし、車を買い か

換えるときはいつもそうだ。明は目の前の問題について、たくさ んの下調べをして、よく考えて、いちばん筋道通っていると判断 あいまい

した結論を選ぶ。そこには曖昧な「感じ」とか「そうした方がよ

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さそう」とか「みんなそうしてる」とか「これが世間並みだから」 などといういい加減な物差しは通用しないのである。対象が車な か ん き ょ う

らば燃費や安全性、マンションならば施工業者や居住環境と、デー タできちんと提示できるものを示さないことには、そういう時の なんぴと

三谷明とは、何人も議論することはかなわない。 じ

い

 ちょうど十年前、三谷のお祖父ちゃん──つまり明の父親であ り、千葉のお祖母ちゃんの連れ合いであり、亘のお祖父ちゃんで な

しんせき

ある人が亡くなった時の、明のふるまいときたら、今でも親戚じゅ うの語りぐさになっている。そのころはまだ赤ん坊だった亘でさ え、親族が集まるたびにその話を聞かされるので、自分で見聞き きおく

したことのようにしっかりと記憶してしまったほどだ。 そうしき

ぎしき

 葬式に限らず、儀式のたぐいには、由来も理由もはっきりして いないけれど「とりあえずこういう場合にはこうする」というし ていこう

かいみょう

きたりが付き物だ。明はこれに片っ端から抵抗した。なぜ戒名に ランクがあるのか。その上下が納める金額で左右されるのはなぜ つ

や

か。亡父と仲の悪かった親戚が、親戚だというだけで通夜の席で みもの

大きな顔をするのは納得がいかない等々──それはそれは見物だっ たらしい。 もしゅ

 お祖父ちゃんの葬式だから、喪主は当然お祖母ちゃんなわけだ が、そのお祖母ちゃんがとうとう音をあげて、 「明、いい加減で折れて、静かにお葬式をあげさせておくれよ」 ひつぎ

た

と泣きを入れなければ、お祖父ちゃんの棺は一週間経っても千葉 の家から一歩も出られなかっただろう──という。  親戚の人たちも、「明さんて、頭はいいけど静かでおとなしい 人だと思ってたのに、言い出したらきかないのねえ」と、いっぺ にんしき

んで認識をあらためたそうである。

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「母さんは、そんなこととっくに承知の上だったから、面白かっ たわよ」と、邦子は笑って話してくれる。 こわ

 三谷明は、怖い父親ではない。何もわからない赤ん坊や、うっ かりすると危険なことをしかねない幼児のころは別として、物心 ついてからは、亘は一度だって怒鳴られたことはないし、ぶたれ たこともない。今までのところは、父の最終兵器である「理詰め いそが

の論争」を持ち出されたこともない。忙しくてそんなことをして いられない──という側面は、もちろんあるのだけれど。  亘には、父さんのことが、今ひとつよくわからない。ただその ふ ゆ か い

い ご こ ち

「わからない」は、不愉快で居心地の悪い「わからない」ではな い。父さんというドアは開いていないし、これからもめったなこ とで開きはしないけれど、その向こう側にあるものは、亘にとっ て大切なもので、父さんもまたそれを大事に考えてくれているの ばくぜん

だと漠然と感じる──とでも言えはいいだろうか。  亘は、けっこう父さんが好きだったりする。自分のことをしゃ べりたがる人ばかりか大勢いる──身の周りにもテレビのなかに も学校にも──毎日のなかで、黙って忙しそうにしている父さん としごろ

は、かなりカッコいいと思うこともある。この年頃の子供が実は いだ

みんなそうであるように、彼が父親に対して抱いているイメージ は、つまるところ、母親の三谷邦子が夫である三谷明に対して抱 いているイメージを、ほとんどそのまま映しているものなのだっ た。  邦子は、夫が黙ってうなずきながら聞いているだけであっても、 しょうだく

面白いこと腹の立ったことちょっと相談のあること事後承諾だけ ど決めちゃったのよというようなことを、次から次へと楽しげに しん

話す。ちょっと前までの、芯から「お子さま」であったころの亘

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ゆ

もそうだった。でも今の亘は、アルデンテに茹でたスパゲティの 芯みたいなものではあるけれど、「お子さま」にはない一個の人 間としての芯ができつつあって、その芯は亘に、「うん」だけで すす

あとは黙っていることを勧めるのだ。それが男と女の違いなのか もしれない。あるいは、邦子のなかにはないが、亘のなかにある わざ

明の遺伝子のなせる業なのかもしれない。  それでも今夜は、「うん」の後、二人でエレベーターホールへ 歩いてゆくあいだに、少しばかり心が揺れた。父さんに話してみ たくなったのだ──いろんなことを。 けんめい

 幽霊ってホントにいるの？ みんなが一生懸命信じていたり、 面白がったりしてることには、たとえそれがデタラメなことでも、 調子を合わせた方がいいの？ そうしないと嫌われるの？ 父さ んはそういうの嫌なんでしょ？ でも、だからって、三谷なんか ののし

大嫌いだって罵られたことはないでしょ？ 僕も父さんみたいに なれる？ 間違ったことは間違いだって言っても、人とケンカし ないでいるにはどうしたらいいの？  そしてあの──何ひとつしゃべらない、外界から切り離された みたいな、大松香織のこと。ねえ父さん、まるで、テレビゲーム とう

ひめさま

のなかに出てくる塔のなかに閉じこめられたお姫様みたいな女の 子に会ったんだ。ホントにそういう女の子がいたんだ。僕、ちょっ とその女の子のことが気になるんだ。どうしたんだろうって、気 になるんだ。そういうことって、父さんにもあった？  たくさんの言葉が頭のなかで渦巻いて、でも結局出口が見つか らずに、家まで着いてしまった。  久しぶりに三人揃っての夕食で、邦子は忙しくいろいろなこと を明に報告したり、相談したり、様子を聞いたり、とにかくにぎ

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やかだった。母さんはとても楽しそうで、その気分が亘にも移っ お

い

て、夕食は美味しかった。 はし

ちゃわん

 食事が済んで、亘が自分の皿と箸と茶碗を台所へ運んで行こう と立ちあがったとき、電話が鳴った。急いで受話器を取る。  しーんとしている。 「また？」と、邦子が箸を止めて尋ねる。 「また」と答えて、亘は受話器を置いた。 まゆ

「このごろ多いの、無言電話」邦子が眉をひそめた。「気味悪い わ」  明はちょっと首をよじって電話の方を見た。 「このぐらいの時間にかかってくるのか？」 「いつもは昼間だけど──昨日もそうだったよね、亘」 「うん。続けて二回」 「亘も何度か取ったことあるのか？」 「ううん、僕は昨日が初めてだった」  明は手にしていた茶碗をテーブルに戻して、また電話の方を振 り返った。「留守電にしておいたらいいじゃないか」  邦子が笑った。「いいわよ、エッチ電話じゃないしね。それに、 千葉のお祖母ちゃんから電話かかってきたとき、留守電にしてお めんどう

いたりしたら、あとが面倒だもの」 れいぞうこ

 それもそうだなと、明も少し笑った。亘は冷蔵庫からアイスク リームを出して、水切りからスプーンを取り、テーブルに戻ろう として、そこでまた電話が鳴った。 「僕が出る！」  叫んで、亘は受話器に飛びついた。昨日と同じように、一発怒 いかく

鳴ってやろうと思ったのだ。だから最初から威嚇的に「もしも

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し！」と、できるだけ太い声を出した。  すると、底抜けに陽気で、本物の野太い声が返ってきた。 「お、亘かぁ？ えらく気合い入ってるなあ」 さとるおじ

ひょうし

 ほかに間違えようがない。千葉の悟伯父さんだ。亘は拍子抜け した。 「なぁんだ、ルウ伯父さんか」 あいさつ

「なんだとはご挨拶だぜ。元気でやってるか？」 「うん、元気だよ」 きょひ

「おまえはちゃんと学校行ってる子供なんだろうなぁ。登校拒否 とかしてねえか」 「してない、してない」 「イジメられて金ゆすられてねえか」 「ないない」亘は吹き出してしまった。「伯父さん、よくない ニュースばっかり見過きてない？」 え

ど

ろうやしき

「そうかぁ。今時の学校は、江戸時代の牢屋敷みたいなんじゃね えのか」 「なんかよくわかんないけど、全然違うよ」 「そっか。やっぱテレビなんてあてにならないってことだな。そ れでおまえガールフレンドはできたか？」 「できるわけないよ」 はつこい

「遅いなあ。五年生だろ？ 初恋ぐらいしろよ。ドキッとなるよ うな女の子がいないのか、周りに」  悟伯父さんは、近ごろは事あるごとにこの話題で亘をからかう あざ

ので、慣れっこの台詞だった。それなのに、今夜はその言葉が鮮 やかに耳を打った。亘は自分の顔が赤くなってしまったのではな いかとうろたえて赤くなりそうになった。

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〝ドキッとなるような女の子〟というところで、目の奥に、一瞬 だけれど消しようがないほどはっきりと、大松香織の顔が浮かん ひとみ

でしまったのだ。白い頬、大きな瞳。 「い、いないよ」両親のいるテーブルに背を向けて、あわてて言っ た。「うちのクラスの女子なんか、全然かわいくないんだからさ」 どうよう

「フーン、そりゃ残念だな」悟伯父さんは、亘の動揺に、まった く気づかない。「ところで、お母さんいるか？」 「いるけど、今日はお父さんも帰ってるよ」 きせい

めずら

 電話の向こうで奇声があがった。「世にも珍しいことがあるも んだなぁ。じゃあお父さんを出してくれや」  ルウ伯父さんだよと言い終えないうちに、すぐ後ろに来ていた 明が、亘の手から受話器を受け取った。そして、「ちゃんと悟伯 父さんと呼びなさい」と、珍しくびしりと注意をした。  三谷悟は、三谷明の五歳年上の兄である。十六歳の秋に地元の つ

高校を中退して家業を継ぎ、今もそのまま継いでいる。大学から 東京に出てしまった明とは対照的に、房総から一歩だって離れる 気のない人だ。海と船と海釣りが死ぬほど好きなのである。 きしょう

 二人きりの兄弟だけれど、気性は一八〇度違っている。悟伯父 さんはよくしゃべるし、しゃべることの筋道はほとんどの場合、 いっかん

まったく一貫していない。理屈などというものとは遠い場所で生 活しているというか、そもそもそんなものの存在を知らないみた いだ。  父さんと悟伯父さんは、体格も顔つきもまったく似ていない。 おもなが

中背で細身の父さんに、長身でがっちりタイプの伯父さん。面長 の父さんに、えらの張ったいかつい顔の伯父さん。今年四十三歳

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ようちえん

ふうぼう

の伯父さんは、幼稚園のときから今と同じような風貌だったそう ねんれい

で、最近になってやっとこさ、年齢が外見に追いついたのだそう である。 わざわ

 そういうもろもろが災いしているのか、はたまた本人のワガマ ひそ

マか、悟伯父さんはずっと独身である。千葉のお祖母ちゃんは密 のん

かにこのことで頭を痛めているらしいけれど、本人はいたって呑 き

気なものだ。結婚なんて面倒でよお、と言っている。でも子供は 嫌いじゃないらしい。亘にもよくかまってくれるし、ナイショで お小遣いもくれたりする。 お

じ

 亘には母方にも伯父さんと叔父さんが一人ずついるので、こん がらからないように呼び分けねばならない。母方の方はそれぞれ、 住んでいる場所で「小田原の伯父さん」「板橋の叔父さん」と呼 んでいるが、なぜか悟伯父さんだけは「千葉の伯父さん」にはな らなかった。ルウ伯父さんという呼び方は、亘がまだうんと幼く て、言葉がおぼつかないころに使っていたものだが、今でもつい つい口に出すことが多くて、そのたびにたしなめられてしまうの だ。 こ

 悟伯父さんの電話の用件は、「法事」とやらの込み入った事柄 のようだった。切る前にまた受話器を回してもらおうと待ってい ふ

ろ

た亘は、お風呂に入りなさいとリビングを追い出されてしまった。  母さんはよく、お風呂で一人になるといろいろ考え事をしてし まう、という。大人には、めったに一人きりになる時間などない からだそうだ。でも、それは子供だって同じだ。お風呂は物思い さそ

ざい

かお

を誘う場所なのだ。そして今夜、入浴剤の香りと共に亘の頭のな かに浮かんできたのは、やっぱり大松香織の顔だった。塔のなか の静かな姫君。閉じこめられているのか、閉じ篭もっているのか。

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 ──初恋ぐらいしろよ、か。  ルウ伯父さんの言葉を、胸の内で繰り返して、亘はまたどきり とした。お湯がちゃぷんと波立った。

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３ 転校生

ちゅうと

 彼がやって来たのは、春の連休に入る直前のことだった。中途 はんぱ

ささや

半端な時期の転校生だと、クラスの女の子たちが囁いていたもの だ。 「カッコいいんだって」 「成績いいんだって」 「英語ペラペラなんだってよ」 「お父さんの仕事の関係で、ずっと外国にいたんだって」  だって、だってで盛りあがるおしゃべりが、そこここで聞こえ ていたものだ。でも、亘にとっては、ピンと耳をそばだてたくな るニュースではなかった。 となり

 もちろん転校生は気になる存在だけれど、隣のクラスのことだ。 知らなければ知らないで済んでしまう。それに転校生というもの は

は、そのラベルが剥がれてただの同級生になるまでのあいだは、 どんなダイコンでもカボチャでも、三割増しくらいには良く見え るものだ。 おく

 亘の暮らすこの町は、不景気の最中だというのに遅れてきたマ わ

さか

ンション建設ブームに沸いており、人の出入りも盛んだ。だから、 むか

亘も五年生になるまでのあいだに、四人の転校生を迎えた。それ じゅうぶん

だけ見れば充分な経験になる。転校生が本当にラベルどおりの やつ

いん

〝スゴイ奴〟である確率は、道を歩いていて空から落ちてきた隕 せき

石に頭を打たれて死ぬ確率と、どっこいどっこいというところだ。 さわ

騒ぐ必要なんか、全然ない。そして、そうこうしているうちに、 ゆうれい

うわさ

幽霊ビルの噂の方がずっとずっと気になりだした──という具合

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だったから、実を言えば隣のクラスの転校生の名前さえ、はっき りとは覚えていなかった。 ちが

 だから、最初は話がすれ違って困った。 と

「アシカワが心霊写真を撮ったんだってさ！」 「見たの？ 見せてもらったの？」 「あたしは見てないんだけど、でもすっごいはっきり写ってるん だってよ！」  大松家の人びとと出会ってから、ちょうど一週間後のことだっ た。朝、あくびをかみ殺しながら教室へ入ってゆくと、教室の後 ろの出入口のところで固まっていた五、六人のクラスメイトたち が、てんでにそんなことを言って大騒ぎをしていたのだ。あれ以 来、いつも香織のことが心のどこかにひっかかっている亘にとっ て、幽霊ビルの「ゆ」の字でも聞き捨てならなかった。 「ホント？ ホントにそんな写真撮ったのかよ？」亘は話の輪に 飛び込んだ。「いつ？」 お と と い

「一昨日の午後だってさ」 「午後って……じゃ、昼間なの？」 「図工でスケッチしに行ったんだもん」 まちなか

さ

 図工の授業に、街中に咲いている花をスケッチしましょうとい う課題があるのだ。 か

「三橋神社のツツジ描きに行ってさ」 「それ……うちのクラスじゃないじゃん」 「だからアシカワが撮ったんだって」  そこで亘はようやく、話題の主が隣のクラスの転校生だと知っ たのだった。 「アシカワっていうんだっけ」

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「そ。ミツル・アシカワ。なにしろ外国育ち」  男子生徒の一人が気取ってそう言うと、女子たちが笑い転げた。 「バッカみたい。名前と名字をひっくり返せば外国人になるなん てもんじゃないよ」  亘には、転校生のプロフィールなどどうでもいい。問題は、そ いつが撮ったという心霊写真の方だ。 「その写真、見せてもらえるかな？」 うった

 みんな口々にかしましく、自分たちも見たいのだと訴えた。 あしかわ

「だけど芦川君、こんなもんで大騒ぎするのは良くないって、う だれ

ちに持って帰っちゃったんだって。それきり、誰にも見せてない んだってさ」 しゅんかん

すみ

 瞬間、亘は心の隅で喜んだ。アシカワという転校生は、ひょっ とすると僕と似たような考え方の持ち主なのかもしれない。こん なもんで大騒ぎするのは良くない、か。うん、いいじゃないか、 も

そのセリフ。僕も、この前クラスの女子と揉めたとき、そういう 言い方をすれは良かったのかもしれないな。 いっしょ

「隣のクラスには、誰か実物を見たヤツはいるの？ 一緒にスケッ チに行ったヤツらは見たんだろ？」  クラスメイトたちは何人か隣のクラスの生徒の名前を挙げた。 スケッチに行ったメンバーは、男子三人女子二人の五人組で、そ みやはらゆ う た ろ う

のなかには、隣のクラス委員の宮原柘太郎も入っていた。彼なら 亘の友達だ。 「写真撮ったカメラは、宮原君が持って来たんだって」と、大事 な情報を付け加えた。 「うちへ帰ってから、スケッチの細かいところを写真見ながら描 けるようにさ」

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 ポラロイドカメラだったそうである。宮原の提案で、一人一枚 ずつ、自分がスケッチしようと決めた構図をそのまま写真に撮っ けいだい

た。芦川は神社の境内から、境内を囲む木立と、隣の幽霊ビルを 仰ぐような感じのショットを撮ったのだそうだ。するとそこに、 人間の顔のようなものが写っていた──というわけである。 「その場で写真にヘンなものが写ってることがわかって、もう大 おもしろ

騒ぎになっちゃったんだって。最初は面白がってたんだけど、そ こわ

のうち女の子が泣きだしちゃって、みんな怖くなって帰ってき ちゃったんだってさ。スケッチはどうしたんだろうね？」 さっそく

 それだけ聞けば用は足りた。亘は早速、次の休み時間に隣のク ろうか

ラスへ出かけて行った。廊下に面した窓からなかをのぞきこむと、 まどぎわ

窓際のいちばん後ろの席について、前の席の女子生徒と、隣の席 の男子生徒と、盛んに笑いなから何か話をしている宮原の横顔が 見えた。  宮原祐太郎は学年一の優等生である。城東第一小学校ではまだ、 ゆうしゅうしゃ

けいじ

ぎし

毎学期に一度、成績優秀者の名前を廊下に掲示するなどという儀 き

式を行っていないけれど、それでも頭のいい子のことは、みんな 自然にそれと悟るものだ。その感度は、ひょっとしたら先生のそ びんかん

れよりも敏感で精度が高いかもしれない。  ちょっと以前のことだけれど、父の三谷明が何かの折に、母の 邦子を相手に学校論みたいなことを話しているのを、亘は聞きか じったことがある。明はずいぶんと難しい言い回しをしていたの で、演説の大半は亘にはよくわからないものだった。でも、ひと つだけ、理解可能な上に、ピカリと光って心に残った言葉があっ た。 つ

ぎせい

「本当に優秀な人間は、目を吊りあげてほかのすべてを犠牲にし

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て勉強しなくても優秀なんだ。それが能力ってもんなんだから」  父のこの言葉が耳に入ったとき、亘はごく自然に宮原柘太郎の 顔を思い浮かべた。そうだよなぁ──と思った。宮原はいつ見て のんき

もすごく明るくて、楽しそうで、呑気にしている。それでいてすっ ようちえん

ごく勉強はできるし、リレーの選手には必ず選ばれるし、幼稚園 の時から通っているスイミングスクールでも代表メンバーだそう み

くわ

だし、テレビも観ているしゲームにも詳しい。無理をして優等生 を〝張っている〟ようには、まったく見えない。彼は生まれつい がんば

ての優等生なのだ。だが先生たちは彼を評して「努力家」「頑張 ほ

り屋」だと褒める。ヘンなの──と、亘はいつも感じていた。宮 原はいいヤツだけど、努力家じゃないよ。なんで先生たちにはわ かんないんだろう？  亘がもう少し大人になれは、先生たちだってわかっているのだ そっちょく

と、誰よりもよくわかっているのだと、でもそれを率直に口に出 めんどう

だま

すと、いろいろと面倒なことばかり招来してしまうので黙ってい るしかないのだということが理解できるだろう。だって、人間に は生まれついての能力差があるということと、努力することの大 切さ尊さ楽しさとは、まったく別の問題だが、しばしば混同され る問題でもある、そこに人生の面白さと難しさがある──なんて、 小学生相手にどう説明すればいい？  宮原は話に夢中のようだし、教室のなかは騒がしく、ちょっと 声をかけたぐらいでは呼び出せそうになかった。見回しても、亘 が気軽に名前を呼べそうな顔も見あたらない。 すいそう

 小学校のなかでは、クラスが違うということは水槽が違うとい うことで、めったなことでは交流ができない。五年生になると、 音楽や保健体育など、いくつかの科目で二クラス合同の授業や男

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女別のカリキュラムが組まれることがあって、ようやく行き来が 始まるのだけれど、それも限られた時間内のことだ。亘が宮原を じゅく

ざいせき

よく知っているのは、塾で同じコースに在籍しているからである。  教室の後ろの出入口のところまで行き、ウロウロしてみたけれ ど、宮原は話に夢中になっていて、全然気がついてくれない。亘 い

く

じ

は、こういう局面では意気地なしっぽい部分が前面に出てしまう ふ

タイプなので、ずかずかと隣の教室に踏み込んでゆくことができ しら

かね

ない。そのうちに休み時間の終わりを報せる鐘が鳴り始めた。  ──しょうがないや、塾で話せるまで待とうかな。 きびす

 亘は急いで踵を返した。すると、いきなり何か真っ黒なものが ふさ

立ち塞がり、どんとぶつかった。 「あイタ！」  思わず声が出た。亘がぶつかった真っ黒なものは音も声もたて くさ

にお

ず、ただふわりと、ほんのわずかだけれど薬臭いような匂いがし た。  目の前に、黒いトレーナーを着た少年が立っていた。まばたき するほどわずかな時間、亘は、鏡を見ているのかと思った。それ ほどに、少年の背格好が、亘自身とよく似ていたのた。 「あ、ごめん」 さっかく

 反射的にそう言うと、それで錯覚も消えた。黒いトレーナーの 上にのっかっている顔は、亘とは似ても似つかなかった。 くや

すご

 悔しいけれど、それはそれは凄い美少年だったのだから。  亘はぽかんと口を開けて、少年の顔を見つめた。亘もまた、面 くんしょう

白いヤツと呼ばれることを最大の勲章と考え、だからどんなとき き

せりふ

でも頭の片隅ではギャグや気の利いた台詞を考えずにはいられな いティーンエイジャーの予備軍の一人であって、だからその本能

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に忠実に、ミリセカンドのそのまた千分の一単位のスピードで思 考した。今月ってボク的には全国美少年美少女月間だな、だけど この台詞ってイマイチ面白くないから口には出すのはやめた── むなもと

というところまで考えたところで、相手の黒いトレーナーの胸元 に留め付けられている名札に気がついた。 みつる

「芦川美鶴」  ミツル・アシカワ。なにしろ外国育ち。  こいつが問題の転校生なんだ！  声をかけようとしたそのとき、芦川美鶴はするりと動き出し、 すばや

亘をかわして教室のなかに入ってしまった。そのあまりの素早さ に、亘は、彼が目の前からいなくなっても、たっぷり二秒のあい ふ

だは振り返ることもできず、隣の教室の出入口に背中を向けて、 つ

バカみたいに突っ立っていた。やっと教室のなかをのぞきこんだ ときには、生徒たちの大半は席についていて、鐘の最後のひと打 つち

ち（録音なんだから、ホントに鐘を槌で打ってるわけじゃないん お

だけど）が、震えるような尾を引きながら消えてゆくところだっ た。 か

もど

みょう

 亘はあわてて自分の教室に駆け戻った。妙にドキドキしていた。  その日はちょうど、塾の授業のある日にあたっていた。亘は一 度家に帰ると、いつもより早めに塾へと向かった。宮原もたいて い早めに来ていて、静かなところで自習していることが多いから だ。  亘の通っている「かすが共進ゼミ」は、亘の家から自転車で五 分ほどの場所にある。四階建ての小さなビルの三階のワンフロア みっ

を借り切っていて、教室の数は三つ。亘たち小学校五年生の授業

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は週に三度、国語と算数が主体の二時間の授業で、いちばん北側 の角部屋が使われている。  読みはあたって、宮原は一人きり、教室の隅の彼のお気に入り の場所で参考書とノートを広げていた。算数のようだ。  宮原家は五人家族で、お父さんはガソリンスタンドを経営して いる。祐太郎の下に、幼稚園児の弟と、まだお尻におむつをあて ている妹がいる。 りこん

 宮原のお母さんは、宮原の実のお父さんとは、かなり昔に離婚 している。弟と妹は、宮原のお母さんと今のお父さんとのあいだ きょうだい

にできた子供たちで、だから宮原とは異父弟妹ということになる。 誰かが宮原の身の上話を聞いたことがあるわけでもないのだけれ ど、こういう話は何となく広まって、いつの間にか何となく周囲 たぐい

か

ぜ

は

や

に知られてしまう類のことだ。風邪が流行るのと、ちょっと似て る。  宮原はとてもいいヤツだけれど、家のなかでどんなふうなのか かわい

は、亘も知らない。弟妹を可愛がっているという噂を、特に女の 子たちの口から聞かされたことはあるけれど、同じ学区内にいて、 けん

同じ塾に通っていて、生活圏内が半分ぐらいかぶっていながら、 今まで弟や妹と一緒の宮原を見かけたことはない。だから確かめ ようもなかった。  ひとつだけ確かなことは、宮原がこうしてしばしば塾で自習を するのは、家のなかでは、うるさくて勉強ができないからだとい うことだ。これは本人がそう言っている。それは亘にも想像がつ ぼう

く。赤ん坊と幼稚園児のいるところでは、なかなか集中して勉強 こうりょ

しにくいだろう。塾の先生もそのへんを考慮して、教室を使わせ てくれている。もちろん、小さな弟妹がいるという生徒は宮原だ

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けではない。ほかにも何人もいる。ただ、弟や妹がうるさくて勉 強できないということがただの口実になっているのではなく、本 当に静かな場所さえあれば勉強ができるのは、宮原だけなのであ る。だから、たいていの場合、彼はここでぽつりと一人で勉強し ている。  亘が教室に入ってゆくと、宮原は顔をあげて、ビックリしたよ みは

かべ

うに目を瞠った。壁の時計を見る。もうそんな時間か──と思っ たようだ。亘はあわてて、ちょっとハナシ、あってさ、いい？  と申し出た。 「いいけど、何？」 ま

じ

め

 宮原がたいそう真面目なので、亘はちょっと言いにくくなった。 シンレイシャシンのことなんだけど……なんて、なんかあまりに も子供っぽいじゃないか。  それでもなんとか話し出すと、すぐに、 「ああ、その話かぁ」宮原はほっとしたみたいにうち解けた感じ になった。「学校中の評判になっちゃってるみたいだね」 「ホントに幽霊が写ったの？」 「うーん」 い

す

かみ

 宮原は椅子にそっくりかえり、クセのない髪を手でもしゃもしゃ にした。顔はまだ笑っている。 「ツツジの花の陰に、人間の顔みたいなものが写ってることは確 かなんだ。だけど、幽霊かどうかはわからないよ。そのときはそ う思ったけど、ホントかどうかはわからない」 「三橋神社の隣の建てかけのビルには幽霊が出るって噂、知って るだろ？」 「うん、知ってるよ」

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「それとその心霊写真、なんか関係あるかな？」 「そんなの、わっかんないよ」宮原は本格的に笑いだした。「三 谷って、そういうの気にするの？」  亘は急に恥ずかしくなった。そのなかにはちょっぴり腹立たし さも混じっていた。だって僕は最初から、そんな噂はまともに受 け取ってなかったんだ！ と、責められているわけでもないのに とが

おこ

弁解したくなった。ついつい口を尖らせて、女の子たちを怒らせ てしまった時のことをしゃべってしまった。 「ふうん」そこでやっと、宮原は本気になったみたいだった。笑 いが消えた。「僕も幽霊とかは本気で信じてないけど。だから別 に三谷は悪いこと言ったわけじゃないんじゃないの。気にすんな よ」 「それならいいんだけど──」 なぐさ

 慰められて、しかしそれでは話が続かなくなった。大松香織の こともしゃべっちゃおうか。すごい美少女に会ったもんだから、 あれからソワソワ落ち着かないんだよって。宮原なら絶対に笑っ たりからかったりしないはずだから。  でも、口から出たのは別の言葉だった。「芦川ってどんなヤ ツ？」 そばく

 宮原はごく素朴に不思議がった。「どんなヤツって、どんな意 味？」 「今朝初めて見たらさ、あいつ人形みたいな顔してんじゃん？」  亘にしてみれば、あれは「会った」のではなく「見た」のであ る。 「いいヤツだよ。うん」宮原はすぐに答えた。無理をしているの ふく

でも、何か含みのある答え方でもなかった。「人形みたいな顔っ

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てね。うん、うちのクラスの女子、騒いでる」  宮原は面白くなくないのだろうか。彼だって〝いちばん人気〟 なのだ。 「だけど変わってない？ 心霊写真撮るなんてさ。しかも持って 帰ったんだろ？ こういうことで騒ぐのはよくないとか言ってさ。 なんかカッコつけてんじゃんか」 「カッコつけたわけじゃないと思うけど」宮原はまたクスクス笑っ た。「そんなに気になるんなら、会ってみりゃいいよ。来るから さ」 「来るって？ ここに？」 「うん。今日から」 き

 どこかいい塾はないかと訊かれたので、ここを教えたら、すぐ に通うことに決まったのだそうだ。 「ここでも女の子たち、騒ぐだろうね」 「どうかな。だけど別にいいじゃない、騒いだって」 「芦川って、勉強──」 「できるよ。きっとかなり成績いいよ」  ニコニコと言われて、亘は宮原の顔を見た。ぜーんぜん気にし ていない。ホントに気にしていない。無理して突っ張ってるわけ じゃない。自然体。〝いちばん人気〟の座を追われても、やっぱ り気にしないんだろう。  宮原は、失うものなんかないんだと、亘は気がついた。芦川美 鶴がどんなに優秀でも、カッコよくても、それで宮原がバカにな るわけじゃない。宮原は宮原のままで勉強ができて、足も速くて、 う

ま

泳ぎも上手くて、何でもできてカッコいいということに変化はな いのだ。むしろ、独りぼっちの優等生でいるよりは、優等生同士

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の友達がいた方が楽しいくらいかもしれない。〝いちばん人気〟 の席を取り合うのではなく、仲良く並んで座るようになるだけな のだ、きっと。  そのへんの事情は、亘なんかとはまったく違う。カッコよくて せま

できるヤツの人数が増えれば増えるほど、こっちは居場所が狭く なるのだから。  亘と同じことを口に出しても、宮原や芦川は女の子を怒らせた りせずに済むのだ。現にそうじゃないか。自分で心霊写真を撮っ ておきながら、「こういうことで騒ぐのはよくない」なんてセリ は

フを吐く。それは、意味としては亘がクラスの女の子たちを怒ら せてしまったときの言葉と、ほとんど差はない。だけど芦川と一 緒にいた女の子たちも、この噂話を聞いた女の子たちも、誰一人 いや

として「芦川は心霊写真を信じてない、嫌なヤツ」と責めたりし なかった。  宮原が、「三谷は間違ったこと言ってないよ、本当に三橋神社 で人が死んだことがあるかどうか確かめてみる前に、これはその 幽霊だなんて言っちゃいけないと、僕も思うよ」と言ったなら、 すなお

女の子たちは素直に聞くのだろう。それはもう間違いなくそうす るんだろう。宮原君がそう言うなら、そうなのねなんて言うんだ ろう。  めちゃめちゃ不公平だ。 つぶ

 ほかのすべての感情を潰してしまうくらい、ぐいーんと腹が立っ てきた。女の子たちが何人か、おしゃべりしながらやって来たの をきっかけに、亘は席についた。塾では早い者順で自由に座る場 所を決めていいのだが、やっぱりそれなりに定位置というものは できるものだ。亘の席は、廊下側の真ん中だった。

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 定刻五分前に、亘たちの担当講師の石井先生が教室に入ってき た。そのすぐ後ろに、芦川美鶴がくっついていた。教室は八割が にぎ

た席が埋まっていて、べちゃべちゃとおしゃべりが賑やかだった のだけれど、芦川を見たとたんに、みんなピタリと静かになった。  塾仲間は、だいたい三つの小学校の生徒たちで構成されている。 城東第一と、城東第三と、後は私立に通う子供たちだ。第三と私 おどろ

立の子供たちは、芦川美鶴を見るのは初めてだから、そりゃ驚き も大きいだろう。 あいさつ

か

しょうかい

 先生はみんなと挨拶を交わすと、芦川を紹介した。 「今日から一緒に勉強することになった芦川美鶴君です。城東第 一のみんなはもう知ってるよね」  石井先生は二十四歳。大学の研究生で、ここでの講師はアルバ こがら

イトだ。小柄なので、服装によっては高校生ぐらいに見えるとき もある。それでもとにかく凄く頭のいい先生だし、詰も上手いし、 おさ

授業は面白い。何より亘たちをごまかしたり頭を抑えつけたりす ることのない人なので、みんなに好かれているし尊敬されている。  それなのに、芦川と並ぶと、なぜかしら先生が──何というの ご

い

だろう──小さく見えた。それはまだ亘の語彙のなかにはない言 葉と言い回しを必要とする表現だった。貧弱に見える。位負けし ている。そんなところか。さっき先生が芦川を連れてきたときか らしてそうだった。芦川が先生にくっついているというのではな く、立場上後ろに従っているだけだというように見えた。 「芦川です」と、言って、彼はちょっと頭をさげた。それで充分 という感じだった。よく通る声だった。  芦川は空いている席に座るとき、宮原と目を合わせて、ちらっ と笑った。宮原も笑い返した。亘の並びの席の女の子たちが、頭

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しの

を寄せ合ってそんな二人を見やり、忍び笑いしたり囁いたりして うれ

いる。嬉しそうだ。  石井先生は、できるだけ個別指導に近い形で授業をしたいとい う方針で、だからその日の勉強時間のあいだには、芦川が宮原の 言うとおりの秀才なのかどうか、亘にははっきりつかむことがで ふ ん い き

きなかった。それでも、できそうな雰囲気というのは感じた。ど うやらコイツは、本当にラベルどおりの〝凄いヤツ〟であるらし い。隕石だ。  授業が終わって帰る時間になると、当然のように宮原と芦川は 二人組になった。塾の同級生たちが周りを取り囲む。女の子たち すき

ばかりではなく、男子も混じっている。亘は二人に近づく隙を見 つけることができなかったし、大勢がわいわい楽しく騒いでいる ところで、心霊写真は本物かだなんて、いきなり言い出したくは かばん

かか

なかった。だから鞄を抱えてさっさと家路についた。あんまり急 いだので、まるで逃げてるみたいだと思った。だけど、何から？  わかってるくせに。  けっして逃げているのではないと自分に対して申し開きするた めに、そんな必要はないのに、家までずっと走って帰った。ただ げんかん

かぎ

いま、と玄関の鍵を開けて飛び込むと、リビングのガラスのドア ごしに、邦子が立っているのが見えた。電話に出ているらしい。 亘がドアを開けると、顔をしかめていた。そして、乱暴にがちゃ んという感じで受話器を置いた。 「どうしたの？」 「また無言電話なのよ」邦子は言って、本当に腹立たしいという なべ

様子で鼻を鳴らした。台所では鍋が沸き立って、白い湯気が盛ん

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にあがっている。 したく

「今日はこれで三度目。夕飯の支度にとりかかってから、こっち いそが

が忙しいのをわかっててかけてるみたいな感じで……」  そこで初めて、亘は母がただ怒っているだけでなく、怖がって いるのだと気づいた。 「今度かかったら、僕が出る。お鍋ふいてるみたいだよ」 「あらヤダ！」  邦子は台所に飛んでゆき、亘は自分の部屋に行って鞄を片づけ た。邦子は、台所が落ち着くと、塾はどうだったとか、今夜は や

つ

チャーハンにしたけど給食はなんだったのとか、矢継ぎ早に話し かけ始める。いつものことなので、亘もあれこれ話したけれど、 どうしても芦川のことがひっかかってしまって、ちっとも楽しく なかった。  手を洗って食器を並べていると、電話が鳴った。亘は飛びつい て受話器を持ちあげた。 「小村ですケド、亘君いますか？」  カッちゃんだった。邦子がサラダを混ぜる手を止めてこっちを 見ている。亘は違う違うというふうに手を振って合図した。 「今日って塾の日だったろ？」 「そうだよ、だからこれから夕飯」 お

ば

「そんじゃ後にする？ 小母さんにオレ怒られちゃうから」  カッちゃんはやけに騒がしい場所から電話をかけている。聞き 取りにくい。 「またかけ直すよ」 「うん、じゃそうして」  カッちゃんは早々に電話を切った。母さんがカッちゃんをよく

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思っていないことは、ちゃんと伝わっているのだ。  しばしばうちに電話をかけてくるのが、優等生の宮原だったら どうだろう？ 母さんも嫌な顔なんてしないだろう。宮原君のい ちばんの仲良し。母さんにも満足の行くポジションだろう。  亘自身はどうなんだ？ カッちゃんより、宮原祐太郎の方がい いか？  宮原はいいヤツだけど、亘にとって、付き合って面白い友達に なるだろうか。いつもこっちが引け目ばっかり感じてなくちゃな らなかったら、そういうのは〝友達〟じゃないんじゃないのかな。  宮原みたいに評判がよくて、カッちゃんみたいに面白い友達な らいいんだ。だけどそんなもん、あり得ない。お客さんで満員で 凄く賑やかだけど、乗り物に乗るのに一時間も二時間も待たなく てもいい東京ディズニーランドと同じぐらい、あり得ない。  宮原と芦川。  カッちゃんと亘。 はかり

りょうはし

の

 秤の両端に載せたら、結果は目に見えてるような気がする。い や、亘とカッちゃんの全敗というのじゃなくて、秤の種類によっ ては、亘たちの方が重い場合だってあるだろうけれど、ただその 秤は、亘が心から載せてほしいと願う秤じゃないような気がする。  そんなことを考えていたら、また電話が鳴った。今度こそは無 言電話だろう。亘はさっと受話器を取った。 「三谷です！」 「亘か？」  明からだった。 「なんだお父さん」 「なんだはご挨拶だな」

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「また無言電話がかかってきて、お母さんが怖がってるんだ」  ちょっと間が空いた。「今日か？」 「うん、夕方に三回ぐらい」  邦子が電話に近寄ってきたので、亘はお父さんだよと言って受 話器を差し出した。そして自分はテーブルに戻った。夕食の皿が はん

並んでいる。今夜も母さんと二人きりの夕ご飯だ。  邦子はしばらく電話でしゃべった後、「はいはいわかりました、 準備しておくから」と、何だかセカセカと承知して、「それじゃ、 ご苦労様です」と言ってから切った。亘は、母が父からの電話の ねぎら

そ

際、必ずこうして労いの言葉を添えるのを、当然のように思って いた。  でも、一年ほど前のことだったろうか、母さんの同級生とかい けしょうひん

う人が化粧品のセールスレディをしていて、仕事がてら遊びがて にんしき

らうちを訪ねてきたときに、その認識をあらためた。その小母さ んはなかなかきれいな人だったけれど、化粧の匂いが強すぎて、 亘はそばにいると鼻がムズムズした。だから挨拶だけ済ませると、 こ

自室に籠もってゲームをしていたのだ。  母さんとそのセールスレディの小母さんが賑やかにおしゃべり しているときに、今日のように父さんから電話がかかってきた。 母さんはいつものように応対し、いつものように労いの言葉で電 話を終えた。するとセールスレディの小母さんがとても驚いて、 大きな声を出すのが聞こえた。 「信じられないわぁ、今の、ご主人なんでしょ？ 今はもう明治 だんな

えら

時代じゃないのよ、旦那の方が邦子より偉いわけじゃないのに、 なんでそんなにへりくだるの？ 」  へりくだるってどういう意味だ？ 亘は辞書を引いた。〝相手

74

ひ

げ

を敬い、自分を卑下すること〟と書いてあった。もっとよくわか らなくなってしまった。だから、セールスレディの小母さんが、 急にがさつな感じになって、お説教がましく母さんにあれこれ言 うのを注意深く聞いていた。その方が意味がわかるかもしれない と思ったのだ。 だ

め

「古風なのもいいけど、あんまり亭主を甘やかしちゃ駄目よ。結 にょうぼう

婚した以上、あっちには働いて女房子供を養う義務があるんだか あ

がた

らさ。五分五分よ。有り難がることないわよ」  母さんは笑いながら、別に甘やかしちゃいないわよと、言葉少 なに反論していた。 「亭主なんて、外じゃ何やってるかわからないんだからね」セー ルスレディの小母さんは言って、ケタケタと笑った。「うちなん かんしょう

かもう、お互いに放任主義よ。あっちもこっちに干渉しない。こっ ちもあっちに干渉しない。子供さえいなかったら、とっくに別れ ・

・

・

・

てるわね。子はかすがいとは、ほーんとによく言ったもんだわよ」 よご

 小母さんがしゃべればしゃべるほど、部屋の空気が汚れてゆく そうじ

ように、亘は感じた。きれい好きの母さんが掃除をした床や壁を、 たの

小母さんが、誰も頼んでもいないのに、こんなんじゃ掃除したこ ぞうきん

とにならないわよとか勝手に決めつけて、汚れ雑巾をかけ直して いるみたいな感じがした。 おとず

 そのセールスレディの小母さんは、二度と三谷家を訪れなかっ た。母さんもあの人のこと好きじゃないんだなと思って、亘はホッ とした。  夕食の後、カッちゃんに電話をかけてみると、今度は凄くテレ ビの音が大きいところで、本人が出た。

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「ちょっとボリュームさげてくれる？」 わり

「あ、悪いわリィ」  何かと思えば、今日学校の帰りに大松社長に会ったよ、という のである。 「何で？ どこで？」 「幽霊ビルの前でさ。なんか、灰色の作業着着た人と一緒だった よ」 せこう

 次の施工業者が見つかったのかもしれない。 むすこ

「社長さんだけだった？ 息子さんは？」 「いなかったけど──何で？」 つ

「何でって」亘は詰まった。「別にワケなんかないけどさ」  カッちゃんにはこういうところがある。どんなことにも、「何 で？」って訊けばすぐに答をもらえるって信じ切っている。これ がたぶん、〝単純〟ということなのだろう。 「社長さん、嬉しそうだったよ。工事が続けられるようになった んだって」  やっぱりそうか。 「ビルが完成すれば、変な噂なんか消えてなくなるだろうしね」 ほう

と、亘は言った。「その方がいいよ。放っておくと、隣のクラス の芦川とかいうヤツみたいに、あそこで心霊写真を撮って喜ぶよ うなのが出てくるからさ」 うそ

 嫌な言い方だった。しかも嘘だ。  はっきり嘘だと承知しているけれど、他人が耳にしたら確実に しげき

こうし

驚くであろう言葉を口にすると、舌が刺激的にピリピリする。香 んりょう

辛料みたいだ。だから、クセになるとやめられなくなるのだ。う かうかと嘘をついちゃいけないのは、そういうクセがつくと、あ

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とあと怖いからなのだ。  だけど亘は言ってしまった。案の定、カッちゃんは飛びついて きた。 「それ何？ 何だよ心霊写真なんてさ」  亘は説明してやった。それが嘘を積み重ねることになると、重々 承知しつつ。カッちゃんはまったく初耳だったらしく、開けっぴ ろげに驚いている。 「スゲエなぁ、見たいなぁ」 「やめとけよ。そうやって騒ぐから、芦川がいい気になるんだ」 は

た

ち

「オフクロが、二十歳までに幽霊を見なかったら、一生見ないで 済むっていうんだ」 「だったらなおさら見ない方がいいよ」 「そうかぁ？ オレは絶対に二十歳までに見たいよ。幽霊も見な いで暮らすなんて、つまんないじゃんか」 りくつ

 カッちゃん一流の理屈である。つまらなくない人生を切り開く ためにゲットしなければならないものは、幽霊を見る〝素質〟な の

んかじゃないはずなんだけどと言いかけて、亘は言葉を呑みこん だ。そんなことを言ったところで、カッちゃんからはさらにトン チンカンな返事が来るだけだろう。そういうことに、今夜は何だ か妙にイライラした。 ふ

ろ

「それじゃ、オレお風呂に入らなきゃなんないから」  カッちゃんはまだ何か言っていたが、亘はさっさと電話を切っ た。邦子が、小村君は何の用だったのと尋ねたので、何とかカン とか適当に答えた。そして自分の部屋に入った。ドアを閉めて一 人になるとホッとした。 とつぜん

ひび

 そこに突然、女の子の声が響いた。

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「嘘つき」  椅子に座ったまま、亘はかちん！ と固まった。

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４ 見えない女の子

 ソラミミ。 ぬ

 先週、大松さんたちに会った夜、家を抜け出す前に起こったの かわ

と同じアクシテントだ。口のなかがひゅうっと渇いた。 「あなたって嘘つきだったのね」 そらみみ

 再び、空耳。甘い女の子の声のように聞こえるけれど、これは となり

たぶん耳鳴りだ。いや、隣の家のテレビの音だ。このマンション かべ

うす

は設計書に書いてあるよりも壁が薄いって、前に父さんが文句を 言ってたじゃないか。 「聞こえないふりをしてもムダよ」 す

せりふ

 拗ねたような女の子の声だ。テレビドラマの台詞だ。決まって るじゃないか。 「どうして、お友達にあんな嘘をついたの？ あなたはそういう ことするヒトだったの？ あたしガッカリしちゃったわ」  亘はそうっと周りを見回した。見慣れた自分の部屋だ。今日は か

母さんがベッドカバーと枕カバーを取り替えてくれたらしい。ブ がら

ルーのチェック柄から、黄色いチェック柄のに替わっている。き ほんだな

ば

あ

れいに背表紙の並んだ本棚。その下には、千葉のお祖母ちゃんが 入学祝いに買ってくれた『こども百科事典』が並んでいる。もらっ くや

てしまってから、ワンセット二十万円もすると聞いて、亘は悔し かった。そんなお金使ってくれるんだったら、パソコンにしてほ とが

しかったのに。そう言って口を尖らせたら、小学校の入学祝いに は『こども百科事典』がぴったりなのだと言い返された。パソコ ンなんて、大人になってから自分で買うもんだよ、お祖母ちゃん

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いや

じゃま

は嫌だね。おかげで場所ばっかりとって、邪魔くさくてしょうが ない。 ゆか

じゅうたん

 壁のカレンダー。床の絨毯。机の上の消しゴムのカス。天井の あか

灯り。 ひるがえ

 亘はバッと身を翻して、机の下をのぞきこんだ。はずみでキャ い

す

スター付きの椅子がごろりと動いた。 だれ

かく

 もちろん、誰が隠れているわけもない。 するど

ふ

 それでも、今度は鋭く振り返って、ベッドの下をのぞいた。ま ふ

そうさかん

るで犯人のアジトに踏み込むＦＢＩ特別捜査官みたいだ。背中に ぼうだん

ロゴの入ったジャンパーを着て、その下には防弾ベスト。ホルス かた

つ

ターは肩から吊っている。 わたぼこり

 ベッドの下には、丸い綿埃がひとつ隠れていた。母さんによる そうじ

掃除作戦から、かろうじて生き延びたゲリラ兵が、ひょっこり投 降してきたというだけ。  女の子のくすぐったそうな笑い声が聞こえてきた。「あたしは 隠れてなんかいないわ」 からだ

もど

 亘は身体を起こして、ゆっくりと椅子に戻った。心臓がピンポ ン玉くらいの大きさになって、ドキドキしながら身体じゅうをコ ロコロ回っているのを感じる。いつも心臓が収まっている場所は ふ

ぽかりとお留守になって、そこを冷たい風が吹き抜ける。 たず

「どこにいるんだよ？」と、小さく尋ねた。  不思議だった。女の子の声が聞こえてくる方向が、全然見当つ かないのだ。天井からでもない、壁からでもない、前からでも後 ろからでも、足元からでもない。 ひび

 それなのに、亘の頭のなかに響いてくる。でも、自分の声とは はっきり区別がつくのだ。

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「あたしは隠れてなんかいない。でも、探してもどこにもいない」 うた

 女の子の声は、謳うように言った。 「隠れていないものを探すなんて、ナンセンスだから。探さなけ ればならないものは、必ず隠れているはずだなんて、どうしてそ んなふうに思い込むの？ 探すから隠れるの？ 隠れるから探す の？」  亘は顔をしかめた。思わず、空に向かって問い返した。「オマ エ何だ？ 何言ってんの？」  女の子の声が言った。「あたしはあなたのそばにいるのよ」 ひらめ

すばや

 亘ははっと日を見開いた。閃いたのだ。素早く椅子から立ちあ かると、ドアを開いて部屋を出た。リビングでは、テレビが楽し ふ

ろ

そうにＣＭソングを歌っている。邦子の姿は見えない。お風呂だ、 つ

きっと。母さんはいつも、テレビを点けっぱなしにしておいてお 風呂に入る。 わき

 カウチの脇の小引き出しに、使い捨てカメラがひとつ入ってい たはずだった。先月家族で動物園に行った時に買ったもので、二 ど

十四枚撮りなのに、結局三、四枚しか撮らずに帰ってきてしまっ た。それでそのままになっているのだ。 さぐ

 引き出しを探ると──あった！ 亘はカメラをつかんで自分の 部屋にとって返した。 だ

め

 いや、駄目だ。やみくもに飛び込んではいけない。閉じたドア の脇の壁にべったりと背中をつけて、呼吸を整える。ＦＢＩ再び。 どうりょう

しかし今のミタニ捜査官にはバックアップをしてくれる同僚がい とつにゅう

ない。タンドクでの突入である。ドアのノブをゆっくりとつかん で回す。そうっと動かす。ドアを十センチ開く。二十センチ開く。 しの

よし、音をたてずに忍び込め。

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 カメラを持った右手を背中に回して、閉めたドアにそのままよ りかかる。犯人は気づいていない──か、どうかわからない。な きょうあく

とくしゅ

にしろこの凶悪犯は、不可視光線を放つ特殊スーツを装備してい る──という表現はおかしいかもしれないけど、とにかく目に見 えないということをイカメシク言い表したい。ああ、赤外線バイ ザーを持ってくればよかった。  大きく深呼吸してタイミングを計ると、亘はカメラを取り出し、 じゅう

銃の引き金を引くように──心境としては──シャッターを押し た。  フィルムを巻いてなかった。  これだからイヤなんだ。使い捨てカメラで写真を撮るときは、 一枚撮ったらすぐに巻いておかないとダメなのに！  こうなってはもう、バレバレだ。亘はフィルムを巻いてはシャッ ターを押し、部屋じゅうをぐるぐると撮って撮って撮りまくった。 そのあいだは何も考えなかった。天井を撮り、ベッドの下を撮り、 椅子の陰を撮り、振り返っては撮り、しゃがんでは撮った。 あせ

 とうとうフィルムが一枚もなくなった。鼻の頭にうっすらと汗 こう

ぬぐ

をかいている。それを手の甲で拭って、床に座り込んだ。たいし た運動量ではなかったのに、はあはあとあえいでいた。  女の子の声が、静かに言った。「あたしが写っていなくても、 写っていたって嘘をつけばいいじゃない」  亘は再びかちんと固まってしまった。指がこわばり、カメラが ひざ

膝の上に落ちた。 「あたしが写っていても、写っていなかったって嘘をつけばいい じゃない」  前の声は、右から聞こえたような気がした。後の声は、左から

82

聞こえたような気がした。 「ないことも、あるって言えばあることになるの。あることも、 ないって言えばないことになるの」 ささや

 今度の声は、足元から囁きあがってきたように聞こえた。 こさめ

 そして次には、天井から声が降ってきた。まるで小雨のように。 「あなたはあなたの中心で、あなたは世界の中心だから」  謳うような声の調子が、少しずつ変わってゆくことに気づいた。 なんだか……悲しげだ。 せっぱ つ

せ

 説明のしにくい、でも切羽詰まった心に急かされて、亘は部屋 あお

の天井を仰いだ。そして声に出して問いかけた。 「君はどこにいるの？」  心臓がやっと元の大きさを取り戻し、いつもの収納場所へと早 足で戻ってゆく。ことり、ことり、ことり。亘がその足音を五つ 数え終えたときに、女の子が答えた。 「あなたはもう、知っているのに」  そして──居なくなったような感じがした。姿が見えず、どこ さだ

から亘に話しかけているかも定かでない女の子なのに、それでも 彼女がこの部屋から居なくなったことが感じ取れた。それはちょ うど──接続が切れたような。 ふる

 気がつくと、首も背中も汗びっしょりになっていた。指先が震 えている。膝の脇に落ちた使い捨てカメラを拾おうとして、二度 もつかみ損ねてしまった。  あなたはもう、知っているのに。  そんなはずはない。あの甘い声。うちのクラスに、あんな声の 女子はいない。友達の声なら、聞けばすぐにわかるはずなんだ。  ──いったい、誰なんだよ。

83

 急に、置いてきぼりにされたような気がした。それでいて、誰 かを置き去りにしてしまったような気もするのだった。 こづか

 今月のお小遣いの残りでは、使い捨てカメラをスピード現像の お店に出すわけにはいかなかった。中一日かかるけれど、近所の 大型薬局にフィルムを持ってゆくしかない。しかも、薬局は、亘 が登校する時間にはまた開いていないので、帰り道に寄ることに なる。ますます時間を食ってしまう。子供であるというのは、な んて不便なことなんだろう。  勉強机の脇の本棚にズラリと並べてあるお気に入りのマンガの かん

単行本の奥には、バタークッキーの空き缶が隠してあり、そのな かには、この九月に発売される『ロマンシングストーン・サーガ Ⅲ』を買うための、秘密の貯金が入っていた。それに手をつけれ ば、スピード現像に出すことなんて簡単だ。心がグラついた。マ ど

ぶた

ンガ本を退けて、缶のうわ蓋の絵柄を見るところまでは、やって と

うれ

しまった。溶かしバター色の仔ウサギが嬉しそうにクッキーを食 べている。それをしばらくのあいだ見つめて、首を振り、マンガ 本を元に戻した。今はもう六月も半ば。ここでこのお金を使った ら、『サーガⅢ』の発売までには、絶対に問にあわなくなる。 かばん

 結局、使い捨てカメラを学校の鞄のなかに忍ばせておいて、翌 日の午後、走って薬局へ行った。 わた

らん

あ さ っ て

 細長い預かり票の「お引き渡し日時」欄には、明後日の午後四 時以降という、亘にとっては非情な文字が並んでいた。そのあい だ、いったいどうやってあの部屋で暮らせばいいんだ？ 商店街 をとぼとぼと歩いていると、カッちゃんと二人でよく冷やかしに 来るゲームソフト・ショップの前に出た。コンビニよりもひとま

84

とうめい

わり小さいくらいのお店で、ぐるりは透明な窓ガラス。その窓を う

つ

すべて埋め尽くすように、内側からありとあらゆるテレビゲーム すきま

のポスターが貼ってある。ところどころにわずかに空いた隙間か ちんれつ

ら、店内に設置してあるゲームソフトの陳列棚や、デモ用のモニ はし

ターの端っこがちらちらと見える。 『ロマンシングストーン・サーガⅢ』のポスターは、お店の正面 に近い、自動ドアのすぐ脇の窓の内側に貼ってあった。ゲーム雑 しょうかい

誌ではもう、設定画の一部と主要な登場キャラクターが紹介され ているのだけれど、ポスターの方はあっさりしたものだった。真っ う

青な空に、綿をちぎったような小さな白い雲がたくさん浮いてい ほ

はんせん

そう

る。その中央を、帆に風をいっぱいにはらんだ帆船が一艘、飛ぶ ように進んでゆく──という絵だ。海ではなく青い空に、波を切っ て進む船。もちろん、主人公たちを乗せる船だ。  ポスターのすぐ上に、「九月二十日発売予定 八月二十日予約 たんざく

そ

ごくぶと

受付開始」と、手書きの短冊が添えてある。こちらは極太のマジッ クで、しかも赤い字で書いてあった。「予定価格六千八百円」。 なが

 しばらくのあいだそれを眺めていると、やっぱりクッキーの缶 の貯金に手をつけなくてよかった──という気持ちが込みあげて きた。  平均的な小学校五年生が、どういう経済状態にあるのかは知ら ないが、少なくとも亘にとって、六千八百円は大金だった。だか ら、マンガ雑誌やゲーム雑誌に『サーガⅢ』の発売日決定の情報 の

が載るとすぐに、貯金を始めたのだ。  三谷家では、原則としておねだりは通用しないことになってい がんば

る。「算数のテストを頑張るから」「夏休み中早起きするから」 つうしんぼ

という未来担保型のおねだりでも、「今学期の通信簿が良かった

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ほうしゅう

から」「このテストで頑張ったから」という成功報酬型のおねだ りでも、ひとしなみにダメである。だから、亘の自室にある十四 インチのテレビは、ねだって買ってもらった側の亘本人も、にわ け

う

かには信じられないほどの希有の例外だったわけだけれど、それ こうにゅう

でさえ購入の際には、 み

「もう亘にも、自分で観たい番組を選ぶ機会がなくちゃね」 「亘が亘自身の意志で選ぶ番組がどんなものなのか、お父さんも お母さんも興味があるからな」  という、別の〝理由〟がついていた。亘としてはねだって買っ おもわく

てもらったつもりのテレビだが、両親には別の思惑があるという わけなのだ。  三谷明は特にこのへんのことに厳格で、「亘には、人生の大事 な局面で、これこれのことをすれば、これだけの見返りがある、 世の中はそういうものだなんていう考え方をしてもらいたくない」 と、しょっちゅう言っている。「努力は報酬のためにするものじゃ ない。自分自身のためにするものだ」  カッちゃんはそんな三谷の両親を評して、「すっげえ厳しい」 と、日を丸くする。亘には、返事のしようがない。それでも、こ ういうお小遣い方面で泣き落としのきかない両親を持っていれは、 イヤでも現実的にならざるを得ないということはわかっている。 欲しいものと、買えるものとは、常に絶望的なほどイコールでは くふう

ないので、ほしいものの方を工夫して合わせてゆくしかないのた。 じょうきょう

 亘の置かれているそういう状況を指して、もう一人、 「すっげえ厳しい」 おどろ

お

じ

 と、カッちゃんと同じような表現で驚く大人がいる。ルウ伯父 さんだ。

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「明、亘はまだまだ子供なんだから、たまにはもうちょっと甘や かしてやれよ」  なんて言ってくれることもある。 ほうび

「亘だって、頑張ったときには、やっぱりご褒美がほしいよな？  友達の手前もあるんだしさぁ」  でも、ルウ伯父さんのそんな意見に、父さんはまったくとりあ わない。 「兄さんは子育てをしたことがないんだから、何もわからないで しょう。子供と同じレベルで発言するだけじゃ、無責任ですよ」  そんなふうに切り返すだけだ。  亘に関することだけでなく、三谷悟と三谷明は、ことごとに意 ちが

おおざっぱ

見が食い違う兄弟だ。たいていの場合ルウ伯父さんの方が大雑把 きちょうめん

で、父さんの方が几帳面で、だから最後には父さんの意見の方が か

勝つ。論争したり意見を交わすことそのものが、ルウ伯父さんは めんどう

面倒でしょうがないのだ。 けんか

 それでも、兄弟仲が悪いわけではない。喧嘩なんかしないし、 夏休みとかお正月とか、千葉のお祖母ちゃんの家ではけっこうお 酒を飲んで話し込んだりしている。そう、むしろ仲良しの兄弟だ と言っていい。  でも──このごろ時々、亘は感じる。ほかのどんなことで言い 争うときよりも、亘に関することで論争するときがいちばん、ル ねば

ウ伯父さんは粘り強くなるみたいだ。なかなか投げ出さないもの。 「ま、そんなたいした問題でもないからよ」という、伯父さんの きまり文句みたいな台詞を口に出すまで、ほかの問題の時より─ ─たとえばそれが「法事」みたいな大事な行事のことであっても ──時間をかける。

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 そしてそのことは、亘の心に、本人が気づいている以上に意味 かげ

のある影を投げかけているのだった。ただそれは、今のところは まだ、はっきりとした問題意識にはなっていない。亘は両親を好 いていたし、ルウ伯父さんも好いていた。  亘が千葉の家に遊びに行くと、ルウ伯父さんは、よくお小遣い ないしょ

をくれる。「お父さんには内緒でな」と、こっそりとくれる。で も、亘はそれを、後で必ず両親にうち明ける。特に去年あたりか らは、ルウ伯父さんが一度にくれるお小遣いの額が大きくなって きたので、一人で隠しておくのは不安でたまらないのだ。すると 父さん母さんは、亘からそのお小遣いを受け取って、亘名義の銀 行口座に預けてくれる。ときどき、その通帳を亘に見せて、どれ た

ぐらい貯まったか教えてくれることもある。この習慣は、亘が初 めてそれと意識して「お年玉」というものをもらった、四歳のお 正月から始まった。 「うちでは、子供に大金を持たせる習慣をつけたくないので」  父さんは、どちらの実家に行っても、そのように説明している。 母さんの実家の小田原のお祖母ちゃんは、ルウ伯父さん以上にこっ こわ

そりと──なんかちょっと父さんのことを怖がってるみたいに見 えるくらいにこっそりと──ルウ伯父さん以上の大金をくれるこ とがあるけれど、そのお金も同じようになる。 しだい

 そういう次第で、亘には無駄使いできるお金はほとんどない。 カッちゃんだけでなく、ほかにも、それを聞いて「三谷くんのウ チは厳しい」と驚くクラスメイトがいる。「よくそれでグレない き

こころもと

ね？」などと真顔で訊かれて、亘はいささか心許なくなったこと こんじ

もあった。「よくグレないね？」という質問の裏に、「アンタ根 ょう

ひそ

性ないね」という評価が潜んでいるように感じてしまったからで

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ある。  それで、お小遣い関係について、たった一度だけだけれど、邦 子に問いかけたことがあった。ボクは父さん母さんが厳しいとは 思わないけど、友達はみんな「厳しい」と言います、ホントに 「厳しい」んですか？ そうでないとしても、どうしてウチのや り方は、ほかの友達のところと違ってるんですか？  それは折しも、例の六年生の問題児石岡健児が校長先生の車を 転がした事件で、学区内が混乱していた時期のことだった。だか ら、タイミングとしてはあまりよくなかったかもしれない。一学 ふだん

年上の生徒のことだから、普段はほとんど耳に入ることのない石 岡家の事情を、このときばかりは、三谷邦子もよく知っていた。 そして腹を立てている最中だった。 かんだい

しつ

 石岡は、お小遣い方面では亘よりもすっと寛大な躾けられ方を ぎょうてん

あら

している子供たちさえも仰天させるほどに、金遣いが荒いのだ。 うわさ

じか

噂に聞く限りでは（本人に直に尋ねて確かめてみる気になんか、 とてもなれない）石岡の一ヵ月分のお小遣いだけで、『サーガⅢ』 が十本は買えるほどだという。しかも、それはあくまでも「石岡 が親からもらうお小遣いの平均額」の話であって、実際にはもっ ひとつき

ともっと多いのではないかという。本人でさえ、一月にどのくら いお小遣いを使っているか、はっきりわからないのだそうだ。つ まり、ねだればねだっただけもらえるからである。 じまん

 しかも石岡健児の母は、それを自慢にしているらしい。ＰＴＡ の集まりでも、「子供にお金の不自由はさせたことがない」と、 ふいちよう

たいそうな勢いで吹聴したそうである。念のためにしつこく言う むすこ

が、そのＰＴＡの集まりとは、ほかでもない彼女の息子の石岡健 け

が

児が、校長先生の車を運転して下級生に怪我をさせるという事故

89

ゆえ

を起こしたが故に、招集された集まりのうちのひとつだったので ある。彼女はそこでそう言ったのだ──文脈としては、「ウチで は子供にもお金に不自由はさせていない、つまり金持ちなのであ ちりょう

る、従って怪我をしたトロい子供の治療費も、ちまちまケチった はら

りせずにちゃんと払ってやる、だから文句はないだろう」という ことが言いたかったのだろうが、いずれにしろ、そうでもしない と聞かされた側の心の平安が保てないという理由さえなければ、 かいしゃく

そんなところまで踏み込んで解釈してやる必要などまったくない ような〝たわ言〟であった。 おこ

 三谷邦子はそれを怒っていた。言語道断だというのである。あ じょうだん

の親にしてあの子ありだ！ 冗談じゃないわよ、まったく。だけ どＰＴＡの集まりでは──というより民主主義国家では──思想 は

信条の自由は保障されているわけで、どれほど不届きな暴言を吐 たお

く人間であろうとも、だからと言って張り倒してしまうわけには いかない。どれほど腹が立っても、それで相手を裁くわけにはい かま

ねんし

かないのだ。そういう次第で、三谷邦子は、地獄の竈が不完全燃 ょう

焼しているみたいな心境で帰宅したのであった。  よりによって亘は、そこに小遣い問題のギモンについて問いか けてしまったのだった。思えば間の悪い子供である。  案の定、邦子は、亘が〝小遣いが少ない、友達にもそう言われ た〟というふうに、文句を言っているのだと解釈してしまった。 「あんたも石岡君みたいにお小遣いがたくさんほしいっていう の？」というふうに切り返してきた。おっそろしく感情的になっ ていた。 だいきら

「言っときますけど、お母さんはああいうのは大嫌い。あんたが そんなことを言い出すなんて、見損なったわ」

90

 見損なわれた方は、何がなんだかわからない。当然である。プ ンプン怒っている母親に、何だかわからないままゴメンナサイと つ

謝って、海の底に突き落とされたような悲しい気分になって部屋 こ

に籠もった。以来、お小遣い問題について持ち出すことは二度と なかった。 りくつ

ゆず

 理屈的には──父譲りの論理的な頭で──亘も理解しているの だ。子供に大金を持たせるのは良くない。努力は自分のためにす るもので、金が目的ではないと教えたい。オーケイ、わかってる としごろ

ほうばい

よ父さん。だけど、わかってはいても、同じ年頃の朋輩たちから、 してき

アンタんチは厳しいと指摘されれば、なぜそうなのか説明しても らって、安心したいと思うのもまた当然なのだ。安心することさ はさ

えできれば、そもそも亘は両親のすることに疑いをさし挟んでは いないのだから、「ウチは厳しい」ということだって、一種の自 慢になるのに。  そのときのことを思い出すと、亘は今でも心がうずくのを感じ るのだった。タイミングが悪かっただけで、亘も邦子も悪かった わけではないのだが、心には傷がついてしまった。でも、現実な んてみんなそんなものだというミもフタもないこともまた真実だ。  とにかく、「ボクはお小遣いが少ない」という現実を、亘は生 きている。だから今回のように不自由なことも多々あるけれど、 反面、少しずつ貯金をしながら『サーガⅢ』のポスターを眺め、 発売日を指折り数え、胸をふくらませる、その喜びは、パッと一 万円札をもらって『サーガⅢ』を買うことのできる石岡健児のよ うな子供たちよりも、ずっとずっと大きい──という信条を守る こともできるのだ。

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 写真ができてくるまでの中一日、亘はできるだけ強く自分を律 して、あの女の子の甘い声のことを考えないようにしようと努力 おそ

した。でも無駄だった。考えはどんどん具体的になり、恐ろしい げんそう

幻想と、ピンク色の夢のあいだを、しきりと行ったり来たりした。  あれは誰なのだろう？  どこから亘のそばに来ているのだろう？  どんな女の子なのだろう？  人間なのだろうか？ ゆうれい

 幽霊なのだろうか？ ようせい

 それとも──もしかして妖精なのではないだろうか？  そう、妖精。それがいちばん近いように、亘は感じた。『サー ガⅢ』でも、主人公のナビゲーション役として登場すると、雑誌 の先行情報には書いてあった。『サーガⅡ』では、あまり大きな 役割ではなくて、マスコット的に出てきただけだったのだけれど、 『Ⅰ』では妖精のニーナは大切なパーティメンバーの一人で、ゲー だんがい

ムのなかほどの難所〝ワイトの断崖〟を登るときには、絶対に彼 女の力が必要だった。亘は特にニーナがお気に入りだったので、 大切に育ててラストダンジョンまで連れて行ったものだから、ラ せんとう

スボスとの戦闘の前にイベントが起きて、ニーナが、 「ここから先は、わたしたち妖精は踏み込むことができないの」  なんて言ってパーティメンバーから外れてしまったときには、 がまん

思わずコントローラーを取り落とすほどにガッカリした。我慢で きなくてカッちゃんに電話すると、 がく

「なんだ、知らなかったの？」と、あっさり言われてますます愕 ぜん

然とした。 「ラスボスのエレメンタル・ガードは、昔は大トマ国を守護する

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おさ

善き妖精の長だったんだよ。だから妖精をパーティに入れとくと、 仲間同士で戦うことになっちゃうからダメなんだ」 「そんなの聞いてないよ！」 「あ、ってことは、ノルの泉のイベント起こしてないんだ。だっ たら知らないわなぁ、カワイソウ、チョー不幸」 しんちょう

 結局、亘は、慎重を期して保存しておいたニーナを育てる前の セーブデータまで戻り、ゲームをやり直したのだった。 てのひら

 子供の掌に載るくらいの大きさで、背中に羽根が生えていて、 いしょう

ヒラヒラしたきれいなバレリーナみたいな衣装を着ている── 『ロマンシングストーン・サーガ』に登場する妖精は、だいたい そういう存在だ。ニーナはばっちり、そういうキャラクターだっ かわい

た。絶対に、悪者ではない。可愛くて明るくて親切で、ちょっと 口が悪い時もあるけど物知りで、人間とは比べものにならないほ どの長い年月を、その愛らしい姿のままで生きている。  亘に話しかけてくるあの甘い声も──そんな存在なのじゃない ばな

か？ 期待と不安があまりに大きく、それでいてあまりに現実離 れしているので、さすがにこのことはカッちゃんにもうち明けら れなかった。写真に何か写っていたら、真っ先に見せに行こうと は思っていたけれど、姿の見えない女の子の声が聞こえるんだと いうだけでは、いくらカッちゃんだって笑うかもしれないし、もっ と悪い場合には、心配するかもしれない。  学校の帰りに、走って薬局へ向かった。信号や横断歩道のとこ うでどけい

かくにん

ろで立ち止まっては、腕時計を確認した。秒針が動いている── 四時五分前、四分前、三分前。  お店に飛び込んでカウンターの前に並んだときには、ジャスト 四時十秒前だった。亘の前に、小太りのおばさんが一人いて、白

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衣を着たお店の店員さんと、なにやら話し込んでいる。  亘は首をのばしてのぞいてみた。あるある、カウンターの後ろ ふくろ

に、現像された写真の入った縦長の袋が立ててある。たくさんあ あてな

る。ざっと二十はあるだろうか。口のところに宛名が書いてある。 目で追って、「ミタニ」の名前を探した──あった！ 手前から 五番目た。ちゃんと現像されていた。 「だけどちっとも効かないのよ」小太りのおばさんが、丸まっち いくちびるを尖らせて、文句を並べている。 すす

「おたくに勧められたから、薬、替えてみたのよ。こっちの方が 高いのに」 まゆげ

 白衣の店員はにこにこしながら、困ったように眉毛をさげてい る。「そうですか……でも、これは評判のいい新薬で」 「評判なんて聞いたこともなかったわよ。おたくに聞かされるま では」 「はあ、そうですか」 「だから取り替えてほしいのよ。効かないんだもの。効かない薬 なんて、イミないじゃないの」 ふう

「ただ、あの、封を切ってしまった薬のお取り替えはいたしかね ますので……」 「どうして？ 封を切ったか切らないかじゃないでしょ？ 効く よ

こ

か効かないかじゃないの、薬なんだから。新しいのを寄越しなさ いよ」  おばさんの手には、テレビでよくコマーシャルをやっている胃 にぎ

薬の箱が握られている。亘は、ジリジリして、誰かほかに店員さ んはいないかと周りを見回した。ここは大きなお店で、いつも三、 四人は白衣の人がいるのに、今日はなぜかしら見あたらない。レ

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ジ係の女性がいるけれど、あの人では写真の引き取りはやってく れないとわかっていた。 じ

「あの、ボク」焦れてきて、おばさんの脇から首を出し、カウン ターの店員に話しかけた。「写真を──」 えがお

「ごめんなさい、ちょっと待ってね」店員は笑顔で謝った。おば にら

さんの方は、亘をギロリと睨みつけた。「順番よ」 ため

「それでは、こちらのお薬をお試しになりませんか？」  白衣の店員は、カウンターの下からひと包みの薬を取り出した。 試供品みたいだった。 い

「そんなの要らないわよ」と言いながらも、おばさんは差し出さ れたものを手に取った。「これって、効くの？」 「漢方系の新薬ですが、胃もたれや消化不良にはよく効いて、さ ごこち

わやかな飲み心地です」 「ホントかしら」おばさんは薬の包みに鼻をくっつけてくんくん にお

かいだ。「ヘンな臭い」 だま

 店員はまた困ったような笑顔を浮かべているだけで、黙ってい とら

る。亘はその目を捉えて、声を出さずに「しゃ、し、ん」と言っ てみせた。 「それじゃコレ、もらっていくわ」おばさんは試供品を、やたら て

さ

大きくてふくらんでいる手提げ袋のなかにしまった。  店員と同じくらい、亘もホッとした。しかしおばさんはその場 を退かなかった。でんと居座ったまま、店員の後ろの薬が並んで いる棚を眺めて、 かぜぐすり

「風邪薬なんだけど──」と、言い出した。「あたしは胃が弱い ねむ

から、強いのは困るのよ。眠くなるのも困るの。おたくで売る薬 はみんな眠くなるから嫌なんだけど、何か新しいのない？」

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ひじ

 亘は思い切って肘でおばさんを押しのけた。そして細長い受け 取りの紙を差し出しながら、「ミタニです、写真お願いします」 と言った。  店員はちらとおばさんの方を見たけれど、はい、と応じて写真 の袋が立てられている方へ一歩踏み出した。亘の首筋に、フハッ！ ふ

というような感じで生暖かいものが吹きつけてきた。何かと思っ て振り返ると、おばさんの鼻息だった。 「失礼な子だね」おばさんは小さな目を光らせて、ひん曲げた口 の端から言った。「順番だって言ってるじゃないの」 「ごめんなさい。もう胃薬のことは済んだと思ったんです」亘は なるべく邪気のない顔をして、明るくそう言った。 「小生意気なガキだよ。親の顔が見たいね」  おばさんは吐き捨てると、やっとこさのしのしと身体の向きを 変え、カウンターから離れた。 「大人に口答えするなんて」  白衣の店員が、さっき亘の見つけたあの縦長の袋を持って、カ ウンターに戻ってきた。中身を取り出し、数枚のスナップ写真を 手早く見せて、「これね？」 「はい、そうです」  お金を払っているあいだも、さっきのおばさんの視線と鼻息を 感じたけれど、がんばって無視した。店員さんもそうしているよ うだった。お店屋さんもタイヘンなんだ。あんなお客でも、お客 だったらお客なんだから。  写真の入った袋を手に、走りに走って、気がついたら幽霊ビル の近くまで来ていた。 ほお

 息がはあはあしている。頬が熱い。手が震えている。その場で

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はとてもじゃないけど開けてみる気になれず、とにかくヒミツで アンゼンで静かなところへ行こうと思うだけで走ってきたのだ。  家に持ち帰るわけにはいかなかった。まだたくさんフィルムの 残っていた使い捨てカメラを、黙って使ってしまったのだから。 いや、それよりも何よりも、妖精が写ってるんだぞ！ そんなも の、母さんに見せられるはずがない。  亘は立ち止まったのに、心臓だけはまだ走っているという感じ けいだい

だった。息を整えながら、周りを見回した。三橋神社の境内へ行 こうか。あそこならべンチもあるし、日当たりがよくて明るい。 人もいない。亘は道を渡っていった。  幽霊ビルは相変わらずシートをかぶり、しんとしていた。前を 通り過ぎても、物音ひとつ聞こえてこない。この前、カッちゃん う

はあんなことを言っていたけれど、仕事の続きを請けてくれる工 務店は、やっぱり見つからなかったのだろうか。あの話は、まと まらなかったのだろうか。  古びた紅色の鳥居をくぐって、境内に入っていった。赤い柱に はいでん

緑色の屋根の拝殿の両脇に、わりと最近設置されたばかりのきれ いなベンチがある──左右にひとつずつ──ひとつずつ──いつ も空いていて──  いや、左のベンチに、子供が座っている。  芦川美鶴だ。一人で。  頭のなかが写真のことでいっぱいで、見れども見えずというか、 誰か座っているということを、全然気にしていなかったのだ。あっ おそ

じゃり

と思ったときにはもう遅かった。砂利を踏む足音が聞こえたのだ ろう、芦川が顔を上げて、こっちを見て、目が合った。  芦川は本を読んでいた。なんだか厚くて重そうな本だ。背表紙

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はば

の幅が十センチぐらいある。それを膝の上に広げていた。  ぽかんと口を開けて、亘は彼の顔を見た。一秒の百分の一ぐら いのあいだ、ベンチの上に人形を座らせてあるみたいだな、と思っ ていた。何かの広告写真みたいだ。  芦川は視線をさげて、また本を読み始めた。亘のことなど、まっ すずめ

たく気にかけていない。雀か犬でも見るみたいだ。いや、小鳥や 子犬が近づいていったのなら、もっといろいろな反応をするだろ かみ

う。それより悪い。ゴミか落ち葉でも見るみたいな目だった。紙 くず

屑だ、葉っぱだとわかってしまったら、もうそれで用済みだとい うような目だった。 せいいっぱい

 亘のこと、まだ覚えてないのかもしれない。精一杯、好意的に 考えた。そうだ、きっとそうだ。顔がわからないんだ、そうだよ。 「あのさ」と、亘は声をかけた。  自分でも笑ってしまうほど、情けないヘロヘロの声が出た。  芦川は最初、顔を上げなかった。亘が、今のひと声は聞こえな かったのかな、そうだ聞こえなかったんだな、よしもう一度と決 断し、口を開きかけた時になって、やっとこちらに視線を投げた。 さわ

雀の子が騒いでる、何だろうるさいな──というぐらいの重さし かない視線だった。  しゃべろうとして口を開けていた亘を、芦川はちらっと、本当 にちらっと眺めた。半秒の後には、彼の目はまた本の活字の上に 戻ってしまっていた。 は

 亘は恥ずかしさに、じとっと汗をかいた。ヘンだった。失礼な あいさつ

態度をとっているのは芦川の方で、亘はただ挨拶という正しいこ とをしようとしているだけなのに、どうしてこんなに恥ずかしい のだろう。

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じゅく

「塾で──一緒だよな」と、亘はさらに言った。だからボクには キミに話しかける資格があるんだよと、言葉の合間に必死で弁解 しているみたいな気がした。許可がないのに発言しているわけで はないのであります、教官。  芦川はまた目を上げて、今度はさっきよりも長く、亘を見た。 ろうか

そうぐう

ついこのあいだ、隣の教室前の廊下で接近遭遇したとき、間近に まつげ

見た長い睫毛が、不意に思い出されてきた。あの睫毛でさらさらっ と触って、ボクを検品してるみたいだと思った。  気がつくと、芦川はまた本の方に戻っていた。やわらかな風が ひと吹き、拝殿の屋根の上から左手の社務所の方へと吹き抜けて、 かみ

やさ

な

その中間にいる芦川と亘の髪を、それぞれ同じように優しく撫で ていった。 「ボク、三谷っていうんだけど」 おさ

 亘は勇気を奮い起こし、勇気ではない何かをぐいと抑えつけて、 けんめい

一生懸命に言った。「あの……宮原の友達で……えっと……」 とうとつ

あいいろ

 唐突に、芦川は本を閉じた。ぽんと音がした。深い藍色の表紙 の、古びた本だった。 「だから？」と、短く言った。よく通る声だったけれど、あまり に手短な発言で、切って投げるような言い方だったので、問いか けられているとはわからなかった。  それに亘は、一気にアガッてしまっていた。芦川美鶴と話がで きたぞ！ 「キミがすごく頭いいって、宮原に聞いて、ホントにできるんで ビックリしたんだ──」  芦川は整った顔をこちらに向けて、笑いもせずにもう一度言っ た。「だから？」

99

 それでやっと、亘にも、質問されているのだとわかった。だけ ど、何を尋ねられているのかわからない。 さと

 そうと悟ったのか、芦川はわざとゆっくりと、小さな子供に言 い聞かせるみたいな口調で尋ねた。「だ、か、ら？ だから何？」  亘は、汗がすうっと引いていくのを感じた。だから？ だから 何だってンのと訊いているのだ芦川は。  話なんかする気はないし、亘と親しくなる気もないという意思 の、これ以上ないほど簡潔な表明である。  でもさ、それはないんじゃないの？ 「本を読んでるんだ」芦川は言って、藍色の表紙を軽く撫でた。 亘のいるところからは、タイトルまで読み取ることはできなかっ た。ただ、漢字が並んでいるのは見える。難しい本なのだろう。 こし

「あ、うん、わかった」最初に声をかけたときよりも、さらに腰 くだ

砕けのヘロヘロした声で、亘は言った。芦川は亘の顔を見つめた まま本を広げると、ちょっと睨むような目をしてから、読書に戻っ た。  亘は回れ右をして帰るべきだった。怒ったってよかった。砂利 をつかんで投げてやったって──どうせあたらない距離だから─ ─バチがあたることはないだろう。親しくなろうと思って話しか むく

けている者に対して、あんな口のききかたをする者は、相応の報 いを受けるべきなのだ。  それなのに亘は、まだそこに突っ立っていた。芦川美鶴の持っ ふ ん い き

の

ている雰囲気に、完全に呑まれていた。彼は何かすごく〝良い〟 あこが

感じがした。〝貴重〟という感じがした。意味もない引け目と憧 れに幻惑されて、〝フン、感じ悪いヤツ〟と切り捨てることが、 どうしてもできないのだった。

100

「心霊写真、撮ったんだってね、ここで」  大あわてで、すがりつくようにして口にした言葉は、これだっ た。  芦川は本を開いたまま、ゆっくりと顔を上げた。表情は、さっ きまでとまったく変わっていなかったけれど、それでも亘は元気 づいた。やった！ 関心を引いたぞ。 「でもキミは、そういうので騒ぐのはよくないって言ったって。 ボクもそう思うよ」 ひとみ

おもしろ

 芦川の瞳が、ちょっと動いた。明らかに、亘の言葉を面白がっ ているのだ。亘も口元に笑みが浮かんでくるのを感じた。 「ただ、さ、ムズカシイと思うんだ。大騒ぎをするのはバカだけ ど、不思議なことって、ホントにあるもんね。そういうこととは、 ちゃんと冷静に向き合わなくちゃ。でさ──」 「写真」と、芦川は言った。 「え？」 「写真、持ってるね」  そのとおり、亘は薬局から引き取ってきたばかりの写真を持っ ている。そもそもここには、それをチェックするために走ってき たのである。今も、そのことについて言い出そうと思っていたの ちょう

だ。芦川はそれを先回りした。なんかスゴイぞ。こいつって、超 能力者だったりするのか？  亘はまたぞろ高速エレベーターに乗ったようにアガッてしまっ た。 「ボ、ボ、ボクも、もしかしたら、心霊写真みたいなものを撮っ たのかもしれないんだ」 か

 亘は大急ぎで芦川のそばに駆け寄った。砂利を踏むと、宙を踏

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んでいるみたいな感じがした。ひとつの身体のなかに、ヘンだよ、 なんでこんなヤツにこんなにドキドキするんだよと怒る亘と、やっ た！ これで芦川美鶴と友達になれるかもしれないと、手放しで 喜んでいる亘がいた。 「この写真、ボクの部屋なんだ」亘は震える指で写真を取り出そ あせ

うと、焦った。 「妖精って、いるだろ？ 『ロマンシングストーン・サーガ』に も出てくるじゃない？ ああいうものが、ボクの部屋にもいるか もしれなくて──だって声が聞こえてさ、一度だけじゃない、二 度もだゼ！」  論理と理性と合理性を重んじる三谷明の長男、いつもの三谷亘 君だったら、うわずった声で、興奮に頬を紅潮させ、こんな言葉 か

をしゃべり散らすくらいならば、舌を噛んで死んでしまいたいと 思うことだろう。人間はまれに、自分でも信じられないような、 きょくたん

普段とは極端に違うふるまいをしてしまうことがある。そういう ときはたいてい、いろいろな意味で、いろいろなものに、いろい ろな理由で酔っぱらっているのだが、今の亘には、もちろんそん なことはわからない。 「きっと写ってると思うんだ。見てみてよ。これ！」  やっとこさ、自分の部屋を写した写真を取り出し、芦川に差し ひょうし

出した。その拍子に、薄いビニール袋に入ったネガと、同じカメ さつえい

ラで撮影した動物園でのスナップとが、ばさりと音をたてて足元 の砂利の上に落ちた。亘はそれをまとめてつかんで拾い上げると、 ベンチの上の、芦川の隣に置いた。芦川は一人でベンチの真ん中 に座っており、左右どちらにもずれてくれなかったので、亘は座 れなかった。

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 亘の部屋のなかを写した写真は、二十枚近くあるはずだった。 芦川はそれを、すいすいとカードを切るみたいな手つきで、順番 かたす

に眺めていった。そうやってひととおり見終わると、固唾を呑ん で見守っている亘に、初めて笑いかけた。そして訊いた。 「どこに？」  そんなものが写っているんだという質問だとわかるまで、二、 三秒かかった。 「写って──ない？」 「何も。何ひとつ」 いっし

 芦川は言って、笑みを消し、亘の鼻先に写真を突きつけた。一 ゅん

瞬ぼうっとしたあと、亘はそれをひったくるように受け取った。 手がわなわなと震えて、うまく写真をめくることができない。 「そんな、そんなことあるワケないよ！」 つば

 唾を飛ばして叫びながら、亘は写真を調べていった。あわてる す

べ

うんどうぐつ

あまりに指のあいだからスナップが一、二枚滑り落ち、運動靴の 甲のところに、はらりはらりと載った。  写ってる──亘の部屋は。壁もカーテンも、ベッドカバーの柄 までもよく見える。机の上の散らかりようも、机の上の小さな本 立てに並べられている参考書やドリルの背表紙も、タイトルまで 読み取ることができる。  でも──妖精の姿はなかった。 すそ

 女の子の髪の毛一本も、白い指先も、ひらひらする衣装の裾も、 何ひとつ写ってはいない。なし。ナッシング。  亘は目を上げて、芦川の方を見た。芦川は本を読んでいた。亘 など、もうそこにはいないみたいに落ち着き払って。 「……確かに聞いたんだ」

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つぶや

 女の子の声、と付け足す言葉は、亘の口のなかで呟きになって 消えてしまった。 「そばにいたんだ。だから、絶対写真に写ると思ってたのに」  芦川が、細かな活字に目を落としたまま言った。「夢だよ」 「え？」亘は彼に一歩近づいた。低い声なので、うまく聞き取れ なかったのだ。 「夢。夢を見たんだよ」ページをめくりながら、芦川は言った。 ね

「寝ぼけてたから、居もしない人間の声が聞こえたんだ」 「でも、いっぺんだけじゃないんだ。二度も同じことがあったん だ！」 「じゃあ、二度とも寝ぼけてたんだろ」  芦川は本のページをめくった。大きな章がひとつ終わったのか、 白いページが現れた。  芦川は小さくため息をつくと、顔を上げた。「踏むよ」 「え？」今度は何だよ。 「写真。足元に落ちてるの、踏むよ」  彼の言うとおりだった。運動靴の甲の上から落ちた写真の端っ こを踏んでいた。それは動物園で撮ったスナップのうちの一枚で、 おり

飼育係からリンゴをもらっている象の檻の前で、亘と邦子が笑っ ている。 「僕は心霊写真なんか撮ってないよ」  亘が写真を拾い上げようと身をかがめると、芦川は言った。亘 が彼の顔から視線を外すのを、待っていたみたいなタイミングだっ た。 「ここで撮った写真に、幽霊なんか写ってるわけがないんだ。み んなが騒いでるのは、その方が面白いからだ。それだけだ」

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「でも、キミは──」 「そういうふうに騒ぐのは良くないって、僕は言った。君も同じ 意見なんだろ？ さっきそう言ってた」  芦川は少し、怒っているみたいに見えた。目が輝いていた。 「そういう意見の持ち主である君が、妖精の写真を撮ろうとする なんて、ヘンだね」 しか

 叱られてるみたいだった。 「そりゃ確かに──ヘンかもしれないけど、でも僕はホントに、 誰もいないところで女の子がしゃべる声を聞いたんだ」  言葉を強めて主張しようと、心では思うのに、実際にはどんど ん声がしょぼついていってしまう。 「だから、それは夢だったんじゃないかって言ってるんだ。僕だっ たらそう思う。写真なんか撮ろうとはしない」  芦川は言って、ちょっと首をかしげて亘を見つめた。 「自分で言ってることを自分で裏切って、一人で騒ぐなんて、ヘ ンだ」  亘は何か言おうとして、口をパクパクさせた。そうしないと泣 きだしてしまいそうだった。おしっこをしたくなってきた。  まるで大人と話しているみたいだった。いや、下手な大人以上 た

ち

う

てごわ

だ。太刀打ちできない。ルウ伯父さんなんか、この半分も手強く ない。誰に似ているかと言ったら父さんだ。いちばん理屈っぽく なってるときの、父さんだ。  子供同士の言い争いだからこそ、子供のやることなんだから、 子供の考えることなんだから──という究極の言い訳が、最初か ふう

はた

ら封じられている。側で見ている大人がいたら、そんなふうに感 じることだろう。

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「僕には、妖精なんかより、もっとずっと大きな問題があるよう に思えるけど」  芦川は、少しも乱れない落ち着いた口調で続けた。亘はそうっ なみだ

とまばたきをして、涙がこぼれないのを確かめてから、彼の顔を 見た。「どんな問題？」 「人によるよ」  芦川は言って、膝の上で本を立てると、表紙と同じ色合いの青 ひも

いしおり紐を引っ張り出して、広げてあるページのところに挟ん かか

だ。そして、またポンと音をたてて本を閉じると、小脇に抱えて 立ちあがった。  亘はすうっと寒くなった。この会見は、こんな形で終わるのか。 「僕がなんか問題あるっていうのかよ」 「別に、そんなことを言ってるんじゃない」 「言ってるじゃないか！」  またぞろ泣きそうになってきたので、声を張りあげた。こっち だって怒ってるんだ。  芦川は、さっきと反対側に首をかしげて、あらためて、珍しい ものでも観察するみたいに、しげしげと亘を見た。それから、そ の視線をまったく動かさず、表情も変えず、ただ口だけを動かし て、言った。 ち

「君ン家、お父さんはいないの？」  亘は驚いた。「なんでそんなこと訊くんだよ？」 「いないの？」 「い、いるよ。ちゃんといるよ」  芦川はちょっとまばたきをした。

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「じゃあ、お父さんは写真嫌いなの？」  ますますヘンな質問だ。「なんでさ？」 あご

 芦川は形のいい顎の先で、亘の手のなかの写真を指した。 「写ってないね、お父さん。一枚も」  亘は写真に目を落とした。そんなこと、全然気づかなかった。 そうだったろうか？ 「うちに帰ったら調べてみろよ。写ってないよ。君とお母さんばっ かりだ」  亘は、とっさに頭に浮かんだことを言った。 「お父さんは写真を撮るのが好きなんだよ」  実際には、そんなことはない。というか、三谷明が写真を撮る のが好きか、撮られるのが嫌いか、そんなことが家のなかで話題 になったことさえないというのが正直なところだ。でも、この動 物園行きのときは確かに、明は自分は写真に写らず、邦子と亘を 撮ってばかりいた。だから、芦川にそう答えてやったっていいは ずだ。  だいいち、そんなこと三谷家の勝手じゃないか。 「ふうん」芦川は鼻先で返事をした。「じゃ、いいじゃないか」  そう言うなり、くるりと身体の向きを変えて、さっさと歩き出 とちゅう

した。亘は、亘から見ればまだ話は途中なので、芦川が神社の鳥 居のそばへ行ってしまうまで、おとなしくその場に突っ立ってい た。だが、芦川はどんどん行ってしまう。そこでやっと、目が覚 めたみたいになって何歩か追いかけた。 「おい、待てよ！」  芦川は振り返りもしない。何も言わない。 「問題があるなんて、ヤなこと言いっぱなしにして、何だよ！」

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 芦川は紅色の鳥居をくぐって、神社の外へ出ていってしまった。 あたりは急に静かになり、鳥のさえずりが聞こえてきた。  ──何なんだよ、アイツ。  変わり者だという以上だ。  急に、なんだかひどく、くたびれた。写真を落とさないように 持って、さっきまで芦川が座っていたベンチに近づき、腰をおろ した。さっきまで芦川のものだった視界が、目の前に広がる。だ からどうということはなかった。ツツジの花は満開を過ぎて、そ こらじゅうに花びらが散っている。三橋神社は三橋神社で、境内 ひとけ

には人気がなかった。  一枚一枚、手に取って写真をチェックしていった。亘の部屋。 やはり、あの甘い声の持ち主は、どこにも写ってはいなかった。  動物園でのスナップ。羽根を広げたフラミンゴの群をバックに はと

して、おどける亘。鳩にポップコーンを投げてやる邦子。この日 まぶ

はお天気が良かった。邦子も亘も眩しそうな顔で笑っている。  確かに芦川の言うとおり、三谷明もまた、どこにも写ってはい なかった。

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５ 事件の影

 ──今月は、ツイてない。  亘はそう思うことにした。この六月は、何をやっても良くない いや

月なのだ。だからつまらないことばっかり起こるのだし、嫌な思 いばっかりするのだ。  ──夏休みまで、おとなしくしてよう。 きら

 それでなくても、亘は、一年のうちで六月がいちばん嫌いだっ た。びちょびちょと雨ばかり降る。急に気温が下がって鼻がぐしゅ あせ

ぐしゅするかと思えば、じっとりと汗ばむような夜が続くことも ながそで

ある。長袖を着たらいいのか半袖を着たらいいのかはっきりしな せんたく

いし、お気に入りのシャツやズボンが、一度洗濯をしてしまうと、 かわ

かんそうき

なかなか乾かない。どうして母さんは乾燥機を買ってくれないの か

だろう？ 今の洗濯機に買い換えるとき、電器屋さんに、セット すす

なら勉強しますよって、あんなに勧められたのに。うちは南向き だから必要ないわなんて言って。いくら南に向いてたって、太陽 が出なきゃ洗濯物は乾かないんだ。それに僕は、うちのなかに洗 びんぼう

濯物を干すの、貧乏くさくてイヤなんだ。  その点については、さすがは父子というべきか、三谷明も同意 見だった。邦子が家じゅうに洗濯物を干し並べると、彼はあから ふ き げ ん

さまに不機嫌になり、これをどうにかしてくれと、子供のように とが

口を尖らせて文句を言うのだ。 「乾燥機ぐらい買ったらいいじゃないか」  と、亘と同じ進言もする。だが、邦子の方が聞き入れない。

109

つ

ゆ

「そんなのゼイタクよ。梅雨時だって、一週間も十日もお日様が 出ないというわけじゃないんだから」 こ

ぜ

 雨降りが続くと、そういう小競り合いというか言葉のやりとり あいさつ

ひんど

は、朝晩の挨拶と同じくらいの頻度で、三谷家のなかに発生した。 しゅくしゅく

しかし、それ以外はおおむね平和で何事もなく、六月は粛々と─ ─またはじめじめと──過ぎてゆくようだった。やっぱりおとな かめ

しくしているのがいいのだと亘は思い、亀の子のように首を引っ 込めて、さらにおとなしくなった。 ゆうれい

うわさ

 幽霊ビルの噂も、亘が気にしなくなったせいもあるのだろうけ あ

れど、さっぱり聞こえなくなった。みんな飽きっぽいのだ。あれ から大松家の人たちを見かけることもない。カッちゃんも、まっ いぜん

たく誰にも会っていないという。そして工事は、依然として再開 されないままである。  芦川美鶴は、学校だけでなく、「かすが共進ゼミ」でも優等生 であることを証明した。二ヵ月に一度、担当の石井先生と、ゼミ じゅくちょう

と

の塾長先生が「みんなの学力の伸び具合を把握するため」に執り ぬ

行う実力テストで、あっさりと宮原祐太郎を抜き去り、ぶっちぎ おど

りのトップに躍り出たのだ。今の五年生の塾生たちのなかでトッ プだというだけでなく、歴代でもダントツの成績だという。  亘は、塾でも学校でも、芦川とは顔を合わせないよう、少し古 めかしい言い方をするならば〝袖振りあう〟ことさえないように、 気をつけて毎日を過ごしていった。もうあんなふうに、一方的に ごめん

やりこめられるのは御免だと思った。それも、全力でぶつかりあっ て完敗したというのじゃない。亘は必死だったけれど、芦川の方 けん

は、なんだか剣の先っちょで亘をあしらっているみたいだった。 だからこそ、その場で傷つけられただけでなく、後で思い出すた

110

かか

びに、また傷が深くなるような気がするのだ。もう関わるのはよ そう。 ごろ

 それに、六月の半ば頃になると、幸せなことに、亘には、芦川 が

い

や幽霊ビルなんかより、もっと考え甲斐のある、楽しい目標がひ とつできたのだった。ほかでもない、八月まるまるいっぱいを、 千葉の三谷家で過ごそうという計画である。  今までの夏休みも、七月の終わりから八月の第一週にかけて、 ば

あ

海水浴にはいちばん良いシーズンには、千葉のお祖母ちゃんのと と

こうれい

ころに泊まりにいって、楽しく過ごすのが恒例だった。明はそん なに休みをとれないし、夫が働いている時に邦子が家を空けるわ けにもいかないので、そういうときは、亘だけがお祖母ちゃんの ようちえん

家に泊まるのだ。幼稚園のころから、それでへっちゃらだった。 ホームシックにかかったり、お母さんに会いたいなんて、一度だっ てメソメソしたことはなかった。「亘は海の子なんだ」と、ルウ お

じ

伯父さんも保証してくれている。  それだから今年は、いよいよ、一週間や十日だけなんていうケ チくさいことを言わずに、八月いっぱい千葉で暮らそうというわ けなのである。もちろん、それだけ長くいるということになれば、 お客さんテキに遊んでばかりはいられない。お祖母ちゃんの店も、 海の家の売店も、ルウ伯父さんの仕事も、亘ができる限りのお手 伝いをするのだ。 「ちゃんと働けたら、それに見合う給料を出してやる」と、ルウ 伯父さんは言った。亘は、その話に飛びあがって喜んだ。〝給 すてき

料〟って、なんて素敵な言葉だろう！ 『ロマンシングストーン・サーガⅢ』の後に、おそらくは十一月 の半ば頃だろうけれど、『バイオニック・ロード』という、とて

111

おもしろ

も面白そうなゲームが発売される。ＲＰＧではなくて、アクショ ン・ゲームだけれど、雑誌の情報を見る限りでは、ＳＦ的なストー なぞ

リーがとても複雑で、謎めいていて、主人公がカッコよくて、そ れはもうドキドキするほどに亘好みのゲームなのだった。それが、 発売予定価格七千二百円なのである。ＣＤ二枚組だ。 だ

め

あきら

 最初に雑誌で見たとき、あ、こりゃ駄目だ、諦めだと思った。 ふたつき

『サーガⅢ』から二月とあいてない。七千二百円なんて、絶対に 無理だ。手も足も出ない。  カッちゃんなら、何とかなるかもしれない。二ヵ月あいてれば、 こづか

お

じ

お

ば

お小遣いのやりくりもつくだろう。小村家は、小父さんも小母さ いそが

んも商売が忙しくてカッちゃんにかまえない分、お小遣い方面で は三谷家よりもずっと甘いからである。小父さん小母さんが、ゲー ム内容を厳しくチェックするということもない。  ただ、基本的かつ大きな障害があるのだ。カッちゃんは、アク ション・ゲームは嫌いなのである。ＲＰＧ命なのである。『バイ オニック・ロード』？ それ何？ え？ 主人公がサイボーグな しんりゃく

の？ 侵略してきた異星人をやっつけて、宇宙コロニーに閉じこ けんめい

められてる住民たちを救出するって？ 亘が一生懸命にその面白 たず

さを売り込んでも、カッちゃんは話半分に聞き流し、そして尋ね るのだ。 まほう

「で、魔法は使えンの？」  使えないと答えたら、その場でアウトだ。カッちゃんにとって、 魔法の使えないゲームなんて、梅干しの入ってないおにぎりと同 じくらい意味のないものなのだから。  つまり、小村克美君に『バイオニック・ロード』を買ってもらっ わざ

て、貸してもらうもしくはプレイさせてもらう──という技は、

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最初から使えないのである。  ああ、お金がほしい。切実に、亘はそう思っていた。そんなと せりふ

ころへ、ルウ伯父さんの台詞が間こえてきたのである。八月いっ はら

ぱい、こっちへ来たいんだって？ ちゃんと働けたら、給料払っ てやるよ。  働けるよ！ 働けますとも！ ふ

 亘は一生懸命に両親を説き伏せにかかった。三谷明も邦子も、 まるまる一ヵ月のあいだ、我が子が家を離れるということに、最 ていこう

初のうちは、強い抵抗を感じているようだった。せいぜい半月ぐ らいならばいいだろう。でも、三十日間？ それはちょっと── 「ずっと千葉のお祖母ちゃんのところにいたら、遊んでばっかり いて、宿題ができないんじゃないの？ 駄目よ」と、邦子は反対 した。 「宿題は七月のうちにやっちゃう。ドリルだけだから。あとは日 記と感想文だから、千葉でもちゃんと書けるもん」 「朝顔の観察は？」 「それだって千葉の方がいいじゃん。お母さん、ベランダに朝顔 の鉢を置くと、イモムシがつくからイヤだって言ってたじゃない」 うな

 邦子はこれで、うーんと唸った。確かにイモムシは嫌いなのだ。 つる

ふとん

朝顔の蔓から、干してある洗濯物や布団にも移ってしまう。毎夏、 亘の宿題のために朝顔を育てるたびに、ベランダで悲鳴があがる という事態が発生し、ご近所の手前みっともなくて仕方なかった。 てごわ

 一方、三谷明はもっと手強かった。 しんせき

「親戚のところでも、アルバイトするのはまだ早い。亘は小学生 だ。少なくとも、中学生になるまでは駄目だよ」 「ルウ伯父さんは、いいって言ってくれてるのに」

113

ちが

「それは伯父さんの考えだ。父さんは意見が違う。おまえはまだ 子供だ。お金のために働いちゃいけない」 うった

 とりつくしまがないという感じだった。何を言っても、どう訴 えても、答は同じ。おまえにはまだ早い。亘は目の前が真っ暗に なった。毎日毎日、父さんに考えを変えてもらうにはどうすれは ねむ

いいか、どういう意見を述べればいいかと、夜も眠りが浅くなる くらいに、必死で考えた。  ところが──である。 「亘、夏休み、お祖母ちゃんと悟伯父さんのところで過ごしても いいぞ」 はん

とつぜん

 六月最後の日曜日、遅い朝ご飯の食卓で、明は突然そう言い出 したのだ。新聞を読みながら、なんだか、あんなふうに議論した たの

り頼んだりした話題についての結論というよりは、〝塩を取って〟 とでもいうくらいの軽さで、ひょっこりと。亘はすぐには信じら ね

れず、自分はまだ寝ぼけているのかもしれないと、邦子の顔を見 おどろ

た。母も驚いていた。 「あなた──いいんですか？」と、少しばかり笑いながらも、邦 き

子は念を押すように訊いた。「亘は八月中、千葉へ行こうとして るのよ？」 「いいんじゃないか」明は新聞をめくった。「何なら、君も行っ て来るといい」 「そんなわけにいかないわよ」邦子は笑いだした。「あなたを放っ ておいて、わたしだけ海水浴なんて、ねえ」と、亘にうなずきか ける。 「別にかまわないよ」明は新聞から目を上げないまま、ひょうひょ うとした口調で言った。

114

ふだん

「普段だって、すれ違いばかりで母子家庭みたいじゃないか。同 じだろ。俺だってやもめみたいだし」 ふく

 その言い方には──何というか、ほんの少しだけれど〝含み〟 があった。亘は確かに、それを感じた。昨日土曜日は、父さんは 休日出勤で一日じゅう出かけていて、帰りも遅かった。なんか嫌 つか

なことがあったのかもしれない。ひどく疲れているのかもしれな い。それで機嫌が悪いんだろう。 いっしょ

「だからこそ、夏休みぐらいは一緒に過ごす時間をたくさんとり たいのよ。ね？」邦子は亘に笑いかけた。今度ははっきりと、 えんご

〝援護せよ〟と顔に書いてある。〝明隊長は不機嫌モードに入っ ているぞ、亘二等兵〟。 しょうだく

のど

 しかし、亘は困った。父さんの承諾は、喉から手が出るほどほ しい。それがせっかく差し出されているというのに、母さんの味 方をして断るなんて。 「それに、亘が八月中千葉に行っちゃったら、小田原の両親に会 えないわ」邦子は言って、立ちあがってコーヒーポットを持って さび

かわいそう

きた。「二人とも寂しがるわ。可哀想よ」 だま

 明は黙っている。それどころか、新聞を持ちあげて顔を隠して しまった。邦子はさらにあれこれ言ったけれど、明は生返事をす ふ ん い き

ちんたい

るはかり。食事の席の雰囲気も沈滞してしまった。 くず

 こうして結局、なんとなくなし崩しではあるけれど、亘は夏休 かくとく

み中の一ヵ月の千葉行きを獲得したのだった。  千葉で過ごす八月の一ヵ月間を、有効かつ楽しいものにするた めには、東京にいる七月のうちに、宿題の大半を片づけてしまう しゅうとう

ことが必要だった。亘はこういう点では周到な性格である。七月 きょうれつ

ゆうわく

中の約十日間は、どんなに強烈な誘惑があろうが、ラジオ体操に

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間にあう時間に起きて、週に二度のプール教室に出かけるほかに は、ずっと家にいて宿題に集中する計画を立てている。そのこと を考えると、無条件で心がはずむのだ。いつもなら、大嫌いな六 む

月の、そのまた大嫌いの中心──しとしと雨と蒸し暑いのと、思 ゆううつ

い出したように夜気が冷えて鼻づまりになるのとで、憂鬱一方の 梅雨がやってきても、今年はちっとも苦にならなかった。じめじ めした空気と晴れない空の先には、頭から丸かじりして味わうこ す

ば

とのできる素晴らしい夏が、亘のために出番を待ってくれている。 「チカゴロ、やけに明るいじゃん？」  カッちゃんにそう尋ねられて、楽しい秘密をうち明けると、彼 らや

は手放しで羨ましがった。 「いいなぁ、俺もちょっとぐらい遊びに行かれるといいんだけど なあ」 「ルウ伯父さんにきいてみてあげようか？」  カッちゃんが一緒なら、亘だってもっと楽しい。 「伯父さんなら、きっとオーケイしてくれるよ」 めずら

に

「うん……」カッちゃんは、珍しくちょっと煮え切らない顔をし た。「たださ、オレんとこは店の手伝いがあるからね」 ぼん

「お盆休みは？」 「そんときは家族旅行。ウチはオヤジもオフクロもあんまし休み とれないから、家族旅行だけはちゃんと行くんだ」 「カッちゃんて親孝行？」 「──って感じぃ？」  そう言い合って、二人で笑った。  そんなふうに過ごして、六月の末、あと一枚日めくりをめくれ ば、待望の七月という日の午後のことだった。

116

 この日は塾があるので、亘は急いで学校から帰ってきた。何か つ

おなかに詰め込んでから出かけたかった。 げんかん

くつ

そろ

 すると、玄関に女もののきれいな靴が揃えてあり、リビングで 話し声がする。女の人の声である。  そっと顔をのぞかせると、例の母さんの友達──不動産会社の かお

社長夫人が来ているのだった。コロンの香りがする。 「あら、お帰りなさい」邦子が亘に気づいて声をかけた。社長夫 ふ

人も振り返る。亘は、ここまで来て目前の千葉行きがフイになる ようなミスをしたくないので、母さんの機嫌をとるべく、とても 良い子のご挨拶をした。 や

したく

 それに満足してくれたのか、母さんは手早くお八つの支度をし て、それを亘がお客様の前ではなく、自分の部屋で食べることを ごうか

許してくれた。お八つは豪華なケーキだった。フルーツが山ほど かざ

飾ってある。 さえき

「佐伯さんにいただいたのよ。お礼を言いなさいね」 ほほえ

 お盆を差し出しながら、母さんは社長夫人の方に微笑んで、そ う言った。そうそう、社長夫人の会社は、佐伯エステートとかい うのだった。  母なる女王邦子の友達が来たときには、そこに同席して、学校 のこととか友達のこととか、面白くもないことをあれこれ訊かれ ながらお茶を飲まなくてはならない、それは、第一王子の亘に課 せられた使命である──というのが三谷家の法律である。本日は あっさりとそれを免除されて、亘は心底ホッとしたが、すぐに、 なんとなくヘンな感じがしてきた。なにゆえに、こんな超法規的 そ

ち

措置がとられたのか？ 邦子と佐伯社長夫人の話は続いている。

117

ひそひそ、ひそひそ。  答は明らかだ。その会話を、亘の耳には入れたくないのだ。で ぬす

はどうするか？ 決まってるじゃないか、盗み聞きするのだ。亘 は手づかみでケーキを食べながら、ドアに張りついて聞き耳を立 てた。 「──それで警察はどうするつもりなのかしら？」と、邦子が低 い声で言った。 な

みは

 亘はクリームのついた指を舐めながら、目を瞠った。 さが

「もちろん犯人を捜してるわよ。だいたいの目星だってついてる んじゃないかしら」 「きっと変質者よねえ。前にも同じようなこと、やってるかもし れないし」 「それもそうだけど……不良グループじゃないかって」 「不良って、高校生とか？ まさか中学生じゃないでしょう。やっ たことがやったことだもの。車だって使ってるんでしょ？」 「まあねえ。だけどホラ、最近は高校入ってもすぐやめて、家で プラプラしてる子供も多いから、そういう連中が集まって──」 「問題を起こすのね。アラ、問題どころじゃないわね。これは犯 罪だもの」 「だから自警団をつくるって言ってるわけよ。うちはお宅と同じ ふる

で男の子ばっかりだけど、女の子のいるお宅は深刻よ。震えあがっ てるわよ」 「そりゃ当然だわ」 「だけど、気の毒よねえ」社長夫人がため息をついた。「大松さ んのところも──」 の

 亘はちょうど、ケーキのてっぺんに載っていたサクランボを口

118

に入れたところだった。驚きのあまり、種を飲み込んでしまった。  ダイマツ？ あの大松ビルのオーナーの大松さんのことか？  くわ

そうだろうそうだろう、だって、建てかけの大松ビルについて詳 おし

しい情報を教えてくれたのは、ほかでもない佐伯社長夫人だった のだから。 じょう

「中学生ですって？ お嬢さん」 「ええ、そう。だけど大松さんのところは、事件があった後、す ぐには警察へ行かなかったのよ。今度の事件があってね、それで やつ

しわざ

──ひょっとしたらお嬢さんをさらった犯人と同じ奴の仕業なん じゃないかって思って、それでやっと訴え出たってわけ。警察も、 聞き込みに回ってたしね」 「その気持ちもわからないじゃないけど、もっと早くに訴えれば よかったのに」 「それがね、大松さんのお嬢さん、事件のショックで口をきかな くなっちゃってるらしいの。ちょっと……まあなんていうか、心 こわ

が壊れちゃってるというか」  ショックを受けたのか、邦子は黙った。しかしドアの内側に張 しょうげき

ゆ

りつきながら、亘はもっともっと大きな衝撃に揺すぶられて立ち すくんでいた。はっぺたについたクリームと、同じくらい真っ白 な顔色になっていた。  大松家の中学生のお嬢さん。  口をきかない。  心が壊れてる。  香織のことだ。ほかの誰であるはずもない。 きれい

 見とれるくらい綺麗だけれどうつろな目をして、兄が押す車椅 とちゅう

きゃしゃ

子に座っていた。まだ制作途中の人形のように、華奢な首がぐら

119

ぐらしていた。  香織が──あんなふうになってしまったのは、〝事件〟のせい だという。ヘンシツシャとか不良とかがからんでいる事件のせい だという。警察が乗り出しているという。  佐伯社長夫人はさっき、「お嬢さんをさらった」と言わなかっ ゆうかい

たか？ 香織は誰かにさらわれたのか？ 誘拐されて、あんなふ うに壊されてしまったのか？ ひざが

 胃袋がゲンコツよりも小さく締まって、すうっと下がって、膝 しら

頭のあたりでやっと止まった。ケーキはもう一口も食べられない。  亘はまだ思春期の入口にも到達していない年頃だが、それでも、 今いる場所から入口を見ることはできる。しかも、思春期の入口 とびら

さく

には扉はなく、柵もない。昔はあったらしいけれど、時代が進む に連れてだんだんに壊されてきたのだ。だから、遠目でもそこを じゅうぶん

のぞくことは充分にできるし、入口の先、その奥にあるものはみ あざ

んな、ことのほか色鮮やかなので、両親が亘がのぞいて知ってい ことがら

るのではないかと推察している事柄の倍ほどの事柄を、亘はすで に知っていた。 お

 だから、推し量ることができた。大松香織が、どうやって、ど プロセス

もっ

んな経過で以て壊されたのか。それが女の子にとってどんなこと なのか。あて推量だから細かいところは違っている──たぶんか おそ

い

なり違っているだろうけれども、それが全体として恐ろしく、忌 けが

にんしき

まわしく、汚らわしいことだという直感的認識だけは間違ってい なかった。 せま

 塾へ行く時間が迫っていた。キッチンに皿を出して、邦子に挨 拶してから出かけねばならない。でも、どんな顔をしていいかわ からなかった。母さん、ボクはその女の子を知ってる。香織さん

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を知ってる。その子に会って、実を言うとずっとその子のことが かわい

ようせい

気になってる。だってすごく可愛かったから。妖精のニーナみた いに。  そんなことを考えるだけで、泣けてきそうだった。 にんじゃ

ささや

 亘は忍者のように部屋を忍び出て、母と社長夫人の囁くような せ

会話を振り切って、自分でも説明できないエネルギーに急かされ て、一直線に塾へと走った。通りすがりの人びとは、あの男の子 いぶか

は何をあんなに怒っているのかと、訝ったことだろう。  その日は塾にいるあいだじゅうずっと、じっと椅子に座ってい かいせき

ても──先生が亘の提出した算数のドリルの間違いを解析してく きちょうめん

みんな

れていても、宮原祐太郎がいつもながら几帳面な勉強ぶりで皆を 感心させていても──亘は一人で走り続けているような気分だっ た。どこに向かっているのかわからず、なぜ走っているのかもわ ど

こ

からない。ただ走っている。走れば、自分の助けるべき人が何処 おの

ヒーロー

にいるか、自ずとわかると信じている英雄のように。走れば、行 たお

モンスター

き着く先に自分の倒すべき怪物が待ち受けていると知っている勇 者のように。  でも、現実には何も見えず、どこにも着かない。だから、とて ひとり

も孤独だった。  塾の授業が終わると、夜も八時を過ぎてしまう。いつもはおな かペコペコだが、今日は空腹さえ感じなかった。ただ何となく、 胃のあたりがスカスカになっているだけだった。亘は友達とおしゃ べりすることもせずに、そそくさと参考書とノートをしまい込み、 黙って家路についた。 むしょう

 歩きながら、無性に大松ビルに行きたくなった。行けばまた香 織に会えるような気がしてたまらない。初めて出会ったのは、もっ

121

おそ

ともっと遅い時刻だった。真夜中だった。だからこんな時間に行っ たところで、彼女が散歩に来ているはずはない。それどころか、 建築途中の大松ビルが、いつもの香織の散歩コースに含まれてい るかどうかさえ確かじゃない。あの夜は、たまたま大松社長が、 むすめ

はんぱ

娘を散歩に連れ出した時、中途半端に放置されたままのビルの様 子を見に寄っただけのことだったのかもしれないのだ。 りくつ

つまさき

 理屈を並べてみても、爪先は大松ビルの方へ向いていた。今夜 は、マンションの共同玄関のところで明に呼び止められるという ぐうぜん

ま

す

偶然もなかった。亘は真っ直ぐに、ほとんど目的があるかのよう いちず

な一途さで、大松ビルへと向かって歩いた。幸い、今夜は雨もや んでいる。  カッちゃんが、灰色の作業着を着た人と連れだった大松社長に ばったり会ったというのは、もう半月ばかり前のことだ。だけど、 や

その後もビルの建築が再開される様子はない。大松ビルは痩せた うす

骨組みの上にシートをかぶり、夏も近いというのに、薄ら寒い姿 をさらして立っている。  誰もいない。やっぱり。毎日学校への行き帰りでここを通ると となり

きは、それなりに人通りがあるのだけれど、なにしろ隣は神社だ し、このあたりは住宅ばかりで、お店もコンビニも見あたらない ので、陽が落ちるとすうっと静かになってしまうのだ。  街灯の下に立って、亘は大松ビルを見あげた。シートとシート ひも

を結び合わせている太い紐が、ここ数日の雨を吸い込んで、死ん だミミズみたいに垂れ下がっている。そこにも、ここにも。その 数を数えた。  本来作業が進められていたならば、出入口になるべき場所には、 ことのほか厚いシートがかけられていて、そのシートだけは紐で

122

なんきんじょう

はなく、大きな南京錠で留め付けられていた。作業を続けてくれ かぎ

る工務店が見つかるまでは、この南京錠の鍵は、きっと大松社長 が保管しているのだろう。以前にここで会ったときには、亘とカッ ちゃんが来る前に、南京錠を開けて、建物のなかの方まで点検し ていたのかもしれない。 すきま

 シートとシートの隙間に目をあてて、のぞきこんでみた。かろ うじて鉄筋や階段らしきものが見える。ちょっとカビくさい。 うでどけい

 亘は腕時計のデジタル表示に目を落とした。午後八時十九分三 十二秒──  大松社長は、なぜあんな遅い時刻に、香織を散歩に連れ出して いたのだろう？ ここだって、昼間点検に来れば済むことだった じゃないか。なんでわざわざ夜遅くに──  昼間出歩くと、明るい太陽の光の下で、香織の壊れてしまった ざんこく

た

様子が、残酷なほどくっきりと見えてしまうことに耐えられない のだろうか。香織本人が、昼間外に出ることを嫌がるのだろうか。 いや、もしかすると彼女は、太陽の光ではなく、町を歩いている こわ

見知らぬ人たちを怖がるのかもしれない。香織を壊した奴らを思 い出させるから？ それとも、香織を助けてくれなかった人たち を思い出させるから？  わ

つら

 次から次へと湧いてくる辛い疑問を消し去るために、事件の詳 しいことを知りたかった。でもその一方で、事件のことなど知り たくもなかった。  亘の目には、不運続きで中途半端に立ちつくしているこのビル り ふ じ ん

が、大松香織と重なって見えて、仕方がなかった。理不尽な運命 のために、ここに立ちつくし、風雨にさらされ、いたずらに放置 や

おとろ

され、少しずつ少しずつ痩せ衰えているのは、ただの建物ではな

123

たましい

く、香織の魂そのものなのではないか──そんな気がして、たま らなかった。 ひあい

いきどお

つ

 心のなかの悲哀と憤りに、あまりにもどっぷりと浸かっていた ので、亘の目は現実を見ていなかった。目と鼻の先にあるものを 感知することができなかった。 げんえい

 そして、気づいたときには、今度はそれが、まるっきり幻影の ように見えた。だって、あるはずのないものがそこにあったら、 いくら小学五年生だって、ああこれは夢だゲンカクだ、ホントじゃ ないってわかるさ──  両京錠で留め付けられたシートを、内側から、そっと誰かが押 し開こうとしている。  手が見える。  亘はぽかんと口を開いて、その手に見とれた。動いてる。 みょう

 妙に白い手だった。でも女の人の手じゃない。もっとしわくちゃ じ

い

で乾いている。小田原のお祖父ちゃんの手と似てる。  手がシートを持ちあげて、隙間を広げ、その際聞から誰かが亘 を見つめている。 「うわ！」 きょうがく

さけ

 遅れてきた驚愕が、声になって口から飛び出した。亘が叫ぶの と同時に、シートを持ちあげていた手が引っ込んで、隙間も閉じ た。南京錠がぶらぶら揺れる。  誰か、ビルのなかにいる。 すそ

 とっさに、亘はしゃがんでシートの裾をつかんだ。シートは思 いがけないほど重たかったけれど、両手で持ちあげると、三十セ もぐ

ンチぐらいの隙間が空いた。亘はそこから内部へと潜り込んだ。 すべ

しめ

どろ

ほお

あご

勢いよく身体を滑り込ませたので、湿った泥が頬にも顎にもくっ

124

ついたけれど、全然気にならなかった。  シートの内側に入って膝立ちになったところで、今さらのよう に、あまりにも暗いことに気がついた。シートとシートのつなぎ あか

目から、街灯の光が細く差し込んでくる。灯りと言えばそれだけ き

そ

だ。コンクリートの基礎や、鉄筋の柱。すぐ右手に設置されてい やみ

る階段。みんな、わずかな光源があるがために、かえって暗い闇 かたまり

の塊になっている。 すご

 何か音がした。右の方で。亘は、凄い勢いでそちらに顔を振り 向けた。  階段の上──一階から二階、二階から三階、三階から四階── おど

踊り場で折り返しながらあがってゆく。どうやら、三階から四隅 へと続く踊り場まで設置されただけで、その先がないようだ。目 こ

を凝らしても、確かに何もない。宙ぶらりんになっている。 ひとかげ

 そこを、のぼってゆく人影が見える。

125

６ 扉

あぜん

 さっきと同じように、亘は唖然として口を開いた。自分の目に 映っているものが信じられなくて、ただただまばたきをするしか ない。 おど

はじ

ふ

 三階から四階に続く踊り場の端、そこから踏み出せば下に落ち ひとかげ

るしかないぎりぎりのところに、その人影は立っていた。黒いシ や

ルエット。痩せて背が高い。そして── （あれは、フードだ） すそ

 長く裾を引くローブを着て、フードをかぶっているのだ。左手 つえ

は踊り場の手すりの上に置かれている。右手には杖を──二メー トル以上の長さがありそうな杖を持っている。  その杖のてっぺんに、何か丸いものがついていて、光っている。 かがや

輝いている。 ま ど う し

 魔導士だ。 『ロマンシングストーン・サーガ』には、シリーズを通して、敵 と味方に一人ずつ、強力な魔導士が登場する。『サーガⅠ』では、 ししょう

えら

味方になる魔導士は、敵方の魔導士のお師匠さまにあたる偉い人 おこ

で、その分気難しくて怒りっぽいおじいちゃんだった。 『サーガⅡ』の魔導士は、一転して若い美人で、敵方の魔導士の ダブル

分身だった。敵方の魔導士も色っぽい美女で、何百年も生きてい るのに歳をとらない。なぜかといえば、自分に降りかかるべき えきびょう

「老い」を、強力な魔法で疫病に変えて、何も知らない大トマ国 ふ

の人びとの上に振りまいているからだった。味方になる美人魔導

126

たお

いっしゅん

士は、敵方の魔導士を倒せば自分もいっぺんに歳をとり、一瞬の ろうば

うちに老婆になってしまうことを承知の上で、主人公に力を貸し てくれるのだった。 『サーガⅢ』では、今のところ雑誌の情報を読む限り、またおじ いにしえ

のろ

いちゃん魔導士が登場するようだ。この人には何らかの古の呪い がかけられていて、それを解くために主人公に同行を申し出ると いうことであるらしい。イラストを見ると、『Ⅰ』の魔導士より やさ

もずっと優しそうで、なんだかサンタクロースみたいな感じだっ た。  それぞれに個性的な魔導士たちだが、服装には共通するものが ある。フード付きの長いローブと、手にした杖だ。『Ⅱ』の美人 ちょう

は

魔導士など、下着が見えそうな超ミニスカートを穿いているにも かかわらず、ローブは裾を引きずるほどの長さだった。つまり、 それはお約束の制服なのである。 ゆうれい

やみ

と

ぎ

 そして今、幽霊ビルの内側の闇の中で、宙ぶらりんに途切れた い

階段の踊り場の上に立っているのも、やっぱりそういう出で立ち まちが

の人物だった。魔導士だ。間違いない。だって、ほかにどんなキャ ラクターを思い浮かべることができる？  問題は、魔導士なんか実在するはずがないということである。 あおむ

「あの、あの、あの」気がつくと、亘は仰向いてそんなことを口 走っていた。 「あの、あの、アナタは──」  頭上の踊り場の人影が、こちらに頭を振り向けたように見えた。 杖の角度が、ちょっと変わった。 「アナタは、そんなところで何してるんですか？」 ちんもく

 沈黙が落ちた。それでも、亘は暗がりのなかで、フードの人影

127

がこちらを見つめているのを、その視線をはっきりと感じた。 「あの、その」半歩前に踏み出して、「危ないですよ、そんな高 いところにいたら」  返事なし。  人影は動かない。 いや

 嫌な感じがじわっとした蒸気となって、亘の全身を押し包んだ。  もしかするとアレは、もちろん魔導士なんかじゃなくて、その ──ちょっとばかりココロのバランスを失っているヒトというか、 変わっているヒトというか、そういうヒトがここに入り込んでい るというだけのことじゃないのか？ それでもってボクは、そう いうヒトと闇のなかで二人きりで、しかもこっちから呼びかけて ひ

注意を惹いちゃったりしてるワケだぞ。  もっとも、魔導士のコスプレするのが好きなお年寄りが、この 近所に住んでるってこともあるって──考えられないでもないけ ど。  フードの人影が、一歩手前に踏み出した。 ひやあせ

 亘はすうっと冷汗をかいた。コスプレ好きなおじいちゃん── あるわけないって、そんなこと。  あわててしゃがみこむと、ひっかくようにしてシートの裾を持 あせ

かみなり

ちあげた。焦っているので上手くいかない。すると、頭上から雷 とどろ

のような声が轟いた。 おそ

「恐れるでない、少年よ！」  亘は固まってしまった。たっぷり数秒間、そのままの格好でい た。 あお

 それから、おそるおそる振り返り、頭上を仰いだ。  フードの人影は、さっきまでと同じ場所に存在していた。杖が、

128

かたむ

すきま

またちょっと傾いた。シートの隙間から差し込む街灯の光を受け たま

て、杖のてっぺんについた珠がピカリと光った。 おだ

 頭上から、今度はずいぶんと穏やかな声が聞こえてきた。 「おぬしは、どこから来たのかな？」  質問されているのだ。亘は両手でシートの裾をつかんだまま、 口をあわあわさせることしかできなかった。  だって、日本語だ。 「名前は？」と、声がまた問いかけてきた。明らかに老人の声だっ た。ほんの少しだけれど、しゃがれているようだ。タバコ飲みの じ

い

小田原のお祖父ちゃんと同じだ。 「これ、何とか言わんかい」  問いながら、頭上の人物は、さらに半歩手前に踏み出した。 あご

 亘の顎がガクガクしてきた。「あの、あのあの、あの」 「そうか、おぬしはアノという名なのか、少年よ」  違う違う。亘はぶるぶる首を振った。でも声が出てこない。 「アノよ、おぬしこそ、こんなところへ何をしに来た？」  そうっと見あげると、フードの人影は、三階から四階へ続く踊 かた

かつ

り場の手すりにもたれて、亘を見おろしていた。杖は肩に担いで しまっている。 みょう

 なんだか──妙に気さくである。 「アノよ、おぬしも友達に聞いてきたのかの？」 たた

 フードの人影は、杖を持ちあげてとんとんと肩を叩いた。 「ここのことは、だいぶ評判になっとるらしいからの」 ろうばい

 それらの言葉は、狼狽して混乱してコントロールを失っている 亘の心にも、かろうじて届いた。  トモダチ。トキダチに聞いてきた。

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 ヒョウバンになってる。 「あの──あの──」 さえぎ

 つっかえつっかえ言い出すと、頭上の人影は笑いながら遮った。 えっけん

「アノよ、ここはミダス王の謁見の間ではないからの、発言する 時にいちいち名を名乗らなくてもかまわんのよ」 「あの──いえそうじゃないんです」  やっとまともな言葉を口にできると、それで呪いが解けたみた いになって、亘は立ちあがった。 「ボクはアノって名前じゃありません。亘といいます」 「ワタル？」人影は首をかしげたようだった。フードが動いた。 「ほう、そうか。似とるなあ」  え？ と思った。「誰にですか？」 「誰でもない」フードの人影はすぐに答えた。「少なくとも、お ぬしの友達ではないようじゃの」  杖を反対側の肩に担ぎ直すと、さらにゆったりと手すりにもた ふところ

キセル

れた。なんだか、今にも懐からタバコか煙管でも取り出して、一 服つけそうなほどにくつろいだ感じである。 「それでワタルよ、おぬしはここへ何をしに来たのじゃ？」 「えっと──あなた──あなたはさっき、シートの隙間から外を 見てたでしょ？」 「ほほう」 「そのとき、外側からも、あなたの手が見えたんです。それで、 もぐ

何かと思って潜り込んできたんです」 のんき

「なるほど」人影は呑気そうに言った。「で、おぬしはここに何 をしに来たのじゃ？」 「だから、あなたの手が見え──」

130

そでぐち

 ロープの袖口から、するりと手が出てきた。人影は指を立てて、 ノンノンノンというように左右に振った。 「ワタルよ、おぬしはわしの質問を聞いておらんの。いいかね、 よくお聞き。おぬしはここに何をしに来たのじゃ？」  亘は困ってしまった。「だって──」 「おぬしはこの建物の前を散歩しておったのかの？ ここの時刻 ふくろう

に？ 梟の朝は子供らの夜ではないか」  ああ、そういう意味か。亘はやっと得心した。「そもそもここ へ来たのは、ちょっと人に会いたかったからです」 「人に会う」歌うように節を付けて、フードの人影は繰り返した。 「その人はどこにおるのじゃな？」 き て れ つ

じょうきょう

 それは、たとえこんな奇天烈な状況ではなくても、答えにくい 質問である。大松香織のことなんか、どう説明しょう？「ここに は‥…いないんですけど」 「ほほう。いないとな」 「はい。でも、前にここで会ったことがあって、それでボク──」 「前にここで会ったことがあるとな」 「そうなんです。おかしな話に聞こえるのはわかってるけど、で もホントなん──」  フードのヒトは、亘の発言を最後まで聞いてくれずに、また遮っ た。「その人とはどんな人なのかな？」 「女の子、ですけど」 「少女とな、ほほう」  また歌うように言ってから、フードのヒトは急にしゃっきりと 姿勢を直し、どんと杖をついた。亘はビクリとした。 「さて、わしはもう帰らねばならん」

131

「あの、ですけど──」 「それに、どうやらおぬしは間違いをしているようじゃ」 「ボクがですか？ 何を？」 「おぬしはここへ来てはならぬ」 「だけど──」 しだい

「そういう次第で、おぬしはわしには会っておらん」 「でもこうやって話して──」 もど

「案ずるな。これからわしがおぬしの時を巻き戻してやろう。お ぬしはここにはおらなんだ。何も覚えておらなんだ」 「ちょ、ちょっと待って──」  フードの人影は、ちっとも待ってくれなかった。亘の言葉など 聞こえてない。杖を片手に、残る片手を宙に差しのべて、最初の 時と同じような、朗々とした声を張りあげた。 いだい

しもべ

にじ

「偉大なる時の大神クロノスよ、その忠実なる僕、風と雲と虹の 使者よ、我ここに立ちて仰ぎ願わん！」 じゅもん

 呪文だ。亘はまたぞろ唖然とした。 おんちょう

とど

ぼうきゃく

「その恩寵をもって、流れし時を留めたまえ、返したまえ、忘却 わ

いづ

きよ

の泉より湧き出る水にて浄めたまえ」 つ

 ぐいと、杖が空に突きあげられた。 「ダン・ダイラム・エコノ・クロス、えいや！」 た

しろがね

 瞬間、無数のフラッシュが焚かれたように、亘の目の前が銀色 まぶ

の光に満たされた。あまりの眩しさに思わずまばたきをすると、 「あれ？」  暗い幽霊ビルのシートの内側に座り込んでいた。あわてて見あ げても、三階から四階に通じる踊り場の上には、誰もいない。  魔導士も、コスプレするお年寄りも。亘のほかには誰もいない。

132

でも── （何だったんだ、今の？）  と思った。ということは、 （全部覚えてるぞ）  あのじいさん、時を巻き戻すなんて言ってたけど、ボクは何も 覚えていないなんて言ってたけど、ちゃんと覚えてるぞ。  急に頭がフラフラしてきて、片手で自分の額を押さえた。熱で もあるんじゃないか。夢を見てたんじゃないか。ほっぺたをつねっ てみようか。つねってみるぞ。痛い。ちゃんと痛い。  亘はシートの裾を持ちあげ、ようやっと外へ出た。街灯の下で、 うでどけい

おそ

しか

腕時計を見た。遅くなっちゃった、母さんに叱られる、何て言い 訳しょうか──  息が止まった。  デジタル表示は、八時十九分三十二秒。  そんなバカな。ただシートの内側に入り込んで、そこから出て 来るだけだって、三十秒とか一分とかかかるはずだ。  時間が過ぎてない。 （わしがおぬしの時を巻き戻してやろう）  魔法みたいだ。  いや、みたいじゃない。これこそ魔法だ。 けんめい

 あの呪文──一生懸命に思い出してみた。時の大神クロノスと か言ってたぞ。その使者が──何だっけ、風となんとか。虹だっ たかな。それで最後に、なんとかラムとかエコノなんとかとか─ ─ああ、もっと注意深く聞いていればよかった。 まぼろし

 あれは本物の魔導士だったんだ。夢や幻なんかじゃない。コス しょうめい

プレ好きのおじいさんでもない。正真正銘、真の魔導士。

133

 だけど、そんなものが、いったいどこからやって来たんだよ？  身体の内側からどやしつけられたみたいに飛びあがり、亘はも う一度シートの内側に潜り込んだ。一度街灯の光に慣れた目には、 はる

こ

幽霊ビルのなかの闇は、さっきよりも遥かに濃く深く見えた。そ かげ

れでも、踊り場にも、鉄筋の陰にも、階段の下にも、亘以外の誰 一人いないことだけは、明らかだった。 おもしろ

「なかなか面白そうだけど……なんか、今までと感じが違うねえ」 かさ

の

 カッちゃんはそう言って、黄色い傘を右肩から左肩の上に載せ か

うてき

替えた。雨滴がパラパラと落ちる。 き

「感じが違うって？」と、亘は訊いた。 「ⅠとⅡと違うじゃん。今の日本が出てくるってさ、なんかシラ ける感じしない？ それに、その調子だと、ディスクの三枚目く らいまで進めないと、ポスターに出てくる空飛ぶ船には乗れなそ うじゃんか」  そこまで聞いて、カッちゃんの言葉の意味がやっとつかめた。 亘はガックリした。 「カッちゃん、今までの話、『サーガⅢ』の先行情報だと思って たのかよ？」  カッちゃんは目をクリクリさせる。「違うの？」 わき

 放課後、二人は学校の裏庭にいた。図書室のすぐ脇の通用口か ら外に出て、コンクリートのステップのいちばん上に、並んで腰 かけていた。今日は朝からずっと細かな雨が降り続いていて、一 向にやむ気配を見せない。天気予報によると、大きな低気圧が近 づいているということで、西日本では大雨の危険があるとかいう 話だった。  亘はカッちゃんにうち明けたのだった。自分の部屋にいると、

134

どこからともなく話しかけてくる甘い声の女の子のこと。幽霊ビ こ

せいいっぱい

ルで亘に魔法をかけた、魔導士のこと。熱を込めて、精一杯正確 に言葉を選んで話したのに、カッちゃんときたら、それをゲーム の話だと思っていたというわけである。  でも、仕方ないかもしれない。立場を逆にしたら、亘だって同 じように受け取るだろう。姿の見えない女の子。おじいちゃん魔 導士。どっちも、作り話のなかの存在だ。本当に会ったんだ、話 しょうこ

をしたんだと言い張っても、証拠は何もない。  亘はひどくくたびれた感じで、頭がぼうっとしていた。昨夜は ねむ

か

ぜ

ほとんど眠れなかったし、幽霊ビルでドタバタしたせいで、風邪 をひいてしまったのかもしれなかった。 じゅく

おく

 塾からの帰りがいつもより遅れて、母さんにはひどく叱られた。 国語のドリルにどうしてもわからないところがあって、先生に訊 いているうちに遅くなってしまったんだと説明したのだけれど、 きげん

なかなか機嫌を直してくれなかった。亘は、そんな言い訳など真っ うそ

み

ぬ

赤な嘘だと見抜かれているのか──と、ヒヤヒヤしたのだけれど、 どうやらそんなわけではないようだった。昨夜の母さんは、亘が 帰る以前から、ずっと機嫌が悪かったみたいなのだ。昼間は佐伯 社長夫人とたっぷりおしゃべりをして、きっと楽しかっただろう はずなのに。  カッちゃんと同じように肩に傘を担いで、亘はぼんやりと雨足 こわ

を見つめた。もしかすると、ボクも壊れかけてるのかもしれない。 「おい、ちょっと」  カッちゃんに声をかけられるまで、半分眠ったような感じになっ ていた。 「見てみろよ、ホラ」

135

ひじ

 カッちゃんは亘の肘をひっぱって、図書室の窓の方を指さした。 しょか

大きなガラス窓ごしに、図書室の書架の一部が見える。それだけ でなく、その書架のそばに誰かいるようだ。人影が動いている。  図書室の窓よりも、こちらの方が低い位置にいるので、首をの ばしてみても、肩から上がかろうじて見えるくらいだ。それでも、 してき

カッちゃんに指摘される以前に、書架のそばの人影が誰のものな のか、亘にもわかった。 「芦川だ」  間違いなくアイツだった。半袖の白いポロシャツを着ている。 めずら

芦川にしては珍しいことだった。塾で見かけるときは、いつも黒っ ぽいものばっかり身につけているのだ。 「芦川だけじゃないよ」カッちゃんが、図書室の方からはこちら かく

を発見されないように、首を縮めて傘の陰に隠れながら言った。 いっしょ

「石岡たちも一緒だ」 まどぎわ

たな

 そのとおりだった。芦川が窓際の書架のところで足を止め、棚 から一冊の本を抜き出して、広げた。すると石岡が近づいてきて、 じゃま

芦川が本を読めないように邪魔を始めた。石岡の後ろには、いつ こしぎんちゃく

もながら、彼の腰巾着の六年生が二人、ぴったりとくっついてい る。見ているうちに、三人で芦川を取り囲むような格好になって しまった。 おどろ

きみょう

 亘は驚いた。芦川と石岡健児。何とも奇妙な組み合わせだ。確 ふつう

かに石岡は学校の問題児だけれど、亘たちとは学年が違う。普通 せっしょく

に学校生活を送っている分には、接触する機会はごく少ない。そ は

れなのに芦川のヤツ、なんでまた石岡に目をつけられるような羽 め

目になってしまったんだろう？ ガラスの向こうの光景は、明ら いじ

かに、石岡と彼の取り巻きが芦川を虐めているの図──だった。

136

ひそ

「なんだかイヤな感じだな」亘も声を潜めた。そして、じりじり と窓ににじり寄った。 ふさ

 そのとき、視界を塞いでいた石岡が半歩脇に動き、亘のいると ころからもまた、書架の前の芦川の横顔が見えるようになった。 こわ

 怖がっているような表情ではなかった。芦川は、石岡たちの方 を向いてさえいない。視線は手にした本のべージの上に落ちてい ま

す

て、そのせいか、真っ直ぐな鼻の線が、いっそう際だって見える。 まえがみ

サラサラした前髪が、目の上に垂れている。芦川の髪型は、女の 子のショートカットみたいな形で、男にしては長めである。今は まだいいけれど、中学生になったら許されないだろう。芦川だか ま

ね

らこそ似合うスタイルなのに、塾の男子たちのなかに、真似っこ となり

して髪をのばす連中が出てきた。隣のクラスでも同じような状況 であるらしい。 （やっぱ、あのロンゲがまずかったのかな）  目立ちたがりの常で、石岡も、自分より目立つ存在については きわ

びんかん

極めて敏感なのだ。芦川も、そのアンテナにひっかかったか。  そのとき、窓の向こうで石岡が腕をのばし、芦川の肩を強く突 いた。芦川がよろめいて、亘の視界から消えた。 ささや

「うわ、ヤバイぜ」カッちゃんが、いささか興奮気味に囁く。 「今日は図書係の先生、いないのかな？」  いないのだろう。石岡たちは、そういう点では抜け目ない。下 級生を虐めている現場を押さえられるようなヘマはしない。 「誰か呼んできた方がいいかな？」  石岡の腰巾着だろう、ケケケと高い声で笑うのが、ガラスごし ひび

に聞こえた。どすんというような音も響いてきた。 「職員室に──」

137

 立ちあがりかけたカッちゃんの袖を、亘は強くつかんで引き留 めた。 「シぃ！ ちょっと待った」  視界のなかに、また芦川が戻ってきたのだ。今度はしっかりと 石岡に向き合っている。石岡は亘たちの方に背中を向けているの で、亘の目には、芦川の表情がはっきりと見えた。 こがら

 芦川の方が石岡よりも小柄なので、心持ち見あげるような姿勢 だ。それでもまったく負けていなかった。  芦川は、さっきと同じ無表情の表情だった。ほんの少しでも、 きょひ

これっぽっちでも、石岡に対して感情を示すことを拒否している いあつ

かのようだ。それなのに威圧感があった。 お

 強い視線に圧されたらしく、石岡が半歩退いた。彼の着ている は

で

う

派手なチェックのシャツが、窓ガラスの半分を埋めてしまった。 亘は傘をたたんで身軽になると、ギリギリのところまで窓に近づ いた。  芦川が何か言っている──くちびるが動いている。でも言葉は 聞こえない。かろうじて聞き取れたのは、 「おまえ、オレを誰だと思ってんだ？」  ちょっとばかりひっくり返った石岡の声だけだった。  芦川がまた何か言う。よほど低い声を出しているのだろう。亘 じ

は焦れて、首をのばした。  その瞬間、ガラス窓の向こうの芦川と、視線があってしまった。 かべ

 亘は首を引っ込め、窓の下の壁に張りついた。芦川が窓の外の 亘に気づいたことで、石岡たちも振り向き、こっちを見るに違い ない。まずいとヤバイを足して十乗したぐらいのピンチだ。 ぬ

 雨がさわさわと顔にあたる。髪が濡れる。

138

つ

 しかし、息を詰めて壁に張りついていても、何も起こらない。 通用口のステップのところでは、カッちゃんが目を丸くしている。 何か言おうとしたので、亘は口元に指を立てた。  それから十数えた。そして、壁に張りついたままそろりそろり と横移動をして、カッちゃんのそばに戻った。 「ダイジョウブかよ？」と、カッちゃんが囁く。 「見つかった」と、亘も声を殺して答えた。 「なかへ入ろう。ここにいちゃまずいよ」 あめつぶ

 亘はびしょ濡れの傘を拾い上げた。カッちゃんは雨粒を巻き散 らしながら傘をたたむ。  いきなり、ガラリと図書室の窓が開くと、芦川美鶴が顔を突き 出した。亘もカッちゃんも、その場で石になった。  芦川は何も言わない。ただ真っ直ぐにこちらを見ている──亘 の目を見ている。 「わ、わ、わ」と、カッちゃんが言った。「何だよ？」  芦川は、カッちゃんには目もくれなかった。ただじっと亘を見 ている。何だかわからないけれど、何かを確実に読み取られてい るという気がして、亘はゾッとした。それなのに、目をそらすこ ともできない。 た

うす

ほほ

 数秒が経った。芦川は、これで納得がいったとばかりに薄く微 え

とうとつ

笑むと、また唐突に首を引っ込めて、窓を閉めた。 「な、な、な」カッちゃんはあえいだ。「何なんだよ、あいつ？」 にぎ

ふる

 亘は傘の柄を握りしめた。指が震えている。怖かった。アイツ、 すごく怖い。  しばらくその場で呼吸を整え、自分で自分を落ち着かすことが できると、止めるカッちゃんを振り切って、亘は図書室に向かっ

139

た。だが、一歩遅かったようだ。石岡も腰巾着も、芦川美鶴も居 えつらん

なくなっていた。閲覧室で女子生徒が数人、静かに勉強している だけだった。 「芦川のヤツ、石岡たちと何を話してたんだろうな……」 つぶや

 独り言のような亘の呟きに、カッちゃんが答えた。「たぶん、 心霊写真の話じゃないかなぁ」 すご

 亘はビックリして振り返った。その勢いがあんまり凄かったの の

で、カッちゃんが飛び退いた。 「心霊写真？ 三橋神社の？」 「うん、そうだよ。芦川が撮ったやつ」 「なんでそんなもんに、石岡たちがこだわるんだよ？」 「知らないの？ あ、そうか。三谷はここんとこ、夏休みのこと ばっか考えてたもんね」  石岡健児が、芦川の撮った心霊写真をほしがっているのだとい う。それで、しつこく芦川につきまとっているのだという。 「石岡としては、それをテレビ局に持ってゆきたいわけよ」  石岡は、以前に一度、心霊写真をネタにテレビに売り込もうと して失敗している。なるほど、それで芦川の写真に目をつけたの か。 「セコイだろ？ ま、石岡らしいけどさ」  もちろんセコイが、それ以前に、なんで他人の体験を横取りす ることまでしてテレビに出たがるのか、その気持ちが理解不可能 だ。  それに── 「芦川も、つきまとわれるのがイヤなら、さっさと写真をやっちゃ えばいいのに」

140

は

あざ

 亘は吐き捨てた。三橋神社での芦川とのやりとりが、鮮やかに は

思い出される。かさぶたを剥がしたら、また血が出てきたときみ たいだ。あのときの芦川の、これ以上ないくらいにケイベツ的な 視線。身震いが出る。 「アイツは、心霊写真なんて頭から信じてないんだ。だったら、 石岡にくれてやったっていいじゃないか」  亘が勝手に怒り始めてしまったので、カッちゃんはついてゆか れずに困っている。頭の横っちょをかきながら、ぼそぼそっと言っ た。 「そんなら、そういうふうにアドバイスしてやれば？ 塾で一緒 なんだろ？」 「一緒なんかじゃない！」  カッちゃんは日をシロクロさせた。「何だよぉ。どうしちゃっ たの？」 「カッちゃんはうるさいんだよ。何でもいちいち説明しなくちゃ なんないのかよ？ 説明したってわかりやしないくせに。バカじゃ ないの」  八つ当たりだとわかっているけれど、ゴメンと言う気持ちには なれなくて、亘はさっさと図書室を出た。カッちゃんを置いてき ろうか

ぼりに、一人で廊下を歩き出す。カッちゃんはためらいがちに後 に

を追いかけてきたけれど、亘が逃げるように足を速めるので、そ のうちに止まってしまった。 「うちに帰ンの？」と、大声で訊いた。「そんなら、バイバイ」  亘はどんどん走り出した。学校を出て家に通じる道までたどり 着くころには、自分のふるまいがひどく勝手で意地悪だと気がつ くくらいまで頭が冷えていたが、もう手遅れだ。一人でとぼとぼ

141

帰るしかなかった。 お

じ

 その晩、夕食が済んだころに、千葉のルウ伯父さんから電話が かかってきた。 しょくたく

 最初にベルが鳴り出したときには、食卓を片づけていた邦子が、 ちょっとビクリとした。肩ごしに電話機の方を振り向く様子も、 い

す

ワケありげな感じだったけれど、亘が「ボク出ようか」と椅子を すばや

降りると、「いいのよ、お母さんが出る」と、素早く受話器を取っ た。そして相手がルウ伯父さんだとわかると、氷が溶けるみたい やわ

に表情を和らげたのだった。 「亘、伯父さんがお話があるんだって」 とが

 亘は図書室での出来事で気が咎めていたし、明日カッちゃんに 会ったら謝らなくちゃいけない、どんなふうに言おうか、カッちゃ んは許してくれるよな、そんなに怒ってないよな──などと、ずっ お

い

とグルグル考えていた。そのせいで、夕食も美味しくなかった。  芦川のこととかいろいろなことを、誰かに聞いてほしいという 願いもあった。でも、こんなこと、誰に話したらいいのかわから ない。  そこヘルウ伯父さんだ。そうだよ、伯父さんになら話せるかも しれない。 「もしもし、亘です」 「よう、夕飯は食ったか？」  伯父さんは相変わらず元気で大声だった。 「メニューは何だ？ ハンバーグかスパゲティかロールキャベツ うま

か？ いいなぁ、旨かっただろ」 あいさつ

 いつもの挨拶だった。以上の三品は、伯父さんの大好物である。

142

に

ついでながらロールキャベツはホワイトソースで煮たものではな く、トマトソースのがお好みだ。 のど

「伯父さん」と言いかけて、亘は喉がヘンなふうに詰まるのを感 じた。自分でも驚いた。泣きたいほど思い詰めているようなつも りはなかったから。「ボク──」 ち

え

「実はさ、おまえの知恵を借りたいと思って電話したんだよ」と、 伯父さんは続けた。亘の声の調子がいつもと違うことに、気がつ いてはいないようだ。 な

じ

けっこん

「伯父さんの幼馴染みの友達が、結婚してそっちに住んでるんだ けどな、先週、子供が交通事故にあって入院してるっていうんだ よ」  小学校四年生の男の子だという。幸い命に別状はなかったが、 ふともも

右の太股の骨が折れているので、長期の入院生活になりそうだと いう。 み

ま

「でな、伯父さん、今度の土曜日にお見舞いに行くつもりなんだ けど、何を買っていってやったらいいと思う？ 本とかゲームと か、伯父さんじゃ見当つかなくてさ」  ルウ伯父さんは、ほかにもいくつか用事があるので、金曜日の 午前中からこっちに来る予定なのだという。お見舞いの品も、上 京してから買うつもりなのだそうだ。こっちじゃ、東京の子が喜 しゃれ

ぶような酒落たものを見つけられないからな。 と

は

「それなら伯父さん、うちに泊まるの？」亘の声が跳ねあがった。 いっぱく

「お見舞いは土曜日なんだから、一泊するんでしょ？ うちに泊 まってよ、いいでしょ？」  亘は台所に背中を向けていたのでわからなかったが、その問い しぶ

かけを聞いて、邦子は渋い顔をしていた。亘が悟伯父を好いてい

143

るので口には出せないが、彼女はがさつで無教養でズボラなこの ぎけい

だいきら

義兄が大嫌いだったのだ。 む じ ゃ き

 そして電話の向こうでは、亘の無邪気な喜びを表した問いかけ に、悟伯父が答えていた。「いや、伯父さんいろいろ用があって さ、夜も遅くなりそうだから、亘んところにはお世話になれない よ。また今度な」 せんさい

 三谷悟は、義理の妹が思い込んでいるよりも、ずっと繊細なと ころのある男だった。自分が邦子に嫌われていることぐらい、ちゃ んと察していた。 「なんだ……今度今度って、もうずっとうちに泊まってないじゃ ない」亘はがっかりして、肩を落とした。「ボクがちっちゃいと きには、仕事で東京に来るといっつもうちに泊まってくれたのに」 「おまえは今だってちっちゃいじゃないか。それとも、いつの間 にかゴジラみたいにでっかくなったのか？ そうか、だからここ じしん

んとこ、千葉じゃ地震が多いんだな。おまえがどすんどすん歩き ゆ

回るから、こっちまで揺れるんだ、そら、また揺れた！」  亘はクスクス笑った。もう二年ほど前になるが、伯父さんに、 み

夏休み映画の『ゴジラ』を観に連れて行ってもらったことがある。 それはハリウッド製のゴジラで、伯父さんは最初から最後まで、 きょだい

このゴジラは俺の好きなゴジラじゃない、あんなバタくさい巨大 トカゲはゴジラじゃないと言い張って、うるさくてしょうがなかっ た。それでも、遠くからゴジラが近づいてくると、地面がどすん どすんと揺れて、たくさんのタクシーや乗用車や道を歩く人びと が、そのたびにぴょん、ぴょんと飛びあがるシーンだけは、いた め

く伯父さんのお気に召した。映画が終わって両親と落ちあい、四 人一緒に食事に行ったレストランでも、帰りの電車やタクシーの

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なかでも、ルウ伯父さんと亘は何かといってはそのシーンを真似 して、椅子の上や道ばたで飛びあがって楽しんだものだった。  話しているうちにも、亘はルウ伯父さんに会いたくてたまらな くなってきた。伯父さんにだったら、叱られることばかりを心配 せずに、女の子たちに「嫌いだ！」って言われてザックリ傷つい たことも、夜中にうちを抜け出したことも、勝手に使い捨てカメ ラを使ってしまったことも、芦川美鶴に鼻先でバカにされたこと も、何かというとカッちゃんに当たり散らしてしまう自分が自分 でも嫌いだっていうことも、みんな話してしまえる。伯父さんは あき

叱らないだけでなく、亘のことを笑ったり、呆れたりもしないだ ろう。いい加減もう少ししゃんとしなさいと、お説教することも ないたろう。 「ねえ伯父さん、そんならボク、伯父さんの買い物に一緒に行っ てあげるよ」と、亘は言った。「お見舞いに何がいいかなんて、 ここですぐ思いつかないし、金曜日なら授業も五時間だし塾もな いから、早く帰ってこられるもん。それからデパートだってトイ ザらスだって、どこへでも行かれるよ」  電話の向こうで、三谷悟はちょっと迷った。「うーん、そいつ は名案だけど……」 「いいでしょ、ね？」 「それじゃお母さんに訊いてごらん。金曜日の午後、伯父さんと 二時間ばかり出かけてもいいですかって。もちろん、亘が夕飯に 間にあうように、伯父さんが送り届けるよ」  やった！ これなら、伯父さんと二人でゆっくり話ができる。 おお

たず

亘は送話口を手で覆って、邦子の方に身を乗り出すと、大声で訊 ねた。「ねえお母さん──」

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 しかし、食卓についてお茶を飲んでいた邦子は、質問が全部終 わらないうちに、きっぱりと答えた。「ダメよ」 「どうして？ いいじゃない、今度の金曜日だよ。塾のない金曜 だよ」 「ダメよ。いけません」 「なんで？」 「伯父さんはお仕事でこっちへ出てくるのよ。邪魔になります」 「でもボクは伯父さんの手伝いをするんだ。お見舞いの品を買い に──」  邦子は湯飲みを食卓において、ため息をついた。それからこと さらに怖い顔をした。意地悪ババアと、とっさに亘は思ってしまっ た。 「ダメと言ったらダメ。お母さんが電話を代わるわ」 「いや、いいよ亘。伯父さんと出かけておいで」  三谷明の声だった。亘も邦子も、驚いて声のした方を振り返っ かばん

さ

た。明はきちんと背広を着て鞄を提げて、リビングの戸口のとこ ふち

めがね

ろに立っていた。縁なし眼鏡が鼻の上でちょっとずり落ちている。 目は真っ直ぐに亘を見ていた。 「悟伯父さんに会うのは久しぶりだろう？ 伯父さんがいいとい うのなら、一緒に行っておいで」 わた

 びっくり顔で近づいていった邦子に鞄を渡しながら、明は続け た。 「夏休みのあいだお世話になることでもあるし、亘が千葉でどん なお手伝いをしたらいいか、ちゃんと打ち合わせしてくるといい。 どれ、お父さんが電話に出よう」  明は亘の手から受話器を受け取ると、悟伯父と話し始めた。や

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あ、兄さん元気ですか、母さんにも変わりはない？ うん、こっ ちもみんな元気だよ、それで今の話だけど──  突然の助け船による形勢の大逆転だ。亘は、ボクの目がピカピ カ輝いて、半径一メートルぐらいの周囲を明るく照らしてるんじゃ うれ

ないかと感じた。ゴジラが来たわけでもないのに、嬉しさでぴょ んぴょん跳ねた。 だ

まゆ

「こら、やめなさい」邦子が鞄を抱いたまま、眉をひそめた。 「うるさいでしょ」  母さん、テクニカルノックアウトで怒ってるんだ。亘はおかし くて仕方なかったけれど、顔には出さないように懸命にこらえた。  明が話を終えて、また亘に受話器を返した。「伯父さんと夕食 も一緒にしておいで。その方が、のんびり買い物できるだろう」  亘は飛びあがった。「ありがとう！」  ルウ伯父さんと、手早く打ち合わせをした。伯父さんがうちに むか

迎えに来てくれるという。 かくにん

 約束を確認して電話を切ると、明が着替えを済ませて、食卓に つくところだった。邦子が皿を並べている。亘は嬉しくて嬉しく て踊りだしたいくらいだったけれど、邦子がしかめ面をしている ので、ぐっとこらえた。 「お父さん、ありがとう」  明は夕刊を広げながら、「伯父さんの邪魔にならないようにす るんだぞ」 「うん。約束します」 「今夜は早かったんですね」食卓と冷蔵庫のあいだを行き来しな がら、邦子が訊いた。怒っているので、亘を無視している。 「この時間に帰ってこられるなら、わたしたちも食べないで待っ

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てたのに」 「急に会議がひとつ中止になったんだ」 「ビールは？」 「いや、いらない」  邦子が亘を見ようともしないのと同じように、明も邦子を見ず なが

に新聞ばかり眺めている。亘は口のなかで「ボクは宿題をしようっ てったい

と」などとボソボソ呟いて、自室へ撤退した。  厳しい競争相手である兄弟のいない一人っ子は、ワガママ放題 どんかん

で他人の気持ちに鈍感だなどと言われることがあるが、それはず いぶんと一面的なものの見方だ。両親の顔色を観察しなくてはな らないのが子供の宿命であるならば、見張り台に立つのも防衛ラ インを引くのもいつも独りぼっち、一緒に共同戦線を張ることの ふ ん い き

できる仲間のいない一人っ子は、かえって、場の空気や雰囲気に 敏感になることだってある。家庭内で、そういう修練を積むから だ。  おとなしく机について宿題帳を広げたが、当然ながら、すぐに は勉強の方に頭を切り換えることができなかった。このところの 様々な出来事をうち明けたら、ルウ伯父さんはどんな顔をするだ ろうと考えると、なんだか楽しくなってくる。伯父さん、ボク魔 導士に会ったんだよ。魔導士に、時間を巻き戻す魔法をかけられ たんだ、ホントだよ！ なだ

 それでも、楽しい物思いを何とか宥めて、算数と国語の書取を やっつけた。トイレに行こうと部屋を出ると、両親はソファの方 ふ

ろ

でコーヒーを飲んでいて、邦子が亘にお風呂に入りなさいと声を かけてきた。 「はあい、あと二ページやったら入ります」

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かいげんれい

 戻ってきた時には、邦子が何か話していた。まだ戒厳令が解け たわけではないので、亘は知らん顔で自分の部屋に入ったが、話 の切れ端が耳に入った。どうやら、今日の昼間もまた、無言電話 が何度かあったという話であるらしい。なるほど、それで母さん きんちょう

は、ルウ伯父さんからの電話だとわかるまで、緊張した顔をして いたのだ。妙に意地悪っぽいのも、それが原因だったのかもしれ ない。なぁんだ。  その夜ベッドに潜り込むころには、亘の気分はすっかり持ち直 していた。 「正月に会ってから、たった半年しか経ってないのに」 てのひら

 ルウ伯父さんは、亘の頭の上に大きな掌を載せた。 「また背が伸びたな。あと半年もすれは、俺の肩まで届くんじゃ ないか？」 「そんなに早く伸びないよ」と、亘は笑った。 あと

 今の亘はルウ伯父さんの左腕に残っているＢＣＧの跡に、やっ せたけ

と届くくらいの背丈だ。そんなところに注射の跡があるのを知っ ているのは、伯父さんと何度も一緒に海水浴をしているからであ る。 ちょうはつ

ひげづら

 ルウ伯父さんは大男である。縦にも横にも大きい。長髪に髭面 で、腕も足ももじゃもじゃに毛深い。それにまた今日は派手な色 柄の半袖シャツを着ているので、まるでディズニーランドのアト ラクションに出てくるクマみたいだった。これでバンジョーでも かか

ぼう

抱えてカンカン帽をかぶったら、そっくりだ。 ぬぐ

「東京は暑いな」ルウ伯父さんは手で顔を拭った。「海っぺりの む

からだ

暑いのと違って、都会の蒸し暑いのは身体にこたえるよ。一人で

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買い物するんじゃ、途中でイヤになっちまうところだった。付き 合ってもらえて助かるよ」  金曜日の午後四時になるところだった。亘はもう二時間近く前 から帰宅していて、伯父さんがやってくるのを今や遅しと待ち受 したく

けていた。もちろん、支度はばっちりしてある。外出用の白いシャ ツで、おろしたてだった。 つ

ゆ

あ

「まだ梅雨明けじゃないと思うけど、今日は雨にならなくてよかっ たわ」 くも

 邦子は窓際に行って、空を仰いだ。朝からずっと曇ったままだ けれど、昼過ぎには薄日もさしていた。 「おかげで傘が荷物にならないで済むな」ルウ伯父さんはにっこ り笑った。「じや、出かけるとするか、亘」 「うん。行ってきます、お母さん」 に

い

「いい子にするのよ。お願いしますね、お義兄さん」 「亘はいつもいい子だよな。伯父さんの方がいい子にしてないと まずいや」 げんかん

 カラカラと笑いながら、伯父さんは先に立って玄関を出た。ド アの前で見送りながら、邦子が、おかまいもしなくてと言い添え た。母さん、伯父さんには本当にコーヒー一杯出さなかった。そ ういうことではすごくちゃんとしたヒトなので、これは珍しい。 かた

そういえば、なんとなく表情が硬いというか、ぎくしゃくしてい た。また昼間、無言電話でもかかってきたのだろうか。  今日のこの時間までに、亘はとりあえず、カッちゃんと仲直り をしていた。正確には、昨日はごめんと謝ると、カッちゃんがど んぐり目をなお丸くして、「え、何が？」と言ったので、うやむ やになってしまったのだけど、でも少しは気が楽になった。

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 ルウ伯父さんは東京へ出てくるまでに、いくつか追加情報を仕 入れていた。入院している男の子はロボットアニメが大好きだと いうこと。亘と違って、ほとんどテレビゲームはやらないという こと。これは、お母さんに禁止されているのであるらしい。さら つうしんぼ

に、彼が最近とてもほしがっていて、一学期の通信簿の結果によっ ては買ってもらえることになっていたＭＤプレイヤーは、すでに 手に入れているということ。 「どっちにしろ、小学生のガキの見舞いに、俺はＭＤプレイヤー た

か

なんて高価いものは買っていかないけどな」 じんぼうちょう

 新情報を聞いて、亘は提案した。「神保町だっけ、本屋がたく さんあるでしょ。あそこにね、今野書店ていうアニメ関係の本の 専門店があるんだって。そこでロボットアニメの本を買っていっ てあげようよ」 「そいつはいいかもしれないな。だけど、なんでそんなこと知っ てるんだ？ 亘もロボットアニメが好きなのか？」 「ボクはそれほどじゃないけど、塾の友達に、すっごいマニアが いるんだ。アニメのことなら何でも知ってる」 お ちゃ の みず

 神保町という本の町に行くには、ＪＲ線御茶ノ水駅で降りれば いいのだそうで、二人は駅に向かった。道々ルウ伯父さんは、蒸 ば

あ

じょうしょう

し暑くなってくるとお祖母ちゃんのガミガミ度合いが上昇してう るさいけど、言うことがメチャクチャなのでけっこう面白いとか、 海水浴場の近くに大きなゲームセンターができたとか、半月ほど とってい

よ

づ

うみぼうず

おおさわ

前、突堤で夜釣りをしていた人が海坊主を目撃して大騒ぎになっ たの

ほうらいけん

お

い

たとか、千葉の家でよく出前を頼んでいた「蓬莱軒」という美味 おやじ

けんか

ぬ

しいラーメン屋の親父さんが、不良学生と喧嘩して頭を十針も縫っ たとか、お正月からこちらの千葉の様子を、あれこれと話してく

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れた。  御茶ノ水駅で降りて、神保町の書店街へ着いてみると、あまり にもたくさんの本屋があり、あまりにも広いので、亘は今野書店 こころもと

を見つけられるかどうか心許なくなってきた。住所までは知らな いのだ。 だいじょうぶ

「ま、大丈夫だよ。ちょっと来てみな」  伯父さんは交差点に面して立っている大きな書店ビルに入って いって、レシの店員さんに話しかけた。親切な若い女性の店員さ んで、伯父さんの質問を聞くと、すぐに書店街の案内図をくれた。 そのうえで、目的の今野書店の場所も、指で示して教えてくれた。 「近ごろニュースじゃ嫌な事件ばっかりだけど、世の中には親切 な人だって、まだまだいっぱいいるってことさ」と、ルウ伯父さ んは上機嫌だった。 おとず

 書店街を訪れるのは初めてだ。亘は目が回りそうだった。世の 中にはこんなにもたくさんの本があるのか。誰が読むんだろう。 「ボクなんか、一生かかっても、ここで売られてる本の一万分の 一も読めないよ」 「伯父さんなんざ、一億分の一でも無理だ」  ルウ伯父さんは身体を揺すりながら笑った。 「いったい誰がこんだけの本を書いてるんだろうな？ 本を書く の う み そ

ようなヤツの頭のなかって、どうなってるのかと思うよ。脳味噌 のかわりに、文字がいっぱい詰まってんのかな」  目指す今野書店は、三階建ての小さなビルで、店先にまで、本 あふ

ひとご

もお客も盗れていた。ルウ伯父さんが人混みをかき分け、亘はそ の後にくっついて、書架を見て回った。ここでもまた、めまいが するほどの本の波と山だ。小一時間かけてお見舞いのためのムッ

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つか

ク本を三冊選び終えたころには、二人ともぐったりと疲れていた。 「うひょー、エネルギーがいるぜ」  ルウ伯父さんは汗びっしょりになっていた。  お客で満杯の今野書店を出て、亘が大きく深呼吸をしたとき、 後ろから誰かにどん！ とぶつかられた。まったくの不意打ちだっ くず

たので、亘は完全にバランスを崩し、あっと思うまもなく、両手 りょうひざ

ほどう

両膝を激しく舗道に打ちつけて転んでしまった。 しび

 手足がジーンと痺れて、とっさに起きあがろうとしても、足が うまく動かない。と、次の瞬間、コンクリートの舗道の上につい うすよご

た亘の右の掌を、薄汚れたウォーキングシューズがぐいと踏みつ けた。 さけ

「イタイ！」と、亘は叫んだ。 どう

 ルウ伯父さんの太い腕が亘の胴に巻き付き、身体ごと抱え上げ た。「大丈夫か？ 亘、ケガしてないか？」 ど

な

 怒鳴るような声だ。亘は掌の痛さで口がきけなかったが、とに かくうなずいて、自分の足で舗道に立った。すると伯父さんは、 か

顔を上げて大声を張りあげながら、ばっと駆け出した。「おい、 ちょっと待て、待てったらオマエだよ！」  伯父さんは、亘たちに背を向けて遠ざかろうとしていた通行人 のひとりに、背後から飛びついた。灰色のＴシャツにジーンズ姿 の、伯父さんの半分ぐらいの体格の男性だ。伯父さんがそいつの 両肩をつかんで振り向かせると、とても若い男だとわかった。 「オマエ、子供を転ばして踏んづけて、ゴメンでもないのかよ！」 むな

 伯父さんに胸ぐらをつかまれても、その若者はまったく表情を 変えなかった。病人のように血色が悪く、顎は痩せこけて、目も どろんとしている。こういうのを〝死んだ魚のような目〟という

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のだと、亘はズキズキ痛む掌を押さえながら考えた。 「返事ぐらいしろ！ オマエ自分が何やったかわかってるのか！  え！」 たけ

くる

 伯父さんはますます猛り狂う。顔が真っ赤だ。若者のＴシャツ えり

し

の襟を締めあげる。  しかし、若者の方は怖がるでもあわてるでもない。ただ無言で 伯父さんをじいっと見返すだけだ。 「伯父さん、ボク大丈夫だから」と、亘は声をかけた。するとル ウ伯父さんは亘の方をちらりと見て、また若者を怒鳴りつけた。 「おまえ、さっきあの子にぶつかったんだ。それであの子が転ん だのに、おまえの目の前で転んだのに、おまえは足を止めるどこ ろか、あの子の手を踏んづけて、さっさと通り過ぎようとしたん だぞ！ それがどんなことだかわかってるのか？ そんなことが 通用すると思ってるのか？」  若者は表情を変えない。口元がへの字になっているので、怒っ しかん

ているのかとも思ったが、違っていた。ただくちびるが弛緩して いるだけだった。 「おまえはいい大人だろ？ 子供の手本にならなきゃいけない側 け

が

なんだ。あの子に謝れ！ ちゃんと、ゴメンナサイ怪我はなかっ たかいって言うんだ！」  すると若者の口が動いた。亘のところからでは、声が聞き取れ なかった。  しかし、伯父さんは顔色を変えた。「何だって？ もういっぺ ん言ってみろ！」  若者は言われたとおりにした。「うるせえな」と言ったのだ。 「う、うるさいだと」

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「ごちゃごちゃうるさいんだよ」若者は、伯父さんが驚いて手を ゆる

のが

緩めた隙に、もがくようにして伯父さんの手から逃れた。そして、 つば

唾でも吐くような口つきで言い捨てた。「あんなガキ、転ぼうが 死のうが知ったこっちゃないよ。通り道の邪魔をするから悪いん だ」  伯父さんはぽかんと口を開けた。顔色が、今度は白くなってゆ く。ああ、まずい。亘は心臓がでんぐりがえるような気がした。 伯父さん、伯父さん、落ち着いて──  そのとき、聞き覚えのあるあの甘い声が呼びかけてきた。 「危ない、止めて！ ワタル、あなたの伯父さんを止めるのよ！」  亘はドキンとして、かえってどうしたらいいかわからなくなっ てしまった。またあの女の子だ！ 今度はどこから話しかけてる？ うな

しぼ

「通行の邪魔だと」伯父さんは唸るような声を絞り出した。「だっ たら子供でも突き飛ばしていいってのか？ ここはおめえだけの 道なのかよ？ え？」 「あんたの道じゃないだろ」若者は鼻先で言って、ニヤリと笑っ た。「程度の低いヤツが、ガタガタ騒ぐんじゃねえよ」 なぐ

 伯父さんの両肩がぐいと持ちあがった。殴りかかるつもりだ！  ああどうしようどうしたらいいどうしよう──  とっさに亘は地面に転がり、けたたましく叫んだ。「イタタ！  痛いよ！」  効果はてきめんだった。暴れ牛のように突進しかけていたルウ 伯父さんは、壁にぶつかったみたいにつんのめって止まると、亘 の方へと向きを変えた。 「どうした！」  伯父さんが亘の方にすっ飛んで来ると、くだんの若者はとっと

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まぎ

と逃げ出した。すぐに人混みに紛れてしまう。 「やった！ うまいわよ、ワタル！」あの女の子の声が、嬉しそ はな

はもの

うに華やいだ。「あの若い人、刃物を持ってたの。下手をしたら、 たいへんな事になるところだった。あなたって機転がきくのね、 ワタル」  女の子の声に聞き入っていたので、亘は伯父さんの呼びかける こた

声に応えなかった。それがなおさら伯父さんを不安にさせたのた ろう。はっと我に返ったときには、伯父さんに両肩をつかまれ、 ぶんぶん揺すられていた。 「亘、大丈夫か？ 伯父さんの声が聞こえるか？ おい、何とか 言え！ 伯父さんの顔が見えるか？ 返事をしろ亘ゥ？」 「お、お、お、お」亘は、今度は物理的に目が回りそうだった。 「お、おじさ、ん、き、聞こえてる──」 「おお、大丈夫か！」伯父さんは泣きだしそうな顔をしている。 「だ、ダイジョウブ。だから、ゆ、ゆ、揺さぶらない、でよ」 はな

「お、すまん」伯父さんはやっと亘から手を離し、その手で自分 の頭を抱えた。「俺ときたら、おまえを預かったと思ったら、も うこれだ。ケガなんかさせちまって──」 「ケガはたいしたことないよ」亘はあわてて、踏みつけられた手 を伯父さんの目の前で動かしてみせた。 「ね、ホラ動くよ。骨なんか折れてないし。痛かったけど、もう 平気だよ」  せっせと無事をアピールしてみせると、伯父さんもようやく落 がわ

ち着きを取り戻した。それでも、なめし革みたいによく日焼けし ほお

なごり

た頬のあたりに、逆上の名残りの紅潮した部分が、ちょっぴり残っ ている。

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「まったく──ああいうヤツは何なんだろうな？」亘を立ちあが らせ、舗道の端に寄ると、伯父さんは太いため息をついた。「世 めいわく

の中が自分中心に回ってると思ってやがる。他人の迷惑なんかこ れっぱかしも考えないし、他人を思いやる気持ちもない。チクショ ウ、何様のつもりなんだ」  亘は黙ったまま、通り過ぎる人びとの方を眺めた。さっきまで は、こっちをチラチラ見ている人たちもいたけれど、今はもう、 誰も何事もなかったみたいな様子で、みんな急ぎ足に通り過ぎて ゆく  女の子の声も、もう聞こえない。 「行こうよ」と、亘はルウ伯父さんの袖をひっぱった。「人混み にくたびれちゃった。ね、行こう？」 み

 お医者に診せるほどのことはなさそうだが、踏んづけられた亘 は

の右手は、ちょっぴり腫れていた。 しっぷ

ばんそうこう

「俺は救急キットを持ってる。湿布も包帯も絆創膏もある。それ にホテルには氷があるから、傷を冷やせるぞ」  伯父さんはそう言って、亘を宿泊先のホテルに連れて行った。 飯田橋駅の近くのビジネスホテルで、外観はいかにも安そうな感 じだけれど、室内は思いの外きれいで、しかもツインルームだっ じ

い

た。亘は、一昨年のお正月に、小田原のお祖父ちゃんお祖母ちゃ んと一緒に東京ディズニーランドに行って、近くのホテルに一泊 した時のことを思い出した。 「ヤッホー」亘はベッドのひとつに飛び乗って、ぴょんと跳ねた。 「これなら、ボクが泊まることもできるね？」 いさ

「明日学校はどうするんだ？」伯父さんは笑いながら諌めたけれ ど、ちょっと嬉しそうだった。

157

ゆいいつ

ぜいたく

「一人でもツインに泊まるのは、俺の唯一の贅沢なんだ。シング ルルームじゃ、マッチ箱に入ったみたいな気がしてな」  伯父さんはズック製の小さなボストンバッグのほかに、書類鞄 のようなものを持っていた。こっちで仕事があると言っていたの は、本当なのだ。 「伯父さん、どんな用事だったの？ そっちは済んだの？」右手 たず

に湿布をしてもらいながら、亘は尋ねた。「まだ用事が残ってる なら、ボクはここで待ってるよ」  伯父さんの救急手当の手際といったら、それはそれは鮮やかな ものだ。正式にライフセイバーの訓練を積んでいるし、海水浴場 かんし

の監視員としての経験も豊富だ。伯父さんは、そういうことを大 声で言う人ではないので、あまり知られていないけれど、今まで に、十本の指では足りないくらいの数の人命を救っているはずだっ た。 「用事はもう済んだよ。さあ、これでいい」  伯父さんは、亘の右手に包帯を巻き終えた。 「だけどこれじゃ、夕飯にカニとかステーキとかは食えないな。 フォークしか持てないもんなぁ」 「ボク、マカロニグラタンが食べたい。デニーズとかでいいよ」 「おまえって安上がりのお子さんなんだなぁ」伯父さんは面白そ うに笑った。「ま、ちょっと一服したら、そこらを歩き回って旨 そうな店を探してみようよ。まずは、ちょいとビールでも飲んで からさ」  亘は冷蔵庫からオレンジジュースを出してもらった。ベッドの ヘッドボード

頭板にもたれて足をのばす。伯父さんと二人で旅行にでも来たみ たいだった。それも近場じゃない、とっても遠くに。内緒の相談

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事には、もってこいの感じ。 「ねえ、伯父さん」亘は口を開いた。「あのね、聞いてほしいこ とがあるんだけど」  自分の経験したことを、出来事の起こった順番どおりに、その とき自分がどんな気持ちだったかという感想や感情の動きも織り 交ぜながら説明するというのは、かなり難しいものだった。教室 の黒板の脇に立って、三十数名のクラスメイトたちを相手に、夏 休みの自由研究を発表するよりも、百倍くらい大変だ。  それでも亘は、ルウ伯父さんがちゃちゃを入れたり話の腰を折っ はさ

たりせず、ときどきトンチンカンな合いの手を挟んだりしながら も、終始興味深そうに聞いてくれたおかげで、何とかやりとげる ことができた。甘い声をした姿の見えない女の子。幽霊ビルの魔 導士。三橋神社の心霊写真。全部しゃべった。思い出せることは すべて。  亘がしゃべり疲れて黙るころには、伯父さんはミニ冷蔵庫に入っ かん

ていた缶ビールを全部空けてしまっていた。そして、飲み干した つぶ

最後の一缶を手のなかであっさりと握り潰すと、ちょっとのあい だそれを見つめてから、言った。 「その幽霊ビルってのは、おまえの家のすぐ近所なんだよな？」 「うん。学校に行く途中にあるんだ」 「そしたら、これから飯を食って、おまえを家に送ってゆく途中 めんどう

に、そのビルに寄ってみるのも面倒じゃないよな？」  亘は驚いた。「ビルに入ってみるの？」 「うん。だって気になるじゃないか。その魔導士とやらがさ」  こういう反応がかえってくるとは予期していなかった。 「伯父さん、ボクが作り話してるとかって、思わないの？」

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 ルウ伯父さんは目をパチクリさせた。「なんだよ、作り話なの か？」 「ち、違うよ。ホントの話だよ」 「だろ？ だったら放っておけないよ」  伯父さんはベッドから立ちあがった。ビールのせいで顔は赤い が、ちっとも酔っぱらっているようには見えない。ルウ伯父さん はめちゃくちゃお酒に強いのだった。 「魔導士がどんなものなのか、伯父さんは知らないぜ。おまえが 遊びに来たときぐらいしか、テレビゲームなんかやらないからな。 でも、いかれたジイさんがそのビルに出入りして、子供たち相手 に何かおかしなことをやってるとしたら、見過ごしにはできない な」  亘は口のなかでモゴモゴ言った。何を言いたいのか、自分でも はっきりしなかった。伯父さんは亘の話を笑い飛ばしはしないも のの、亘が望んでいたような形とは、かなり違う受け取り方をし ているようだ。 「子供たち相手って──魔導士に会ったのは、今のところ僕だけ だと思うけど」 「そんなことはないさ。ほかにもいるはずだ。シイさん自身がそ う言ってるじゃないか」  魔導士は、亘に向かって、「おぬしも友達に聞いてきたのか」 と問いかけた。ルウ伯父さんはその点を指摘するのだった。 「あ、そうか」言われてみればそのとおりだった。さらに魔導士 せりふ

は、「ここのことは、だいぶ評判になっとるらしい」という台詞 も吐いたのだ。 「幽霊ビルに出るお化けも、ヘンジンで美少年の転校生が撮った

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心霊写真の正体も、たぶんそのジイさんだろう。その芦川って子 がおまえをバカにして、写真を見せようとしなかったのも、石岡 とかいうバカ上級生たちに追いかけ回されても写真を渡さないの も、そのへんに理由があるんだよ、きっと」  そして伯父さんは、大げさな表情をつくってぽんと手を打ち合 わせた。「今ちょっと思いついたんだが、ひょっとして、亘の見 た魔導士は、芦川って子のお祖父ちゃんだったりしてな」  芦川の家族構成のことを、亘は何も知らない。お祖父ちゃんが 一緒に住んでいるのかどうか、わからない。でも、かけられた魔 法は本物だった。だから亘にとっては、伯父さんの発言はちっと ゆかい

ゆ

も愉快じゃなかった。ルウ伯父さんは、一人で腹を揺すって大笑 いをした。 う

「だったら面白いだろうなぁ。でもあり得るぞ。世の中を騒がし て楽しむためなら、どんなことでもやりますって連中がゴロゴロ してる昨今だからな」  亘の話に手間取ったので、もう午後六時半を過ぎていた。伯父 さんは、亘が魔導士を目撃したのと同じ時間に幽霊ビルを訪れよ と

うと提案したので、二人はホテルの近くで手早く夕食を摂った。 予定では、亘は心の内を吐き出して、心ゆくまでグラタンやフラ たの

イドポテトやチョコレートパフェを愉しめるはずだった。でも、 現実はいつも予定とは違うのだった。ルウ伯父さんは、亘の様子 をうかがうような──とてもきれいで繊細な細工物が目の前にあっ あつか

て、自分のこの不器用な指ではどうやって扱ったらいいかわから ないのだけれど、でもその細工には明らかに不具合があるので、 何とかしなくてはならないと考えている──そんな顔色と目つき がんば

でチラチラと亘を観察していた。そして、夏休み中に頑張ってク

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ロールで二百メートル泳げるようになろうなとか、海の家の仕事 を手伝うとなると重労働だぞ、朝は夜明け前から起きるから、夜 は七時のニュースが終わったころには眠くなっちゃうぞ、だから 千葉にいるあいだはテレビゲームはお預けだ、というようなこと を言った。  ルウ伯父さんは、亘が作り話をしているとは思っていない。そ の意味では、亘を信じてくれているのかもしれない。でも伯父さ んは、亘のうち明けた事柄の大半は──変なじいさんの存在を除 けば──亘の頭のなかだけの幻想だと考えているのだ。 いだ

 では、なぜ亘はそんな幻想を抱くのか？ それはつまり、テレ ビゲームばっかりしてて外で遊ばないからである。これが伯父さ んの回答なのだ。おかしな作り話をするなと叱られるより、なお 悪い。  こんなはずじゃなかった──亘は、機械的にスプーンやフォー クを口に運びながら、苦い思いを噛みしめた。ルウ伯父さんなら、 僕のことわかってくれると思ってた。  食事を終えると、伯父さんは張り切って、すぐにも幽霊ビルに ころあ

出発しようと言った。時間的にも、今から向かえばちょうど頃合 いだったので、亘は黙って後に従った。 「何だよ、しょげてるな。怖いのか？ 大丈夫だよ、伯父さんが ついてる」  ルウ伯父さんはそう言って、大きな分厚い掌で、亘の背中をば たた

んと叩いた。いつもなら、そんなふうにしてもらうと、いっぺん で元気になる亘なのだけれど、今夜は全然勝手が違った。今夜の ルウ伯父さんは、亘の好きなルウ伯父さんではないし、なお悪い ことに、亘とルウ伯父さんの間柄が、これから起こる出来事によっ

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て、今までとは決定的に違う格好になってしまうような予感がす るのだった。 だま

の

 何もしゃべらなきゃよかった。黙って一人で呑みこんでいれば よかった。大人にうち明け話なんか、するものじゃない。 かいちゅう

 伯父さんは、レストランの近くのコンビニで懐中電灯をふたつ しはら

買った。支払いのあいだ、ずっと亘に背中を向けていた。亘はふ と、このまま僕が一人で逃げ出しちゃったらどうなるかな、なん てことを考えた。もちろん、実行することはできなかったけれど。 ばんじ

 二人はタクシーで幽霊ビルの近くまで行った。万事に節約家で、 人間は自分の足で歩くものだ、特に子供は車なんかに乗るもんじゃ ない、公共交通機関を利用する場合も、料金半額なんだから、椅 子に座るなんざもってのほかだというのが持論の伯父さんにして は、ごく珍しいことだ。それほどに、早く幽霊ビルを見てみたかっ たのだろう。  実際、伯父さんは子供みたいに興奮している。ここかと呟いて、 そこ

シートに包まれたでき損ないのビルを見あげる目つきは、ちょっ かいじゅう

とばかし怪獣映画の主人公の気分が乗り移っているみたいにも見 けいじ

はい

しゅつぼつ

える。あるいは、刑事ドラマの主人公か。廃ビルに出没して子供 つか

たちに悪さをするヘンシツシャを捕まえるというエピソード。 ひとけ

ひとめ

 伯父さんは周囲を見回して、人気も人目もないことを確認して から、シートの裾を持ちあげた。「ここから潜り込んだんだな？」 「うん、そう」 「よし」伯父さんは、亘の分の懐中電灯を差し出した。「気をつ けるんだぞ」  亘は懐中電灯を握りしめて、シートをくぐった。  ルウ伯父さんは、亘を階段の下に立たせておいて、懐中電灯を

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さぐ

動かしながら、あちこち探り回った。身体が大きいのに、動きが きびきびとしてスムーズで、つまずいたり物にぶつかったりする しんけん

こともない。一階部分をひととおり見て回るまでは、真剣そのも じょうだん

のの顔つきで、冗談みたいな台詞も吐かなかった。 「よし、それじゃ階段だ」  伯父さんは言って、足元を確かめながら、ゆっくりと階段をの ぼり始めた。一歩ごとにステップを懐中電灯で照らして、注意深 く観察しながら進んでゆく。 「誰か出入りしてるなら、ゴミぐらい落ちてそうなもんだがな」  二階と三階のあいだの踊り場で足を止めて、伯父さんは頭をか いた。 ほこり

「埃の上に足跡も残ってないし……」  そう言われて、亘は自分の足元を見おろし、懐中電灯で照らし む

てみた。打ちっ放しのコンクリートの部分も、地面が剥き出しに し

なっている部分も、ベニヤ板が敷かれている部分も、みんな、ざ あら

らざらして目の粗い土埃やコンクリートの粉などに覆われている。 すみ

でも、階段のステップは、どの段もみんなきれいだ。隅っこの方 に、わずかに埃や土が残っている程度である。伯父さんの言うと おり、足跡なんか残りようがない。  でも、逆に考えれば、階段がそれだけきれいになっているとい ひんぱん

うことは、誰かが頻繁にここを歩いているという証拠になるので くつ

ほうき

はないか。上り下りするとき靴が汚れないように、誰かが箒か何 そうじ

かできれいに掃除したのでは？  その「誰か」が、魔導士の言っていた「友達」なのだろう。 （芦川──かな？） 「おい亘、階段はここで終わりだ」

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 伯父さんが頭上から呼びかけてきた。三階から四階にあがる踊 り場に立っている。 「おまえの見たジイさん、ホントにこんなところに立ってたの か？」 「うん……」 「ここ、けっこう怖いぞ」伯父さんは手すりにつかまって、ゆっ くりと周囲を見回している。「年寄りや子供がこんな場所に出入 りしてるとなると、問題だな。もっと厳重に立入禁止にするべき だ。なあ亘、その芦川って子にさ、あんな造りかけのビルなんか で遊んでると、危ないよって忠告してやるべきだな」 「芦川がここに来てるとは限らないよ」 「限るよ。心霊写真の件を考えてみろよ」 「当てずっぽうを言うの、嫌だよ」  またバカにされるだけだ。 「こりゃ、家に帰って、亘の父さん母さんにも相談するべきだな。 それで、町内会から働きかけてもらうとかさ──」 けいたい

 そのとき、伯父さんのシャツの胸ポケットで、携帯電話が鳴り 始めた。 「もしもし？ うん？ なんだ明か。いや、ちょっと聞こえにく いな、待ってくれよ」  伯父さんは片手に携帯電話、片手に懐中電灯を持って、器用に 階段をおりてきた。亘のところまでおりると、電話をちょっと持 ちあげて、「父さんだ、父さん」と言った。 「もしもし？ あれ、ここも雑音が入る──え？ 聞こえない？  もしもし？」  伯父さんは電話がうまくつながる場所を探して、結局はシート

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の外に出ていってしまった。ここは鉄骨が剥き出しになってたり するので、電波障害を起こすのかしらなどと考えながら、亘もシー トの方へ歩み寄った。懐中電灯を消し、ズボンの尻ポケットに突っ 込んで、しゃがんで両手でシートを持ち上げようとしたそのとき、 あたりが妙に明るくなっていることに気がついた。  目の前のシートの、縫い目が見える。  しゃがんだまま首をよじって、亘はビルの上の方を見あげた。 そして──  ぽかんと口を開いてしまった。  ついさっきまで伯父さんが立っていた場所、この前、あの魔導 士の立っていた場所、三階から四階にあがる階段の踊り場に、 とびら

（扉だ）  両開きの扉が、 （いったいいつの間に？） こ

そうしょく

えが

 上の部分に凝った装飾がついていて、全体に古風なカーヴを描 いていて、 （閉まってる） りんかく

 扉は固く閉じているのに、その輪郭と、中央の合わせ目を、白 いろど

く輝く眩しい光の線が、くっきりと彩っている。中空に現れたそ の扉の向こう側には、きっとこの白い光がいっぱいに満ちていて、 それが、 （隙間から溢れ出して）  幽霊ビルの内側を、こんなふうに薄明るく照らしているのだ。  亘はフラフラと立ちあがると、階段に近づき、一歩一歩のぼり も

始めた。ステップを一段あがるごとに、扉の隙間から漏れる光が 強くなってゆく。亘は扉から視線を離すことができず、何度かス

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テップを踏み外して転びそうになった。それでもひっぱられるよ うにして扉を目指して行く。自分でも止められない。三階に着く は

頃には、這うような格好になっていた。  そこまで近づくと、扉の周囲と中央から漏れる光のぬくもりま えがお

で、はっきりと感じられた。無意識のうちに、亘は笑顔を浮かべ ていた。手を上にのばすと、明るい光が掌にぶつかって、さなが ら春の雨のように、さらさらと音をたてるのが聞こえるようだ。  なんて清らかで、なんて明るくて、なんて優しい光なのだろう。  亘は踊り場まで達した。そこでようやく立ちあがり、扉に向かっ て両手をのばした。

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７ 扉の向こう

かんげい

とびら

かがや

 亘を歓迎するように、扉の中央の光が、一段と太く強く輝きを 増した。扉が── （開くんだ） あふ

 向こう側から、向こう側のこの光溢れる世界から、こちらに向 かって押し開けられようとしている。今にも、今にも── （開いた！）  大波のように押し寄せてきたまばゆい光に、亘は思わず目の前 まぶ

ま

す

に手をかざした。眩しさに、真っ直ぐ顔を上げていることさえで きない。温かな光に全身を洗われながら、早瀬のなかに立つよう こし

に腰を落として、かろうじて自分を支えていた。  光のなかから、誰かが真っ直ぐにこっちへ近づいてくる。白い ひとかげ

光のなかでも、一段と白く輝く小さな人影。開いた扉に向かって、 走って、走って、走って──  そして光から飛び出し、いきなり亘の目の前に降り立つと、少 さけ

年の姿になった。そして叫んだ。 「何でおまえがこんなところにいるんだ？」  息がかかるくらい近くに、芦川美鶴が立っていた。両目を見開 ふ

ば

とが

つ

き、両足を踏ん張り、咎めるように亘に向かって指を突きつける。 「ここで何してるんだ？」 なんきつ

 難詰するようにそう叫ぶと、しかし、亘が何か言う前に、芦川 しんじゅ

はくるりと背中を向けて、また扉のなかへ、真珠色に輝く光の向 の

こうへと、まっしぐらに走り去った。芦川の姿は、光に呑みこま

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れて、またたくまに見えなくなってしまった。 よゆう

こわ

 亘には、何か考える余裕などなかった。迷ったり、怖がったり する時間もなかった。気がついたら、扉に向かって、光に向かっ て、芦川の後を追って走り出していた。 ふち

 扉の縁をまたぎ越えるときには、無意識のうちに大きくシャン プして── こくう

 そして、真っ白な虚空のなかに飛び込んだ。  光の海。温かな気流。  空だ。 なが

 飛行機の窓から眺める雲海。そのイメージが広がった。亘は雲 のなかを泳いでいた。下へ、下へ、下へ。落ちてゆく。耳元で風 が鳴っている。空を切って落ちてゆく。それなのにゆったりとし て、南の海を泳ぐ年寄りのウミガメのようだ。手足をのばすと、 つまさき

指の周りと、爪先を、輝く光が輪になって取り囲む。亘が姿勢を りゅうし

変えると、光の輪もそれについてくる。細かな光の粒子たちと、 おど

からだ

輪になって踊りを踊っているみたいだ──ゆっくりと身体をのば ほほえ

せんかい

あお

し、微笑みながら、亘はぐるぐると旋回した。上を仰ぐ。光の空。 下を見おろす。光輝く雲の海。 とうとつ

 と、唐突に雲が切れて、真っ青な空と、その下に広がる青々と した平原が見えた。 「うわ！」  叫び声と共に、亘は落下した。 （落ちるゥ！）  小石のようにまっしぐらに、地上に向かって落ちてゆく。飛び すぎてゆく周囲の風景は、あまりのスピードに、もうぼやけた影 にしか見えない。明るさだけしか感じられない。そしてさらにス

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ようしゃ

ピードがあがる。容赦なく速くなる。落ちて、落ちて、落ちていっ て──  どすん！ と、背中から着地した。  頭のなかがしーんとしている。背中を地面にぺったりとくっつ け、両足を持ちあげて、天を仰いでいる。なんて無様な格好だ。 カッコ悪いったらありゃしない。  でも、そんなことを考えられるってことは、生きてるってこと だ。 そこぬ

 頭上には、底抜けに明るい青空が広がっていた。生まれてこの かた、こんなに美しい青空は見たことが──あるけど、それは、 旅行会社のカウンターにおいてある、ハワイやグアムへのツアー 旅行のパンフレットの写真だった。ああいうパンフレットには、 あ

ざ

パソコンで画像処理して色鮮やかにした写真が使われているので、 信用できないと父さんが言ってた。本当はもう、ハワイにもグア ムにもサイパンにも、あんな青空はありゃしないのだと。  だけど、ここにはある。本物の、しみひとつない青空だ。  ここはどこだ？  亘は手をついて上半身を起こした。ちょっと頭がフラついたけ け

が

れど、どこも怪我はしていないようだ。血も出ていないし、手足 も動かせる。あんな高いところから落ちたのに。 みわた

さばく

 見渡す限り、一面の砂漠だった。 しり

あら

かんそう

てのひら

 お尻の下の砂は、ザラザラと目が粗く、乾燥しきっていて、掌 すきま

ですくっても、見る間に指の隙間からこぼれ落ちてしまう。この 砂がクッションになって、怪我をせずに済んだのだろうか。 ほお

 太陽は、頭のほとんど真上から照りつけている。首筋や頬にあ さ

たる陽射しは、ちくちくと刺すようだ。さっき、空の上から落下

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か い ま み

する時に垣間見たのは平原だった。だけどここは砂漠だ。どうし ちゃったんだろう？ 気流に乗って、流されちゃったのかな？  とにかく、砂漠だ。だけどここはどこだ？  わかっているのは、あの扉のこっち側だということだけだ。  芦川はどこだろう？ あいつもこの砂漠でウロウロしているの だろうか？ ここを出て、とにかくもう少ししのぎやすい場所へ 行くには、どっちを目指したらいいかな？ あの平原はどこにあ るんだろう。 すなあ

 よろよろと立ちあがると、砂漠の風が亘を取り巻き、小さな砂 らし

ふ

はら

せき

嵐を起こした。顔の前で手を振って、砂を払いのける。咳が出そ うだ。  そのとき、亘のすぐ後ろの砂の上に、小さなアリジゴクみたい うずま

な砂の渦巻きが発生した。音もなく、しかしどんどん大きくなる。  亘がシャツやズボンにくっついた砂をバタバタと払い落として いるあいだにも、渦巻きはぐんぐん輪を広げてゆく。中心が深く なってゆく。やがてしゅるしゅると音がし始めた。 の

 その音で、亘は振り向いた。そして飛び退いた。砂の上にでき かかと

た渦の緑は、もうすぐ亘の踵に届くところだった。そのまま気づ あおむ

たお

かずにいたら、渦の中心に向かって仰向けに倒れてしまっていた だろう。 「な、なんだこれ？」 しゅんかん

しん

 思わず大声を出した瞬間だった。渦の芯のいちばん深いところ ぴ

き

から、真っ黒な動物みたいなものが一匹、砂を巻き散らしながら おど

あし

飛び出してきた。それが宙に躍りあがったとき、四本の脚と長い しっぽが見えたので、亘はそれを犬だと思った。 すなぼこり

ま

 それは軽々と亘の頭を飛び越え、反対側に着地した。砂埃が舞

171

ほ

いあがり、その向こう側で犬みたいな動物がひと声吠えた。顔を すなつぶ

あや

打つ砂粒をよけながらそいつを見た亘は、危うく腰を抜かしそう になった。  それは身体は犬だけど、頭だけが犬じゃなかった。ドーベルマ ンに似たしなやかな黒犬の姿をしているのに、頭があるべきとこ ろには、なんというかヘンテコリンな──これ、なんて言うんだっ け、台所においてある、母さんがたまに、ホントにたまにワイン せん

の栓を抜くとき使ってる──そう、コークスクリューだ！ ねじ ねじの栓抜きだ。こいつの頭は、そんな格好をしているのだった！ モンスター

 ねじねじ頭を亘の方に振り立てて、その怪物はまた吠えた。ギ ほうこう

ギギギギギギャン！ 不協和音そのものの咆哮に、ねじねじ頭全 きょうしん

のど

体が共振する。こいつったら、喉も口もなさそうなのに、どうやっ て吠えてんだろ？ あいそわら

「それにさ」亘は怪物に向かって愛想笑いをした。「おまえ、ボ クのこと食べようとしてるように見えるけど、いったいどうやっ て食べンの？ 口もないのにさ」 こた

 亘の疑問に応えるように、ねじねじ怪物は口を開けた──とい うより、ねじねじ頭全体をふくらませながら、亘の方に、そのてっ ぺんを向けたのだ。そうすると、ねじねじの内側が見えた。吐き ねんまく

気がするようなねっとりした赤色で、ぬめぬめと粘膜が動いてい きば

て、縁にはびっしりと牙がはえている。  キャッと叫んで、亘は逃げ出した。右に走ると、三歩ほど先に 新しい渦巻きができつつあることに気がついた。左に走ると、そ あらて

こにあった渦巻きのなかから、新手のねじねじ頭が飛び出してき た。 きょり

つ

 前方のねじねじ頭が、また吠えた。一気に飛んで距離を詰めて

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くる。ああどうしよう神様仏様、ねじねじに囲まれちゃった── おお

 両手で顔を覆ったとき、何かががっきと首筋に食い込むのを感 う

じた。身体が浮いた。  気がついたら、亘はまた飛んでいた。  そんなに高くあがってはいない。スキー場でリフトに乗ってい ちが

るみたいだ。ただリフトと違うのは、亘の手も足も、宙に浮かん でぶらぶらしていることだ。 さか

 ねじねじ頭の怪物犬たちは、今や五匹に増えていた。盛んに吠 か

えながらぴょんぴょん飛びあがり、亘の脚に噛みつこうとしてい る。そのあいだにも、砂漠の上に、次から次へと新しい渦巻きが す

えもの

できてくる。ねじねじ怪物犬は砂の下に棲んでいて、獲物が上を 通りかかると、ああやって砂のアリジゴクをつくってひっぱり込 おそ

むか、そこから飛び出して襲いかかるのだろう。 「ねじオオカミの群のなかに飛び込むなんざ、正気とは思えん！」 かんだか

 亘の頭の上で、甲高い声がした。 「この俺さまが飛びかからなかったら、今ごろおぬしはねじオオ いぶくろ

カミの胃袋に収まって、ねちょねちょのごちゃごちゃのドロドロ にくじる

の肉汁にされちまってるところだ！」  どうやら、この甲高い声の持ち主が、今現在亘をぶらさげて飛 んでいるようである。つまりは命の恩人だ。とりあえずは。 「どうもありがとう」 えり

 後ろ襟をつかまれているので、上を見ることができない。口を 開くと砂漠の風が飛び込んでくるけれど、亘はそれにメゲずにで きるだけ大声でお礼を言った。 「本当に助かりました！」 「そうだろう、そうだろう」甲高い声が、なお高くなった。気を

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よくしているようだ。 「本当にいいところに、俺さまが飛びかかったもんだ」 つばさ

 正体不明の、とにかく翼のある生きものにぶらさげられて砂漠 きちょうめん

を横切りながらも、父譲りの几帳面さが頭をもたげてきて、亘は き

訊いた。「あの、さっきからあなたは〝飛びかかる〟と言ってま すけど、それは〝通りかかる〟の意味ですよね？」 は

 頭の上の翼のある生きものは、ブンと鼻息を吐いた。「とんで もない！ 俺さまは薄汚く地べたをはいずり回ったりせんのだ！  いついかなるときも、俺さまは飛ぶ！ だからどんなところに ま

ね

も、〝通りかかる〟ようなはしたない真似はせんのだ！ 必ず こぞう

〝飛びかかる〟、わかったか小僧め！」 おこ

すなお

 怒って振り落とされてはかなわないので、亘は素直にはいと言っ た。 こ

 ちょうど二階家の屋根ぐらいの高さを、自転車を漕ぐくらいの いぜん

スピードで、亘はのんびりと運ばれてゆく。周囲は依然として砂 漠ばかりだけれど、左手の前方に、ごつごつとした小高い岩場が 見えてきた。 「小僧め、おぬしはどこから来たのだ？」頭の上で、甲高い声が とうぼう

訊いた。「もしや、逃亡者ではあるまいな？」  それでなくても答えにくい質問だが、〝逃亡者〟というインパ きゅう

クトの強い言葉に、なおさら亘は返事に窮してしまった。 「それにしてもおぬしは重いな！」  実際、〝俺さま〟の翼の羽ばたく音が、少しばかり乱れている。 そんなに大きな鳥ではないのかもしれない。 「あの岩場に降りるぞ」  言うが早いか、〝俺さま〟は左手の岩場を目指した。岩場が近

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ほう

づくと、ぐっと高度をさげ、ぶうんと勢いをつけて亘を放り出す ようにして降ろした。 「うわっと、危ない！」 はし

 降ろされた方は勢い余って、今度は岩場の端から転がり落ちそ うになった。すかさず、また後ろ襟をつかまれる。 にぶ

「小僧め、鈍いな」 しりもち

 尻餅をついている亘の前に、ばさばさと羽ばたきながら、大き せんりょう

な朱い鳥が降りてきた。染料で染めたみたいな、混じりっけなし しゅいろ

きゃしゃ

の朱色だ。翼の差し渡しが一メートルぐらい。身体は華奢だが、 かぎづめ

するど

三本の鉤爪は丈夫で鋭く、亘の頭をわしづかみにすることぐらい、 簡単にやってのけそうだ。この鉤爪に襟首をつかまれてたんだな と思うと、急にぞっとした。 あか

 翼をたたんだ朱い鳥は、カクンと小首をかしげて亘を見おろし わし

た。鷲みたいな顔かたちだが、頭のてっぺんに、サンバのダンサー は ね か ざ

の羽根飾りみたいな、金色の細い羽根がたくさんはえている。そ ゆうが

れが砂漠の風を受けて、優雅にたなびいている。 「ど、どうもありがとう」 ひ

あ

 亘の喉はにわかに干上がって、カスカスの声しか出てこない。 だってこいつ──鳥だよ。どう見たって鳥だよ。それなのに言葉 をしゃべってるよ。 およ

「礼には及ばん。だが質問には答えてもらうぞ。このあたり一帯 なわばり

は、俺さまたちカルラ族の縄張だ。他種族に勝手に足踏みされて は困るからな」  ひと息にそう言ってから、朱い鳥はおおと声をあげて、今さら おどろ

のように驚いた。 「なんと、おぬしはヒトの子供ではないか！」

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「は、はい。そうです」 「ヒトの子がどうしてここにいる？ ここで何をしている？ ど うやって来たのだ？」  続けざまに問いかけながら、やたらに羽根をバタバタさせるの で、亘は目を開いていることもできない。 「ちょ、ちょ、ちょっと待ってください。今、説明します。だか ら羽ばたかないで」  朱い鳥はそうかと言って、羽根を収めた。亘は大きく深呼吸を して、何とか息を整えた。心臓が胸の内で大暴れをしている。 「ボ、ボク、どこか雲の上の方にある扉を通って落ちてきたんで す」  亘が自分の身に起こったことを説明すると、朱い鳥は大きな目 で青い空を仰いだ。 かなめのみとびら

「なるほど……そうか。要御扉が開いているのだな」 「カナメノミトビラ？」 こ

か

へだ

「そうだ。此の地と彼の地を隔てている、それはそれは大きな扉 だ。下から見あげたのでは、そのてっぺんを見定めることはでき かく

ない。雲のあいだに隠れてしまっておるからな。俺さまたちの仲 いま

間でも、それができたものは、未だにいない。カルラ族ほど強い 翼の持ち主は、此の地にも彼の地にもおらないのだから、それは きわ

要するに、今まで扉のてっぺんを極めたものはいないということ だ」 りゅうちょう

 流暢にしゃべって、失い鳥は胸をそらした。長い羽根が風にた なびく。 「要御扉は、彼の地で数える時の単位で十年に一度、九十日間だ け開くことになっておる。今はその時期だったのだな。すっかり

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忘れていたぞ」 「はあ……」 「してみると、おぬしはうっかり要御扉を通り抜け、彼の地から 此の地に迷い込んできたのだな。だからねじ砂漠なんぞに落ちよっ たわけだ。なるほど、なるほど」  此の地とは、今いるこの場所。彼の地とは、亘が日常生活を送っ ている現実世界のことだろう。でも、亘が通り抜けてきたあの扉 ふつう

は、両開きの立派なものだったけれど、あくまでも普通の大きさ きょだい

の扉であって、そんなに巨大ではなかった。それを言うと、 「それはそうだろう。こちら側から見なければ、要御扉の本当の 広さも大きさも、まったくわかりはしないのだ」と、朱い鳥はま い

ば

た威張った。 「そうですか……」 どうき

 やっと胸の動悸も収まってきて、亘はぺたりと岩場に座り込み、 しみじみと周囲を見回した。視界は三六〇度。しかし、全部砂漠 えが

である。ところどころに鋭い線を描いて飛び出しているのは、今 うすきいろ

かげ

座っているここと同じような岩場だろう。地平線には薄黄色い陽 ろう

炎のようなものが立ちこめていて、はっきりと見定めることがで きない。あれは砂嵐だろうか。 ぎょうてん

「びっくり仰天という顔をしとるな」  失い鳥は、わさわさと翼を揺さぶりながらそう言った。どうや ら笑っているらしい。 「まあ、無理もない。何も知らなかったのだからな。俺さまは迷 子を拾ったのは初めてだが、今までにも何度か、要御扉が開いて いる時期に、ヒトの子が誤って落ちてきたことがあるということ

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ぐらいは聞いている。つまり、こういう間違いはおぬしだけでは おろ

ないのだ。おぬしは少々間抜けかもしれないが、飛び抜けて愚か だというわけでもない」 なぐさ

 慰めてくれているのだ。さっきは命を助けてくれたのだし、な かなか親切なヒト──ではなくてトリ──のようである。 「それであの……ここは、どこなんでしょう？」今さらのようだ たず

が、亘は訊ねた。「此の地にも名前があるんでしょう？ 何とい う世界なんですか？」 ヴィジョン

 朱い鳥はすぐに答えた。「〝幻界〟だ」 「ヴィジョン──」 きおく

 亘の記憶では、『サーガⅢ』のなかに、「ヴィジョン・ストラ まほう

イク」という魔法があったはずだった。それは上位の魔導士だけ わざ

まぼろし

げんわく

ど う し う

が使える技で、魔法で作りあげた幻を敵に見せ、幻惑して同士討 ちをさせるというものだった。 げんえい

 ヴィジョン。つまり幻影た。 「じゃあここは、幻の国なんですか」 「おぬしのようなヒトの子にとっては、そうだろうな」 「ボクは今、幻のなかにいるんですか？」 ふく

ふ

 亘は両手を広げてみた。砂埃を含んだ風が吹きつけてきて、目 に痛い。 ひ

「こうやって感じる風も、首筋に陽があたって暑いことも、砂埃 が口のなかにまで飛び込むことも、全部幻なんですか？」 まいご

「おぬしにとってはな。ヒトの子よ。迷子よ」  亘は岩場の上に立ちあがってみた。どこもここもゴツゴツして いるので、ちょっと足元が危なっかしい。 いっさいがっさい

「こうやって見渡す限りの砂漠も、一切合切、みんな幻なんです

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か？ 現実じゃないの？」 「俺さまは現実という場所に行ったことがないのでよく知らない が──」朱い鳥はカクカクと首を動かした。「幻と現実は、相反 するものか？」 「ええ、そうです」 「すると、此の地が幻界ならば、此の地に相対する彼の地が現実 ということになる。すると、ここは現実ではないということにな る。だがなぁ、ヒトの子よ。おぬしはすぐに彼の地へ帰るのだ。 だから此の地のことを気にすることはない」 「ボク、帰るの？」 おきて

「迷子を置いておくわけにはいかぬからな。それが掟だ」 「だけどボク、友達を追いかけて来たんです。一人で帰るわけに はいかない」 「おぬしの話から察するに、その友達とやらは、おぬしと違って 迷子ではないのだ。要御扉を自由に出入りしているということは、 御扉の番人に認められた〝旅人〟なのだ。だから心配する必要は ない」 「でも！」  朱い鳥は羽根をふくらませて飛びあがると、また亘の後ろ襟を つか

捕まえにかかった。 「ちょっと待って！ ボクはまだ帰りたくないんだ！」  亘は首を縮めて逃げ出し、覆いかぶさるように捕まえかかる鳥 の

の鉤爪の下をかいくぐって、岩場の端へと飛び退いた。そのとき、 左足の下のゴツゴツした岩を踏み違え、足首に痛みが走ったかと 思うと、 「うわ！」

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くず

 バランスを崩して横ざまに岩場の緑から転がり落ちた。  一瞬、青空の切れっ端がくるりと目の端を横切り、次の瞬間に は背中からまた別の岩場の上に落ちていた。どうやら、さっきま でいた岩場のてっぺんのすぐ下に、ちょっとしたでっぱりのよう なものがあって、そこにひっかかったおかげで、真っ逆様に落下 せずに済んだようだ。  助かった！ でっばりの緑に手をかけて起きあがると、頭上を 黒い影がさっと横切った。朱い鳥が旋回してゆく。ぐずぐずして いたら、またすぐにもつかまえられてしまうだろう。  どうしよう、とにかく、もっとでっぱりの奥の方へ張りついて てさぐ

いないとまずい──油断なく上の方に目をやりながら、手探りで かんしょく

後ろに下がると、右手の先に何かがぶつかった。岩とは感触が違 う。後ずさりしながら何気なくそちらを見ると、あのねじねじ頭 が目に飛び込んできた。  きゃっと叫んで、亘は危うくでっぱりの緑から飛び出しそうに とら

なった。すかさず朱い鳥の黒い影が降りてくる。前門の虎後門の おおかみ

狼とは、こういうときのことを言うんじゃなかったかな？  しかし、ねじねじ頭はそこに転がっているだけで、亘が叫んで け

も両足をばたばたさせて蹴り飛ばそうとしても、ピタリとも動か ない。よく見ると、そこにあるのはあの不格好なねじねじ頭の部 分だけで、身体の方は見あたらないのだ。  ──死んでるのかな？ こ

 目を凝らすと、そうだ、確かにそこにあるのは頭だけだ。しか はへん

も、頭はひとつ分だけじゃないようにも見える──破片や断片み はさ

たいなものが、岩のあいだに挟まって、そこにも、ここにも、そ こらじゅうに。それどころじゃない、気がつくと、シャツやズボ

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ンに、細かな骨や肉の化石のクズみたいなものがいっぱいくっつ いているじゃないか。 「なんだよ、これ！」 おおあわ

たた

 それらのクズを落とそうと、大慌てで身体じゅうをバタバタ叩 けいかい

いた。当然、上空への警戒が薄れて、あれっと思ったときにはあ の鉤爪で後ろ首をつかまれ、またぞろ両足が宙に浮いていた。 「さあ、おぬしは家に帰るのだ」朱い鳥は先生みたいな厳しい口 きまり

調で言った。「法には従うべきだと、教えられておるだろう？」 ていこう

む

だ

 こうなってしまっては抵抗は無駄だ。というより、亘は身体に ざんがい

くっついたねじオオカミの残骸を叩き落とすことの方に必死だっ た。 「これ、これ、これいったい何？」  頭上から答が返ってきた。「ねじオオカミのカスだな」 た

「なんでそんなもんがあんなところに溜まってるの？」 「ねじオオカミの肉は旨いが、頭は食えん。それにあいつらはな きょうぼう

かなか凶暴なのでな、俺さまたちはあいつらを捕まえると、岩場 たた

ま

ず

に頭を叩きつけて殺すのだ。そうすると楽に殺せるし、不味い頭 もとれてしまうので一石二鳥だ」 えさ

「あなたたちは、ねじオオカミを餌にしてるんですか？」 「そうだよ。だからこの砂漠が縄張なのだ」  縄張とはそういうものだと相場が決まっておると言って、朱い ゆうゆう

のぼ

鳥は悠々と翼をはためかせ、上へ上へと昇ってゆく。亘は何だか 急にエネルギーが切れたような感じになってしまい、もう暴れた りする気力も失せて、ただただ運ばれていった。 やわ

 しばらく飛ぶと厚い雲のなかに飛び込んだ。亘の顔を、柔らか な

にお

な雪がふわふわと撫でてゆく。ほんのりとペパーミントの匂いが

181

かお

する。雲に香りがついてるなんて──現実世界でもそうなのだろ うか。それとも、これもやっぱり幻界だからこそだろうか。 「さあ、ついたぞ」  朱い鳥が大きな声で言いながら、ひときわ強く翼をはためかせ た。亘は勢いよく雲のあいだを通り抜け、ふわっと投げ出されて、 お尻から雲の上に着地した。 かべ

 目の前に、銀色に輝く巨大な壁が立ちはだかっていた。さっき の話を聞いていなかったら、すぐにはこれが扉だとわかりはしな かったろう。大きい。本当に大きい。小さなアリンコになって、 げんかん

ホテルの正面玄関を見あげているみたいだ。 となり

「これが要御扉だ」亘の隣に、朱い鳥がふわりと降りてきた。 「両開きの扉の真ん中に、ひときわ明るい白い光が一筋見えるだ ろう？ あれが、御扉が開いている印だ。閉まっている時期には、 あの光はまったく見えなくなっている」  扉の形は、ここへ来るとき通り抜けてきた両開きの扉と、よく 似ているように見えた。ノブや取っ手らしいものは見あたらない。 「おぬしが近づけば、御扉は自然に開く」 ひとみ

 亘はためらって、朱い鳥を見あげた。鳥の大きな瞳が、御扉の 眩しい輝きを映して、明るく光っている。 「どうしても帰らないとダメなんですか？」 「どうしてもだ」 「じゃ、また来ることはできる？ 戻ってきたいんです、ボク」 もど

「おぬしはここへは戻らぬ」 は

 朱い鳥は、亘の言葉をあっさり撥ね返した。「御扉に認められ おとず

た旅人でない限り、もうここを訪れることはないのだ。おぬしは 彼の地の子供、ヒトの子であるからな」

182

「それじゃ、旅人として認められるにはどうしたらいいんです か？」 「さあ、それは俺さまの知るところではない」 「誰が知ってるの？ さっき言ってた、御扉の番人？」  朱い鳥は両の翼を持ちあげて、ゆさゆさと揺さぶった。「おぬ し、それほどまでして俺さまに放り出されたいのか？」 りょうかた

 亘は両肩を落とした。泣きたくなってきた。失い鳥は、まだ目 を光らせていたけれど、そんな亘にちょっぴり同情してくれたの やさ

か、少し優しい声を出してこう言った。 のぼ

しず

「悲しむな。彼の地に帰れば、陽が昇り陽が沈むのを眺めるうち に、此の地のことは忘れてしまうだろう。此の地から彼の地へは、 何ひとつ持ち帰ることができないのだからな。思い出さえも、記 しか

憶さえも然りだ」  しょぼんと首を落としたまま、亘はゆっくりと御扉の方へ向かっ た。朱い鳥の言葉どおり、御扉はまるで亘に道を開けるように、 音もなく開き始めた。扉そのものが光源となっているみたいで、 あまりに眩しく、まばゆくて、顔をあげることもできない。それ しだい

でも、次第に広くなる二枚の扉のあいだに、吸い寄せられるよう に、亘は近づいていった。 はる

「ヒトの子よ、達者に暮らすがいい」朱い鳥の声が、遥か背後か ら小さく聞こえてきた。 やみ

「俺の名はカルラ族のギガ。彼の地の夜の闇、おぬしの夢のなか でなら、また会うこともあるかもしれぬ」  目を開けているのに、何も見えない。それとも光を見ているの だろうか。光そのもの、輝きそのもの。歩いているのか停まって いるのか、前進しているのか後退しているのか、それさえもはっ

183

ただよ

きりしない。ふわふわと漂うようだ。ゆらゆらと流されるようだ。  そして亘は、まばゆい光に呑みこまれるようにして、すうっと 意識を失った。  幻界──  要御扉。  ここで何をしているんだ？  なぜおまえがここにいるんだ？  砂漠の熱い風とギガの朱い羽根。  あの真っ青な空と緑の草原。  誰か僕を呼んでる？ 亘、ワタル──  誰か僕の頬を叩いてる。  僕は──どこにいる？ お

じ

 日を開くと、ルウ伯父さんの顔が見えた。

184

８ 現実問題

「亘！ 気がついたか、亘！」 お

じ

おお

 ルウ伯父さんが、亘の上に覆いかぶさるようにして、亘の額に 手をあてていた。伯父さんの顔は引きつり、口元がベソをかいて いる。 「伯父さん……」 つぶや

 亘が呟くと、伯父さんは顔をくしゃくしゃにした。「ああ、よ かった、俺がわかるんだな？ どこか痛いとこはないか？ 苦し くないか？ 俺は──俺はもう──」 だいじょうぶ

「伯父さんてば……僕は……大丈夫だよ」 だれ

の

 亘は起きあがろうとした。すると誰かの手が横から伸びてきて、 かた

そっと肩のあたりを押さえた。 「急いで起きない方がいいよ。本当にどこも痛くないかね？」 おどろ

 驚いたことに、それは大松社長だった。ニコニコ笑っている。 「大松さん……」 こ

 少し頭がぼうっとしているみたいで、自分の声が耳のなかに籠 もって聞こえる。亘はパチパチとまばたきをしてみた。  見慣れない部屋のなかだった。三谷家の住むマンションの部屋 てんじょう

しゃれ

より、もっとずっと天井が高い。ルームライトは真四角で、洒落 ふちど

た金色の縁取りがついている。 「ここは私の家だよ」亘の表情を読んだのか、大松社長が説明し しんしつ

かた

てくれた。「お客さん用の寝室なのでね、ベッドが堅いかな」  伯父さんの泣き顔が、大松社長のそばに並んだ。「おまえ、あ

185

たお

もど

のビルで倒れたんだ。覚えてるか？ 伯父さんが電話を終えて戻っ てみると、おまえは階段の下にばったり──」 たた

 そこでまた泣きだす。大松社長が笑いながら伯父さんの肩を叩 いた。 ここち

「伯父さんは君のことが心配で、本当に生きた心地もしなかった みたいだよ」 「だってよぉ──」 ばんそう

 伯父さんの泣き声を伴奏に、大松社長が言った。「伯父さんが 倒れている君を見つけて、病院へ運ぼうとシートの外へ出てきた とき、ちょうど私がそこへ行き合わせてね。それで、伯父さんと 君をうちへお連れしたというわけだよ」 ぎょうてん

「俺はもう仰天しちゃって」ルウ伯父さんは、鼻の下をこすりな がら言った。「でも社長さんが、おまえは具合が悪いようには見 ねむ

えない、顔色もいいし呼吸も正常だ、子供は深く眠るものだし、 とにかくちょっと連れ帰って様子をみようと言ってくれてさ」 「だって私には、君は気持ち良さそうに眠ってるようにしか見え なかったからね。良い夢を見てるのか、口元が笑っていたし」と、 なっとく

ヴィジョン

大松社長が補足した。亘は納得した。〝幻界〟に行っているあい からだ

だ、こっちの世界に残っていた僕の身体は眠ってたのか。 「僕、大丈夫です。大松さんごめんなさい。勝手にビルに入り込 んで……」  亘の言葉に、ルウ伯父さんもやっと大人としての分別を取り戻 しんみょう

したようで、あらためて神妙に、大松社長に頭をさげた。 よ そ さ ま

「まったく言い訳のしようもないです。他人様の建物のなかに勝 手に入り込んだりして」  大松社長は大笑いをした。「いえいえ、ですからそれについて

186

は、もう気にしないで下さい。三谷君、伯父さんから事情は聞い おど

たよ。誰にしろ、あのビルに入り込んで子供たちを脅かすような 人物がいるとしたら、放ってはおけない。今後は、私の方でちゃ んと手を打つから安心しておくれ」 がんじょう

 社長は頑丈そうな手を持ちあげて、頭をかいた。 ゆうれい

「これまでにも、幽霊の話とかいろいろあったが、あまり本気で 問題にしてはいなかったんだ。ときどき私らで見回るようにすれ ば大丈夫だろうと、タカをくくっていてね」 「今夜も、見回りのつもりでいらしたんだそうだ」ルウ伯父さん めんぼく

は、面目なさそうに大きな身体を縮めている。「おかげで助かっ たよ。俺ひとりじゃ、うろたえるばっかりでどうしようもなかっ た」  大松社長とルウ伯父さんは、かなりうち解けた様子で話したり 笑ったりしている。それでも、亘には少し不可解だった。ルウ伯 父さんは経験豊富なライフセイバーだ。命の危険にさらされてい る人たちを、何度となく助けてきた。それなのに、僕のことでは、 何もできないほどあわてふためいてしまったという。そんなことっ て、あるかな？ 「それじゃ亘、気分が大丈夫なら、失礼しょうか」  伯父さんの言葉に、亘はうなずいた。大松社長は車で送ろうと ていちょう

言ってくれたけれど、伯父さんはそれを丁重に辞退した。 こうい

「すぐ近くですから。これ以上、ご厚意に甘えるわけにはいきま せん。本当に申し訳ありませんでした」 「そうですか。でもまあ、そんなに気にしないでくださいよ。そ れじゃ三谷君、元気でな。あのビルのことは、本当にもう心配し ないでいいからね」

187

 大松社長の言葉に、亘ははいと返事をしたけれど、心のなかは かんし

複雑によじれていた。社長さんが本気であのビルの監視を厳しく かなめのみとびら

したら、要御扉に近づきにくくなって、ひどく不便なことになる。  ──こうなったら、早く芦川に会わなきゃ。 さ

 会って、話をしなきゃいけない。こっちももう避けたり逃げた りしないし、あいつにもそんなことはさせるまい。要御扉の前で ちが

顔を合わせてしまったのだから、今までとは事情が違う。バカに されても、二度とひるんだりするもんか。  芦川は本当に〝旅人〟なのか。そうだとしたら、なぜそうなれ たのか。御扉の番人には、どうやって認められたのか。そして何 よりも、芦川は〝旅人〟になって、幻界と現実世界を行ったり来 たりして、いったい何をしているのか。答のほしい疑問はたくさ んある。  大松家を出て夜道を歩き始めると、ルウ伯父さんは亘と手をつ ないだ。それはひどく子供っぽいことで、亘は照れくさかった。 「伯父さんてば、僕はもう大丈夫だよ。だから手なんかつながな くっていいよ」 つ

 ルウ伯父さんは、何か思い詰めたような顔で亘を見おろした。 まだ涙の気配が、両目のあたりに残っているようだ。  亘は、伯父さんにちゃんと謝っていないことを思い出した。本 当に心配をかけたのに。 「伯父さんゴメンナサイ。僕、眠かったんだ。気分が悪かったわ けじゃないんだよ。大松さんが言ってたとおり、ただ眠ってただ ね

けなんだ。いつの間にか寝ちゃったんだ。すごくぐっすり眠っ ちゃったんだ」  ルウ伯父さんはうなずいた。「うん、そうだな。伯父さんはあ

188

わて者だ」  そう言うと、先に立って歩き出した。亘はおかしなことに気が ついた。伯父さんは、三谷家のマンションとは逆方向に向かって いるのだ。 「伯父さん、反対だよ。そっちはうちじゃないよ」  呼びかけると、伯父さんは立ち止まった。亘に背中を向けたま ま、首をうなだれている。 「それが……いや、いいんだよ、こっちでいいんだ」 「どうして？」 と

「亘は今夜は、伯父さんとホテルに泊まるんだ。大通りに出てタ クシーを拾おうよ」  亘は伯父さんに追いついて、見あげた。伯父さんの顔は、ヘン ゆが

あか

なふうに歪んでいる。街灯の灯りでも、それがよく見えた。それ なのに伯父さんは、やけに元気な声を出した。 「あの電話な、亘の父さんからだったんだ」 けいたい

 幽霊ビルにいるとき、伯父さんの携帯電話にかかってきた電話 だ。 「今夜は亘を預かってくれってさ」 そぼく

 素朴な疑問が浮かんできたので、亘はそれを口にした。「だけ ど、明日は休みじゃないよ。僕、学校があるよ」 「早起きして、伯父さんがこっちまで送ってきてやるよ」 き

が

「でも、着替えもないし……」  亘は自分のシャツとズボンを見おろした。そして、さっきまで はすっかり忘れていたことを思い出した。 しがい

 ねじオオカミ！ あいつらの死骸の切れっぱしが身体中にくっ ついていたのだ。まだ残ってるんじゃないか。

189

にお

「伯父さん、僕、臭くない？ 変な臭いしない？」 だま

 亘がシャツやズボンをバタバタ叩くのを、伯父さんは黙って見 ていた。自分のことに夢中になっていた亘は、とりあえずひとと おり点検して、身体に何もくっついていないことを確かめ終える まで、そんな伯父さんの様子をおかしいとも思わなかったのだが ── 「伯父さん？」  気がつくと、伯父さんは片手で顔を押さえていた。 「どうしたの、伯父さん。今度は伯父さんが具合が悪いの？」 すきま

 ルウ伯父さんは、顔を押さえた手の指の隙間から、声を押し出 いや

した。「ああ、嫌だなぁ。俺はこんなことは嫌だよ」 「……？」 うそ

「おまえに嘘なんかつけないよ。伯父さんはこんな役回りはした くないよ」 「伯父さん……」 とうとつ

 伯父さんはぐいと顔をあげ、唐突に亘の手をつかんだ。そして 乱暴なくらいに強くひっぱって、今度は三谷家の方向に向かって 歩き出した。 「行こう、亘。おまえにはおまえの家に帰る権利がある。ちゃん と話を聞く権利もある。伯父さんはそう思う」 「え？ ちょ、ちょっと待ってよ伯父さん」 「いいんだ。ついてきな。帰ろう」 げん

 亘は伯父さんに引きずられて歩き出した。マンションの正面玄 かん

おそ

関に着くまで、伯父さんは恐ろしい早足で、だから亘はほとんど 走るようにしてついていかねばならなかった。  ところが伯父さんは、正面玄関のところで急に速度を落とし、

190

目に見えてためらった。それを吹っ切るようにしてエレベーター まで進み、またぞろ早足で箱に乗り込み、三谷家のある階に着く と、今度はそこでまたためらった。何だか、伯父さん一人が亘の モンスター

たたか

目には見えない怪物と闘い、それを退けながら、前に進んでいる みたいだった。  亘は怖くなった。急に家に帰りたくなくなってきた。予感のよ こ

うなものが胸のなかに込みあげてくる。さっき伯父さんがホテル に泊まると言ったとき、学校だの着替えだのとグズグズ言わずに、 すなお

素直にそうしていればよかったと思った。 ろうか

 伯父さんは三谷家のドアチャイムを押した。静かな共用廊下に、 ひび

うでどけい

チャイムの音色が高らかに響く。亘は腕時計をちらりと見た。とっ れいじ

くに午前零時を過ぎている。 は

 スリッパを履いた足音が、ドアの方に近づいてくる。カチャリ と音がして、ドアが開いた。チェーンがかかっている。  ドアの隙間から、三谷明の顔がのぞいた。亘はぎょっとした。 つか

ふ

父の顔はひどく青ざめ、疲れていた。急に老けたようにさえ見え た。 いっしょ

「兄さん──」と呟いて、明は亘が一緒にいることに気づき、く ちびるをぐいと結んだ。 「よかった、間にあった。まだいたんだな」伯父さんは低く言っ た。「亘を連れて帰ってきた。入れてくれよ」  明は一度ドアを閉じ、がちゃがちゃと不器用な音をたててチェー ンを外すと、黙ったままルウ伯父さんを招き入れた。そして、く るりと背中を向けてリビングへ戻ってゆく。亘は父の顔を見るこ とができなかった。  リビングには灯りがついていたが、台所も洗面所も真っ暗だっ

191

た。邦子の姿が見あたらない。両親の寝室のドアは、ぴったりと 閉じている。 「お母さんは先に寝ちゃったの？」 たず

 亘が尋ねても、明は答えない。そのときになって初めて亘は、 父が、ネクタイこそ解いているものの、まだ背広姿のままである ことに気がついた。 おそ

「お父さん、帰りが遅かったの？」  テーブルの上には何も出ていない。皿もきれいに洗ってある。 たばこ

明は亘の問いかけに答えず、背広の内ポケットから煙草を出して、 つ

火を点けた。  黙って亘の後ろに立っていたルウ伯父さんが、険しい声を出し た。「邦子さんは？」  明は短く答えた。「寝てる」  様子がおかしかった。何から何までおかしかった。まるでお母 さんが病気にでもなったみたいだ。まるで誰かが死んだみたいだ。 「亘」明が亘に声をかけた。 「ちょっとこっちに来て、座りなさい」  そう言いながら、明はソファに腰をおろした。手をのばして、 まだ長い煙草を灰皿に押しつけ、ぐしゃぐしゃにして消した。父 らしくない動作だった。 「明！」ルウ伯父さんが、まるで脅しつけるような声を出した。 「亘が帰ってきたんだぞ。それでもおまえ──」 さえぎ

 明は冷静に、兄の言葉を遮った。「兄さんは黙っててくれ」 「でも──」 「こんなふうにし向けたのは兄さんじゃないか。仕方がない」 ひざ

 亘はソファに近づき、座った。膝がガクガクした。ついさっき

192

ヴィジョン

おそ

こわ

──幻界でねじオオカミの群に襲われて、あんなに怖い思いをし たばかりだというのに、今はもっと怖かった。  ルウ伯父さんは、亘の後ろに立っている。無言のままだ。 しら

「おまえには報せないでおきたかったんだ」と、明は言った。ほ ふる

んの少し、声が震えている。「あとでお母さんから話を聞いてほ しかった。だから伯父さんに、おまえを一晩預けたんだが」 すばや

 ルウ伯父さんが素早く言った。「だがそんなのは不公平だ、こ の子だって説明を──」 あご

 明は、つと顎をあげて兄の方を見ると、かすかに笑った。 「子供に向かって説明なんかできることじゃないから、兄さんに たの

頼んだんじゃないか」  ルウ伯父さんはぐっと詰まった。 「亘、聞いてくれ」と、明は亘の顔を見た。亘は父の顔を見つめ かたすみ

返した。心の片隅で予感のようなものが、キキタクナイ、ナニモ さけ

キカセナイデと、小さく叫ぶのを感じながら。  三谷明は、ゆっくりと言った。 「お父さんは、この家を出てゆく」  コノウチヲデテユク。 りこん

「お母さんと離婚するんだ。お父さんの言っていることの意味が わかるね？」  リコンスルンダ。 「お母さんにもおまえにも、本当に申し訳ないことだと思ってい る。でも、お父さんは決心した。さんざん迷った挙げ句に決めた つらぬ

ことだから、もうこの決心を貫き通すつもりだ」  モウシワケナイコトダ。 「このことについては、お母さんにも、今夜初めてうち明けた。

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それでずっと話し合っていたんだが、お母さんはとても驚いて─ ─ショックを受けたようだ」 ふつう

 亘は口を開いた。普通にしゃべろうと思ったのに、驚くほど弱々 しい声が出てきた。 「お母さんは寝込んでるの？」 「そうかもしれない。さっき様子を見たときには、眠っていた」 と、明は答えた。「これから先も、お母さんとは何度か相談をし なくちゃならないだろう。この家のこととか──おまえとお母さ んの今後の生活のこととか、細かいことで、決めなくちゃならな いことがたくさんあるからな」  亘はゆっくりとまばたきした。何度まばたきしても、目に映る 光景は変わらない。チャンネルが切り替わらない。これは間違い じゃない。夢でもない。現実だ。今、僕は、幻界にいるわけじゃ ない。 さばく

 しかし、家を出てゆくと告げる父の姿は、幻界の砂漠のねじオ オカミよりも、もっともっと非現実的に見えた。  ここで訊ねなければならないこと、訊ねる権利があることは、 山ほどあるはずだった。それなのに、亘にはそれがつかめなかっ た。砂漠の砂が指のあいだからこぼれるように、思いのすべてが も

ぬ

漏れ落ちてゆく。心の底が抜けてしまったみたいに。 き

 やっと、亘は訊いた。「お父さんは、これからどこへ行くの？」 い

「落ち着いたら報せるよ。携帯電話は活かしてあるから、それで れんらく

連絡はつくだろう」 ぼうぜん

 それだけ言うと、明は立ちあがった。亘は呆然として父を仰い だ。これで話はおしまいなんだろうか。これっきりなんだろうか。  明はかがんで、ソファの後ろから何か引っ張り出した。

194

 旅行用のボストンバッグだった。いつも出張の時に使っている、 見慣れたバッグだ。  でも、このバッグが、こんなにも中身をたくさん詰め込まれて、 パンパンにふくらんでいるのを見るのは初めてだ。 「明──」ルウ伯父さんが、かすれた声で呼んだ。「おまえ、も う言うことはないのか？ 亘に言ってやることはないのかよ？  それだけでいいのか？」 むすこ

 明は彼の息子ではなく、兄の目を見て答えた。「亘に対しては、 何を言っても言い訳になる」 「それだって──」 「兄さんにはわからないよ」  ルウ伯父さんはすうっと青ざめた。口元が震えている。  明はボストンバッグを持ちあげた。亘は見るともなくそれを見 ていた。バッグの持ち手をつかむ父の手を。玄関に向かって歩き つまさき

出す父の爪先を。 「兄さん、亘を頼む」と、明は言った。彼の声は、もう震えては いなかった。 「俺は頼まれなんかしないぞ」頑固に目をそらしたまま、ルウ伯 父さんは言い切った。「こんな手前勝手な話があるか。俺は何も 頼まれてなんかやらないぞ」 かえり

 三谷明は、静かに亘の方を顧みた。そして、同じように静かな 声で言った。「亘、お母さんを頼んだよ」  そして歩き出した。スリッパが音をたてる。ひたひた、ひたひ た。  僕はどうしてお父さんを止めないんだろう。亘はぼんやり考え ていた。どうして走っていってしがみつかないんだろう。行かな

195

いでって泣きわめかないんだろう。 む

だ

 それは、そんなことをしたって無駄だとわかっているからだ。 いつだってそうだった。父さんは決めたことは守る人だ。三谷家 では、父さんの決めたことは絶対だった。父さんの結論は判決だっ ひるがえ

た。どんなに泣きわめいても、その判決は翻らない。亘の身体に しつけ

し

は、そういう躾が染みこんでいる。ワガママは駄目だ。  ワガママ？ だけど、これはワガママなんだろうか。  亘はソファから立ちあがると、玄関へ駆け出した。明はこちら くつ

は

に背を向けて靴を履いていた。 「お父さん」  亘の声に、明の背中がぴくりとした。 「お父さんは、お母さんと僕を捨ててくの？」 いっしゅん

 一瞬、明の動きが止まった。靴べらをつかんだ手が白くなった ように見える。 わき

 だが、すぐに彼は靴を履く動作に戻り、靴べらをすぐ脇の下足 の

入れの上に載せた。そして、背中を向けたまま言った。 「お母さんとは離婚しても、お父さんは亘のお父さんだ。どこに いたって、お父さんであることに変わりはないよ」 「だけど捨てていくんでしょう？」  亘は言った。どうしてこんな情けない声しか出ないんだろう。 なんでもっと大声を出せないんだろう。どうしたらもっと説得力 のある言葉が出てくるんだろう。 「捨てていくんだよね？」  三谷明は、ドアを開けた。 「ごめんよ、亘」  そして、出ていってしまった。

196

つ

 亘はその場に突っ立って、ドアが閉まるのを見ていた。口がぽ かわ

がまん

かんと開いて、目が乾いて、おしっこを我慢しているときみたい に、下腹がきゅんきゅん痛んだ。  ルウ伯父さんが黙って近づいてきて、背後から亘の肩に両手を 載せた。 「ごめん」  ルウ伯父さんの声が泣いていた。 「やっぱり──おまえを連れて帰ってくるんじゃなかった。伯父 さんと一緒にホテルにいりゃよかったな。伯父さんが間違ってた。 ごめん、ごめんな」  僕はまだ眠ってるんだ。亘はそう考えていた。これは夢のなか そこ

の出来事だ。僕はまだ幽霊ビルの、あのでき損ないの階段の下で、 ほこり

コンクリートのクズと埃の上に座り込んで、手すりにもたれて眠っ てるんだ。それに気づいた伯父さんがあわてて僕を連れ出して、 そこへ大松社長さんが来て、これから僕を大松さんの家に連れて 行ってくれるんだ。  僕は眠ってるんだ。目が覚めれば、すべては元どおりに戻って じゅもん

く

るはずだ。胸の内で、亘はその言葉を、呪文を唱えるように繰り モンスター

はら

返した。怪物を倒す呪文。怪物を追い払う呪文。怪物を消し去る 呪文。  いいや、違う。呪文なんかきかない。だって僕は眠ってないん だから。これは現実だ。今目の前で起こってることだ。 ま ど う し

 心の底から、痛みが込みあげてきた。あの魔導士の唱えていた 時を巻き戻す呪文。あれはどんな言葉だったっけ。覚えておけば よかった。今こそ使うべきときなのに。 「伯父さん」

197

 ルウ伯父さんの体温を背中に感じながら、亘は小さく訊いた。 「伯父さんは知ってたの？ 今夜お父さんが出ていくってこと、 前から知ってたの？」 あら

 伯父さんは、ちょっと呼吸を整えるみたいに、荒く息をついて から答えた。「あの電話をもらうまでは、知らなかったよ」 「それじゃ伯父さんもビックリしたんだね」  だから、僕が眠ってしまっただけで、あんなに取り乱しちゃっ たんだね。 ひ

ど

「非道いよな」伯父さんは呟いた。「こんなことってありかよ。 おまえにどうしろっていうんだよ」 だ

ちからいっぱい

 亘は黙って振り返ると、伯父さんに抱きついた。力一杯しがみ ついて、泣きだした。  こんなに混乱していても、疲れていても、悲しんでいても、やっ まぶ

ぱり夜は明けるものであって、亘は、顔にあたる朝日が眩しくて 目を覚ました。  伯父さんと二人、リビングで寝入ってしまっていた。ルウ伯父 ゆか

さんは、大きな身体がソファに収まりきらずに、床に転がってい はし

ひなん

る。亘は長いソファの端っこに、何かから避難するみたいに小さ く丸まっていた。そのせいで、起きて立ちあがると、身体じゅう の骨がギコギコした。 さわ

つ

ゆ

あ

 窓の外には、爽やかな青空が広がっている。梅雨明けなのだろ うか。昨日も雨の気配はなかったけれど、今日のこの空はまた格 別だ。雲ひとつない。 ひ

ざ

 時計を見ると、もう八時に近かった。伯父さんは陽射しに背中 じゅくすい

きおく

を向けて、まだ熟睡している。亘のぼんやりとした記憶でも、こ

198

こで横になったのはほんの数時間前のことのような気がするから、 無理に起こさなければ、きっとこのまま眠っているだろう。  両親の寝室の方からも、こそりとも音がしない。母さんはどう しているのだろう。眠っているのか、眠ったふりをしているのか、 ただ起きてきたくないだけなのか。いずれにしろ、邦子は亘が昨 夜のうちに帰ってきていることを知らないのだ。 ゆうわく

 ちょっとのあいだ、声をかけにいこうかという誘惑にかられた けれど、結局やめた。今朝は誰とも話したくない。誰かに見られ いと

ることさえ厭わしい。このままこっそり息をひそめて、学校へ行っ ちこく

てしまおう。急がないと遅刻してしまう。 みが

な

 顔を洗い、歯を磨き、髪の毛を撫でつけ、くしゃくしゃになっ そろ

かばん

た服を着替える。教科書とノートを揃えて鞄に詰め込んだところ よ

そ

で、別に学校なんかへ行かなくたっていい、どこか他所に行って しまって、このまま帰ってこなくたっていいんだよな、というよ うなことを、ふと考えた。  幻界──またあそこへ行って、何もかも忘れてしまえたら。 つか

 いやいや、駄目だ。またカルラ族に捕まって追い返されるのが えさ

関の山。それならまだ幸運な方で、下手するとねじオオカミの餌 になっちゃう。 うち

 結局、学校しか行く場所はないんだな、子供には。家がなくなっ ちゃったらさ。  集団登校のグループは、とっくに先に行ってしまっていた。集 おく

合時間に遅れた生徒は、置いていってもいいというのがきまりだ。 亘は一人で学校まで歩いた。校舎が見えてきたところで、五分前 よれい

の予鈴が鳴った。だから駆け出して、正門を目指した。そんなこ とをしていると、昨日までと何も変わらないみたいだった。ただ

199

ねぼう

はん

寝坊して朝ご飯抜きだというだけで、何も起こってないみたいだっ た。  信じられないことに、教室では普通に授業をやった。担任の先 きげん

生はいつもより機嫌がいいくらいだ。やっと梅雨が明けそうで気 持ちがいいね、なんて言っている。 ほうかい

 三谷家が崩壊したところで、世の中は変わらないのだ。世界な んてそんなものなんだ。  ちょっと前に、ナントカカントカの予言書とかいう本が話題に ちょう

なったことがあった。テレビ番組でもやっていた。それは超古代 いせき

文明の遺跡から発見された石版を解読して得られた予言で、人類 めつぼう

は二〇二四年に滅亡すると書いてあるんだそうだ。その番組に出 ていたゲストのなかに、亘の好きなピラミッド学者の先生がいて、 こういう予言とか古代文明にまつわる話とかは、作り物として楽 しむにはいいけど、あまりまともに受け止めてはいけないと発言 して、司会者を困らせていた。この世界がいつか未来のどこかで 滅亡するかどうかという問題と、この予言が信用できるものであ るかどうかという問題は、まったく次元が別だって。それはとて ふ

ろ

も筋道正しいお話で、だから亘は安心してテレビを消し、お風呂 に入ってぐっすり眠ることができたのだった。  それでも、個人は滅亡するのだ。笑っちゃうくらいカンタンに。 だけど世界は続いていくのだ。  とりあえず。  一時間目の授業が終わったところで、亘は担任の先生に呼ばれ た。 「三谷君、今さっき、お母さんから電話があったの。あなたがちゃ んと登校しているかどうかって。ええ、教室にいますよってお返

200

事したんだけど……」 いぶか

 先生は訝しそうに目を細めた。亘は言った。 か

ぜ

「うちのお母さん風邪をひいて、寝込んでるんです。それで僕、 今朝はお母さんが寝てるうちに、黙って出てきたから」 えら

「ああ、そう。だからお母さん、心配なさったのね。でも、偉い ま

す

わね。三谷君はしっかりしてるわ。授業が終わったら真っ直ぐに 帰って、お母さんを安心させてあげなさい」  ハイわかりましたと答えて、亘は席に戻った。そして、その日 の残りの授業が、滅亡した三谷亘の世界の上を、そよ風のように かたむ

通り過ぎてゆくのに耳を傾けた。  正午過ぎに正門を出るころには、汗ばむくらいの陽気になって いた。鞄をぶらぶらさせながら歩いていると、後ろの方からやけ さわ

に騒がしい声が追いかけてくる。耳がわんわんするほどだ。 「おいってば、なんだよ、何シカトしてんの？ まだ寝ぼけてン の？」  カッちゃんだった。亘はポカンとした。すごく久しぶりだ。十 年も二十年も会ってなかったみたいな気がする。 「ヘンだなぁ。今日はずっとぼうっとしてるじゃんか。『サーガ Ⅲ』の体験版でも手に入れたのぉ？」 「ううん、そんなんじゃないよ」 「ふゥん。てっきりそうかと思ったよ。あのさ、昼飯食べたらウ チへ来ない？ 父ちゃんがパチンコの景品でさ、なんでかわかん ないけどサッカーゲーム取ってきたんだ。これがすっげえハマる んだよ、やんない？」  亘は黙って、カッちゃんの明るい顔に見とれた。何か言おうと 思っても、何も思いつかない。ただ、カッちゃんはいいなぁと思

201

うだけだった。カッちゃんになりたいな。 「何だよぉ、なんでオレの顔じろじろ見ンの？ 何かついてる？」 ふ

「ううん」亘は首を振った。「今日は遊べないんだ。ごめん」  カッちゃんも、何かへンだと気づいたようだ。いつもクリクリ と落ち着きなく動く目が、ちょっと止まった。 「ミタニ……どうかしたの？」 「どうもしないよ。どうも」 「風邪ひいたの？ 腹こわしたとか」 「どうもしないよ」  カッちゃんはしげしげと亘の顔をのぞきこんだ。「だけどおか しいじゃんか」 「おかしくないよ」 うす

 亘は薄く笑った。カッちゃんはちょっと身を引いた。 「そんじゃオレ、帰る」 「うん」 「うーんと──その、なんか用あったら、電話して」 「うん」 「オレずっとウチにいるからさ」 「うん、わかってる」 「そんじゃね」  カッちゃんは振り返り振り返り去っていった。彼の姿が見えな くなってから、亘はまた歩き出した。同じ道を帰ってゆく、たく さんの下級生たちや同級生たちにどんどん追い抜かれ、それでも ゆっくりゆっくり歩いた。気がついたら、また、今朝と同じよう にまったく一人になっていた。  大松さんの幽霊ビルの前まで来て、亘は足を止めた。ビルの様

202

子には変化がなかった。シートが太陽の光を反射して光っている だけだ。社長さんは何か手を打つと言っていたけれど、今日はま だ何の動きもないようだった。 きみょう

 また、幻界のことを考えた。奇妙なことに、朝うちで思い出し あか

たときよりも、思い出の印象が薄れていた。あの大きな朱い鳥─ ─名前は何て言ったっけ？ 頭に思い浮かべるイメージも、ちょ あ

あざ

うど写真の色が褪せるように、少しばかり鮮やかさを欠いている みたいに感じられる。なんでだろう？ 「──ミタニ」  呼ばれて、亘は我に返った。誰だ？  芦川美鶴だった。三橋神社の鳥居の柱にもたれて、亘の顔を、 じっと見ていた。  芦川は、ついて来いという身振りをして、さっさと三橋神社の けいだい

境内に入っていった。亘は、昨日からの出来事で身体ばかりか心 もクタクタに疲れていたけれど、瞬間的に、  ──ここで何してるんだ？ とびら

 扉の前での光景が映画のようにくっきりと再現されて、あのと き芦川の後を追っていったのと同じ勢いで駆け出した。  芦川は亘が追いついても、見向きもしなかった。思い詰めたよ うに顎を引いて、真っ直ぐな鼻の線が、いっそうきわだって見え た。「座れよ」  芦川は、境内のベンチのひとつを指して、短く言った。亘は言 われたとおりにした。以前、ここで出会ったときに芦川の座って いた場所だ。  腰かけると、境内のなかが、よく知っているはずの三橋神社の それとはまったく遣って見えた。いつも鳥居の前を通り過ぎたり、

203

境内を横切ったりするときには、こんなふうな風景には見えない。 やしろ

や

ねがわら

何か広々として静かで、緑に囲まれている。お社の古びた屋根瓦 しっくい

おもむき

の、欠け落ちた漆喰で修復をほどこされた場所でさえ、趣が違う。 普段はこの屋根瓦を見ると、なんかビンボーな感じ、と思うだけ だった。 さっかく

 遠い土地の、見知らぬ場所に来たみたいな錯覚をおぼえた。 「いい景色だろ？」 なな

 芦川は、亘の斜め前に突っ立って、胸のあたりで腕を組みなが ら言った。 しんいき

「ここは神域なんだ」 「シンイキ？」 おもしろ

 亘が問い返すと、芦川は面白くなさそうに答えた。「神のおわ します場所だよ」 いか

きび

 その返事の厳めしさと表情の厳しさ。ごくたまに見かけるこの かんぬし

こわ

社の神主さんだって、ここでこんな畏い顔をすることはないんじゃ こがら

ないか。だってここの神主さんは小柄でニコニコしたおじいさん で、低学年の子供たちの下校時間には、すぐ前の横断歩道のとこ ろで黄色い旗を持って立ってることもある。おわしますというの も、たぶん「いるよ」という言葉の難しいバージョンだろうけれ ども、神主さんはそんな言い回しだってきっとしないだろう。 おこ

 芦川はお社の方に目を向けて、怒っているみたいに黙っている。 い ご こ ち

亘が居心地悪さに何か言おうともぞもぞしたところで、やっと口 を開いた。 「行って来たのかよ」  素っ気ない質問だった。 「どこに？」と、亘は訊ねた。もちろん、わざと訊いたのだ。わ

204

かっていた。それはあの──あの場所のことだ──えっと、何て 言ったっけ？  思い出せなくなっている。驚いた。ついさっきまでは覚えてい たはずなのに。  芦川はこちらを振り向いた。やっと、まともに亘を見た。 ヴィジョン

「幻界へ行って来たんだろ？ 扉の向こう側さ。わかってるんだ」  亘は口を開けた。幻界？ 幻界っていうのは、あの、あの── そう、砂漠のこと。何か恐ろしいケダモノみたいなものに襲われ たんだ。だけどあれは夢じゃなかったのかな？ ひとみ

 芦川はじっと亘を見つめ、一歩近づいた。芦川の瞳が小さく縮 んでいる。寒さに手がかじかむみたいに。 となり

「僕──隣の幽霊ビルに」亘はしどろもどろに言った。「伯父さ んと一緒に行ったんだ」 かくにん

「そこで会ったろ」芦川は確認するように訊ねた。「昨日のこと じゃないか」 「そうだけど……」 は

 芦川は横を向くと、ウジウジしたヤツだな、と吐き捨てた。亘 は、オレって何でこいつには会うたびにバカにされなきゃなんな か

いのかなと考えた。そのくせ心の片隅で、この話が噛み合わない ささや

のはこっちのせいだよ、と囁く声が聞こえる。それは亘のなかの と

小さなワタルで、大声を出してぴょんぴょん跳んで手足をバタバ ひ

タさせて亘の注意を惹こうとしているのだけれど、そんなことを しているあいだにも、それはどんどん小さく縮んでゆくのだ。  そして、とうとう消えてしまった。小さな小さなワタル。消え まぎわ

る間際に、精一杯の大きな声でこう言った── のぼ

しず

なが

こ

「陽が昇り陽が沈むのを眺めるうちに、此の地のことは忘れてし

205

まうだろう」  同じ言葉が、亘の口からも飛ひ出した。だが声が亘の声ではな えら

かった。低く重々しく偉そうで、宣告するような響きがあった。 みは

 そっぽを向いていた芦川が、いきなり振り返った。目を瞠って ろうばい

いる。亘は亘で、自分の口から飛び出したヘンな声に狼狽して、 女の子みたいに両手を口にあてていた。 「──そうか」芦川の口元がほころんだ。「おまえ、カルラ族に 捕まったんだな？」 うわめづか

 亘は口を押さえたまま、上目遣いに芦川を見た。美少年は上機 おど

嫌だ。その場で踊りだしそうなほどだ。 「導士の言うことに嘘はないんだ。そうか、おまえには資格がな た

いから、こっちに戻ってきて一日経つと、幻界の記憶は全部消え てしまうんだな」 うれ

 嬉しそうに、芦川は話しかける。亘には何がなんだかさっぱり わからない。それなのに芦川は楽し気に独り言を続けた。 「記憶は、戻ってきてすぐには消えないんだ。それだと空白がで きてしまうからな。でも一日くらい残っているだけなら、子供な ら、夢でも見たんじゃないのって言われて終わる。大人なら、ク わら

スりでもやってんじゃないかって嗤われてそれまでだ」 あお

 そうかそうかと手を叩き、空を仰いで、芦川は笑いだした。亘 は目をパチクリさせてながめていた。コイツおかしいんじゃない の？ 腹立つなあ。 「何の用なんだよ」亘は訊いた。「またバカにしようってのかよ」  芦川はクックッ笑いながら、また腕を組んだ。頭を振り振り、 「誰もおまえをバカにしてなんかいないよ」 「したじゃんか」

206

「いつ？」 「この前だよ。心霊写真のことしゃべったときだよ」 「ああ、あれか」芦川はうなずいた。「だっておまえの言うこと がめちゃめちゃだったからさ。宮原から、三谷はバカじゃないっ ようち

て聞いてたのに、しゃべってみたらあんまり幼稚なんでおかしかっ たんだ」  ま、そういう宮原だって幼稚だけどなと、たいしたことでもな さそうに付け足した。これに亘はカッときた。思わずベンチから 立ちあがった。 「宮原はいいヤツだぞ！」 えがお

やつ

 芦川はまだ笑顔だ。「べつに、悪い奴だとは言ってないよ」 「ヨウチだとか言ったじゃないか！」 「事実だからさ。だいいち、幼稚なのは悪いことじゃない。もし じゃあく

そうなら、幼稚園児はみんな邪悪だってことになる」 りくつ

「そういうのは──へ理屈っていうんだ」 「ふうん。三谷は、パパやママにそう言って叱られてるわけか」 よくよう

 パパとママという言葉に、なぜかしら嫌味な抑揚がついていた。 それでなくても、今の亘にとって、それはいちばん聞きたくない 単語だったのに、その抑揚はさらに忌まわしかった。 「僕の父さん母さんが何だってんだよ！」 こ

なぐ

 亘は芦川に飛びかかった。満身の力を込めてぶん殴ってやろう こぶし

と拳を振りあげたのに、それはいともカンタンに空を切った。亘 は満身の力を込めて転んでしまった。  芦川の運動靴の爪先が、日と鼻の先に並んでいた。そうやって まじまじと近くで見ると、ひどく履き古されて、すり切れた靴だっ た。一瞬だけ、なんでコイツこんなボロ靴履いてるんだろうとい

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う疑問が頭をかすめたが、今はそんな場合ではないのだった。  おなかを強く打って、亘はすぐには立ちあがれなかった。何と か首をひねって芦川を見あげると、彼はもう笑っていなかった。 「うるさいから、まとわりつくなよ」  最初と同じ無愛想な口調に戻って、そう言った。 「僕はおまえみたいな幸せなお子さんに付き合っていられるほど ひま

暇じゃないんだ」  幸せなお子さん？ 誰が？  もしもその言葉がなければ、それが耳に突き刺さらなければ、 亘は何も言わなかったろう。芦川は仲良しじゃない。カッちゃん みたいな親友じゃない。宮原みたいな気のいい奴じゃない。こん な奴にうち明け話みたいなものなど、死んでもするもんか。  でも、言わずにいられなかった。境内の土埃にまみれた顔をあ げて、亘は吐き出した。 「それはこっちのセリフだ。おまえみたいな幸せなお子さんに付 き合っていられるはど、僕はお気楽な子供じゃないんだ」  芦川はわざと両目を見開いてみせた。 「へえェ。何を言うかと思えばな」 「うるさい！」亘は地面に両手をついて、何とか起きあがった。 ぺたりと座り込む。口の端が切れているんだろう、ヒリヒリする。 「偉そうな顔して偉そうなこと言って、ホントは何にもわかりゃ しないくせに。おまえなんか──おまえなんかにわかるもんか。 ゆうべ

父さんが、昨夜うちを出ていっちゃったんだ。それで僕は──だ から僕は──お気楽な──お子さんなんかじゃ──ゼッタイ！」 ひろう

のど

 重なる疲労と敗北感で、亘は喉が詰まった。  芦川の口調は、まったく変わらなかった。

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「出ていったって、それはおまえのおふくろさんと離婚するって ことか？」 「そうだよ。ほかに意味があるかよ」 「それが何だっていうんだよ」  亘はまだ地べたに座り込んでいた。芦川は亘を見おろして立っ お

ていた。今の言葉は、その位置関係でうち下ろしに頭を殴られた しょうげき

ぐらいの衝撃があった。 「な──」 「何だって言うんだって訊いたんだ。たかが離婚ぐらいで」  信じられない。 「母さんと僕は──捨てられるんだ」 「それで？ 早くほかの誰かに拾ってもらうためには、そうやっ て泣いて悲しんでいた方が効率がいいってか？ まあ、作戦とし ちゃそれがいいかもしれないな」  声も出ない。 「その程度の作戦がお似合いだよ。おまえとおまえのおふくろさ んじゃね」芦川はさらりと言ってのけた。「世間の同情もかえる だろうしな。うん、山ほどかえるぜ。押入に入りきらないくらい の同情がかえる。だけど、僕からは何も出せないぜ」  亘はただ呆然とするばかりで、もう何も思いつかなかった。ど はんげき

んな反撃も。 にら

 芦川は一瞬だけ亘を見ると、つと視線をそらして、地面を睨み ながら言った。「隣のビルには、もう近づくな。今の話じゃ、そ れどころじゃないんだろ。自分のことだけにかまけてろよ。僕は この近くに住んでるから、おまえがウロウロしてたらすぐにわか る。いいな？」

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 芦川が立ち去った後も、しばらくのあいだ亘は境内でへたりこ んでいた。肩の上に何かが乗っていて、それが亘を押さえ込んで いて、どうしても立ちあがれないのだった。乗っているものは、 すご

もしかしたら凄いゴミ。崩壊した全世界の残骸。世界だって、も はいきぶつ

しも壊れたら、誰かが後片づけしなくてはならない。産業廃棄物 処理会社のトラックを呼ばなくては。だけどきっと、引き取って はくれない。 「君、君」  おじいさんの声が呼んでいる。見るともなく目をやると、神主 はつもうで

さんだった。近づいてくる。初詣の時に見かけたのと同じ格好を はかま

している。白い着物に薄緑色の袴。髪も白い。 「どうしたんだね？ 転んだのかい？」  亘は土埃にまみれているのだった。 けんか

「血が出てるじゃないか。学校の帰りだね？ 誰かと喧嘩でもし たのかな」  神主さんは、亘のそばに来てかがみ込み、親切に声をかけてく れた。 「君一人なのかね？ えーと──三谷君、三谷亘君か」神主さん は亘の名札を読んだ。 「おじさん」と、亘は言った。 「何だね？」 「ここって、神社でしょう」 「ああ、そうだよ」 「神社は神様がいるところなんでしょう？」 「そうだよ」 「おじさんは神様を拝んでるんでしょう」

210

まつ

「拝んで、お祀りしているのだよ」 「拝まれて、神様は何してるの？」  もちろん答を知っている質問であるが、なぜそんな質問をする のかがわからないと答えられないのだというように、神主さんは 亘の顔をのぞきこんだ。 「三谷君は、どうしてそんなことを知りたくなったのかな？」 「ただ知りたくなったんですよ」亘はぞんざいに言い放った。 「だって神様があんまりバカでナマケモノだから」  神主さんは、驚いて黙った。亘は立ちあがった。膝が痛かった けれど、そんなことなんかもうどうでもいい。 「なんにも悪いことしてない人が不幸になるのは、神様がバカで ナマケモノだからでしょ？ そんな神様拝んで、おじさんつまら なくないですか？」  鞄をひっつかみ、亘は駆け出した。三橋神社の神主さんは、心 配そうな顔をしてその小さな後ろ姿を見送っていたのだが、亘は 後ろを振り返らなかったから、気づかなかった。  家に帰ると、邦子がいて、亘の顔を見るなり泣きだした。これ なみだ

は現実で夢ではなく、さめても消えてもくれない。母の涙を見て、 とどめのように、最後の念押しのように、それがはっきりした。 亘はもう泣かなかった。石になった。子供の形をした石に。

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９ 戦車が来た

ば

あ

 日曜日になると、千葉のお祖母ちゃんが上京してきた。  お祖母ちゃんはドアチャイムを鳴らさずに、どかんどかんとド たた

おどろ

りょうどなり

アを叩いた。亘たちも驚いたけれど、両隣の人もあわてて首を出 したくらい大きな音がした。亘があわててドアを開けると、お祖 さ

母ちゃんは両手に大荷物を提げていて、なんとまあ足でドアをノッ クしていたのだった。 「あ、亘！」と、お祖母ちゃんは大声を出した。「ごめんよ亘！  お父さんがバカなことをしでかして、あんたもビックリしたろ？ だいじょうぶ

 お祖母ちゃんが来たからね、もう大丈夫だよ。何にも心配する ことないからね。邦子さんはいるかい？」  言いながら、ずんずんあがってきた。邦子が顔をのぞかせると、 さけ

今度はまた「あ、邦子さん！」と叫んで、 と

「いったいどうしたっていうんだい？ あたしゃ心臓が停まって つか

死ぬかと思ったよ。明のバカはどこにいるの？ 首根っこひっ捕 もど

まえて連れ戻してくるから、場所を教えてちょうだいよ」 か

あ

「お義母さん──」 つぶや

りょうかた

うれ

 邦子は呟いて、両肩をすとんと落とした。嬉しそうではないけ れど、感動しているみたいには見える。 「ご心配かけてすみません」 しゅうとめ

 邦子は進み出て、姑の大荷物を受け取った。亘はお祖母ちゃん が顔を真っ赤にして、こめかみに青筋を立てていることに気づい おこ

た。フル出力で怒っているのだ。

212

よ

ま

「まったくもう、明もいい加減で世迷い事を並べるのはよしたと せがれ

思ったのに、まだやるかね。やっとわかったよ、あたしは倅たち そこ

を育て損なったんだね。一人は四十過ぎて所帯も持たない道楽者 おんなぐる

だし、もう一人はどうしようもない女狂いだったなんてね！」 「あの、お義母さん」  邦子が亘を気にして、拝むような仕草をした。お祖母ちゃんは まん丸な目のまま亘の顔を見て、あら、そうだよねと大声で言っ た。 「子供の耳に入れたいようなことじゃないよね。だけど邦子さん、 あたしゃね──」 はん

「わかりましたお義母さん。亘、マックで朝ご飯を食べていらっ さそ

しゃい。小村君を誘ったら？」 わた

 千円札を渡されて、亘は外に出されてしまった。何だかよくわ たつまき

こわ

からないが、竜巻で家がコナゴナに壊されてしまって、まだどこ からどう片づけたらいいかわからないのに、そこへ戦車がやって 来たという感じだ。 ちゅうしゃじょう

お

 マンションの外階段を降りてゆくと、駐車場の方から、ルウ伯 じ

おど

父さんが走って来るのが見えた。亘が踊り場のところから声をか ふ

けると、伯父さんは立ち止まり、はあはあ言いながら手を振った。 いっしょ

「一緒に車で来たんだよ。だけどお祖母ちゃん、俺が駐車スペー スを探してるうちに、とっとと降りちゃってさ。走っていっちゃっ たんだ」 す

 亘と伯父さんは、マンションのささやかな中庭に据えられた、 きゃく

あせ

一脚だけのベンチに並んで腰かけていた。伯父さんは汗だくだっ た。顔色も、あんまり良くない。 「昨日、亘が学校へ行った後、伯父さんも一度うちに帰ったんだ。

213

それでお祖母ちゃんに事情を話したら、何が何でもすぐに東京へ 行くって言い出してな。それでも店があるからさ、大急ぎで留守 番を手配して、今朝まだ暗いうちに出て来たんだよ」 「伯父さん、くたびれてるね」 「そうか？ 亘もひどい顔してるぞ」 ぬぐ

 ルウ伯父さんは大判のハンカチで顔を拭うと、ふうっとひとつ 息をついて、やっと落ち着いた。 「大丈夫か？」 「わかんない」 り ふ じ ん

「そうだろうな……。めちゃくちゃ理不尽だもんな、大丈夫もへっ たくれもあったもんじゃないよな」 あお

「ねえ伯父さん」亘はルウ伯父さんの顔を仰いだ。「さっきお祖 母ちゃんが、父さんのことを〝女狂い〟って言ったよ」 にくにく

 ルウ伯父さんは憎々しげに舌打ちした。 「あのクソババア、余計なことを」 「父さん、ほかの女の人のとこに行ってるの？」  伯父さんはハンカチをくしゃくしゃに丸めて、それでまた鼻の 下を拭った。 「そういうこと、おまえ、わかるか？」 「わかるような気がする」 「ホントかよぉ」 「ドラマだと思って考えれば」 「うーん……その手があるか。ま、テレビじゃそんなことばっか やってるもんな」 うで

 伯父さんは太い腕を組んだ。亘も同じようにした。 「あれから、お母さんとはどんな話をした？ お母さんはどんな

214

ふうに言ってる？」 けんか

「父さんと喧嘩したって。それで父さんは、頭を冷やすために、 はな

しばらく家から離れて暮らすんだよって」  仲直りできれば帰ってくるから、心配しなくてもいいとも言っ たのだ。 りこん

「お母さんの口からは、離婚て言葉は出てこなかったんだな……」 「うん。全然言わなかった」 「おまえ、金曜日の夜に伯父さんと一緒に帰ってきて、お父さん と会って話をしたってこと、お母さんには言わなかったの？」 「言ったけど……父さんが離婚て言葉を使ったってことは、言わ なかった」  言えなかったのだ。 「言ったら、お母さんガッカリするんじゃないかって気がして」 「なんで」 「だって──そうやって、父さんが僕に対してはっきり言ったっ てことは、父さんが考え直しをすることは、もうあり得ないって ことじゃない。だけど、お母さんはまだ、そんなふうには考えて ないんだ、きっと」  ルウ伯父さんはうなずいた。「おまえには、喧嘩だって言った くらいだもんな」 ぬ

うな

 なにしろ出し抜けだからなぁと、唸るような声を出して、ボサ かみ

ボサの髪をかきむしった。 やつ

「明って奴は、昔からそうなんだよ。何でも一人で考えて、結論 しか言わないんだ。俺もそれで何度も喧嘩したけどさ。大事なこ とでも、全部自分で勝手に決めちゃうんだよな」  ルウ伯父さんが、亘としゃべっていて、自分のことを「俺」と

215

めずら

言うのは珍しい。これは別に伯父さんだけじゃなくて、母さんも 亘としゃべるときに「あたしは」なんて言わない。いつだって主 じしょう

語は「母さんは」だった。父さんもそうだった。自称するだけじゃ たが

ばく

なく、お互いに呼び合うときだってそうだった。だから亘は、漠 ぜん

然とではあるけれど、大人になると、みんなそういうものなんだ ろうと思ってきた。先生だってそうだ。主語はいつも「先生は」 だ。  大人になると、セキニンとかヤクワリとかの方が大きくなるか ら、「私は」なんて、うっかり言えなくなるのだ。だからこそ、 めんどう

大人になるのは面倒くさいのだ。子供の方が、自由でいいのだ。 たず

「さっきの質問だけど」ルウ伯父さんが、亘の顔色を見ながら尋 ねた。「おまえ、もしもお父さんに、ほかに好きな女の人がいた らどうする？」 「もしもじゃなくて、そうなんでしょ。だからお祖母ちゃん、あ んなに怒ってるんだ」 「うん‥‥」 「お父さん、その人と結婚したいのかな」  ルウ伯父さんは、急にプリプリ怒りだした。 じょうだん

「冗談じゃねえよな、一度結婚してるくせにさ」 「伯父さんはなんで結婚しないの？」 む

 ルウ伯父さんは目を剥いた。「今はそんなこと話してないだ ろ？」  でも亘には、それはとても大事な質問で、今こそ訊きたいこと だった。結婚て何だ？ 大人はなんで結婚するんだ？ 一度結婚 してるのに、どうして結婚し直したくなるのだ？ どういう時に やり直したくなるのだ？

216

しんけん

 亘の真剣な気持ちが通じたのだろう。ルウ伯父さんは、きまり 悪そうにモジモジしながら、しばらく考えて、答えてくれた。 「伯父さんは、まずモテないんだ」 「そうかな。伯父さんよりもっとモテそうにない人だって、結婚 してるじゃない」 くしょう

 伯父さんは苦笑した。「おまえって、結構スルドく大人を問い つめるね」  明に似て、頭いいんだよなと、おまけのように呟いた。そして また、ひとしきり髪をかきむしった。 おくびょう

「伯父さんはたぶん──臆病なんだよ」 こわ

「臆病って、怖がりってこと？」 「うん、そうだ」 ゆうかん

「そんなことないよ。伯父さん勇敢じゃない。ライフセイバーで、 ひょうしょう

何度も表彰されてるじゃないか」 ちが

「それとはまた違うんだ。全然違う」  そして、亘の頭をぽんと叩いた。 「伯父さんは、そうだな、結婚すると、きっといつかこういうこ とを起こしちまう。それが怖いから、結婚できないんだ」 「こういうことって？」 「だから、今のこの状態」ちょっと両手を広げて、「わかるだろ」 「ほかに好きな人ができちゃうとか？」 「うん……だけど亘、結婚がうまくいかなくなるのは、それだけ が原因じゃないよ。だからお父さんとお母さんのことも、それだ けが悪いんじゃないよ」 「そうなのかな……」 かたすみ

 亘は、父が出ていって以来、心の片隅でずっと感じていた疑問

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を口にした。 「だったら、僕も悪かったんだと思う？」  ルウ伯父さんは、ギクリとして固まった。 いや

「僕があんまし良い子じゃなかったから、父さん嫌になっちゃっ たのかな」  伯父さんは、今度は両手でがしがしと頭をかきむしり始めた。 ぼけつ

ほ

「ああ、俺ってなんでこうなのかな。墓穴ばっかり掘るな。言っ ちゃまずいことばっか言うんだよな、バカだから」  泣いたような声だった。 「伯父さん──」 「おまえは何も悪くないよ。何ひとつ悪いことなんかしてない。 悪いのはお父さんだ。勝手なこと言って、家を出ていっちゃった ひきょう

んだから。だいいち、あの家出の仕方だって卑怯じゃないか。お に

まえが出かけているあいだに、荷物まとめて逃げようとするなん てさ」  僕が悪いのでなければ、父さんが悪くて卑怯だってことになる。 僕も父さんも悪くなければ、母さんが悪いことになるのかな。僕 も父さんも母さんも悪くなけれは、悪いのは、悪いのは── ふんまん

「クソ！ まったくどんな女なんだろうな」憤懣やるかたないと いう口調で、伯父さんが吐き捨てた。「顔を見てやりたいよ。一 なぐ

発殴ってやりたいよ」  悪いのはその女の人なんだな、きっと。  ぼんやりと並んで座っていると、エレベーターホールの方から、 お祖母ちゃんが走ってきた。すぐ後を、母さんが追いかけている。 「お義母さん、お義母さん、待ってください！」  走りながら、必死で呼びかける。お祖母ちゃんは全然止まらな

218

からだ

い。それでなくても丸っこい身体つきなのに、転がるような勢い で走る走る走る。 「悟！ そんなとこで何してるんだい？ 車を出しておくれ！  出かけるんだから」  ルウ伯父さんはベンチから立ちあがった。 「出かけるって母さん、どこへ行くんだよ」 「決まってるじゃないか、明のところだよ。頭から水ぶっかけて 連れ戻すんだ！」 いせい

「そんな威勢のいいことばっかり言ったって、何も解決しないよ。 ちゃんと話し合いをしなくちゃ」 つば

ど

な

 お祖母ちゃんは唾を飛ばして怒鳴った。 にょうぼう

「バカ言ってんじゃないよ！ 若い女のケツ追っかけて女房子供 むすこ

を捨てるようなバカ息子と話し合う口なんか、あたしゃ持ち合わ せてないね！」 「お義母さん」亘の前で、母さんはしゃがんでしまった。「ご近 所じゅうに聞こえます。やめてください」  お祖母ちゃんはますますカッカする。「聞こえたっていいじゃ ないか。そんなこと気にしてる場合かね。邦子さんあんたいつも み

え

ていさい

そうなんだから。こうなっちゃ見栄も体裁もないだろ？ あんた、 自分の置かれてる立場がわかってんのかね。どこの馬の骨とも知 ていしゅ ね

と

れない女に亭主寝取られるなんて、そもそもはあんたが抜けてる からじゃないか！」 「おふくろ！」ルウ伯父さんが怒鳴った。亘は目の前に七色の星 が飛び散るようだった。オンナノケツヲオイカケル。ネトラレル。 「親に向かって大声を出すもんじゃないよ！」お祖母ちゃんも負 ずうたい

けてはいない。「悟も悟なんだ。図体ばっかり大きいくせに、何

219

の役にも立ちゃしない。明が出てゆくってときに、あんたなんで たお

張り倒してでも止めなかったんだよ？」  ベランダから首を出して、こっちを見おろしている人がいる。 かか

母さんはしゃがんだまま両手で頭を抱えている。泣いてるみたい だ。 「おふくろ、とにかく今はそんな話はよせ」  ルウ伯父さんは、お祖母ちゃんの肩をぐいとつかんだ。乱暴な 仕草だったけれど、お祖母ちゃんの両目が真っ赤になっているこ とに気づくと、急に空気を抜かれたみたいに、ぐったりと腕をお ろしてしまった。 「ここでこんなことをやりあってたって仕方ないだろ」伯父さん やさ

かわいそう

は優しい声で言った。「邦子さんも亘も可哀想だ。とにかく俺た ちは、いったんホテルへ引きあげようよ」 がんこ

「あたしは明に会うんだよ」お祖母ちゃんは頑固に言い張った。 「会えるように、俺が手配するよ。ちゃんとやるから。な？」

220

10 途方にくれて

お

じ

ば

あ

なだ

 結局、ルウ伯父さんは何とかうまくお祖母ちゃんを宥めること に成功して、二人でホテルへ向かった。それでもお祖母ちゃんは、 がんきょう

明と話し合うまでは千葉へは帰らないと、頑強に言い張っていた。 かくご

あの大荷物は、その覚悟のあらわれだろう。 だま

もど

 亘と邦子は、黙りこくって家に戻った。亘がそのまま自分の部 い

す

こし

屋に行こうとすると、邦子がダイニングの椅子に腰かけながら声 をかけた。 「亘、少しお母さんと話をしない？」 つか

ほお

 邦子はひどく疲れた顔で、頬がげっそりとこけていた。さっき かか

かみ

頭を抱えたりしたせいか、髪も乱れている。亘は、母と向き合っ つら

て座るのが辛かった。ああ病気なんだ、オカアサンハ、オモイビョ ウキニカカッテイルンダ。ハヤクオイシャサンヲヨバナクチャ。 「ごめんね」と、邦子は小さな声で言った。「あなたにこんな悲 しい思いをさせるなんて、お母さん申し訳なくて」 うつむ

 亘は黙って俯いていた。そこはいつもの亘の席で、邦子もいつ もの邦子の席に座っていて、明の席は空けてあった。それは長年 の習慣で、今さら言葉で指示する必要などない。ずっとこうやっ て座ってきたのだから。  そのポジション取りだけを見るならば、今までと何の変わりも なかった。明がゴルフや出張で不在にしている日曜日。それとまっ たく同じだった。この父さんの椅子に、何のことわりもためらい だれ

もなく、当たり前のようにして僕や母さんが座ったり、誰かほか

221

の人を腰かけさせる時は来るのだろうかと、亘は考えた。 「お母さんや僕が悪いわけじゃないって、ルウ伯父さんが言って いっ

た」と、亘は言った。「悪いのはお父さんと──今お父さんと一 しょ

緒にいる女の人だって」 まゆ

 邦子は亘と同じようにうなだれたまま、かすかに眉をひそめた。 つぶや

「女の人、ね」と、呟いた。 「そうなんでしょ？」 びしょう

 邦子は目をあげて、ほんの少し微笑した。「さっきお祖母ちゃ んが言ってたこと、あんた、しっかり聞いちゃったもんね。今さ かく

む

だ

ら隠したって無駄よね」 「うん」 「それがどういうことだか、わかる？」 「わかると思うよ」  テレビドラマで、そういうこといっぱいやってるもんねと、先 ちゅうしゃく

ほどのルウ伯父さんの注釈をさっそく利用して、亘は答えた。 「テレビドラマかぁ」邦子はため息をついた。「そうね。お母さ んも、こんなことはドラマのなかだけのお話だと思ってた。身の 上相談とかだって、あんなのほとんどやらせだって。まさか自分 の身の上に降りかかってくるなんて、夢にも思わなかったわよ」  独り言みたいに呟く。 ひ

と ごと

「みんな他人事だと思ってた。こんなことになるのは、家庭がちゃ う

ま

んとしてなくて、だらしなくって、いろいろなことが上手くいっ てない人たちのことだ、自分には関係ないって。そんなふうにタ カをくくってたから、バチがあたったみたいね」  そんなことないよと言ってあげるべきなんだけれど、亘は黙っ ていた。亘自身だって、お母さんと同じように感じていたからだ。

222

 口をついて出てきたのは、質問ばかり。 「僕たち、どうしたらいいんだろ。どうしたらお父さん帰ってき てくれるんだろ」 「わからない」  邦子はすぐさま、短く答えた。正直な本音が、思わずこぼれた というふうに。この言葉の主語は「わたしは」だった。でも、す ぐに気を取り直して、「お母さんは」が隠れた主語になっている 言葉を続けた。 「だけど、亘はそんなこと考えなくていいのよ。何にも心配しな くていいの。あなたが悪かったわけじゃないって、伯父さんもそ う言ったんでしょ？ お母さんもそう思うわ。これはお父さんと お母さんの問題なんだから」 ゆず

ちが

 父親譲りの亘の頭は、それは違うと反論を組み立てる。確かに 「明と邦子」の問題なら、亘は関係ない。でも、「お父さんとお ぬ

母さんの問題」なら、それはそもそも亘抜きでは成立しない問題 なのだから、亘抜きで解決できるわけがないのだ。主語が違うよ、 お母さん。  だけど、今こんなことをお母さんに言い返して、何になるって んだよ。 りこん

「お父さんは僕に、お母さんとは──離婚しても、亘のお父さん であることに変わりはないって言ってた」 「それは──金曜日の夜に、あんたがルウ伯父さんと一緒に帰っ てきたとき？」 「うん、そう」 「お父さん、あんたにそんなこと言ったの」 なみだ

あふ

 邦子の目に、涙が溢れた。

223

「どうしてすぐにお母さんに言わなかったの？ あんた、そんな ことちっとも言わなかったじゃないの。お父さんはしばらく出か けて帰らないって言ったって、それしか言わなかったじゃない」  実際、亘はそんなふうに嘘をついたのだった。 「ごめんなさい」 「なんで謝るの。あんたが謝ることじゃないわよ」邦子はテーブ ひじ

おお

ルに肘をつき、両手で顔を覆ってしまった。「あんたに謝られた ひ

ど

ら、お母さんどうしていいかわからないじゃない。非道いわ」 つ

ぷ

うめ

 テーブルに突っ伏し、呻くような声をたてて泣きだした。ごめ んなさいと、亘はまた呟いた。涙が出てきて、目の前がぼやけた。 こすってもこすっても、ぼやけて見えた。 「違うのよ、亘、ごめんね」  邦子は顔を伏せたまま、泣き泣き言った。 「非道いのはあんたじゃないの。お父さんよ。だってそうじゃな い。あんたにそんな言い訳聞かせて、お父さんはお父さんで変わ りないんだからいいだろなんて言って、あんたが何にも言い返せ の

ないようにして、あんたが一人で呑みこまなくちゃならないよう にして、それで出てゆくなんて」 よみがえ

 ふと、ルウ伯父さんの声が蘇ってきた。明は苦からそうなんだ。 何でも一人で考えて、結論しか言わない。  そう、お父さんはそういう人なんだ。筋道立てて物事を考えて、 つらぬ

正しい結論を見つけたら、どんなことがあってもそれを貫き通す。 そういう時のお父さんには、どんな反論だって通用しない。この マンションを買うときだってそうだったじゃないか。  正しい結論。三谷明にとっての正しい結論は、邦子と亘を捨て て出てゆくことだった。だからそうしたのだ。でも、お父さんが

224

お父さんにとって〝正しい〟その結論を導き出すまでの過程を、 僕は何にも知らされてない。そこに計算間違いがないかどうか、 確かめてみなくちゃいけないじゃないか。  今までは、全部お父さんに任せてきた。お父さんなら間違いを しないって。いつだってそうだったから。だけど今度は違う。今 度のこれは間違いだ。誰かお父さんにそれを教えてあげなくちゃ。 検算してあげなくちゃ。 「お父さん、お母さんには何て言ったの？」 ふ

 亘の問いかけに、邦子は顔をあげて首を振った。涙がぼろぼろ 落ちる。 「そんなこと、あんたは知らなくていい！」 「僕、教えてほしいんだもん」 けんめい

 亘は一生懸命に、今自分で考えたことをしゃべった。邦子は涙 でうるんだ目で亘を見つめ、痛ましいくらいに辛そうに微笑した。 「あんたはこんなに良い子なのにね」 「お母さん──」 だいじようぶ

「いいのよ。あんたはもう心配しなくて。大丈夫──」邦子は大 げさにうなずいた。「お母さんがやるわ。あんたの言うとおり、 お父さんの計算間違いを見つけて、教えてあげるから。そしたら お父さん帰ってくるわ。だから亘は、お父さんは出張に行ってる んだって思ってて。ホントにそうなんだから。お父さんはちょっ めんどう

と、面倒なお仕事があって、しばらくかかりっきりにならなきゃ ならないの。だから出張よ。いいわね？」  これでは、今度はお母さんの言うことを、丸呑みしなければな らなくなる。それじゃ同じことなのだけれど、亘にはそれしかな いのだろうか。

225

な

「そうよ。あんたはこんなに良い子なんだから、お父さんを失く させたりしない」と、邦子は宣言した。「お母さん、頑張る！」  たった一度のこの話し合いを境に、お母さんは亘に何も言わな くなった。千葉のお祖母ちゃんやルウ伯父さんと会ったり、電話 で長いこと話し込んだり、小田原の実家に電話をしたりすること はあるけれど、それで何がどうなったのか、どんな話をしている のか、亘にはまったく教えてくれない。  お父さんは出張よ。つまり、そういうこと。頭から嘘だとわかっ ているのに、亘にそれを信じろというのである。 つら

たず

 それではあまりに辛すぎて、こっそりルウ伯父さんに尋ねてみ た。だがルウ伯父さんも、この間題が持ちあがったばかりのころ とは全然様子が違ってしまっていた。 「お母さんには何て言われてる？ お母さんの言うとおりにして、 ふつう

亘は普通に暮らしてればいいんだよ」  なんてことを言うのだ。 「あと半月もすれば、夏休みじゃないか。八月になったらこっち へ来るんだろ？ 伯父さんはそのつもりで待ってるんだからな。 宿題をちゃんと終わらせとけよ」 たの

 きっとお母さんから、亘には何も言わないでくれと頼まれてい るんだろう。それぐらいちゃんと察しはつく。だから食い下がっ た。 「お祖母ちゃんはどうしてるの？ お祖母ちゃん、お父さんと会っ たの？」 いそが

「お祖母ちゃんなら店で忙しくしてるよ。だから亘は余計なこと 考えなくていいんだよ」

226

「余計なことじゃないよ！ 僕のことじゃないか！」  思わずカッとなって言い返すと、伯父さんはとたんに声をしょ ぼしょぼさせた。 「そんなことを言って、伯父さんを困らせないでくれよ」 「困らせるつもりなんかないよ、だけど」 「おまえはまだ子供なんだよ。大人の問題を背負い込むことなん かないんだ。亘は何も悪くない。だから、亘が何かしなくちゃな らないという責任もない。伯父さん、おまえのお母さんからも頼 なや

まれてるんだ。亘には、悩むことはないって言い聞かせてやって くれって。だから頼むよ。な？」  おかしい。ルウ伯父さんはこんな人じゃなかったはずなのに。 僕の言うことよりも、お母さんの言うことの方を絶対優先しちゃ うなんて、全然伯父さんらしくないじゃないか。 じか

 こうなったら──もう、直にお父さんに会うしかない。  お母さんに内緒で、そんなことはできない。しちゃいけない。 そう思ってきた。だけどお母さんの方は亘に無断で、亘には見え ない場所、聞こえないところで何かをしようとしてる。片づけよ うとしてる。そんなのフェアじゃない。  だったら僕だって、自分の考えに従って行動したっていいはず だ！ ゆううつ

つ

ゆ ぞら

ひ

ざ

 七月に入ると、憂鬱な梅雨空の日々は少なくなり、陽射しも一 めがね

気に強くなった。テレビの天気予報では、眼鏡をかけた予報官が か

ぜ

天気図を指し示しながら、気温の変動が激しいので風邪をひきや ごうう

すいですよとにっこりし、梅雨の終わりの集中豪雨にご注意を─ ─と呼びかけている。

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じゅく

 夏休みはもう目前だ。みんな浮かれている。塾の教室のなかに さえ、カウントダウンの気分が満ちている。五、四、三、二、一、 さあお休みだ！ 実際には、塾のカリキュラムは夏休み中も── いや夏休み中だからこそ──豊富に用意されており、すべてを受 講するつもりなら、休みらしい休みはほとんどないほどなのだけ れど、それでもやっぱり、みんなワクワクする。勉強しなくては ならないということと、学校が休みだということは、実はまった く別モノなのだ。そして、子供たちにとってより重要なのは、前 者よりも後者の方なのである。 はな

 亘は一人だけ、どんな種類のトキメキからも離れた場所に心を 置いて、級友たちのあいだに混じっていた。外から見ても、これ という変化は感じられなかったろう。実際、友達の誰かから、最 近元気ないねなんて声をかけられることはなかった。まとまった じっし

学力テストの実施される時期ではないので、成績の急降下が担任 の先生の注意を引くということもない。 ゆいいつ

 唯一の例外は、もちろん、カッちゃんである。彼の目だけはご まかせなかった。 おこ

「ミタニ、なんか最近怒ってない？」 う

こわ

 お祖母ちゃん戦車が来たりて撃ちて壊して去った日曜日から、 ちょうど一週間後のことである。亘は小村家に遊びに来て、二人 よじょうはん

でカッちゃんの部屋にいた。大きな押入のある四畳半で、窓の向 せんたくもの

こうには物干場が見える。洗濯物が盛大にひるがえっている。  亘はテレビゲームの画面から目をそらして、カッちゃんの顔を 見た。カッちゃんはカルピスソーダの入ったジョッキを片手に、 少しばかり困ったように両の眉毛をさげている。 ぼん

あせ

 亘の分のジョッキは手つかずのまま、お盆の上で汗をかいてい

228

し

た

た。階下のお店でチューハイや生ビールを出すのに使っている ジョッキだから、なにしろ大きい。全部飲むとゲップが止まらな くなりそうだ。  案の定、ジョッキを半分以上カラにしているカッちゃんは、続 けて何か言おうとして口を開いたとたんに、「ゲプ」とやった。  亘は笑った。カッちゃんも笑った。テレビ画面いっぱいに映し かくとう

出されているのは格闘ゲームで、コントローラーを落として笑っ あやつ

ているあいだに、亘の操っていたキャラはコンピュータにボコボ コにされてしまった。 「なんか、ずっと怒ってるみたいな顔してるよな、ここんとこ」 と、カッちゃんは言った。 おどろ

 そんなふうに見えていたのかと、亘は静かに驚いた。もちろん いか

怒りはあるけれど、それだけが顔に出ているなんて、自分ではまっ たく気づいていなかった。 れんらく

 この一週間、亘はなんとか明と連絡をとろうと、あの手この手 で努力してみた。とにかく一度でも電話がつながればいい。とこ ろがこれが、月へ行くのと同じくらい大変だった。信じられない ことだけれど、世の中の仕組みはそういうふうになっているのだ。 けいたい

 明は携帯電話を持っているが、亘はその番号を知らない。今ま での生活のなかでは、知る必要なんかまったくなかったからだ。 さ

あの金曜日の夜中、ボストンバッグを提げて出てゆくときに、明 い

は「携帯電話は活かしてあるから、それで連絡がとれる」と言っ ていた。だから番号さえわかればいいのに、これがわからない。  もちろん、邦子が教えてくれるはずはない。あれ以来、「お父 さんは出張中」という筋書きのなかに亘を閉じこめておこうと─ ─もちろんそれが亘のためだと信じるからこそなのだけれど──

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必死になっているのだから。  家のなかに書きとめてあるはずだと、アドレス帳や電話帳をめ くってみた。どこにも書いてない。ホームテレフォンの短縮ダイ ぬす

アルに登録してあるのではないかと、邦子の目を盗んで電話機の マニュアルを探し出し、調べてみたけれど登録もない。ひょっと すると邦子が、こういう事態を想定して、消してしまったのかも じゅうぶん

う

しれない。うん、充分あり得る。  となると、次は会社た。ところが亘は、ことこういう局面に立 たされて初めて、父が勤めている会社名こそ知っているものの、 その先は何も知らないということに気がついた。本社にいるのか、 どこぞの支社にいるのか、営業所にいるのかもわからない。 の

 それでも、電話帳に載っている本社支社営業所サービスセン かた

ぱし

ふさ

ター、片っ端から電話してみた。すると今度は別の関門が立ち塞 がる。三谷明が所属しているような大きな会社では、電話帳や一 〇四で調べることのできる代表番号に電話をかけて、ただ「三谷 明をお願いします」と言っても、あっさりとつないではくれない き

のだ。必ず所属部課名を訊かれるし、「おうちの方ですか？」 ぼう

「坊や、どういうご用件なのかしら」と追い打ちが来ることもあ る。亘が訊かれたことに答えられないと、そのアヤフヤさをすぐ あや

しか

に怪しまれ、「イタズラは良くないね」と叱られたり、「お母さ んがお急ぎのご用でお父さんとお話をしたいということなのかし ら？ それならお母さんと電話を代わってね」なんて言われたり ぬ

する。あれこれ言い抜けようとすると、かえって逆効果になるだ けだ。  僕は本当に三谷明の子供で、ただお父さんと話をしたいだけな んですが。

230

 それらの事どもを、最初から今までの一連の出来事を、亘はゆっ くりと、カッちゃんにうち明けた。もうしゃべりながら涙ぐむよ て

づ

うなこともなかったし、興奮もしなかった。すっかり手詰まりに なってしまって、疲れてしゃがんで休んでいるような心持ちだっ たから。  カッちゃんは、それでなくてもクリクリした目をまん丸に見開 いて、ひと言も発さずに話を聞いていた。亘がひととおりの話を 終えて、ジョッキに手をのばして持ちあげると、それをぽかんと 見守りながら、呟いた。 「スゲエ」 しょうどう

こ

ほっさ

 なんだかよくわからない衝動が込みあげてきて、亘は発作的に、 ちょっとタガが外れたみたいに笑った。 「うん、スゲエでしょ」 「お父さんとお母さんがムカシ離婚しましたっていうヤツなら、 ほかにも知ってるけど」 「うん、それなら僕も、宮原がそうだし。ほかにも塾にいるから」 「同じヤツかな？ 二組の田中じゃない？」 「違うちがう。佐藤って女の子。学校が違うんだ」 「交通事故でお父さんが死んだってヤツもいるけどなぁ」カッちゃ んが真顔で言う。「そういうの、自分のことみたく考えたことっ てないよ」  亘だってそうだった。 お

じ

「だけどミタニ、やっぱその──どうしても小父さんと話、した い？」 「しないと、何が何だかわかんないままだろ？ ムカつくよ」 「うん……」

231

 カッちゃんは空っぽになったジョッキをのぞきこんで、またゲ ま

じ

め

プと言った。それでも今度は笑わず、真面目な表情のままだ。 お

ば

「でもさ、小母さんに任せとけば、うまくいくかもしんないじゃ ない？」 「それで父さん帰ってくる？」 「うん。なんかそんなもんらしいよ。ケッコンしてるとさ」 「誰に聞いたんだよ、そんな説」 ふうふげんか

「店で話してるもン。うちの父ちゃんと母ちゃん、夫婦喧嘩やめ たよ

させるの上手いらしいんだよね。けっこう頼りにされてンだ」 「お客さんがそういう話を持ち込んでくるってわけ？」 「そ、そういうこと」 がまん

「他所に女の人がいても、じっと我慢してれば帰ってくるって、 そういう例がいっぱいあるって意味？ そんなの保証できんの、 カッちゃん」  そんなもん、誰にもできるわけがない。カッちゃんは困って黙っ てしまった。 いや

かたく

「このままじゃ、僕は嫌なんだ」と、亘は言った。頑なな口調だ が、むろん本人にはわからない。 「ミタニ、頭いいからさ。だから曲がったこと嫌いだもんな」と、 カッちゃんは言った。 「ミタニの小父さんに電話できればいいってんなら、何とかなる かもよ」 ぱ

 あまりにあっさり言われたので、亘がどきんとするまで二、三 く

相かかった。 「ホントか？」 めいぼ

「うん、ホント。名簿に載ってるから」

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「名簿？」  去年の防災の日に、このあたりの八つの町内会が合同で防災訓 だいかつやく

練を行った。小村の小父さんが実行委員の一人として大活躍した のを、亘も覚えている。 きんきゅう

「あのとき、町内会の緊急連絡簿みたいなのを作ったんだよ。ミ じしん

タニの小父さんは実行委員じゃなかったけど、地震とか火事とか あったときの緊急連絡ナントカ委員ていうのにはなっててさ、そ れでね、名簿に会社の住所とか電話番号とか載ってるんだよ。オ レ、見たことあるもん」  亘はカッちゃんに飛びついた。「それ、見せて！」  三分とかけずに、カッちゃんはその名簿を探してきた。コピー 用紙をホチキスでとじて、表紙をつけただけの簡単なものだ。で も、内容はしっかりしていた。 「三谷明──あった！」  勤務先の部課名と直通電話の番号まで、ちゃんと書いてある。 「電話借りていい？」 「いいけど、今日はダメだよ。だって日曜日じゃんか。会社休み だよ」  あ、そうか。 「明日、帰りにウチに寄りなよ。オレ電話かけたげる」 「カッちゃんが？」 「うん。バイトのあんちゃんのフリして、お客さんの三谷さんが お店に忘れ物しましたっていって、小父さんを電話口に呼んでや るよ。オレそういうの、しょっちゅうやってっから。そうでない と、またお母さんに代わってとか言われたらメンドウじゃんか」 「そうか。カッちゃんさえてるね」

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 カッちゃんはエヘヘと笑った。「いつも宿題教えてもらってる ばっかだけどさぁ、こういうことなら任せてよ」  とても得意そうな顔をして、「それにさ、最初からミタニが電 話してきたってわかったら、小父さん電話に出てくれないかもし ンないじゃん？」  と言い切り、亘の顔を見て、口をつぐんだ。「ゴメン。オレっ てば調子こいてヘンなこと言った」  亘は首を振った。心はザックリ切れていたが、無理してかぶり を振った。 「いいよ、カッちゃんの言うとおりだもん」 「そんなことないよ。オレ──」 「いいや、あってるよ。だって父さん、僕がいないあいだに家を 出ようとしたくらいだ」 さ

 亘と直に話し合うことを避けようとする可能性は、大いにある。 カッちゃんはスルドイ。  しかし本人は、「ごめん」と呟いてしおしおにしおれている。 「いいんだよ、気にするなって。それより、ゲームやろうよ」  カッちゃんはノロノロとコントローラーを手に取った。それで ふ ん い き

も気まずい雰囲気は消えない。亘も頬のあたりがピクピクするよ うで、とりつくろうような言葉も出てこない。 「そういえばさぁ」カッちゃんが、出し抜けに調子っぱずれな声 を出した。「ミタニ、塾で芦川と一緒だろ？ あいつの話、聞い た？」 けなげ

てんかん

 カッちゃんの健気な話題転換に、亘は喜んで飛び乗った。「何 の話だよ？ あいつまたお化けの写真でも撮ったの？」 「あれ、、ミタニ知らないの？ あいつさぁ」

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 アメリカ育ちなんかじゃ、全然なかったというのだ。 しんせき

「なんかさ、親戚の伯父さんがコンピュータの会社に勤めてて、 転勤でアメリカにいるんだって。なんかあんまし聞いたことない ようなところ。ニューヨークとかじゃなくてさ」  芦川は、転校してくる前、一年ほどその伯父さんのところに行っ ていただけなのだという。生まれは川崎市内だそうだ。 「なぁんだ」  アレまあ、である。 「だけどアイツ、英語上手いんだろ？」 「うん。でも、ちょっとはアメリカにいたんだったら、僕らより は上手くても当然じゃないの」  芦川はああいうヤツだから、自分で自分のことを宣伝したりは しないと思う。アメリカに住んでいたことがあるという話が、級 友たちのあいだを伝わるうちに、自然とふくらんで「外国育ち」 になってしまったのだろう。そして、今ごろになってそれが訂正 されるというのは、芦川が、それだけみんなになじんで、定着し しょうこ

たという証拠だ。訂正作業の方こそ、本人がやっているんじゃな いのか。 「でも、伯父さんと住んでたことがあるなんてさ、あいつも── 家の中、なんかあったのかな」  ふと思った。今の亘は、どうしてもそういう方に気が行ってし こわ

まう。芦川が変わったヤツで、ときどき怖いようなところがある のも、家庭に原因があるからじゃないのか。 「ミタニは、芦川とはあんまし付き合わないの？」 「付き合わないよ」亘はすぐに言った。「何度かしゃべったけど、 あいつ変なヤツだもん。スカしててさ」

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しょうさい

 この前の神社での会話の詳細──声川にいろいろ言われたとい きおく

うこと自体は覚えているものの、その内容はほとんど記憶にない。 ヴィジョン

 どうやら、亘のなかから〝幻界〟の記憶が消えると同時に、そ ま ど う し

れに関わる周辺の記憶も、一緒に薄れているようなのだ。魔導士 とびら

か

のことも、扉のことも、そこへ駆け込んでいった芦川のことも。 ゆうれい

それだけでなく、芦川への興味や関心もぐっとダウンして、幽霊 きょうはく

くぎ

ビルに近づくなと、ほとんど脅迫的な言葉で釘をさされたことも、 スルリと忘れている。もしも誰かが、ここしばらくの亘の行動や ちくいち

体験を、逐一見守っていたとしたら──そう、ちょうど今これを みな

読んでいる皆さんのように──すぐにもそのことに気がついて、 亘に「おかしいよ」と教えることができるだろう。でも現実には、 そんな便利な存在はどこにもいないので、亘はケロリとしている のだった。 やつ

「実はムズカシイ奴なのかもね」カッちゃんはコントローラーを にぎ

握った。「誰もあいつの家に遊びに行ったことないンだってさ」 にんき

 亘も２Ｐ側のコントローラーを手にした。「実は人気ないんじゃ ないの？」 「宮原とは仲いいんだってね。だけどあいつも家には行ったこと ないんだって」 「カッちゃん、それ誰から聞いたの？」 「サクマに聞いたんだ。あいつホラ、うちのクラスの女子と仲い いじゃん」 「おしゃべりサクマか」 「芦川のこと追いかけ回してたんだけどさ、相手にしてもらえな さぐ

いんで、周りをウロウロ採り回ってんだよ」 「そういうの、ストーカーとか言わない？」

236

「石岡たちはどうなのかな？ 心霊写真のこととか、まだしつこ くしてンのかな。ほら、前にあったじゃんか、図書室で。芦川、 石岡たちに取り囲まれてたよな？」  亘の記憶がちょっと乱れ、そう、あの雨の日の図書室の光景が しりぞ

はら

ま

蘇った。石岡たちを退け、落ち着き払って窓を開けて、亘を真っ す

ひとみ

直ぐに見つめたあの瞳。  ──あのとき、アイツどうやって石岡たちを追い払ったんだろ どろ

う？ 水底の泥が、ボートのオールにかきまぜられて浮かび上が るように、ふわりと疑問が浮かんできた。今の今まで、気にした ゆえ

ことさえなかった疑問。これもまた〝幻界〟と関わりがあるが故 に、亘のなかから消えていたことのひとつなのだが、本人は知る 由もない。 みの

 現実生活がそれどころではなかったのを隠れ蓑に、それらは皆、 ひっそりと亘の心から退場していこうとしている。気づかれぬよ さと

うに、悟られぬように。  〝幻界〟は遠くなる。 ぐれんさんげきしゅう

「オレ、紅蓮三戟蹴からの空中コンボ、バッチリ出せるようになっ たんだ。見たい？」  カッちゃんがニヤリとした。 「見たい見たい。ホントかよ」 「ホントなんだなぁ、これが。おりゃ！」 ひ

 ゲームしているうちに、陽が暮れた。  翌日の放課後、亘は家に寄らず、カッちゃんと一緒に直に小村 家に行った。小父さん小母さんはお店の準備に忙しく、二階の電 話機の周りには誰もいなかった。

237

やすう

 カッちゃんの言葉に嘘はなく、「任せてよ」というのは安請け 合いではなかった。電話をかけたとき、三谷明は会社にいた。席 にいた。だからすぐにつながった。  差し出された受話器を受け取って耳をつけると、心臓が耳の穴 のすぐ内側に移動してきているみたいに、どきんどきんと音がし た。 「もしもし、お父さん？」  店名がよく聞き取れないが居酒屋みたいなところから、お客さ ん忘れ物してませんかという問い合わせがきた──というつもり しゅんかん

で電話に出たはずの三谷明は、瞬間、黙った。亘はその沈黙を、 必死で聞き取ろうとした。 「僕です、亘です」  父はまだ黙っている。 「会社に電話かけたりしてゴメンナサイ。お父さんの携帯電話の 番号、ボク知らなくて。お母さんも教えてくれないし。だけど、 どうしてもお父さんと話したかったから」 こんきょ

すみ

ささや

 何の根拠もない直感が、亘の心の隅で囁いた。デンワ、キラレ チャウヨ。  だが、三谷明は言った。「元気か？」 からだ

ふる

 亘は急に身体が震え出して、受話器を耳に押し当てることさえ 難しくなってしまった。 「もしもし？ 亘、元気なのかい？」  カッちゃんがじっとこちらを見ている。見つめちゃ悪いんだろ うけど心配だからサ、というような顔で、耳たぶをひっぱりなが ら。 「うん──あの、元気です。ちゃんと学校行ってるし」

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「そうか。それならよかった」 「お父さん──」 「このままこの電話で話すのは、ちょっと難しいんだけどね」 「それじゃどうしたらいい？」  少し、間が空いた。明のいるオフィスはとても静かなところで あるようで、何の音も聞こえない。 「今週の土曜日は、学校はお休みか？」 「うん」 「それじゃ、どこかで会おうか。亘と父さんと、二人で」 しび

めぐ

 心の痺れがとれて、急に血が巡り始めたみたいに、じいんとし た。 「うん」 「あんまり遠くない方がいいな。去年だったかなぁ、一緒に本を 借りに行った都立図書館、覚えてるか？」  亘の家から、バス停にして八つ分くらい離れたところにある図 書館である。 「うん、わかる」 「そこの貸出しカウンターの前でどうだ？ お昼に」 「ちょうどお昼？ 十二時だよね？ うん、いいよ、大丈夫だよ」  明は携帯電話の番号も教えてくれた。亘はそれを、急いでメモ おり

かぎ

して復唱した。閉じこめられている檻の鍵を開ける番号をゲット したみたいに、一心不乱に。 「亘──」 「うん、なぁに」 「おまえにこんなことを言うと、怒るかもしれないけれど、その 日は父さん、おまえと二人きりで話をしたい。だから──」

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「うん、お母さんには内緒で行くよ。僕もお父さんと二人で会い たいから」  それじゃ切るよと、明は言った。亘はありがとうと言って、カ チリと切れる音を確かめるまで、じっと耳をあてていた。 「小父さんと会えるか？」カッちゃんが身を乗り出した。 「うん、土曜日に」 みょう

 口から飛び出したその声が、妙にしわしわしているので、そこ でやっと、オレちょっぴり泣きそうなんだと気がついた。 「ミタニ一人で行くの？ 小母さんは？」 「今度はオレだけ。そういう約束だし」 バヤイ

「そっかぁ」意味ありげにうなずく。「そうだよな、この場合。 そいで、気が済むまでしゃべってさミタニの知りたいことを教え てもらってくればいいよな？ オレ、よくわかんないケド、そん な気ィする」 「カッちゃん、ありがとう」 「なんのなんの」カッちゃんは照れた。「オレは、チャッチャッ とやっただけじゃんか」  土曜日まで、気持ちが落ち着かなくて困った。変にソワソワし ねむ

て、お母さんに、どうかしたのかと尋ねられても困る。夜眠って ねごと

いて寝言を言っちゃったらどうしようかなんて、そんなことまで 考えた。 ごろ

 当日の朝は、五時頃に目が覚めてしまった。ひとりでぼんやり リビングに座っていると、あの金曜日から土曜日の朝にかけて、 ルウ伯父さんとここで、二人で過ごした時のことが思い出された。 ふきつ

 その連想が不吉なのか、心理的にはもっともなものなのか、わ からない。ただ気がついたら、亘はあのときルウ伯父さんが頭を

240

ひざ

だ

抱えて座っていたのと同じ場所に座り込んで、膝を抱いていたの だった。  宮原君と一緒に都立図書館に行くと言って、家を出た。邦子は 何も感じていないようで、往復のバス代と、お昼代に五百円くれ あお

まぶ

た。出がけに仰いだ母の顔は、眩しい夏の午前中の光に照らされ、 ざんこく

ふ

ざら

残酷なほど老けて見えた。まるで洗い晒しのカーテンのようだっ た。 かいか

 二時間も早く着いてしまって、開架式の書架のあいだを歩き回 しだい

り、手当たり次第に本を読み散らして過ごした。何を読んでも頭 に残らず、ただ文字の列がアリンコの列みたいにぞろぞろ通過し てゆくだけだった。 きちょうめん

 几帳面な三谷明は、約束の時間もきちんと守る。十二時五分前 に、亘が貸出しカウンターの前に行ってみると、父は来ていた。  アースグリーンのポロシャツに、白っぽいズボン。真新しいス ニーカー。どれも見覚えのないものだ。それに明はレンズの小さ ふち

な縁なし眼鏡をかけていた。お父さんが軽い近視だということは 知っていたけれどそのデザインの、眼鏡をかけているのを見るの は初めてだった。  縁なし眼鏡は、よく似合っていた。 「なんだ、もう来てたのか。待っただろう」  口調は落ち着いていて、静かで、亘の知っている父さんに変わ かげ

りはなかった。あの夜、家を出てゆくときに見せた、翳った顔、 くも

りょうかた

雲った声、落ちた両肩──あれはあの夜限りのことで、今はもう 消えている。 た

 考えてみたら、あれからもう二週間以上経っているのだ。久し ぶりに仰ぐその顔から受ける印象を言葉にしようとして、亘は

241

みは

ちょっとのあいだ、目を瞠って考えた。  上手く──表現できない。お母さんほどじゃないけれど、お父 や

あ

さんも痩せたみたいだ。だけど──褪せてはいない。それよりむ しろ──なんだかそう、お祖母ちゃんがよく使う言い回し── （小ざっぱりとして）  若返ったみたいな感じがする。 （バカだな、そんなワケあるかよ）  父さんが家出して若返るなんて、考えるだけで失礼だ。誰に？  それはえっと、僕にも母さんにも。 「そんなにしげしげ見られると、父さん、きまりが悪いなぁ」  三谷明は微笑してそう言った。亘はあわててまばたきをして、 でも何を言ったらいいかわからず、 「お母さんに、お昼代五百円もらった」  なんてことを口に出した。 こ

づ

「そうか。それじゃそのお金は、こっそりお小遣いにしなさい。 ちそう

お昼は父さんがご馳走するよ。何が食べたい？」  食べたいもののことなんか、全然頭に浮かばない。何でもいい よ、どっかそのへんを歩き回るだけでもいいよ。父さんといられ るなら、何だっていいよ。 「風があって気持ち良いから、公園を歩くか。さっきここへ来る ときも、通り抜けてきたんだ。ホットドッグの屋台が出てたぞ」  亘は父の後について、図書館から公園の方へ向かった。図書館 ひなん

の南側一帯に広がる、震災などの非常時には避難場所になる大き しばふ

ゆる

な公園で、広い芝生は、目にしみるほど青々としている。緩やか えが

ふんすい

な曲線を描く遊歩道をたどって歩いて行くと、中央に小さな噴水 のある円形広場に出る。そこここに人が散っているけれど、運良

242

く空いているベンチが見つかった。 「ここにするか」と、明が言った。 と

 大型のヴァンを改造した屋台は、広場の端っこに停まっていて、 あいそ

雪だるまみたいに太ったおじさんとおばさんが、愛想良くニコニ コ笑いながら商売をしていた。亘がホットドッグとコーラを二人 あ

お

い

すす

分注文すると、ポテトも揚げたてで美味しいよと勧められた。近 ようちえ

寄ってみて初めて気づいたのだけれど、ヴァンの運転席には幼稚 ん

園ぐらいの小さな女の子がいて、コーンカップに載せたバニラア な

イスクリームを舐めていた。おじさんとおばさんの子供なのだろ う、きっと。  明と亘はベンチに並んで座り、昼食を食べた。それどころじゃ なかったから、味なんてどうでもいいやという気持ちだったのに、 パクリとやってみると、それはそれは美味しいホットドッグだっ た。明も感心したようで、昼時、会社の近くに、こういう屋台が 回ってきてくれるといいんだがと言った。いい店が少ないんだよ。  それを言われて亘は、もう何年も前のことだけれど、父さんが お弁当を持って会社に通った時期のあったことを思い出した。一 年間ぐらいだったろうか。そのうちに所属部署が変わって、お昼 も得意先の人と食べる機会が増えたので、弁当は必要ないと言っ て、やめになった。  学校はどうかとか、小村君も元気かとか、一学期の通信簿には おだ

自信があるかとか、父さんは穏やかな声で、いろいろ質問した。 ひた

その平和な雰囲気に浸っていると、家のなかには何事も起こって おらず、ただ二人で散歩に来ているみたいだった。家では母さん ふとん

みが

が洗濯をして布団を干して、父さんの靴を磨いて、父さんのＹシャ ツにアイロンをかけている──

243

 話が少し切れて、沈黙が落ちた。噴水の音がきれいに聞こえる。 「お父さん、いつからその眼鏡をかけてるの？」  入口を手探りするようなつもりで、亘は問いかけた。  明は緑なし眼鏡をちょっと持ちあげて、 「ヘンかな？」 「ううん、似合うよ」  亘の頭の隅を、さわさわっと質問がよぎった。その眼鏡を選ん し

だのは、今いっしょにいる女の人なのかなぁ。幸い、亘が強いて つか

捕まえようとしなかったので、その質問は言葉にならず、どこか に消えてしまった。 「似合うけど、なんだかお父さん、知らない人みたいに見えた。 最初に見たとき」 「ふうん、そうか」  明は言って、また眼鏡をずり上げた。 「そんなはずはないんだけどな」 「お父さん」 「うん？」  言いにくい質問のはずなのに、つるりと口をついて出てきた。 「もう、ゼッタイ家には帰ってこないの？」  明は小さなレンズごしに亘の目を見て、それからゆっくりと視 すう

線をさげた。足元に、ホットドッグからこぼれたケチャップが数 てき

滴落ちている。 「お母さんは、待ってればお父さんは帰ってくるって言ってた。 だから何も心配しなくていいって」  ホットドッグの屋台の周りには、にぎやかにお客さんたちが集 だいはんじょう

まり、大繁盛だ。ベンチもみんな塞がってしまった。亘よりずっ

244

は

と小さな子供たちが、噴水の水をパシャパシャ跳ね散らかして遊 しぶき

んでいる。飛沫が光にキラキラ光る。 「それ、ホントなの？ 僕ホントにそう思ってていい？」  三谷明は眼鏡を外すと、膝の上に置き、両手でゆっくりと顔を な

撫でた。それから、亘の方を見た。 「父さんはずっと亘の父さんだよ」  その言葉は、水面に投げた石が、ひとつふたつ跳ねて、水を切っ はじ

て飛んでゆくように、亘の心の表面を弾いただけだった。 「僕はそんなこと訊いてるんじゃないんだ。わかってるでしょう」  それに母さんは、そういう言い方は卑怯だって言ってた──そ の言葉が、くちびるの内側まで来て、止まった。  明は噴水に目をやった。ベンチを埋めている、楽しそうな家族 連れやカップルに目をやった。しばらくのあいだ、そうやって放 心したように黙っていた。  それから眼鏡をかけ直して、亘に向き直った。眼鏡を外してい きゅうけい

るあいだは休憩で、眼鏡をかけたら仕事が始まる──そんな感じ がした。 「家に帰るというのが、またお母さんと一緒に暮らすという意味 であるならば、それはないよ。おまえの言葉を借りるなら、それ は絶対にない」  こちらから問いかけて、そこに返ってきた答だというのに、亘 しり

はその重さを受け止めきれず、底が抜けたような気がした。お尻 たましい

の底が抜けて、父さんの答もろとも、亘の魂も暗く深い地の底へ 落ちてゆく。 「あの夜も、父さん話したろ？ うんと迷って、やっと決心した から、その決心を貫き通すって。だからもう、家には帰らないよ。

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帰るくらいなら、最初からこんなことは言い出さない。これがと ても大変なことで、お母さんとおまえをどれほど深く傷つけるこ となのか、父さんだってわかっているから」 それなら、なぜ？ 「おまえは頭のいい子だから、ヘンにごまかしたりしないで、最 初から筋道立てて話した方がよかったんだな。それは父さんが間 違っていた」 たんたん

 三谷明は、淡々と続けた。 「何を言ってもおまえを悲しませるだけだろうし、理解してもら うのも、今はまだ無理だと思ったんだ。だから、黙って出ていこ きら

にく

うとした。それでおまえが父さんを嫌いになったり、父さんを憎 ばつ

むようになったとしても、それは父さんが受けるべき当然の罰だ と覚悟していたからね。その気持ちは、今も持っているよ。おま うら

えにどんなに恨まれても、父さんは弁解できない」  亘は何も言えなかった。父の言うことは、確かにとても筋が通っ ていたから。 「おまえの方から、父さんなんかもう僕の父さんじゃないと言わ れても、父さんはそれを受け入れるしかない。罰だから。ただ、 父さんは、たとえおまえが許してくれなくても、ずっと亘の父さ んであり続ける。おまえに対しては、そういう形で責任をとるこ としか、父さんにはできないからな」 とちゅう

 亘はまだ落下の途中だった。父さんからもらった答は、いつの うで

間にか腕をすり抜けて、どこに行ったかわからなくなってしまっ た。亘より先に落ちていったのか。  ひとりぼっちで、ずうっと落ちてゆく。光の届かない縦穴を、 どこまでもどこまでも。耳元でひゅうひゅう風が鳴る。縦穴の入 口はぐんぐん遠ざかり、その緑に立っている父さんも、どんどん

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小さくなる。 「もちろん、これからおまえが上の学校へ行くために必要な資金 は、父さんが負担するよ。お母さんと二人の生活費も、できるだ け何とかして送金する。お母さんと正式に話し合いができるよう になったら、それについては、お母さんが望むとおりにするつも りだ。あの家も、そのまま住んでいてくれていい。あれはお母さ んと亘のものだから。そういう点では、何も心配することはない」  父さんはお金のことを話してるんだ。そうか、お金か。お金は 大切だもんね。 「お父さんは──お母さんと僕のこと、嫌いになったんだね？」  三谷明はかぶりを振った。「そういうわけじゃない。それにこ のことで、おまえとお母さんを一緒にして考えることは、父さん にはできない。一緒にするのは間違いだ」 「どうして？ だって僕のお父さんとお母さんのことだよ。三人 で家族じゃない」 「家族だって、一人一人の人間の集まりだよ、亘。全然別の生き 方をすることだってあるし、一緒には歩けなくなることだってあ る」 「父さんは、今ほかの女の人と暮らしてるんでし？ その人の方 が好きだから、僕らを捨てるんでしょ？ そうなんでしょ？」  緑なし眼鏡の小さなレンズごしに、明の目が大きくなった。心 底驚いているようで、口がちょっと開いた。 「おまえ、誰にそんなことを聞いたんだ？」 「誰だっていいじゃない」 「良くないね。父さんにとっては問題だ。おまえの耳に入れるよ うなことじゃないから、伏せておいたんだから」

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「だけどホントのことだったら、僕は聞きたいよ。嘘は嫌だ。嘘 つきはいけないって、父さんいつも言ってたじゃないか！」  思わず声が大きくなり、近くのベンチの人たちが、亘の方を見 た。赤ちゃんを乗せたベビーカーを押して通りかかった若いカッ プルが、足を止めた。 ふ

 明は手をのばして、亘の背中をちょっと撫でた。触れられるの おさ

が、亘はすごく嫌だった。振り払いたいという衝動を抑えるため に、両手をきつく握って目をつぶった。 「確かに、嘘は良くない」  低くかすれた声で、明は言った。 「だけど、話をねじ曲げて嘘をつくのと、外には出したくないこ とを隠しておくのとは、まったく違うよ。それだけはわかってほ かしこ

しい。わかるよな？ 亘は賢いから」  そんなことはどうだっていいんだ。なんでそんなふうにして、 話を別の方向に持ってゆこうとするんだよ。 「ルウ伯父さんから聞いたのか？」  亘は黙っていた。 「じゃ、千葉のお祖母ちゃんからか？ それとも母さんからか？」  ぐいと顔を上げて、亘は言った。「ホントなのかどうか教えて くれなきゃ答えない」  明はため息をついた。 「しょうがないな……」 にぎ

 噴水の周りには、また賑やかさが戻っていた。誰も、こんな場 所でこんなシンコクな話し合いの場が持たれているなんて、想像 もしないだろう。世の中の人たちは、一人残らずシアワセなのだ。 僕たちを除いては。

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「本当だよ」と、明は答えた。 わき

 その答は、まだまだ落下中の亘のすぐ脇を、風を切って通り過 ぎていった。落ちたのではない。  羽根がはえていて、楽しそうにどこかに飛んでいってしまった のだ。 「父さんはその女の人と、新しい生活をつくりたいと思ってるん なっとく

だ。お母さんが納得してくれて、離婚ができたら、その人と結婚 するつもりだよ」 じひび

 何より先に、あの戦車の地響きが心に蘇ってきて、亘は言った。 「お祖母ちゃんはカンカンに怒ってるよ。絶対に許さないって」  驚いたことに、明は笑った。「うん、よく知ってるよ。電話で さんざん怒られたからね。もう親でもない子でもないと言われた。 かんどう

父さん、お祖母ちゃんに勘当されたんだ」 「カンドーって何？」 えん

「だから、親子の緑を切るってことだ」 「じゃ、お父さんはもうお祖母ちゃんの子供じゃないし、ルウ伯 父さんの弟でもないってこと？」  三谷明は苦笑した。「本当にそうなるわけじゃないよ。ただ、 それぐらい怒ってるんだっていう意味で、お祖母ちゃんはそう言っ たんだ」 「お祖母ちゃんをそんなに怒らせても、お父さんは自分の考えて ることが正しいと思うの？ こういうことが正しいと思うの？」  明は亘の顔をのぞきこんだ。「おまえは、誰か親しい人が怒る からって、自分の信念を曲げることが正しいと思うか？」 「シンネンって……自分にとって大切なことって意味？」 「ああ、そうだ。自分にとって譲ることのできない、大事なもの

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だ」  それなら、今の父さんにとっては、お母さんと僕を捨てるって ことが、そんなに大事なことなんだろうか。 「お父さんの信念って、何さ。お母さんすごく悲しんでるし、お 祖母ちゃんは怒ってる。ルウ伯父さんは頭抱えてばっかりいるよ。 それでも守らなくちゃならない信念って、何なんだよ」 となり

ねんぱい

 隣のベンチに座っている年輩のおじさんとおばさんが、亘の言 葉の端っこを耳に留めたのか、さっきからこちらを見ている。明 もそれに気づいたのか、ちらっと彼らの方を見て、険しい顔をし た。 そろ

 隣のベンチのおじさんとおばさんは顔を見合わせ、揃って手に していたソフトクリームを舐め始めた。 「父さんの信念か」明は繰り返した。「それを知らないと、納得 できないんだな？」 お

「うん」亘はきっぱりうなずいた。でも内心では怖じ気づいてい ふ

た。父さんを追いつめてしまったというか、踏み込み過ぎてしまっ たというか、開けずに通り過ぎるべきだったドアを開けようとし ているというか、そんな気がしてたまらなかった。テレビゲーム こうりゃくぼん

みたいな攻略本があればいいのに。この部屋は、わざわざ入って てごわ

も手強い隠しボスがいるだけだ、レベルが五十を超えないうちは 無視して通り過ぎた方がいいって、教えてくれるような。 「父さんの信念は」三谷明はゆっくりと言った。「人生は一度し かないってことだ」  ジンセイハイチドシカナイ。 「だから、間違ったと思ったら、たとえどれほど苦労があっても、 困難があっても、やり直せることはやり直す。一度しかない人生

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こうかい

に、後悔を残したくないからな」  重々しい口調で放たれた言葉だけれど、亘の頭に残ったのは、 「マチガイ」という単語だけだった。  父さんの人生はマチガイだった。  それじゃ、僕は？ 「お父さんは、お母さんと結婚したのがマチガイだって言ってる の？ そしたら、お父さんとお母さんの子供の僕も、やっぱりマ チガイなの？ そういうこと？」  明はかぶりを振る。「そうは言ってない。そういう意味じゃな い」 「じゃ、何がマチガイなのさ？ 僕にはわからないよ」 「だから、これは今のおまえにはまだ理解できないことなんだ。 大人になって──いくつか辛い経験をすることがあって、それで、 やっとわかることかもしれない。わかるようになるのが幸せかど うかは、また話が別だけどな」 めいろ

 迷子になってゆく。聞けは聞くほどに迷路が複雑になってゆく。 いつも父さんの説明を聞くと、どんな面倒くさいことでも、スッ ことがら

キリとわかる気がした。こんがらがった事柄でも、父さんがほど いてくれると、きれいに整理されて見えるような気がした。  だけど今は、まるっきり逆だ。父さんがしていることは、それ 自体はとってもシンプルだ。父さんは母さんと別れ、僕を置いて 家を出て、別の女の人と結婚したい。たったそれだけのことだ。 それなのに、説明を求めると、どんどんこんがらがってゆく。 ゆ

 明は片手をのばして、亘の肩をつかんだ。ゆっくりと揺さぶり ながら、こう言った。 「ひとつだけ、しっかりと覚えておいてもらいたいことがあるん

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だ。父さんと母さんがどんな間違ったことをしようと、失敗をし ようと、それはおまえにはまったく関係ない。おまえは独立した 一人の人間なんだから。いつも父さん、言ってきたろ？ 子供だっ てひとつの人格で、親の付属品じゃないって。だから、父さん母 さんの結婚が失敗しても、おまえはその結婚の失敗作なんかじゃ ないんだ。これだけは、絶対に忘れないで覚えていてほしい。だっ て真実なんだから」  亘は肩を揺さぶられながら、ゆらゆらと首を振った。「お母さ んは、ケッコンが失敗したなんて思ってないよ。だから悲しんで るんじゃないの？」 「それはお母さんが、まだ現実を真っ直ぐ見る勇気を持てないで いるからだ」 みけん

 明の眉間にしわが寄った。 「ちゃんと顔を上げて現実に向き合えば、どうしようもなくはっ きりわかることなのに。失敗は失敗だ。最初から失敗だった。ご まかしばかりだったんだから」  お母さんはいつも家のなかをきれいにしてたよ。ちゃんとご飯 だってつくってくれたよ。朝寝坊だって、そんなに何度もしなかっ たよ。千葉のお祖母ちゃんと喧嘩することもあったけど、でも仲 直りもちゃんとしてたよ。 「お母さんは何も悪いことしてないよ。失敗なんてしてないよ」 めずら

 亘は呟いた。そして、珍しく──本当に珍しく、父が冷静さを いらだ

失い、苛立ちを顔に出していることに気がついた。そして早口に、 急いで何かを押し流すみたいにして、一気に言うのだった。 「悪いことがイコール失敗だってわけじゃない。悪いことは何も しなくても、失敗することはある。むしろ、その時には良かれと

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思ってやったことが、長い年月が経ってみると、失敗だってわか るってことの方が多いんだ」  隣のベンチのおばさんが、ソフトクリームを舐めるのをやめて、 こっちを見ている。コーンの縁から、溶けたソフトクリームがス カートの上にボタボタ垂れていることにも、まったく気づいてい ないみたいだ。 「おい」と、おじさんが低く言って、おばさんを肘でつついた。 「垂れてるぞ」  あらヤダとあわてて、おばさんはスカートを拭った。亘はそれ なが

を、ぼんやり眺めていた。おじさん、おばさん、僕らの話、聞こ えてるんでしょ。わかりますか？」通訳して教えてくれませんか。 僕の父さん、何が言いたいんだろう？ 「僕にはわからない」  亘が小さく言うと、明はうなずいた。 「わからないだろう。わからなくていい。これは父さんの間違い だ。今日おまえと会ったのも間違いだ。ちゃんと説明なんかでき ないし、ただおまえを傷つけただけじゃないか。な？ そういう ことだ」  父が「そういうことだ」という言い回しを使うときには、「こ サイン

れで話は終わりだ」という合図だ。今まで、世の中のいろいろな 事柄について、数多くの「どうして？」という質問を父にぶつけ て、たくさんのやりとりを積み重ねて、答をもらったりヒントを つかんだりしてきた亘は、そのことをよく知っていた。 も

 思わず、大きな吐息が漏れた。今まで息を止めていたみたいな いきつ

気がした。二十五メートルプールを、一度も息継ぎせずに泳げる だけ泳いで、とうとう苦しくなって足をついたみたいな感じがし

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た。  呼吸が戻ると、現実感も戻ってきた。そして、とても簡単で、 あわ

最初からそこにあった考えが、泡のようにぽかんと浮かび上がっ てきた。それはそのまま、口をついて出た。 「だけど結局は、お父さん、お母さんじゃない女の人を好きになっ て、その人の方が良くなっちゃった、そういうことなんでしょ？」  三谷明は返事をしなかった。両眉をひそめて、眼鏡の緑に指で 触れて、地面を見つめている。  噴水の飛沫が、亘の方まで飛んできた。 「そう思いたいなら、そう思っていていい。それでいいよ」と、 明は言った。  帰ろう──と、明は立ちあがった。 「バス停まで父さんが送ってゆくよ」 「いいよ、僕、もうちょっとここにいる」 「だだをこねるもんじゃないよ、亘」 「だだじゃないよ、図書館に寄っていきたいだけだよ」 「こんな話の後で、おまえ一人だけ置いて父さんが帰るわけいか ないじゃないか」 「僕なら平気だよ。ちゃんと帰れる」  だから父さんは、安心して帰ればいいよ。シッパイじゃない女 の人のところに帰りゃいいじゃないか。  亘はもう、父の目を見なかった。  頑なにべンチに座り続ける亘の前に立ちはだかり、三谷明は黙っ ている。亘は地面を見つめて黙っている。  噴水の飛沫が、風に混じって飛んでくる。冷たい。若い女の人 の笑い声が聞こえる。赤ちゃんが泣いてる。

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「なあ、亘」明は口を開いた。  亘はじっとしていた。 「父さんに会うって──おまえ一人で考えたことか？」 「カッちゃんに手伝ってもらったよ」 「そうじゃない。考えたのは、おまえ一人かって訊いてるんだ」 おび

 亘は目を上げた？ 父さんはなんだか──怯えているみたいに 見えた。 「どういうこと？」  三谷明はくちびるの端をちょっと曲げて、言葉を探すみたいに 間をおいた。両手をポケットに突っ込むと、視線をさげた。 「お母さんに頼まれたんじゃないのか？」  よく聞き取れなかった。「え？」 「お母さんに、お父さんに会って、家に帰ってくれるようお願い してきなさいって、そう言われたんじゃないのか？」  亘はぽかんと口を開いた。 「──そんなことじゃないよ」 「そうか」明は難しい顔のままうなずいた。「それならいいんだ。 もしもお母さんがそんなことをしたんなら──そんなふうにおま えを利用しようとしたんなら、良くないからな。確かめておきた かったんだ」 「お母さんはそんなことしないよ」  僕には、お父さんは出張に行ってると思いなさいって、そう言っ たんだ。 「僕、内緒で出てきたんだ」  明はほっとしたというように、両肩を大きく揺らした。 「ホントだよ」

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「うん、わかった。それじゃ父さんは帰るよ。おまえも気をつけ て帰るんだよ」  歩き出しかけて、ちょっとためらい、 「携帯電話になら、いつかけてきてもいいからな。父さんと話し たくなったら、かけておいで。宿題のことでも、何でもいいから」  一人になってぽつんと腰かけていると、どこかから小さな声が した。あまりに疲れ果てて、空っぽになってしまっていたので、 注意を集中するのが難しく、聞き取れない。 「──坊や」 たた

 肩を軽く叩かれて目をやると、さっきまで隣のベンチに座って いたおばさんが、すぐそばに立っていた。スカートの上に、ソフ せた

トクリームのしみが残っている。小太りで、亘と同じくらいの背 け

丈で、とっても丸まっちい。かがんで、ちょっと笑顔をつくって いる。 「坊や、どこまで帰るの？」 ふくろ

 空っぽの袋みたいになってしまっている亘には、声がなかった。 「もしよかったら、おばさんたちと一緒に帰らない？」 ふ き げ ん

 おばさんの後ろでは、おじさんが困ったような不機嫌そうな顔 をしている。  亘の口から、自分のものとは思えないような、合成音声みたい な、平べったい声が飛び出した。 「僕、図書館へ行くから」 「そう。坊やのおうちは遠くないの？」  亘はもう一度、「図書館へ行くから」と言って、立ちあがった。 「おい、よせよ」おじさんが後ろからおばさんを小突いた。「余

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計なお世話だ」 そで

 おばさんはおじさんのシャツの袖をつかんだ。「だって心配じゃ ないの、こんな小さな子が──」  亘は二人を置いて、図書館の建物の方へと歩き出した。 「あ、坊や！」おばさんが大声で呼んだ。「ソフトクリーム、食 べない？」 いさ

 バカやめとけよと、おじさんが諌めている。 「しかしなぁ……」  少しずつ、ゆっくりと二人から遠ざかってゆく亘の耳に、おじ ぱし

さんの言葉の切れっ端が、ひらりと届いた。 「世間にゃホントにいるんだなぁ。ああいう手前勝手な親が」  おばさんが、「男なんてナントカカントカ」と言ったのも、ち らりと聞こえた。  もう落下しているような感じはしなかった。落ちるだけ落ちて、 底に着いたのだ。どのぐらいの深さで、どのぐらいの広さの、ど こに通じている何の底だかわからないけれど。図書館の入口が見 えるところまで行って、振り返ってみた。おじさんもおばさんも、 は

で

もういなくなっていた。亘と明が座っていたベンチには、派手な ウィンドブレイカーを着た若いカップルが座っていた。隣のベン しぶき

まぶ

チは空いている。噴水の水飛沫が眩しい。  ここにこうして立っているのに、ここにいないような感じがす る。亘は底に落ちてコナゴナになって、水飛沫よりもまだ小さく なって、そこら一面に飛び散っているのかもしれなかった。

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11 秘密

 それから夏休みまでのわずかな日数を、いったいどんなふうに、 どんな顔をして過ごしたのか。後になって思い出そうとしても、 な

どうしても思い出せなかった。それくらい、何にも失くなって、 何でもなくなって、何もしなくなって生きていた。 お

じ

 生活には変化はなかった。またルウ伯父さんが訪ねてきて、亘 おそ

とは夏休みの打ち合わせをして、夜遅くなってから、リビングで 母さんとヒソヒソ話し込んでいたということはあったけれど、何 の話だったのかどんな結論が出たのか、亘には知らされなかった。  三谷邦子は本当に、明が長い出張に行っている時と同じ暮らし 方をしていた。そういう意味では、彼女の言葉には嘘がなかった。 み

はみが

亘と二人の夕食で、テレビを観て笑うこともあるし、亘が歯磨き ね

おこ

しないで寝てしまったと怒ることもある。夜九時過ぎにカッちゃ んから電話がかかってきたときには、今までとまったく同じよう な口調で、 ちが

「お店をやっているようなおうちと、我が家は方針が違うんです しか

からね」と叱られた。亘にはけっして甘くない、今までどおりの 母さんだった。  終業式の前日、朝起きてみたら、亘の右のほっべたがパンパン は

に腫れていた。痛くて口を開けることもできない。母さんにのぞ きこんで見てもらうと、 はぐき

「歯茎が腫れてるわよ。歯医者さんに行ってらっしゃい。今日は 学校、休んでいいから」

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 どちらにしろ、もう一学期の授業は終わったようなものだし、 すなお

この有様ではプールにも入れない。亘は素直に言うことを聞いて、 午前中から歯医者の待合室に座った。 しにくえん

めずら

 虫歯ではないと、先生は言った。歯肉炎だよ。子供には珍しい かた

んだけどね。最近、硬いものを食べて□のなかを切ったりしなかっ た？ 歯ぎしりをするクセがあるって、お母さんに言われたこと ない？ ちりょう

 治療が済むと、腫れはまだそのままだったけれど、痛みはずい ぶんと軽くなった。少し熱が出るかもしれないよと言われたとお つ

ゆ

り、寒気がする。梅雨が明けて太陽全開の道を歩いても、あまり あせ

汗をかかなかった。  家に帰ると、母さんは買い物に出かけていた。テーブルの上に メモか置いてある。 「新しいパジャマを着て寝なさいね」  そんな大げさに着替えて寝込むほどの状態じゃない。ソファで ゴロ寝でいいや。ゴロンと寝っ転がったところに、電話が鳴った。 ば

あ

 千葉のお祖母ちゃんかな。ルウ伯父さんかな。小田原のお祖母 ちゃんかな。ついこのあいだ、小田原のお祖母ちゃんからの電話 いや

に出たら、すぐ泣くんだもの、嫌だった。  のろのろと受話器を持ちあげると、女の人の声がした。聞き慣 れない声だ。セールス？ 「三谷邦子さんでいらっしゃいますね？」  お母さんはいませんと答えようとしたのだけれど、口が腫れて ますい

いるのと、治療の際にかけられた麻酔がまだ切れていないのとで、 しび

うまく言えなかった。亘が痺れたくちびるに手こずっているあい だに、女の人の声はどんどん先をしゃべってしまう。

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どうりょう

「昨日、また会社の方にお電話をいただいたそうで、同僚から聞 れんらく

きました。前回お話をした時に、会社には連絡しないとお約束を いただいたはずですが、お忘れでしょうか」 ていねい

ことばづか

 きれいな声だし、丁寧な言葉遣いだけれど、なんか怒ってるみ たいな感じがする。声がうわずってるような──それに早口だし。 こんなセールス、あるかなぁ？ 「こういう──嫌がらせのようなことをされては、わたしも人間 ですから、感情を害します。それにそもそも、わたしはわたした ちが顔を合わせても、あまり有意義な話し合いにはならないと思っ ております」  あの、間違い電話じゃないですかと、亘は言おうとした。する と、聞き慣れないきれいな声の女の人は、丸めたものをぶつける みたいな勢いで、こう言った。 「明さんは、あなたがこういうことをお続けになるようでしたら、 りこん

離婚裁判になってもいいと言っています。彼も怒っているんです かしこ

よ。あんまり賢いやり方とは言えないんじゃないかしら。わたし が申しあげたいのはそれだけです。もう二度と職場に電話をかけ ないでください。わたしの上司も、部下の私生活のことを会社に めいわく

持ち込まれるのは迷惑だと、はっきり申しておりますので」  それでは──と、相手が電話を切る気配がしたので、亘は大声 を出した。「お母さんじゃなヒれす──」 ちんもく

 キーンというような沈黙がきた。亘の声が、受話器のなかいっ はんきょう

ぱいに反響している。 「もし、もヒ」麻酔でふくれあがったような感じのするくちびる を動かして、亘は必死で言った。「僕は、三谷、ワタルれす」 だれ

の

 電話の向こうで、誰かが息を呑むような、かすかにあえぐよう

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な音がした。それから、ガチャンと切れた。  短いあいだに、亘は冷汗びっしょりになっていた。じわりと流 にんしき

からだ

し

れる汗と入れ替わりに、認識が身体に染みこんできた。  あれは、父さんの、女の人だ。 いっしょ

 今、三谷明が一緒に暮らしている女性だ。邦子との結婚を解消 して、新しく結婚したいと望んでいる女性だ。  アナウンサーみたいな声してら。亘はそう考え、そんなことし かすぐには連想できない自分に嫌気がさした。 ひざ

ぬ

 膝から力が抜けて、その場にしゃかんでしまった。するとその とき、ここしばらくのあいだ忘れていたけれど、確かに聞き覚え のある甘い声が、小さく呼びかけてきた。 「ワタル、だいじょうぶ？」  亘はびくりとして、へたりこんだまま周囲を見回した。もちろ ん、誰がいるはずもない。あの甘い声。正体不明の女の子の声。 「ワタル、泣かないで。わたし、あなたのそばにいるから」 やさ

な

 どこからともなく投げかけられる言葉に、心が優しく撫でられ るようだ。 「君、どこにいるの？」  宙に問いかけると、女の子の声はすぐに返ってきた。「だから、 あなたの近くよ」 「だったら、どうして姿が見えないのさ？」 「わたしにはあなたがちゃんと見えてる。でも、あなたからわた しを見ることはできないのね」  女の子は小さくため息をついた。実際にはそんなことできない といき

けれど、もしもその吐息を感じられたなら、きっとキャンディの にお

ような匂いがするに違いない。

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「ワタル──このところずっと、わたしのこと忘れてたね？ わ たしがあなたに話しかけたこと、忘れてたね？」 つら

ことがら

 言われてみればそうだった。あまりにも様々な辛い事柄に場所 よゆう

を取られて、見えない女の子のことを考えるだけの余裕など、亘 のまだ小さな心のどこを探しても見あたらなかったのだ。  それどころじゃない、以前にこの不思議な女の子の声に話しか さぐ

けられたこと、彼女の正体を探ろうと試みたこと、写真を撮った かす

こと──それらのことさえも、ひどく遠く霞んだ思い出に見える。 きおく

確かに記憶には残っているけれど、気持ちがくっついてこない。 「そうだね……僕、君のこと忘れてた」 「それはきっと、あなたが番人に認められた旅人じゃないからな んだわ」 とが

 女の子は、怒ったように声を尖らせた。 「あなた一度、こっちに来たでしょ？ でも追い返された。だか うす

ら記憶が消えてるの。わたしのことも、その記憶と一緒に薄れて る」  そんなことを言われても、亘にはピンとこない。そう、事実は 彼女の言うとおりなのだが、だからこそ亘は忘れているのだ。 「こっちって、どっち？」 も

 亘のぽかんとした問いかけに、女の子はまたため息を漏らした。 ヴィジョン

「〝幻界〟よ──って言ったって、今のあなたには何が何だかわ からないんだろうね」  うん、わかんないよ。 「とにかくワタル、わたしはあなたの味方よ。あなたが何とかこっ ちに来てくれたら、いろいろなことをして助けてあげられるの。 お願い、もう一度〝幻界〟に来る方法を探してちょうだい。あな

262

たなら、きっとできるわ」  亘は、これは夢かな──なんて考えていた。さっき受けたショッ クのあまり、夢を見てるんだ。きっとそうだな。  父さんの女の人から電話がかかってきたことを、亘は邦子には しゃべらなかった。 つか

 それでなくても母さんは、今日は特に疲れてぐったりしている ように見えた。どこまで買い物に行ってきたのか、帰ってきたの ぐつ

は初夏の長い一日が暮れかかったころで、夏用の外出靴は、すっ ほこり

かり埃だらけになっていた。 ねむ

ぬ

 その夜、邦子が眠ってしまってから、亘はそっと家を抜け出し た。  最初は、どこへ行こうとはっきり意識していたわけではなかっ すず

た。ぐるっと散歩して、何となく夜空を見て、涼んで帰ってきて じ

もいい。公園のブランコを独り占めしてもいい。とにかく、気分 を変えたくて外に出た。  歩きながら思いついた。そうだ、これからいきなり訪ねて行っ お

ば

て、カッちゃんをビックリさせようか。小村の小父さん小母さん あ さ っ て

は、もう明後日からは夏休みなんだし、泊まっていけって言って くれるかもしれない。そしたら二人で、夜通し『ストリートファ イターＺＥＲＯ３』で対戦できるじゃんか。母さんだって、今は ち

亘がカッちゃん家に泊まったぐらいで怒ったりしないだろう。  そうやって歩いてきたはずなのに、ふと気がついたら、大松さ ゆうれい

んの幽霊ビルが見えるところに来ていた。三橋神社の木立が、夏 ゆ

のどんよりした夜気のなかで、重たげに葉を揺らしている。  なんでここに来たんだろう？ まるで──知らないうちに誰か

263

に呼ばれたみたいだ。  亘はふらふらと幽霊ビルに近づいていった。それもまた、誰か に招き寄せられているみたいだった。  シートの内側に人の気配がする。一人二人じゃない。押し殺し すご

たような声だが、やりとりをしている──いや、なんか凄んでる。 すばや

もぐ

 亘はシートを持ちあげて、内側に素早く潜り込んだ。すると目 こぎたな

の前に、ゴムサンダルをひっかけた小汚い二本の足がにゅっと立っ ていた。 「わ、なんだコイツ！」  足の持ち主が、亘に気づいてあわてた声を出した。亘はゴムサ ふ

いっし

ンダルに踏みつけられないように、あわてて横に転がったが、一 ゅん

ようしゃ

わきばら

け

瞬遅かった。容赦もなければ手加減もない勢いで脇腹を蹴り上げ られて、息が停まり目の前が真っ白になった。 「誰だよコイツ、おまえの友達か？」 と

だ

 途絶えそうになる、ギリギリ一歩手前のところでこらえている 亘の意識が、誰かの話し声をキャッチする。 「おまえが呼んだのか？ まさかそんなことないよな」 たよ

「加勢にしちゃ頼りないしなあ」 しょうてん

もど

 ブレていた世界の焦点が、やっとこさ中央に戻った。蹴られた は

ところがうずいて吐き気がしたが、亘は必死に起きあがった。 かいちゅう

あか

 シートの内側は、大型の懐中電灯の灯りで照らされていた。強 かけ

力な灯りに、なかにいる人間たちの影が長く延びて、そちらの方 こそ本体であるかのように、ぴょいぴょい動き回っていた。  亘のほかに、三人いる。懐中電灯を持っているのは──ほかで もない、石岡健児だ。六学年の問題児。こいつがいるっていうこ こしぎんちゃく

とは、あとの二人は腰巾着たちに決まってる。ああ、ホントだメ

264

そろ

ンツが揃ってら。 ふ

 石岡たちが、ここで何やってんだ？ 頭を振って、目の前の現 とら

こ

実を捉え直すために目を凝らして、そこでやっと、四人目の人物 うつぶ

がいることに気づいた。地面に俯せにされている。その背中の上 に、石岡の腰巾着の一人が乗っかって、膝で背骨をグリグリやっ ている。 は

 四人目の人物の顔の半分ぐらいを、ベタベタと貼りつけられた かく

ガムテープが隠している。それでもよく見れば、すぐに誰だかわ おどろ

しんどう

かった。亘は驚きで「あっ」と声を出し、自分の声の振動で脇腹 りょううで

だ

がぐっと痛んで、思わず両腕で身体を抱いた。 ふさ

つぶ

 ガムテープで口を塞がれて、石岡の腰巾着に押し潰されそうに なっているのは、芦川美鶴だった。両目を大きく見開いて、こぼ ひとみ

うった

れそうなほどの瞳で亘を見つめている。何か必死で訴えかけてい るみたいだ。 「な、なんてことしてんだ。ヒドイよ」 こわ

 亘は言葉を吐き出したが、おなかに力が入らないのと、怖くて ビビッているのとで、声しか出なかった。 げ

び

 石岡たちは笑い転げた。この下卑たゲラゲラ笑い、シートの外 かんぬし

まで聞こえないのだろうか？ 三橋神社の親切な神主さんは、いっ たい何をしてるのだろう？ おもしろ

「へえ、コイツ面白いこと言うぜ」 「ヒドイよぉ、だってさ」 あざわら

 石岡たちが嘲笑う。どうしても立ちあがれないので、亘は地面 ひざ

がしら

に膝立ちになった。そうやって膝頭で歩いて、芦川のそばに近寄 ろうと動き出したら、もう一人の腰巾着に、いきなり頭の横側を 蹴られ、もんどりうって地面に転がった。

265

 どすん！ 大きな音だ。どうして大人が助けに来てくれないの そうどう

も

だろう？ 何でこの騒動が外に漏れないのだろう？ 「命中ゥ！」 「側面蹴りっていゥんだろ、これ」 「俺にも一発やらしてよ。練習、練習」 いちげき

よ

 次の一撃が飛んでくるのを、亘はなんとか避けようと思ったの だけれど、頭がクラクラして目が回り、どうにもならなかった。 膝蹴りの一発を、背中のど真ん中にきれいに決められてしまった。 たお

 どっと倒れると、芦川の顔が目と鼻の先にあった。視線がぶつ かった。  亘は今にも気絶しそうで、もう痛みも何も感じず、身体は熱が ほ

て

せば

あるみたいに火照り、視界が狭まって上下もはっきりしなかった。 とら

それなのに芦川の大きな黒い瞳は、亘の両目をしっかりと捉えた。 こぶね

いかり

ただその視線の力だけで、亘は揺れる小舟が碇につなぎ止められ るように、かろうじて意識を保っていた。  芦川が何か伝えようとしている──ガムテープの下で、口を動 かして。 は

（剥がせ） おお

 口を覆っているテープを剥がせって？ （剥がせ、早く！） きせい

しり

 石岡がうひょーとかいうような奇声をあげながら、亘の尻を踏 んづけた。どっと笑い声があがる。反動で亘の身体が跳ね上がり、 右手が動いた。 （そうだよ、手を動かして、剥がしてくれ）  だけど気絶しちゃいそうだ。息をしても息をしても息ができな

266

いんだよ。  信じられないことだけれど、亘の右手が勝手に動いてゆく。芦 川の顔の方へ。べったりと貼りつけられたテープの方へ。 おど

 黒い影が頭上で躍ったかと思うと、石岡のボディプレスが決まっ た。芦川と亘は、あばら骨がぽきんと鳴るほど強くおっぺされ、 ほっぺたが地面に押しつけられた。 かんせい

「やりィ！」と、歓声があがる。  いったい何のために芦川をここに連れ込んで、彼に何を要求し てたんだかわからないけど、石岡たちってバカだからミジンコほ さわ

どの知能もないから、いったんこういうバカ騒ぎを始めると、元 の目的なんかどこかへ行っちゃって、ブレーキがきかなくなっちゃ うんだ。このままだと殺されちゃうかもしれない。 はし

 亘の右手がまた動く。芦川の口元のテープの端をつかむ。  ──ベリッてやったら痛そう。  一瞬、そんなことを思ったけど、手はためらいなく左から右へ 動いて、テープを取り去った。一枚。続いてもう一枚。 「あ、何やってんだよコイツ！」  石岡の腰巾着が、亘の動作に気づいて近寄ってきた。だがそれ ねんちゃく

よりも一瞬早く、亘は芦川の顔のテープを剥がしきり、まだ粘着 力の残るテープを指先にくっつけたまま、右手ががくんと地面に 落ちた。 しっこく

かがや

 芦川の両目が漆黒に輝いた。彼はぐいと首を持ちあげて、石岡 にら

たちを──いや違う、幽霊ビルの内側の空を睨んだ。  腫れあがり、血のにじんだ芦川のくちびるが開いて、言葉が流 れ出す。 めいかい

のっと

こ

やみ

「大いなる冥界の宗主よ、我、盟約に則りここに請い願わん。闇

267

つばさ

けんぞく

いにしえ

けいやく

もっ

と死者の翼の眷属よ、我ここに古の黒き血の契約の印を以て呼び かけん──」  石岡の手の中の懐中電灯が、ぱっと消えた。「わ、ど、どうし たんだ？」  石岡がうろたえて、よろよろと後ずさりした。シートに映った 彼の影もよろけた。  亘はガンガンと痛む頭を横に向けて、何とかして石岡たちの方 おそ

に視線を向けた。変だった。恐ろしく変なことが起こっていた。 ゆいいつ

懐中電灯は消えたのに、唯一の光源がなくなったのに、シートの きみょう

内側は奇妙に明るくて、さっきまでよりも、みんなの顔がはっき り見える。 うた

 芦川の声が続いている。謳うような調子を付けて、言葉ははっ きりとしていて、ああそれになんてきれいな声なんだろう。 あだ

くおん

じゅばく

あた

たま

「我に仇なす敵に久遠の死の眠りを、解けぬ氷の呪縛を与え給え。 いで

むすめ

サキュロズ、ヘルギス、メトス、ヘルギトス、出よ暗黒の娘、バ ルバローネ！」  呪文のような言葉が終わると、なぜあたりが明るかったのか、 亘にもわかった。芦川と亘と、石岡たち三人のちょうど中間あた りの地面が、白っぽく輝いているのだ。そこから放たれる青白い 光で、周りが明るくなっているのだ。  ──いったい何が？  輝いている場所は、マンホールよりも小さいくらいで、形も丸 い。そこがみるみる盛りあがってくる。何かが地面から生まれ出 ようとしているかのように。  ──そんなバカな。 やわ

 固いはずの地面が、輝いている丸い場所だけ、粘土のように柔

268

らかく見える。そこから今──人の頭が──頭の形ができてきた。 かた

首が出て、肩が出て、両手を胸の前で組み合わせていて、ほっそ どう

りとした胴が出てきて、なまめかしい腰の線が出てきて、  ──女の人だ。  真っ黒な粘土でできた、女の人の形のマネキン。  石岡たち三人が、腰を抜かして口を開けている。その前で、地 面から生まれ出た真っ黒なマネキンが両手を広げた。豊かな胸が 丸見えになったけれど、やっぱりそこも真っ黒だった。  のっべらぼうの顔に、目が開いた。  金色の目だった。白目が全然なかった。真ん中に一筋、漆黒の ねこ

ひょう

線が入っているだけだ。猫みたいだ。豹みたいだ。 にえ

「ようこそバルバローネ。美しいあなたへの生け贅です」  芦川が顔を輝かせ、俯せの姿勢のままで、できるだけ高く頭を 持ちあげて、謳いあげるようにそう言った。  真っ黒なマネキンは、手を広げたまま、石岡たちの方へ向きを 変えた。三人はバカみたいにすくんでいるだけで、声も出さなけ に

れば逃げようともしない。 とが

つめ

 マネキンの両手の先から、尖った爪がうねうねとはえ始めた。 の

それと同時に、腕の後ろ側から、身体よりもなお黒い翼が伸びて きた。  亘は地面に倒れたまま、首をよじって頭を横に向けて、目の前 で起こっている信じられないような光景を見つめていた。自分で うれ

も怖いのか嬉しいのかわからないけれど、気がついたら笑ってい た。声は出せず、ただ口元が『不思議の国のアリス』に出てきた チェシャ猫みたいににんまりしていたのだった。  芦川に〝バルバローネ〟と呼ばれた異形の真っ黒な女は、長い

269

あし

脚をするりと動かして、石岡たち三人の方へ、一歩また一歩と近 わた

づいてゆく。背中の翼はすっかり伸びきり、その差し渡しは二メー かぎ

トル以上もありそうだ。両手の爪は見事な鈎形で、バルバローネ ゆうが

が優雅に手を空に泳がせ、ポーズをつけるように指先を宙に差し あげると、カチリと音がした。 すみ

 石岡たちはビルの隅まで後ずさりして、もう逃げ場がなくなっ て、てんでにすがりあうような格好で、やっぱり亘と同じように、 バルバローネに見とれていた。三人とも血の気が失せて、真っ白 みは

な顔になっている。大きく瞠った両目。半開きの口元。恐ろしさ にすくんでいるようにも見えるし、ちょっとばかり喜んでいるみ たいにも見える。  でも亘はバルバローネの背中を見ており、彼らはバルバローネ あお

の顔を見ている。石岡なんか、食いつくようにして彼女の顔を仰 いでいる。何か言いたそうにくちびるが動く。実際、言葉が漏れ てるみたいだ。でも聞き取れない。あまりに小さな声だし、バル バローネの爪がまた、  カチリ  と打ち鳴らされる音に気をとられて。  バルバローネは今、どんな表情を浮かべているのだろう？ ふ め

たつの金色の眼は、どんなふうに石岡たちを見つめているのだろ う？ つぶや

「お、俺」と、石岡がうわごとのように呟いた。「行くよ、そっ ちに行く」  問いかけに対する返事みたいな言い方だった。まるで、バルバ ローネに「私と共に来るか」と問われて答えたみたいだ。だけど、 誰も何も言っていないのに。石岡はおかしくなっているんだ。

270

え

 とろけるような笑みが、石岡の顔いっぱいに広がった。ふらふ らと立ちあがって、バルバローネに歩み寄る。腰巾着の二人は、 はな

石岡から視線を離すことができないまま、しつかりと抱き合って しゃがみこんでいる。二人とも口があわあわ動いている。 しぼ

「ケンちゃん──」と、どっちかが泣くような声を絞り出した。 「ダメだよ、やめなよ、ダメだってばよう」  石岡は何も聞いていない。何も見ていない。バカみたいにバル バローネを見あげて、今や彼女のすぐ目の前にまで近づいて、そ こで両膝を地面に着くと、両手を大きく広げた。 「俺、行くよ──」  バルバローネの両肩が、するりと動いた。 せんたん

 肩の動きが腕に伝わり、翼の先端にまで伝わり、彼女の漆黒の ふる

こんきょ

身体全体が、さざ波のようにさあっと震えた。何の根拠もなく、 でも絶対の本能的な確信で、亘は思った。身震いしたんだ、嬉し えもの

くて身震いしたんだ。まるで──獲物に食いつく瞬間のケモノみ たいに。  翼の両端がピン！ と伸びきった。  スイッチを切ったように、石岡の顔から笑みが消えた。  そして出し抜けに、彼は悲鳴をあげた。理性のブレーキも意志 む

のコントロールもない、剥き出しで手放しの悲鳴だった。 おそ

 バルバローネが石岡に襲いかかった。しなやかな黒い両腕が、 ひき

へび

二匹の蛇のようにぐるぐると彼の身体に巻きついた。バルバロー ネが前にかがんだかと思うと、その真っ黒な頭が、いきなり、ア くず

メーバみたいにどろんと形を崩して、十倍ほどの大きさにふくら んだ。そして腕のなかにからめとった石岡を、頭のてっぺんから た

丸呑みにしてしまった。石岡の悲鳴は、鉄で断ち切られたみたい

271

や

にピクリと止んだ。  真っ逆様に呑みこまれるとき、彼のスニーカーの片方が、勢い ぬ

余ってスポンと脱げて、亘の足元まで転がってきた。  亘は目を瞠っていた。呑みこまれる寸前の、一瞬のそのまた十 きょうふ

分の一ぐらいの短い時間、石岡が見せた恐怖の表情が、ストップ モーションみたいに瞳に焼きついて、見えるものと言ったらただ それだけだった。  石岡を呑み込んだバルバローネは、瞬時のうちにまた元の形の め がみ

長い頭に戻って、漆黒の美しい女神像に戻って、そして残りの二 人の方へ指先を、鈎爪を差しのばした。 「イヤだよぉ！」  二人が泣きわめく。  バルバローネは音もなく飛びあがると、翼をひと振りして、あっ という間に二人を捉えた。抱きかかえられた二人の脚が、バルバ ローネの翼の下から、じたばたともがきながら飛び出して、必死 で空を蹴っている。 たつまき

はや

 竜巻のような迅い風が、亘の頭の上を通過した。地面に伏して いても、身体を持ってゆかれそうなほどの強風で、亘は思わず目 とうとつ

を閉じた。そしてそれは唐突に止んだ。  おそるおそる目を開け、頭を持ちあげてみると、あたりは暗闇 に戻っていた。  どこか遠く──シートの外、幽霊ビルの外、ひとつ向こうの交 差点で、エンジンが強く空ぶかしされる音が聞こえた。 つ

まぶ

 亘のすぐそばで、懐中電灯がカチリと点いた。痛いほど眩しく そむ

さわ

て、亘は目を背けた。腕が伸びてきて亘の肩に触った。 だいじょうぶ

「大丈夫か？」

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 芦川だった。ひどい顔だ。くちびるが切れている。右の鼻の穴 から鼻血が一筋流れている。でも、しっかりした動作で、亘を助 け起こしてくれた。 あおむ

 地面に座ると、とたんにぐるっと目が回って、今度は仰向けに 倒れそうになり、亘はあわてて両手をついた。あっちもこっちも ズキズキ痛むのに、何だか感覚が遠くて、自分の身体じゃないみ たいだった。 こぶし

ぬぐ

 芦川は亘のそばに片膝をついていて、今は拳で鼻の下を拭って いる。 「あ……あいつらは？」  亘は何とか声を出した。□の中に嫌な味がした。血の味かもし れない。 き

「あいつらって？」芦川は、わざとのようにとぼけて訊き返した。 「石岡と……仲間の二人」亘は彼を見あげた。まためまいがして、 視界がぼけた。芦川の表情を見ようとするのだけれど、うまく焦 点を合わせることができなかった。 「こっぴどくやられたな」と、芦川は言った。「一人で立てる か？」  両足がゴムでできてるみたいな感じがして、力が入らない。そ れでも亘は言われたとおりにしようとして、自分の運動靴の底が むな

なが

空しく地面をこするのをぼんやり眺め、 く

「あいつらはどうしたの？」と繰り返した。「どこへ行ったの？  さっきのは何だったのさ？ あのバケモノ。あの真っ黒な」  現実感が、ますます遠くなる。自分でも何を言っているのか、 はあく

ちゃんと把握できてないような感じだ。言葉の最後の方は、寝言 みたいな呟きになってしまった。

273

じゅく

「バケモノなんていないよ」芦川は、塾の教室で先生の質問に答 えるときと同じ、揺るぎない口調で否定した。「さっきのは夢だ。 何でもない。夢を見たんだよ」 「夢なんかじゃないよ──」  言い返しながら、結局亘は立ちあがれずに、ゆらゆらと身体を つ

揺らして、突っ伏してしまった。地面に倒れる直前に、芦川が受 け止めて支えてくれた。 「何でここに来たんだ？」 たず

 芦川が尋ねる。亘は彼にもたれていると楽ちんで、とても眠く なり、口が回らなくなった。キゼツするのかなぁ──と思った。 「何でって──」 「呼んでもいないのに」芦川は吐き出すように言った。怒ってい るみたいに聞こえる。 「何となく来たンだ──」亘は小声で答えた。 「呼んでもないのにやって来て──おまえって──何にも関係な いのに──」芦川はそう言って、唐突に、ちょっと笑った。「で も、おかげで助かった」  何の話？ もうどうでもいいよ。眠くって。 「おせっかいなヤツ」芦川は言って、それから口のなかで小さく 何か呟いた。また、呪文みたいだった。すると亘の上に、温かな 白い光が降ってきた。光は亘を包み込んだ。身体じゅうの痛みが、 みるみるうちに、嘘のように消えてゆく。気持ち良い。  それじゃあな──と、芦川が言ったように聞こえた。これでお 別れだよ、サヨナラ。  そうして亘は眠り込んだ。  はっと目を覚ますと、自分のベッドに横になっていた。頭をき

274

の

ちんと枕の上に載せ、仰向けになって、両手を胸の上で組み合わ せている。眠っていたのではなく、ドラマのなかで眠ったふりを している子役のように。 てんじょう

 三秒か、五秒くらいのあいだ、亘は両目を見開いて天井を見あ げていた。それから、ガバッと起きあがった。  いきなり、目覚まし時計が鳴り出した。亘は文字どおり飛びあ がった。  午前七時だった。時計は嘘をついていない。チェックのカーテ ンを、夏の朝日が照らしている。  気温はもうあがり始めていて、パジャマが汗で身体にくっつい ている。 「亘、起きなさい！」  ドアの向こうで邦子の声が聞こえた。ドンドンとドアがノック される。 「今日は終業式でしょ！ 最後になって遅刻なんかしたら、恥ず かしいわよ」  今日は終業式──  亘は両手で頭を押さえた。ちゃんとココにある。頭はちゃんと にお

ただよ

ついてる。目も見えている。匂いもわかる。台所から漂ってくる。 お母さんがタマゴを焼いている。  じゃ、あれは？ 昨夜目にした光景は？  夢だったのか？ ゆうべ

 昨夜はボク、どこにも出かけなかったのか？ 出かけたつもり ねどこ

になっていただけで、実は寝床に潜り込んでいたのか？ こっそ りカッちゃんの家に遊びに行こうと考えたのも、夢のなかのこと だったのか？

275

モンスター

 そしてあの──あの──怪物。  おぼろげだけど、覚えている。芦川と、翼のはえた女のヒトの 形をした真っ黒なバケモノ。金色の目。鈎爪がかちんと鳴る音。  石岡健児が悲鳴をあげてた。 か

 亘は転がるようにしてベッドから飛び出した。台所に駆け込む の

と、焼けたトーストの端っこをつかんでお皿に載せようとしてい た邦子が、ビックリしてキャッと言った。 「な、何よどうしたの？」 「お母さん、ボク──」 「何なの、亘？」  亘はがくんと両肩を落とした。説明する自信がない。あれを言 葉に換えることなんてできない。全然。まったく。不可能だ。 「イヤねえ、寝ぼけてるの？」邦子は笑いながら、テーブルの上 に落としてしまったトーストを拾った。「早く顔を洗ってきなさ い。汗びっしょりじゃないの」  うん──とうなずいて、亘は洗面所に行った。鏡をのぞくと、 け

が

確かに寝ぼけた小学生の顔が映っていた。怪我なんかしてなかっ かみ

ねぐせ

た。髪に寝癖がついているだけだった。  さあ終業式だよ、これでしばらくは学校とお別れ、四十日間の 夏休みが待ってるよ。太陽が歌いながら照りつけている。私は子 供たちの期待を裏切ったりしないよ、今日はたんと暑くしてあげ ようね、だってこれから夏休みなんだからさ！  校庭で朝礼が始まったばかりのころは、亘はまだ現実感が取り 戻せなくて、昨夜の夢のような夢でないようなものの映像の方に うば

心を奪われていて、級友たちが落ち着きなくさざめいていること

276

にも、先生たちがいつになく険しい顔をしていることにも、興味 ひ

を惹かれなかった。出席番号順に並んでいるので、亘よりずっと すき

前の方にいるカッちゃんが、先生の隙を見てはちょいちょいこち よ

こ

らを振り返り、何か合図を寄越していることにも、気づいてはい たが気が向かなかった。  校長先生のお話が終わり、みんなでゾロゾロと教室へ引きあげ るときになって、カッちゃんが亘に駆け寄ってきた。 「なあ、タイヘンだなタイヘンだな？」  亘はとろんとカッちゃんを見た。 「なんだよ、眠たいの？ 夜中にゲームやってたんだろ」  カッちゃんはいやに興奮している。 「まさか何も知らないハズないよな？ あ、だけどミタニの小母 さんはＰＴＡの役員やってないから、まだ聞いてないのかな？  おやじ

そんならうちの親父もオフクロも役員じゃないけど、でも親父は 消防団入ってるかンな」 早口で自問自答している。 「どうしたんだよ」さして興味もなしに、亘は訊いた。亘にして みれば、カッちゃんがどんなビックリニュースを持っていようと、 昨夜の夢のような体験に比べてみれば、何ほどのオドロキでもな かった。そんなの、『ジュラシック・パーク』を観た後でフカガ はちゅうるい

ワ爬虫類館に行くみたいなもんだ。 「ミタニ、ホントに知らないんだな！」  カッちゃんは驚き、実に嬉しそうな顔をした。わぉ、まだこの ニュースを知らないトモダチがいる！ だからオレ、教えてやれ るってわけ？ ゆくえ

「石岡健児が行方不明なんだ」 おど

 二人は二階の教室に向かう途中、階段の踊り場に立っていた。

277

亘はつんのめるようにして足を止めたので、後ろに続いていた女 子生徒とぶつかってしまった。 たた

「あ、ごめんミタニ」女子生徒は言って、亘の背中を軽く叩いた。 「いきなり止まんないでよぉ」叩かれた振動で、亘はぐらりと揺 す

れた。それでも目はカッちゃんの顔の上に据えたままだった。誰 が見ても、明らかに様子がおかしい。カッちゃんがちょっと身を 引いた。 「ミタニ大丈夫？ サナエ、おまえが叩くからだよ」 つ

 亘は答えず、カッちゃんに一歩詰め寄った。カッちゃんはビビッ て一歩下がった。サナエも心配そうに近寄ってきた。 「石岡健児って、あの石岡？」 「そ、そうだよ」カッちゃんはうなずいた。「六年の、あの嫌な ヤツ」 「あいつが行方不明？」 「そうよ、朝から姿が見えないんだって」サナエが話に割り込ん だ。「パトカー呼んで、大騒ぎしてるよ。お母さんが学校にも電 話して、だから六年の先生たちタイヘン」 「あ、そっか、おまえンとこ近所だもんな」カッちゃんがサナエ に言った。「うちのオヤジ消防団だからさ、ソーサクしてんだ」 「でもさあ、大げさだよね」サナエは髪を肩先から跳ね上げなが ら言った「石岡って、しょっちゅう夜遊びしてたんでしょ？ マ キコのうちってさ、駅前に貸しビル持っててさ、ゲーセンに貸し てんの。石岡とあいつの仲間が、夜中過ぎても遊んでるんで、何 度も注意したけど全然ダメで、すごい困ってたことあるよ」 「夜遊びしても、帰ってこなかったことは初めてだから心配して ンだってさ」カッちゃんが事情通風に説明した。「それに今日は

278

さ、なんかあいつ、オーディションとか受けることになってたん だって。テレビの」 「だから帰ってこないハズないって？」 「うん、そうじゃないの」  サナエは、こぼれるような愛くるしい笑顔を見せた。「オーディ ション受けて、また落とされるのがイヤで家出したんじゃない のぉ？ あいつなんて、テレビ出るの無理よ。不細工だもん」  カッちゃんは喜んだ。「あ、おまえもそう思う？ やっぱアイ ツ不細工だよな？」 で き そ こ

「出来損ないのゴリラみたい」 「な？ なんで誰も本人に言ってやらないんだろうなぁ」 「アンタ言ってやれば？」 「オレ？ ヤダよ」 「いくじなしィ」  笑いあう二人の声に、かすれて裏返ったおかしな声が割り込ん だ。本人にもとても自分の声とは思えなかったけれど、亘の声だっ た。 「いなくなったの、石岡だけ？」  カッちゃんたちは、同時に亘の顔を見た。 「え？」 かべ

 亘は壁を見ていた。機械的に質問を繰り返す。「いなくなった のは石岡だけ？ それともアイツの仲間も一緒？」  カッちゃんとサナエは顔を見合わせた。「それはわかんないけ ど……」 「でも、ひょっとしたら一緒なのかもな」カッちゃんが、またも 事情通風に首をひねる。「三人いっぺんにいなくなったから、騒

279

いでるのかも」 ひじ

「ねえミタニ、どうしたの？」サナエが亘の肘をつかんだ。「顔、 真っ青だよ？」  チャイムが鳴っている。生徒たちはどんどん教室に吸い込まれ てゆく。  亘は何とか声を出した。「──は？」 「え？ 何？」カッちゃんたちが耳を寄せる。「何って言った の？」 「芦川は？ 芦川は来てる？」 となり

ふしん

「芦川って──隣のクラスの？」サナエが不審そうにカッちゃん の顔を見た。カッちゃんは首を振る。 「芦川なんて関係ないじゃん」 「でも──あ、ちょっと待って、ねえミサちゃん」  教室に駆けあがろうと急いで来たひとかたまりの生徒たちのな かに、友達の顔を見つけたらしい。サナエは大声で呼び止めた。 呼ばれたミサちゃんは階段の途中で振り返った。 「なあに？」 「あんたのクラスの芦川君、来てる？」 「休んでる。朝礼のときいなかったもん。あの子遅刻なんかしな いし」 「ホント？ ありがとう」  ミサちゃんたちは駆け去る。亘は目の前が真っ暗になり、身体 が冷たくなり、立っているのも難しくなってきた。芦川も休んで る。芦川もいなくなってる。  これでお別れだよ、サヨナラ。  あいつ、そんなこと言ってなかったか？

280

 亘の肘をつかんでいるサナエの腕に、さらに力が入る。 「コムラってば、ぼうっとしてないでよ。、ミタニ貧血だよ。ひっ くり返っちゃうよ。先生呼んできて！」 「──大丈夫だよ」亘は言った。「平気だから。貧血なんかじゃ ない」 「だって──」 「ホントだから。サナエ──」 「え？ 何？ どうした？」 「腕、痛い」  サナエは一瞬ぽかんとしてから、ぱっと手を離した。「あ、ご めんごめん」 「バカぢからぁ」カッちゃんが余計なことを言って、叩かれた。  それでも心配顔の二人は、亘を保護するように両脇にくっつい て、教室まで連れていってくれた。カッちゃんは何か聞き出した けんせい

そうにソワソワし、サナエはそれを厳しい目つきで牽制していた。  亘はここにいたが、心はここになかった。昨夜の光景が、あた かもＤＶＤで映画を観るように、スキップしては好きなキャプ チャーから好きなシーンだけを取り出して再生するように、何度 あざ

よみがえ

も何度も鮮やかに蘇った。 ふ ん い き

 教室の雰囲気も、全体に落ち着かなかった。明らかに石岡の行 方不明が原因だった。ホームルームのあいだに、先生は二度も中 座した。 くも

 そして戻ってくるたびに、先生の表情が曇った。 つうしんぼ

 生徒たち一人一人に通信簿が手渡され、もう帰宅するだけとい うころになって、先生がまた呼び出されて教室を出ていった。残 された生徒たちは、不安と好奇心に盛りあがった。これで静かに

281

していろという方が無理であって、どの教室でも事情は似たり寄っ ろうか

たりのようだ。廊下全体が騒がしい。  やがて戻ってきた先生は、今日はみんな、集団下校することに ふけい

むか

なりましたと告げた。しかも、当番の父兄が迎えに来るという。 順番に校庭に出ますから、それまで教室でおとなしく待っている ように。それだけ言って、またあわただしく廊下へ出て行く。 ねっきょう

も

さ

 生徒たちはもう熱狂状態だった。猛者が数人、情報収集に他の かばん

しの

教室へと走る。鞄のなかにこっそりＰＨＳを忍ばせてきた生徒が いて、家に電話をかける。その周りに仲間が集まり、聞き耳を立 てる。  亘は、精神のエネルギーの大半を、恐ろしい光景の再生のため しょうもう

い

す

に消耗しつつ、ぐったりと自分の椅子に座っていた。カッちゃん とサナエが席を離れ、そばに寄ってきた。 ま

じ

め

「ねえ、ミタニ本当に変だよ」サナエは真面目に不安がっていた。 「どうかしたの？」  説明できるような事柄ならば、すぐに信じてもらえる事柄なら ば、どんなに楽だろう。  教室の隅で小さな輪をつくっていた級友たちのなかから、悲鳴 のような声があがった。 「なんだよ！」カッちゃんが立ちあがって大声を出した。「ヘン な声出すなよ！」  輪が崩れて、その中心に、ＰＨＳを耳にあてた女子生徒が見え た。今にも泣きそうで、空いている方の手で、友達の手をしっか にぎ

りと握りしめている。  一人が輪を外れて教室の中心まで出てくると、引きつったよう な顔をして、みんなに聞こえるように言った。「六年生の二人が

282

見つかったんだって」  亘は目をあげた。カッちゃんがすかさず訊いた。「二人って？  石岡の仲間？」 せんがわ

「そう。千川公園に倒れてたんだって」 「二人とも？」 「そうだよ」  誰かが「死んでたの？」と訊いた。 「死んでない。だけど、ヘンなんだって」 「ヘンって？」 「ケガとかしてるわけじゃないけど、記憶が消えてるんだって。 今までどこに行ってたのか、何も覚えていないんだって」 まどぎわ

 とうとう誰かが泣き声を出した。つられて数人が泣く。窓際の 男子生徒が、外を見ながら、裏返ったような声で言った。「あれ、 テレビ局の車じゃない？」  何人かが駆け寄って、バタバタと窓を開けた。ヘリコプターの 音が聞こえてきた。近づいてくる。一機じゃない。複数だ。  亘は立ちあがった。もうここにはいられない。一分だって嫌だ。 そ

 みんなの注意は逸れていたけれど、カッちゃんとサナエが追っ てこようとする。 「どこ行くんだよ？」 「帰る」 「帰るって──」 「気分悪いんだ。先生に言って帰る」  振り切って教室を出る。耳のなかがわんわんしているので、周 りが騒がしいのも聞こえない。階段を駆け降り、通用門の方へと みとが

廊下を走る。職員室のそばを通らなかったので、幸い誰にも見答

283

うわば

められなかった。それどころじゃないのだろう。上履きのままで、 亘は外へ出た。  学校のなかはあんなに温度があがっているのに、町は一見した ひざか

ところ何も変わったことはなく、ただ日盛りで暑くて眩しいだけ さえぎ

で、亘を遮るものはなかった。走って走って息を切らして、大松 さんのビルの前まで来ると、亘は手で顔の汗を拭った。  車が通り過ぎて行く。日傘をさしたおばさんが、道の向こうを ちゅうしゃ じょう

と

歩いて行く。ちょっと先の駐車場で、誰かが車を停めている。今、 ドアをばたんと閉めた。  亘は幽霊ビルを覆う青色のシートを見た。秘密を隠すヴェール ふた

のように、ひっそりと垂れ下がっている。蓋をしている。  シートのいつもの場所をめくって、素早く潜り込んだ。  考えてみれば、昼間ここに来たのは初めてだった。だから、隙 ひ

ひか

間から差し込む強い陽の光が、内部を薄明るく照らしていた。日 げ

む

陰という感じではなく、空気は外よりも蒸し暑いくらいだった。  たっぷり三十秒ぐらいのあいだ、亘は息を止めて、その場に立 ちすくんでいた。背中の真ん中を汗が一筋流れるのを感じる。心 のどもと

臓が喉元にせり上がってきて暴れている。ごくん、ごくんと呑み こんでも、胸のなかの元の場所に収まってくれない。  昨夜、亘が倒れていた場所。 なぐ

 芦川が石岡たちに押し倒され、殴られていた場所。  そして、あのバケモノ──ああ、そうだバルバローネ、死の翼、 暗黒の娘──あの異形のものが現れた場所。  一歩、また一歩、亘はバルバローネが翼を広げていた場所、バ ルバローネが石岡に襲いかかった場所、バルバローネが石岡を呑 みこみ、彼の悲鳴がぷつりと途切れた場所へと近づいていった。

284

おもり

足に錘がくっついたみたいだった。引きずって歩かねはならない。 あご

したた

顎の先から汗が滴る。  そして、見た。  地面の上に、スニーカーが片方落ちていた。たった今、そこに 脱ぎ捨てられたみたいに。  亘はそっとしゃがんで、スニーカーを手に取った。白地にブルー とイエローのライン。有名スポーツブランドのロゴが入っている。 まだ真新しい。  石岡健児の靴だ。  これがなぜ、こんな場所にある？  どうして、僕はその答を知っているんだ？ ほう

 亘は声もなく叫んで、スニーカーを放り出した。それは地面に 落ちて二、三転し、こちらに底を向けて止まった。  亘は逃げ出した。  しゃにむにひっかくようにしてシートを持ちあげると、道路に ほどう

まろび出た。勢い余ってコンクリートの舗道に両手をつき、その あまりの熱さに驚いた。 なみだ

 立ちあがり、よろよろと歩き出すと、涙が出てきた。泣いても どうにもならないのに、なぜ泣くのかもわからないのに、勝手に 涙がボロボロこぼれる。 さが

 芦川──声川を捜さなきゃ。あいつに会わなきゃ。会って頼む んだ。石岡を助けてくれって。あんなことしちゃいけない。あん なバケモノなんか呼んじゃいけない。今ならまだ間にあうかもし れない。  涙で視界が曇って、前がまるっきり見えない。闇雲に歩いてい ると、何かやわらかいものにどすんとぶつかった。その何かには

285

かか

手がはえていて、それが亘を抱えようとした。 「おいおい、どうしたんだね？」 はかま

 三橋神社の神主さんだった。今日も白い着物に袴をつけている。 しらが

まゆげ

優しそうな丸顔と、白髪混じりのばさばさの眉毛が、亘のすぐ間 近にあった。 「おや、君は──この前も会わなかったかね？」  亘はちょうど、神社の入口にいたのだった。神主さんのすぐ後 しゃでん

ろに鳥居がすらりと立っている。緑の木立が揺れている。社殿の はと

屋根の上に鳩がとまっている。 「神主さん──」 さ

 混乱した頭のなかに、一筋の光が射した。亘は両手で神主さん そで

の袖をつかんだ。 けいだい

「あの、僕みたいな子を知りませんか？ よくここの境内に来て たんです。人形みたいなきれいな顔をした子です。芦川っていう んです。家はこの近所だって──知りませんか？ どこに住んで るか知りませんか？ あいつと話したことないですか？」  亘がどんなに揺さぶっても、小柄な神主さんはどっしりとして、 ちっともぐらぐらしなかったけれど、たいそう驚いているようだっ た。まじまじと亘を見つめると、 とし

「君ぐらいの歳の男の子だね？」 「はい、そうです！」 「芦川君ね。ああ、よく見かけるんで、話をしたことがあるよ。 この裏のマンションに住んでいる子だね。友達なのかな？」 「裏のマンション？ どっち？」 とう

 三橋神社の裏側には、屋上に目立つ赤い給水塔のあるマンショ がいへき

ンと、チョコレート色の外壁の背の高いマンションが、ふたつ並

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んで建っている。 「さあ、どっちかな。住所を聞いたわけじゃないから」  ものも言わずに走り出そうとした亘を、神主さんはぐいと引き 留めた。 「君、君、ちょっと待ちなさい。いったいどうしたんだね？ 顔 が真っ青だよ」  申し訳ないけど、これ以上、一秒だって待つことはできない。 「ごめんなさい」 ま

す

 亘はそう言って、神主さんの手を振り払った。真っ直ぐに境内 じゃり

に駆け込み、砂利を踏んで走り抜けて、裏の出口から外へ出る。 神主さんは追いかけてはこなかった。追いつけなかったのかもし れない。  亘はまず、赤い給水塔の方のマンションへ向かった。そちらの 方が近かったからだ。エントランスのホールへ入ると、正面に郵 便受けが並んでいた。息を切らしながら名札をチェックしてゆく。 芦川という名前は見あたらない。シャツの下を汗が流れ落ちる。 きびす

 二度チェックしても、見つからない。踵を返して、外へ出た。 チョコレート色のマンションの方は、神社に背中を向けて建って いるので、エントランスに行くには建物の脇をぐるりと回らなけ ればならなかった。汗が目に入って、チリチリしみる。手で顔を 拭いながら駆けてゆくと、遠くから救急車のサイレンが聞こえて きた。どんどん近づいてきて、亘の学校の方へと遠ざかって行く。  やっとエントランスに着くと、正面の自動ドアのところで、モ そうじ

スグリーンのつなぎを着た管理人さんが掃除をしていた。亘が走っ ほうき

てその脇をすり抜けると、管理人さんは箒を使いながら肩ごしに ちょっと振り向いた。

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 こちらの方は、郵便受けの数も倍ぐらいあった。チェックにか かる前に、身体を折り曲げ、両手を膝にあてて呼吸を整えなけれ ばならなかった。下を向くと、顔がうっすら映るほど磨きあげら しずく

れたリノリウムの床の上に、汗の滴が滴った。 もうぜん

 芦川の名札が、一〇〇五号室に出ていた。亘は猛然と奥へ進も しょうとつ

うとして、両開きの自動ドアにまともに正面衝突した。びたん！  と、たまげるような音がした。  このマンションはオートロック式で、エントランスホールから さらに奥へ行くには、集合インターフォンでロックを開けてもら じ

わなければならないのだ。ああ、焦れったい！  ドアのすぐ左手に、ボタンとマイクのついたパネルがあった。 亘が震える指で「１００５」と打ち込んでいると、後ろから肩を つかまれた。さっきの管理人さんだった。 「おい、大丈夫かい？」  振り向かされて、亘の指がパネルから離れた。ちょっと触られ るだけで、足がよろける。 「ドアにぶつかったんだな？ たいへんだ、鼻血が出てるぞ」  言われてみれば、鼻の下とくちびるのあたりが生暖かい。 「君はここの子じゃないね。何の用？ 学校はどうしたんだい？」  管理人さんの問いかけにかぶるように、集合インターフォンか ら女の人の声が聞こえた。「はい、どなた？」 「芦川さんですか？」亘は集音マイクに向かって声を張りあげた。 「僕、美鶴君の友達です！ 美鶴君を探してるんです、家にいま すか？ 会えますか？」 せ

 一瞬の沈黙のあと、女の人の声が、急き込んだ様子で応じた。

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「美鶴の同級？ じゃ、あの子やっぱり学校に行ってないの？」  亘はすうっと血の気が引くのを感じた。こんなふうに訊かれるっ てことは、芦川は家にもいないのだ。  管理人さんがインターフォンにかがみ込んだ。「芦川さん？  ここにいるのは確かに小学生の男の子ですけどね、えらくあわて てるみたいですよ」  女の人の声か答えた。「あがってもらってください」  自動ドアがすうっと開いた。亘は走ってドアを抜け、エレベー ふ き げ ん

ターを目指した。管理人さんがついてくる。むっつりと不機嫌そ うだけれど、案内してくれるつもりらしい。  十階に着くと、目指す部屋はエレベーターを出てすぐ右手にあっ た。開けたドアを押さえて、すらっとした女の人が立っている。 「芦川さん、この子です」  管理人さんが、亘の背中を押した。 「何だか知らないが、気をつけてくださいよ。前みたいな騒ぎを 起こされちゃ、私の責任問題だからね」 ていねい

 ドア口の女の人は、「すみません」と丁寧に頭をさげた。管理 人さんはまたエレベーターの箱に乗り込み、とっとと降りていっ た。  亘は黙って女の人の顔を仰いだ。鼻の下がどんどん生暖かくなっ てゆく。まだ血が流れ出しているのだ。  女の人は、とても若かった。とっさにはいくつなのか見当がつ かなかったけれど、少なくとも、芦川のお母さんという感じでは、 ばつぐん

絶対になかった。目を瞠るような美人で、スタイルも抜群だった。 あわ

白いノースリーブのブラウスに淡いグレイのミニスカート。ドア を押さえていない方の腕を曲げて、軽く腰にあてていて、その手

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首に銀のバングルが光っている。インターフォンの声の主はお母 さんに決まってると思い込んでいたから、亘は少なからず混乱し た。 「君が美鶴のお友達？」  女の人は、亘を見おろしたまま尋ねた。インターフォンごしに 聞いたのと同じ声だ。  亘は黙ってうなずいた。ひとつうなずけば用が足りるのに、な こわ

んだか壊れたようになってしまって、何度も何度もうなずき続け た。 「鼻血が出てるじゃない」  責めるみたいな口調で、女の人は続けた。それから、腰にあて ていた手を顔に持っていって、ちょっとのあいだ額を押さえてい た。それから、いかにもうんざりしたという感じで手を振ると、 「どうぞ、お入りなさい」と、ドアを押し開いた。  さはど広くはないけれど、いっぱいに陽のあたる明るい部屋だっ しゃれ

た。きれいに片づけられていて、リビングの家具も洒落ている。 ぐるぐる混乱している頭で考えることだから、あんまりあてには できないけれど、子供がいる人の家の感じではなかった。芦川は ホントにここに住んでいるんだろうかと思った。  女の人はドアを閉めて、亘の後についてリビングに入ってくる と、ティッシュの箱を差し出した。 ふ

「鼻血を拭きなさいね。どうしたの？」  亘は言われたとおりにした。 「ドアにぶつかっちゃったんです」  ティッシュで鼻を押さえると、すごく痛かった。さっきは全然 感じなかったけれど、相当ひどくぶつけたのだ。

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 女の人は、亘のそばに、キャスター付きの丸い椅子を押して寄 越した。そして自分は、手近の一人掛けのソファに腰をおろした。 亘も椅子に腰かけると、座高と椅子のバランスで、ちょうど目と 目が同じ高さに合った。  女の人は、亘より痛そうな顔をしていた。「美鶴、本当に学校 へ行ってないのね？」と、静かに尋ねた。 「そうです」亘はティッシュの下から答えた。前歯も痛かった。 グラグラしているかもしれないと思うと、怖くて触れない。 「あなた、お名前は？」  亘は名乗り、美鶴からそんな名前の同級生の話は聞いたことが ないわと言われる前に、 「芦川君とは、学習塾で一緒なんです」と言い足した。 あや

 女の人は黙ってうなずいただけだった。怪しんでいる様子はな い。もしかしたら芦川は、この家で学校の話などしたことがない のかもしれない──そんな気がした。 「美鶴を心配してくれてありがとう」  女の人は、痛そうな顔のままそう言った。 「それであの子──どこにいるのか、心あたりはないかしら？」 「あの、朝から、いないんですか」  女の人はうなずいた。「書き置きがあったの。どうやら家出し たみたい」  そう、家出と言えは家出だ。サヨナラ。どこへ？ ここではな よ

そ

い他所の世界へ。 お

ば

「美鶴から聞いているかしら。わたしはあの子の叔母なんです」  どうりで若いはずだった。 「芦川君、自分の家のこととかしゃべらないから、僕らよく知ら

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うわさ

なくて。外国に住んでたことがあるとか、みんな噂してるけど、 それも正確な情報じゃなくて」  なぜかわからないけれど、叔母さんは急に悲しそうな顔になっ た。片手で額を押さえると、またバングルが光った。  亘は急いで言った。「だけど、芦川君すごい人気者ですよ。勉 強もできるし、女子にはモテるし男子には一目置かれてる」  叔母さんはさらに悲しげに目を伏せる。そうなの、と呟く声に は力がなかった。 「だけど出ていっちゃったわ。何だかわけのわからない書き置き だけ残して」 「わけがわからない？ どんなことが書いてあったんです？」亘 は乗り出した。「別の世界に行くとか書いてあったんですか？」  叔母さんはさっと顔を上げて、驚きの目で亘を見た。「どうし てわかるの？ あの子から何か聞いてるの？」  亘は言葉に詰まった。できるならば、いろいろ説明するより先 に、芦川が残したその書き置きを見せてもらいたいところだけど ── 「三谷君、本当に美鶴の仲良しだったみたいね？」叔母さんは亘 の

の膝の上に手を載せた。温かかった。 「あの子の行きそうなところに心あたりはないかしら。あの子を 死なせたくないの」 「死なせたくないって──」  叔母さんは、「別の世界へ行く」ということを、「死ぬ」こと かいしゃく

ふつう

だと解釈してるのか。そうか、普通はそうなんだろうな。 「書き置きに、死ぬって書いてあったんですか？ そうじゃない でしょ？」

292

ゆが

きれい

「ええ、そうだけど」叔母さんは顔を歪めた。それでも綺麗だっ た。よく見ると、目鼻立ちに芦川と共通するものがあった。 「三ヵ月ぐらい前かしら、自殺しようとしたことがあったのよ。 その話は知ってる？」 あぜん

 亘は唖然として首を振った。 「そう。あの子も言いにくかったのかしら。まだこっちに来てま もないころ──毎日家で独りぼっちでいてね。余計に気が塞いだ んでしょう。ここの屋上から飛び降りようとして、運良く管理人 さんが見つけてくれて、止められたの。でも大騒ぎになってしまっ て」 けいかい

 さっきの管理人さんの、やけに警戒しているような様子と「前 みたいに──」という言葉の裏には、そんな出来事があったのか。 「やっぱり、わたしじゃどうにもならないのかしら」と、叔母さ んは呟いた。  芦川の家庭に、大なり小なり複雑な事情がありそうだというこ とは、亘も察していた。それだけに、亘の頭と心では、この場で どんなふうに問答をして話を進めていったらいいのか、見当さえ つかなかった。 たんてい

 落ち着け。『私立探偵メドウズの事件簿シリーズ』を思い出せ はいいんだ。テキストアドベンチャーは好きじゃないけど、あの いらい

ゲームだけは全部クリアしてるじゃないか。叔母さんを依頼人に 見立てて、メドウズ探偵になったつもりで質問を投げればいいん だ。そんなに難しいことじゃない。芦川の叔母さんは、事件の始 おとず

なぞ

まりにメドウズの事務所を訪れる謎の美女の役割にぴったりじゃ ないか。 「書き置きには、誰にも見つからない場所に行くって書いてある

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む

だ

の」と、叔母さんは言った。「だから捜しても無駄だから、そっ としておいてくれって」 「ぼ、ぼ、僕には──声川君がどこに行ったのか──心あたりが ないわけではないです」  叔母さんが、強い力で亘の膝をつかんだ。「じゃ、わたしを案 内して！」 「そうしたいけど、でも、僕には──どうやったらそこに行かれ るのか、わからなくて」  叔母さんは両目を瞠った。「どういうこと？ 遠い場所だからっ て意味？」 「遠いっていうか──」 「もしかして三谷君、美鶴にその場所のことは秘密にしてくれっ て言われてるの？」  それは事実ではないが、うんと曲げて考えるならば事実から遠 くはない嘘だ。〝幻界〟のことを知っているのは、今のところ芦 川と亘だけなのだから。 「はい、そうなんです」 「だけどあの子、ほっといたら死んでしまうわ。美鶴って、口先 だけじゃないのよ、前のときも、本当に屋上のフェンスによじ登っ ていたの。管理人さんが見つけるのがあとちょっとでも遅かった ら、飛び降りてたわ」 「あの、芦川君、今日は学校はお休みってことになってるんです か？」  話が急に向きを変えたので、叔母さんはまばたきをした。 「え？」 「学校には連絡してあるんですか？」

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「ええ。今朝、書き置きを見て、すぐに担任の先生に、休ませま すって電話したから。あの子のことで、学校に騒がれたくないか ら」  ヘンな話だ。学校に騒がれたくない。こんな場合に、保護者が しら

真っ先に思うことだろうか。普通なら、学校に報せて一緒に捜し てもらうだろう。 「そのあと、学校に電話しましたか」 「してないわよ。どうして？」  それでは叔母さんは、石岡たちの事件については、まだ全然知 まず

らないのだ。それが良いのか拙いのかはともかく──  と思っていたら、電話が鳴った。  電話はリビングの隅にあった。パーソナルファクシミリ機能付 きの、大型の機械だった。叔母さんは椅子から立ちあがって、電 話のそばへ飛んでいった。  亘は目の前がぐらりと揺れるような気がした。すごく嫌な予感 が込みあげてきた。去年の夏、父さんと一緒に大きな美術館に行っ いとすぎ

て、ファン・ゴッホという画家の描いた『糸杉』という絵を見た。 色彩は鮮やかでとっても綺麗だったけれど、空にたくさんぐるぐ うずま

る渦巻きがあって、そのひとつひとつが美術館を出てからも亘の 目の底でぐるぐる回って、本物の青空を仰いでもぐるぐる回って、 つりかわ

電車に乗っても吊革がぐるぐる回って、お父さんがレストランに 連れて行ってくれたのに、ほとんど料理が食べられなかったとい う経験がある。あのときとよく似ていた。今窓から外をのぞいた ら、あのぐるぐるの空が見えるかもしれない。亘にはコントロー ルのできないぐるぐるのエネルギーのパワーが、そこらじゅうに あふ

満ち溢れているのが見えるかもしれない。

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 芦川の叔母さんは、電話の相手と話をしながら、だんだんと、 受話器にしがみつくような格好になってゆく。 ちめい

 もしかしたら僕は、学校の話題を出したことで、何か致命的で 取り返しのつかないフラグを立ててしまったのかもしれない。  ロールプレイングゲームや、アドベンチャーゲームでは、ある 順番で物事をして、ある人にある決められた質問を投げたりする ことがきっかけになり、ストーリーが進んでゆく。そのきっかけ を「フラグ」と呼ぶのだけれど、これが見つからないときには全 うな

然見つからなくて、そこでゲームが止まって何日間もウンウン唸っ て考えたりすることがあるのだ。  さっきまでの叔母さんとのやりとりがそうだった。僕も説明の 難しい事柄をいろいろ知っているけれど、叔母さんの方にも謎め いた隠し事があるみたいで、僕らの話は先に進んでいるようでい ながら同じところで止まっていた。  だけど亘は、知らずにキーワードを言ってしまったのだ。自分 でも、それが何かわからない。でもフラグは立った。話は進み始 める。 そうはく

 叔母さんが電話を切った。蒼白だった。 「六年生の石岡君たちが行方不明なんですって？」と、震える声 で亘に尋ねた。そして亘がうなずくよりも早く、さっと駆け寄っ てきて、亘の両肩をつかんで揺さぶり始めた。 「どうして最初にそのことを教えてくれなかったの？ 三谷君、 おど

石岡君たちが美鶴を脅かしていたこと知ってたんでしょ？ 知っ てたから、あいつらが行方不明になったって聞いて、美鶴を捜し にきたんでしょ？ 美鶴があいつらをどうかしたかもしれない。 だま

そうなんでしょ？ 何で黙ってるのよ、返事をしなさいよ！」

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 叫ぶようにしてそう言うと、叔母さんは亘の肩を突き放して、 両手で顔を覆い、しゃがみこんでしまった。亘はめまいが止まら なかった。揺さぶられたせいではなく、心のなかのぐるぐるのエ ネルギーのせいだ。  芦川が石岡たちをどうかした。  そんな問いが、叔母さんの口から飛び出してきた。何のためら たた

いもなく、せっぱ詰まった恐怖の感情を湛えて。  普通、そんなこと想定するか？ まじゅつ

 叔母さんは、芦川が魔術を使えることを知っているんだろうか。 いや

呪文を唱えて魔物を呼び出したり、怪我や傷を癒したり、不思議 わざ

な技を見せることを？  だってそうでなきゃ、三対一だもの、芦川が石岡たちを「どう かできる」はずないよ。  知ってるんですか、叔母さん。 「学校に、テレビ局の車がいっぱい来てました」と、亘は小さく 言った。「ここにいると聞こえないけど、ヘリもいっぱい飛んで て。僕が学校から出てくるときには、石岡の仲間の二人は発見さ れたって、ニュースを聞いた友達が言ってた。生きてるけど、普 通の状態じゃないって」  叔母さんは両手の隙間から尋ねた。「普通の状態じゃない？」 ゆうべ

「なんだか、昨夜の記憶を失くしてるらしいって」  両手をぼとりとさげて、叔母さんは立ちあがった。「美鶴には そんなことできない」  それから、平たい口調で言った。「だけど、そんなにテレビ局 が来てるなら──あの子はおしまいだわ。こうなったらもう、あ の子の家出を隠してはいられないでしょうし、いずれは家族のこ

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とも探り出されるに決まってるもの」 「家族のこと？」  問い返す亘に、叔母さんはただ突っ立ったまま首を振った。 「もう、どうしたらいいかわからない」 「叔母さん──」  叔母さんは泣きだした。 「三谷君、美鶴と同じだもの、十一歳だよね？」 「うん」  亘も泣きそうになってしまった。気の毒で、痛ましくて。立派 せん

な大人のはずの叔母さんが、突然、大松香織とまったく同じ、繊 さい

こわ

細な壊れものになってしまったみたいだ。 「あたしはいくつに見える？ 二十三歳なの。去年大学を出て、 働き始めたばっかりよ。あなたたちの倍しか生きてないの。あた しだってまだ大人じゃないのよ。こんなこと、手に負えないわ。 無理よ」  叔母さんは電話に歩み寄った。「学校に報せなきゃ。三谷君、 うち

心配してくれてありがとう。もうお家に帰りなさい」 ひる

 お午を過ぎるころには、石岡たちの一件は、全国レベルのニュー スにまでふくらんでいた。  テレビに映る城東第一小学校は、モザイク処理されてはいても、 間違いなく亘たちの学校だった。集団下校する生徒たちの映像に も、同じくモザイクがかけられていたけれど、服装や歩き方で、 それと見分けることのできる同級生が数人混じっていた。  亘の母さんは、芦川の叔母さんと同じく、最初は学校の緊急連 絡網を使った電話によって、事件のことを知ったのだった。その

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後も電話は何度となく鳴った。みんな、ニュースを見た人たちか らの電話だった。そのたびに母さんは、小田原のお祖母ちゃんや、 千葉のお祖母ちゃんたちと話をしては、亘はちゃんと家にいるか ら心配しないでと報告した。ちょっと怪我をしてるんだけど、ク ラスで事件のことを聞いて怖くなっちゃって、走って帰ってくる あいだに、転んだらしいの。  担任の先生からも電話があり、亘が持って帰らなかった通信簿 を、後で届けてくれるという。先生はまったく怒っていなかった。 亘が帰ったあと、教室のなかではなかなか大きなパニックが起こっ たそうで、芦川のマンションへ駆けてゆく途中で亘が耳にした救 急車のサイレンは、ほかでもない亘のクラスの女子生徒を乗せる ためのものだったという。六学年でも何人か倒れた生徒がいて、 おうえん

たの

救急車が足りなくなり、他所の地区の消防署まで応援を頼んだと いうから大変だった。  亘は母さんに傷の手当をしてもらい（幸い、前歯は折れていな かった）、お昼にチキンライスをつくってもらったのだけれど、 ほとんど喉を通らなかった。追い出されるようにして帰ってきて しまったけれど、芦川の若くてきれいで悲しそうな叔母さんは、 あれから一人でどうしたろうかと、しきりと考えた。あの叔母さ んには、チキンライスをつくってくれる人はいないだろう。芦川 が一時一緒に暮らしていたという伯父さんは、あの叔母さんの兄 さんなのだろうか。だとしたら、今も外国にいるのかもしれない し、すぐには駆けつけてこられないだろう。  午後からのニュースには、六年生のⅠ君が依然として行方不明 であるという事実のほかに、五年生の生徒Ａ君も、早朝から居所 がわからなくなっているということも付け加えられるようになっ

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ていた。ただＡ君は書き置きを残しており、自発的な家出である 可能性が高く、従ってⅠ君たちの事件と関連があるかどうかはわ しんちょう

からないという、慎重なコメント付きで。  母さんはずっとテレビにかじりついて、その合間に自分もお昼 を食べ、そこへまた電話が鳴って、出てみたら小村の小母さんか そうさく

らだった。消防団が捜索隊をつくるので、三谷さんのご主人にも 参加してもらえないかという。 はやび

 母さんは丁寧に謝って、主人は会社を早退けしてくるわけには いかないと答えた。小村の小母さんは、今夜、家に帰ってきてか らでもいいのだと言っている。声が大きいので、受話器から漏れ て聞こえてくるのだ。 「もっとも、夜までに見つかれば何てことないんだけどね」小村 の小母さんは、こんなときでも元気だった。「石岡君て、札付き かか

だったからね。チンピラにでも関わって、痛い目にあってるんじゃ ないのかねえ」  母さんはしきりと謝って電話を切り、またテレビのそばに座っ た。何だかひどく考え込んでいるようだった。  そして、ぽつりと呟いた。「お父さん、電話かけてこないね」  亘は言った。「ニュースを見てないんだよ、きっと」 「社員食堂にはテレビがあるって言ってたわよ」 「じゃあ、ニュースでは学校の名前が出てないから、僕の通って るところだって気づかないんだ」  母さんは黙った。亘も黙った。ニュースは間断なく流れている なまちゅうけい

し、ワイドショウなど予定を変更して生中継をしているのだけれ ど、新しい情報は入ってこなかった。 ごろ

 四時頃だったろうか、亘が疲れてベッドに横になっていると、

300

ドアチャイムが鳴った。そろそろ担任の先生が来る頃だと、エプ げん

ロンをはずしてきちんと髪をとかしていた母さんは、小走りに玄 かん

関に出た。  ところが、その来客は、サナエのお母さんだった。何度か駅や スーパーでサナエと一緒にいるところを見かけたことがあるので、 亘にはすぐわかった。母さんも、同級生とはいえ女子のお母さん と知って、最初は当惑していたけれど、サナエのお母さんはとて あいそ

も明るい人なので、すぐに愛想がよくなった。 「三谷君、気分は良くなった？ うちのサナエが心配してて、一 緒に来たがったんだけど、今は町じゅう大騒ぎだから、外へ出ちゃ 駄目だって、家に置いてきたの」 「大丈夫です。スミマセン」 あざ

「だけどひどい痣ね。おでこにコブもできてるじゃない。眠って たの？ それなら、また横になった方がいいわね」 み

ま

 母さんも、お見舞いにメロンをいただいたわよなんて言いなが ら、亘を自室に追いやった。どうやら母親同士のあいだで、〝子 供抜きで話がしたいの〟という念波が通じ合っているみたいだっ た。 ぬす

ぎ

 当然のことながら、亘はドアに張りついて盗み聴きを開始した。 「三谷さん、実はちょっとご相談があって」と、サナエのお母さ んは切り出した。「サナエに聞いたんだけど、亘君は、例の芦川 君て子と、同じ塾に通ってるんでしょ？」  芦川の話題だ。亘はビクリとした。 「ええ、そうです」と母さんが答える。 かわい

「芦川君、優等生らしいわよね。すごく可愛い顔をしていて」 「わたしは会ったことないんですよ。家に遊びにきたこともない

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し」 「あら、そうなんですか。じゃ、仲良しだっていうのはサナエの かんちが

勘違いなのね。いえ、二人が仲良しだったら、奥さんも芦川君の こと何かご存じかと思いましてね、それでうかがったの」 「どういうことでしょうか」  サナエのお母さんのはきはきした声が、ボリュームを落とした。 「こんなこと、あんまり言いたくないんですけど……いえ、最初 に気づいたのはうちの主人なんですが、ずっと黙っていたんです よ、子供には関係ないことだからね」  芦川の何に気づいたというのだろう。亘の頭のなかに、芦川の 叔母さんの泣き顔と、〝いずれは家族のことも探り出される〟と よみがえ

いう謎めいた言葉が蘇る。 「四年前に、川崎市内のマンションで、嫌な事件があったんです ふりん

よ。三十歳の会社員の男の人が、自分の奥さんと、奥さんの不倫 相手を刺し殺してね、自分も自殺しちゃったの。その会社員の名 ふうふ

前が芦川って言って、ご夫婦のあいだには、当時小学校一年生の 男の子がいたのよね」  亘の母さんは何も言わない。亘も何も言えない。息も停まった みたいな感じがする。 「子供さんはもう一人いて、その子は二歳の女の子だったんだけ ど、やっぱり母親と一緒に殺されちゃったんです。殺した父親と しては、一種の無理心中というか、子供だけ残してゆくのは忍び ないという気持ちだったんでしょうけどね」  サナエのお母さんは、はきはきと続ける。「芦川って人は、昼 間自分が会社に行ってるときに、奥さんが不倫相手を家に連れ込 んでいるって気づいて、平日の昼間に、抜き打ちで帰ってきて、

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現場を押さえたらしいのね。で、その場で三人を殺してしまって。 それでどうやら、上の男の子が学校から帰ってくるのを待ってい たらしいのよ。つまり──ねえ、その子も──」 「嫌だわ、やめてください」と、母さんが大きな声を出した。 「そんな話、聞きたくないですよ」 やじうまこんじょう

「アラごめんなさい。わたしとしても、ただ野次馬根性でこんな ことを言ってるんじゃないんですよ」サナエのお母さんが言い返 した。「それでね、近所の人がドタバタするのに気づいて騒ぎ出 したんで、芦川って人は上の男の子が帰る前に逃げ出して、何日 か逃げて、結局静岡だったかしら、どっかそのへんで、海に入っ て死んだんです」 こお

 亘はマイナス一〇度に凍りついた心で考えた。その男の子が芦 川美鶴なのか。生き残った男の子があの芦川なのか。  サナエのお母さんは続けた。「芦川君て子が、一時外国に住ん でいて、その前は川崎にいて、どうもご両親がいないらしい── サナエにそう聞いて、あたしも主人も、間違いない、あの事件の 生き残りの男の子だ、元気に育ってくれるといいねって言ってた んですよ。ホントにね、本当にそういう気持ちだったのよ。でも、 今度みたいなことになってくると──芦川君、石岡君たちの件に 関わってるかもしれないんでしょう？」  母さんが言った。「それはまだわかりませんよ。ただの家出か もしれないし」 「そうかしら、そんな単純な話じゃないと思うわよ、奥さん」 「だけど──」 「それでわたし、主人とも話しましてね。学校は当然、芦川君の かんきょう

家庭環境について、最初から知ってたわけでしょう？ 知ってて

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隠してきたんでしょうけど、こうなってくると、それもまずいん じゃないかと。ＰＴＡに報告した方がいいんじゃないかと思って。 ほかにも、気づいている父兄の方がおられるかもしれないし」  母さんはしばらく無言でいたけれど、やがて弱々しい口調で訊 いた。「それで──わたしにご相談というのは？」 「いえ、ですからね、サナエから三谷君が芦川君と仲良しだって 聞いたから、ひょっとしたら奥さんもこのことに気づいておられ るんじゃないかと思ったので、どうしましょうかってご相談した かったの。でも、仲良しじゃないのなら、こんなこと言われても 困りますよねえ」 「──亘から芦川君の話は聞いたことがありません」 「そうでしたか」椅子を引く音がした。「それじゃ、かえってご 迷惑だったわね。電話で話せるようなことじゃないし、ご近所だ からうかがったんですけど、すみませんでした。わたしはこれか じゃま

ら学校へ回ります。お邪魔しました」  サナエのお母さんが玄関から出てゆくかゆかないかのうちに、 またまた電話が鳴った。母さんが出た。そして、緊張した早口で しばらくやりとりした後、電話を切って、そっと亘の部屋のドア を叩いた。 「亘？」  亘は言葉もなくただ母の顔を見上げた。言いたいことはあるけ ど、言葉にならない。 「行方不明だった六年生の石岡君て子が、見つかったんですって」  自宅の裏庭に倒れているのを発見されたのだという。亘の心臓 ・

・

・

が、胸の奥でたじろぐようにどきんとひとつ打った。 「怪我はないそうよ。無事だったの。ただ、何だかこう……やっ

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ぱり様子がおかしいらしいのよね。何もしゃべらないし、話しか けても反応がないんだって。こんな言い方が適切かどうかわから たましい

ないけど、魂を抜かれたみたいになっちゃってるんだって」  魂を抜かれたみたいに？ 「先に見つかった二人の子供たちは、元気を取り戻してきてるそ うよ。この子たちから事情が聞ければ、もっと詳しいことがわか るかもしれないね。それでね亘、今夜、学校で緊急父母集会があ るんだって。母さん、行ってくるからね」  あんたは大丈夫？ 少し横になるといいわ、顔色が悪いもの。 母さんはそう言い置いてドアを閉めた。まもなく、どこかへ電話 をかけているらしい声が聞こえてきた。クラスの緊急伝達表に従っ て、別の家に連絡しているのだ。  石岡たちは帰ってきた。三人とも。腰巾着の二人は、昨夜の記 憶を失っただけで済んた。 と

 だけど石岡は、魂を盗られた。  バルバローネに呑みこまれてしまったから。そうなんだ、そう いう事だったんだよ、母さん。僕は知ってるんだ。  それをやったのが芦川美鶴だったことも、知ってるんだ。  自分のお父さんに、お母さんと幼い妹を殺されてしまった美鶴。 自分も殺されるところだった芦川美鶴。  本気で自殺しようと思ったことのある芦川美鶴。 しだい

 亘は膝を抱えて床に座っていた。最初はカタカタと、次第にプ ルプルと、身体が震え出した。震えはどんどんひどくなって、し ほんだな

まいには、すぐ後ろの本棚が、亘の震えに共振するほどになった。  ──お別れだよ、サヨナラ。  芦川がこの世からいなくなったのは、この世には、彼のいる場

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所がなかったからなのだ。だから〝幻界〟へ行ってしまったのだ。

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12 魔女

た

 一日過ぎ、二日過ぎ、三日経っても、芦川美鶴は帰ってこなかっ た。  石岡の仲間二人は、ほとんど元通りになったという。ただ、あ いぜん

たましい

ぬ

の夜の記憶だけは消えたままだ。当の石岡も、依然、魂を抜かれ たような状態が続いている。目は開いていても何も見ていない。 揺さぶっても反応がなく、問いかけても答えない。  母の口からそれらのことを教えられたとき、亘はふと、大松香 し

織の様子を連想した。が、強いてその連想をうち消した。香織と いや

石岡を同じように考えるのは嫌だったのだ。  石岡健児たち三人の身の上に何が起こったのか。 ゆくえ

 行方不明の芦川美鶴は無事なのか。 なぞ

 誰もが知りたがり、心配している。そしてその謎の答を、亘だ けが知っている。すべてを知っている、地上でただ一人の人間が 三谷亘なのだ。 ねむ

 それなのに──ひと晩眠り、ふた晩を越すと、またしても亘の きおく

うす

ヴィジョン

なかから、その記憶が薄れ始めた。〝幻界〟にまつわる本当の出 ことがら

来事に関しての、亘しか知らない事柄の記憶は薄らいでゆく。  前回のときのように、完全に消えてしまいはしない。ただ、長 すいさい

びょうせん

い間放置されていた水彩画から色が抜け、描線がかすれてゆくの いろあ

と同じように、すべてが色褪せて見えにくく、判別しにくくなっ つか

てゆくのである。捕まえにくくなってゆくと言ってもいい。 きょうふ

さが

 でも、感情だけは残っていた。恐怖と、早く捜し出さないと恐

307

あせ

ろしいことになるという焦りの気持ち。それだけは、むしろ日が こ

経つにつれて濃くなってゆく。 おこ

 だから、亘はたいそう混乱した。怒りっぽくなり、夢を見ては 泣き、目覚めていても自分の心のなかをのぞきこんでばかりいる ので、とんちんかんなことを言い、ご飯も食べない。  そして、夏休みに入ってちょうど一週間目の朝、ふと気がつい たら、亘は大変なことをしでかしていた。 くらやみ

こわ

つ

もぐ

 前の晩、暗闇が怖くて電灯を全部点けてベッドに潜り込んだこ とは覚えていた。眠れそうにないと思っていたのに、目をつぶっ おぼ

たらすぐに暗闇が押し寄せてきて、まるで溺れるみたいにしてそ のなかに巻き込まれた。すると、すぐに夢がやってきた。またま つばさ

モンスター

た怖い夢だった。翼のある怪物に追いかけられて、悲鳴をあげな に

がら走るのに、誰も助けてくれないし、どこにも逃げ場がないの だ。  走れるだけ走って、胸が苦しくて破れそうになったとき、誰か ほうしん

が呼ぶ声が聞こえた。お母さんだ！ 気づいたとたんに、砲身か う

たま

ら撃ち出される大砲の弾みたいに、亘は夢のなかから飛び出した。 け

が

 目の前に、母さんの顔があった。血の気が引いていて、怪我を あざ

かみ

していた。くちびるは切れているし、目の下に痣がある。髪は乱 はんそで

む

うで

れてバラバラだ。半袖のパジャマ姿で、剥き出しの腕のあっちこっ ちに、めちゃめちゃなひっかき傷があった。 「お母さん──どうしたの？」  亘の問いに、母さんはわっと泣きだした。 もど

「ああ、よかった亘。正気に戻ったのね。よかった、よかった」 からだ

 泣きながら亘の身体を揺さぶる。亘は赤ちゃんのように母さん だ

に抱かれているのだった。そして、頭をさげて泣き続ける母さん

308

かた

おそ

の肩ごしに、亘は恐ろしい光景を見た。  これ──僕の部屋？ ほんだな

たお

 本棚が倒れ、窓ガラスにひびが入っている。ベッドカバーはズ さ

タズタに引き裂かれ、そこらじゅうに白っぽいものが舞い落ちて いる。羽根枕の中身だ。机の上のノートや本もベリベリに引きち とど

かべ

みわた

ぎられて、ほとんど元の姿を留めていない。壁は、ぱっと見渡し た限りで目につくところだけでも、三ヵ所がへこんでいる。まる け

で、誰かが蹴っ飛ばしたみたいに。  誰かが？  誰が？  僕だ。僕がやったんだ。 「お母さん、僕がこれをやったんだね？」 たず

こう

なみだ

ぬぐ

 おそるおそる尋ねると、母さんは手の甲で涙を拭いながら、 「いいのよ、夢を見たんだから。夢のなかで暴れたのよ。だから わざとやったんじゃないの。あなたのせいじゃないのよ」 な

 母さんは亘の頭を撫でて、強く抱きしめてくれた。でも亘は、 かた

もうひとつの恐ろしい現実に思い至って、身体が硬くなってしまっ た。  母さんの怪我。これも、僕がやったんだ。  ──よかった、正気に戻ったのね。  ボクハアタマガオカシクナッタンダ。  アタマガオカシクナッテ、オカアサンヲブッタンダ。 「ごめんなさい」 つぶや

 亘が呟くと、母さんはまた声をあげて泣き、悪いのはあなたじゃ ないお母さんだと言うのだった。 「あなたをこんなに苦しめて──お父さんとお母さんの責任だわ。

309

みんなあたしたちが悪いのよ。ごめんね、亘。お父さんとお母さ んをかんべんしてね」  そうじゃないよ母さん。僕は──僕は母さんたちの知らないこ とを知っていて──それがとても恐ろしいことで──だから僕は 頭がおかしくなりそうなんだ。 「父さん母さんのせいじゃないんだよ。友達の──こととか── いろいろ怖いことがあって。だから僕は」  切れ切れに呟いてみた。そのとき初めて、自分も身体のあっち いた

す

こっちが傷んでいることに気がついた。打ち身。擦り傷。これも 自分でやったんだろう。 「そうね。あんな怖い事件が起こって、怖くて当たり前よ」母さ うち

んはしゃくりあげながら言うのだ。「だからこそ、家でしっかり 守ってあげなくちゃならないのに、あたしたちときたら何もして あげられない。こんなの、親として失格だわ」  少し落ち着くと、母さんは救急箱を出してきて、自分と亘の傷 の手当をした。亘はともかく、母さんは病院に行った方がよさそ すす

うなのに、どんなに勧めても、薬があるから平気だからいいよと、 笑うばかりだった。 「たいしたことないわよ。本当よ」 み

 お医者に診せたら、なぜこんな怪我をしたのかと尋ねられるだ ろう。そしたら、いくら口先でごまかしても、僕が暴れて母さん を傷つけたことを見抜かれてしまうかもしれない。それを恐れて さと

いるのだと、亘は悟った。 はな

ね

 亘は自分の部屋を離れて、父さんが使っていたベッドに寝かさ れた。 「このごろ、毎晩のようにうなされていたのよ。自分で気がつい

310

てた？」 「ううん、全然」 「あれじゃ、眠ったことにならないわ。ひどい顔色をしてるもの。 だいじょうぶ

少し眠りなさい。母さんがそばにいるから大丈夫よ」  眠れるはずはないけれど、母さんを安心させるために、亘は眠っ たふりをした。  母さんはあちこちに電話をかけていた。そのうちの一本は、学 校あての電話だった。先生と話している。石岡たちの事件があっ つ

たので、夏休み中でも、先生たちは毎日学校に詰めているのだっ た。  話の内容はよくわからなかったけれど、カウンセラーという言 はし

葉の切れ端が、ちょっぴり耳に入った。 ば

あ

 小田原のお祖母ちゃんとも話していた。そしてまた泣いていた。 お

じ

次はルウ伯父さんのようだった。今度は泣かずに、怒っていた。  亘はしばらく放心して、記憶の底を、黒い翼の生きものがゆっ なが

くりと横切ってゆくのを眺めた。 くさ

にお

 すごく臭い、ヘンな匂いのことも思い出した。 「どうしても来ないというなら、こっちから会社に行きますから！  それでもいいの？」 とつぜん

 突然、母さんの大きな声がした。もちろんこれも電話だろう。 す

誰と話しているんだろう。亘はべッドのなかで耳を澄ませたけれ ちが

ど、自分の部屋にいるときとは違って、ここはリビングから離れ ているので、よく聞こえない。 「来て──その目で──ごらんなさい。わたし──けど──どん つら

なに辛い──亘は──」  切れ切れだけど、母さんが激しているのはよくわかる。

311

 それから三十分ほど経ったろうか、ドアが開いて、母さんが入っ てきた。 やさ

「どう、少し眠れた？」と、優しく尋ねた。 「うん」 「よかったわ。何か食べたいものはない？ オムライスつくって あげようか」 「うん」  母さんはにっこりした。「今晩、お父さんが帰ってくるからね。 三人で、ゆっくり話し合いましょう」  亘は母さんを見あげた。「本当？」とか、「お父さんが自分か ら来るって言ったの？」とか、「お母さんがさっき電話で大声を 出していた相手はお父さんだったの？」とか、細かなことを問い 返すのを許さない表情が、そこには浮かんでいた。 あんど

ゆる

 どっしりと落ち着いているのではない。安堵に緩んでいるので ゆが

え

もない。むしろ歪んでいた。その笑みの明るさは、この世には存 在しない単位で作られた計測器でしか計ることができない。 こ

 そして母さんは、長い午後をずっと、台所に籠もって過ごした。 料理をしていたのだ。そっと近づいてのぞいてみると、父さんと 亘の好きなメニューばかりだった。  亘は胸が苦しくなった。息が詰まって、ときどきわざと深呼吸 いた

をしなくてはならないほどだった。母さんが野菜を刻み、炒め物 こう

をし、チキンを香ばしく焼いているのを見つめながら、足元が冷 えてゆくのを感じた。これからとても悪いことが起こるとわかっ ているのに、心の半分ではそれを待っている。もちろん心待ちに しているのではないけれど、でも待っていることに間違いはない。 ドキドキする。

312

 どうしてかって言ったら、もしかしたら万が一、百万にひとつ、 こんなにも濃く感じる悪い予感が、外れてくれるかもしれないと 思うからだ。  だって父さんが帰ってくるんだから。  でも──一方で、亘のなかの小さなワタルが、心のいちばん底 さけ

の方で、両手をメガホンの形にして口元にあてて叫ぶのも聞こえ る。こんなふうに、今、父さんを呼びつけたのは間違いだよ。きっ と、いいことなんかないよ。わからないの？ ねえ、わからない？  そう、わからないのだ。 や

 てきぱきと立ち働く母さんの背中が、げっそりと痩せて細くなっ せいいっぱい

ている。亘は自分のことで精一杯で、母さんをこんなふうに見つ めてみたことがなかった。僕が混乱しているあいだに、母さんは おび

あれ

しず

母さんで、ずっと泣いたり、怒ったり、怯えたり、荒れたり、沈 んだりしていたのに、僕は全然そのことを見ようともしていなかっ た。  ドアチャイムが鳴った。 のど

 亘はごくりと喉を鳴らして、反射的に時計を見た。午後七時ちょ うどだった。 ふ

 母さんはガスの火を止めて、亘の方を振り返った。 「お父さんよ。ドアを開けてあげて」 きんちょう

 緊張しているんだ。声がうわずっている。 げんかん

にぎ

 機械的に足を前後させて、亘は玄関に向かった。ドアノブを握 ると、どきんどきんという心臓の動きが、指の先にまで伝わって いるのがわかった。  ドアを開けた。  そこに、知らない女の人が立っていた。

313

 父さんじゃなかった。何かセールスの人だ。安堵の気持ちで息 をつきかけたとき、その人は言った。 「あなたが亘くんね？ お母さんはいらっしゃるかしら。あたし、 り

か

こ

田中理香子です」  聞き覚えのある声──のような気がした。  いつかの電話だ。亘を母さんと間違えて、一方的に怒ってしゃ べった女の声。  この人は、父さんの女の人だ。  女の人は、まばたきもせずに亘を見つめていた。背が高い。母 あわ

さんより十センチくらい高いだろう。淡いブルーのスーツを着て、 えり

ブラウスの襟は真っ白だ。首には銀色のネックレス。ふわりと香 かお

水が薫る。エレベーターのなかでときどき乗り合わせることのあ る、会社帰りの女の人たちと同じ香りだ。  その人は、予想していたほど若くはなかった。とてもきれいに けしょう

しゃれ

化粧をしているし、お洒落しているからステキだけれど、歳はきっ と、母さんと、そんなに違わないだろう。 ぼうぜん

 呆然としているあいだに、すぐ後ろに母さんが来ていた。 「どうしてあなたがここにいるんですか？」 くる

 さっきよりももっと、うわずって調子の狂った声だった。亘は 怖くて振り返れなかった。母さんが怖いなんて。怖いなんて。 ま

「明さんのかわりに参りました」と、田中理香子は答えた。真っ す

直ぐ母さんの顔を見ている。しゃべり止めても、口元がひくひく びしょう

すきま

して、微笑しているわけでもないのに、くちびるの隙間から白い 歯がのぞく。ドラキュラみたいだと、亘は思った。さもなければ け ん し こ

ほろ

剣歯虎。博物館で、化石から起こした想像図を見た。遠い昔に滅 きば

どうもう

とら

びた、長い牙のある獰猛な虎。

314

「わたしは三谷に電話をしたんです」と、母さんが言った。「あ の人は来ると約束しました。子供のことが心配だから、必ず来る と。それなのにどうして？」  田中理香子は、また視線をさげて、亘を見た。「ごめんなさい ね」と、いきなり言った。謝っているのに、やっぱりまばたきを しない。歯がのぞく。やっぱり。剣歯虎。 「具合が悪いんですってね。お医者さまには行った？」  母さんがぐいと前に出て、亘を背中にかばった。亘はよろけて 壁に手をついた。 せりふ

は

「うちの子に話しかけないで。おためごかしな台詞を吐かないで ください。誰のせいでこの子がこんなに苦しんでると思うの？」  田中理香子は、まだまばたきをしない。そうしないと決心して つらぬ

きた、その決心を貫き通すだけの根性を見せてやるんだとばかり に。 「もちろん、わたしにも責任はあります。でも邦子さん、わたし 一人が亘君を苦しめているわけじゃありません。三人がかりです よ。そして今この場では、亘君を巻き込んでいるのはあなたです。 わたしじゃありません」 ふる

すそ

 母さんの背中がわなわなと震えている。エプロンの裾が、微風 ふ

に吹かれるように細かく動いている。 「わたしが──この子を巻き込んでるですって？」 けんか

あご

 田中理香子は、喧嘩でも売るみたいにぐいと顎を引いて、正面 み

す

から母さんを見据えた。 「そうでしょう？ 明さんを呼び出すのに、亘君をだしに使って ひきょう

るのはあなたじゃないですか。卑怯だとは思わないんですか？」 「わたしが、亘を、だしにしてる？」母さんの声が裏返った。今

315

こわ

まで一度も聞いたことのない、へンテコに壊れた声だ。 たて

「亘君を盾にされたら、いくら明さんが意志を強く持っていても、 やっぱりかないませんよ。だからあの人、ここへ来ると言いまし ていこう

た。こんなことされたら抵抗できないって。でも、わたしはそれ を止めて──」 つ

 母さんが後ろに手をのばし、亘の肩をつかんで前に突き出した。 「この子をごらんなさい。この顔をごらんなさいな。傷だらけで しょう？ 腕も足も、そこらじゅう痣がいっぱい。夜中にうなさ れて、暴れたんです。この子自身も気づいていないうちに、暴れ かわいそう

あわ

ていたんです。あんまり可哀想で──哀れで──」 ゆうかん

の

 母さんは勇敢な子供のようにぐっと息を呑みこみ、震え出した 声を立て直した。 れんらく

なぐさ

「だからわたしは三谷に連絡したんです。亘と会って、慰めてやっ ふうふ

てくれって。この子はわたしたち夫婦の子供です。夫婦は別れて きずな

しまえば他人だけど、親子の絆は別物です。わたし一人じゃ亘の しら

苦しみを取り除いてやれないから、だから三谷に報せたんです。 あの人はこの子の父親なんだから」 かがや

 田中理香子はじろじろと亘を観察した。そしてまた白く輝く歯 をちらりとのぞかせて、尋ねた。「亘君、その怪我、本当に君が 自分でやったの？」  亘は返事ができなかった。恐ろしさに、舌が縮んでしまってい る。 「この子に何を言わせたいんです？」 だま

き

「あなたは黙っていてください。わたしは亘君に訊いているんで す」田中理香子は亘から目を離さなかった。「本当に自分で自分 たた

を傷つけたの？ 誰かに叩かれたわけじゃない？ かばうことは

316

ないのよ、本当のことを言いなさい」 「誰かって、誰に？」母さんが前に出た。「あなた、あたしが亘 を叩いたとでも言うつもりなんですか？」  理香子は何も言わない。 「わたしは亘の母親です。どうしてこの子に手をあげたりするも んですか！」  顎の先をあげて、理香子は母さんを見た。 えら

「母親、母親って、自分ばっかり偉そうに言わないでほしいわ。 わたしだって母親だわ」  この人にも子供がいるのか。亘は身を縮めたまま、理香子のす すね

らりとした腰から上を見あげた。どんなお母さんなんだろう？ 「知ってますよ。別れたご主人とのあいだに女の子がいるそうね」  母さんは息を切らしてそう言った。顔が壁紙みたいに真っ白に なっている。 「その子をまんまと三谷に押しつけてるんでしょう？ 違いま す？」  田中理香子は口元を歪めて笑った。「押しつけてなんかいませ ま

ゆ

こ

ん。明さんは大喜びで、進んで真由子の父親になってくれたんで す。ずっと女の子がほしかったんだって」 「亘の前でそんなこと言わないで！」  母さんは叫んで、亘の耳を両手で押さえた。 だ

め

「邦子さん、あなた、もう駄目だって、自分でもわかっているん でしょう？ メソメソ泣いて明さんにすがったって、彼だっても うそんな手の内はお見通しよ。口先で嘘をついたって、そんなも のは通用しないわ」 ようしゃ

 母さんの方に半歩詰め寄って、理香子は容赦なく続けた。「あ

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きた

なたの汚いやり口と、そのために壊されてしまったわたしと明さ んの夢のこと、今まで一日だって忘れたことはなかったわ。わた こんやく

にんしん

したちは婚約しているも同然だったのに、あなたが妊娠しただな んて嘘をついて割り込んできたから、わたしたち、別れざるをえ だま

なかった。愛し合ってたのに、あなたのペテンに騙されて、生木 を裂くようにして別れさせられたのよ」 「やめてちょうだい！」母さんは、今度は自分の耳を押さえた。 「いいえ、やめないわ」 ろうか

 土足のままで、理香子は廊下にあがってきた。亘を押しのけて、 顔と顔がくっつきそうなほど近く、母さんに身を寄せる。 「明さんもわたしも、仕方なく別の人生を歩んだ。でも、やっぱ たが

りお互いのことを忘れられなかった。二年前に再会して、まだ愛 し合ってる、気持ちは昔のままだってわかったときに、わたした うば

ち決めたんです。あなたに奪われた時間は取り返せないけど、ま だ残りの人生をやり直すことはできる、これからは二人で手を取 り合って、けっして離れずに生きていこうって」  母さんはよろよろと半身を揺らし、しゃがみこんでしまった。 その頭のてっぺんを見おろしながら、とどめの杭を打ち込むよう に、田中理香子は言い放った。 「明さんもわたしも、もうあなたには騙されません。あなたが明 どうよう

ぎゃくたい

さんを動揺させるために亘君を虐待するなら、法的手段をとって でも、亘君をこちらに引き取ります」 うめ

 母さんは両手で頭を抱えて呻いている。亘は壁に背中をくっつ けて、このまま壁紙の一部になって、永遠に姿を消してしまいた いと願った。 にく

 怖かった。誰かが誰かを、こんなふうに剥き出しで憎んでいる

318

ま

ぞうお

様子を、亘は生まれて初めて目の当たりにしたのだった。憎悪の 波動のようなものが、理香子の身体からうねりながら飛び出して、 あっとう

はだ

母さんにぶつかり、母さんを圧倒しようとしているのを肌で感じ た。  理香子は玄関に降り、ドアを開けた。そのまま出てゆくかと思っ たら、足を止め、肩ごしに振り返って割れたような声を出した。 「それから、言っておきますけど」 たんきょりそう

 彼女も息を切らしていた。母さんと二人で短距離走をして、ぶっ ちぎりで勝ったところだというような感じだった。 「わたしと明さんの子供は、真由子だけじゃありませんからね」  髪をかきむしっていた母さんの手が、ぴたりと止まった。亘に は何がなんだかわからないけれど、母さんには、今の田中理香子 の言葉の意味がわかっているようだ。 「来年の年明けには産まれます」  理香子はそう言って、右手でそっとおなかのあたりをさすると、 そっと息を吐いた。 「明さん、とても楽しみにしているんです」  そして彼女は出ていこうとした。ドアが大きく開いた。 しゅんかん

 その瞬間、亘の目の前を、何か黒いかたまりが横切った。ケモ す

ば

つなみ

ひ

ノのような素早さで、津波のようなエネルギーを秘めたもの。そ れが母さんだとわかったのは、理香子がぎゃっと悲鳴をあげ、コ めぐ

ンクリートの共用廊下を巡る手すりのところに、背中から叩きつ けられたときだった。 つ

 母さんは無言のまま、目を吊りあげ歯を食いしばり、固く握り こぶし

なぐ

しめた両の拳をめちゃくちゃに振り回して、理香子を殴りつけて いた。理香子の方も、必死に手をバタバタさせて応戦していた。

319

ひび

叫び声がキンキン響く。 りんか

おどろ

 亘が出てゆくよりも先に、隣家の方で驚きの声があがって、パ タパタと足音が近寄ってきた。奥さん、奥さん、いったいどうし たっていうんです落ち着いて！ ああ大変だ誰か一一〇番して！  そんな声が入り乱れる。  亘はその場で回れ右をすると、自分の部屋に駆け戻った。逃げ かく

ちゃいけない、隠れてる場合じゃない、立ち向かわなきゃ、母さ んの味方をしてあげなきゃ、母さんをかばってあげなきゃ──頭 のなかではそう思うのに、身体は全然言うことをきかない。  自室に飛び込むと、亘はベットの下に潜り込んだ。そこにいて さわ

となり

もなお、玄関先の騒ぎが聞こえてくる。女の泣き声がする。隣の お

ば

小母さんが大声を出している。 じゅもん

 亘は両手で耳を塞いだ。そして思いつく限りの呪文を──『サー こうげき

ガⅡ』に登場する、すべての攻撃呪文を順番に暗唱していった。 何かが起こることを期待するわけではなく、何も考えず、感じず にいるために。 「亘、出てこいよ」 ゆか

 ルウ伯父さんが、大きな身体を床にくっつけるようにして、こ ちらをのぞきこんでいた。 「騒動は終わったから、もう出てきても大丈夫だよ」  亘はまだベッドの下で身体を丸めていた。あれからどのくらい 時間が経ったのか、見当もつかない。一時間ぐらいか、それとも 半日だろうか。  ルウ伯父さんは、泣いたみたいに目をしょぼしょぼさせていた。 伯父さん自身が悲しいのか、それとも亘のことを可哀想がってく

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れているのか、わからない。 「……母さんは？」と、亘は小声で訊いた。 ちんせいざい

「今、寝てる。鎮静剤を飲んだから、ぐっすりだ」 うち

 では家にいるんだ。よかった。 「パトカー、来たの？」 「そんなもん来ないよ」 「隣の小母さんが、一一〇番してって叫んでたよ。そのあと、サ イレンの音も聞いたような気がするし」  ルウ伯父さんは、床にほっぺたを押しつけた不自由な姿勢のま ま、ため息をついた。 「そりゃ、救急車だ。あの田中理香子って女を病院に運ばなきゃ ならなかったから」 「あの人、怪我したの？」 「伯父さんが見た限りじゃ、顔をひっかかれたぐらいの傷だと思 うぜ。だけど本人が大騒ぎして、救急車を呼んでくれって泣くか ら」 「伯父さん、知らないの？」 「何を？」 「あの人、おなかに赤ちゃんがいるんだってさ」  伯父さんは目をしばたたいた。片目が床にひっついているので、 おかしな顔だった。 「伯父さん、いつ来たの？ 母さんが呼んだの？」 「いいや。今日はこっちへ来る予定になってたんだ。邦子さんに も、それ、伝えてあったんだけどな。おまえ聞いてなかったか？」 「全然知らない」 むか

「そうか。伯父さん、おまえを迎えに来たんだよ。八月まで待つ

321

ことなんかないからさ、早く千葉へ来ればいいと思って。海を見 てんかん

たら、気分転換になるもんな。それでエレベーターを降りたら邦 子さんの大声が聞こえてさ」 「今、何時？」 「もう夜だよ。九時半を過ぎた」 わたぼこり

 亘はちょっとのあいだ、ベッドの下の綿埃を見つめて黙ってい た

そ

う

た。どうしてこんなところに埃が溜まるんだろう。母さんが毎日 じ

き

掃除機をかけているのに。知らないうちに溜まってゆく。亘は全 然気づいていなかったけれど、埃は確かにここにあって、ずっと よご

部屋を汚していたんだ。 つか

「母さん、警察とかに捕まる？」 「何で？」 「だってあの人を殴ったから」 「それぐらいで罪になんかならないよ」 「でもあの人の赤ちゃんが死んじゃったりしたら、それは母さん のせいだってことになるんでしょう？ そしたらあの人が、黙っ うった

てるわけないよ。警察に訴えて、母さんを捕まえさせようとする んじゃない？」  今度はルウ伯父さんがさっきの亘のように、べったりと床にひっ ついてその一部になろうとしているみたいに見えた。 「赤ん坊は大丈夫だよ、きっと」  呟く声も、自信を欠いていた。 「伯父さん、母さんは、僕を殴ったりしてないよ。ギャクタイな んかしてないよ」 ふしん

まゆ

 伯父さんは不審そうに眉を動かした。 「あの人が言ったんだ。僕が怪我してるのは、母さんに叩かれた

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せいじゃないのかって。母さんが僕をギャクタイするなら、僕を 母さんから引き離して引き取るって。お願いだから、そんなこと させないで」 おお

 伯父さんは手で顔を覆った。「あの女、そんなことを言いやがっ たのか。俺がブン殴ってやればよかった」 「あの人は母さんが嘘をついたって言った。もう母さんには騙さ れないって言った。でも母さんはそんなことしないよ。人を騙し たりしない。嘘つきなのは、あの女の方だ」 「亘──」  伯父さんは亘の方に、太い腕を差しのべた。「いい子だから、 そこから出てこい。伯父さんは、おまえがそんなところで縮こまっ たの

てるのを見るのはたまらないよ。な？ 頼むから出てきてくれよ。 いっしょ

それで、伯父さんと一緒に千葉へ行こう。毎日海へ出て、うんと 泳いで魚をとって、キャンプファイアで焼いて食うんだ。伯父さ んはサーフィン下手くそだけど、近所に上手な友達がいるからさ、 つ

一緒に習おう。釣りは伯父さんが教えてやる。そうして腕をあげ たら、二人で日本じゅうを釣りして回ろう。伯父さんガンバって た

金貯めて、トローリングのできるクルーザーを買うからよ。それ ていちょう

でおまえを艇長にしてやる。おまえの行きたいところ、どこでも 連れて行ってやる──」 きかんじゅう

 機関銃みたいに言葉を打ち出しながら、伯父さんはボロボロ泣 きだした。そのこと自体が、とてもショックだった。いつも明る がんじょう

くて元気で頑丈な伯父さんが、子供みたいにうずくまって泣いて いる。僕らは今、それほどひどいことになってるんだ。 「うん」と、亘は小さく言った。「千葉の家に行こう。でも伯父 さん、母さんも一緒に連れて行こうよ。伯父さんは、母さんのこ

323

と、仲間はずれになんかしないよね？」 「もちろんだ」伯父さんはハナをすすり、手の甲で顔を拭った。 「母さんも連れていこう。母さんにも釣りを教えてあげような」 ふ

 すっかり夜が更け、今日一日のまとめのニュース番組が始まる とうちゃく

ころになって、千葉のお祖母ちゃんが到着した。スーパーの大き ふくろ

さ

な袋を提げて、ふうふういっていた。 ふ

ろ

 亘はベッドの下から出て、風呂に入り、スポーツバッグに衣類 を詰めて、荷造りをしているところだった。お祖母ちゃんは夕飯 をつくると言って、すぐに台所に入った。どこに何があるかわか らないと言っては、亘を呼ぶ。そして用が足りるとすぐに部屋に 追い返し、しきりとルウ伯父さんと話をしていた。母さんはずっ しんしつ

と眠っていて、寝室から出てこない。  三人でテーブルを囲み、食事をした。お祖母ちゃんの味付けは た

濃いし、亘が好きなおかずを知らないし、ご飯は炊き方がやわら お

い

はし

かくて、全然美味しくない。それでも、箸が進まないと怖い顔で にら

睨まれるので、亘は黙々と食べた。 「悟、さっきの話だけど、あたしは邦子さんを千葉に連れていく のは反対だよ」  食事が終わるのを待っていたみたいに、お祖母ちゃんが切り出 した。 「亘もね、あんたはしばらくお祖母ちゃんのところにいた方がい いけど、お母さんはまだこっちでやらなきゃならないことがある んだよ。わかるだろ？ だから駄目だよ」  お祖母ちゃんと面と向かうと、亘は何も言い返すことができな すご

い。だって凄い勢いなんだもの。

324

「でも母さん、邦子さんを一人にしておくのは心配だよ」と、ル ウ伯父さんが抗議した。 「だったら小田原へ帰しゃいいじゃないか」  お祖母ちゃんは、怒っているみたいだった。 「今の状態で、亘と引き離すのは気の毒だ」 「このままじゃ、亘の方がよっぽど可哀想だよ。邦子さんに振り 回されてるじゃないか」  お祖母ちゃんとルウ伯父さんは口論を始めた。それを聞いてい ると、これまでに、父さんと母さん、父さんとお祖母ちゃんと伯 父さん、母さんとお祖母ちゃんというような組み合わせで、何度 となく話し合いが行われてきたのだ──ということが察せられた。 亘が知らなかっただけ、知らされなかっただけで、事態はそれな りに進行していたのだ。 「こうなっちゃもう、夫婦別れするしかないだろうよ」お祖母ちゃ とが

んは口を尖らせて言った。「元には戻らないよ」 「母さん、亘の前だよ」伯父さんが険しい顔をする。でもお祖母 ちゃんも負けていない。 「いいじゃないか。いつまでも亘に隠しておくわけにはいかない んだよ」 「でも──」 「何度話し合ったって、明は絶対に別れるって言い張るだけじゃ ないか。もうやり直しはきかないよ。こんなこと、早く終わらせ た方がいいんだ。邦子さんだってまだやり直しのきく歳なんだか ら」 「簡単に言ってくれるなよ」 「誰が簡単だなんて言うもんか。あたしだって、この歳になって

325

せがれ

悴こんな問題を起こすなんて、夢にも思っちゃいなかったよ。の んびり老後を過ごさせてもらいたかったよ」 みは

 亘は両日を瞠ってお祖母ちゃんの顔を見ていた。 めんどう

いや

「母さんは自分が面倒に巻き込まれるのが嫌だからって、明のあ んな身勝手な言い分を聞いてやるのかい？ 俺は嫌だよ。あいつ は男の風上にもおけねえ。あんなのが弟だと思うと、俺は情けな くて泣けてくるよ」 「身勝手は身勝手だよ」お祖母ちゃんはちょっとひるむと、手近 ふきん

の布巾を取って握りしめた。「だけどね悟、明ばっかりが悪いわ けじゃないだろう？ あんただってあの子の話を聞いたろうさ。 あの女、あたしゃ覚えてるよ。けっして気に入っちゃいなかった ぼ

けど、昔、明と付き合ってた女じゃないか。二人してベタ惚れで よめ

かくご

さ。あの女が嫁に来るもんだと思って、あたしゃ覚悟してたんだ よ。それなのに、半年もしないうちに邦子さんと結婚することに なっちまってさ、キツネにつままれたみたいだったよ」 「母さん、やめろ」ルウ伯父さんが亘を気にした。「そんなのは 過去のことだろ」 「過去のことが終わってないから、今こんなことになってるんじゃ ないか。明は邦子さんに丸め込まれたんだろ？ 子供ができたな んて言ってさ、仕方なしに明が結婚を決めたら、ケロッとして流 産しましたって言ったって。嘘ついたんだよ」 ど

な

「母さん！」ルウ伯父さんが怒鳴った。「そんな話を亘に聞かせ るな！」  自分でも気づかないうちに、亘は呟いていた。「いいよ、伯父 さん、僕その話ならもう聞いて知ってるから」 ふ

 お祖母ちゃんは布巾で涙を拭いた。「確かに明はバカだよ。大

326

むすこ

バカだ。だけど、どんなバカでもあたしの息子だよ。本人があん けんめい

なに一生懸命になってるんだもの、幸せにしてやりたいじゃない か。邦子さんがどうしても別れないって言うなら、あたしが土下 座したっていいからさ、それであの人の気が済むなら、あたしは そうするからさ」  今度はお祖母ちゃんが本式に泣きだした。  ルウ伯父さんが、消え入りそうな声で呟く。 「だけど亘が可哀想じゃないか。どうしろっていうんだよ」 「うちで引き取るよ」お祖母ちゃんは決然として言い切った。 あとと

「何といっても、この子は三谷の家の跡取りなんだからね。その 方が、邦子さんだって再婚しやすいだろ？」 い

す

 亘は目が回ってきて、椅子に座っていられなくなった。今にも 床に落ちてしまいそうだ。 ゆうれい

 そのとき、寝室のドアが開いて、幽霊のようにふらりと、母さ んが出てきた。 か

あ

「帰ってください、お義母さん」  母さん、たった半日で、体重が半分に減ってしまったみたいに 見える。それでも声はきっぱりしていた。 「ここはわたしと亘の家です。帰ってください」 「邦子さん？」お祖母ちゃんが立ちあがった。「あんたね、そう が

やって我を張って──」 「亘はどこにもやりません。わたしが育てます」母さんは一本調 子に宣言した。「明さんとも別れません。わたしたちは家族です。 勝手なことばっかり言わないでください」  お祖母ちゃんは手にした布巾をテーブルに叩きつけた。「誰が 勝手なことを言ってるっていうんだい？ もとはと言えば、あん

327

ま

さび

たが蒔いた種じゃないか。身から出た錆だろ？ 明はあんたに騙 されたって言ってるんだよ。あんた、それがわかってるの？」  母さんはお祖母ちゃんに向き直った。無敵のはずのお祖母ちゃ んが、ちょっと後ずさりした。母さんの身体の周りの空気だけ、 マイナス一〇度くらいになっている。 「お義母さん、わたしたちは十二年も夫婦をやってきたんです。 本当にわたしが明さんを騙して結婚したなら、そんなに保つわけ がないでしょう？ とっくに壊れていたはずです。あの人が今ご ろになってそんな古い話を持ち出すのは、自分のやってることが 後ろめたくてたまらないからですよ。自分の不始末を正当化する りくつ

ために、理屈をこねているんです。あの人にはそういうところが あるって、お義母さんだってよくご存じじゃないですか」 かたく

 お祖母ちゃんの、それでなくても頑丈そうな顎が、いっそう頑 えが

なな線を描いた。 「あたしの息子を、よくまあそうボロクソに言ってくれるもんだ ね。あんたがそんなんだから、明がほかの女に走るんじゃないか」 そうはく

 母さんは蒼白な顔のまま、ひたとお祖母ちゃんを見つめて言っ た。「帰ってください。この家から出ていって」  お祖母ちゃんが母さんに詰め寄ろうとしたのを、ルウ伯父さん が止めた。 らんとう

「母さんも邦子さんも、やめなよ。今日はもう乱闘はたくさんだ。 うんざりだよ」 こぶし

 お祖母ちゃんは、ぶんと拳を振った。「悟、帰るよ。亘もおい で」  亘はぴしゃりと答えた。「僕はここにいる。母さんといる」  お祖母ちゃんが、こっぴどく傷つけられたみたいに痛そうな顔

328

をしたので、亘は目をそらした。 「わかったよ、邦子さん。俺たち、今夜は引きあげるよ」ルウ伯 父さんがお祖母ちゃんの腕をつかみ、玄関の方へ歩き出した。 「だけど邦子さん、冷静になってくれよ。ヤケを起こしちゃ駄目 だよ。いいね？ 亘、伯父さん、明日また来るからな」  母さんと二人きりになると、家のなかに、必要以上の静けさが 戻ってきた。 「亘、もう寝なさい」 よくよう

 さっきお祖母ちゃんに向けて言ったのと同じ、まったく抑揚の ない口調で、母さんは亘に命令した。 「母さんも寝るから。今夜はゆっくり休んで、明日話し合いましょ う。ね？」  亘は黙って、自分の部屋に引きあげるしかなかった。どうして いいかわからなかった。昼間は、あの田中理香子という女が不気 まじょ

のろ

味な魔女に見えた。でも今は、母さんが魔女に見える。呪いの言 に

おおがま

葉を吐きながら、毒薬がぐつぐつと煮えたぎる大釜をかきまぜて いる黒衣の魔女に。 わき

ひざ

かか

 ベッドの脇に背中をもたせかけて、亘は両腕で膝を抱えた。す ぐに眠くなってきた。眠っていられるような場合じゃないのに、 きり

とうひ

視界に暗い霧がかかる。身体と心が現実逃避を望んでいるのだ。 眠ってしまおう。眠って、ここからいなくなるんだ。  うつらうつらとしていると、どこかで電話のベルが鳴った。何 時だろう？ 誰からの電話だろう？ や

 ベルが止んだ。母さんが出たのか？ 話し声が聞こえる。何だ か泣いてるみたいな声がする。それとも怒っているのかな。

329

 だったらなおさら、眠ったままでいたい。もう嫌だよ。泣くの も怒るのも。 ふち

 亘は暗い淵の底に沈むように、ゆっくりゆっくりと眠りのなか に落ち込んでいった。  そして──どれぐらいの時が経ったろう。  誰かがすぐそばにいて、亘の肩を揺すっている。強い力ではな しんぼうづよ

いけれど、辛抱強く揺さぶっている。 「ミタニ、起きろよ」  呼びかける声が聞こえる。誰の声？ 聞き覚えがあるような、 ないような。 ふじょう

 亘は眠りの底から浮上する。声に導かれて。「ミタニ、しっか りしろよ。起きないと大変なことになるぞ」 しょうてん

 亘は目を開いた。すぐには焦点があわなくて、ただ真っ暗なだ けだった。 きゃしゃ

ひとかげ

 顔を上げると、周囲の暗闇のなかでひときわ黒い、華奢な人影 が見えた。  芦川美鶴だった。  魔導士のような黒いマントを着ている。マントの下も黒い衣服 かわひも

だ。すぽんとしたシャツに、動きやすそうなズボン。革紐を編ん でつくった膝下までのブーツ。腰のところも革バンドで留めてい さや

て、鞘に収めた小さなナイフをぶらさげている。 つえ

 そして、右手に杖を持っていた。てっぺんのところにきらきら 輝く石のついた、不思議な光を放つ黒い杖だ。 「芦川──」亘はぽかんと口を開き、急いで周りを見回した。

330

ヴィジョン

13 幻界へ

「ここは？」 あか

まちが

ね

 亘の部屋だ。灯りは消えて暗いけれど、間違えようがない。寝 い

入ったときと同じ姿勢で、ベッドにもたれている。 すそ

 亘は芦川に飛びつき、両手でマントの裾をつかんだ。 「芦川、どこから来たんだ？ 今までどこに行ってたんだ？ 何 をしてたんだ？」 びしょう

つえ

わき

ひざ

 芦川は悲しそうに微笑すると、杖を亘の脇に立てかけ、膝を折っ てしゃがんだ。 はな

「長々と説明してる時間はないんだ」亘の手をマントから引き離 しながら、彼は言った。「だから手短に言うよ。僕はおまえを助 けに来たんだ。借りがあるからな」 「借り？ 助けに来た？ どういうこと？」 「深呼吸してごらん」 あおむ

 芦川はちょっと顔を仰向けにした。きれいな鼻の線が、暗がり のなかでも光って見える。 にお

「ガスの臭いがするだろ？」 せ

くさ

 亘は鼻をふんふんさせた。とたんに咳き込んだ。ホントだ、臭 い。 せん

「おまえの母さんが、ガス栓をひねったんだ」 おどろ

つまさき

 亘はもう驚くどころではなかった。爪先から頭のてっぺんに向 きょうふ

か

ぬ

けて、恐怖がざあっと駆け抜けた。 いっしょ

「おまえと一緒に死のうとしてるんだ。都市ガスじゃ死ねないん

331

だけどね。そのこと、知らないんだな」 「と、と、止めなきゃ」 かた

 立ちあがろうとした亘の肩を押さえて、芦川は止めた。 「それは後でも間にあう。今は僕の話を聞くんだ」 さわ

 芦川は手をあげて自分の首のあたりに触った。何かペンダント みたいなものを、ふたつ重ねてかけている。そのうちのひとつを 外して、亘に差し出した。 かわひも

 黒い革紐に、小さな銀色のプレートがついている。とても軽く て、とてもきれいだ。 あかし

にぎ

「これは〝旅人の証〟だ」芦川は言って、それを亘の手に握らせ ヴィジョン

た。「これがあれば、〝幻界〟を自由に旅することができる。最 たびじたく

ととの

初に番人のところへ行ってこれを見せれは、旅支度を調えてくれ るよ。こんなふうに」 い

 ちょっと両手を広げて、芦川は彼の出で立ちを示した。 「ヴィジョン──〝幻界〟？」 きおく

もど

 芦川はうなずいた。「もう記憶は戻ってるはずだ。だからわか ゆうれい

るだろ？ 一度は行ったことがあるはずだ。あの幽霊ビルの階段 とびら

の、宙ぶらりんになっている先に扉がある。今はおまえのために、 だ

め

番人が待っていてくれる。でも、あんまり長く待たせては駄目た。 あ

みょうじょう かがや

明けの明星が輝く前に行くんだよ」 〝幻界〟。『サーガⅡ』の世界をそのまま映したような、不思議 な場所。 まぼろし

「あれは幻じゃなかったんだ……」 つぶや

 亘の呟きに、芦川はにこりと笑った。 「そうさ、幻じゃない。〝幻界〟は実在する。現に僕は、そこか ら来たんだ。もう旅を始めていたんだけど、〝真実の鏡〟をのぞ

332

ほう

いたら、おまえの様子が見えた。放っておいたって良かったんだ けど、でも──」 か

 芦川はちょっとくちびるを噛んだ。 「さっきも言ったように、おまえには借りがあるからな。それに、 おまえは僕とよく似てる。同じようなものを背負ってる。だから、 おまえにもチャンスをあげたかったんだ」 「チャンス？」 は

 芦川は立ちあがり、マントを肩の上に撥ね上げた。 つく

「〝幻界〟は、現実世界に住む人間の想像力のエネルギーが創り 出した場所だ。だからいつでもそこにある。でも、現実世界との へだ

かなめのみとびら

あいだを隔てている〝要御扉〟が開くのは、十年に一度だけだ。 それも、まず〝幻界〟への通路に適した場所があって、しかもそ こ

のすぐ近くに、命をかけて、あらゆる困難を乗り越えてでも、運 命を変えたい、失ったものを取り戻したいと、強く願う人間がい なくては、扉は姿を現さないんだ」  芦川は再び杖を手に取った。 く

「通路に適した場所──？」亘は繰り返した。 「そうだ。大松ビルの階段がそれだ」芦川はよく通る声で説明し いかい

た。「階段というのはね、それでなくても、異界への通路になり やしき

しゅつぼつ

やすいものなんだよ。有名な幽霊屋敷でも、幽霊の出没場所って、 階段が多いだろ？ 階段というものは、もともとそういう機能を つらぬ

みち

持っているんだ。空間を縦に貫いて、本来は存在しないはずの路 を通す建造物だから」 あぜん

たんせい

あお

 亘はただ唖然として、芦川の端整な顔を仰ぐばかりだった。 「大松ビルのあの階段は、作りかけで放り出されて、どこにも通 じていなかった。だからその宙ぶらりんの先に、〝幻界〟へ通じ

333

る力が集まっていたんだ。そこに僕がやってきた。だから、要御 扉が現れた──」 「君は──運命を──変えたいと願って」 かけら

「そうだよ」芦川は迷いの欠片も見せず、深くうなずいた。「知っ てるだろ？ 僕の家で何が起こったのか」 ふりん

 亘はうなずいた。芦川の両親。父親が母親を殺し、母親の不倫 相手を殺し、芦川の妹を殺し、芦川が学校から帰ってくるのを待っ ていた── 「僕は自分の運命を変えたい」芦川は、無駄な気負いのない、静 かな口調でそう言った。「だから、〝幻界〟へ行こうと決めたん だ」  杖をつかんで、マントの下に入れる。 モンス

「〝幻界〟は広いし、危険な場所もたくさんあるし、恐ろしい怪 ター

物がたくさんいる。でも、どこかにあるという〝運命の塔〟にた どりつくことさえできれば、きっと道は開ける」 「〝運命の塔〟──」 つかさど

めがみ

「そこには人間の運命を司る女神が住んでいて、たどり着いた者 の願いをかなえてくれるんだ。僕は必ず行ってみせる。そして運 あきら

命を正すんだ。絶対に諦めない」 ふる

 芦川の声が、初めて感情を映して震えた。 「もし──もしも僕の力が足りなくて、両親を助けることはでき うつしよ

なくても、せめて妹だけでも助けたい。あいつを現世に連れ戻し てやりたい。だってあいつは──ホントに小さかったんだから」  マントの下で、芦川は手を握りしめていた。 「僕も行きたいよ、運命の塔へ」亘も立ちあがり、両手で芦川の たの

手をつかもうとした。「頼むよ、一緒に連れて行ってよ」

334

「それはできない」芦川はすっと後ろに下がった。「運命の塔へ 至る道は、旅人が自力で見つけ出さなくちゃならないんだ。自分 ひとりの力でたどり着かなくちゃ、女神は会ってくれない。他人 をあてにすることはできないんた」 「そんな……だってそれじゃ……大変すぎるよ。僕ら、まだ子供 なんだぜ？」 「運命を変えようっていうんだ。易しいことであるはずがないだ ろ？」 いっしゅん

 一瞬、亘がよく知っている芦川の、あの人を見下したような目 みょう

なつ

つきが戻ってきた。妙に懐かしい。ああ、こいつホントに本物の 芦川美鶴だ。 「僕はもう戻らなきゃ」芦川は、また一歩後ろに下がった。「ミ お

タニ、決心がついたら、要御扉に行くといい。怖じ気づいて諦め るなら、それでもいいよ。夜明けまで待てば、要御扉は消えてし まう。二度と、おまえの前には現れない」 りんかく

 芦川の身体の輪郭が、ふうっとぼやけ始めた。どこからか銀色 あふ

の光が溢れ出して、彼を包み込んでゆく。 「だけど、それでは、おまえの運命もそのままだ。何も変わらな いどころか、どんどん悪くなるばかりかもしれない」  よく考えろ──その声を残して、芦川は消えた。  しばらくのあいだ、亘は膝立ちになって、芦川が消えた空間を 見つめていた。すると何かが、ぽとりと足元に落ちた。 つめ

 ペンダント。〝旅人の証〟だ。銀色の、亘の小指の爪ぐらいの ゆる

大きさのプレートが光っている。亘の指が緩んで、手のなかから すべ

滑り落ちたのだ。 にじいろ

まぶ

 見つめるうちに、プレートが一瞬、虹色の眩しい光を放った。

335

思わず手をあげて目を守るほどの、強い輝き。  そして、重々しい声が、どこからともなく呼びかけてきた。 なんじ

ふ

「汝は選ばれた。道を踏み誤ることなかれ」  亘はペンダントを拾い、立ちあがった。  台所のガス栓が、全開になっていた。亘はそれをきっちり閉め ると、ベランダに通じる窓を開け放った。 む

 蒸し暑い夜だった。町の上に、どんよりと夜気がたれこめてい う

あせ

る。しかし亘の額に浮かぶ汗は、気温のせいではなかった。 げんかん

しんしつ

 ペンダントを首にかけ、玄関に向かう。母さんの寝室の前で足 ひそ

を止め、密やかに閉めきりになっているドアに向かって、心のな かで呼びかけた。  ──母さん、行ってくるよ。必ず帰ってくるから、待っててね。  僕は運命を変えてみせる。父さんがあんなふうになってしまわ ないように、母さんがあんな非難の言葉をぶつけられずに済むよ うに、田中理香子という女が、父さんの前に現れないように。  僕ら家族三人が、また仲良く、楽しく平和に暮らせるように。  運命を変える。いや、というよりも、不当にねじ曲げられ変化 させられている運命を、元どおりの正しい形に戻すんだ。  外へ出て、夏の夜の底を、亘は一路、大松さんのビルを目指し うんどうぐつ

は

け

て走り出した。運動靴を履いた足が、軽やかにアスファルトを蹴 むなもと

ゆ

る。走るたびに、胸元でペンダントのプレートが揺れた。  大松ビルが見えてきた。青いシートにすっぽりと覆われたシル なぞ

きょたい

エットが、気のせいか、今までになく謎めいて見える。巨大な道 標──意味を知る者にだけそれとわかる、別世界への道しるべ。  シートのいつもの場所をめくりあげて、滑り込むようにして内

336

側に入った。 ほたる

 なかは明るかった。無数の蛍が飛び交っているみたいに、細か りゅうし

ま

な光の粒子が舞っている。それらの粒子は亘の身体にもくっつい うで

ふ

おど

て、亘が腕を振り、足を踏み出すと、ふわりふわりと周りを躍っ た。  あの作りかけの階段のいちばん先に、扉が見えていた。古風な ふち

も

形の緑をぐるりと、白い光が取り巻いている。光は放射状に漏れ て、眩しくて見ていられないほどだ。  亘は階段をのぼった。一歩一歩、踏みしめるようにしてのぼっ た。視線は扉から離さなかった。歩くうちに、自然に手が動いて、 ペンダントのプレートを握りしめていた。  亘が扉の前に立つと、扉の周囲から漏れていた白い光が、いっ そう強くなった。反時計回りにぐるりと、虹色の光の帯が、その なかを駆け抜ける。それに呼応するように、ペンダントのプレー トが、亘の手のなかで、再び虹色に輝いた。  ゆっくりと、扉が開いてゆく。光が押し寄せてくる。亘は目を あご

細め、顎をそらし、両手を大きく広げて、全身で光を受け止めた。  そして、扉の内側に足を踏み入れた。

337

部 二 第

338

１ 番人たちの村

 まばゆい光のなかを、どのくらい歩いただろうか。ふと気がつ すず

そよかぜ

ほお

な

くと、ワタルは深い森のなかにいた。涼しい微風が頬を撫でる。 うっそう

しげ

 空まで届くような背の高い木々が鬱蒼と繁っている。首が痛く はし

なるくらいに見あげても、やっとこさ、ハンカチの切れ端のよう な青い空が見えるだけだ。 こがねいろ

かがや

 そしてその空の真ん中に、黄金色の太陽が輝いていた。  ピー、プー。  不意に、オカリナみたいな音色の音が聞こえてきた。ワタルは かかと

からだ

周りを見回した。踵を軸に、ぐるりと身体を回してみた。  ピー、プー。ポロロロロ。 あざ

 また音がして、すぐ先の木立のなかほどから、鮮やかなオレン ジ色の羽根の鳥が飛び立った。へえ、あの鳥の鳴き声なのかな。  それにしても、この森の深さと広さ。みっしりと葉を繁らせた たが

うで

枝と枝が、互いに腕を組み合わせるようにして、ワタルの頭上を おお

覆っている。それなのに、あまり暗い感じがしない。きっと、太 陽が中天にあるからだろう。 あしざわ

ふ よ う ど

 足元の地面は、ふわふわと足触りが気持ち良い。腐葉土とかい うんだったかな。ワタルが一年生のとき、家族で北海道旅行をし て、森のなかのキャンプ場にテントを張った。そのとき、父さん が教えてくれたっけ。 つや

こけ

かれん

 地面は艶やかな緑色の苔や、白い可憐な花をつけている背の低 てのひら

い草や、ビロードのような手触りで、大きさがワタルの掌ほどあ

339

りそうな、オオバコみたいな草で覆われている。だが、よく見る あと

と、そのなかに、人の通ったような跡がついていた。人が歩くう ふ

ちに、自然に踏みしめられてできた道。うねうねと森のなかを通 ぬ

り抜けて、ずっと先の方まで続いている。  ワタルは大きく深呼吸をして、その道を歩き続けた。森のどこ かから、またオカリナの音色の鳥の声が聞こえてきたので、口笛 ま

ね

で真似てみた。ワタルがピープーと吹くと、ひと呼吸おいて、鳥 しりあ

の声が問いかけるように尻上がりで、プーポー、ロロロと返して ちんもく

きた。今度はそれを真似してやると、ちょっと沈黙してから、 「ピッピ、ポロロロピ、ピポロロピロロ、ピピルルルー」 すご

うれ

 凄い複雑な音階だ。ワタルはやたら嬉しくなってしまって、笑 いながら、大きな声で頭上に呼びかけた。 「わかったよ、僕の負けだよ。そんなフクザツなの、真似できな いよ。上手だね」  ピーポーと、鳥は返した。なんとなく得意そうな感じに聞こえ る。  さらに進んでゆくと、道がくいっと右に曲がっていた。その先 とつぜん

で、突然視界が開けた。 えんとつ

つ

 赤い屋根に、小さな煙突をちょこんと突き出した小屋が見える。 けん

一軒、二軒──どうやら、集落のようだ。  ワタルはいちばん手前の小屋に近づいていった。ここは森のな かに開けた広場のようなところだ。そのなかに、数えてみると、 五軒の小屋が建っていた。五軒ともみんなそっくりの造りだ。た けむり

だ、煙突から煙が出ているのは、いちばん手前の小屋だけだった。  丸太造りのドアの前に、これまた丸太を切って並べただけのス テップが、三段分ある。そのいちばん上に立って、ワタルは呼び

340

かけた。 「ごめんください」 ただよ

こ

 返事なし。煙突からは白い煙がのんびりと漂う。焦が焦がした にお

いい匂いがする。ワタルは鼻をくんくんさせた。 「ごめんください、お留守ですか？」  そのとき、ドアが内側からばぁん！ と開いた。あまりに突然 くず

だったので、ワタルはバランスを崩してステップから落ち、地面 しりもち

に尻餅をついてしまった。  ドアを押さえて、長いローブを着た老人が立っていた。そして こぞう

いきなり、噛みつくようにして、ワタルに言った。「小僧、無意 味な質問じゃ！」  ワタルは思わず老人の顔を指さした。「あなたは！」 かなめのみとびら

ま ど う し

〝要御扉〟のところで会った、あの魔導士じゃないか！ あのと ちが

きと、ローブの色は違うけれど、顔も声も同じだ、間違いない。 ふ き げ ん

 だけど、あのときよりもずっと不機嫌で、意地悪そうな目つき にら

をしている。白目の多い目でぎろりとワタルを睨むと、口の端を ひん曲げてまくしたて始めた。 「もしもわしが留守ならば、お留守ですかと問いかけられて、返 事をするわけがない。留守でないならば、留守ではないと返事を するより先に、戸を開けて出てゆけば済むことじゃ。つまり、お む

だ

ぬしは言葉の無駄使いをしておる。わかっておるのかの？」  ワタルはへたりこんだまま、「はあ」と言った。 おこ

「それも余計な言葉じゃ！」老人は天を向いて怒った。ここまで つば

唾が飛んできそうだ。 「ハイならハイ！ イイエならイイエと言えはいいのじゃ！ な してハアなどといい加減な音を発する？ ハアだけでは返事にな

341

らんから、結局そのあとに何か言うのであろう？ それも言葉の 無駄使いじゃと言うのに、わからんのか？」 「あの、でも僕──」  ワタルが何か言おうとすると、老人は顔を真っ赤にして両手で 胸をかきむしった。 ろうひ

「おお、おお、まだ言葉の浪費をしよる！ そこになおれ！ わ しが成敗してくれる！」 すそ

ひるがえ

か

 ローブの裾を翻して、小屋のなかに駆け込んでゆく。ワタルが つえ

ぽかんと見守るうちに、両手で重そうな杖をつかんで、ぶんぶん ふ

もど

振り回しながら戻ってきた。 「それ、覚悟せい！」 さけ

 きゃっと叫んで、ワタルは逃げ出した。 「こりゃ！ 逃げるでない！」  老魔導士が追いかけてくる。ワタルは立ち並ぶ小屋の周りをぐ るぐる回り、かくれんぼのような追いかけっこのようなことをし ばらくやった。老人はとても元気で、ずっと同じテンションで怒っ ており、息を切らすような様子も見せない。ワタルの方があわて てしまい、追いつかれそうになって広場の端に逃げ、そこでまた 追いつめられそうになって進退きわまった。  ふと見ると、いちばん奥の小屋の裏口が、すぐ右手に見える。 ど

な

わき

怒鳴り散らしながら駆け寄ってくる魔導士の脇をすり抜けて、裏 口に飛びついた。丸太造りのドアはあっさりと内側に開いて、ワ タルは小屋のなかに飛び込んだ。 だんろ

かた

しんだい

うす

 小さな暖炉にテーブル、硬そうな寝台に薄い毛布。それらのも いとま

のを目に留める暇もあらばこそ、すぐに背後で、今通り抜けてき たドアが開いて、

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「こりゃ、逃げるでないと言うておるだろうが！」  魔導土が追いついてきた。ワタルは小屋のなかを横切って表の ドアから外にまろび出た。  ──どうしよう、困っちゃった。なんでこんなことになるんだ？  芦川は（最初に番人のところへ行け）と言っていたし、あのお じいさん魔導士が、たぶんその番人なんだろうし──だって、以 前にも要御扉のところに立ってたんだからさ──それなのにどう して、こんなふうに追いかけ回されなきゃならないんだ？ 話が 違うよ。  すごいスピードでそんなことを考えながら逃げ場を探していて、 ひょうしぬ

ふと、拍子抜けしたみたいに、魔導士の姿が見えないことに気が ついた。あれ？ もう追いかけてこないのかな。 びみょう

 振り返って集落をよく見ると、最初に目にしたときと、微妙に 感じが違っている。なんだか間違い探しみたいだ。何が違ってい るんだろう？ 煙突だ。煙突から立ち上る、白い煙。  最初に来たときは、手前の小屋の煙突から煙が出ていた。とこ ろが今は、いちばん奥の小屋──さっきワタルが通り抜けてきた 小屋の煙突から煙が立ちのぼっているのだ。  しかも、おじいさん魔導士は、ワタルを追いかけてあの小屋に 入り、そのまま出てきていないようである。  ふかふかした地面の上を用心深く歩いて、ワタルは奥の小屋の ドアに近づいた。耳をあててみる。何も聞こえない──  いや、聞こえる。鼻歌を歌ってるぞ。 「あのォ──スミマセン、ごめんください」  声をかけると、鼻歌がやんだ。ゆっくりとした足音が近づいて くる。

343

 ドアが開くと、さっきの魔導士が顔をのぞかせた。全然怒って いない。 「おや、これはこれは」と、両手を広げた。 「わしを訪ねてきたところを見ると、もしかするとおぬしは、ミ ツルの言っていたもう一人の旅人かね？」 おだ

 すごく親切そうで、穏やかな話し方だ。これ、いったいどうなっ てるんだ？ 「あの、おじいさん」  やっとこさ、ワタルは問いかけた。 「僕のこと、怒ってないんですか？」  老人は小さな目をいっぱいに見開いた。 「わしが？ おぬしを？」  そして広げた両手を見おろすと、その左右の手のあいだの空間 さが

なが

のなかを、何か捜し物でもするみたいに、しげしげと眺めた。 「なぜ、わしがおぬしを怒らねばならないのかの？」 「なぜって──だってさっき──怒ってたじゃないですか」  ワタルは最初に訪ねた小屋の方を指さした。 「僕が訪ねて行ったら、初めっから不機嫌で、僕が言葉の無駄遣 いをするって、杖を振り回して追いかけてきたじゃないですか」  魔導士は、細くて長い指で、自分の鼻の頭を指さした。 「わしが？」  ボケている。 こ

 ワタルは力を込めて答えた。「そうですよ」 ヴィジ

 からかわれてるのかな。いや、ひょっとすると、これが、〝幻 ョン

界〟で旅人が受ける、最初のテストみたいなものなのかもしれな い。気まぐれな番人と、うまく調子をあわせられるかどうか。だ

344

ふ

ま

じ

め

としたら、不真面目な態度をとってはいけないだろう。 「それであの、確かに僕は、旅人なんですけども」ワタルはあの ペンダントを引っ張り出した。 「芦川美鶴から、これをもらいました。幻界の番人にこれを見せ たびじたく

ととの

れば、旅支度を調えてもらえるって。ここでいいんでしょうか」  老魔導士は、長いローブの内側に手を突っ込んだかと思うと、 どこからか、笑っちゃうほど大きな天眼鏡を取り出した。そして、 ペンダントをつかんでいるワタルの腕ごとぐいと引き寄せて、じっ くりとプレートを観察した。 「なるほど」と、ひと言。「確かにおぬしはミツルの言っていた 二人目の旅人じゃ。名前はなんという？」 「三谷ワタルです」 「長いのう。こちらではただの〝ワタル〟でよろしい。いずれに しろ変わった名前じゃから、他の者と間違われることはあるまい て」 すなお

 ハイわかりましたと、ワタルは素直にうなずいた。 「では、どうぞお入り」老魔導士はドアを押し開けて、ワタルを い

す

小屋のなかに招き入れた。「そこのテーブルの前の椅子にお座り。 今、地図を出してやるからの」  言われたとおりに、ワタルは質素なテーブルに向き合って座っ た。ドキドキする。 しょだな

 老人は戸口のドアを閉めると、小屋の奥のこぢんまりした書棚 みたいなところに近づいて、そこに立てかけられている数冊の書 物を取り出した。本のページを開くのかと思ったら、そうではな く、本を抜き出すことでできた空間の奥へ手を突っ込んでいる。 「これこれ、これじゃ」

345

 そう言いながら、巻物のようなものをつかんで取り出した。 ちょっと見たところ、『サーガⅡ』に出てくる〝商人の地図〟に そっくりだ。端の方がちょっぴり黄ばんでめくれているところな んかも。  商人の地図は、大ジュマ国全体の地図ではないのだけれど、人 かいどうすじ

めいしょう

が住んでいる町と、街道筋の様子だけは知ることができた。名称 どおり、商人たちが交易のために足で調べて作った地図なのだ。 ちゅうばん

ようせい

ゲームをクリアするためには、中盤で妖精たちの国へ行き、商人 えが

の地図には描かれていない土地と海域の地図を描き足してもらう とうぎじょう

ぎ

必要がある。さらに、首都のジュマラングで闘技場の百人斬りイ ぼうけんか

かくとく

ベントに勝ち、〝冒険家の地図〟を獲得して、二枚の地図を重ね めいきゅう

げんじゅう

合わせると、初めて、最後の迷宮の存在する〝幻獣島バルバラン〟 の場所が明らかになる──という手順だった。  老魔導士がテーブルの向かいに座り、地図を広げた。地図はすっ かり丸まっているので、両端を手で押さえなければならない。魔 がいこつ

や

導士の骨張った手は、ほとんど骸骨みたいに痩せてカサカサだっ た。 「これが〝おためしのどうくつ〟への地図じゃ。この道順どおり に歩いてゆけば、おぬしがどれほどの間抜けでも、必ずたどり着 くことができる」  ワタルは地図を見て、盛大な空振りをした気分になった。なん も

よ

というか、子供の落書きみたいなのだ。最寄りの駅からワタルの 家までの道順を描いたって、もうちょっとフクザツになるだろう。 「これ、今僕たちがいるところですよね？」  ワタルは、五軒の小屋の絵を描いてマルで囲んであるところを 指で押さえた。

346

「そのとおり」 ま

す

「ここから北の森へ、真っ直ぐ入ってゆけばいいんですか？」  地図にはそう描いてある。一本道。 「そのとおり」 「そうですか、アハハ」ワタルは笑った。「これなら僕、地図な くても行かれます」 ちょうじょう

「それは重畳」老魔導士は重々しく言った。 「は？ 頂上？ どこかに登るんですか？」  魔導士は、いきなり、ワタルのおでこをペたりとぶった。 ほらあな

「〝おためしのどうくつ〟は洞穴じゃ。登ってどうする」 「はあ。でもあの、この〝おためしのどうくつ〟へ行って、僕、 何をするんですか？ ここに何があるんです？」 「おぬし、ミツルから聞いて知っておったのではないのかの？  旅支度をするのじゃ」 「ここで？」ワタルは、地図の上に〝おためしのどうくつ〟と書 かれているところに指を置いた。「ここ、地名が書いてあるだけ どうくつ

で、図がないですね。洞窟のなかのマップはないんですか７」 「あるわけなかろう。それでは〝おためし〟にならぬではないか」 あき

 魔導士は、呆れたみたいな口調で言った。 「よろしいか。おぬしはここに入る。入ると地図ができる。そし て出てくる。出てくると、旅支度ができている。そういう仕組み じゃ」 オ

 ああ、わかった！ ワタルはぽんと手を打った。「そうか、自 ー

ト

マ

ッ

ピ

ン

グ

動地図製造機能がついてるダンジョンなんですね！」  また、おでこをペタリとぶたれた。 じゅもん

「そのような呪文は聞いたこともないの。このわしが知らぬ呪文

347

が、幻界に存在するわけがない。おぬしの言うことは、どうもデ タラメでいかんわ」 「でも、僕『サーガ』のシリーズはすごくやりこんでるし、ＲＰ Ｇには詳しいんです、だから──」  老魔導士が何も言わず、しわくちゃな顔をしたので、ワタルは だま

黙った。 「では、行きなされ」と、魔導士は窓の外を指さした。「北の森 はあちらじゃ」 「はい、行ってきます」ワタルは立ちあがった。「でもあの、な んか武器とかそういうのはもらえないんですか？」 まゆげ

「武器？」老人の白くてボサボサの眉毛が持ちあがる。 「はい、剣とかこん棒とか」 「そのようなものはない」 「ない──ですか」  老魔導士はきっぱり言い切った。「ない。早く行きなされ」 モンスター

「だけど、怪物とかに襲われたらどうしましょう？」 「逃げることじゃ」 「逃げ──られればいいけど」 「できるだけ速く走ることだの」 「はあ──シンプルなアドバイスですね」  ギロリと睨まれたので、ワタルは回れ右をして小屋の出口に向 かった。ワタルがドアを開けると、ついでみたいに、魔導士は言っ た。「よほど心配ならば、北の森で木の枝でも拾ってゆくことだ がんじょう

の。なるべく頑丈な、硬い枝を選んでの」  わかりました、そうします。ワタルは外に出た。ふかふかの土 こ

を踏んで、集落を横切り、魔導士が指さした方向にある、緑濃い

348

森に向かって歩き出した。 いちじん

ふ

かみ

 ワタルの背中の方から、一陣の風が吹いて、髪を吹きあげた。 オカリナのような鳥の声が、風に混じってコロコロと聞こえた。

349

２ おためしのどうくつ

 北の森は、集落にたどり着くまでに通り抜けた森よりも、心な しか空気がひんやりとしているようだった。美しい鳥の声が聞こ えるだけで、動物の姿はまったく見えない。白い花にまとわりつ ぴき

くチョウチョの一匹さえも。 ま ど う し

てごろ

 それに、魔導士が言っていたみたいな、手頃な木の枝なんか見 あたらない。落ちているのは花びらか葉っぱばかりだ。 さび

 さっきまでより、うんと寂しい。心細く感じるのは、気が弱っ ているせいだろうか。  道は本当に地図どおりの一本道だ。ただ、ところどころ下ばえ おお

の草に覆われて、道が見えなくなっているところがある。場所に よっては、十メートルぐらい道筋が消えていて、木々のあいだを ぐるぐる探さなくてはならないところもあった。つまりこの道は、 あの集落に通じている道よりも、人が歩く機会が少ないというこ となのだろう。 すず

かたまり

 十分ほど歩いたところで、涼やかな森のなかに、灰色の岩の塊 ・

・

・

・

が、たんこぶみたいにぽこんと盛りあがっている場所にたどり着 と

だ

いた。道は、その岩の塊の前で途絶えている。してみるとこれが、 目的の場所なのだろう。 ほらあな

 だけど、洞穴なんか、どこにもないぞ。  ワタルはあたりを見回した。もう集落も見えなくなって、視界 は三六〇度、森の木立ばかりだ。そよ風に、無数の葉がさわさわ ゆ

と揺れている。

350

 手をあげて、頭の後ろをボリボリかいた。それから、一歩近づ いて岩の塊に手を乗せた。 ひび

 頭上から、歌うような鳥の声が響いてきた。「おためしかい？  おためしかい？ おためしかい？」  はっと顔を上げて、ワタルは答えた。「そうだよ、僕、〝おた めしのどうくつ〟に入りたいんだ！」  周囲の木立から、いっせいにオカリナの音色がこぼれ落ちてき た。四重奏か、五重奏。見事なハーモニーだ。  おためしならば いのちをだいじに  といにはこたえを  こたえにはといを  どうしさまはおおあくび  かえるみちはかえる  せんねんかけても とけはしまい ふ

 鳥たちの歌が終わると、またひと吹きの風が吹き抜けて、足下 うな

の地面がゴゴゴと唸り始めた。ワタルの目の前で、岩の塊がふた つに割れてゆく。  そして、入口が現れた。ワタルひとりがかろうじて通り抜けら せま

れるくらいの、狭くて暗い穴だ。ここに入れはいいんだろうか？ こわ

いや

 ぞわっと怖くなった。嫌だな、どうしても入らなきゃいけない だま

のかな。なんか騙されてるような気がしないでもないんだけど。 『サーガ』の主人公たちは、こんなとこに入ったかしら。 どうくつ

 ためらっていると、洞窟の入口の奥から、しゃがれ声が呼びか けてきた。

351

「ぐずぐずしとると閉めてまうど」  ワタルはぎょっとして飛びさがった。 こぞう

「閉めてまうどと言うとんのや、聞こえんのか、小僧」 すご

 洞窟のなかの声が凄む。近所の魚屋の小父さんの声を、ワタル は思い出した。 「こぉら、わしは日暮れまで小僧の相手をしとるほどヒマやない は

のんや。いじいじしとると、導士さまに言うたるで。早よせんか い」 「関西弁──ですか？」 ヴィジョン

 ここって、〝幻界〟のはずなんだけど。 「入るのんか、入らんのか、どっちや」 「ここはホントに〝おためしのどうくつ〟なんですか？」 「わしがそうやない言うたら、おんどれ帰るんか？」 「それはだって──ねえ」 「そんなら帰れ。導士さまのおっしゃることが信用でけへんなら、 む

だ

ここへ入ったかて無駄や。このババタレ小僧が」  ババタレって──どんな意味だ？ 「わかりました。入ります」 すなお

「最初っからそう素直にしとったらええのんや、アホが。こっちゃ 来い」 とつぜん

 ワタルは半歩前に出た。すると突然、真っ暗な洞窟の割れ目の うすよご

奥から、薄汚れた大きな手がにゅうっとのびてきて、いきなりワ タルの頭をわしづかみにつかんだ。 「うわぁ！」  叫ぶ声だけを森に残して、ワタルは洞窟の奥へと吸い込まれて いった。

352

 静かになった森のなかに、またオカリナのような鳥たちの声が 響いてゆく。  きたのはだれ？  きたのはゆうしゃ？  きたのはだれ？  きたのはまじゅつし？  かえるのはだれ？  森を抜け、鳥たちの歌声の下を、さっきの老魔導士が、片手に つえ

かか

杖をつき、片手に古びた魔導書を抱えて、ゆっくりと歩いてくる。 の

ワタルを呑みこんだ洞窟の割れ目の前まで来ると、立ち止まって うーんと背伸びをした。 「やれやれ、今度の旅人は、ミツルよりもだいぶ手がかかりそう じゃの」 こし

たた

 岩に杖を立てかけて、とんとんと腰を叩きながら、ため息混じ りにそう言った。 つぶや

 さて、とりかかるか──と呟いて、魔導士は杖を取り、もごも じゅもん

けむり

ごと呪文を唱えた。とたんに、その身体はひとかたまりの薄い煙 いっしゅん

になり、ふわりと風に乗って一瞬だけ鳥の形をつくると、洞窟の なかに吸い込まれていった。  ワタルは落ちていた。どこまでもどこまでも、底なしの真っ直 くらやみ

さけ

ぐな暗闇のなかを落下していた。ずっと叫んでいたのだが、すぐ に息が切れてしまい、声が出なくなってもまだ落ちている。もう いっぺん息を吸い込んで叫び直してもいいのだが、お尻を下に、

353

い

す

頭を上に、椅子に座っているみたいな姿勢で落ちてゆくので、そ のうちになんとなく落ち着いてしまった。それに、確かに落ちて はいるのだけれど、さほどのスピードではなくて、半分浮いてい るような感じでもある。叫ぶ必要を感じなくなってきた。 めぐ

 かわりに、首を巡らせて周りを観察してみた。といっても本当 に真っ暗で、何も見えない。でも、何となく体感で、広い場所を 落ちているのではなく、スベスベしたチューブみたいなものの内 からだ

側を落ちているんだと悟った。少し身体を動かすと、落ちながら つばさ

も場所を変えることができて、両手を翼のように広げると、右手 ふ

かべ

の指先に何かつるっとしたものが触れた。壁かもしれない。  ──どこまで行くんだろう？  落ちてゆくうちに、下から風が吹きあげてくることに気がつい そでぐち

た。生暖かい風の流れが、シャツの袖口に吹き込んでくる。それ おそ

につれて、落下スピードもどんどん遅くなる。エレベーターぐら いに、エスカレーターぐらいに、歩いて階段を降りているぐらい に かがや

じゅうぶん

 真下に、白く光り輝く丸い台のようなものが見えてきた。充分 にワタルが着地できるだけの広さだ。あそこに降りろっていうこ となんだな、きっと。  手足を広げて上手にバランスを取り、ワタルは台の上に着地し ひざ

た。ほっと息をついてよく見ると、台は石でできている。膝をつ いてしゃがみ、手で触れてみた。すべすべしている。ワタルの家 のキッチンの、模造大理石のカウンターにそっくりだ。  顔を上げると、今まで真っ暗だったところに、入口が現れてい た。ドアではなく、さっき引き込まれた岩の割れ目みたいな感じ ふ

だし、サイズはずっと大きい。ワタルが歩いて踏み込むことがで

354

きる。ただし、奥は真っ暗だ。  勇気を出そう。さあ、前に進むんだ。  一歩踏み出し、二歩歩く。すると、周りの景色が劇的に変わっ た。 かいろう

 これは──寺院だ。いや、お城の回廊かな。 てんじょう

ゆか

 高い天井。ビルの三階分ぐらいありそうだ。床も壁も石ででき ていて、十メートルおきぐらいに、ひと抱えもある丸い柱が立っ かべぎわ

しょくだい

ろうそく

ている。壁際に無数の燭台が並んでいて、蝋燭が星のように輝く とも

光を灯している。それでも通路の先は暗く、何も見通すことはで きない。 ふ

 きっとそうだろうと予想していたとおりに、振り返ると、さっ き抜けてきた入口は消えて失くなっていた。前方と同じ景色の通 路が、ただ果てしなく続いているだけだ。 おくびょうかぜ

はげ

 臆病風に吹かれてはいけない、自分で自分を励ましながら、ワ ちょうぞう

タルは前に進んでいった。すると、しばらくして、大きな彫像が きょじん

見えてきた。建物と同じ石でつくられた、ひとつ目の巨人の像だ。 はだか

かっちゅう

む

うで

ま

よ

ずみ

かた

裸の上に甲冑をつけ、剥き出しの二の腕には魔除けの入れ墨。肩 おの

かつ

には大きな斧を担いでいる。 あお

 立ち止まってその顔を仰いでいると、足元から地響きのような ものが伝わってきて、それが声になった。 めがみ

あかつき

なんじ

「我は運命の女神さまを奉じ、東方を守る暁の神将なり。汝我が 問いに答えよ」  ワタルは身構えた。 けんぞく

 声は続けた。「汝、我と我が暁の眷属に何を望むか」  とっさには思いつかない。何と答えればいいのだろう？  おたおたしているときに、ふと思い出した。そういえば『サー

355

し

か

ガⅠ』のなかに、こんな仕掛けがあったじゃないか。初めてゲー みっ

ムを立ちあげたとき、ゲームのなかに登場する三つの国を治めて めいよ

いる三人の神に、お願いをするのだ。「富」とか「名誉」とか びぼう

ち

え

せんたくし

「勇気」とか「美貌」とか「知恵」とか、選択肢はいろいろあっ た。そして、願うものの種類によって、主人公が身につけること びみょう

ができる特技が微妙に変わってくるのだった。 せいいっぱい

 ワタルは深呼吸をしてから、精一杯大きな声を出した。「僕は ──僕は勇気をもって進んでゆきたい。だから勇気を望みます！」  ひと呼吸おいて、重々しい声が返ってきた。 さず

「それでは勇気を授けよう。通るがよい」 ふさ

 巨人のひとつ目が赤く光り、進路に立ち塞がっていた像が、す うっと消えた。その先には、また通路が続いている。千の、万の、 蝋燭の光が揺らめいている。  またしばらく歩いてゆくと、同じ巨人の像が見えてきた。また 立ち止まる。 「我は運命の女神さまを奉じ、西方を守る夕闇の神将なり。汝我 が問いに答えよ」 「はい、答えます」と、ワタルは言った。 「汝、我と我が夕闇の眷属に何を望むか」 「僕は知恵を望みます」 「それでは知恵を授けよう。通るがよい」  巨人のひとつ目が青く光り、像が消えた。  さらに歩いてゆくと、三体目のひとつ目巨人の像にぶつかった。 「我は運命の女神さまを奉じ、北方を守る風雪の神将なり。汝我 が間いに答えよ」  ワタルは今度は、健康な身体を望んだ。幻界の長い旅を、元気

356

に乗り切っていきたい。  答を聞くと、ひとつ目が白く光り、像は消えた。ワタルは先に 進んだ。  四体目の像は、予想どおり「南方を守る陽光の神将」だった。 ワタルは「喜び」を望んだ。旅のあいだに、楽しいことがたくさ んあるといいから。 「それでは喜びを授けよう。通るがよい」  ひとつ目が金色に光り、像が消えた後には、もう通路はなかっ た。正面は壁。行き止まりだ。燭台だけが輝いている。 あか

 その灯りに照らされて、さっきまで像があった場所に、階下へ 続く階段が見えていた。ワタルはためらうことなく、その階段を こうよう

きょうふ

降りた。気分が高揚して、恐怖心は消えていた。なんだか、本当 に『ロマンシングストーン・サーガ』の主人公になったみたいだ。 しんく

 降りた先は、大広間だった。真紅のビロードのカーテンが、窓 おお

を覆っている。壁にそって背もたれの高い椅子が並んでいる。床 はつるつるで、ワタルの顔が映りそうだ。ところどころに、蝋燭 す

にお

が三本立った背の高い燭台が据えられていて、ロウの匂いがする。 えが

 天井には様々な絵が描かれている。でも、灯りが届かないので、 よく見えない。動物とか、花とか木とか──あれ、よく見るとあ のヘンテコなねじねじ頭は、ねじオオカミじゃないか！  ぽかんと口を開いて見とれていると、声をかけられた。 「ワタル、こっちへおいで」  はっとして周りを見回すと、広間のいちばん奥の壁際に、蝋燭 を一本立てた小さな机に向かって、あの老魔導士が腰かけていた。 「魔導士さま！」 うれ

なつ

 ワタルは駆け寄った。嬉しくて懐かしくて、飛びつきたいよう

357

な気持ちだった。ところが、ワタルが近寄ると、魔導士はまたぞ ろあの骨っぽい手を挙げて、 「これ」  ぺたりとワタルのおでこをぶった。 「魔導士さま？」 ほお

 老魔導士は右手で頬を支えると、左手の人差し指を立ててチッ チッチと振り、言った。 「あかんのう」 「はあ？」 「あれではいかんわ。おぬし、ミツルよりもだいぶ劣るな」  どうしてだ？ ワタルは混乱し、むっとした。だって四体の神 将の問いかけに、僕はすごく上手に答えたじゃないか！  ワタルの内心を見抜いたように、老魔導士は苦々しい顔で言っ へいぼん

た。「あれでは平凡じゃ。独創性に欠ける」 「ド──ドクソウセイ」 「そうじゃ。それに、最初に洞窟の入口でとまどったのもいかん。 ああいうときはサクッといかねばな。つまりは、ちくと思い切り が足らんということじゃ」  そんなぁ。ワタルはへたへたと座り込んだ。  老魔導士は、どこからか長い羽根ペンと、クリップボードみた み ま ち が

いなものを取り出した。ワタルは見間違いかと思って目をこすっ たが、確かにクリップボードだった。 「おぬしの総合評価」  三十センチばかりありそうな長い羽根ペンを器用に動かしなが ら、老魔導士は宣言した。 へ ん さ ち

とくしゅ

「幻界適性能力の偏差値三十五。特殊技能ゼロ。体力値はかろう

358

ゆうかんち

じて平均。勇敢値最低」 「あの、あの、あの」 や

 ワタルは魔導士の痩せた膝にすがりついた。すると、またおで こをぶたれた。 「結果、おぬしは見習い勇者のプロトタイプ１に決定。装備を与 える」 な

 魔導土はペンを耳にかけ、空いた手でワタルの頭をつるっと撫 でた。火花のようなものがパッと散った。 「立ってごらん」 うなが

きなり

 促されて立ちあがると、服装が変わっていた。生成の綿の長袖 えり

こんいろ

のシャツ──襟もないし袖口のカフスもない。紺色のだぶだぶズ じょうぶ

かわ

は

ボン。丈夫そうな革の編み上げブーツ。これだけは、芦川が履い あさ

ていたのと同じだ。でも、腰には革ベルトのかわりに、麻ででき たマフラーみたいなものがぐるぐる巻きになっている。 「これが、僕の装備？」 「そういうことだの。おめでとうさん」 「でも、武器は？ 見習い勇者でも、武器ぐらい持ってるはずで す」 もど

「それは地上に戻ってからじゃ」  魔導士はマントの内側にペンとクリップボードをしまいこむと、 よっこらしょと声をかけて椅子から立った。 「では、わしは先に地上へ帰る」 「帰るって、僕は？ まだ試験が？」 あご

 魔導士は痩せた顎をひねった。 だいしょう

い

「おぬしな、願い事には代償が要るということを知っておろう？」 「ダイショウ？」

359

か

「ものの大きい小さいではないぞ。引き替えに差し出すもののこ とだ」  そのとき、ワタルは地響きを感じた。まだ遠い。でも近づいて くる。何か重いものが、どすんどすんとこっちにやって来る── 「四神将は、おぬしの望みを聞き、代償におぬしと命のやりとり を望む」  あっけらかんとした口調で、老魔導士は言った。 とら

「逃げのびればおぬしの勝ち。命ある身で、望みもかなう。囚わ れればおぬしの負け。望みもかなわん」 はかい

くず

 もの凄い破壊音がして、広間の壁が崩れ落ちた。四神将だ。あ こわ

の斧で壁を壊し、広間のなかになだれ込んできた！ 「出口はたくさんあるからの」  魔導士は部屋のそこここを指し示した。確かに、いつの間にか 壁際に、ドアがたくさん出現している。 「真の出口を見つけて、逃げ出すことじゃ」 「だってそんな、あんまりだ！」  斧を振りあげて、四神将が突進してくる。 けんとう

いの

「健闘を祈るぞ」と、魔導士はにっこりした。「北の森の鳥たち の歌を思い出すことじゃ」  魔導士の姿は宙にかき消え、あとには霧のようなものが残った。 その霧はたちまち小さな白い鳥の姿に変じ、ワタルの鼻先から暗 い天井へと、ひゅうと飛び去る。 「ちょ、ちょっと待って！」 せま

 四神将はもう目と鼻の先にまで迫っている。ワタルは悲鳴をあ か

げながら壁際を駆け出し、足がもつれて床に転んだ。さっきまで ワタルがいた場所に、先頭にいた風雪の神将の振りおろした斧が

360

つ

さ

いなづま

ざくっと突き刺さって、床に稲妻形のヒビが走った。 「タスケテェ！」  映画やマンガで、追いつめられた登場人物が、叫んでも誰も助 けに来てくれるわけがない場所でこう叫ぶのを、いつも、ヘンな のと思ってバカにしてきた。でも、それは間違いでした。誰も来 ないと思っても、叫ばずにはいられないのだ、こんな時は。  もがくようにして立ちあがると、今までいた壁際の地面に、今 度は暁の神将の斧が激突する。この危急の際に四体の神将を見分 けることができるのはなぜかと言えば、四体が四体とも、顔の正 ちが

面にひとつしかついていない大きな色違いの目玉をらんらんと光 らせているからだ。  ──逃げるって、どこへ？  板チョコのような長方形をしているこの部屋の、左右の壁に並 だしゅつぐち

ぶ無数のドア。あのドアのうちのどれかひとつが脱出口なのだろ かた

ぱし

う。たぶん。でも、どうやって見分けたらいいんだ？ 片っ端か ら開けてみるしかないのか。  パニック状態で逃げ回るワタルの後を、四神将は、地面を踏み 鳴らして追いかけてくる。  彼らが通った後は、床に敷き詰められた石がザクザクと割れて、 すみ

かみ

ささくれみたいに立ちあがる。目の隅でそれを見て、髪が逆立っ た。  それでも、しばらく逃げ回っているうちに、気がついた。巨体 てんかん

の四神将は、一度突進して斧をふるうと、次に方向転換をするま でに時間がかかるのだ。しかも、彼らは一体が突進すると、あと なら

の三体もそれに倣うという習性があるようで、だから、最初の一 こうげき

う

ま

体の攻撃を上手くかわすことができれは、残り三体が同じ場所め

361

がけて攻撃しているあいだは、楽に逃げられるのだ。  よし！ ワタルは部屋の反対側の壁に向かって走った。四神将 がどすんどすんとついてくる。彼らが身につけている重い甲冑が、 ガスンガスンと鳴っている。一瞬だけ振り返ると、すぐ後ろにい る夕闇の神将の光る目玉と、その青い光を受けて、振りあげた斧 は

の刃がぎらりと光るのが目に入った。  壁まであと一メートル。ワタルはさっと身をひねり、ずらりと 並んでいるドアの方へと横っ飛びした。夕闇の神将が斧を振りか すき

ぶり、ワタルがいた場所めがけて突進する。その際に、床をひっ かくようにして立ちあがると、目の前のドアのノブをつかんだ。 よじょうはん

 ドアは造作なく開いた。内側に飛び込むと、そこは四畳半ぐら いの小さな部屋で、ぼんやりとした月明かりのような光に照らさ れて、中央に銅像みたいなものが一体、ぽつりと立っているだけ だけだった。 さわ

 息を切らしながら像に近づいてみる。やっぱり銅像だ。触ると かんしょく

こじか

金属の感触がして、とても冷たい。これは──子鹿の像だろうか。 ディズニー映画のバンビそっくりだ。  ──何でこんなもんがここにあるんだ？ てさぐ

 出口はないじゃないか。周りの壁を手探りしても、ひんやりし はしご

た石の手触りがあるだけで、外に通じる梯子も、ロープの一本も ありゃしない。つまり、ここははずれ。ほかのドアを探せってこ となんだ。  入ってきたドアを、内側から少しだけ開けて、用心深く外をの ぞいてみた。ワタルを見失った四神将は、大部屋の中央に集まり、 ひとつ目の光も消して、ぐるぐると輪を描いて歩き回っている。 しぼ

ワタルは呼吸を撃え、勇気を振り絞って、大部屋の方に滑り出た。

362

ついせき

とたんに、神将の一体の目がピカッと輝き、また追跡が始まった。 さそ

 逃げては攻撃の空振りを誘い、四神将の体勢を崩しておいては わき

く

脇に逃げて、近場のドアを開ける。その繰り返しだった。でも、 開けても開けても出口に通じるドアは見つからない。どの小部屋 かたど

も同じ造りで、中央に動物を象った像が置いてあるだけだ。動物 とら

へび

かえる

の種類は部屋ごとに違う。象、虎、大魚、鳥、牛、蛇や蛙まであっ た。  一度入ったドアは、そこからまた大部屋に戻るときに、わざと 開けっ放しにして、同じドアを二度調べないようにした。そうやっ て走り回っているうちに、ワタルはへばってきた。パニックのせ ひろう

よ

いではなく、疲労のために足がもつれて、神将の攻撃を避けるの が、だんだんきわどくなってくる。こんなことを続けていたら、 今に倒れてしまうだろう。  でも、あるだけのドアを、もう開けてみた。あれほどたくさん あるように見えたドアだけれど、今ではもうすべて開けっ放しに なっている。なのに、出口はどこにもない。  こんなのヒドイよ──ゼイゼイあえぎながら、よろめいて思わ おそ

ず足を止めると、神将たちが方向転換して襲ってくる。アイツら、 つか

全然疲れてない。このままじゃどんどん不利になる一方だ。どう すればいいんだ？  ──北の森の鳥たちの歌を思い出すことじゃ。  魔導士はそう言っていた。オカリナみたいなきれいな鳥の鳴き 声。四重奏か、五重奏のハーモニー。  必死で思い出してみた。何て歌っていたろうか？ 〝といには こたえを〟とか、〝どうしさまはおおあくび〟とか── （かえるみちはかえる）

363

 カエル。 ひ

 ワタルの頭のなかに、ぱっと灯がともった。カエル。蛙だ！  帰る道は蛙なんだ！ な

 疲労で萎えそうになる足にむち打って、四神将たちの攻撃をか わすと、ワタルは壁際を一直線に駆け出した。蛙の像のあった小 部屋。どこだ？ どこだっけ？ 開けっ放しのドアの向こうを確 のど

かめながら、喉をひゅうひゅう鳴らして突っ走る。  あった！  右側のいちばん奥の小部屋だ。ぷっくりとふくれたガマガエル の像がある。ワタルはそのドアの内側に飛び込むと、勢い余って 像の足元に転がった。ガツン！ と頭がぶつかる。「痛ェ！」目 から火花だ。  両手で頭を抱えて座り込んでいると、ゴトンと重い音がして、 像の台座がずれるように動き始めた。さっきまで台座のあった位 置にぽっかりと穴が空き、そこから下の暗闇のなかに、梯子が伸 びている。 なだ

 やった！ これで脱出だ。ズキズキ痛む頭をさすって宥め、ワ タルは梯子を降りた。さほど長い梯子ではなくて、二十段足らず つまさき

を数えただけで、しっとりとやわらかな土の地面に爪先が触れた。 こ

 あたりは真っ暗で、洞穴みたいなところで──星空だ。目を凝 らしてよく見ると、頭上いっぱいに、星のように輝いている小さ なものが、ときどき動いて場所を変える。それでわかった。そう か、これはきっとホタルだ。この世界の、ホタルみたいな生きも のだ。  彼らの発する弱い光で、洞穴が奥に続いているのが見える。壁 わきみず

ぬ

はごつごつした岩で、ところどころ、湧水で濡れている。

364

 道はくねくねと曲がりながら、ゆるい上り坂になっていた。地 にんしき

上へ向かっているのだという認識に勇気づけられて、ワタルは足 を速めてどんどん歩いた。やがて道は行き止まりになり、灰色の つ

石を敷き詰めた小さな広場に出た。中央に、頭上から一筋の光が 真っ直ぐに降りてきている。その光の筋は、石の上に描かれた青 色の星印の中心を、ピタリと射抜いていた。  ワタルは光の真下に──星印の真ん中に立った。すっと身体が 軽くなり、足が宙に浮いたような感じがした。  そして、はっとまばたきをすると、森のなかに立っていた。 〝おためしのどうくつ〟の前に戻っていた。鳥たちのオカリナ声 ひ

そうしょく

が聞こえる。陽は少し傾いて、森は蒼色の霧のようなものに包ま れ始めている。  洞窟の入口はすでに閉じて、岩の塊に戻っていた。触れても、 関西弁で話しかけてくることはない。  ワタルは森の小道をたどって、五つの小屋が建つ場所へと戻っ た。魔導士の姿は見えず、最初の小屋でも、二番目の小屋でもな えんとつ

い、三番目の小屋の煙突から煙が立ちのぼっていた。

365

３ 見習い勇者の旅立ち

ま

す

 真っ直ぐにその小屋のドアに近づき、ノックすると、近づいて ま ど う し

おどろ

くる足音がして、魔導士が顔をのぞかせた。ワタルは驚いた。お じいさん、泣いている。 「おや、やっと帰ったかね、シクシク」 なみだ

ふ

 涙を拭きながら、魔導士はワタルを部屋のなかに招き入れた。 なぞ

「謎を解くのに、だいぶ時間がかかったの、メソメソ」 い

す

 ワタルは、木の切り株をそのまま持ってきたようなごつい椅子 こし

ぬぐ

なが

に腰かけて、魔導士が目をしばしばさせて涙を拭うのを眺めた。 おこ

 おじいさん、最初の小屋では、いきなり怒っていた。次の小屋 やさ

ではとても優しかった。そして今は泣いている。 「あのぉ、魔導士さま」 「何だね？ 武器のことなら、これから説明してあげるから少し 待ちなさい」 「その前に──」 「そうそう、わしの名前はラウじゃ。だから、ラウ導師さまとお 呼び。魔導士の導士ではないぞ。確かにわしは魔導士だが、ここ にな

では旅人を導く導師としての役割を担っておる。おぬしも〝おた ぬ

めしのどうくつ〟を抜けて、正式に旅人となったからには、わし ・

・

かんじん

はおぬしにとっては導師さまなのだ。さまが肝心じゃ。わかるか の？」 さえざ

「はい、ラウ導師さま」また遮られないよう、ワタルは早口に続 けた。「導師さまは、五つの小屋のうちの、どの小屋にいるかに

366

よって、気分も変わるんですね？」 や

あご

な

 ラウ導師は、骨張った手で痩せた顎をするりと撫でた。「なん にぶ

だの、今ごろ気づいたか。おぬし、やはり、ミツルより鈍いの」 「あ、はあ」ちょっと傷ついた。「じゃ、そうなんですか？」 「そうじゃよ。それがこの村のきまりじゃ。番人は、旅人を正し おのれ

おこた

く導く責務を負っておる。己の気分に左右されて、指導に怠りが あってはならぬのでな。小屋に合わせて、気分の方をあらかじめ いか

セッ卜しておくのじゃ。さすれば迷いがない。怒りの小屋にいる ときには怒りを、親切の小屋にいるときには親切を、そして──」 「今この小屋は、涙の小屋なんですね」 「いんや、悲しみの小屋じゃ」導師は涙目をしばたたいた。「涙 うれ

は嬉しいときにも流れるものじゃろ？ 笑い過ぎて涙がにじむこ ともあろう。まことにもって、おぬしのデキの悪いのには涙が出 るわい」 「スミマセン」 すそ

かたすみ

 ラウ導師はローブの裾を引きずって部屋を横切ると、片隅に置 つづら

うやうや

いてある小さな葛籠を、恭しい手つきで取りあげた。それを丸太 のテーブルの上まで運んでくると、ワタルの目の前にそうっと置 いた。 けん

「これがおぬしの剣じゃ。開けてごらん」 ふる

 ワタルは胸がどきどきして、ちょっぴり手が震えるのを感じた。 ふた

かぎ

 葛籠の蓋は軽かった。ただ上からかぶせてあるだけで、鍵もな けれは金具もない。すぽんと開いた。 うすよご

かわ

さや

 葛籠の底には、薄汚れた革の鞘に収まったひとふりの剣が、こ ろんと横たわっていた。全体の長さは、三十センチいや、二十五 つか

センチぐらいだろう。柄の部分も、古ぼけて手ズレのした革でで

367

きている。 「これこそが〝勇者の剣〟じゃ」ラウ導師はそっくりかえってそ う言った。 「これ──ですか？」  勇者の剣。てんで名前負け。 「これじゃ。ほう、不満か？」 「あんまり強そうじゃないから……」 「そりゃそうよ。おぬしが強くないのだから、この剣も強いはず がない」 の

 ワタルの向かいに座って、ラウ導師は両手をテーブルの上に載 せた。 「勇者の剣は、その使い手と共に成長する剣なのじゃ。だから最 あた

初の時点では、この剣は、それを与えられた旅人の心持ちを、そ あら

のまま顕わした姿をとっている。この剣がてんで弱そうで、くた びれていて、パッとしなくてカツコ悪いのは、ワタル、おぬしが 弱くてくたびれていてパッとしなくてカッコ悪いからじゃ。剣の せいではないわい」  導師は手でワタルのおでこをぶった。 つば

「手に取って、よく見てごらん。鍔のところに、文様がついてお ろう？」  勇者の剣は、葛籠よりもまだ軽かった。この軽さも、ワタルの てざわ

たよ

心の軽さを映したものなのだろうか。手触りの頼りなさも、ワタ ルの頼りなさそのままなのだろうか。  鍔の部分に、さっき洞窟の出口で見た星形の印が刻み込まれて かぜぐすり

じょうざい

いる。星形の五つの頂点に、それぞれ、風邪薬の錠剤ぐらいの大 きさの丸い穴が空いている。

368

「この印、おためしのどうくつの出口のところで見かけました」 「ほう、気づいたか。おぬしのことだから、説明せねばわからな いかと思った」 ヴィジョン

す

めがみ

しょうちょう

 これは、〝幻界〟を統べる女神の力を象徴する特別な印だと、 ラウ導師は説明した。 「ふさわしい力あるものがこの印を結べば、魔法を生じることも、 結界を張ることも、宙を飛ぶことも、風を呼び水を分かつことも、 何でもできる。これから幻界を旅して行くと、様々な場所でこの 文様に出合うじゃろう。とりわけ、〝真実の鏡〟を使う時には、 必ずこの文様の場所でなくてはならぬ」 「真実の鏡？」  聞き覚えのある言葉だ。芦川が── （真実の鏡をのぞいたら） むか

もど

 そうだ、ワタルを迎えに、幻界から戻って来てくれたとき、確 かにそう言っていた。 「知っているようじゃな」  ワタルが、ミツルのことを話すと、ラウ導師は深くうなずいた。 うつしよ

「おぬしのような現世からの旅人が、真実の鏡を、この星の文様 のある場所で使えば、幻界と現世を結ぶ〝光の通路〟を作り出す ことができる。旅人はそこを通って、現世に行くことができるが、 それはほんのわずかな、限られた時間内のことだ。通路が閉じて かえ

しまう前に幻界へ戻ってこなければ、現世にも還れず、幻界にも はい

はざま

くおん

入ることができず、ふたつの世界の狭間である久遠の谷に落ち込 ほうろうしゃ

んで、時の放浪者になってしまう」  だから芦川も、急いで帰っていったのか。でも、久遠の谷？  ことがら

時の放浪者？ また新しい事柄が出てきた。

369

「……わかりました。そしたら、その〝真実の鏡〟は、どうやっ て手に入れたらいいんですか？」 「そこまでは、、ミツルも教えてはくれなんだかな？」 「はい」そんな時間はなかった。 ほほえ

 ラウ導師は頬笑んだ。「おぬしは〝真実の鏡〟を探さずともよ い。〝真実の鏡〟の方から、おぬしを探してくれる。見つけ出す まで、そう手間はかからぬはずじゃ」 「はあ？」 「〝真実の鏡〟は、この幻界に〝旅人〟がやって来ると、それと 察知して姿を現す。なに、造作もないことよ」  ホントかな。なんか頼りない。それに、覚えなくちゃならない ことが山ほどあって、目が回りそうだ。 「とまどっているのじゃな。無理もない」 なだ

 ラウ導師は、まぶたににじんできた涙をぐいと拭うと、宥める ような優しい顔をした。 かか

「この世界──現世と幻界と久遠の谷の関わり合いや成り立ちの 由来を、あれこれいっぺんに話して聞かせたところで、すぐには 呑みこめまい。おおかたは、旅を続けるうちに、自然にわかって ゆくことだろうし、その方が確実じゃ。今は、最初からしっかり 覚えておかねばならぬ、肝心なことだけを話そう」  ワタルの手から勇者の剣を取りあげると、ラウ導師は、鍔の部 分に刻まれた、星の文様を指し示した。 ごらん

「これを御覧。星の文様の先の部分に穴が空いておる。これはた だの穴ではないぞ。台座じゃ。おぬしはこれから、幻界のなかを ぎょく

くまなく旅して、この台座にピタリとはまる、五つの玉を探し出 さなくてはならぬ」

370

「ギョク？ 宝石ですか？」 「そうじゃ。五つの玉がすべて台座に収まったとき、この古ぼけ た小さな勇者の剣は、晴れて真の姿を現す。それこそが、おぬし とう

たいま

の目指す〝運命の塔〟への道を切り開く〝退魔の剣〟じゃ」  退魔の剣── 「運命を統べる女神さまのおわします塔の周りには、魔物をはら こ

きり

んだ深く濃い霧が立ちこめている。退魔の剣はその霧をはらい、 塔へと続く道を指し示す。そこからこの名前がついたのじゃ。だ そま

から、今はどんなに頼りなく見えようと、ゆめゆめ、この剣を粗 つ

あつか

末に扱ってはならんぞ。よいな？」 「わかりました」ワタルは身内に力が込みあげてくるのを感じて、 にざ

両手を強く、ゲンコツに握りしめた。 「それで、その五つの玉はどこにあるんですか？ どんな玉なん ですか？」  ラウ導師は、ワタルのおでこをぶった。 「そんなもの、わかっておらんわ。だから探せと言うておるの じゃ」 「え？ だって何のヒントもないんですか？ 本当に幻界じゅう を探すの？」 「そうじゃ。だが、おぬしが玉に近づけば、玉の方から何かしら のお告げをくださる。それを手がかりにすればよい」 とほう

みなぎ

 それにしたって、途方もない話だ。情けないけれど、さっき漲っ てきたと思った力が、またしゅるしゅると抜けてしまった。 かくご

「おぬし、まるで覚悟ができておらんな」  ラウ導師はまたワタルのおでこをぶとうとしたらしく、手を持 おお

ちあげたけれど、途中で考えを変えて、その手で顔を覆ってしまっ

371

た。「わしも長いこと番人職を務めておるが、こんなに頼りない はんしん

旅人は初めてじゃ。しかもこれが半身かもしれぬというのだから、 参ったのぉ」 「ハンシン？ 何ですか、それは」  ワタルとしては、またぞろ耳新しい言葉が出てきたから、何気 なく質問しただけだった。なのに、ラウ導師はハッとして、ひど くあわてた様子になった。 「な、なんでもない。おぬし、耳ざといことだけは人一倍じゃの」 そで

 せかせかと顔をこすり、ローブの袖を持ち上げてちんとハナを かんだ。うわ、汚い。 す

「玉に関しては、もうひとつ大切なことがある」取り澄ました顔 に戻って言った。「先ほどの真実の鏡にも関わりのあることじゃ」  玉の数と、真実の鏡を使うことのできる回数は、対応している というのである。 「おぬしがひとつ玉を見つけれは、そのとき一度だけ、真実の鏡 を使うことができる。次にもうひとつ見つければ、また一度だけ 使うことができる。もちろん、玉は見つけたが真実の鏡を使う必 た

要はない時には、使う権利を溜めておくこともできる。利息はつ かぬがの」  それぐらいは、ワタルだってわかる。お金じゃないんだから。 「先ほどわしは、真実の鏡を使うことができるのは、星の文様の ある場所じゃと言った。覚えておるな？」 「はい」 ど

こ

「その星の文様がある場所も、実はわからん。何処にあるのか、 おぬしが探さねば見つからないのじゃ。ただ、星の文様の存在す まちが

る場所の近くには、必ず玉も存在している。間違いない。そうい

372

う意味では、これが最良の手がかりじゃな」  ワタルは手のなかで勇者の剣をひねくり回しながら、考えた。 「でもラウ導師さま、僕にはミツルみたいに、真実の鏡を使いた くなる機会があるとは思えません。それなら、文様の方は、無理 に探さなくてもかまわないんですよね？」  返事がない。ずっと返事がない。ワタルは勇者の剣から目をあ げて、ラウ導師の顔を見た。老人は両手を腰にあて、怒ったよう に口をひん曲げている。目だけは涙ぐんでいるのが、あいかわら ずアンバランスだ。 「導師さま？」 「おぬし、現世に残してきた母親のことは気にならぬのか？」  ワタルは驚いた。「母さん──ですか？」 と

「おぬしが幻界にいるあいだ、現世でも時が停まっているわけで はないのだぞ。母親がどうしているか、心配ではないのか？ お いた

ぬしが姿を消したことでどれほど心を傷めていることか。顔を見 せて、安心させてやりたいとは思わぬのか？」  言われてみれば、本当にそのとおりなのだ。今の今まで──目 しんせん

の前に展開する事柄があまりにも新鮮で驚きに満ちていたので、 母さんのことが心から抜け落ちていた。 「も、もちろんです。だって僕、母さんのために幻界に来たんだ もの」 ふ

 導師は深く息を吐くと、ゆるゆると首を振った。「ならば、お ぬしにも光の通路が必要じゃ。それには、文様を探さねばならぬ」 けんめい

「はい、探します。ホントに一生懸命に探します」 はな

 ラウ導師はテーブルから離れると、窓ごしに外をちょっとのぞ いた。

373

ひ

「もう陽が暮れた。今夜はこの村に泊まって、明朝旅立ちするが しんだい

いい。空いている小屋を、どこでも使ってよろしい。寝台はひと つしかないからの。わしはここに泊まる。飯は、後で持っていっ てやろう」 「ありがとうございます」ワタルは深く頭をさげた。そして小屋 を出ていこうとすると、後ろからラウ導師が呼びかけた。 「ああ、そうそう。もうひとつ、大事なことが残っておった」 さが

 旅先で、ミツルを捜してはならない──と、導師は厳しい口調 で言った。 「わかっています。ミツルも言ってました。運命の塔には自力で たどり着かないとならないから、二人旅はできないんだって」 か

 ラウ導師はこちらに近づいてくると、枯れ木のような両手を、 りょうかた

ワタルの両肩に乗せた。「それだけではない。そもそも、おぬし には、ミツルを捜すことはできないのじゃ。なぜなら、おぬしの 旅する幻界と、ミツルの旅する幻界は、最初から別のものなのだ から」  ワタルは驚いて、思わず導師さまのローブをつかんだ。 「それはいったいどういうことなんです？ 幻界はひとつじゃな いんですか？ いくつもあって、僕らはそれぞれ別々の幻界に来 てるんですか？」 「そうではない。ただ、幻界は、そこを行く者によって姿を変え るのじゃ」  幻界は、現実世界──現世に住む人間の想像力のエネルギーが つく

創り出した場所だと、芦川は言っていた。 「そうか、ミツルはおぬしにそう説明したのか。なかなか良い」 ラウ導師は満足そうににっこりした。「だったらわかるじゃろう？

374

 幻界を創りあげているエネルギーのなかには、旅人である、ミ ツルやワタル、おぬしたち自身のエネルギーも混ざっておる。お ぬしたちが幻界に来れば、おぬしたちそれぞれのエネルギーがよ り強く幻界全体に働きかけることになり、従って、ミツルが見る 幻界はミツルだけのもの、おぬしが見る幻界はおぬしだけのもの になるというわけじゃ」  ワタルはうーんというような生返事をした。わかったようなわ からないような──旅人は二人来ているのだから、二人分のエネ ルギーが加算されるわけだけど、同時に来ているのだから、二人 りくつ

が別々にならなければならない理屈はないんじゃない？  ラウ導師は、話を打ち切るしるしに、ワタルのおでこをポンと ぶつと、 「いずれにしろ、さっきおぬしが言ったように、二人旅はできな む

だ

いのが定めじゃ。だから、ミツルを捜したところで無駄じゃから の。それに彼は、おぬしより、もうずっと先に行っておる」 「だってそれは、あいつ、僕より出発が早かったから」 えんりょ

「頭の差も、だいぶある」ラウ導師は遠慮なく言い放った。「ミ ツルはおぬしのために、一度、真実の鏡を使っておる。というこ とは、すでに、少なくともひとつは玉を発見しているということ がんば

じゃ。おぬしも負けないように頑張るがよい」  ラウ導師は、ワタルが、腰の帯のところに、上手に〝勇者の剣〟 はさ

を挟むことができるよう、手伝ってくれた。剣はなんとか収まっ た。 「それなりに、様になっておるぞ」  さあお行きと小屋を追い出されて、ワタルは外に出た。森はすっ かげ

かり翳っている。足元の地面も、そこここの草むらも、心なしか

375

しめ

湿っぽい感じだ。鳥たちも巣に帰ってしまったのだろう、歌は聞 こえない。 ちりば

 頭上の空には、星がいっぱいに鏤められている。首の後ろ側が 痛くなるくらい、ずっと熱心に見あげてみたけれど、オリオン座 ほくと

とか北斗七星とかは見あたらない。幻界の星空は、現世のそれを 映してはいないのだろう。そういえば、月も見あたらない。  ワタルは「親切の小屋」を使うことにした。驚いたことに、小 ふ

だん ろ

屋に足を踏み入れると、小さな暖炉にぽっと火が入った。テーブ とも

ルの上のランプも灯った。これも導師さまの力によるのだろう。 つか

一人になると急に疲れて、ちょっと休むつもりで寝台の上に身を ねむ

投げると、いつの間にか、そのまま眠り込んでしまった。  翌朝早く、おなかがペコペコになって、目が覚めた。 えんとつ

けむり

 外に出てみると、昨日と同じ「悲しみの小屋」の煙突から煙が 出ている。ラウ導師はもう起きていて、テーブルについて食事を しながら、やっぱり泣いていた。 「おお、おはよう。メソメソ」 「おはようございます」 ね

「こっちに来てお座り。昨夜はよく寝ていたので、食事を置いて こなかった。さぞかし腹が減ったろう。お食べ」 う

 飢え死に寸前だった。皮のパリパリした丸いパンと、ペパーミ かお

ントの香りのするお茶。リンゴに似ているけれど、リンゴよりずっ のうこう

お

い

と甘くて濃厚な味のする黄色い果物。どれもみんな美味しくて、 ワタルは口もきかずにどんどん食べた。気がついたら、テーブル いぶくろ

の上のものはあらかたワタルの胃袋に収まってしまっていた。 「これは道中の弁当じゃ」 わた

 生成の布に包んだものを、導師が渡してくれた。

376

めんどう

「今日の昼飯の分じゃがな、わしが面倒を見られるのはここまで じゃ。あとは、おぬしが自力でなんとかせねばならぬ」 いっしゅん

 自力で？ 一瞬、意味がつかめなくて、ワタルはポカンとした。 そうか、ご飯とか泊まる場所とか、そういうことも自分で都合し なくてはならないのか。『サーガ』の主人公はどうしてたっけ？  ゲームのなかでは、特にイベントに関係がない限り、ご飯を食 べるシーンなんて出てこない。宿に泊まるためのお金は、モンス たお

かせ

ターを倒せば稼げるし。  急に心細くなってきた。ワタルは今まで、一人旅なんてしたこ ば

あ

とがない。いっぺんだけ、千葉のお祖母ちゃんのところへ、一人 で特急に乗って行ったことがあるけれど、それだって、東京駅ま お

じ

で母さんに送ってもらって、向こうの駅ではルウ伯父さんが改札 口で待っている、という具合だった。 「そのとおりじゃ。なぁに、心配するな。道に迷いさえしなけれ ひる

ば、午過ぎにはガサラの町に着く。ガサラはこの辺境ではいちば にぎ

ん賑やかな交易の町じゃから、探せばいくらでも仕事はあるだろ う」  仕事、ね。 「モンスターを倒すと、自動的にお金を落としてくれるってこと はないんですか？」 む

 ラウ導師は目を剥いた。「何じゃそれは」 ぼうけん

『サーガ』の冒険と、ずいぶん勝手が違う。気がくじけてしまっ はな

て、ラウ導師にせき立てられるまで、テーブルから離れることが できなかった。 「森の出口はあちらじゃ。では、達者でな」  不承不承の足どりで、振り返り振り返り去ってゆくワタルの小

377

さな背中を見送って、ラウ導師はゆっくりと顎を撫でた。 「それじゃ導師さま、わたしも行きます」  ラウ導師の足元から、女の子の甘い声が聞こえてきた。導師は ローブの裾をめくって、足の周りを見回した。 「イヤだわ、そんなところにはいませんよ」 すず

 甘い声は、鈴を振るような音色で笑った。 うな

 導師はふむと唸った。そして、とりあえず下の方を向いて話し かけた。「オンバさま、ずいぶんとあの旅人に肩入れしておられ ますな。なんぞ理由がおありですか」 かわい

「あら、だって可愛いんですもの。旅人はやっばり、キュートで なくちゃね」 みりょく

 そのフルフルとこぼれるように魅力的な声を、もしもワタルが 聞いたならば、すぐに気がついただろう。どこからか話しかけて ようせい

くる姿の見えない女の子の声──ワタルが「妖精かもしれない」 と思っている、あの声だと。 「もう一人の旅人、ミツルという少年も、それはそれはきれいな 顔をしておりますが」  言いかけて、ラウ導師はあわてて口をつぐんだ。 とが

「フン」と、甘い声は口を尖らせた（ような音を発してみせた）。 「いいのよ、導師さま。今さら気にしなくても」 きょうしゅく

「はは、それは恐縮」 「とにかくわたしは、ワタルを助けてあげたいの。だってとても 可愛いのだもの」  ラウ導師は顎の先をひねると、「オンバさま」と、声をひそめ かんしょう

た。「お気持ちはともかく、旅人のすることに、あまり深く干渉

378

なさるのはいけませんぞ。また女神さまのお怒りをかうことにも つながります」 「あんなオンナ、好きなだけ怒っていればいいのよ！ わたしは わたしのやりたいようにやります。導師さまも、あんまりあのオ ンナの肩ばかり持つと、いいことありませんわよ。よろしいこ と？」 だま

 導師は黙って頭をさげた。しばらくそのままの姿勢でいると、 彼が「オンバさま」と呼ぶ甘い声の持ち主の気配は、やがて消え た。本当にワタルの後を追っていったのだろう。 つぶや

「やれやれ……」導師は暗い顔で呟いた。「困ったものだ。オン ひんぱん

バさまにおかれては、このごろまた、頻繁に現世をのぞいておら れるというので、いずれこんなことになりはしないかと案じてい たのだが」 まどぎわ

 ラウ導師が窓際に近寄ると、それを待ち受けていたように、森 の鳥たちがいっせいにさえずり始めた。  おはよう、おはよう、おはよう、導師さま やさ

えがお

「やあ、おまえたち」導師は鳥たちの声に向かって、優しい笑顔 かたむ

を向けた。そうして彼らの歌に耳を傾けながら、窓の手すりにも たれて、かなり長いこと考え込んでいた。

379

４ 草原

あっけ

 教えられた小道をたどってゆくと、深い森は呆気なく、そして 劇的に終わった。 「うわぁ！」 みわた

 目の前には、緑の草原が広々と開けている。見渡す限りの草の 海。地平線まで続いているようだ。 さわ

ほお

な

 爽やかな風が、ワタルの頬を撫でる。右を向いても左を見ても、 目に入るのは草原の光景ばかりた。ところどころに、白っちゃけ かたまり

とう

おか

た岩の塊が塔のように顔を出していたり、草原がなだらかな丘の ように盛りあがっているところも見えるが、大部分は真っ平らで、 ひたすらに見通しがいい。  ──とりあえずは、太陽の昇っている方向へ向かって進め。 ヴィジョン

 ラウ導師はそう教えてくれた。〝幻界〟の空に昇る太陽はひと うつしよ

つだけで、現世の太陽とよく似ているが、まともに見あげても、 まぶ

あれほど眩しくない。『サーガⅠ』では、太陽がふたつ存在する めつ

世界が舞台で、片方の太陽の温度があがりすぎて、それが世界滅 ぼう

亡の引き金となるという設定だったのだけれど、ここではそんな 心配はないようである。  ワタルは草の丈の低いところを選んで歩き始めた。道らしい道 はない。鳥の声も聞こえない。時折、とても小さいモンシロチョ ものめずら

ウみたいな虫が飛んできて、物珍しそうにワタルの周りをグルグ ル回ってまた飛び去ってゆくが、旅の連れはそれだけだった。 こうよう

 草原の明るい景色に、一時は気分が高揚しかけたのだけれど、

380

いやおう

にんしき

だだっ広いところをただ歩いてゆくうちに、否応なしの現実認識 ──いや、ここでは幻界認識というべきか──がのしかかってき た。  僕は、これから先ずっと歩くのだ。とりあえず、〝歩く〟以外 に移動手段はない。車もないし電車もない。この二本の足以外に、 たよ

頼りになるものはないのだ。 じょばん

 テレビゲームのＲＰＧの主人公たちだって、序盤から中盤にか なぐさ

けてはみんなトコトコ歩いているもんな。そう考えて自分を慰め ようとしたのだけれど、あんまり上手くいかない。だって、ゲー ムはゲームだ。カッちゃんと二人して、『サーガⅡ』のあの険し いラストダンジョンを歩いたときだって、ゲームのキャラたちは つか

「歩き疲れる」なんてことは全然ないわけだし、ワタルとカッちゃ ゆか

ね

んは床にべったり座って、ときどきは寝っ転がったりして、コー ラやジュースも飲み放題だった。 のど

かわ

 冷たい飲み物のことを考えたら、急に喉が渇いてきた。そうい えば、導師さまはお弁当はくれたけれど、飲み物のことは何も言っ ていなかった。川とか湖とか、とにかく水のある場所を探さなく てはならない。 ふ

ぬ

 もうだいぶ行ったろうと振り返ると、さっき抜けてきた森が、 しげ

おそ

まだ後ろにこんもりと繁っている。ガッカリだ。僕、足が遅いの か。 もくもく

ひ

ざ

 話し相手もなしにただ黙々と歩き続ける。陽射しは強く、暑い。 あせ

汗をかく。景色には変化がない。歩く歩数を数えてみようと思い ついて、声に出してイチ、ニイ、サンとやり始めたら、ちょっと ばくぜん

景気がついた。そうして初めて、この漠然とした頼りない感じに さいなまれるのは、時間がわからないせいもあるよな、と思いつ

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いた。昨日からこれまで、「今何時だろう？」と考えることがな かった。今朝だってそうだし、今だってそうだ。  千歩近く数えたとき、左手の前方にまん丸な森が見えてきた。 だれ

まるで、空にいる誰かが、木々を何本か丸めて、ぽいっと地上に 落としたみたいな木立の塊だ。それでも、ずいぶんと背の高い木 だ。  あんな木が育つということは、水があるのかもしれない。オア ぬぐ

シスって感じかな。ワタルは立ち止まって手の甲で顔の汗を拭い、 そちらに足を向けた。また、一から歩数を数えよう。  水、水、冷たい水。心に念じながら歩いて近寄っていくと、や がて、オアシスの木立に囲まれた中心に、何か小さな建物みたい ゆ

なものの屋根が見えてきた。草原の風に吹かれて木の枝が揺らぐ かわらやね

と、てっぺんのところもちらちらと見える。瓦屋根みたいだ。あ んなところに、人が住んでいるんだろうか？  オアシスまであと五十歩ぐらい──というところまで来たとき、 すなけむり

地平線の方に、白い砂煙が立ちのぼっているのが見えた。じっと 見つめていると、どうやら動いているようだ。右から左へ。少し ずつだけど、確実に。あれ、もしかすると、こっちに近づいてく るのかもしれない。やっぱり、このオアシスを目指しているのか も。  ワタルは走ってオアシスに向かった。近づくと、背の高い木立 の葉っぱが、草原の風に吹かれてさわさわと鳴っているのが聞こ える。 い

ど

 それは本当にオアシスだった。木立の中心に井戸がある。そう、 ふち

これは井戸だよね？ 本物を見るのは初めてだ。石造りの円い緑。 のぞくと、底の方で水が光っている。ロープのついた木のバケツ

382

がぶらさがっている。 の

 井戸の四方に柱が立ち、瓦屋根はその上に載っているのだった。 雨水が井戸水に混じり込むのを、これで防いでいるのだろう。い や、幻界でも雨が降るのならばの話だけど。 く

 まずは水を汲んで、バケツの縁に口をつけ、ごくごくと飲み干 お

い

した。冷たくて甘くて、美味しい。思わず喉が鳴った。シャツの 胸の前がビショビショになるのもかまわず、ワタルは水を飲んだ。  一息ついて見回すと、オアシスの地面に、トマトみたいな赤い 実がたくさん落ちていることに気がついた。どうやら、周りを囲 んでいる木の果実のようだ。落ちているものはみんな熟しすぎて、 つぶ

潰れている。 にお

あま

 ちょっと匂いをかいでみると、甘ずっぱい。食べられそうだ。  木の枝はみんな高い場所についているし、幹はすべすべしてい て手がかりがない。それにワタルは、木登りなんかしたことがな い。 てごろ

 ちょっと考えてから、あわてて地面を探し、手頃な石をいくつ たた

か拾い集めた。こいつを枝に向かって投げて、実を叩き落とそう。 シューティングなら、ちょっと自信がある。  もくろみはあたった。ぽろんと落ちてきた実を、ひとつ拾って しんちょう

かじ

土をはらい、慎重に囓ってみると、なるほど見かけどおりのトマ ト味だ。でも、スーパーで売っているのよりも、ずっとずっと味 くだもの

が濃いし、みずみずしい。幻界の果物は、導師さまのところでご 馳走になったものもそうだったけれど、どうしてこんなに美味し いんだろう。  これなら、集めて持ってゆけは、道中の喉の渇きをいやせるし、 おなかの足しにもなる。

383

 ワタルはどんどん果物を集めた。夢中になって石を投げた。 すなぼこり

 そうしていると、砂埃の混じった風に乗って、ゴロゴロという ひび

響きと、 「おーい、おーい、そこのヒト！」  呼びかける声が聞こえてきた。手を休めて周りを見ると、馬車 け

た

みたいなものが、砂埃を蹴立ててオアシスに近づいてくる。 「おーい、おーい、そこのヒト！」  馬車みたいなものを走らせているヒトが、ワタルに向かって手 を挙げて、大きな声で呼んでいるのだった。ワタルはオアシスの かがや

はずれまで出ていって、目の上に手をかざし、輝くような緑色の 草原を見渡した。さっき見た砂煙も、あの馬車のものだったのだ ろうか。こんな草っぱらで、どうやったらあんな砂煙をたてるこ とができるんだろう？  おや──どうやらあっちには、道があるらしい。ガサラの町に 通じる道だろうか？  馬車みたいなものは、ワタルの方に近づいてきた。間近まで来 ると、砂煙はあがらなくなった。そして、馬車みたいなものは馬 車ではないこともわかった。  いや、車の方は四輪の、ワタルだって西部劇で見たことがある な

じ

お馴染みの形なのだ。ただ、引いているのが馬ではなくて──あ れって、なんて動物だ？  牛なんだけど、首が長い。額には角が二本はえている。身体は ひ

ふ

ひづめ

ざ ぶ と ん

大きくて毛はつやつやとして、皮膚は灰色。でっかい蹄。座布団 ぐらいある。 「おーい、そこのヒト！ バクワの実をあんまり食っちゃいかん ぞ」

384

たずな

し

と

 車に乗っていた人物が、どうどうと手綱を締めて間近に停まり、 ワタルに向かって明るく呼びかけた。 うま

「そいつはこいつら、ダルババの好物だ。甘くて旨いが、ヒトの 食い物じゃない。あんまり食うと、腹をこわすぞ」  ワタルは、食べかけの赤い実を、ぽとりと取り落とした。それ を見て、声の主は大らかに笑いながら、乗り物から降りてきた。 「なにも、今食っているのを捨てることはないじゃないか。毒が あるわけじゃない。旨いことはわかってるしな。どれ、ダルババ たちにやる前に、俺もひとつ食うとするか」 ふる

 ワタルはぽかんと口を開いたまま、ふるふると震え出した。  ──ト、トカゲだ。 あやつ

 首長牛に引かせた車を操っていたのは、身の丈二メートルぐら おお

いありそうで、全身をウロコに覆われたトカゲ男なのだった。地 みつくろ

面に落ちている赤い実を見繕い、土を落として旨そうに食べてい とが

る。尖った歯がぎらぎらとのぞく。『サーガ』のシリーズに出て ご

わ

くる、ザコ敵としてはもっとも手強い部類に入る「リザードマン」 そっくりだ。これで剣を持ってたら、まさにそのまんまだ。 ぼう

「なんだ坊ず、俺の顔に何かついているかい？」  トカゲ男はあくまでも明るく爽やかに、ワタルに近づいてきた。 ワタルは思わず後ずさりをした。トカゲ男は不思議そうに首をひ するど

かぎづめ

ねり、鋭い鉤爪のついた手を持ちあげて、ほりほりとほっぺたを か

掻いた。 こわ

「なんだ、何を怖がっているんだ？ こうしてみりゃあ、ずいぶ んとチビだが、一人でここにいるのか？ おとっつぁんやおっか いっしょ

さんは一緒じゃないのかい？」  何か返事をしようと思うのだけれど、舌が引っ込んでしまって

385

いる。 ど

こ

か

くだ

「おチビさん、何処から来たんだい？」赤い実を噛み砕きながら、 たず

ていこく

トカゲ男は気さくに尋ねる。「こんな辺境に、帝国からの難民が すいじん

来るわけもないが……おまえさんアンカ族だろ。俺のような水人 族に会うのは初めてかい？」 しぼ

 ワタルは喉をごくりと鳴らして、なんとかかすれた声を絞り出 した。「あ、あ、あなたは、す、す、スイジン？」 「おう、そうさ」トカゲ男はあたりに落ちている赤い実を、大き な手でわしづかみにして拾っては、あの首長牛に食べさせ始めた。 首長牛はむうむうという声をたてながら、大きな口を動かしてい る。喜んでいるのだろう。 「で、僕は──アンカ族？」ワタルは自分の鼻の頭を指して尋ね た。 めがみ

つく

「そうだよ。女神さまがいちばん最初にお創りになった種族だ。 だから女神さまのお姿によく似ている。学校で習ったろう？」ト む

ほほえ

カゲ男は歯を剥き出した。微笑んだのだろう、たぶん。  ワタルは考えた。どうやらアンカ族というのは、いわゆる人間 の姿をしている種族のことであるようだ。ラウ導師さまもそうな のだろう。だが幻界には、他の種族もいるのだ。 「あの、あの、この動物は──」 「こいつはダルババだ。なんだよ、初めて見るのかい？ 怖がら だいじょうぶ

な

なくても大丈夫だぜ、おとなしいからな。耳の後ろを撫でてもら うのが大好きなんだ」 「はあ……」 はし

しる

したた

 首長の牛は、大きな口の端からバクワの実の汁を滴らせながら、 満足そうに食べ続けている。トカゲ男は、ひとしきりダルババの

386

こし

かわ

耳の後ろを撫でてやってから、腰の周りを覆っている革のミニス カートみたいなものをちょっとひっぱって直すと、首をかしげて ワタルの顔を見た。 「ダルババを知らないなんて、坊ず、やっぱり帝国から来たのか かちく

い？ あっちじゃ、家畜に車を引かせるなんてことは、まったく しないって言うからな。もうずいぶん前のことだが、ダルババが 珍しいから、見物料をとってお客に見せるんだって、渡り商人が、 五頭ばかり買って運んで行ったことがあったけど、てんで商売に ならなくて、結局破産したって話だったしなぁ」  このおしゃべりなトカゲ男の話のなかに登場する「帝国」とい う言葉に、ワタルは強く引っかかるものを感じた。幻界のなかに もいくつか国があるのだろうか。 ちが

「帝国っていうのは、今僕がいるこの場所とは違うんですよね？  ここは何ていう国なんです？ さっき、辺境だって言ってまし たよね？」 だま

 そこまで言って、ワタルはぽっかりと口を開けたまま黙った。 自分で自分が信じられなかったのだ。  この口から飛び出す、この言葉は何だ？ 日本語じゃない。英 語でもない。僕がしゃべり慣れた言語じゃないのだ。 ていこう

りゅうちょう あやつ

 それなのに、何の抵抗もなく、努力もせずに、流暢に操ってい る。トカゲ男の話していることも聞き取れる。意味もわかる。 「僕……頭の中身が変わっちゃったんだ」思わず、口に出して独 つぶや

り言を呟いてしまった。 まほう

「〝幻界〟のヒトになっちゃったんだ。魔法にでもかかったみた いだ」  トカゲ男は、まだ食べ足りないのかむうむうと喉を鳴らしてバ

387

クワの実をねだるダルババをいなしながら、きょとんとした。い つ

はな

や、彼の目はワタルと違って、突き出た顔の左右に離れてくっつ ま

す

いているので、真っ直ぐに向き合っていると、正確にはどんな表 情をしたのか、見てとることができない。ただ、トカゲ男の口が 半開きになって、ギザギザの歯並びがちらりとのぞいたその様子 で、そう判断したのだった。  ワタルがちょっと固まったようになって返事を待っていると、 出し抜けにトカゲ男の口のなかからひゅうっと長い舌が飛び出し ゆうが

えが

な

て、優雅に空に半円を描き、自身の頭のてっぺんをべろりと舐め た。ワタルはぎょっとしたが、失礼になってはいけないので、ぐっ がまん

の

と我慢して飛び退かずにいた。 おどろ

すきま

「こいつは驚いたぜ」と、トカゲ男は大きくて鋭い歯の隙間から 言った。「そんなトンチンカンなことを言うなんて、坊ず、ひょっ としたらおまえさん、〝旅人〟なんじゃないのかい？」  ワタルはゆっくりとうなずいた。 「そうか！ へえ、そうなのか！」  トカゲ男は、分厚いウロコに覆われた左右の手を持ちあげて、 すばや

バンと打ち合わせた。そして驚くはど素早く近づいてくると、さっ りょううで

と両腕をのばしてワタルを抱きあげた。 「うわ！ ど、どうしたんですか？」 う

 ワタルの足は、一メートル以上地上から離れて、完全に宙に浮 いていた。トカゲ男はガタイを裏切らない力持ちで、軽々とワタ ルを持ち上げている。プロレスラーにだっこされてるみたいだっ た。 うれ

 トカゲ男はそれはそれは嬉しそうで、目を細めてワタルを高い は

高いしながら、自分も飛んだり跳ねたりして、リズムをつけて歌

388

うように言った。「いやぁ、嬉しいなぁ、今朝起きたときに、今 日はなんか良いことがありそうな気がしたんだが、まさかここま めぐ

でのこととはなぁ！ 旅人に巡り合えるなんて、嬉しくてどうか なっちまいそうだよ！ 俺はなんてツイてるんだろう！」  ぶんぶん振り回されて、ワタルは目が回りそうになってきた。 いぶくろ

「あの、あの、ちょっと、あのボク、胃袋が──口から──飛び 出しちゃう」 「え？ ああそうか、すまん、すまん」  ようやく、トカゲ男はワタルを地面に降ろしてくれた。それで ふ

もまだ興奮が収まらないのか、両手を持て余し、足をどたどた踏 み鳴らしている。ワタルはその場に座り込んで、足を投げ出し、 もど

シャッフルされた脳ミソと胃袋が定位置に戻るのを待った。 「まったく申し訳ない」そう言いながら、トカゲ男もしゃがみこ はちゅうるい

ひとみ

せわ

んだ。爬虫類独特の細い瞳が、忙しなくまたたいている。 「それで旅人さん、いつ幻界に来たんだい？ やっぱり女神さま の塔を目指してるんだろ？ それともほかの目的があるのかい？」  ワタルは両手でこめかみを押さえた。うん大丈夫、曲がってな い。 「つい昨日、来たばっかりなんです。朝のうちに番人の導師さま の村を出発して、草原をずっと歩いてきたんです。喉が渇いたの で、水を探して、それでここへ来て」 「ああ、そうか。じゃあまだ新米の旅人なんだな。どうりで何も 知らないわけだ」トカゲ男はうなずいた。「だけど、この草原は 広いぜ。どこを目指してるんだ？」 「とりあえずガサラの町へ行くようにって、導師さまに言われま ひる

した。迷わなけれは、午過ぎには着くだろうって」

389

そ

「ガサラか。確かに遠くはないが、でも、それだとだいぶ道を逸 れてるぜ。坊ずの足じゃ、日暮れまでにはたどり着けないよ」  ショックだった。導師さまに言われたとおりに、太陽を日印に 進んできたつもりだったのに、どこで間違ったのだろう？ きば

 トカゲ男が、にいっと牙を剥き出しにした。「大丈夫、安心し ろよ。ガサラまで俺が送っていってやる。俺の車に乗れば、まだ ひ

陽が高いうちにガサラに入れるさ。今日、車につけてきたあのダ あし

やつ

ルババは、うちでもいちばん脚の強い奴なんだ。ターボって名前 だ」 うな

 当のターボは、むうむう唸るのもやめて、その場で立ったまま いねむ

居眠りをしているようだ。確かにあれに乗せてもらえれば、すご く楽だろう。さっき見た砂煙の立ちのぼり具合から察しても、トッ プスピードの時には、乗用車ぐらいの走りをしそうだ。  でも──このトカゲ男さん、なんでこんなに親切にしてくれる んだろう。 「ボク、ワタルっていいます」ワタルは名乗って、ぺこりと頭を さげた。 「ワタルか。俺はキーマっていうんだが、俺たち水人族にはこの いっしょ

名前が多くてな、だから、真ん中の名前も一緒に呼んでもらわな いと、ほかの奴とまぎらわしい」 「なんて言えばいいんですか？」 「キ・キーマ」トカゲ男はゆっくりと発音した。「最初のキは、 次のキーマのキよりも半音高く発音してくれ。でないと、女の名 前になっちまうんだ」 キ・キーマさん。口に出してみて、何度 も発音を直された。ワタルにしてみれば簡単な音なので、かえっ て変化のつけようがない。二十ぺんくらい、あれこれ試みたとこ

390

ろで、キ・キーマは頭をかいた。 「まあ、俺の名前なんかいいか。ここで時間を潰してもしょうが ないし」 「ごめんなさい」 「気にするなよ。さっきの、十七回目のなんか、ずいぶんいい線 いってたぜ」  さて出発しようかと、キ・キーマは身軽に立ちあがる。ワタル はためらった。 「でもキ・キーマさん、僕なんか便乗していいんですか？ お仕 事とかあるでしょう？」  親切なふりをして子供を車に乗せ、さらって売り飛ばす──幻 界にだって、そんな悪人がいないとも限らない。いや、どこに売 り飛ばすのか、幻界では子供にどんな使い道があるのかわからな いけど、とりあえず一般論としてはそういうことがありそうじゃ ない？  キ・キーマは鉤爪のついた手をひらひらと振った。「仕事なん ていいんだよ。親方だって、俺が旅人に会ったんだって言ったら、 おこ

寄り道したことを怒りゃしないよ」 「旅人に会うことが、それほど良いことなんですか？」 とほう

「そりゃあもう、もう、もう、途方もなく大変な幸運さ！」キ・ キーマは両手を振り回しながら、またどすんどすんと足踏みをし た。「俺、自分でもまだ信じられないくらいさ！ 子供のころに、 じ

爺さまが昔、タキオの町はずれで旅人とすれ違って、そのあと鉱 おや

山株で一山あてたって話をさんざん聞かされてよ、だもんで、親 じ

つ

父なんか一時は目を吊りあげて旅人探しをしたんだが、まるっき だ

め

り駄目だった。それを俺ときたら、ターボに水を飲まそうと思っ

391

てオアシスに寄っただけで、ひょっこり出会っちまったんだから よ！」  つまり、キ・キーマたち水人族にとっては、広い幻界のなかで、 おとず

そうぐう

十年に一度ここを訪れる旅人に遭遇することが、まれにみる幸運 の印であるようなのだ。  キ・キーマに手を貸してもらって、ワタルはダルババ車によじ となり

かた

登り、彼の隣になんとか落ち着いた。硬い一枚板でできた座席は、 ごこち

お世辞にも座り心地がいいとは言えないが、草原をてくてく歩い てゆくことと比べたら、天国だ。 ひも

「そこにある革の紐で、腰のあたりをしっかり荷台の柱にくくり つけておきなよ」  手綱を取りながら、キ・キーマが忠告した。 「俺は慣れてるから平気だが、ターボが本気を出して走ると、ちっ ゆ

とばかし揺れるから」  そうりゃ！ と景気のいい声をあげて、キ・キーマはターボに むち

ひと鞭くれた。ターボはむおうと稔ると、その場でうんと背中を は

いっしゅん

のばしてから、ふたつの鼻の穴からびゅうと蒸気を吐いた。一瞬、 なべ

母さんが愛用している圧力鍋のことを、ワタルは思い出した。 「おお、ターボも張り切ってるぜ！」  キ・キーマの言葉の半分ぐらいは、ワタルの耳に入らずにこぼ れ落ちてしまった。ターボが走り出すと、お尻の下の硬い座席が、 にわかにトランポリンに変わったのだ。自分ではしっかりつかまっ ているつもりだったのだけれど、気がついたらワタルは宙に浮い て、シートベルトがわりの革紐がなかったら、すぐにも地面に落っ こちていただろう。 「おいおい、しっかりしろよ」キ・キーマが片手でむんずとワタ

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えり

ルの後ろ襟をつかみ、座席に引き戻した。「そんなに跳ねるなっ て。足を踏ん張って、こう、下っ腹に力を入れてさ」 「そ、そ、そんな、こと、言った、って」  ピンポン玉みたいにあっちへ跳ねたりこっちへ飛んだり、うっ かりしゃべろうとすると舌を噛みそうだし、どこかにしがみつこ うかと必死で手をのばしても、つかめるものは空ばかり。あがっ たり下がったりするだけでなく、右を向いたり左を向いたり後ろ なな

を向いたり斜めになったり、 ゆる

「ちょ、ちょ、ちょっと、ス、スピード、ゆ、緩めて」 かた

 あらら！ と思う間に、ワタルは跳ね返ってキ・キーマの肩の 上に着地し、彼の頭にしがみついていた。これじゃ肩車だ。 「あれまあ」キ・キーマは大口を開けて笑った。「そこが居心地 がいいなら、座ってていいよ、旅人ワタルさんよ！」 「いえ、こ、これ、じゃ、悪い、から、降り、ます」 「いいってことよ」 はだ

「で、でも、って」降りられない。水人族の肌はトカゲにそっく かわ

りだけれど、ちっともぬるぬるしてなくて、むしろ乾いていて頑 丈で、とてもつかまり具合が良かった。  最後に父さんに肩車をしてもらったのは、何年前のことだった ろうか。不意に、そんな考えが頭に浮かんだ。父さんは、キ・キー がんじょう

マのような頑丈な大男じゃないけど、肩車をしてもらうと、とっ たの

ても頼もしい感じがした。肩の上でぴょんぴょん暴れると、重い からやめなさいって怒られたけど、幼かったワタルには、父さん が本気で重いって言ってるとは思えなかった。ワタルのことなん かつ

か、軽々と担いでるに決まってると思い込んでいた。  でも、あれは本当に重かったのかもしれない。今ここでそんな

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ことに思い至っても、何の足しにもならないけれど、でも、もし もホントに重かったのだとしたら。 なが

よゆ

 とりあえず振り落とされる心配がなくなると、景色を眺める余 う

裕が出てきた。三六〇度、見渡す限りの草原は、陽光を受けて、 緑色の円盤のように光り輝いていた。ワタルが遠目に見た道のよ うなものは、ダルババ車が往来するうちに、自然にできた道なの だろう。細くなったり太くなったり、うねうねと曲がったりしな いくすじ

がら、草原の上の白い線となって、幾筋も、地平線まで続いてい る。  少し埃っぽいけれど、顔に風を受けてぴゅうぴゅうと走ってゆ そうかい

くのはあまりにも爽快で、肺のすみずみまで息を吸い込んで、意 味もなく大きな声で吠え立てたくなってくる。 あご

「どうだい、ターボは速いだろう？」風に負けないように、顎を そらし、キ・キーマが大声で問いかけた。 すご

「うん！ 凄いですね！」 ぼう

「こいつは俺が赤ん坊のころから大事に育てたんだよ。このナハ トの国でもいちばんの走り屋になるようにな！」  ここは、ナハトの国というのか。 「キ・キーマさん、僕にこの幻界のことをいくつか教えてくれま せんか？」 とちゅう

「いいよ。でも俺は学校を途中でよしてしまったから、ちゃんと 教えられるかなあ」  まず、幻界にはいくつ国があるのだろう。「さっき、帝国って 言ってましたよね？ それはこの国とは別の場所なんでしょ？」 「ああ、そうだよ。幸せなことにな」 ゆうきゅう

 この幻界という世界は、悠久の昔、まだ時の流れの速ささえ決

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こんとん

にじいろ

まっていなかったころに、混沌の虹色の海のなかから、女神が創 りあげたものなのだと、キ・キーマは説明を始めた。 「女神さまというのは、僕たち旅人が目指している、運命の塔の 女神さまと同じ？」 「だろうなぁ。でも、俺たちには本当のところはわからないんだ。 誰も女神さまに会ったことがないし、だいいち、俺たち幻界の生 者は、女神さまがどこにおわすのかも知らない。ただ、運命の塔 という場所があって、女神さまはそこにお住まいになっていると いう伝説を聞かされているだけさ」 「伝説……か」  ワタルの目には、伝説と神話と空想をごちゃまぜにして創りあ げられているように見える幻界に、さらに伝説が存在する。小説 やマンガの登場人物が、「これは小説やマンガじゃないんだから」 と言っているみたいな、おかしな感じだ。 「女神さまは、なんていう名前なのかな」 「それが、わからないんだ。アンカ族をはじめとするいくつかの 種族では、女神さまの名を呼ぶことをタブーとしていて、学校で も教えないし、学者も研究していない。ただ、俺たち水人族の古 い言葉では、女神さまのことをウパ・ダ・シャルバって呼ぶんだ。 〝光のように美しいヒト〟という意味だ」 光のように美しいヒ ト。美の女神ヴィーナスみたいなイメージが浮かんでくる。とも あれ、運命の塔にたどり着いた者の願いなら何でもかなえてくれ やさ

るというのだから、優しいことには間違いないだろう。 「幻界には、ふたつの大陸があるんだ」と、キ・キーマは説明を 始めた。ターボのスピードもぐんと落ちて、並足ぐらいの走りに なった。

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「北の大陸と、南の大陸。広さはだいたい同じくらいだが、南の 方が険しい山が多くて、季節の変化が激しいんだ。気温も高くて、 だから動物も植物もたくさん栄えることができる。北の大陸の半 分ほどは、一年の大半を、雪と氷に閉ざされているらしい」 うなばら

おお

 そして、このふたつの大陸は、広い海原と、その上に覆いかぶ へだ

さる、深く冷たい霧によって隔てられているのだという。 はば

「霧に阻まれて調べることができなくて、外海のことは、まだほ とんどわかっていない。船乗りたちのあいだには、北と南の大陸 の真ん中あたりに、小さな島が寄り集まった場所があるって言い せき

伝えがあるんだけど、調べるために船を出しても、今まで一隻だっ て無事に戻ってきたことがないんた。その島が集まっているあた りにこそ、運命の塔があるんだという言い伝えもあるし、とんで モンスター

とら

もない、その島は、女神さまに逆らおうとした怪物どもが捉えら ろうごく

れて鎖につながれている牢獄なんだという説もある」  僕も、運命の塔はそんなところにあるんじゃないという説にサ ンセイしたい──と、ワタルは首をすくめた。 「それじゃ、北の大陸と南の大陸を、行き来することはできない んですか？」 「そんなことはない。船の航路がいくつも発見されてるし、さっ かざぶね

きも言ったけど、渡り商人たちの風船は、しょっちゅう行ったり 来たりしてるんだ。あ、風船っていうのは、海を渡る風の力を利 用して走らせる船のことだ。こいつは、風のないときは全然動か ない。だから、ひとつの航路を、決められた日数で進むのに必要 なだけの風がいつ吹くか、ちゃんと予想することが、すごく大事 なんだ」  その〝風を予想すること〟を仕事としているヒトびとを、「星

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読み」と呼ぶのだそうだ。 「空の星を読んで、風向きや風の強さを予想するんだ。だから星 読み。そうそう、連中は、風や星のことばかりじゃなくて、この かか

ち

え

世界に関わる、いろいろなことを知ってる。知恵者ぞろいだから、 ワタルも旅をしていて何か困ったら、星読みに相談してみるとい いよ。大きな町には、最低でも一人の星読みがいて、立派な〝星 読み台〟があるから、すぐにわかるだろう」  しっかり覚えておこう。 「それで僕は今、南の大陸にいるんですね？ こんなに広い草原 があるんだもの」 「そのとおり！」キ・キーマは元気よく答えた。「ナハトの国は、 南の大陸の連合国家の一員だ」 よっ

 南の大陸は、ナハト、ボグ、ササヤ、アリキタという四つの小 国と、デラ・ルベシという特別自治州が寄り集まって、ひとつの 連合国家を形成しているのだという。手元にメモがないので、ワ タルは頭のなかでナハト、ボグ、ササヤ、アリキタと暗唱した。 しんけん

社会科の授業中でも、国名を覚えるのに、こんなに真剣だったこ とは一度もない。 「おおまかに言うと、まず、ナハトは農業と畜産の国だ。南の大 陸の南側の、広い平野部にある。ボグは商人たちの国で、だから ナハトとはちょうど反対側、海のそばにある。ササヤは学問が盛 んな国でね。星読みはみんな、一度はササヤに学問をしに行くく らいだ。アリキタは、南の大陸じゃいちばん工業が発達してる。 鉱山もたくさんあるんだ」 「デラ・ルベシ特別自治州っていうのは？」  キ・キーマはちょっと首をかしげた。それから、答えるかわり

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に質問した。「ワタルは、どんな神様を拝んでいる？」 「カミサマ？ えーと」ワタルは口ごもった。神様のことなんて、 今まで考えたこともない。 き

「よくわからないや。お母さんに訊けば教えてくれるかもしれな いけど」 「へえ、お母さんしか知らないのか。神様のこと」 じ

い

「千葉のお祖父ちゃんのお墓があるお寺がナントカっていうシュ ウハとかっていうような、そんなこと──」 「ふうーん。何だろな、そのシュウハって」  キ・キーマは、ちょっと右手の手綱を放して、鉤形に曲がった 指で、口の上をごしごしこすった。カッちゃんが、教室で先生に あてられて、答がわからなくて困ったとき、いつもこんな仕草を する。それとよく似ていた。  キ・キーマは何歳ぐらいなんだろう。身体は大きいけれど、 とし

ひょっとして、かなり若かったりしてね。水人族の歳の数え方は、 僕ら──というか、アンカ族とは違うのかもしれないし。 「南の大陸の俺たちは、いろんな人種が入り交じって暮らしてい しんこう

るけれど、みんな、運命の塔にお住まいの女神さまを信仰してる」 ま

じ

め

 キ・キーマは、「女神さま」と言うときには、ぐっと真面目な 口調になる。 「だって、この世界は女神さまがお創りになったんだから。この 世は女神さまがお始めになったんだから。女神さまは、俺たち生 きものみんなの母ちゃんみたいなもんだ」  だが幻界のなかには、もうひとつ別の考え方もあるのだそうだ。 「世界を創ったのは女神さまじゃない別の神で、女神さまは、そ の神からこの世界を預かっただけだっていう説もあるんだよ」

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「世界を預かる──ね」  コインロッカーには入らないよな、世界は。 えら

「そうすると、女神さまより偉い神様がいるってことなのかな」 「偉いというより、古いんだ。だからその神のことは、〝老神〟 て呼ぶんだよ」  デラ・ルベシ特別自治州は、この老神を創世の神として信仰す るヒトびとがつくった共同体で、国というよりは教会に近いもの なのだという。 「南の大陸の真ん中に、アンドア台地っていう、下手な山よりも 標高の高い土地があるんだけど、デラ・ルベシ州はそこにあるん だ。州の住人は、下界の俺たちとは全然付き合わないし、食い物 とかも自給自足で、だからどんな生活をしてるのかわからない。 よ そ も の

他所者はけっして立ち入らせないきまりになってるんだって」 「デラ・ルベシの老神を拝んでいるヒトたちは、運命の塔の女神 さまのことは、どんなふうに考えているんですか？」 「どうって……連中にとっては、あくまでも老神の方が格が上な んだ。いつかこの世界に途方もない災厄が降りかかって、世の終 わりが訪れたときには、老神が再びやってきて、女神さまに代わっ てこの世界を治めて、世直しをしてくださるんだって、デラ・ル ベシ教の信者たちは信じてる」 「信者じゃないヒトたちには、それ、あんまり面白くないんじゃ ないですか。キ・キーマさんたちは、どう思ってるの？」 「うーん。難しい歴史のことは、俺にはよくわかんないけどね」 キ・キーマは逃げ腰になった。 「でも、老神のことは、子供のころから教えられて知ってるよ。 古い古い神様だってね。だから水人族では、老神のことを〝イル・

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す

ダ・ヤムヤムロ〟って呼ぶんだ。〝混沌を統べるもの〟という意 味なんだけどよ」 「混沌を統べるもの──」ちょっとカッコいい感じがする。 「ただなぁ、三百年前に帝国が統一されてからこっちは、老神を めんどう

信じるってことには、面倒くさい意味がくっついちまってね」  北の大陸も、昔は南の大陸と同じように、複数の小国家があっ て、さまざまな部族が混ざりあって暮らしていたのだそうだ。 や

「でな、南の大陸に比べて寒いし、土地が痩せているとか、鉱山 が少ないとか、いろいろ良くない条件が重なったせいだろうって、 うちの爺さまなんかは言っていたけど──北の大陸は、内輪もめ ばっかりしてたんだよ。ひとつの大陸のなかで、ずっとずっと長 いこと、戦争と殺し合いばっかりやらかしてた」  北の大陸にも〝星読み〟のような仕事をするヒトびとがいるが、 たたか

闘いにエネルギーをとられて、学問はあまり発達せず、従って海 とぼ

さつばつ

を渡る技術にも乏しかったので、北の大陸にどれほど殺伐とした ふ ん い き

みなぎ

みなみ

しんりゃく

好戦的な雰囲気が漲っていようと、南の大陸が侵略を受けるとい うことはなかったという。 「だから、統一以来百年ほどして、ようやくこっちの風船が向こ うに通うようになるまでは、北の様子はほとんどわからなかった。 俺なんかも、そのころの話は、爺さまが子供のころに大人たちか ら聞いた話を、また聞きして知ってるだけだからね」  南の連合国家では、北の帝国との通商条約を結ぶ際に、「北大 陸の歴史については、帝国による全土統一以降についてのみ教え る」という約束をしてしまったのだという。だから、南の大陸の 学校で、〝世界史〟として子供たちが教わるのは、三百年前から の歴史だけなのだ。

400

「それ、ひどいなぁ！」  ワタルは思わず大声をあげて、自分がキ・キーマの肩の上に座っ ていることも忘れ、不用意に身動きをした。で、当然の結果とし あや

てどっと転がり落ち、危ういところを、キ・キーマの強い鉤爪に ひっかけてもらって、宙ぶらりんになって助かった。 「おいおい、気をつけてくれよ」キ・キーマはワタルを引っ張り あげながら言った。「せっかく幸運の印の旅人に巡り合ったのに、 ひ

ダルババ車で轢いてぺったんこにしちまったんじゃ、俺は一生浮 かばれないぜ」 かなた

 草原の彼方に、またひとかたまりの木立が見えてきた。どれ、 もう半分ほどは来たから、あのオアシスでちょっと休もうと、キ・ キーマはターボの足を緩ませた。  今度のオアシスは、井戸ではなく、岩に囲まれた小さな泉があ す

つ

わ

り、澄んだ水が尽きることなくこんこんと湧き出ている。手です ふく

くって口に含んでみると、ほんのりと甘い。 「腹が減ったろう？ ここで昼飯にしよう」 ひざ

 ワタルが泉のそばに腰をおろし、膝の上に、導師さまからいた だいた包みを広げると、キ・キーマはひととおりターボの世話を 焼いてやってから、やおら、荷重のホロの下に手を突っ込んで、 ひもの

大きな干物みたいなものを引っ張り出した。 「それ、なあに？」 きょうあく

いっつい

 首をのばしてのぞくと、なにやら凶悪に赤く輝く一対の目と目 が合ってしまった。この干物、顔がついている。 「これか？ ンバラの丸干しだ。めちゃくちゃ旨いんだぜ」キ・ キーマは舌なめずりするように言って、がぶりと噛みついた。  ワタルは胃の底からすっぱい水が込みあがってくるのを飲み下

401

けんめい

して、懸命にこらえた。干物になっている状態から逆算して想像 するのは難しいが、どうやらンバラというケモノは、人相の悪い タヌキみたいなもののようだ。  ──水人族は肉食なんだな、やっぱり。  心のなかのメモ帳にそれを書き込んで、ワタルは黙ってパンを 食べた。キ・キーマは、三口ほどでペロリとンバラの丸干しを食 べてしまうと、泉の周りにはえている木の実をむしり、食べなが すす

らワタルにも勧めてくれた。 「これはマコの実といって、ちょっとすっぱいが、バクワの実と 違って腹を壊すようなことはない。でも、汁がシャツにつくと落 ちないから、気をつけて食いな」 な

 山や草原に生っている、食べられるものと食べられないもの。 気をつけて食べなければならないもの。少しずつ覚えて、知識を 増やしていかなければ、旅は続けられない。出発してまもなく、 キ・キーマのようないいヒトに巡り合ったのは、本当に幸運だっ た。別れる前に、彼にもっとそのへんのことも教えてもらってお こうと、ワタルは思った。  でも、とりあえず今は歴史の方だ。ワタルがさっきの話の続き さいそく

も

を催促すると、キ・キーマは満足そうにゲップを漏らしてから、 「どんな話だっけな？」と、頭のてっぺんを舌でべろりと舐めた。 「そうそう、北の大陸の統一か。統一国の帝国は、やっぱり北の 小国で、これはアンカ族の国だったんだ──」  三百年の昔、内戦をしぶとく勝ち抜いて、統一国家をうち立て ることに成功した。 「そのときに、初代皇帝のガマ・アグリアスⅠ世という人物は、 自分は老神と同じ創世の神の一族だと主張したんだ。でな、老神

402

からこの世界を預かったという女神さま──俺たちの信仰する女 神さまは、自分たちアグリアス家の先祖よりも格の低い神で、本 だま

来はこの世を統べる資格なんかないんだけど、老神を騙して、こ の世界をアグリアス一族から横取りしたんだって、ぶちあげたん だ」  そのうえで、 「最初に会ったとき、俺はワタルに、アンカ族は女神さまが最初 にお創りになった種族で、だから女神さまのお姿によく似ているっ て言っただろ？ ガマ・アグリアスⅠ世は、これも嘘っぱちの作 り話だって言った。アンカ族は老神に似ているんだって──だっ て、彼に言わせれば、この世を創ったのは老神なんだから」  そして女神の本当の姿は、アンカ族には似ても似つかず、まと みにく

けが

もに見ることもかなわないほど醜く穢れているのだと主張した。 「女神さまが名前を名乗らないのも、この世の生きものたちの前 こ

に姿を見せずに、運命の塔に籠もっているのも、もしも姿を見せ たら、すぐに、自分の嘘を見抜かれてしまうからだっていうんだ」  ワタルはお弁当を包んでいた布をたたみながら、キ・キーマの 真剣な顔を見あげた。 「最初に言ったように、北の大陸はずっと戦争続きで、あの地の たみ

う

民は飢えに苦しんで、そりゃあひどい暮らしをしていた」と、キ・ キーマは続けた。「ガマ・アグリアスⅠ世は、そういう不幸、戦 乱が続いて食べ物が足りないのも、全部女神さまのせいだって言っ たんだ。どうしてかっていうと、老神から世界を騙し取った女神 あんたい

さまが、自分の地位を安泰にするために、自分の真の姿に似せた 生きものをたくさん創って地にばらまいて、その生きものたちが、

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本来なら正当なこの世の住人たちであるアンカ族を苦しめるよう に計らったからだって。最終的には、女神さまはこの世のアンカ 族をすべて滅ぼすつもりだって、な」  キ・キーマは大きな頭をかしげて、考え深そうに目をしばたた いた。 「そして、俺にはどうしても信じられないんだが、北の大陸のア ンカ族のヒトたちは──帝国の国民はもちろん、ほかの小国の国 民だったアンカ族のヒトたちまでが──ガマ・アグリアスⅠ世の たた

この話を、信じちまったんだよ。喜んで、手を叩いて、そのとお りだって賛成したんだ」  北の大陸には複数の種族や人種が混在していたけれど、アンカ 族は、もともと、そのなかでも数が多い方だった。 いっち

ほろ

「だから、彼らが一致団結して、ほかの人種や種族を滅ぼそうと し始めたら、そりゃあ強いわけさ。北の大陸のアンカ族以外のヒ トたちは、家も畑も取りあげられて、殺されたり、収容所ってい どれい

うところに閉じこめられたり、奴隷にされたりして、どんどん数 が減っちまった。そうして、統一帝国が出来たんだ」  ここまで教えてもらって、やっとワタルにも、キ・キーマが 「幸せなことに、自分は南の大陸の住人だ」と言ったことが、実 感としてわかってきた。 た

「統一から三百年経った今、北の大陸には、アンカ族以外の種族 や人種は、ほとんど残っていないと言われてる。残っているとし ひど

ても、きっとまともな暮らしをしてはいないだろう。本当に、酷 い話だぜ」  ワタルは頭のなかで、キ・キーマの話をおさらいしてみた。そ したら、デラ・ルベシ特別自治州にからんで、彼が〝老神を信じ

404

ることには面倒くさい意味がついてしまった〟と言ったことの意 味が、うっすらと見えた。 「デラ・ルベシ教信者のヒトたちも、統一帝国のヒトたちと同じ ように、老神を信じてる」と、ワタルは言ってみた。「彼らも当 然、アンカ族なんですね？」  キ・キーマは目をつぶってうなずいた。 「そうだよ。それどころか、デラ・ルベシの初代教王は、アグリ アス家の直系だという話まであるんだ」  北の統一帝国は、本音としては、デラ・ルベシ教信者たちを取 せ

り込んで、彼らが両大陸にいることを口実に、南大陸に攻め込ん できたいのだろう。そして、北と同じような手順で、両大陸も統 一したいのだろうと、キ・キーマは言った。 「だけどな、今まで──この三百年間、デラ・ルベシ教の代々の 教王は、アグリアス帝家にすり寄るような動きは、いっさい見せ えん

てこなかった。特別自治州の山のなかに籠もって、下界とは緑を 切って暮らしている。俺たち信者でない者は、教主の顔さえ知ら ないよ」  だから北の統一帝国も、手出しのしようがなかった。 「南の連合政府は、デラ・ルベシ教と特別自治州に、それはそれ は気をつかっているんだよ。だって、もしも彼らを怒らせて、北 と手を組まれたりしたら、大変なことになるからな。通商条約を 結ぶときに、北の言い分を一方的に聞き入れたのも、下手に連中 しげき

あた

を刺激して、こっちに攻め込む口実を与えるわけにはいかなかっ たからなんだ。その意味では、デラ・ルベシは、両大陸の腹のな ばくだん

かの爆弾みたいなものなんだよ」  ワタルはゆっくりとうなずいた。どことなく、現世でもありそ

405

み

うな話だと思った。映画とかで、似たような話を観たことがある。 難しくてよく理解できなかったけど。  ワタルが中学校へいって、世界史や現代史をちゃんと教えても らう機会があれば、ありそうなどころか、キ・キーマの語る幻界 めいしょう

の南北間題は、少しばかり名称や経過を変えれば、現世で実際に 起こったことだと、すぐにわかることだろう。 「僕がこっちへ来るとき──」と、ワタルは言った。「幻界は、 現世に住む人間たちの、想像力のエネルギーが創った場所だって、 教えられた。だから、現世と似たようなことが起こるのかな？」  キ・キーマはまた口の上を指でこすった。「ニンゲンて、何 だ？」  ああ、そうか。ワタルはにっこりした。幻界に住んでいるキ・ キーマにこんなことを言っても、困らせるだけだろう。 「ううん、何でもない。いろいろ教えてくれて、どうもありがと う」 「そうか、じゃ、行くか」キ・キーマはにいっと笑った。「ま、 南にいる限りは何の心配もないよ。平和だからな」

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５ 交易の町・ガサラ

ゆ

 再びターボの引く車に揺られ──少し慣れたのか、ワタルはキ・ となり

キーマの隣にちゃんと座ることができた──草原を進み始めた。 食べ物や危険な生きもののことなど、ワタルはいろいろ質問し、 キ・キーマは親切に教えてくれた。  しばらく行くと、前方に、今まで立ち寄ったオアシスを百倍し たみたいな、広く豊かな森が見えてきた。森のなかに、三角屋根 のついた塔みたいなものが建っている。 「あれがガサラの町だ」キ・キーマが指さして教えてくれた。 「森に囲まれた、草原のなかの交易の町だ。俺たちダルババ屋や、 かざぶね

風船商人や、町から町へと学問をしながら旅をする星読みたちや、 にぎ

いろいろな者が集まってくる。すごく賑やかで、楽しい町だよ」  空気はカラリと乾いているけれど、草原は真夏のような暑さだ。 あせ

はら

ひ

ざ

みわた

額の汗を払い、陽射しに目を細め、ワタルはガサラの町を見渡し はし

た。と、町を囲む森の左の端の方から、なにやらキラキラ光る小 さなものがダルババに乗ってぞろぞろと出てきて、そのまま草原 を左手の方へと進み始める。 「あれは何？」  キ・キーマは風のなかで遠くをすかし見た。「ああ、あれはた き

し

ぶん、シュテンゲル騎士団だろう。連合国家の安全を守る騎士団 よろい

だよ。けっこう大勢いるなあ──光っているのは、彼らの鎧さ。 ふ

き

さばく

とうばつ

あっちへ行くところを見ると、不帰の砂漠の、ねじオオカミ討伐 かな」

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 げっ！ ねじオオカミ！ 「その、フキの砂漠って、この近くなの？」 きょうこく

「うん、ターボなら、まる一日走れば、砂漠の入口の岩山の峡谷 まで行けるな」 「なんで〝フキの砂漠〟なんて呼ぶの？」 おお

「なにしろ広いし、周りを岩山ですっぱり覆われているんで、外 からは様子を見ることさえできない。だから地図もないし、ねじ オオカミがうようよ巣くっているから、迷い込んだ者は帰ってこ ない。だから不帰さ」 おそ

 ねじオオカミの群に襲われたときのことを思い出すと、背中が じっとり冷たくなる。 「討伐しなくちゃならないなんて、ねじオオカミって、砂漠の外 に出てくるの？ 出てきて、ヒトを襲うの？」 「たまにな。連中は何でもがつがつ食うし、満腹ってものを知ら こ

ないんだ。だから、どうかすると岩山を越えて、不帰の砂漠のそ かいどう

ばの街道を通る隊商を襲ったりするんだよ」  説明してから、キ・キーマは「あれ？」と言った。「ワタル、 ねじオオカミを知ってるのかい？」 「うん、ちょっと」ワタルは短く答えた。思い出したくない。 「聞いたことある」 「そうかぁ。俺も話だけは聞いたことがあるんだが、めちゃめちゃ くさ

臭いケモノらしいな」  ターボが左へ向きを変え、町の入口の門が見えてきた。 とびら

と

 レンガを積んでできた太い柱のあいだに、重そうな木の扉が閉 ぼうし

ざされている。柱のてっぺんには、麦わら帽子に似たものをかぶっ たヒトが座っており、キ・キーマが手をあげて合図をすると、同

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じように手をあげて、扉の内側に向かって何か大声で呼びかけた。  ターボがのしのしと扉に近づいて、かなり手前で立ち止まった。 かしこ

すると、扉がぎいっと外側に開き始めた。ターボは賢い。開く扉 と

にぶつからないように、ちゃんと手前で停まるのだと、ワタルは 気づいた。 さと

「サーカワの郷のキ・キーマだ！」キ・キーマは大声で名乗りな ひだ

ひも

がら、腰のスカートの襞のあいだから、長い紐のついたカードの かか

ようなものを引っ張り出して、柱の上の門番に掲げてみせた。 とちゅう

「ポスラにマイとママスを届ける途中だ。荷物は、ボグのマーカ たの

かんさつ

イド商会から頼まれた。鑑札を見てくれぃ」  門の内側からテキパキとヒトが出てきて、荷物の検査をし始め あさ

た。麻の布の真ん中に穴を空けて、頭からすっぽりとかぶり、腰 たけ

のところを紐でしめたような衣服を着ている。ズボンは丈が短く ひざ

て、ワタルの綿パンツを膝のすぐ下で切ったみたいな感じだ。足 すあし

は素足で、編みサンダルを履いている。 「通っていいぞぉ」  のんびりした声がすぐにかかり、ターボは門の内側へと歩き始 めた。ログハウスみたいな家が、たくさん建っている。きょろきょ ろと見回していると、キ・キーマが身をかがめ、ワタルの耳のそ ささや

ばで囁いた。 かんじん

「ワタル、俺は肝心なことを言い忘れていたよ。よく聞いてくれ」 す

 ワタルは耳を澄ませた。 たず

「俺は最初、ワタルに、北からの難民かって尋ねたろ？ 覚えて るか？」 き

「うん」確かにそう訊いた。 ていこく

「北の統一帝国は、アンカ族だけの国になって、それはそれで平

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和に治まったはずだった。だが、この十年ばかりのあいだに、ア に

ンカ族の難民が、南に逃げ込んでくるようになったんだ。ほとん どが、運を天にまかせて、手作りの風船で海を渡ってくるから、 たいていは難破して死んでしまって、大勢は来られない。でも、 なかには大枚の金を積んで、風船商人の船で密航してくる者もい る」  これも、どこかで聞いたような話だ。 「どうも北の統一帝国では、今度はアンカ族のあいだで争いが起 こり始めているようなんだ。だから難民が逃げてくる。でな、そ ういう難民の口を通して、北の事情がわかってきたのはいいんだ しんこう

が、一方では、難民が持ち込んできた老神信仰が、じわじわ広がっ たりしていてな」 めがみ

とくちょう

 老神信仰の教義は、女神の否定のほかに、もうひとつ、特徴を 持っている。 じゃあく

い

きら

「老神信仰では、旅人は邪悪なものとして忌み嫌われているんだ」 うつしよ

かなめのみとびら

ヴィジョン

 老神を敬う信者たちは、現世から〝要御扉〟を通って〝幻界〟 おとず

を訪れる旅人を、〝ザザ・アク〟と呼ぶという。 にせ

かた

「アンカ族の古い言葉で、〝偽の神〟〝神を騙るもの〟という意 味なんだそうだ」 だま

 女神が老神を騙すため、自らを老神の姿に似せて、その正体を いつわ

偽るときに、練習のために、アンカ族のまがいものをいくつかつ くった。つまり試作品である。用が済んだら、そのまがいものは、 こんとん

ふち

女神の手で、この世の果てにある〝混沌の深き淵〟に捨てられた のだが、そのうちの一体が生き残り、幻界から現世へと逃げ延び た。 「幻界へ来る旅人は、その子孫たちだって、彼らは言うんだ」

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 キ・キーマはぐいと歯を食いしばって、さらに声を殺した。 「まったく、こんな話、俺が子供のころには聞いたこともなかっ うわさ

た。最近なんだよ、噂されるようになったのは」  老神信仰をしているものは、旅人と見ると、危害を加えようと たお

みこころ

するという。〝ザザ・アク〟を倒すのは、老神の御心にかなうこ てがら

とで、神の戦士の手柄であると、信じ込んでいるからだ。だから 用心した方がいいというのだ。 ふつう

「普通は、こんな心配なんて、まるでしなくていいんだよ。ほか の町ならな。でも、ガサラは交易の町だからな。いろんな連中が 集まってくる。老神信者にぶつかってしまう危険だって、ほかの 町よりはずっと多いんだ。だから、旅人だってことを簡単に悟ら れないように、気をつけた方がいいんだ」  ワタルも囁き声で返事をした。「うん、わかった。気をつけま す。ありがとう」 からだ

 キ・キーマは身体を起こし、よし、と大きな声を出した。 「それじゃあ、ワタル、どこへ着けよう。まずは宿でいいかい？」  とたんに、ワタルは困った。ダルババ車のおかげですっかり安 じょうきょう

心して、自分の置かれている状況を忘れていたのだ。 ぎょく

 お金もないし、これからどうしたらいいのかもわからない。玉 を探すっていったって、手がかりなんて、ひとつもないのだから。  すうっと、こめかみを冷汗がつたう。キ・キーマは目をパチパ チさせた。 「どうしたんだい、ワタル？ 俺、おかしなことを訊いたかい？」 たよ

 この親切な水人は、旅人ワタルがてんで頼りなくて、何がなん だかわからないお子さんなんだというふうには考えていないのだ。 幸運の印の旅人には、頼まれればどんなことでもしてやりたいが、

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当の旅人が、何をしてもらいたいのかさえわからないのだとは、 思ってもみないのだ。当然だけど。 「ボク──あの」 「くたびれたのか？ そりゃそうだよなあ、俺たちは慣れている けど、ワタルにはきつい道のりだったろう。やっぱり、すぐに宿 屋で休んだ方がよさそうだな」キ・キーマは、親切な独り合点を 続けた。「それじゃ、悪いけど、まずターボをダルババ場に預け に行かせてくれ。ダルババ場ってのは、ダルババの宿屋さ。ヒト の宿屋も近くだから、俺がちゃんと案内するよ」  ターボは町中ではしずしずと歩いた。ダルババ場は、なるほど ちゅうしゃじょう

現世で言うところの駐車場みたいな場所だった。キ・キーマと同 じ水人たちが、〝駐車中〟のダルババの身体を洗ってやったり、 えさ

あた

すみ

だんしょう

水や餌を与えたりしている。隅の方で輪になって談笑しながら、 キセル

長い煙管でタバコを吸っていた水人たちが、陽気にキ・キーマと あいさつ

か

挨拶を交わした。  ターボを預けてしまうと、さて──と、キ・キーマはワタルに 向き直った。 「おやおや、ひどくしおれた顔をしているもんだ。あんまりくた かたぐるま

びれたなら、また肩車してやろうか？」 は

 ワタルは恥ずかしさをこらえて、正直にうち明けることにした。 「あのね、僕、宿屋に払うだけのお金を持ってないんだ」 つぶや

 キ・キーマは呟いた。「へ？」 「お金がないんだ。一文なしなの」ワタルは一気に言った。「ラ ウ導師さまはお弁当はくださったけど、後のことは自分でやらな くちゃならないんだ。だけど僕、どうしたらいいか、まだ全然わ からないんだよ」

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すばや

 キ・キーマは連続して六回まばたきをした。とても素早いまば たきだったが、切実に彼の反応を知りたくて、じっと見つめてい たワタルは、ちゃんと数えることができた。 「ワタル」と、彼は言った。「それなら俺が、宿代を払うよ」 「そんなことダメだよ！ ここまで乗せてきてもらっただけだっ じゅうぶん

て充分なのに、そんな甘えることなんてできないよ！」  しゃにむに言うワタルを、キ・キーマは大きな手を持ちあげて なだ

宥めた。 「まあまあ、そんなにムキになるなよ」彼は長い舌をべろりと出 して笑った。「それじゃあ、とりあえずは貸しておくよ。ここは 暑いし、宿に入ろう。話はそれからだ」  ガサラの宿屋は太い材木を組み合わせて建てられたロッジで、 ろうか

長い廊下に面してたくさんの部屋があった。いちばん安いのは、 「入れ込み」という、ほかの大勢の客と同室になる部屋だったけ れど、キ・キーマは小さい一人部屋を頼んでくれた。彼が宿屋の 主人とやりとりをしているのを聞いて、ワタルは初めて、幻界の 通貨の単位を知った。〝テム〟というのだった。 ひげ

お

じ

 宿の主人は、もじゃもじゃと髭をはやしたアンカ族の小父さん で、キ・キーマとワタルをじろじろと観察した。キ・キーマは気 にする様子もなく、ワタルを部屋に連れていくと、自分はちょっ うつわ

と戻って、すぐに、コップみたいな器をふたつ持ってやってきた。 「そら、これを飲みな」と、コップをワタルに差し出した。「草 原を走るのは気持ちがいいが、照り返しがきついから、実は身体 つか

が疲れるんだ。そういうときは、こいつがよく効くんだよ」 うすあま

 コップのなかの飲み物は薄甘く、ちょっぴり薬臭かった。 い

「本当にどうもありがとう」と、ワタルは言った。素朴な木の椅

413

す

子に座ると、ほっとした。  キ・キーマはべろりと舌を出した。照れているみたいだった。 「だから、いいんだよ。言ったろう？ ワタルは俺の幸運の星な んだからな」 ほほえ

 ワタルは微笑んだ。幸運の星。たったそれだけのことで、見ず 知らずの者に、こんなに親切にするヒトが、果たして現世にはい い

ば

るだろうか。現世で威張っているのは、それとはまったく反対の 人間ばかりではないのか。 お

じ

じんぼうちょう

 ふと、ルウ伯父さんと神保町の書店街へ出かけたときのことを 思い出した。ワタルにぶつかって、謝るどころか、転んだワタル ふ

の手を無造作に踏みつけて立ち去ろうとした若い男がいたっけ。 おこ

ルウ伯父さんが真っ赤になって怒っても、知らん顔をしていた。  ミツルは、幻界は現世の人間の想像力のエネルギーによってつ くられた世界だと言っていた。だったら、現世にあの若い男のよ あふ

やさ

うな人間ばかりが溢れたら、この美しく優しい幻界のヒトたちも、 変わっていってしまうのだろうか。 「ワタルは女神さまに会うために、運命の塔を目指すんだよな？」 かた

キ・キーマは、硬そうだけれど清潔なべッドに腰かけて、ちょっ と首をかしげた。 「うん、そうだよ。僕は自分の──ううん、僕と僕の家族の運命 を──」 さえぎ

 キ・キーマは遮った。「いや、それは言わないでくれ。俺たち は、現世から幻界を訪れる旅人は、女神さまに呼ばれて来るんだ と教えられている。どうして女神さまがその旅人を呼んだのか、 せんさく

それはわからないし、詮索しちゃならないんだ。だって、神意だ からさ。だからワタルが何のためにこっちへ来たのか、その理由

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を、俺には言わないでおくれよ」  ワタルはうなずいた。「うん」 がんば

「そうしてワタルは、一人で頑張って行かなくちゃならない」 「うん、そうだよ」 だれ

いっしょ

「でも、運命の塔に行く道中だけならば、誰か一緒に行ったって いいよな？ だからその、俺がついていってもさ」 「キ・キーマ！」 いか

「女神さまだって、お怒りにならないと思うよ、途中までならさ」  キ・キーマは急いで続けた。 じ

「だってワタルはまだこんなに小さいじゃないか。俺の爺さまが、 昔出会った旅人は、立派な若者だったっていうぞ。そんなら一人 旅だって心配はいらない。でもワタルはまだ子供だ。旅費だって、 かせ

ほう

どうやって稼ぐんだ？ 小さな子供を一人で放り出すのは良くな い。うん、絶対に良くない」  キ・キーマは、何度も何度も勢いよくうなずいた。ワタルは胸 が熱くなった。 うれ

「それはとっても嬉しいよ。でも、キ・キーマは仕事があるじゃ ない。僕のために休むなんて、そっちも良くないよ」 かがや

 目を輝かせて、キ・キーマは乗り出した。「そうだな。だから さと

ワタル、俺はこれからひとっ走り積み荷を届けて、サーカワの郷 に帰って、長老様におうかがいをたててくるよ。特急のダルババ 車を使って走り通せば、三日か四日あれば行って帰ってこられる。 だから、それまでここで待っててくれ。な？」 「それは──だけどそんな大変な！」 「いいんだよ。長老様だって、もしも俺がここでワタルにサヨナ ラって言って帰っちまったら、きっとお怒りになると思うんだ。

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キ・キーマよ、おまえはいつからそんな不親切な水人になったっ て」キ・キーマは頭をかいた。「長老様は四百二十歳になるんだ が、まだまだ力も強くってな。俺なんか、子供のころから、いた しか

ずらをしては叱られて、ケッパンくらってばっかりいたから、今 でもおっかなくてしょうがないんだよ」 みは

 四百二十歳！ ワタルは目を瞠った。水人族は長生きなんだ。 「そうなの……そんなら僕……」 「そうか、じゃあこれできまりだ！」キ・キーマはパンと手を打 ち、元気よく立ちあがった。「それじゃあ、善は急げだ。俺は出 かけるよ。宿代は五日分まで払ってあるから、ワタルは何にも心 配いらない。飯もちゃんと出してくれるからな。疲れがとれたら、 少し町を見物してみるといいぜ。ここは大勢のヒトが集まる町だ から、次にどこを目指せばいいか、何かヒントが見つかるかもし れない。あ、でも、老神教の信者には気をつけることを忘れるな よ」 「うん」ワタルはまた、ありがとうと言うしかなかった。何度言っ ても言い足りない。ありがとう、ありがとうって。  どすんどすんと急いで出てゆくキ・キーマの大きな背中は、と たの

ても頼もしく、温かく見えた。彼自身は何歳なんだろう？ ね

しっくい

 ワタルはベッドに寝ころんで、手足をのばした。白い漆喰の壁。 いぐさ

てんじょう

すず

藺草を編んだような板の張られた風変わりな天井。涼しくて気持 ちがいい。心がほどけてゆく。 お

ば

くだ

 夕食には、丸顔のアンカ族の小母さんが、パンとシチューと果 もの

物を運んできてくれた。小母さんは無口で、ワタルの顔を見よう ともしなかったけれど、その無愛想さを百分の一秒で帳消しにす

416

お

い

のど

るほどに、美味しい食事だった。喉が鳴った。 ひ

 すっかり陽が暮れると、ワタルの部屋の小さな窓から、キラキ ラと輝きのこぼれるような星空が見えた。身を乗り出して手を差 し出すと、星ぼしを受け止めることができそうだ。嬉しくなって、 よい

ワタルは宿の外に出た。宵のうちのガサラの町は、まだそこここ あか

の建物に灯りがついていて、通りを歩くヒトの数はぐっと減り、 そのかわり、たぶんレストランや居酒屋みたいなお店なのだろう、 ひときわ明るく色とりどりの灯りが溢れている窓の内側から、陽 気な音楽や、賑やかなヒトの声が聞こえてくる。ワタルは宿の場 所を忘れないようにしながら、少しばかり散歩をして、小高い場 あお

所を探してはそこで星空を仰いだ。 もど

 頭のなかを星でいっぱいにして宿に戻ると、出入口のところで、 つ

ふ

いし

後ろからいきなり強く突き飛ばされた。振り返ると、とたんに異 ゅう

臭で鼻が曲がりそうになった。 ぼう

「おめえ、昼間あの水人と一緒にいた坊ずだな、え？ そうだろ うが」 や

つば

 痩せこけたアンカ族の男が、唾を飛ばしてそう言った。こちら むね

にかがみ込んで腕をのばし、胸ぐらをつかもうとするので、ワタ ルはその手をはらいのけた。 「なんだ、逆らうのかこのガキ」男は臭い息を吐きながら毒づい よ

た。よろよろしている。酔っぱらっているのだと、ワタルはやっ すご

にお

さけくさ

と気づいた。このもの凄い臭いは、いわゆる酒臭いというやつな きょうれつ

のだ。幻界のお酒って、現世のよりも強烈なのかもしれない。 「水人なんかにぶらさがりやがってよ、ヒック」男はワタルをね めつけながらブツブツ言った。 「あんな連中とつるんでると、今におめえも身体にウロコがはえ

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て、ベロが長くなっちまうんだぞ、わかってんのか」 ぶじょく

 ワタルは無言で立ちあがると、キ・キーマに対するこの侮辱的 わめ

な言葉に、ぷいと背中を向けることで応じた。すると男は喚きだ した。「この坊ずめ、せっかくヒトが忠告してやってんのに、無 視する気か？」  肩をわしづかみにされて、ワタルはカッとなった。「大きなお 世話だ。あんたなんかより、水人の方がずっと立派だ！」 「何だとこのガキぃ！」 こぶし

 男が拳を振りあげた。そのとき、宿屋の奥から何かが飛んでき ぞうきん

て、男の顔にぴしゃりと命中した。雑巾だった。 「やめんかいー」と、大声がした。あの無愛想な小母さんが、両 にら

手を腰にあてて男を睨みつけている。「この酔っぱらい！ さっ たた

さと部屋に戻らないと叩き出すよ！」 わき

ぬ

 酔っぱらいは急にしゅんとして、ワタルの脇をすり抜けて宿の なかに入っていった。なんと、ワタルのすぐ隣の部屋だ。 「ありがとうございました」  ワタルは小母さんに頭をさげた。小母さんは何も言わず、雑巾 よご

を拾いあげて、汚れた水がいっぱい入った木のバケツのなかに投 そうじ

げ入れた。掃除をしているんだ。 ひらめ

 ワタルは、パッと閃いた。「小母さん」  小母さんは太い腕で雑巾を洗っている。 「実は僕、旅費を稼ぐために仕事を探しているんです。この宿屋 で、掃除とかの雑用をさせてもらえないですか？」  小母さんは、ジロリと横目でワタルを見ると、早口に吐き捨て た。「あんたのような小さな子を一人で旅させて、父ちゃん母ちゃ んはいったい何をしてるんだい？」

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 そして、バケツを持ちあげるとさっさと行ってしまった。ワタ ルはすごすごと部屋に戻った。小母さんの言葉のせいか、眠りに まぎわ

落ちる間際に、まぶたの裏で母さんの顔がちらちらした。そうだ、 しら

真実の鏡──早く探し出して、母さんに僕が無事だって報せな きゃ。  夢は見なかった。眠りはとても心地よく、深く優しかった。だ とうとつ

が、その終わりは唐突で乱暴だった。 「起きろ！ 起きろこのガキめ、起きろって言ってるんだ！」  ワタルは目をぱちくりさせた。髭もじゃの宿屋の主人が、ワタ ルの首っ玉をつかんでゆさゆさ揺さぶっている。すっかり夜が明 けて、部屋のなかに眩しい朝日が溢れている。 「え？ な、？ 何ですか僕──」 ど

な

「何がボクだ！」髭もじゃ主人はワタルを怒鳴りつけると、ベッ ドから引きずり降ろした。「しゃんとせんかい！ 寝ぼけたふり だま

なんぞしおっても、わしは編されんからな、このヒト殺しめが！」  ヒト殺し？ 水をぶっかけられたみたいに、ワタルは目が覚め た。 「ヒトゴロシ？ どういうことですか？ 誰か死んだんですか？」  髭もじゃ主人はワタルの頭を張り飛ばした。「このガキめ、ま だとぼけるつもりでいやがるか！ その手を見てみろ！」 おどろ

 ワタルは自分の両手を見おろした。とたんに、驚きで息が停ま りそうになった。血だらけだ。手だけじゃない、下着にも、なすっ たようにべっとりと血がついている。いったいどうしたんだ？  む

だ

何が起こったんだ？「どうだ、シラを切ろうったって無駄だって わかったか」髭もじゃ主人は大声でがなりたてた。「おまえが、 しょ

隣の部屋の客の喉をかき切って殺したんだな。この血が動かぬ証

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うこ

と

かく

拠だ。殺して、金を盗ったんだろう？ さあ言え、金はどこに隠 した、使ったナイフはどこにあるんだ？」 なわ

しば

 何が何だかわからないうちに、ワタルは縄でぐるぐると縛りあ や じ う ま

げられ、宿の前に引きずり出された。すでに野次馬が大勢集まっ ていて、ワタルの顔を見て口々に驚きの声をあげる。ワタルの方 ねこ

も、本来なら、野次馬たちが犬とか猫とかクマとかライオンとか、 とにかくいろいろな動物の顔をしていることに驚くところだった よゆう

が、そんな余裕などなかった。「こんな小さな子供だったのか」 「アンカ族はマセてるから」 こわ

「これで三人目だって？ おお、怖い」 どろぼう

「泥棒だけならともかく、ヒト殺しまでするなんてねえ」 い

 みんな口々に言って、ワタルを遠巻きにしている。忌まわしい ものでも見るように、顔をしかめて。ワタルは背筋が寒くなった。 ぬす

 ヒト殺しなんかしていないのに。盗みだってもちろんしていな い。三人目だって？ いったいどういうことなんだよ？ しり

け

「さあ、来い！」髭もじゃ主人が、ワタルのお尻を蹴って、縄を ひっぱった。「ブランチに突き出してやる！」  宿の前の道を右に曲がって、ワタルはよろよろと引きずられて いった。髭もじゃ主人は怒ったような得意そうな顔をして、時折、 なや

つか

ガサラを悩ませてきた子供のヒト殺しを捕まえたと、声を張りあ げて言いふらす。建物の戸口や窓からも、大勢のヒトたちがワタ ルの方を見ている。野次馬たちのなかには、後をくっついて来る かんだか

者もいる。小さな子供が、甲高い声で、「ヒト殺しの泥棒が捕まっ おど

た！ ヒト殺しの泥棒が捕まった！」と、手を打って踊りながら 叫んでいる。 おそ

こんわく

 恐ろしさと怒りと困惑で、舌が喉の奥に引っ込んでしまってい

420

はや

たワタルだったが、この子供の嚇したてる声に、思わず言った。 まちが

「僕は何もしてない！ これは何かの間違いだよ！」  すがりつくように、周りを囲んでいる野次馬たちに呼びかけた。 でも彼らは笑うだけ。後ずさりするだけ。指さすだけ。 「このガキ、まだシラを切るか！」  髭もじゃ主人のキックが飛んできて、ワタルは地面に蹴倒され ほお

す

む

た。頬が擦り剥け、土が口のなかに入ってザラザラする。  そのとき、柔らかい手が伸びてきて、ワタルを助け起こしてく れた。その腕には、真っ白な毛がみっしりとはえていて、ミルク しま

ティー色の縞模様が走っていた。 とらねこ

 目をあげると、すぐ前に、白地に茶色の虎猫の顔があって、大 ブルー・グレイ

きな青灰色の目がワタルを見つめていた。 だいじょうぶ

「大丈夫？」と、その猫は言った。小さなピンク色の鼻の頭から、 まぎ

銀糸のような髭がはえている。でも、声は紛れもなく女の子のそ れだった。動作もそうだ。現世の、同級生の女の子たちとそっく りだ。 「こら、かまうんじゃねえ！ こいつはヒト殺しなんだ！」髭も じゃ主人がまた怒鳴って、ワタルを乱暴に引き起こした。猫の女 おび

はな

の子は怯えて退いた。それでも、ワタルはその子の顔から目が離 せなかった。 すそ

 猫の顔だけど、とっても美人だ。立って歩いてるし、裾の短い ジャンプスーツみたいなものを着ている。猫族ってことか。ワタ ルと同じくらい怯えていて、今にも泣きだしそうな目をしている。  猫の女の子は、後ずさりして野次馬のなかに紛れ込みながら、 ひたとワタルを見つめていた。ほっそりと優美なしっぽが、身体 の後ろから現れて、彼女が腕で自分の身体を抱いている、そのま

421

た上から、さらに自分を抱きしめる。そのとき、口元が小さく動 き、何か言った。ワタルの目には、（ごめんなさい）と言ったよ うに見えた── 「前を見てさっさと歩かんか！」 なぐ

 殴りつけられて、ワタルは気を失った。  意識を取り戻したときには、宿屋よりもこぢんまりしているけ がんじょう

れど、もっと頑丈そうな木造の建物のなかの一室にいた。太い木 てじょう

くさり

あしかせ

の柱に縄でくくりつけられて、手には手錠、足には鎖の足枷がか けられている。 あご

 ほっぺたがヒリヒリする。顎が痛い。お尻も痛い。片方の目が は

腫れてるみたいだ。 「おや、お目覚めだね」 かわ

 すぐ後ろから、女の声がした。真っ赤な革のブーツに包まれた つまさき

爪先が、ワタルの顎の下にぐいっと食い込んで、顔を押しあげる。 「どうだい、年貢の納めどきだってことがわかってきたかい？」 くろかみ

 つやつやした黒髪を短く刈りあげ、口の端に紙巻きタバコをく わえ、きつい目つきでワタルを見おろす、アンカ族の女性がそこ すはだ

にいた。背が高い。スタイルも抜群だ。素肌の上に、黒光りする 革のベストと革のショートパンツを着て、トゲトゲの飛び出した ひじ

肘あてと、赤いなめし革の腕輪をつけている。 「何ポカンとしてるのさ」女は言って、ケラケラと笑うと、爪先 を引っ込めた。彼女がゆっくりとワタルの正面に回ってくると、 かかと

な

ブーツの踵を舐めるようにして、黒くしなやかで細いものが、そ の後をくっついてくる。何だろうとよく見ると、それは黒革でで むち

ゆか

きた長い鞭の先端だった。彼女はそれを右手に持って、床を引き ずりながら歩いているのだ。

422

か

「初めまして、坊や」と、女のヒトはタバコの端を噛みながら言っ た。「あたしはカッツ。このブランチの長だよ。もっとも、名乗 しらん

らなくても知ってるかもしれないね。このあたしが〝棘蘭のカッ あ

ツ〟だってことを承知の上で、ガサラを荒らしてくれたんだろう？ きも

たま

 その肝っ玉は、なかなかたいしたもんだよね」 めがね

 部屋の奥で男が笑った。こちらはトラの顔をして、鼻先に眼鏡 を乗っけてる。 「僕は何にもしてません」しゃべると口が痛かったけれど、ワタ ルは頑張ってそう言った。「ヒト殺しも盗みも、何にも」  カッツは喉をそらして笑い、トラ顔の男に言った。「おやトロー ン、聞いたかい？」  トラ男は立ちあがると、ワタルにもっとよく見える場所へ出て きた。彼はキ・キーマが着ていたのと同じような短い革のスカー は

なな

さ

トを穿いて、肩から斜めに大きな革のホルダーを提げている。背 かつ

中に剣を担いでいるのだ。 「坊ず、おとなしく罪を認めた方が身のためだ」と、トラ男は言っ た。「宿屋でおまえの隣に泊まっていた男が、喉を切られて殺さ ゆうべ

れたうえ、持っていた金を盗られた。おまえが昨夜、この男にか らまれて怒っていたことも、旅費に困っていたことも、もう調べ ふうふ

がついているんだ。宿屋の夫婦が証言したんだよ」  殺されたのは、あの酔っぱらいだったのか。ワタルはあらため て恐ろしくなった。ひしひしと現実感が押し寄せてくる。 「あんたの言うとおり、僕は仕事を探してたし、あの酔っぱらい にからまれて怒ったよ。でも、殺してなんかいない。どうして僕 が疑われるんです？」 「身体じゅう、血だらけじゃないか」

423

ねら

 カッツが言って、短くなったタバコを、ダーツみたいに狙いを つけて、しゅっと投げた。タバコは部屋の隅のバケツのなかに落 ちて、ジュッと音がした。 「だけど僕は身に覚えがないんです！」ワタルは身体を揺すりな せいいっぱい

がら、精一杯の力を込めて言った。手錠と足枷がカチャカチャ鳴っ た。「ガサラには昨日着いたばっかりで──」 「一ヵ月前──」と、カッツはワタルを無視して言い始めた。 「ある宿屋で、旅の商人が喉を切られて殺されて、お金を盗られ た。次は十日前で、別の宿屋で──」 「僕はやってない！ 一ヵ月前も十日前も、僕はこの幻界に来て もいなかった！ だって現世からの〝旅人〟なんだから！」  ワタルの叫びに、カッツとトラ男は顔を見合わせて、同時に笑 い転げた。 「何を言うかと思ったら！ 〝旅人〟ね！」 うそ

「嘘じゃないです！ 僕の剣、宿屋に勇者の剣があるはずなんだ。 調べて、ラウ導師さまに聞いてみてください！」 「ラウ導師？ そりゃ誰？ 星読みかい？ あいにく、俺たち ハイランダー

〝高地人〟は、星読みなんかとは付き合いがないんだよ」 がくぜん

 ワタルは愕然とした。このヒトたち、導師さまを知らないのか。 いんじゃ

要御扉の番人である導師さまは、幻界では隠者みたいなもので、 ふつう

かか

普通のヒトびととは関わりのない存在なんだろうか？ 「じゃ、キ・キーマに聞いてください。水人族のダルババ屋で、 今サーカワの郷に向かってるけど、三日ぐらいで戻ってくるから」 「三日？ アラ残念だね、それじゃ間にあわないよ」カッツは鞭 え

いき

の柄を肩に担ぐと、左足に体重をかけて、粋な立ち方をした。 こうしゅだい

しだい

「だって坊や、あんたは、絞首台が出来あがり次第、縛り首にな

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るんだもの。ねえトローン？」 「ああ、そうだ」トラ男は、机について書類みたいなものを取り あげながら、無関心そうに言った。「絞首台は一日あれは完成す る。あいにくだな、坊ず」 せいだい

「ガサラじゅうの大工が集まって、盛大にトンカンやるからね。 ここの横の広場に造るから、留置場の窓からもよく見えるよ」 しぼ

「一日なんて、そんなバカな！」ワタルは声を振り絞った。「取 り調べだって証拠集めだって、何にもしてないじゃないか！」 「する必要ないんだよ。宿屋の夫婦の証言と、その血だらけの手 を見れば」 「ホントの犯人が、寝ている僕の身体に血をなすりつけていった のかもしれない。僕に罪を着せるために」  とっさの思いつきだったけれど、口に出してみると、確かにそ うだと思えてきた。だが、カッツとトローンは笑うだけだ。 やつ

「そんな回りくどいことをする奴がいるもんかね。いいかい、坊 や」カッツはその場でしゃがむと、ワタルと目を合わせた。「最 しわざ

初の殺人のときから、あたしたちは、こりゃ子供の仕業だって目 星をつけてたんだ。だって、殺された三人は三人とも、内側から かぎ

鍵のかかった部屋にいたんだよ」 「僕の隣の酔っぱらいも？」 「そうさ。鍵を開けずに部屋に出入りするには、近くの部屋から せま

天井裏を通るしかほかに手がない。だけど天井裏は狭いからね、 大人じゃ無理だ。踏み抜いちまうしね」 「たったそれだけのことで犯人と決めつけるなんて、メチャクチャ じゃないか」 「だから、それだけじゃないだろ。あんたは血だらけ。おまけに

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昨夜は文なしだった」 ゆうが

 カッツは立ちあがると、優雅に伸びをした。「まあ、安心おし よ。縛り首ってのは、存外苦しくないものだそうだから」 「気持ちがいいという説もあるな」と、トラ男が言った。 あかし

「冗談じゃない！」ワタルは叫んだ。「僕には身の証を立てる権 利があるぞ」 「ミのアカシ？ へえ、難しい言葉を知ってるんだね」カッツは ワタルに背中を向けた。 「だいいち、この国の治安を司っているのは、シュテンゲル騎士 団だろ？ あんたらには、勝手に僕を裁くことなんて、絶対でき ないはずじゃないか！」 しゅんかん

 カッツは素早く、しなやかに振り返った。次の瞬間、ワタルの うな

頭すれすれにかすめて、彼女の鞭が唸りながら空を切り、柱を打っ た。「生意気もほどほどにおしよ！」 こお

 凍りついたワタルに、カッツは言った。 「〝旅人〟のふりをして、知ってることも知らないように言うつ もりなんだろうけど、あたしたちハイランダーを軽んじるなんて、 絶対に許さないからね！」  口があわあわしたけれど、ワタルはなんとか言葉を発した。 「だ、だって、シュ、シュ、シュテンゲル騎士団、が」 まゆげ

かぎ

ゆが

「あいつらは新参者さ！」カッツは細い眉毛を鉤のように歪めて 言い捨てた。「連合政府なんてご大層なもんができる前から、こ の南大陸の治安は、あたしたちハイランダーが守ってきたんだ」  トラ男が続けた。「それにな、坊ず、シュテンゲル騎士団は、 ここんとこずっとモンスターどもの討伐で手一杯だ。今だってど ちゅうとん

こに駐屯していることやら。いつ帰るかもわからんよ」

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「フン、奴らなんか、ねじオオカミの番でもしているのがお似合 めざわ

いさ！」カッツは鼻先で言うと、「トローン、この坊ずは目障り だ。さっさと留置場にぶちこんで！」  トラ男は腰をあげ、柱の縄をほどいて、ワタルを建物の奥へ連 れて行った。背中の剣はおろしていたけれど、彼のぶっとい腕と するど

つめ

すき

鋭い爪だけで、ワタルには充分だった。隙を見て逃げ出すなんて、 とんでもない。 ぼう

 トローンはワタルを狭苦しい留置場の房に押し込むと、扉に鍵 をかけた。ブレスレットみたいなキーホルダーを腕にとおす。彼 もカッツと同じ、赤いなめし革の腕輪をはめていることに、その とき気づいた。 きば

「逃げようなんて思うなよ」トローンは牙を見せて、にやにや笑っ た。「それよりも、この世で食うあと何度かの飯を、心ゆくまで 楽しむことだ」 しんだい

 留置場の板張りの寝台にへたりこんで、ワタルは途方にくれた。 しょうげき

きょうふ

なみだ

あまりの衝撃と恐怖に、涙さえ出てきてくれない。そうやって放 こうし

心していると、太い格子のはまった窓の向こうで、トンカントン カンと大工仕事の音が始まった。背伸びして外をのぞくと、カッ ツが言っていたとおり、この建物の横の小さな広場の真ん中に、 す

白木の土台が据えられようとしている。  絞首台だ。  西部劇みたい──なんて思ったのはほんの一瞬で、すぐに膝が ガクガクして立っていられなくなった。ああ、どうしよう。この ままじゃ、本当に縛り首になってしまう。  勇者の剣はどこにあるのだろう。現世だったら、こんな場合は そうさく

まず家宅捜索があって、容疑者の持ち物を調べるのだろうけれど、

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ここじゃ、そんな正しい手順は望めない。宿屋の主人がガメてし まっているかも。今ごろ、勇者の剣で、あの小母さんがパンや野 菜を切ってるかもしれない。  幻界で死ぬと、この身体はどうなるのだろう？ 現世に帰るの だろうか。  トンカントンカンと、リズミカルな音が続く。賑やかな話し声 も混じって、やけに楽しそうだ。それに比べて留置場のなかはひっ そりとしている。このまま絞首台が出来あがるまで、ほったらか しにされるのだろうか。それでは弁解の機会さえない。  窓と扉の鉄格子は、ワタルの手首ぐらいの太さがあって、揺すっ ても叩いても手が痛いだけ。ビクともしない。  さすがに泣けてきた。でも、泣いても泣いても、誰も様子を見 にさえ来てくれない。  陽が落ちたころ、トラ男のトローンと同じ出で立ちをしたアン カ族の大男が、夕食と毛布を運んできてくれた。ワタルは飛びつ だま

くようにして話しかけたけれど、大男はむっつりと黙ったまま、 鉄格子の下の方にある差し入れ口から、持ってきたものを突っ込 むと、さっさと行ってしまった。 「僕は無実なんですってば！」 むな

 叫び声だけが空しくこだまする。 わ

 水みたいなスープと固いパン。食欲なんて、全然湧いてこない。 かか

膝を抱えて泣き寝入りするしかなかった。 すいみん

 とぎれとぎれの睡眠で、おかしな夢を見た。母さんが出てきた し、なぜか大松香織も出てきた。彼女もワタルと同じように、鉄 うる

格子の内側にいた。大きな目を潤ませて、ワタルを見つめている。 とら

夢のなかでワタルは、そうか香織も囚われているんだと悟った。

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ほかでもない、恐ろしい犯罪によって壊されてしまった彼女自身 ろうごく

のなかに。ワタルと違って、彼女の牢獄には錠前がない。でも、 扉もないのだ。  ──どうすれば、君をここから出してあげられるの？ ふ

 尋ねると、夢のなかの香織は黙って目を伏せ、かぶりを振った。  ──お父さんやお兄さんが心配してるよ。  香織が顔を上げて、何か囁いた。聞き取れない。え？ 何て言っ た？ もっと大きな声で言ってよ。大きな──大きな── 「大きな声を出させるんじゃないよ！」 ぎょうてん

 ワタルは仰天して、夢のなかから飛び出した。身体を丸めて、 毛布のなかに隠れるようにして眠っていた。カッツがすぐそばに 立ち、両手を腰にあて、ワタルを見おろして怖い顔をしていた。 「ああ、やっと起きたか」彼女は乱暴な口調で言った。「あんた、 か

朝寝坊だね。さっきから何回起こしたことか。声が嗄れるかと思っ たよ。家じゃ、母ちゃんにも叱られてばっかりだろ」  ワタルは身を縮めたまま起きあがった。絞首台が出来あがった ので、迎えに来たのだろうか。トンカン音も聞こえない。  カッツは口の端をひん曲げて、フン！ という鼻息と共に言っ た。 しゃくほう

「坊や、釈放だよ。ここから出るんた」  耳を疑うような言葉だ。ピンとこない。 「釈放だって言ってるんだ！ グズグズするんじゃないよ。あた めめ

しは、ノロくさい子供と女々しい男は大嫌いなんだ」  ぽかんとカッツの顔を見あげて、ワタルは最初に頭に浮かんだ 言葉を口にした。 「どうして？」

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 カッツの口が、さらに曲がった。「どうしてもこうしても、疑 いが晴れたからさ！」 「だから、どうして？」 「しつこいガキだね。なんでそんなこと知りたがるのさ。ここか ら出たくないのかい？ だったらいいよ、また閉めちまうから」  ワタルは彼女の脇をすり抜けて、開けっ放しの扉から廊下へ飛 び出した。カッツは男みたいに頭をごしごしかくと、ワタルに続 いて廊下に出て、足で扉を蹴って閉めた。 ゆうべ

「昨夜、あんたがここにいるあいだに、また別の宿屋で、同じ手 口の事件が起こったんだよ」不機嫌そうに、彼女は言った。「今 け

が

もくげき

度の被害者は、ひどい怪我をしたけど死ななかった。だから目撃 証言もとれたんだ。二人組の小男で、二人して、あんたが間違っ おもしろ

て捕まったことを、ゲラゲラ笑って面白がっていたってさ。あん たの手や身体に血がついていたのは、あんたに罪を着せようと、 そいつらがわざとやったことだったんだと。あたしら、まんまと 騙されたわけだ。クソッたれが！」  最後の悪態は、唾と一緒に吐き捨てられた。 「だから僕は無実だって言ったのに。ちゃんと聞いてくれないか らですよ」 きょうあく

にら

 カッツは凶悪な目でワタルを睨み、最初につながれていた事務 所みたいな部屋までワタルを連れて行った。そう──落ち着いて よく見ると、ここは西部劇に出てくる保安官事務所によく似てい る。 「あんたの泊まってた宿屋へ行くといい」カッツはぶっきらぼう に言った。「オヤジがあんたの荷物を預かってるって。あと、殴っ わ

ちそう

たり蹴ったりしたお詫びに、飯をご馳走するってさ。それでも気

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が済まなきゃ、別にオヤジを殴ったっていいけど、あんまりやり すぎると、今度は別件でここに来ることになるから、ほどほどに しときな」  ワタルが外へ出ていこうとすると、カッツが呼び止めた。「ね え、あんた。本当に″旅人″なんだね」  ワタルは振り向いた。 さわ

「あんたの持ってたちっぽけな剣。宿のオヤジが触ったら、熱く たまわ

て持てなかったんだって。きっと女神さまからの賜りものだって、 か

青くなって駆け込んできたんだ」  ああ、剣は無事なんだ。良かった。 じゃま

「現世からの旅人は、女神さまに呼ばれて来るんだからね。邪魔 をしちゃいけないんだ」  カッツは机に歩み寄ると、椅子の背にかけてある彼女の鞍をい じりながら言った。 「悪かったね。女神さまに会えたら、あたしらが反省してるって 伝えておいてよ。特に宿のオヤジはね」 「わかりました」 「でも、悪いことは言わない。飯を食ったら、早くこのガサラを 出ていくことだ。あんたの疑いは晴れたけど、まだ犯人は捕まっ めんどう

ていないし、グズグズしてるとまた面倒に巻き込まれるよ」 まぶ

 ワタルは黙って外へ出た。陽射しが眩しく、空はあっけらかん と青く晴れている。宿屋まで行くと、髭もじゃ主人がすっ飛んで 出てきて、さかんにペコペコ謝り、奥の台所へとおしてくれた。 小母さんもそこにいて、朝から食べきれないほどのご馳走を、テー ブルいっぱいに並べてくれた。ワタルがそれを食べていると、髭 もじゃ主人が、分厚い布で厳重に包んだ剣を持ってきた。

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「すまなかったなぁ、坊ず」大きな身体を締めて、主人は恐縮し た。「そら、これがおまえさんの剣だ。あらためてくれ。傷なん かつけちゃいないぞ。ちょっとその、マントルの肉を切ろうとし たんだが、すぐにやめた」  ワタルは剣を腰に収めた。髭もじゃ主人はワタルの向かいに座 ると、骨付きのあぶり肉に手を出して、小母さんにぴしゃりと叩 かれた。 えら

「それにしても、偉いもんだな」髭もじゃ主人は手を引っ込めて、 言った。「坊ずみたいに小さいガキが、よく一人で現世から来た ねんれい

もんだ。要御扉を通るのに、年齢制限はないんだなぁ」 「小父さんは、現世に行ったことはないんですか」 おそ

 髭もじゃ主人は大いに畏れた。「とんでもない！ くわばら、 くわばら」 「行ったことがある人も知らないですか」 「知らん、知らん。現世は、俺たち幻界に住むものが足を踏み入 れられるような場所じゃねえんだ。女神さまがお許しにならねえ もうじゃ

し、だいいち、俺たちなんざ、あっちへ行ったら亡者になっちま う」  モウジャ。幽霊のことか。 「確かに、あっちには怖いことがいっぱいあるかもしれないです」 「そうだろう、そうだろう」 ごうとう

ひ

ど

「強盗殺人事件とかも、もっと非道いのが起こるから」 「ほう、そうなのか。やっぱり怖いねえ。今ガサラで起こってる ことだって、かなり非道いと思うがね。このまま犯人が捕まらな かったら、俺らは商売あがったりだ」 「でも、昨夜のは怪我人だけで済んだって」

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き

「おうよ、ネ族の女の子が背中をざっくり斬られてな、身ぐるみ は

剥がれてよ」髭もしゃ主人が身振り手振りで言った。「あんな安 宿に、女の子一人で泊まるのも悪いんだがな」 「女の子？ ネ族？」 かわいそう

「ああ、そうだ。白毛のべっぴんさんだが、可哀想に」  ワタルの心に閃くものがあった。食事をやめて、立ちあがった。 「ご馳走様でした。もう充分です」 「そうかい？ いや、ホントに悪かったな。出発するなら、弁当 をつくるよ」 「いえ、まだここにいます」髭もじゃ主人はあわてた。「え？  だってカッツには、出てゆけって言われたろ？」 「言われたけど、でも僕、ヒトを待ってるから。それより小父さ ん、昨夜怪我をした女の子は、今どこにいるんですか？」 しんりょう

「町の診療所にいるがね」  そこまで道順を教えてもらって、ワタルは宿を出た。ガサラの 町はもうフル回転という感じで、ダルババ車か行き交っている。 かんじゃ

 診療所は小さな山小屋みたいな建物で、患者たちで溢れていた。 むくむくのセントバーナード犬みたいな医師と、垂れ耳のテリア いそが

みたいな看護婦が、白衣を着て忙しそうに動き回っていた。ワタ ルが事情を話すと、看護婦が奥の小さな病室を指さした。 「さっき食事をしたから、今は起きていると思うけど」  礼を言って、ワタルはそちらに向かった。ドアをノックしても、 返事がない。そっと開けると、素朴な木の寝台に、背中をすっか うつぶ

り包帯で包まれたヒトが、俯せになって寝ていた。長いしっぽが、 元気なく垂れ下がっている。

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 顔を見なくても、ワタルにはわかった。昨日、髭もじゃ主人に 引っ立てられて行く途中、倒れたワタルを起こして、ごめんなさ いと呟いたネコ耳の女の子だ。幻界では、ネコ型のヒトのことを ネ族というのだろう。 「こんにちは」ワタルが声をかけると、女の子は目に見えてびくっ として顔をあげた。そして、傷の痛みにまたビクリとした。 「動いちゃダメだよ」  ワタルは近づいて、ベッドの脇にしゃがんだ。ネコ耳の女の子 ふる

の大きな灰色の目が、震えるようにワタルを見た。 「な、何？」と、囁くように訊いた。 「お見舞いに来たんだ」そしてワタルも声を落とした。「昨日、 道で僕を助け起こしてくれたよね？ ありがとう」女の子は目を そらした。 「あのとき、ごめんなさいって言ったよね？」 うろた

 女の子は怯えきって、目をきょろきょろ動かした。狼狽えるよ うに、しっぽも動く。小さな部屋のなかに、ほかには誰もいない というのに。  ワタルの心に、また閃くものがあった。 「邪魔してごめん。お大事にね」 しの

 そう言って、足音を忍ばせて部屋を出た。 ま

す

 ワタルは真っ直ぐにカッツの事務所へ向かった。彼女は背もた れに鞭をひっかけた椅子に座って、難しい顔で何か書いていた。 「何だい？ 剣は返してもらったろ？」 「はい。僕、犯人捜しを手伝いたいです」  カッツは目を見開いた。「何だって？」

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「宿屋の強盗殺人事件の犯人を捜すお手伝いをさせてください。 できると思うから」 「あんたが？」 「はい」ワタルは、奥の机についているトラ男のトローンとアン カ族の大男の方を見た。「いいですよね？ 僕、身のアカシを立 てたいんです」 「それは昨日の話だろ。今は──」 「だけど、真犯人が捕まらなくちゃ、本当に疑いが晴れたことに はならないもの」ワタルはせいぜい不敵に見えるように、ニッと む

歯を剥き出して笑った。「トローンさん、よろしくお願いします。 手始めに僕を、前の二件の犯行があった宿屋に連れて行ってくだ さいませんか？」 こぞう

 トローンは、動物園のトラの顔になって唸った。「小僧、いい 気になるなよ」  アンカ族の大男も言った。「遊びはこれまでだぞ、坊ず」 「僕は小僧でも坊ずでもないです」 「あんたねえ！」カッツが椅子を蹴って立ちあがり、流れるよう な動作で背もたれの鞭をつかんた。 「あんたでもないです。ワタルです」ワタルはまた歯を剥き出し た。「女神さまにとりなしてほしいんでしょ？」  事務所の三人は、ワタルと級友たちが掃除当番を押しつけあう のと似たようなやりとりをして、最後はジャンケンみたいなこと までやった。どうやらカッツが負けたらしい。鞭を腰のベルトに たばさんで、歯をギリギリ鳴らしながら言った。 「それじゃ行きましょうかね、ワタルさん」 けん

 ワタルは二軒の宿屋を訪ねた。どちらでも、主人たちや従業員

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うやうや

たちは、カッツに恭しく応対した。ワタルがあれこれ質問すると、 最初は目をパチクリさせたが、カッツが、 「このワタルはね、臨時の助手」と、腹立たしそうに説明すると、 ていちょう

すぐに丁重になった。  どちらの宿屋も、ワタルの泊まった宿屋と同じ、藺草を編んだ ような天井板を使っていた。風通しがよくて涼しいのだそうだ。 屋根裏にあがると、そこはとても狭くて、確かにカッツたちが推 理したとおり、子供でないと通り抜けることは無理そうだった。  二軒の宿屋を回ると、ワタルはカッツと一緒に、髭もじゃ主人 ふ

の宿屋に向かった。そこで大いに、ブイブイと吹いた。犯人がわ かったから、宿屋の経営者たちに報せてください。  カッツが頭から湯気を立てて怒鳴った。 「いったい何を言い出すんだよ、クソガキ！」  ワタルが何か言い返す前に、髭もじゃ主人が割って入った。 「おいおいカッツ、旅人に向かってそんな口をきいちゃいけない ぜ。旅人は特別なんだ。女神さまに呼ばれて来たんだからさ。子 供だって、俺たちにはわからないことがわかって、俺たちにはで きないことができるんだよ、きっと」  カッツは怒りで真っ赤になった。「だけどこのガキ、昨日は留 置場でメソメソ泣きくさってたんだよ！」  ワタルは涼しい顔をしていた。「では小父さん、よろしくお願 とら

いします。明日にはきっと、犯人を捉えますから」 「おお、わかった。みんなに伝えるとも。安心するよ」 「それと僕、今夜またこちらに泊まりたいんですけど、旅費を稼 ぎたいので、小母さんのお手伝いをして働かせてもらえませんか？  事件のことで、僕に何か訊きたいという人が訪ねてきたら、誰

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にだってすぐに会いますから、そちらもヨロシク」  噂はあっという間にガサラの町じゅうに広がった。ワタルが宿 ふ

まきわり

屋で皿洗いをしたり、床を拭いたり、小母さんに教わって薪割を か

しているあいだに、入れ替わり立ち替わりお客が訪ねてきた。犯 人がわかったんだって？ おまえさん、凄いもんだね。〝旅人〟 なんだって？ そうか今は要御扉が開く時期なんだね。  ついでのように、女神さまにお会いしたらコレコレのことを頼 いらい

んでほしいという依頼まで来て、ワタルは大忙しだった。  子供たちも大勢やってきた。ワタルが引き立てられているとき、 手を打って「ヒト殺しが捕まった」と言いふらしていた子もやっ ほ

えいきょう

て来て、凄い凄いと褒めそやしていった。よろず周りに影響され いけ

やすい性格らしい。ワタルは、子供たちでさえ、旅人に対して畏 い

いだ

敬の念を抱いていることを知り、現世を恐れている（みんな、髭 もじゃ主人と同じことを言った、あっちへ行ったらモウジャになっ ちゃう！）ことも知った。頭の隅に、ちらっと、ガサラのような 大きな町では、旅人であることを知られないように用心しろとい うキ・キーマの忠告がよぎったけれど、ちやほやされるのは悪く ないので、ま、しようがないよバレちゃったんだからと思った。 ちょっと芸能人みたいじゃん？  皆に囲まれているときに、子供たちの輪の外の方に、二人組の たたず

なが

アンカ族の少年が佇んで、じつとワタルを眺めていることに気づ う

ほこり

いた。二人ともひどく飢えたような顔つきをしていて、埃だらけ の服を着ていて、姿勢がよくない。ワタルと視線が合うと、わざ と睨みつけるか、ぷんと顔をそらすか、どちらかだ。  ワタルはその二人の顔形を、しつかりと頭に刻み込んだ。二人 が革のベストの下に、武器を持っているようであることも観察し

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た。  そして、夜が来るのを待った。  一日を宿屋で過こすと、幻界にも現世に似た時間の概念があり、 時計もちゃんとあることがわかった。ただワタルの体感では、一 時間が現世のそれよりも少し長いようだ。ワタルは小母さんに時 れいじ

計の見方を教わり、その時計が真夜中の零時を示すのを待って、 診療所へ向かった。  昼間来た時に、周囲を観察しておいたので、外から見ても、ネ はさ

族の女の子の病室の窓がどこかわかる。狭い路地を挟んだ隣に、 おおだる

酒屋があり、店の外にカラの大樽がたくさん積んである。ワタル はそこに隠れた。 ひそ

 潜んでしばらくのあいだは、診療所にはまだ灯りがついていた。 それが消えると、ホウ、ホウとフクロウのような鳥の鳴き声が聞 こえて、星明かりだけになった。 ただよ

 酒屋の空き樽からは、ウイスキーみたいな臭いがぷんぷんと漂 う。あんまり長く待たされると、酔っぱらってしまいそうだ。  と、診療所の建物の外の暗がりで、何かが動いた。ワタルは息 つ

を詰めた。 ひとかげ

 それは黒くて小さな人影で、二人いた。二人はサルのようにす やみ

ばしっこく闇を横切り、ネ族の女の子の病室の窓を音もなく開け すべ

て、その内側に滑り込んだ。  ワタルは早口で十数えた。それから、足音を殺してその窓の下 に走った。 「──たんじゃないだろうな？」  声が聞こえる。若い男の声だ。

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「おまえだって同罪なんだぞ。それに俺たちのことをチクッたら、 おまえ、どうなるかわかってるんだろ？」 「あのチビに、何をしゃべったんだよ？ あいつが昼間ここに来 たことは、わかってるんだからな」  ネ族の女の子の涙声が聞こえた。何もしゃべってないわ、と言っ ている。 「嘘をつけ！」 「しっぽが嘘だって言ってるぞ。切り落としてやろうか？」  深呼吸をひとつして、ワタルは勇者の剣を抜き、がらりと窓を 開けて、その内側に飛び込んだ！ 「やめろ──あっと、あれれれ？」 まどわく

 きっちり着地するつもりが、足が窓枠にひっかかって、転がり 落ちてしまった。落ちたところはベッドの脇で、あの女の子が一 人の少年に押さえつけられており、もう一人の少年が、彼女のしっ は

ぽの真ん中にナイフをあてていた。白い刃が凶悪にギラリと光っ た。 「おま、おま、おまえらちが犯人らってことは、お見通しらろ！」  ワタルは剣を構え、もがきながら立ちあがった。落下したとき 顎を打ったので、うまくしゃべれない。 「なんだこいつ？ あ、あのチビだ！」  少年がワタルを指さして、ナイフを向けた。 「ブッ殺してやる！」 よ

 叫んで飛びかかってくる少年を、ワタルはかろうじて避けた。 う

ま

足がもつれて上手く動けない。シャツの裾をつかまれて、またナ イフが襲ってくる！ 危ない！ 「え？」

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 勇者の剣が少年のナイフをはじき飛ばした。剣を持った腕が、 くず

いや剣そのものが勝手に動いたみたいだった。ワタルは体勢を崩 した少年に飛びかかり、馬乗りになった。 「やめろ！ こいつが死んでもいいのか？」  叫び声に顔をあげると、ネ族の女の子の首に、別の大振りなナ イフが突きつけられている。もう一人の少年が、彼女を引き起こ はがい

じ

して羽交い締めにしていた。 「おまえがちょっとでも動いたら、こいつの喉をかき斬るぞ！」  ひるんだ瞬間に、下の少年がワタルを振り落とした。倒れかか るワタルに、今度はその少年の拳か襲いかかる。  そのとき、窓の外から、黒くて細いものが空を切って飛んでき にぎ

て、ネ族の女の子を羽交い締めにしている少年の、ナイフを握っ きょうじん

た手に素早く巻きついた。と思うと、その黒くて細いものは強靭 に動き、少年を女の子から引き離すと、窓の方へと勢いよく引き 寄せた。 と

「うわ！」ひっぱられた少年か、宙を飛んで窓の外に消えた。跳 び箱でもやってるみたい。 あっけ

 みんな呆気にとられていた。するとまた黒く細いものが窓から どう

しゅっと飛び込んできて、今度はワタルのそばの少年の胴に巻き ついた。  そうか、これは鞭だ！  窓枠にさっと片手をかけて、片手に鞭の柄を握り、カッツがひ らりとベッドに舞い降りた。 たいほ

「あたしはハイランダーだよ、おまえたちを逮捕する！」 りん

 凍とした声で宣言すると、カッツはベッドから少年の目の前に 飛び降り、革のブーツの先で、軽やかにキックの三連撃を見舞っ

440

うめ

た。ぎゅうと呻いて、少年はのびてしまった。 「窓の外のも、目を回してるよ」カッツは白い歯を見せて笑った。 「二人とも大丈夫かい？ おや、背中の傷が開いちまった！」  ワタルははっとして女の子を見た。本当だ、背中の包帯が赤く 染まっている。 「診療所の先生を呼んでこなきゃ！」  と言ったとき、世界が回った。 「どうしたんだい、ワタル？」カッツがからかうように問いかけ る。「あんた、この子を助けたんだよ。もっとも、一人じゃ無理 だったみたいだけどね。あたしがあんたの行動を、ずっと見張っ てたのが幸いしたね」 「そう、でしたか。ありがと」と言って、ワタルはベッドにつか まって身体を支えた。 「どうしたの？」と、ネ族の女の子が尋ねる。 「お酒の、空き樽」ワタルは答えた。「やっぱり、酔っぱらっ ちゃった──みたい」

441

ハイランダー

６ 〝高地人〟たち

ふ つ か よ

さ

 ワタルの二日酔いが醒めるまで、まる一日かかった。ひどい頭 は

痛と吐き気とめまいが収まって、やっと食事ができるようになっ さと

か

もど

たころに、キ・キーマがサーカワの郷から駆け戻ってきた。 おどろ

「こんなに驚いたことって、生まれて初めてだぜ！」両手を打ち 合わせたり立ったり座ったりしながら、彼はウキウキと言った。 ひび

宿屋じゅうに響きわたるような大声だ。「俺はガサラ──サーカ ワ間を区間新記録のスピードで往復してきたんだ。ところが、そ しらん

の短いあいだに、ワタルは、あの〝棘蘭のカッツ〟を向こうにま えいゆう

わして、ガサラの町の英雄になってござった！」 すご

「そんな凄いことをやったわけじゃないんだ」と、ワタルは言っ み

た。「ただ、母さんがよく観てたテレビのサスペンスドラマを思 い出しただけなんだ」 「サスペンスドラマ？」キ・キーマは首をひねった。「それは現 世のものかい？ まあいいや、とにかく、ワタルの気分が治った ら、カッツがブランチへ来てくれって言っていたよ。早く行こう じゃないか」  ブランチにはカッツだけでなく、トラ男のトローンと、これま あごひげ

たくわ

や

ぎ

で会ったことのない、長い顎鬚を蓄えた老人が待っていた。山羊 に似ている。どうやら、また新しい種族にお目もじしたようだ。 やさ

とても優しげで、知的なまなざしの老人だった。 「この方は、ナハト国内にある十三のブランチすべてを束ねる、 しゅちょう

ギル首長だよ」

442

かたくる

しょうかい

えがお

 ギル首長は、カッツの堅苦しい紹介を笑顔で退けて、ワタルの 両手を取った。 きょうぼう

どろ

「こんなに幼いのに、よくもまあ、たった一人で、あの凶暴な泥 ぼう

ゆうかん

棒たちに立ち向かっていったものだ。勇敢な〝旅人〟だな」 「でも、カッツさんがいなかったら、負けていました」ワタルは すなお

け

が

素直にそう言った。「それより、あの、怪我をしてたネ族の女の 子はどうしてますか？」 さわ

ぬ

 カッツが答えた。「あの騒ぎのあと、もういっぺん傷口を縫わ だいじょうぶ

なきゃならなくなって、今はまた安静にしてるよ。でも大丈夫、 半月もすれば良くなるってさ」  それから、ニッと笑って付け加えた。 み

ま

「あの子の名前は、ミーナだよ。あとでお見舞いに行ってやった ら？」  ワタルは赤くなった。「あの二人組は？ あいつら、ミーナを おど

脅していたんでしょ？ 彼女は進んで連中の手伝いをしていたわ けじゃありませんよね？」  カッツは首長の顔を見た。ギル首長は、座ったままワタルの方 に身を乗り出した。 ぬす

「それなんじゃ。ミーナという少女が二人組に脅され、盗みの手 ひがい

よそお

伝いをさせられていたこと、君を助けるために被害者を装ったこ とが、どうしてわかったんだね？」 つぶや

 ワタルは、ミーナが〝ごめんなさい〟と呟いたこと、彼女なら ば、しっぽを使えば、自分で自分の背中をナイフで傷つけること しゃくほう

もできると考えたこと、釈放されたワタルが、真犯人を知ってい も

ると言いふらして回れば、ミーナが真相を漏らしたのではないか ちが

と疑った真犯人が、きっと彼女のそばに現れるに違いないと思っ

443

たことを、説明した。 「ワタルは頭がいいなぁ！」キ・キーマがまた両手を打ち鳴らし とし

た。「俺なんか、長老の歳になるまで考え込んでも、そんなこと など思い浮かびもしないぞ」  だからさ、犯人や共犯者が被害者を装うっていうのは、サスペ ンスドラマじゃよくある手なんだよね。 ろうや

かぎ

ふ

「あの二人組に会ってみるかい？」牢屋の鍵をじゃらりと振って みせながら、カッツが立ちあがった。ワタルは急いで彼女に従っ た。 ていこく

ろうか

「あのガキどもは兄弟で、北の帝国からの難民だった」廊下を歩 きなから、カッツは言った。「五年前、あの子らが九歳と八歳の やみ

しはら

ときに、闇のブローカーに大枚支払って、親子四人で商業船で密 とちゅう

航してきたんだそうだ。ところが、船は途中で難破してしまって、 はまべ

両親は死んだ。あの子らはボグの辺境の浜辺に流れ着いて、難民 しせつ

収容施設に保護されたんだけど、どうやらそこでの不自由な暮ら だっそう

しがお気に召さなかったようでさ、脱走して、泥棒をしながら各 地を転々として暮らして、もう一年近くになるんだって」 「だけど、せっかく死ぬほど危険な思いをして南に渡ってきたの に、どうして？」 じか

き

「ま、それは直に訊いてごらんよ」  二人の少年が留置されているのは、ワタルが押し込められてい しんだい

ねころ

たのと同じ部屋だった。一人は寝台に寝転がっていたが、一人─ ゆか

─たぶん兄の方だ──は床に座り込んでいて、ワタルの顔を見る と、ギラリと目を光らせた。 きげん

「機嫌よくしてるかい？」カッツが陽気に呼びかけた。「あんた らがヒドイ目にあわせたお友達を連れてきたよ。いっぺんぐらい、

444

ちゃんと謝りたいだろうと思ってさ」 つば

 少年はぷいと目をそらすと、床に唾を吐いた。寝台の上の少年 にら

も起きあがり、ワタルを睨みつけている。こうして見ると、二人 の顔には見覚えがあった。ワタルが「真犯人がわかった」と宿屋 や じ う ま

で騒いでいるとき、野次馬に集まってきた子供たちの輪の外側に、 確かにこの二人が混じっていた。 う

 あのときよりは、身ぎれいな様子になっている。でも、飢えた ような目つきは変わっていない。  通路の向こうから、トローンがぶらぶらとこちらに近づいてき てつごうし

た。すると、兄の方がいきなり飛びあがり、鉄格子を両手でつか さけ

きた

くせ

んで叫び始めた。「このケダモノ！ 汚ねえな！ 臭えからこっ ち来るんじゃねえ！」  ワタルはぎょっとして、思わず後ろへ下がった。トローンは顔 いっぱいにニヤニヤ笑いを浮かべて、足を止める様子もない。鉄 いっしょ

格子の内側では、兄だけではなく弟も一緒になって、唾を飛ばし めじり

つ

きわ

ののし

たお

目尻を吊りあげ、口を極めて彼を罵り倒しているというのに。 「な？ こういうことだよ」トローンはワタルに並んで立つと、 ぼっ

両手を腰にあてた。「この坊ちゃんたちは、命からがら北の帝国 を逃げ出してきたっていうのに、心のなかには、まだその帝国を、 そっくりそのまま住まわせているんだ」  北の帝国では、アンカ族の支配階級のヒトびとが、他の種族を れっとう

ぎゃく

劣等で存在価値のないものと決めつけ、収容所に押し込めたり虐 さつ

殺したりしている── 「あんたらうるさいね。そんなにこっちにいるのが嫌なら、北へ 送り返してやろうか」  カッツの言葉に、少年たちはますます逆上した。「おまえ、ア

445

ンカ族のくせにケダモノの味方をするんだな！」 やつ

ほろ

「そんな奴は今にみんな滅びるんだ！」 もの

「滅びそうなのは、あんたらの帝国の方じゃないか」カッツは物 う

憂げな口調で言った。「いろんな種族がいて、それぞれに得意な くふう

こ

ことがあって、みんなで工夫を凝らして暮らしていくからこそ、 国は富むんだよ」 「うるさい、うるさい、うるさい！」 だま

「黙れ、ケダモノの仲間め！ おまえたちみんな劣等種族だ！」 兄弟は口々に叫んだ。  ワタルは鉄格子に一歩近づいた。「おまえたち、ミーナをどこ から連れてきたんだ？ なんて言って脅かしていたんだよ？」 いっしゅん

 兄弟は一瞬顔を見合わせると、ワタルを指さしてゲラゲラ笑い だした。 ど

な

「笑うな！」と、ワタルは怒鳴った。 とつぜん

 兄の方は突然真顔になり、鉄格子にぴったりとへばりつくと、 小声で何か毒づいた。 のど

「何だよ」ワタルは耳を寄せた。すると兄はぐるると喉を鳴らし、 きょり

至近距離からワタルの顔に唾のかたまりを吐きつけた。 「うわ！」 つ

あざわら

 あわてるワタルに、また指を突きつけて嘲笑う。そして言った。 「今に見てろよ。俺たち正しいアンカ族がこの南大陸を統一した ら、おまえたちなんかみんな収容所送りだ。毎日毎日飯のかわり くつ

な

に、俺たちの靴を舐めさせてやるよ」 「クツじゃないよ、お兄ちゃん！」弟が転げ回って笑いながら叫 んだ。「ケツだ！ ケツを舐めさせてやる！ こいつらはみんな く

便所でクソを喰って暮らすんだ！」

446

かた

 トローンがワタルの肩に手を置いた。「事務所に戻ろう」 つか

 ワタルはうなずいた。カッツはちょっとのあいだ、疲れたよう な目で少年たちを見つめてから、追いついてきた。 ひ

ど

じょうきょう

「あたしらも、北からの難民たちに、あっちがどんな非道い状況 ゆううつ

になってるか聞いたことはあるけど……」カッツは憂鬱そうに呟 い

す

き、自分の椅子にどしんと腰をおろした。「それが全部本当だと しても、どうしてあんなガキどもがいるんだろう」  ギル首長は落ち着き払っていた。「それこそがヒトの浅はかさ だよ、カッツ。悲しいことだが、それもまたヒトの持ち合わせて しょうぶん

いる性分のひとつなのだ」 きょくたん

 北の帝国は、極端な非アンカ族差別政策のため、労働力が減り、 おとろ

じゅうぶん

国力が衰えている。自分たちの食糧さえ、国内では充分に自給す ることができない状態だ──と、首長はワタルに説明した。 「北と南とのあいだには、正式な通商条約が結ばれておる。食糧 や日用品も、そこで決められた分量しか、南から輸出することは できない。だが、それではとてもとても足りなくて、北の人民た ち全部には行き渡らん」  そこで北の商人たちが、南の条約破りの闇商人たちと手を結ひ、 ひそ

ふところ

密かに物資を取引しては、またそれで懐を肥やしているという。 「だが、そうやって北に流れ込んだ闇物資は、当然のことながら いっぱんしょみん

値段が高いので、やはり北の一般庶民の手には入らないのだ。だ からこそ難民が出てくるのだよ」 「じゃあ、北の帝国で満足な暮らしをしているのは、いったいど たず

んなヒトたちなんですか？」と、ワタルは尋ねた。 「一部の特権階級──」首長はゆっくりと答えた。「現皇帝アグ ふゆう

リアスⅦ世の一族、貴族、政治家、役人、商人などの富裕階級

447

じゃ」  ゆらりと留置場の方に頭を振って、 「あの兄弟の両親も、察するところ、昔はそうした特権階級につ らなる立場にあったのだろう。そうでなければ、密航船に乗れる たくわ

ような金を蓄えることはできなかったろうから。だが、さして高 い地位ではない、小役人程度だったろうよ。それが失策か何かで 転落し、国におられなくなったのだろうな」 「だったらなおさら、こっちに来て、北の帝国との違いが身にし みるはずなのに。なぜ差別主義を捨てないんだ？」 びしょう

 ギル首長は微笑した。「北からの難民が、すべてあの兄弟のよ うな者たちばかりだ──ということではないよ」 「はい、でも！」 げんめつ

「失敗と幻滅は現実だが、主義主張は夢と理想だ。そして夢は、 なかなか消えるものではない」と、首長は言った。「北の差別主 義のなかで成功することはできなかった。だが、幼いころから心 に刷り込まれた、その思想は捨てられぬ。だから南へと場所を変 え、そこでまた同じ思想を振り回し、特権階級にのしあがりたい ──そういうことなのだろう」 「バカみたいだ」ワタルは吐き捨てた。 おろか

「そのとおり。そも非アンカ族差別主義そのものが、愚かなるこ はなは

と甚だしい。しかしな、ワタル」 おだ

 首長は穏やかな口調を保って言った。 はる

「愚かなるものの方が、時には、正しいものよりも遥かに強く、 ひ

ヒトの心を惹きつけることがある。小さな心、穴のあいた心、空っ か

ぽの枯れ木のうろのような心には、愚かなるものの方が入り込み やすいのだ」

448

 トローンが、トラ顔の顎をうなずかせている。 ハイランダー

おそ

「我ら連合国家も〝高地人〟も、北の帝国を恐れはしない。だが、 彼の地から流れ入る思想は恐ろしい。それはほとんど病と同じで、 目に見えぬ。だが病と違い、身体の弱いものではなく、心の弱い とりつ

ものへと好んで憑く」  ワタルは、あの宿屋の酔っぱらいが、小母さんに怒鳴りつけら れただけで逃げ出すほどの弱虫のくせに、キ・キーマのことをど んなに口汚く罵っていたか、思い出した。 うなが

「ところで首長さま」と、カッツが促すような言い方をした。 「ワタルに例の件を」  首長の目が大きくなった。「おお、そうだった！ わしとした かんじん

ことが、肝心の用件を忘れるところだったよ」  首長はなぜか、ワタルとキ・キーマの顔を見比べた。「ワタル、 めがみ

おぬしは〝旅人〟だ。これから女神さまにお会いするために、旅 を続けねばならぬ。そうだな？」 「はい」 い

かせ

「それには旅費が要る。おぬしはそれを稼がねばならぬ。そこで、 だ」首長はニコリとした。「おぬしも、我らの一員にならんか？ ほうしゅう

 業務をこなし報酬を得ながら旅をしてゆくのだ。各地の支部で あるブランチを通して、女神さまのおわす塔へと続く道の情報を 集めることもできて、一石二鳥だと思うが」  ワタルは思わずキ・キーマの大きな顔を見あげた。彼もよっぽ な

ど驚いたのだろう、舌がぴゅっと伸びて頭のてっぺんを舐めた。 「でも首長さま、ワタルはまだこんなに小さいんですよ？」と、 彼は裏返ったような声で言った。 「ハイランダーになるには幼すぎませんか？ だって危険が多く

449

て──」 と

「しかし、すでに立派にひとつの仕事をやり遂げた。資格はある」 首長は言って、キ・キーマを見た。「それに、これから先のワタ ルの旅には、おまえさんが同行するのだろう？」  キ・キーマのいかつい顔に、喜びの色がぱあっと広がった。 「はい！ 長老にお許しをいただいてきました！」 「キ・キーマ、ホントなの？」ワタルは尋ねた。「僕についてき てくれるの？」 「もちろんさ！」キ・キーマは、最初に草原で出会ったときと同 だ

じように、ワタルを軽々と抱きあげて肩に乗っけた。「どこまで もどこまでも、ワタルと一緒に行くぞ！」 「それではきまりだな」と、首長は言った。  連合政府の会議があるからと、首長が大急ぎで引きあげていっ た後、ワタルは初めて、この、ブランチのメンバーに、正式に引 きあわされた。カッツがここの長で、トローンが副長、ほかに三 人のハイランダーがいた。一人はあの大男のアンカ族、もう一人 こがら

はキ・キーマより小柄な水人族で、もう一人は耳の長いウサギさ とびあし

んみたいな飛足族だった。 あ

「えらい目に遭わせちゃったね、チビさん」と、飛足族のハイラ ンダーは言った。「カッツはやることが大げさでいけないよ。最 おとり

つか

初からあんたを囮にして真犯人を捕まえる計画だったんだけど、 何もホントに絞首台まで建てることないよねえ」 「うるさいね、余計なおしゃべりをするんじゃないよ」カッツは ガミガミと言った。ワタルはまじまじと彼女の顔を見た。 「僕は囮だったんですか？ 本当に絞首刑にするつもりじゃなかっ

450

たの？」 おこ

 カッツは口元をへの字に曲げてから、フンと息を吐いて怒った ように言った。「あたしらだって、この世には裁判てものがある ことぐらい、ちゃんと知ってるんだよ」  ワタルは吹き出した。するとカッツ以外のみんなが笑いだし、 やがてカッツもその輪に加わって、大いに笑った。 ハイランダー

「さて、今さらのようだけと、あらためて説明すると、〝高地人〟 というのは、そもそもはこの南大陸の南東部にあるゴザ高地に暮 らしていた一族でね」と、カッツは言った。「そこには、こんな 伝説があるんだ」 いにしえ

こんとん

つく

 古の昔、女神が混沌のなかからこの世界をお創りになったとき、 すき

モンスター

隙を見ては女神の邪魔をしようとする混沌の怪物を遠ざけるため、 一頭のファイアドラゴンが、いつも女神のおそばについて守って いた。無事に創世が終わると、ファイアドラゴンの働きに感謝し ぬ

た女神は、それをヒトの男の姿に変え、彼が脱ぎ捨てたドラゴン よろい

かぶと

さず

き

し

しょうごう

あた

の皮から造った鎧と兜を授けて騎士の称号を与え、地上に送り出 した。 「騎士はゴザ高地に降り立ち、その地のヒトのなかで暮らし始め た。彼の子孫は、一様に勇敢で正義を愛する者たちで、だから長 い年月を経て、やがて彼らが南大陸全域に散って暮らすようになっ てからも、〝高地人〟は〝正義と勇気を愛する者〟〝高い徳を持 つ者〟の代名詞とされるようになったんだ」  現在の〝ハイランダー〟の名称は、もちろんそれに由来してい おこ

る。そもそも、その元になった小さな自警団を興したのも、ファ まつえい

イアドラゴンの騎士の末裔だという。 うでわ

「だからあたしたちは、みんなこのファイアドラゴンの腕輪をは

451

めている」 うでわ

 カッツは左手を持ちあげて、手首にはめた赤い革の腕輪を見せ た。 あかし

いまし

「これはメンバーの証であり、戒めでもあるんだ」 たいまん

おちい

 ハイランダーがその責務を忘れ、怠慢に陥ったり、悪事に手を 染めたりすると、たちまちのうちにファイアドラゴンの腕輪が燃 つ

えあがり、その持ち主を焼き尽くすのだ。 「これがあんたたちの分だ」カッツは赤い腕輪を差し出した。 「左手首にはめて、しゃんと立ちなさい。そして左手を胸にあて、 ちか

右手を挙げて、あたしの後について、誓うんだよ」  一同は輪になった。カッツは朗々と声をあげた。 つ

「創世の女神さまよ、我らはファイアドラゴンの遺志を継ぐ者、 さきもり

かりうど

護法の防人、真実の狩人なり。ここに来たる新たなる同志、女神 しっか

たましい ささ

せいやく

あ

さまの膝下にひざまずき、魂を捧げ、誓約の印を引き結ばん。悪 にく

たす

はがね

しきを憎み、弱きものを救け、混沌を退け、鋼の守護者として立 く

ちり

かえ

たずさ

ち、この身が朽ち果て塵に還るそのときまで、共に手を携え、正 ことわり

あお

しき理の星を仰ぎ進まんことを」  ワタルたちが誓い終えると、カッツは晴れ晴れとした顔で言っ た。 「さあ、これであんたたちも仲間だ！」  それから数日のあいだ、ワタルはトローンと一緒に、パトロー か

けん

ルの見習いを兼ねてガサラの町を歩き回りながら、勇者の剣を育 ぎょく

てるために必要な玉や、真実の鏡の情報を探した。キ・キーマは、 う

シュテンゲル騎士団が討ち漏らした手負いのねじオオカミが、町 しゅつぼつ

はずれに出没するという急報を受けて、他のメンバーと一緒に出

452

かけて行ったが、 よ

そ

「他所の町のハイランダーからも、いろいろ聞いてくるよ」と張 り切っていた。  ガサラの町には、本当に大勢のヒトたちが出入りするが、それ でもめぼしい手がかりは見つからない。トローンは笑って、 あせ

なぐさ

「まあ、そう焦りなさんな」と慰めてくれたが、ワタルはやっぱ こ

ヴィジョン

り心の底が焦げる感じがした。〝幻界〟での旅の見通しが立った からこそ、なおさら現世にいる母の様子が気になってきたのだ。 母さん、どうしてるだろう？ 現世では、僕が居ないことが、ど んなふうに解釈されているのだろう。現象としては、石岡やあい ゆくえ

つの仲間たちと同じように、突然行方不明になったように見えて いるだろう。母さん、心配するだけならまだしも、絶望してはい ないかしら。 ぴき

 手負いのねじオオカミは一匹や二匹ではなく、かなりの数がい るそうで、キ・キーマたちはなかなか戻らなかった。例の兄弟の 取り調べもあるし、長としてブランチに残らねばならないカッツ むち

は、自分も出かけて行って鞭をふるいたくて仕方ないらしく、シュ テンゲル騎士団は能なしだとか、ねじオオカミもちゃんと退治で ぞろ

きないヌケ作揃いだとか、毎日毎日おかんむりだ。 「カッツはハイランダーであることに誇りを持ってるから、連合 そくせき

政府が即席でつくった騎士団なんて、意地でも認められないんだ よ」  夕方、その日のパトロール報告書を書きながら、トローンが小 声で教えてくれた。 「シュテンゲル騎士団てのは連邦議会直属の組織で、俺たちハイ ランダーに比べると、ずっと歴史が浅いんだ。騎士団といっても

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武官ばかりの集まりじゃなく、なかには文官もいる。騎士団長は 連邦議会の議長が兼任することになってるしな」  トローンは眼鏡をちょっとずり上げ、太い腕を組んだ。 「これは、騎士団が議会に忠誠を誓っていることの印なんだけど、 連邦議会の議長なんて、たいがいは年寄りの政治家だ。つまり、 何か事が起こっても、自分で剣をとって立ち上がることなんかで きない。いわば名誉職だよ。カッツはバリバリの現実派だから、 そういうお飾りみたいな役職を頭にいただくというやり方が、ま ず気にくわないんだ」 あわ

 シュテンゲル騎士団は、ワタルの感覚だと、警察と軍隊の併さっ たような組織だと思える。でも、今の話を聞いていると、そのう にな

えに政治的な役割も担っているみたいだ。 たず

 そう訊ねてみると、トローンはうなずいた。 「そうだな、ただの軍隊とは、ちょっと違う。で、シュテンゲル 騎士団のなかの、俺たちハイランダーと同じような治安維持専門 の部署は、遊撃隊と呼ばれてる。一応、各国に二師団ずつ組織さ れているけれど、管轄は南大陸全土だから、俺たち以上に頻繁に 南大陸中を駆けずり回ることが多い。けっこう大変な仕事だよ」 「やっぱり、ハイランダーたちのように、いろんな種族が集まっ た混成部隊なんでしょう？」 ためら

 なぜかしら、トローンはちょっと返事を躊躇った。「それが、 そうでもないんだ。シュテンゲル騎士団全体には──特に文官に はいろいろな種族がいるけど、遊撃隊に限ると、全員がアンカ族 だよ」 「どうして？」  たとえば翼のあるカルラ族なんて、機動力があるから遊撃隊に

454

は最適だろうに。 「ま、それが政治的な部分さ」トローンは指で鼻筋をこすった。 「もともと幻界では、アンカ族の数の方が多いからな。他種族全 部を併せても、アンカ族との人口比率は四対六くらいだろう。ア ンカ族は多数派で、俺たち他種族は少数派。そのへんが、議会で の発言力の差にもなってる」  でも、こんな話は、ワタルには無縁のことだとトローンは言っ た。 かたき

「カッツがシュテンゲル騎士団を目の敵にするのは、なにしろあ あいう性格で、取り澄ました奴が嫌いだってだけのことだよ」  それとな、と声を潜めて含み笑いして、 「あいつは、ずっと昔だが、シュテンゲル騎士団の第一遊撃隊の ロンメル隊長にフラれたことがあってな、それ以来──」 「ちょっとトローン、何だって!?」 するど

めかね

 カッツの鞭よりも鋭い視線が飛んできて、トローンは、眼鏡が 飛ぶほどの勢いで、きゅんと首をすくめた。 しんりょう

「いけねえ！ ワタル、行こうぜ。診療所の先生に会ってこよう」  今朝、町の門を開けると、すぐ外側にボグから来た行商人が倒 れていて、ちょっとした騒ぎになった。本人は食あたりだと言っ み

た

でんせん

ていたが、診療所の先生の診立てでは、伝染病の疑いもあるとい かくり

うので、門の外の小屋に隔離した。門の周りは強いお酒をまいて 消毒しなければならなくて、ワタルはまたぞろ酔っぱらいそうに なった。もしも本当に伝染病だったら、おふれを出さねばならな い。  診療所では、今日も先生が忙しそうに立ち働いていたが、トロー あいさつ

ンとワタルが挨拶すると、すぐに笑って、

455

「伝染病の疑いは晴れたよ」と言った。 「ああ、そりゃ良かった」 「ただ、ちょっとあの行商人の話を聞いてやってくれんかね？」 かんじゃ

患者たちの耳に入らないように声をひそめて、医師は続けた。 「彼が言うには、町の外にある井戸の水を飲んだ後、急に腹具合 うった

しょうじょう

がおかしくなったというんだよ」 彼の訴えた症状も、先生の疑っ た伝染病にも似ているが、果樹園で虫取りに使う薬を間違って飲 んでしまったときのそれとも共通点があるのだという。 だれ

い

 トローンはひげをぴくぴくさせた。「それじゃ先生、誰かが井 ど

戸に毒を入れたかもしれないっていうんだね？」  医師はしいっと指を立てた。「まさかそんなことはあるまいと 思うがね。あの行商人はそう思っているようだった。今思えば、 井戸の水の味がおかしかったとかね」 「その井戸の場所はどこでしょう？」ワタルは尋ねた。ひょっと して、僕も立ち寄ったことのあるあの井戸かも。「はっきりする までは、フタをして水を飲めないようにしておいた方がいいんじゃ ないでしょうか」 「そうだな、急いで確かめよう」  隔離小屋の行商人はまた顔色がすぐれず、辛そうだったけれど、 話はできた。彼が水を飲んだ井戸は、ワタルが知っているあの井 ふもと

う

戸ではなく、町の東側の岩山の麓にある、埋もれかけたような古 いもので、今までそんなところで水を飲んだことはなかったのだ が、昨日はあんまり暑かったので、つい──という。 「東側の岩山……」トローンが顎をひねった。「あんた、ボグか ら来たにしちゃ、ずいぶんおかしな遠回りをしたじゃないか」  行商人は頭をかいた。「実は、あのへんにはお宝が埋もれてい

456

うわさ

ふだん

るという噂を聞きましてね。私は普段、ボグとササヤのあいだを 行き来しているんで、こっちは初めてなんです」  ササヤとの国境線の宿で相部屋になった商人に、ガサラの東の はいきょ

小さな岩山の麓に教会の廃墟があり、そこには、かつて信者が寄 進したお宝が、今でも残っていると教えられたというのだ。 だま

 トローンは苦い顔で行商人を睨んだ。「あんた、騙されたんだ よ。その教会の廃墟なら俺も知ってるが、あんなところにお宝な せま

んかあるもんか。そもそも、信者に寄進を迫るような教義じゃな かったんだから」 「じゃ、信心だけでいいんですか？」 「いや、信者の命を捧げるように求めた」  行商人がうひゃ！と叫んだ。ワタルは尋ねた。「それ、老神教 の教会？」 「いや違う。老神とも、我々の女神さまの教えとも違ってた。ま、 作り話ってことよ」  十年ほど昔、カクタス・ヴィラと名乗る旅の男が、ガサラの町 おとず

をふらりと訪れ、医者を自称して開業したが、やることなすこと と

デタラメなので、当時の、ブランチ長が彼を捕らえ、町の外に追 ほ

放した。すると男は、町はずれの岩山の麓に掘っ建て小屋を建て ふるきかみ

あた

たも

て、旧神の与え賜う聖なる水の力で万病を治すというふれこみで、 あや

怪しげな活動を始めたのだという。 「ブランチでも何度も手入れをしたんだが、奴め、すぐに逃げ出 はな

すんだ。そしてちょっと目を離すとまた戻ってきて同じことをや る。そのうちに、だんだん患者というか、信者が増えちまって、 あるとき、そいつらが教会を建て始めたんだって」 「旧神って、老神よりもっと古いのかな？」

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「よくわからん。別の世界から光臨した神だとかいう話だったそ うだ」  教会ができると、カクタス・ヴィラは、いつの間にかそこの神 あが

たてまつ

父に納まり、患者ならぬ信者たちは彼を崇め奉って、共同生活を あ

始めた。信者たちは荒れ地を耕して畑をつくり、作物をガサラに こうかん

持ち込んで、物々交換で日用品を手に入れていたが、極めて貧し や

く、女も子供も老人も、みんな一様に痩せこけていたという。 ひ

「そもそも、医者には治せない万病を治すという言葉に惹かれて 集まった連中だから、年寄りや病人が大勢混じってたんだ。信者 い

じ

たちだけで教会を維持していくなんて、最初から無理だったんだ よ」  現世にも似たような事件はある。ワタルはいくつかのニュース を思い出した。 かいにゅう

「それでも連中の結束は固くて、ガサラのブランチも介入のタイ ミングを計りかねていたんだ。そしたらあるとき、真夜中に突然 えんじょう

教会が炎上し、ハイランダーたちが駆けつけてみると、信者たち は燃えあがる教会で──」 み

こ

 互いに手をつなぎ、旧神とその御子であるカクタス・ヴィラを たた

讃える歌を歌いながら、静かに焼け死んでいくところだった。 しょうか

しろうと

「手を尽くして消火したが、なにしろ素人の建てた教会だろ、骨 組みだけを残してあらかた焼け落ちた。信者たちの死体が、そこ らじゅうにゴロゴロ転がっていたってさ」 なきがら

 亡骸はみんな焼け焦げていたので、カクタス・ヴィラを特定す ることはできなかった。ブランチでは、正確に何人がここで共同 はあく

生活していたのか把握していなかったので、 「カクタス・ヴィラも、死んだのかもしれないし、逃げちまった

458

いま

のかもしれないが、はっきりとはわからなかった。未だにわから ないままさ」  なるほど、そんな場所にお宝なんかありそうもない。でも行商 うら

人は、恨めしそうに宙を睨んで言った。「だけど、あの商人は、 夜中に岩山のそばを通りかかったら、きらめくような光が教会の あふ

廃墟から溢れ出て、そこらを真昼のように照らしていたって──」 うそ

 トローンはシシシと笑った。「嘘っぽいなぁ。そんなでっかい 宝石があるかよ？」 かがや

「大きさはわかりませんよ。でも、それはそれは美しい輝きを放 ほうぎょく

つ宝玉だそうで」 「玉！」ワタルは飛ひあがりそうになった。 すばや

くぎ

さ

 トローンが素早く釘を刺す。「早まるなよ。ただの噂だ。それ も、出所はたった一人の商人じゃないか」 ふう

「でも、調べてみたいな。どっちにしろ、その井戸を封じなくちゃ ならないでしょ？ 行きましょうよ、すぐに」

459

７ 見捨てられた教会

 二人はさっそく、ウダイに乗って町を出た。ウダイというのは、 からだ

ダルババよりもずっと身体の小さな、現世の子馬ぐらいのサイズ の動物で、ハイランダーたちが草原や岩場をパトロールするとき、 せま

好んで使う〝足〟だ。ダルババよりも小回りがきき、狭い場所で ぬ

かしこ

な

もスイスイすり抜けられるし、賢いのでヒトにもよく馴れる。ワ タルも、トローンにつきっきりで半日ほど教えてもらったら、楽 に乗りこなせるようになった。ウダイは全身をふさふさした毛に おお

くら

しり

覆われていて、鞍がなくてもお尻が痛くない。南大陸全域で、遠 出にはダルババ車、近場にはウダイと使い分けられている。 ふもと

 トローンは少しも迷わず、問題の岩場の麓にたどり着いた。草 きょうこく

原の東のはずれ、ねじオオカミの巣くう峡谷のあたりほど険しい なが

眺めではないが、ごつごつした岩が、青空の下に折り重なってい る。巨人の子供が岩を積んで遊んでいたけれど、「ごはんよ」と 呼ばれて、そのまま帰ってしまった後みたいな景色だ。「こんな い

ど

ところに井戸がねえ……」  トローンは顔をしかめる。 きんりん

「草原の井戸はみんな、近隣の町が回り持ちで管理しているんだ。 だから場所もはっきりしてる。ここには井戸なんかないはずだ」 ほ

「その教会の信者たちが掘った井戸だったのかも。だから、今は う

埋もれかけてるんじゃないかな」と、ワタルは言った。「教会の 廃墟へ行ってみましょうよ。どこですか？」 む

「はいはい、わかったよ」トローンは歯を剥いて笑った。「だが、

460

たんさく

ワタルにとっちゃ初の探索仕事だ。俺の指示に従ってくれよ」 「はい！」 か

 トローンはウダイを駆って、小さな岩場をひとつ行き過ぎ、中 くらいの岩場をひとつ回り込み、その先の見あげるような赤茶色 の岩場の手前で停まった。 「そら、あれだ」 こ

 指さされるまでもなく、ワタルにも見えた。真っ黒に焼け焦げ つ

た建物の柱が何本も、草木の一本もはえていない囲い地面に突っ ふきつ

やり

立っている。まるで、天から降ってきた不吉な黒い槍が、その場 にザクザクと突き刺さっているみたいな眺めだ。目を細め、遠目 から見ないと、それらの黒い槍が、全体でかろうじて建物の外形 を作っていることさえ、すぐにはわからない。 「屋根は焼け落ちちゃったんですね」 「火災の後には、残ってたんた。そのあと雨風にやられて、なし くず

崩しに崩れちまったんだな。なにしろ十年前の出来事だから」  二人はゆっくりと教会の周囲を回った。何も知らずに通りかか あと

れば、ああ焼け跡だと思うだけで、不吉な印象など受けないかも しれない。だがワタルは話を聞いてしまったので、柱の内側の真っ ちり

かたまり

黒になった地面の上に積もっている灰や塵の塊のなかに、人体の 焼けカスも混じっているのではないかと考えて、気持ちが悪くなっ た。  トローンのウダイが、悲しけに鼻を鳴らして後ずさりした。ト たた

なだ

ローンは手でウダイの首を叩いて宥めてやった。 こわ

「こいつ、怖がってる」 きょり

 ワタルのウダイも、焼け跡から一定の距離を保とうとするかの く

ように、同じ場所で足踏みを繰り返している。

461

「今までガサラの町では、この場所にまつわる事件とか、ヘンな 光を見たとかの届け出とかは、なかったんですか」 「ないね。ガサラに出入りするヒトたちは、こんな場所には用が ないからな」 ほうぎょく

「だとすると、宝玉の光ってのは、すぐそばまで近づかないと見 えないんだな……」 つぶや

うな

ぎょく

 ワタルの呟きに、トローンはむむと唸った。「だからさ、玉と 決まったわけじゃねえだろ？ どれ、ちょっと降りてみるか」 つな

 ウダイの綱を岩場にかけて、二人は徒歩で焼け跡に近づいた。 トローンは両手を空けてのしのしと歩いているが、ワタルは右手 けん

つか

さわ

で勇者の剣の柄に触っていないと、なんだか気がくじけそうだっ た。 う す き み

「薄気味悪い……」 「まったくだ」  二人は焼け跡の柱の内側にまで踏み込み、そこらを歩き回った。 かんしょく

足の下で何かがぴしりと鳴ったり、何かを踏んだような感触がす るたびに、ワタルはそれがヒトの骨なのではないかと思って、ビ クビクした。 ほうむ

「信者の遺体は全部外に運び出して、町の共同墓地に葬ったそう だ」トローンが、あたりを調べながら言った。「だからここには なきがら

だれ

亡骸は残ってないよ。俺たちが何か踏んづけても、誰も気を悪く したりしねえ」 つま

「あ、そんなら安心です」と言いながらも、ワタルはついつい爪 さき

先立ちになった。 ふ

「見てみろよ」トローンが、黒焦げの柱の一本に触れながら言っ あし

た。「細い柱だぜ。ワタルの脚の方が、もっと太いんじゃねえか？

462

 女子供や老人や病人ばかりじゃ、この程度の柱を運んできて立 せいいっぱい

てるだけで精一杯だったんだろうな」 ひ

かたむ

じゅうぶん

 陽は傾きかけているが、まだ明るさは充分残っている。それな かべ

のに、壁が焼け落ちて、元は建物たった場所の内側とは言え、骨 みょう

組みだけのスカスカになったところに立っているのに、ここは妙 に薄暗いとワタルは感じた。 「ワタル、井戸があったぞ」  トローンに呼ばれて、急いで行ってみると、建物の裏手に、倒 したじ

がれき

れた柱の下敷きになった、小さな井戸が見えていた。周囲を瓦礫 に覆われているが、石を積んで固めた井戸の口はまだしっかりと しており、のぞいてみると、思いのほか近いところで、水面に自 分の顔が映った。 「水が満ちてる」 「うん。ここらは地下水が豊富なんだ」 す

すいてき

 トローンは手を突っ込んで水をすくいあげた。澄んだ水滴がき にお

らきらと落ちる。彼は手を鼻先に持っていって、水の匂いをかい だ。 くさ

「わからんが……ちょっと薬臭いような感じもするな」 こし

さ

かわぶくろ

 トローンは、腰に提げていた革袋に水を入れると、しっかりと しば

口を縛った。そして、ワタルと二人で、持参してきたロープを井 めぐ

戸の周りに張り巡らせると、「使用禁止」の札を取り付けた。 「しかし、あの行商人め、教会の廃墟のなかまで入り込んでいた んだな。そうでなきゃ、こんな場所にある井戸に気づくはずがな い」 「教会の歴史を知らなかったから、怖いとも思わなかったんです ね」

463

「欲と二人連れなら、たとえ知ってたって怖くなかったかもしれ ないぞ」 びしょう

 トローンの言葉に、ワタルはふと母さんを思い出して、微笑し かか

た。バーゲンセールに出かけて大荷物を抱えて帰ると、いつも言っ てたっけ。こんなにたくさん、よく重くなかったね。欲と二人連 れだから大丈夫なのよ。 「よし、引きあげよう」と、トローンが言った。「長居は無用た。 ゾクゾクしてきた」 しんりょう

わた

たの

 診療所に引き返し、先生に井戸水を渡し、検査を頼むと、ワタ もど

ルとトローンは、ブランチに戻った。幸い、行商人は気分も良く なってきたというので、ひと安心だった。  それから陽が暮れきるまで、トローンの手伝いをして、ワタル は古い記録を調べた。カクタス・ヴィラとあの教会には、当時の ガサラのブランチは本当に手を焼いていたらしく、薄い和紙のよ かたと

らんがい

うな紙を片綴じした事件記録のなかには、欄外にこっそりと、公 ばとう

文書らしくない罵倒の言葉が書き添えられているものもあった。 「結局、カクタス・ヴィラという男の正体はわからなかったんだ はなめがね

ふるきかみ

な」鼻眼鏡を外しながら、トローンは言った。「何が旧神だかね え」 「万病を治す水というのが、あの井戸水だったのかな。だとした ら、本当は、薬どころか毒だったのかもしれない」 せ

の

「何か混ぜてあるならな」トローンはうーんと背伸びをした。 「ワタル、もう帰っていいぞ。腹減ったろう」 ひげ

と

 ワタルは髭もじゃ主人の宿屋に帰り、夕食を摂った。給仕して お

ば

たず

くれた小母さんに、カクタス・ヴィラのことを尋ねてみたが、よ

464

く知らないという返事だった。 「今までここに泊まったお客さんで、岩場の教会にはお宝が眠っ てるんだなんて言ってた人はいませんか？」 「さあねえ。聞いたことないよ」 おく

しょくたく

 遅れて食卓についた髭もじゃ主人も、小母さんと同じことを言 く

うばかりだった。でも、ワタルは気になった。朽ちた教会の建物 あふ

の内部から溢れ出ていたという、まばゆい光。その正体は何なん だ？  ──昼間は光らないのかも。 ちが

 夜出かけて行けば、話が違うかもしれない。そう思い立つと、 がまん

したく

我慢ができなかった。そそくさと支度を整え、腰にちゃんと勇者 かくにん

の剣が収まっているのを確認すると、宿を出た。  ガサラの町の門は、そろそろ閉まる刻限で、駆け込みでやって 来る隊商やダルババ屋たちで混雑している。ワタルはウダイを一 まぎ

頭借り出し、その混雑に紛れて、夜の草原に走り出た。ウダイは やみ

きげん

夜目のきく動物なので、闇を怖がる様子もなく、機嫌よく走って くれた。 はる

 あとひと走りで教会にたどり着くというころに、夜の草原の遥 かなた

ほたる

か彼方、ちょうど地平のあたりに、無数の蛍のような光がまたた いているのを見つけた。少しずつ移動しているようだ。シュテン き

し

いっしょ

ゲル騎士団が戻ってきたのかもしれない。キ・キーマも一緒だろ うか。彼が帰ってきたら、ワタルが宿にいないことがすぐにバレ てしまう。余計な心配をかけたくない。早く調べて戻らなくちゃ。 ゆえん

 腰につけてきたカンテラが、黒い油煙をあげている。昼間と同 し

しん

じ場所でウダイを降りて歩き出すと、聞こえるのは油の染みた芯 がジリジリ燃える音だけだった。

465

ざんがい

 焼け残った教会の残骸は、夜の闇よりもまだ真っ黒に見えた。 ワタルは昼間トローンが歩いていた道筋を思い出しながら、足元 に注意してゆっくりと瓦礫のなかを進んだ。  夜風が焦げ臭い──ような気がする。昼間は何も感じなかった のに。右手を勇者の剣にあてて、ワタルはできるだけ何も考えな いようにした。光を見つける。ただそれだけが目的なんだから。  岩場のどこかで、ギャアというような声がした。思わずビクン もうきん

として飛びあがった。夜の岩場で羽根を休めている猛禽が、悪い 夢にうなされているのかもしれない。つないできたウダイが怖がっ ゆうかん

てないといいけど。というか、あいつの方が僕より勇敢かもしれ ない。  真っ暗だ。まばゆい光なんか、どこにも見えない。井戸のそば でしばらく周りを見回してみたけれど、光っているのは頭上の星 らくたん

ばかりだ。安心半分、落胆半分で、ワタルはふっと笑った。目の かか

高さに掲げていたカンテラをさげて、足元を照らし、回れ右をし た。 あか

はざかい

 そのとき、カンテラの灯りと夜の闇の端境で、何か白いものが ひらりと動いた。  ワタルはぴゅんと振り向いた。すると今度は、左手の方で、カ ンテラの灯りをかすめるように、白いものがすうっと上下した。 ワタルは叩かれたみたいにそちらへ顔を向けた。 うで

う

 宙に、一本の白い腕が浮いていた。  怖いというよりは、あまりにシュールな風景で、ワタルはちょっ じか

と見とれてしまった。闇から直に腕が生えている。ちょうど二の 腕から先、真っ白でしなやかで、長い腕だ。女の腕だ。右腕だ。 ふ

 それがすうっと左右に振れて、人差し指がワタルを指さした。

466

それから、おいでおいでをした。付いてこいというのだ。 ここち

 夜の水のなかを泳ぐ、白くて細身の魚みたいだった。腕は心地 すべ

よさそうに闇の中を滑って行くと、ある場所まで来て急に下を向 き、ひゅんと地面に吸い込まれた。すると、腕が消えた場所が、 まぶ

白く光り始めた。光はワタルの顔まで届き、眩しいほどだ。  ワタルは走ってそこへ行った。とたんに、足元で何かがバリン こわ

ゆか

と壊れ、転びそうになった。どうやら、床を踏み抜きそうになっ たらしい。  ──地下室があるんた。  昼間は瓦礫に紛れてしまって気づかなかったのだ。ワタルはしゃ ぶた

がんで床を調べた。すぐに、たった今踏み抜いてしまった上げ蓋 さぐ

の取っ手を探り当てた。光はこの上げ蓋の下から溢れ出てくるの いっしゅん

だ。蓋を持ちあげると、光は一瞬、目の前が真っ白に見えるほど に強くなり、それからすうっと引いてしまった。まるで、光源が 遠ざかったかのように。 はしご

 地面の下に梯子が続いている。ワタルはカンテラを腰につける と、地下へ降り始めた。 こ

 段数を数えながら降りて、四十段を超えたところで、やめた。 長い。ということは、どこだか知らないがこの梯子の終わる場所 お

まで、相当な高さがあるということだ。下手に意識すると、怖じ 気づいてしまう。今はひたすら降りることに集中するんだ。 あせ

 身体が汗ばみ、息があがるころになってやっと、革のブーツの かた

硬い爪先が、段々とは違う感触のものに触れた。両手でしっかり と梯子をつかみながら、首をよじって見おろすと、カンテラの灯 ぬ

とうちゃく

りに、水に濡れた岩場が見えた。どうやら、到着したみたいだ。 どうくつ

 洞窟──そう、梯子を降りきったこの場所から、うねうねと奥

467

へ続く暗がりが見える。あの白い光は、そのいちばん遠く深い先 にあるようだ。階上で見たときより、ずっと弱々しい光が、わず かに見てとれる。 しんちょう

 カンテラを手に移し勇者の剣を持ち直して、ワタルは慎重に歩 き始めた。周囲の壁の色や感じは、現世のお墓で見かけることの みかげいし

ある石に──御影石っていったかな──よく似ていた。どこから したた

ともなく水がしみ出してきて、しとしと滴り、洞窟の壁や床を濡 らしている。ちょっとだけ触ってみると、すごく冷たい。指を鼻 先にあてて匂いをかいだが、薬臭い感じはしなかった。急いで出 てきて手袋を忘れてしまったので、それ以上は不用意に壁に触ら ないようにした。水のあるところには生きものがいるかもしれな いし、それが毒や刺す針を持っていても不思議はないから。  少し先で、岩でできた通路は、ほとんど直角に右に曲がってい そ

た。曲がり角でいったん壁に寄り添い、少し耳を澄ませてから、 すばや

ワタルは素早く曲がって身構えた。  なんてことはない。また、岩をくりぬいたような通路が続いて いるだけた。誰もいないけれど、ワタルはちらりとベロを出した。 ちょっとやってみたかったんだ、ああいうの。 はば

てんじょう

 この通路は、最初に通ってきた道よりも幅が狭く、天井も低かっ ゆが

た。右に左に、少しずつ歪んでふくらんだりへこんだりしている。 とうとう突き当たりまで行くと、その正面は岩の壁で、床との境 目に、かろうじてヒトがひとり通り抜けられるくらいの穴が空い も

ていた。そこからわずかに、あの白い光が漏れている。  ──イヤな感じ。  こういう狭いところに入り込むのは気が進まない。でも、入ら うかい

ねば先へ行けない。どれほど熱心に見回しても、ほかに迂回路は

468

見あたらないのだ。  仕方がない。ワタルは足元にカンテラをおろすと、床にべたり ふ

と伏して、穴の向こう側をのぞいてみた。やはり通路が続いてい るようだ。薄明るいし、弱い風が吹きつけてくる。 もぐ

はらば

 よし。心を決めて、頭から穴に潜り込んだ。そう長いこと腹這 いでいる必要はなかった。壁は薄かった。するりと抜けられた。  そこは、ただの通路ではなかった。頭上は、ガサラの宿屋の三 階ぐらいの高さまで、すっぽりと丸い岩のドームになっている。 それに広い。ワタルの学校の校庭と同じぐらいありそうだ。ちょっ けん

とした一戸建ての家ならば、このなかに、十軒ぐらい入ってしま うだろう。  ──地の底に、こんな広場みたいな洞窟があるなんて。 おどろ

 汗を拭いながら、ワタルは驚きの目でぐるぐると見回した。広 へだ

場を隔ててちょうど反対側に、さらに奥へと続く通路の入口がふ たつ並んでいる。右のトンネルの方が大きく、すぐ前に、何か金 気のものの残骸が折り重なっている。左の小さなトンネルには何 もなく、白い光がその奥から漏れていた。 のど

 どこかで、ごく細く、水の流れる音がしている。ワタルは喉の かわ

渇きを感じた。だけど、ここの水には口をつけられない。  そうだ、カンテラ。急いでしゃがみこみ、通り抜けてきた穴の 向こうに腕を突っ込もうとしたとき、目の前で、そのカンテラが ひ

持ち去られた。真っ黒な、干からびたミイラの腕みたいなものが 伸びてきて、カンテラの取っ手をつかんで視界から消えたのだ。 あっという間もないことだった。  今のは、いったい何だ？ あれは何の腕？ いや、ホントに腕 だったか？

469

 ハイランダーとしては、もう一度壁の穴をくぐって、向こう側 あや

に戻るべきなのだろう。あの怪しい腕。モンスターかもしれない。 とうぞく

盗賊かもしれない。ミイラの盗賊。ともかく、カンテラを取り返 さなくちゃ。  でも、ここは明るい。この先の通路も、白い光に照らされてい る。カンテラがなくても充分に歩くことができる。とりあえずは 先に進もう。そうしよう。積極的にそう決断したんだぞ。けっし て、あの干からびた腕の持ち主に出くわすのが怖いわけじゃない んだぞ。  勇者の剣を構えながら、一歩一歩進んで、広場の中央あたりに 来た。そこまで行くと、右のトンネルの前に積み重なっている金 くし

とが

気のものの正体は、どうやら槍──金属を串のように尖らせただ けの、ごく原始的な槍であるらしいとわかってきた。さらに、広 し

か

場の右手奥の岩の壁に、昔は何か大がかりな仕掛けが設けられて こんせき

がんぺき

あと

いたらしい痕跡も見えてきた。岩壁に何か打ち付けた痕が見える。 たいまつ

すす

松明を燃やしたのか、たくさんの煤が繰り返し繰り返し同じ場所 にこびりついて、岩の色が変わってしまっている。じっと観察し りんかく

て、痕跡の輪郭をたどり、何もない場所に補助線を引いてみると、 さい

どぅやらそこにあったのは、ワタルの知っている現世の教会の祭 だん

壇に似たものであるように思えた。  ひょっとするとここが、カクタス・ヴィラと信者たちの礼拝堂 だったのかもしれない。  ──でも、だったらなんで槍があるんた？

470

８ 死霊

 ワタルのなかで、右のトンネルを調べてみたいという気持ちと、 さわ

たた

触らぬナンとかに崇りなし、ともかく左のトンネルを進もうとい けんか

う気持ちが、ぶつかりあって喧嘩を始めた。 ひとかげ

 と、そのとき、右のトンネルから何かが出てきた。人影だ。ボ まと

だれ

くし

そま

ロを纏ったヒトだ。誰かここに住んでるんだ。あの串みたいな粗 つ

やり

つえ

末な槍を杖のようについて、それにつかまりながら、一歩、また 一歩、おかしな具合に頭をグラグラさせながら歩いてくる。右の かべぎわ

さいだん

あと

トンネルから出て、右の壁際──祭壇の跡のところへと向かって ゆく。  それの姿がはっきりと見えるところまで来ると、ワタルは足に 根がはえたみたいに、動けなくなってしまった。  それはヒトではなかった。かつてヒトであったはずのもの── がいこつ

からだ

骸骨だった。骸骨がボロ布を身体に巻きつけ、槍にすがって歩い ふ

あご

ゆる

ているのだ。それが足を踏み出すたびに、顎のちょうつがいが緩 んで歯がかたかた鳴る。 ひざ

 ワタルの奥歯も鳴り始めた。膝のお皿が、てんで勝手な方向へ に

逃げ出そうとしているみたいに、左右に分かれてガクガクし始め た。 こわ

いっしゅん

 落ち着け、落ち着くんだ。怖くなんかない。一瞬だけ固く目を 閉じて、ワタルは自分に言い聞かせた。僕は、〝おためしのどう ち

え

さず

くつ〟で四神将の試練に勝って、知恵と勇気を授かったんだ。そ のうえに、ファイアドラゴンの加護もあるんだ。骸骨なんかに負

471

けやしない。  壁際までたどり着いた骸骨は、ちょっとのあいだ槍につかまっ くず

てフラフラしていたが、やがてカラカラと音をたてて崩れ、その 場で一人分の骨の山になってしまった。 いや

か

 ワタルは嫌がる自分自身を駆り立てて、右のトンネルへと向かっ うすぎたな

た。入口のところに山と積まれた数々の槍は、どれもこれも薄汚 よご

さ

く汚れ、錆びていた。  右のトンネルの奥は薄暗く、肉眼では出入口の周辺しか見るこ とができない。だが、何か出てきたらすぐにも応戦できるように けん

どうくつ

勇者の剣を抜いて構えると、刀身が、洞窟の広場を照らしている あの白い光を集めたかのように、静かに光り始めた。カンテラほ じゅうぶん

かか

どではないが、充分な光源になる。ワタルは剣を掲げて奥へと踏 み込んだ。 りょうわき

しんだいしゃ

 四、五メートル進んだろうか。トンネルの両脇に、寝台車の三 わくぐ

段べッドみたいな木の枠組みが見えてきた。どれもこれも、満員 ね

だ。全部、ヒトが寝ている。  骸骨か寝ている。骸骨の寝台車だ。 とつぜん

むち

ふ

 突然背後で、カタリと音がした。鞭のようにぴんと振り向くと、 こし

すぐ後ろの寝台から、腰のまわりにボロを巻きつけた一体の骸骨 が、ずり落ちるようにして降りてくるところだった。それはさっ きの骸骨のように槍をついてはおらず、よろよろしながら両手を たお

広げ、ワタルに向かって倒れかかってきた。 かんいっぱつ

 ワタルは必死で後ろに飛び下がった。声も出なかった。間一髪 ほうよう

のが

で骸骨の抱擁は逃れたけれど、それが差しのばした骨の指先が、 ワタルの鼻の頭をかすめた。骸骨は泳ぐように両手をゆらゆらさ そうおん

せ、ガチャガチャと軽い騒音をたててその場に倒れた。

472

 なんだか蒸気機関車みたいな音がする──と思ったら、自分の ぬぐ

呼吸音だった。ワタルは手の甲で額を拭い、顔をあげた。  信じられない光景が、目に飛び込んできた。満員の乗客たちが、 続々と寝台から降りようとしていた。ある骸骨は寝台の手すりに となり

すがり、ある骸骨は隣の骸骨の背骨につかまって。骨のこすれあ う音、彼らを包んでいるボロ布や衣服の残骸が触れあう音が、た が

くさんの蛾が羽根をこすりあわせているみたいに、サヤサヤと聞 こえてくる。 がんか

 ぽっかりと暗く空いた彼らの眼窩に、あるはずのない目玉が、 しょうてん

みんなしてワタルの上に焦点を結んでいる。みんな、ワタルに近 かみ

づいてこようとしている。ワタルは髪が逆立つのを感じた。 ぬ

もど

 出し抜けに足に力が戻ってきて、ワタルは逃げ出した。トンネ ルの入口からそれほど深く入り込んではいないはずなのに、出口 きょり

り ふ じ ん

までの距離は理不尽なほどに長い。礼拝堂跡の広場は薄明るく、 だっしゅつ

そこへ脱出するトンネルは、希望への脱出口のように、さらに明 るく見える。必死で足を動かすのに、ちっとも前に進まない。夢 のなかで走ってるみたいだ。次から次へと救いを求めるように差 うで

し出される骸骨たちの腕は、ワタルの服をつかみ、腰の帯をつか み、髪の毛をつかもうとする。  自分でも意識しないうちに、悲鳴をあげていた。今や、骸骨た さっとう

ちが何を望んでいるのかわかった。ワタルに殺到し、ワタルの上 な

だ

つぶ

に雪崩れかかり、骨の山でワタルを押し潰そうとしているのだ。 転んではいけない。転んだらおしまいだ！  パニックのあまり、顎があがって、余計にスピードが落ちてい かた

た。後ろから骨の腕がのびて、ワタルの肩をつかんだ。振り払っ ひょうし

くず

た拍子にバランスを崩して片膝をつきそうになり、空をひっかく

473

ようにして起き直った。 こうし

 そのとき、トンネルの出入口の真上の壁に、何か格子みたいな ひらめ

ものがくっついているのが見えた。頭のなかで光が閃いた。落と し戸だ。外に逃げ出して、あれを落とせば、骸骨たちをここに閉 じこめることができる。どこかにきっと、あれを操作するための 装置があるはずだ！  死にものぐるいで見回すと、トンネルの出入□のすぐ内側の壁 に、古びたロープを巻きつけたハンドルが見えた。ロープは上の 落とし戸につながっている。ワタルは走りながら勇者の剣を構え せいいっぱいするど

直し、精一杯鋭く腕をふるって、ロープに向かって振りおろした。 てごた

あっけ

 軽い手応えがあって、ロープは呆気なく切れた。ゴトンと音が ほこり

ま

して埃が舞ったかと思うと、落とし戸がまっしぐらに落ちてきた。 ワタルは一瞬目の前が真っ暗になった。早すぎる！ あれじゃ、 いっしょ

僕も一緒に閉じこめられちゃう！ すそ

 また骨の腕がワタルの服の裾をつかんた。強い力だった。ワタ ゆか

ルは目をつぶり、落ちてくる落とし戸とトンネルの床のあいだの すきま

おど

隙間へ、頭から身を躍らせた。 つまさき

 落とし戸は、空を飛んで通過したワタルの爪先をかすめて落下 した。高下の勢いで、床でバウンドして五十センチほど持ちあが はさ

り、そこへ殺到した骸骨数体の腕や頭を挟んで、どすんと閉まっ た。 うつぶ

 俯せに地面に倒れたワタルは、落とし戸がどうなったか確かめ は

るよりも先に、這うようにしてさらに遠くへ逃れた。それから、 腰を抜かしたままやっと振り向いて、後ろを見た。 がんじょう

 頑丈な格子の落とし戸の向こうで、骸骨たちが骨の山になって しょうげき

こわ

いた。戸にぶつかった衝撃で、壊れてしまったのだ。まだ形をと

474

どめている骸骨たちの腕や頭が、その骨の山をかき崩し、前へ出 ようとしてうごめいている。 はさ

 落とし戸に挟まれて、頭や腕だけがこっち側に残った骸骨もあっ た。ワタルはおそるおそる立ちあがり、それに近づいた。  それらはうごめいていた。ワタルがそばに寄ると、ブーツをつ かもうと指を動かし、爪先に噛みつこうと、顎をガタガタいわせ ている。ワタルはおぞましさと恐ろしさで胸が悪くなり、後ずさ りせずにはいられなかった。 「あんたたち、誰なんだ」 たず

 尋ねても、骸骨が答えてくれるわけはない。 「ここで何してたんだ？ あんたらも信者だったの？ カクタス・ ヴィラに、ここに閉じこめられたの？ それとも、自分たちで閉 じこもったのかい？」  見つめるうちに、腕や顎の動きがゆっくりになり、やがて止まっ た。洞窟の床に転がる、ただの骨になってしまった。  自分でも知らないうちに、ワタルはちょっぴり泣いていた。顔 なみだ

に触って涙に気づくと、怖かったせいだろうと思った。でも本当 あわ

は、怖かっただけではなかった。悲しかった。この骸骨たちが哀 れだったのた。  肩を落として、もうひとつのトンネルの方へ向かった。心の中 こう

心が、大雨のときの雨水溝のようになって、ありとあらゆる感情 が、ごうごうと音をたててそこに流れ込んでいた。そのなかには、 顔も知らず声も聞いたことのない、カクタス・ヴィラというイン いか

チキ宗教家への怒りも混じっていた。いつの間にか、指の関節が つか

にぎ

白くなるくらいの力で、勇者の剣の柄を握りしめていた。 ゆる

 今度のトンネルは、緩やかに下降していた。

475

 ──どこまで続いてるんだろう？ ま

 時折、右に曲がったり左に振れたりしながらも、おおむね真っ す

直ぐに、どんどんくだってゆく。降りてゆくにつれて、白っぽい ぬ

がんぺき

光が明るさを増してゆくようだ。水に濡れた岩壁のあちこちに、 文字や絵みたいなものが描いてあるのが見える。 はりつけ

 礫にされているようにしか見えないヒト。床に頭をすりつけて、 祭壇に向かって拝んでいる大勢のヒトびと。ダルババによく似た おの

動物の首を、斧で切り落とそうとしているヒト。血のように赤い 色で書かれた、ワタルには読むことのできない落書きの文字。 ふ

 そして、大きく両手を広げ、伏し拝むヒトびとの前に立ちはだ ばな

かる、真っ黒な人影。それはヒト離れした体格で、頭には明らか に角のようなものがはえている。その異形のものの背後には、明 るい太陽のように光るものが見えている。まるで、異形のものが、 かく

目の前に伏しているヒトびとの目から、その光るものを隠そうと しているかのようだ。  この角のはえたモノが、カクタス・ヴィラなのだろうか？ 壁 を見あげて、ワタルはぞうっと寒くなった。  トンネルをくだってゆくうちに、もうひとつ気づいたことがあ しょくだい

たいまつ

る。カンテラとか燭台とか松明の燃え残りらしいものとかが、地 面にたくさん落ちているのだ。すべて古いものばかりだけれど、 ただ捨てられたのではなく、みんな壊されたり折られたりしてい たた

る。カンテラの残骸のなかには、明らかにトンネルの岩壁に叩き つけられたと思われるものもあった。  昔、ここにはかなり大勢のヒトびとがいた。彼らは、ここから あか

先へは、灯りを持って入ることを許されなかったようだ。みんな ここで、光源を捨てねば、先へは行かれなかったのだ。

476

みち

 ワタルは気持ちを奮い立たせ、さらにトンネルをくだった。道 はば

しだい

せま

びみょう

幅は次第に狭くなり、微妙に上下するようになり、やがてある場 所まで来ると、完全に急な上り坂になった。ワタルの頭上五十セ ンチぐらいのところに、まるで窓みたいに、岩壁にぽっかりと穴 も

が空いている。白い光ほ、そこから漏れ出ていた。 ふち

わんりょく

 ジャンプして、両手で穴の縁につかまった。腕力で身体を引き あき

あげ、よじ登ると、穴をくぐり抜けて先へ進んだ。すると、呆れ てんじょう

るほど広く、天井の高い場所に出た。  思わず、ワタルはぽかんと口を開けた。広さも高さも、さっき の礼拝堂跡と思われる広場の倍はあるだろう。ワタルは、その空 つ

間の真ん中あたりに突き出た、ひさしのような岩のでっばり部分 にいるのだった。 す

たた

 目の下には、澄んだ水を湛えた地底湖が広がっている。なんて 美しい水だろう。そして、あの真っ白な光は、この地底湖の底か あふ

ら溢れ出ているのだった。 すご

 ──凄い。  地底湖の形は丸みを帯びた五角形で、上から見おろすと、それ きょだい

なが

自体が巨大な宝玉のようにも見えた。うっとりするほど美しい眺 めだ。見つめていると、水の底へと吸い込まれてしまいそうな感 じがする。 し

 強いて頭を動かして、周りの岩壁を見回し、もう少し下へ降り る道はないかと探してみた。岩壁のあちこちに、今ワタルが立っ わた

ているのと同じようなでっぱりが見える。上手に伝ったり飛び渡っ こはん

たりしていけば、地底湖の湖畔まで降りられそうだ。 しんちょう

 足元に気をつけて、慎重に行動したので、地底湖の湖畔の岩場 きんちょう

に降り立つまで、だいぶ時間がかかった。それでも、緊張で息が

477

きれていた。水際に立つと、白い光はなおさら眩しく、波が静か にうち寄せるたびに、サラサラと音がする。地底のことで、風は ふ

そよとも吹いていないのに、この波はどこから来るのだろう。 わ

ひょっとすると地底湖の真ん中あたりから、水が湧き出ているの かもしれない。 さや

 勇者の剣を腰の鞘に収め、片膝をついて、ワタルは水面に右手 を差しのべた。ヒヤリと冷たく、絹のようにスベスべした水に、 こう

ひた

ふ

手の甲から手首まで浸すと、なにかとても神聖なものに触れてい るみたいな気がした。  白い光の源は、きっとこの湖の底にある何かだ。ここに飛び込 もぐ

んで潜ってみたら、見つけられはしないかしら。でもこれだけ冷 たい水だと、ちゃんと準備運動しないと足がつるかもしれないな ──  ぼんやりとそんなことを考えながら、清らかに光る水面を見つ めていて、ふと気がついた。ワタルは見つめているだけでなく、 見つめ返されている。  ──何に？  大きな目玉に。いつの間にか、水面のすぐ下に、バスケットボー ルぐらいの大きさの目玉がひとつ現れて、まばたきもせずにワタ ひとみ

う

ルを見つめているのだ。真っ黒な瞳と、白目に浮いた細くて赤い 血管までよく見える。 にら

み

い

 おかしな睨めっこは、数秒続いた。ワタルは魅入られたように なって、しばらくは動けなかったのだ。それから突然、正気に戻っ たみたいにハッとして、水から手を引っこ抜こうとした。  水底から、目にもとまらぬ速さで何かが飛び出してきて、ワタ ルの手首をひっつかんだ。教会の廃墟に現れてワタルを手招きし

478

ひ

ふ

すいてき

は

た、あの白い右腕だった。皮膚が水に濡れ、水滴を撥ねちらかし まぎ

て光っている。間近に見ると、それは紛れもなく女性の手のよう に優美でありながら、力はもの凄く強かった。ワタルは声も出さ はら

ずにじたばたして、何とかその手を振り払おうとした。そのあい だにも、水面下の目玉はワタルをじっと見つめている。 「離せよ！」 さけ

 叫びながら、力いっぱい腕をひっぱると、より強い力でひっぱ り返されて、肩の関節が抜けそうになった。必死に力比べをして いるうちに、今度は足が動かなくなった。のぼせそうなほど動転 して見おろした目に、今度はあのミイラみたいな黒い腕が見えた。 足元の水際から伸びたその腕が、ワタルの左足首をがっきとつか んでいる。  カンテラを持ち去った腕だ。よく見ると、これは左手だ。白と いっつい

黒、左右一対の手なのである。それがコンビネーションよろしく、 と

ふう

ワタルを捕らえて動きを封じようとしている。 「何だよ、これ！」 わめ

け

 喚きながら足を蹴ろうとすると、かえってバランスを崩し、そ しりもち

の場に尻餅をついてしまった。これがチャンスというように、左 右の手はいっそう強くワタルをひっぱる。水のなかに引きずり込 もうとしているのだ！ そしてその様子を、大目玉がじいっと観 察している。 「助けて！」  思わず、本能がそう叫ばせた。ワタルの悲鳴が、広い洞窟の天 はんきょう

こだま

井に反響して木霊する。ワタルをからかうみたいに、助けて、助 けて、助けてという声が、微妙にトーンを変えながら、あちこち は

の岩壁に跳ね返る。

479

けんめい

 もがきながら、左手を懸命に勇者の剣にのばした。もうちょっ とで手が届くのに──  黒い手が左足をぐいとひっぱった。そのとき、絶妙のタイミン あおむ

グで、右腕をつかんでいた白い手がぱっと離れた。ワタルは仰向 けに倒れて、腰のあたりまでざぶんと水のなかに引き込まれた。  ──しまった！ くう

じゃあく

 白い手が再び空に現れた。ワタルの顔のすぐ上を、邪悪な鳥の かっくう

ようにひらりと滑空すると、一気につかみかかってきた。シャツ むなもと

の胸元をつかみ、さらに深いところまで引きずり込むつもりなの た。  瞬間、ワタルは右手を動かして、勇者の剣を引き抜いた。ほと ねら

んど何も考えず、狙いもつけずに剣をふるった。今度もまた、剣 こ

えが

は自らの意思を持つように、あやまたず鋭い弧を描き、おぞまし く

も

い蜘蛛のように五本の指を広げてつかみかかってくる白い腕の、 てのひら

さ

掌の中央を、左から右へすっぱりと切り裂いた。 こまく

こうちょく

 鼓膜が硬直し、もう二度と、すべての音という音を受け付けな とどろ

くなるような、恐ろしい叫び声か轟いた。  切られた掌は、血も流さず、たた傷口からピンク色の肉をのぞ かせて、まるで何かしゃべろうとするかのように、ぺらぺらと動 いていた。ワタルはためらわず、今度は足首をつかんでいる黒い 腕に向かって剣を構えた。 さわ

いくえ

 湖の水面が騒ぎ始めた。底の方から幾重にも波が湧きあがって きたかと思うと、天井まで届きそうな水柱があがった。  滝のようになだれ落ちてくる水を頭から浴び、ずぶ濡れになり すばや

ながらも、ワタルは左足が自由になったことに気づいた。素早く の

起きあがって水辺へ飛び退き、勇者の剣をしっかりと握り直した。

480

 水柱のなかから、巨大な黒い影が姿を現した。白い光が溢れ出 てくる湖の中央に背中を向けているせいで、それの身体の正面は かげ

完全に陰になり、シルエットしか見えない。まるでローブを着た とほう

僧の影法師みたいだ。途方もなく大きいということだけを除けば。 とら

 それの頭がゆっくりと左右に動いて、ワタルを正面に捉えた。 そして、目が開いた。さっき水の下に現れた、あの目玉だった。 ヒトの顔にあたる部分いっぱいに、たったひとつしかない目玉が かがや

ギラギラと輝く。  ワタルは声を張りあげた。「おまえはナニモノだ？ ここの洞 窟の骸骨は、みんなおまえに殺された信者たちなのか？」 モンスター

 黒い怪物は何も答えず、ただ目玉だけをぎろぎろと動かしてい る。と、宙を飛んで、あの右腕と左腕が、怪物のすぐそばへと戻っ てきた。ワタルは、それらの腕が怪物の身体にくっつくのかと思っ た。  だが、そうではなかった。左右の手はその場でふらふらと空を こぶし

かくような動作をしていたかと思うと、揃ってぐいと拳を握った。 手の甲の関節が浮き出るのがはっきりと見えるくらい、力を込め てゲンコツをつくった。  ──何だ？  左右の手は、ぱっと拳を開いた。手品師が何もないところから コインや花を取り出すみたいに、さっきは空をかいていた左右の 手のなかから、いっせいに何か細い針みたいなものが飛び出した。  白い手からは白いものが、黒い手からは黒いものが。  そして、ワタルめがけて殺到してきた。逃げ出す前のほんの一 瞬のうちに、ワタルはその無数の針みたいなものが、ひとつひと つ手の形をしていることを見てとった。あの白い手と黒い手のミ

481

おそ

ニチュア。それらが、悪意を持った小魚のように、群をなして襲 いかかってくる。  手をあげて顔と頭をかばいながら、ワタルは水際を走って逃げ てんかん

た。小さな手の怪物たちが方向転換をして追いかけてくる。それ うな

らが空を飛ぶときに、羽虫のようにぶんぶんと唸っているのが聞 こえた。  ワタルは顔を伏せ、勇者の剣を振り回し、何とか手の群をかい くぐった。ここから脱出しないことには、手の群によってたかっ てズタズタに引きちぎられてしまう。ひとつひとつは十五センチ ぐらいの長さしかない手だが、その指は邪悪で鋭く、ワタルの皮 もぐ

膚をひっかいたり、目をつぶそうとしたり、衣服の下に潜り込ん でこようとするのだ。 だ

め

 足を止めては駄目だ。ワタルは走った。 ほうこう

に お う だ

 咆哮があがった。水辺に仁王立ちになったあのひとつ目の怪物 の声だ。どこに口があるかもわからないのに、どうやって声を出 しているのか。明らかに笑い声だった。それは楽しんでいるのだ。 おもしろ

手の群に追われてワタルが逃げまどうのを、面白がっているのだ。 ほ

 大声で吠えながら、それはずうと動いて、真っ黒なローブの袖 をたくしあげ、自身の腕をあらわにした。それが高く持ちあげて ね

だ

くさ

みせた左右の腕は、建物の根太が腐ったもののようでもあり、死 だいじゃ

どう

せんたん

んだ大蛇の胴のようにも見えた。指はない。腕の先端は魚のヒレ みたいな形をしている。そしてそれは、その腕をぶるんと持ちあ げて振りおろし、力いっぱい水面を叩いた。 しぶき

 ばしゃんと音がして、また水飛沫があがり、ワタルの上に降り 注いだ。バケツで水をぶっかけられたみたいだ。目が見えない。 足元が滑る。転んだら最後だ──

482

「どりゃぁ！」 ひび

 野太い声が響いた。次の瞬間、何か鋭いものが真っ直ぐに洞窟 の空洞を横切ると、ざくりと音をたてて、ローブを着た怪物の左 さ

腕に突き刺さった。怪物は再び咆哮をあげた。今度は苦痛の叫び 声だった。 「ワタル、大丈夫か？」  襲いかかってくる手の群を切り払いなから、ワタルは目をあげ た。岩壁の段々のところに、大きな斧を構えたキ・キーマかいた。 かつ

すぐ上には投げ槍を担いだトローンが、いちばん上の段にはカッッ が膝立ちになっていた。 がんば

「今そっちへ行く！ 頑張れ！」叫ぶなり、キ・キーマは巨体に びんしょう

似合わない敏捷さでするすると岩壁のでっぱりを飛び伝い、降り てきた。黒い怪物が、左腕に刺さった投げ槍を引き抜くと、キ・ キーマに向かって投げ返した。カッツの鞭か唸って、槍がキ・キー マに届く前に、それを水の中に叩き落とす。すかさずトローンが 二本目の槍を投げ、それはきわどいところで怪物の大目玉をかす めて落ちた。 「おりゃおりゃ！ この化け物どもめ、ミンチにしてくれるぞ！」  キ・キーマはワタルのそはに駆け寄ると、ワタルをかばい、ハ ンマー投けの選手みたいに、自分を中心にぐるぐると円を描いて かた

ぱし

斧を振り回して、群がってくる白い手と黒い手を、片っ端から叩 き落としていった。 「ど、ど、どうしてここがわかったの？」 あんど

 安堵と喜びで、ワタルはクラクラした。 「あんたのやりそうなことぐらいお見通しだよ！」  カッツは厳しく言い返すと、岩場を蹴ってジャンプし、襲いか

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かってきた怪物の黒いヒレのような腕を軽くかわしながら、宙返 りをして湖畔に着地した。あの白い腕が、横合いから彼女の首に げきたい

飛びかかるのを、目もやらずに察知して、鞭でぴしゃりと撃退す る。 「こいつは何だ？ カクタス・ヴィラが拝んでいた怪物か？」  三本日の投げ槍を肩に担ぎ、大目玉にぴたりと狙いをつけなが ら、じりじりと移動しつつ、トローンが言った。 「それとも、カクタス・ヴィラ本人のなれの果てか？」 「どっちだっていいよ！ 退治するだけさ」 は

 カッツが吐き捨てて、今度は黒い左手を鞭で巻き取り、身体全 あっけ

体で反動をつけて勢いよく壁に叩きつけた。腕は呆気なくべしゃ ぞうきん

りという音をたてて潰れると、ボロ雑巾のように落下した。  湖畔の岩場は、ワタルの剣とキ・キーマの斧で切られた無数の 小さな腕たちの死骸で、足の踏み場もないほどだ。カッツとトロー ンは油断なく身構えて、水辺に立ちはだかる黒い怪物と正対して いる。  黒い怪物の目玉が、ガサラのハイランダーたちを見比べるよう に、ギロギロと左右に動いた。白目がいっそう血走っている。 のど

 ぐるると喉を鳴らすような声をたてて、怪物のひとつ目が、一 瞬だけ閉じた。それから、カッと見開かれた。 おお

 湖の水が騒ぎ始めた。黒い怪物の全身を覆っているローブが、 ずるずると転げ落ちて水のなかへ落下してゆく。四人は目の前の おどろ

光景に呆気にとられて、それぞれに驚きの表情を浮かべた。  ローブの下から現れたのは、ヒトと魚の混じりあったような、 よろい

おぞましい形の生きものだった。鎧のような硬いウロコが、びっ しりと胴を覆っている。左右の脇腹にはヒレのようなものが生え

484

とが

ていて、それがゆっくりと動くと、尖った先端をワタルたちの方 へ向けた。  怪物は、トローンの槍で傷つけられなかった方の腕をあげて、 頭を覆っていたローブの残骸を、自ら取り去った。ひとつ目はそ む

のままだが、頭にはえた二本の角が剥き出しになった。ワタルは、 へきが

洞窟通路で見た壁画を思い出した。 みにく

 ひとつ目の下の顔の皮膚が左右に割れて、醜い口が現れた。そ ふ

ほお

ほのお

たま

れは口笛を吹くように口をすぼめると、頬をふくらませ、炎の弾 を吐き出した。 「危ない！」 よ

 トローンとカッツが飛んで避けた。炎の弾は壁面にぶつかり、 がらがらと壁を壊した。ミサイルみたいだ！ ワタルは動転して、 カッツを助け起こそうとしながら、自分が転んでしまった。 あや

 また次の火の玉が、今度はキ・キーマの方に飛んできた。危う いところでかわしながらも、キ・キーマは「熱い！」と叫んだ。 「こりゃたまらん！」  体勢を立て直したトローンが、槍で目玉を狙おうとする。そこ へまた炎の弾が飛ぶ。 「信じられない、何なんだよコイツ！」  次から次へと吐き出される炎の弾と、破壊されて落ちてくる岩 の塊を避けるだけでも精一杯なのに、怪物は時折、脇腹のヒレを、 まるでロケットパンチみたいに飛ばすのだ。キ・キーマが斧をふ るって避けようとすると、先端がすっぱりと断ち切られてしまっ た。まるでギロチンが宙を飛んでくるみたいだ。  一転して守勢になってしまった一同は、それでも何とか体勢を くとう

立て直し、怪物の身体に槍や鞭を届かせようと、悪戦苦闘を続け

485

かけら

た。斧を失ったキ・キーマは、両手で岩の欠片をつかんで投げつ けている。そのとき、ワタルはふと妙なことに気がついた。  明らかに、この怪物の弱点はあの大目玉だと思われる。トロー ンもカッツもキ・キーマも、ずっと目玉に狙いを定めている。だ が、正面から狙ったのでは容易に避けられてしまう。だからワタ ルは、怪物にフェイントをかけようと、何度か湖のなかに走り込 み、横手から岩を投げたり、剣を構えて斬りかかったりしてみた。 そ

一瞬でも怪物の注意がこちらに逸れれば、チャンスができる。  だが、怪物はけっしてワタルの方を見ない。脇腹のヒレを飛ば してきたり、腕を振り回したりはするが、けっして頭は動かさな い。目玉は、いつも湖畔の岩場の方を向いたきりだ。つまり、湖 の中心の、あの溢れる白い光の方には背中を向けている。  再び、ワタルは洞窟通路で見たものを思い出した。たくさんの カンテラや燭台が壊され、うち捨てられていた。ここに駆けつけ てくれた三人も、灯りは持っていなかった。たぶんワタルと同じ ように、途中で黒い腕か白い腕に持ち去られてしまったのだろう。  この怪物──光が嫌いなんじゃないか？  ちょっと見には、こいつ、湖の底の白い光の光源を守っている みたいに見える。外部のものを近寄らせないように、水際に立ち ふさ

塞がって。でも、本当は違うのではないか。まったく逆なのでは ないか。この怪物は、あの白い光を直視できないのではないか。  ──よし！  ワタルは水際を助走すると、勢いよく湖に飛び込んだ。少し水 をかいただけで、水底の岩が深くえぐれ、湖が深くなっている場 所が見えてきた。一度頭をあげて深く息を吸い込むと、思い切っ てそこへ潜った。

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 白い光に照らされた湖のなかは、どこまでも明るく見通しがい い。だが、底は深く落ち込んでいて、どのあたりが水底なのか見 当がつかないほどだった。ワタルは力強く水を蹴って泳ぎ、ちょ うど怪物の真後ろまで来たところで、いったん水面に浮かび上がっ た。  怪物はハイランダーたちに向かって火の玉を吐いていた。ワタ ルはもう一度、意を決して潜った。 あわ

 きっとここだ。怪物の真後ろ。少しずつ泡を吐きながら、ワタ ルはぐいぐい水をかいて、深みを目指した。学校では、一生懸命 せんすい

泳いでも、あんまり速いタイムを出せたことはないけど、潜水は 得意だ。 せ

 光。光。水面下の岩場を照らしている。ワタルは何かに急かさ れるように、勇者の剣を抜いた。すると剣は強く輝き、ワタルは みぎなな

何もしていないのに、自然に動いて、ワタルの右斜め前あたりを 指し示した。そちらへ潜れというのだ。ワタルはぐんと水を蹴っ た。  苦しくなってきた。息を吐ききってしまいそうだ。もう少し、 もうちょっと── なら

 そのとき、水底の岩場が見えた。そこだけ均したようになって たま

いる。そして、野球ボールぐらいの白い珠が、その真ん中あたり にころりと転がって、明るい光を放っていた。  ワタルは空いた左手をのばし、その珠をつかんだ。右手の勇者 の剣が、喜びを表すように、ひときわ強く光り輝いた。 ばくはつ

 ワタルは一気に水面へ浮上した。肺が爆発しそうだ。全身が酸 素を求めている。水の上に飛び出すと、ぜいぜいあえぎながら空 気を吸った。それでも、剣の柄も珠もしっかりと固く握りしめて

487

離さなかった。  白い珠が水面に出ると、洞窟内を照らす光がいっそう明るくなっ どうぶる

た。ひとつ目の怪物が、胴震いして声をあげた。ワタルは怪物の 真後ろにいた。素早く呼吸を整えて、再び水に潜ると、怪物の前 に回った。 かんじん

がまん

 タイミングが肝心だった。また息を止めてぐっと我慢すると、 怪物の身体の真正面に回り込めるまで、ワタルはじっと待った。 そして、ドンピシャリの瞬間に、両手で白い光の珠を掲げて、水 面に躍り出た。  珠の光はあやまたず、怪物の目玉を正面から射た。怪物のひと ゆ

つ目がいっぱいに見開かれ、苦痛の叫びが洞窟の天井を揺るがせ た。それからあの不格好な両手が持ちあがって、光から目を守ろ うとした。 「今だ！」  ワタルの叫びに応えて、トローンが投げ槍を放った。それはまっ しぐらに空を横切って、怪物のひとつ目のど真ん中に突き刺さっ た。  ぎゃああああああ──！  怪物は叫びながら、両手で槍を引き抜こうとした。だが、その むな

努力は空しかった。それの身体から力が抜けてゆく。穴の空いた 風船みたいに、それはどんどん縮んでゆく。 「おおおおお、おおおおお、おおおおお」  身体が縮んでゆくにつれて、叫び声のボリュームも落ちてきた。 それだけでなく、いったいどんなケダモノの喉から出ているのか きかい

と思うはどの奇怪な声が、次第次第にヒトの声の音色に近づいて

488

きた。  やがて怪物は、ヒトの大きさにまで縮んでしまった。そして、 しず

ゆっくりと湖に沈んだ。

489

９ 脱出

 ──やった！ きんちょう

こし

ぬ

 緊張の糸が切れて、腰が抜けたみたいになってしまった。ワタ ルはすうっと水に沈んだ。 「おいおいワタル、しっかりしろぉ！」  キ・キーマが水に飛び込んで、ばしゃばしゃと近づいてくると、 ワタルの首根っこをつかみ、岸まで引きあげてくれた。 かがや

たま

だ

 気がつくと、それでもワタルは、あの輝く珠を胸に抱きしめて たた

いた。珠は静かな光を湛え、ほのかに温かかった。 「あれはいったい何だったんだろ？」 なが

つぶや

 まだ険しい目をして水面を眺めながら、カッツが呟いた。 「それに、あのたくさんの手──手だけのお化けなんて、いるも んかね？」 「俺の読んだ昔の記録のなかには」と、トローンが言った。「カ クタス・ヴィラが、自分の元に集まった信者たちを、〝善良なる 働き手〟と呼んでいたという文章があったぞ」 は

い

「働き手、ね」カッツは吐き捨てた。「頭は要らないってことか。 しりょう

モンスター

死霊になっても、親玉の怪物の命令に従って動く手の形をとるこ としかできなかったなんて、情けない話だね」  そのとき、湖の反対側の方で、また水柱があがった。一同は ぎゅっと身構えた。 「まだ何か出やがるか？」 かべ

くず

 いや、もう怪物はいなかった。岩場の壁が崩れ始めているのだ。

490

は

大きな破片が剥がれ落ちて、湖のなかに落下している。  ズズズズ──地鳴りが感じられる。 「まずいぞ！ ここは崩れる！」  トローンが大声を出した。まるでそれを待っていたみたいに、 てんじょう

こわ

天井の一部が音をたてて壊れて、ダルババの頭ほどの大きさの岩 が、バラバラと落ちてきた。ここへ降りてくるときに使った岩場 か

のでっぱりも、見えない手で掻き落とされるみたいに、次から次 はくらく

すばや

へと剥落してゆく。カッツが素早く動いて、残っている岩場のひ むち

せんたん

とつに鞭の先端を届かせたが、尖ったでっぱりにしっかりと鞭を 巻きつける間もなく、それは根本からガラガラと崩れた。カッツ せいいっぱい

は鞭を引きあげるのが精一杯だった。 「ちくしょう！」彼女の悪態にかぶせて、キ・キーマの大声が聞 こえた。 「みんな、こっちに！」  キ・キーマは、倒れかかってきたダイニングテーブルの天板み ばんざい

りょううで

ふ

たいな平らな岩を、万歳するように両腕で支えて、両足を踏ん張っ ていた。 かく

「ここに隠れろ！」 じひび

とどろ

 一同がキ・キーマの方に走ると、ひときわ大きな地響きが轟き、 かたまり

湖のなかに大きな岩の塊が次から次へと落下し始めた。 「天井が！」 あお

あぜん

 カッツの叫び声に、ワタルは頭上を仰いで唖然とした。地底湖 の真上に、かぎざきの形の大穴が空き、そこから星空がのぞいて いる。 「出口だ！」 いっしょ

 キ・キーマのそばに走り込み、一緒に万歳をして岩を支えなが

491

さけ

らワタルは叫んだ。 あや

「そうだね、ありがたいことだよ」危ういところで岩つぶてをか となり

すべ

ど

な

わし、ワタルの隣に滑り込みながら、カッツが怒鳴り返す。「だ けどさ、どうやってあそこまで行くんだよ？」 がんぺき

「この壁はまだ登れそうだぞ」トローンが、一同のそばの岩壁を はし

見あげた。地底湖のいちばん西の端、入ってきた側の岩壁とは反 きふく

対側。目立つでっぱりはないが、起伏はある。 「俺が上まで登って、ロープを垂らす。みんなはそれを登って来 い」腰につけたロープをほどき、輪を作りながらトローンは言っ た。「武器は捨てて、できるだけ身軽になって来るんだぞ」 「僕が行く！」ワタルはトローンの手からロープをもぎ取った。 「僕の方が、トローンさんよか軽いもの！」 「バカな──」 だいじょうぶ

「大丈夫、僕が落ちたら受け止めてよ！」  ワタルはみんなが支えている平らな岩の板の上に飛び乗ると、 そこから壁に飛び移った。アクション映画で、トム・クルーズが み

こうやって岩登りをするシーンを観たことがあった。スタントマ ンを使わずに、ホントに演じたんだって。同じ人間なんだから、 トム・クルーズにできたことが僕にできないわけはない！ へ り く つ

どうくつ

みぶ

 って、そんな屁理屈言ってる場合じゃなかった。洞窟全体が身 る

しんどう

震いするように振動し始めたのが、はっきりわかる。グズグズし も

ていたら、ここだっていつまで保つか──目の前の岩壁にも、ま ぞうしょく

るで生きものが増殖するみたいに、みるみるうちにひび割れが広 がってゆく。  ワタルは壁を登っていった。ほとんど何も考えられなかった。 きょうふ

こんなときは、かえって恐怖も感じないものだ。頭のなかは真っ

492

白だ。  あと少し──あと二メートルほどで、星空ののぞく天井の穴の ふち

緑に手が届く。 ゆ

 そのとき、ひときわ大きな揺れが来て、ワタルの重心がずれた。 はな

あっけ

両手が、ついで両足が壁から離れた。呆気ないほど簡単に、ワタ ほう

ルは宙に放り出された。目の下は地底湖だ。岩と一緒に、水のな かに落ちてゆく── やわ

 と思ったとき、何か柔らかくしなやかなものに抱き留められた。 う

ワタルは宙に浮いた。 「つかまって！」 なめ

 女の子の声がした。滑らかな白い毛に包まれた腕が、ワタルの どう

胴に巻きついている。  ミーナだった。天井の穴の緑から、ロープを腰に巻いて逆さに ぶらさがり、両腕でワタルを抱き留めていた。背中にもロープの かつ

束を担いでいる。 「わたしのロープを登って！ 上へ！」  ワタルは彼女の腰のロープをつかみ、腕の力で身体を持ちあげ ると、彼女がぶらさがっているロープを登った。また、揺れが来 た。  ワタルは無事に天井の穴から地上へ登ると、緑から下を見おろ した。ミーナは天井のすぐ下にぶらさがって、右へ左へ揺れなが らバランスをとり、背中のロープを下に残った三人のところへ投 ねら

げ落とそうと、狙いをつけていた。ワタルは急いであたりを見回 あと

なな

した。ここは教会の焼け跡のすぐ西側──岩場全体が、崩れて斜 めになっている。ミーナがぶらさがっているロープは、かなり先 とが

てぎわ

の安全地帯の岩場の尖った岩に、手際よく二重三重に結びつけら

493

かくにん

もど

れている。これなら大丈夫だと確認してから、急いで穴の緑に戻 り、できるだけミーナが揺れずにすむようロープをしっかりとつ かんだ。  ミーナはしなやかに腕を動かして、トローンたちの真上にロー プを落とした。彼らがロープをつかんだのを見届けると、彼女は あざ

鮮やかにくるりと反転し、後足を天井の穴の緑にかけて、バック わき

転の要領でひらりとワタルの脇に飛びあがってきた。 「ひっぱって！」 「よーし！」 からだ

じゅず

 最初にカッツが、次にトローンが、ロープで身体を数珠つなぎ にして登ってきた。そのころにはもう、地上にいても岩場全体が しず

沈みつつあるのがわかった。早くキ・キーマを助けないと、今度 はこの地上の足場も危ない。 「早く早く！ 急いで！」 かぎづめ

あき

 キ・キーマは岩場を鉤爪でひっかくようにして、呆れるほど素 早く駆け登ってきた。彼ひとりなら、きっと、もっともっと早く 逃げられたのだろう。キ・キーマが地上によじ登ってくるまで、 こわ

ワタルは今まででいちばん怖い思いをした。ああどうか神様キ・ キーマを助けてください、彼を死なせないで！ 「どりゃっと！」 おど

 キ・キーマが地上に躍り出た。みんな大丈夫かと、トローンが ふっとう

怒鳴る。とたんに、足元の地面が沸騰するお湯みたいにグラグラ した。 「逃げろ！」 いっせい

ふ

ほうらく

 一同は一斉に走り出した。振り向かなくても、崩落する地面の ふち

かかと

せま

緑が、踵のすぐ後ろ一メートルほどのところに迫っているとわかっ

494

ひじ

た。ワタルはミーナと手をつなぎ、キ・キーマに肘をつかまれて 走りに走った。  教会の焼け跡の先、小さな岩山が見えてきた。「飛べ！」と、 トローンが叫んだ。「あの岩の向こうに飛ぶんだ！」 おどろ

 ワタルは、ミーナにひっぱられて、自分でも驚くくらい鮮やか に空に身を投げ出した。宙を飛んでいるとき、ミーナがまたワタ いっしゅん

ルを抱きかかえ、リードしてくれるのを感じた。一瞬の後には、 頭から落下するのでも、胸から滑り込みをするのでもなく、くる ひざ

なんちゃくりく

りと一回転して足を下に、膝を曲げて軟着陸していた。 すなぼこり

 もうもうと砂埃がたつ。しかし、崩落音は止まっていた。今飛 こ

び越えた岩場が盾の役目を果たしてくれたのだ。 「やれやれ……命びろいしたみたいだね」  カッツの声が、土埃のなかから聞こえる。そのすぐ隣で、ぶひゅ うというような音がしたかと思うと、宙にふたつ並んだ小さな穴 が空いた。キ・キーマの鼻の穴だった。息を吐き出したので、そ こだけ土埃が飛んだのだ。彼もカッツも、岩や土の塊と見分けが つかないほど土埃にまみれていた。 きづか

「ワタル、大丈夫か？」キ・キーマの気遣いに、ワタルはうなず しりもち

いた。いつの間にか尻餅をついていたけれど、それでもミーナと 手をつないだままだった。 「ミーナも大丈夫だよね？」 「うん」ミーナはいちばんけろりとしていた。「でも、もう一人 のヒトが見えない──」 かけら

「そうだ、トローンは？」土と砂と細かな岩の欠片の上にへたり こんだまま、カッツがあたりを見回した。「トローン、どこよ？」

495

 押し殺したような声が、地面すれすれのところから聞こえてき た。「心配してくれるなら、まずそこからどいてくれ」  カッツは下を見た。みんなも下を見た。 ふ

「あら、まあ」カッツは吹き出した。「ごめんよ、トローン」  カッツはトローンの上に座っていた。彼女がどくと、トローン ひげ

は髭をピクピクさせながら起きあがった。 おそ

「生まれてこの方、こんな恐ろしい思いをしたのは初めてだ」彼 ぶぜん

は憮然として言った。 「あらそう？ 一生に一度でいいから、あたしに踏んでもらいた いって男もいっぱいいるんだけどさ」 ぬぐ

 カッツはケラケラ笑いながらそう言って、顔から土埃を拭い取 すご

ると、両手を腰にあてて立ちあがった。「こりゃ凄いねえ」 わた

かんぼつ

 差し渡し一キロほどの場所が、どすんと陥没していた。教会の 焼け跡は、かろうじてその緑で踏みとどまっていたが、柱はすべ がれき

て倒れてしまい、ただの瓦礫の山になっている。 「あんた、よく来てくれたね」カッツはミーナを振り返ると、ず やさ

いぶんと優しい口調で言った。 「あたしたちの命の恩人だ」 ひとみ

 ミーナは大きな瞳をおろおろさせ、見るからに内気そうにはに かんだ。しっぽの先がゆらゆら動いている。 「身が軽いんだなぁ」トローンが感心する。「それに、ロープの あつか

な

扱いも慣れたもんだ」 「だけど、俺たちがここへ来るって、どうしてわかったんだい？」 しか

 キ・キーマの質問に、ミーナは叱られたみたいに身を縮めた。 「ごめんなさい」 おおさわ

「謝ることなんかないさ。それに、あたしら出てくるときに大騒

496

しんりょう

ぎしたからね。診療所にいたって聞こえたろ」カッツはにやりと した。「ワタルが一人で危険な場所に出かけたって聞いたら、じっ としていられなかったんだね、あんた」

497

10 第一の宝玉

やわ

おお

 ミーナの顔の、白く柔らかな毛に覆われていない部分が真っ赤 になった。ワタルも顔が熱くなるのを感じた。気がついたら、ま はな

だミーナと手をつないでいたので、大あわてで離した。 あご

「アッハハハ、一人前に照れてるよ」ヵッツが顎をそらして大笑 いをした。「ホラ、真っ赤になっちゃってさ」 こうぎ

とう

「からかわないでよ！」ムキになって抗議しようとしたとき、唐 とつ

まぶ

突に眩しい光に目を射られて、ワタルはたじろいだ。 さけ

「こりゃ何だ？」キ・キーマが叫んだ。「ワタル、ワタルのシャ ツのなかだ！」  彼の言うとおりだった。シャツの内側、胸のあたりが白く光り かがや

輝いている。 たま

 ワタルははっとした。あの珠だ！ ロープで上に登るとき、落 とさないように、とっさにシャツの内側に入れたのだった。 つ

 手を突っ込んで取り出すと、珠はワタルの指のあいだから温か く輝かしい光を放った。そしてワタルの手から離れて、重力に逆 う

らってすうと宙に浮き、見あげるほどの高さまで、ふわふわと昇っ ていった。  そしてそこで、ひときわ大きく輝くと、白い光は、白いローブ まと

あおむ

を纏った女性の姿を形作った。ワタルをはじめ、誰もが仰向いて 目を見開き、声も出せなかった。 まぼろし

にそう

 白いローブを纏った幻の女性像は、とても若い尼僧のように見 びしょう

たた

ひとみ

えた。口元には微笑を湛えている。その瞳が動いて、ワタルを見

498

つめた。  ワタルの心のなかに、たおやかな若い女性の声が聞こえてきた。  ──あなたがわたしを解放してくれたのですね。ありがとう、 おれい

心から御礼申します。  ワタルはまばたきすることしかできない。 じゃあく

とら

 ──長い間、カクタス・ヴィラの邪悪な力に捉えられ、わたし はあの湖に閉じこめられていました。カクタス・ヴィラはわたし の力を利用しようと、わたしを地の底に連れて行ったのですが、 わたしはけっしてあの男を許さず、あの男の所業も許しませんで あが

した。あの男は、ヒトびとを支配し、ヒトびとの上に君臨し、崇 たてまつ

よこしま

きょえい

め祀られたいという自らの強い欲望、邪な虚栄心を満足させるた いつわ

だま

めに、多くのヒトびとを偽り騙し、殺しただけでなく、肉体を失っ たましい

どうくつ

もうじゃ

た彼らの魂を洞窟に閉じこめ、亡者として仕えさせていました。 あなたがわたしを解放してくれたことで、あの場所から逃げるこ じょうか

とのできなかった多くの魂もまた救われ、この地はようやく浄化 されたのです。  ワタルは輝く女性の幻に、ふらりと一歩近づいた。「あなたは ……どなたですか？」 じあい

え

 幻の女性は、慈愛に満ちた笑みを浮かべた。 めがみ

いったん

にな

いや

せいれい

 ──わたしは女神の力の一端を担うもの、癒しの精霊、白き力。 「癒しの精霊──」 いの

 幻の女性は、祈るように両手を胸の前で組み合わせると、目を 閉じた。  ──そして、女神に招かれし勇者に道を開くもの。  白い光がひときわ強く輝くと、今度は一点に収縮し始めた。小 さく、星のようになって、ワタルの目の高さにまで降りてきた。

499

てのひら

 ワタルは両の掌を差し出して、白い光を受け止めた。指の爪ほ いっしゅん

しず

どの大きさの珠が、手のなかで一瞬強く光り輝いて、鎮まった。 つぶや

「最初の宝玉だ」と、ワタルは呟いた。 の

けん

ぬ

 左の手の上にそれを載せたまま、勇者の剣を抜いてみる。剣の つば

鍔に刻み込まれた星の形の、いちばんてっぺんの穴の部分がキラ リと光り、宝玉がそれに呼応するように小さく光り返して、ぴっ たりとその穴に収まった。  勇者の剣が、内側から静かな白い光を放った。気のせいか、そ の

の刀身がわずかに伸びたように見える。それでいて、いっそう軽 くなったようにも感じられる。  ──これは、おぬしと共に成長する剣じゃ。 よみがえ

 ラウ導師の言葉が、耳の底に蘇った。  誰も、何も言わなかった。いつの間にか、東の空が白々と明け つちぼこり

始めている。今はもう土埃も静まり、夜明けの光が地平線を一本 の白い輝きに変えて、新しい一日が始まろうとしていた。  ミーナが、小さく叫んだ。「あ！」 むなもと

 今度は、彼女の胸元が光っていた。宝玉の輝きよりはずっとさ さやかだが、温かな色合いはよく似た光だ。ミーナの身につけて いるピンク色のシャツの下。 さぐ

 彼女が胸元を探って取り出したのは、小さなコンパクトくらい かわひも

の円い鏡だった。革紐がついていて、首から下げられる。 「これ──」ミーナは目を見開いていた。「わたしの、お守りの 鏡なんだけど」 「鏡？」ワタルは急いで彼女に近づいた。勇者の剣がまた光り、 も

鏡の内側から光が漏れる。ということは──もしかしたらこれ─ ─

500

「これ、〝真実の鏡〟じゃないか？」  ワタルの言葉に、ミーナは鏡から目を離さずにうなずいた。 「うん。父さん母さんが、わたしにくれたの。これはわたしたち 一族が、代々伝えている家のお守りだって」 かた

たた

 ワタルの肩を、キ・キーマがぽんと叩いた。「あとは、文様を 探すだけだな、ワタル」  こちらが探さなくても、真実の鏡の方がワタルを見つけてくれ まちが

る。ラウ導師の言葉に間違いはなかった。ワタルはうなずいた。  そして、ガサラヘ帰るために一同が岩場を登り始めると、先頭 を歩いていたトローンが、片手を腰にあて眼下を見おろしながら 言った。 「どうやら、探す必要もないみたいだぜ」 ほうかい

あと

がれき

 地面の崩壊で、様相が一変してしまった教会の焼け跡。瓦礫と えがら

えが

土と砂が、そこに、勇者の剣にあるのと同じ、文様の絵柄を描き 出していた。

501

うつしよ

11 現世

 ワタルが文様の中心に立つと、首から下げた、ミーナの真実の 鏡が、キラキラと光った。 だれ

 誰にそうしろと言われたわけでもないのに、ごく自然に、ワタ けん

ぬ

かか

ルは勇者の剣を抜いて、それを頭の上に掲げた。そして目をつぶっ た。  剣の切っ先が光った。続いて文様が光った。白く、赤く、青く、 こんじき

そしてまた白く。最後に金色の輝きを放って、そして文様は消え た。  ワタルは目を開いた。  暗い。どこもかしこも真っ暗だ。自分の立っている足元の地面 にざ

さえ見えない。後ろも前も、握りしめているはずの勇者の剣も、 鼻の頭さえ見えない。 むなもと

ま

す

 ただ、胸元の鏡だけが光っている。そしてその光が、真っ直ぐ の

に前に伸びて、トンネルのような光の通路をつくり出した。  ワタルはそのなかを歩み始めた。独りぼっちだ。足音もしない。 やみ

光のトンネルの外は闇ばかり。これこそが、ラウ導師の言ってい はざま

くおん

た次元の狭間の久遠の谷なのかもしれない。  やがて前方に、ほかでもない、そのラウ導師が立っているのが か

見えてきた。ワタルは駆け出した。 「導師さま！」 きげん

たい

 ラウ導師は、あまり機嫌が良さそうには見えなかった。少々退 くつ

屈しているみたいだ。

502

「ずいぶん待たせるの、おぬしは」と、あくび混じりに言った。 「最初の宝玉を探すのに、これほど手間取るとは」 「スミマセン。でも、いろんなことがあって目が回りそうでした」 「まあ、良いわ」導師はやっと、にっこりした。「この光の通路 うつしよ

をもう少し進むと、出口がある。そこから先は、もう現世じゃ」 きんちょう

のど

ひ

 ワタルは緊張で、喉が干あがるのを感じた。 「おぬしが会いたいと思っている者のいる場所につながっておる。 だから、迷うことはないじゃろう。さ、お行き」導師はワタルの かた

肩を押した。「だが、忘れてはいかんぞ。光の通路から、キン、 かね

もど

コン、カンという鐘の音が聞こえてきたら、それは戻れという合 せま

図じゃ。その鐘も、最初はのんびりしておるが、時間が追ってく ると、速く鳴るようになる。そうなったら、走ってトンネルのな くおん

かにお戻り。トンネルが消えたら、久遠の谷に落ちてしまうから の」 あご

 導師は顎をひねった。 「わしはもう引きあげる。おぬしの帰りを待ってはおらん。鐘の たよ

す

音だけが頼りじゃ。よく気をつけて、耳を澄ませておるのじゃよ」 「はい、わかりました」  ワタルは小走りに先へ進んだ。やがて、何か白っぽいものが見 えてきた。トンネルの出口──そこに白いものがある。白い──  病院のベッドだった。 ねむ

 ワタルは病室にいた。目の前に、母の邦子が眠っている。 まくらもと

となり

 ワタルは母の枕元に立った。病室は二人部屋だけれと、隣のベッ ドは空いている。母は一人きりだった。 あか

 灯りは消えている。カーテンの向こうの空も夜空だ。窓から ちょっと外をのぞくと、ここは三階ぐらいの高さで、街灯の列が

503

ヴィジョン

見えた。〝幻界〟と現世では、やっぱり時間がずれているようだ。 ねいき

「母さん」と、ワタルは小さく呼んだ。母は静かに寝息をたてて いる。  幻界に出発する前と、ほとんど変わっていないようでもあり、 や

ヘッドボード

あれからさらに痩せたようにも見える。頭板に主治医の名前と入 院日を書いた札がくっつけられている。内科の先生だ。入院日は、 母さんが絶望のあまりガス栓をひねったあの日。  誰かが救急車を呼んでくれたんだな。 ひざ

ぬ

 よかった。膝から力が抜ける。ああ、よかった。親切な人に感 謝します──  母を起こして、事情を説明した方がいい。そのためにこそ帰っ さわ

てきたのだ。でも、ワタルはなぜか声も出せず、母さんに触るこ ともできなかった。ひどく悲しい気持ちと、とりあえず母さんは だいじょうぶ

静かに眠っている、病院に保護されているんだから、もう大丈夫 つ

だという安心感とがないまぜになって、胸が詰まる。 びん

さ

 枕元には、牛乳瓶に挿した赤い花。ティッシュの箱。ベッドの かみぶくろ

足元に紙袋がひとつ。のぞいてみると、タオルと下着を包んだも のと、母さんのバッグが入っていた。 けんよう

 バッグのなかに、アドレス帳兼用のメモ帳と、小さなボールペ ンを見つけた。ワタルはメモを一枚破りとると、そこに書いた。  ──僕は元気です。大丈夫だよ。必ず帰りますから、待ってい てください。亘 すべ

 メモを小さくたたんで、母さんの手のなかに滑り込ませた。そ いっしゅん

にぎ

して一瞬だけ、強く手を握った。母さんはうーんというような声 を出して、軽く寝返りをうった。  ワタルはしばらく待った。だが、母は目を覚まさない。耳の後

504

ろの方で、キン、コン、カンと鐘の音がした。 だれ

み

ま

ば

あ

 誰か、お見舞いに来たろうか。千葉のお祖母ちゃんとルウ伯父 じ

い

さんは？ 小田原のお祖父ちゃんお祖母ちゃんは？ きっとみん な心配してるだろう。  父さんは──？ おも

ぼうけん

 父を想うと、幻界の冒険行に夢中なあいだは忘れていた感情が、 あっとう

からだ

わき

いっぺんに蘇ってきて、ワタルを圧倒した。両手を身体の脇でゲ あらし

た

ンコツに握り、心の嵐が過ぎ去るまで、ただじっと耐えて待った。  さっきより、速い鐘の音がする。  待っててね。きっと、すべてが良くなるから。良くしてみせる とう

つぶや

から。必ず、必ず、運命の塔にたどり着くからね。心のなかで呟 きびす

いて、ワタルは踵を返した。

505

12 ミーナ

か

もど

 光のトンネルを駆け戻ると、いつの間にか文様のあった場所、 あと

教会跡の地面に出ていた。走ってきたはずなのに、息も切れてい あせ

ないし、汗ばんでもいない。 となり

 岩場の上で、キ・キーマがのっそりと立ちあがった。すぐ隣に、 きゃしゃ

あ

ミーナの華奢なシルエットも見える。荒れ地の夜明け、見事なま かげ

での朝焼けのなかで、二人の顔は陰になってしまい、表情までは 見えなかった。 だま

 ワタルは黙って岩場に登った。キ・キーマとミーナが顔を見合 ふ

わせて、それからキ・キーマも黙ったまま首を横に振った。（何 き

も訊かない方がいいよ）という意味だろう。 「カッツとトローンは先に戻ったよ」と、彼はいつもの明るい口 調で言った。努力して、そうしてくれているのだろう。「俺たち も帰って、朝飯にしよう」  ワタルたちは岩場を歩き始めた。足元に気をつけて、下ばかり 見て歩いていくうちに、頭の上まで夜が明けた。 なが

ヴィジ

 ワタルは振り返って、荒れ地を、草原を、岩場を眺めた。〝幻 ョン

わた

し

界〟の大地を眺めた。草原を渡る風が目に染みる。 なみだ

 涙が出てきたのは、この風のせいだ。ワタルはそう思おうとし た。この景色があんまり美しくて──病室で独りぼっちの母さん にも見せてあげたいなんて、ちょっぴりでも考えてしまって、だ から涙が出るわけじゃない。僕はもう、そんな泣き虫じゃないの だから。

506

ほお

ぬ

したた

 それでも頬が濡れ、次から次へと涙が滴るのを、どうしようも なかった。キ・キーマはしばらく足を止め、そんなワタルを見守っ ていたけれど、やがてゆっくりと歩き始めた。目顔でミーナに、 （泣かせておいてやろうよ）と話しかけてから。  ミーナも彼の後に続きかけたが、少しためらってから、そっと ワタルのそばに戻った。 「ワタル、お母さんに会えた？」 うで

 うんと、ワタルは大きくうなずいた。それから、腕でごしごし と顔をこすった。 やさ

「そう、良かったね」ミーナはワタルの背中を優しくさすった。 ねむ

「ね、眠ってたから、話は、しなかった」ワタルは切れ切れに言っ た。「短いあいだに、いろいろ説明するの、ムズカシイし」 「そうだね。でも、ワタルのお母さんは、きっとわかってるよ。 眠っていても、ワタルがそばに来たって、きっと感じ取ってるよ」 はげ

 ワタルは目をこすって、ミーナを振り返った。彼女は励ますよ ほほえ

うに頬笑んでいた。 はな

「お母さんて、そういうものなんだって。離れていても、子供の ことはわかるんだって。だからワタル、元気を出して。ワタルが しょげてると、お母さんにもそれが伝わっちゃうよ。ね？」 ひとつぶ

 ワタルはまばたきして、最後の涙の一粒を落とした。「うん！」 しんりょう

い ど み ず

 診療所の先生の分析で、教会跡の井戸水には、作物につく害虫 を退治するための強力な薬が混ぜられていることがわかった。ま さいだん

がいこつ

そう

た、先生は、ワタルが地下の祭壇で大勢の元信者たちの骸骨に遭 ぐう

遇したことを話すと、ぜひその骸骨を調べてみたいと言った。 ざい

こんせき

「骨を調べれば、きっと殺虫剤の痕跡が残っているはずだ。みん

507

な、この水を飲んで死んでいったのだろうからな。そうすれば、 しょう

カクタス・ヴィラが〝治療〟と称してあそこでやっていたことの たん

一端を、少しでも明らかにすることができる」 「今さら──という感じもしますけど」 みぶる

つぶや

 ワタルは〝思い出し身震い〟をしながらそう呟いた。でも先生 は、両耳をピンと立てて、重々しく言うのだった。 「確かに、後からいくら調べても、死んでいった者たちが帰って やつ

くるわけではない。だが、カクタス・ヴィラが本当はどんな奴だっ あば

たのか、できるだけ多くの事実を暴いておけば、次にまた奴のよ やから

だま

うな輩が現れたときに、大勢のヒトたちが騙されずに済むかもし れないじゃないか」 ふさ

どうくつ

だいかつやく

 塞がりかけていたミーナの傷は、洞窟での大活躍で、またちょっ しか

と後戻りしてしまった。彼女は先生に叱られて、背中にしみる薬 ぬ

さけ

を塗られ、きゃっと叫んだ。でも、初めて会ったころとは別人の ように明るくなっている。  ミーナはどこから来たのか。北からの難民のアンカ族の少年た いっしょ

ちと一緒にいたのはなぜなのか。どうしてあんなに身が軽いのか。 そして、なぜ真実の鏡をお守りとして身につけているのか。知り たいことが山ほどあって、ワタルはその日の午後、キ・キーマと 一緒に、ミーナの病室を訪ねた。  彼女の方も、ワタルがあれこれ不思議に感じていることを察し ていたのだろう、 「こういうの、身の上バナシっていうんでしょう？」と、少しば かり照れながらも、進んで答えてくれた。 「もともとネ族というのは、南大陸にはほとんどいなかったんで す」

508

どろぬま

 三百年前、ガマ・アグリアスⅠ世が北大陸の泥沼の内戦の勝利 ていこく

者となり、現在の統一帝国をうち立てたころ、その過激なアンカ だんあつ

おそ

きら

族中心主義による他種族弾圧を恐れ嫌って、今の難民たちよりも に

もっと多くの種族のヒトびとが、命からがら南へと逃げてきた。 「わたしのご先祖さまも、そうやって逃げてきたんです。今、南 大陸にいるネ族の大半は、その移民たちの子孫なの」  ミーナのご先祖さまたちは、商業の国ボグに落ち着いた。ミー ひいおじい

ナにとっては曾祖父さんにあたるヒトが、たいへん商才があった あつか

とんや

おこ

ゆうふく

らしく、農産物を扱う問屋を興して大成功、一族は平和で裕福な 暮らしをしていたという。 じょう

「へえ、じゃあミーナは、お嬢様なんだな」 は

 キ・キーマの感心したような合いの手に、ミーナは恥ずかしげ え

さび

に笑った。でもその笑みはすぐに消えて、寂しげなまなざしが、 さぐ

遠い過去を探るように、宙を見つめた。 「わたしが七歳の、とっても暑いころでした。わたしたち、お祖 ば

あ

父ちゃんとお祖母ちゃんと父さん母さん、五人で、町から離れた 小さい湖のそばにあった家に住んでいたんですけど、そこが── おそ

ある夜──襲われて──」  なにしろ幼かったので、ミーナは事件のことをよく覚えていな とつぜん

いのだという。ただ、真夜中に突然母親に起こされ、ベッドの下 かく

に隠れていなさい、父さん母さんが呼びに来るまでは、何があっ てもけっして出てきてはいけない、名前を呼ばれても返事をして はいけないと、厳しく言い聞かされたこと、そのときの母親の顔 おび

が、見たこともないほど険しく、怯えているようであったこと、 そして、 「そのとき、母さんがわたしにこれを──」

509

ふ

 ミーナは首から下げた真実の鏡に触れた。 「これを持っていてねって。大切にするのよ、これはおまえのお 守りだからって言ったの。母さん、少し涙ぐんでいて、わたしは こわ

怖くて怖くて、母さんと一緒にいたいってダダをこねたんだけれ ど、母さんは部屋を出ていってしまったの」  言いつけに従って、幼いミーナはじっとベッドの下に隠れてい ふ

た。広い家のなかで、どすんどすんと足を踏みならすような音が だれ

ど

な

したり、誰かが怒鳴っているのが聞こえたり、悲鳴のようなもの ひび

が響いたりして、死ぬほど恐ろしかったけれど、涙をこらえて小 さくなっていた。 なぐ

そうどう

 ワタルは、母の邦子が父の愛人に殴りかかるという騒動を起こ したとき、自分もまた小さくなって、ベッドの下に隠れたことを じょうきょう

ちが

思い出した。もちろん、状況は全然違う。ワタルは目の前のゴタ ゴタから逃げただけで、命の危険は全然なかった。それでも、ミー ナの気持ちが少しは想像できるような気がする。 「そのうちに、三、四人の足音が、家のなかを駆け回り始めたの」 ミーナは小さな声で続けた。「何か探しているみたいだった。み んな男のヒトたちで、大声で何か訊いたり答えたり、誰かが誰か に命令したりしてる声も聞こえたわ。わたしはますます怖くなっ て、息を殺してベッドの下で小さくなってた」 しんにゅう

 探しものが見つからないのか、侵入者たちはそのうち家のなか こわ

のものを壊したり、家具をひっくり返したりし始めた。それでも がまん

けむり

にお

ただよ

ミーナはぐっと我慢して隠れていたが、やがて煙の匂いが漂い始 めて、 は

ろうか

「こっそりベッドの下から這い出して、廊下をのぞいてみると、 火が見えたの。そこらじゅうが燃えていた──」

510

かね

 そこへ、家の外の遠くから、激しく鐘が打ち鳴らされる音が聞 こえてきた。消防隊だ！ 「ベランダへ出ると、消防隊の車がこっちへ走ってくるのが見え たの。それまでは全然気づかなかったんだけど、もう夜が明けか つちぼこり

けていた。車輪が土埃をたてるのが見えるくらい、明るくなって た」  ミーナは消防隊に救出されたけれど、火は家全体を包み込み、 消し止めることはできなかったという。焼け跡からは、ミーナの なきがら

お祖父ちゃんとお祖母ちゃんの亡骸が発見された。両親の姿はど こにも見えなかった。 ごうとう

「強盗が家族を殺して、お金を盗って、家に火を付けて逃げたっ て、そう教えられました。わたしだけでも助かって幸運だったっ て」  家が立て込んでいる街中とは違い、隣近所も遠く離れている。 もくげき

目撃者もおらず、その土地のブランチも、ミーナの証言をもとに、 そういう結論を出すしかなかったようだ。 「たけどそれなら、父さん母さんはどこにいるのかしら？ わた なっとく

しはほんの子供だったけれど、どうしても納得がいかなかった。 それに、家に押し入ってきた男たちが、何か探し回ってるようだっ たく

たことと、母さんがわたしにお守りを託したことには、何かつな がりがあるのじゃないかって、気になって」 しんせき

ミーナはボグの首都ランカに住む父方の親戚の商人の家に引き取 られたが、月日が過ぎても、事件を忘れることなどできはしない。 あの夜、何が起こったのか？ 両親はどうなったのか？ 今も生 しょうどう

きているのではないか？ 探したい、突きとめたいという衝動に つ

突き動かされて、とうとう親戚の家を飛び出したのは、十一歳の

511

ときだった。 むてっぽう

「わたしったら本当に無鉄砲だった」と、ミーナは照れ笑いをし た。 「ホントだ」と、ワタルも笑った。「あてはあったの？」 「何もなかった。でもね、そのころちょうど、ランカに大きなサー おろし

カス団が興行に来ていたの。親戚の家は、食料品の卸問屋のほか にレストランもやっていて、そこのお得意様を大勢ご招待してサー カスを見に行っていたから、わたしも何度かサーカスには出入り あいさつ

していたし、団長さんにもご挨拶したことがあって」  ミーナは考えたのだという。サーカス団なら、国じゅうを旅し て歩く。いろいろな情報も集まるだろうし、大勢のヒトにも会え なぞ

るだろう。ひとつところでじいっとしていては、過去の謎は永遠 めぐ

に解けない。でも、旅してゆくうちには、手がかりに巡り合うか もしれない。 「それで、団長さんのところに押しかけて、事情を話して、わた しをサーカスで働かせてくださいってお願いしたの」  幸い、ブブホという団長は人情家で、彼女がサーカス団で元気 に働くこと、団のなかで読み書きの勉強を続けることという条件 たの

をつけた上で、ミーナの頼みを聞き入れてくれた。 「サーカスか。どうりで身が軽いわけだよ」  キ・キーマは手を打ち鳴らすと、大いに納得した顔だ。でも、 しゃくぜん

ワタルはまだ釈然としないところがあった。 「じゃあミーナは、ずっとそのサーカス団にいたんだろ？」 「うん。エアロガ・エレオノラ・スペクタクルマシンというサー カス団よ。目がくらみそうなほど高いところで、ブランコに乗っ たり、アクロバットをしたりする空中ショウが売り物なの。団名

512

も、それに由来してるの」  ミーナはちょっぴり得意そうだ。 「わたしも、ロープを使った空中アクロバットを見せてたのよ。 団長さん直伝の芸でね、けっこう人気があったんだ」 「あのアンカ族の少年たちとは、どこで知り合ったの？ どうし おど

て彼らと一緒にいたの？ ずっと脅かされてたみたいじゃないか」  ミーナの表情が、スッとしぼんだ。「それは……わたしがバカ だったの」  一年ほど前、あの少年たちがまだボグ国内の難民収容所にいる いもん

ころ、エアロガ・エレオノラ・スペクタクルマシン団が、慰問興 行をしたことがあるそうだ。ミーナはそこで彼らと話をする機会 があった。 「それで……あの子たちが言ったの……北から逃げてくる前には、 あの子たちの親は、異種族管理庁の役人で、だから、世の中には 知られていないようなことも、いろいろ知ってるって」 ていこく

 異種族管理庁というのは、北の帝国政府の一機関だという。北 では、アンカ族以外の種族を「異種族」と総称し、彼らの生活の すべてを、この管理庁で文字どおり管理しているのだという。 おこ

「何が管理なもんか」キ・キーマが鼻の穴をふくらませて怒った。 「財産を取りあげて収容所へ押し込めて、強制労働させることの かざぶね

どこが管理なんだよ！ 水人族の難民に聞いた話じゃ、風船の造 船や修理のために、ろくな工具もないところで、飲まず食わずで たお

二十四時間ぶっ続けで働かされたって。一日に五人も十人も倒れ て動けなくなるんだけど、もちろん医者なんかいやしないし、薬 からだ

もねえ。身体が弱ったものは、ほったらかしの野ざらしで、死ん ほう

だら海に放り込まれるって言ってたぞ！ そうやって死んだ水人

513

の死体が、山になってるのを見たってさ！」 ふ

 ミーナは目を伏せてうなずいた。「わたしも、似たような話を いっぱい聞いてる」 「それで、あの二人は何を知ってるって言ったのさ？」ワタルは うなが

促した。 ゆうかい

「北の帝国は、南へ逃げた異種族の子孫を、こっそり誘拐して、 北へ連れ戻しているというの」ミーナの声が、ちょっと震えた。 「もう二十年以上も前から。あの子たちの親は、そうやって連れ とくしゅしせつ

戻されたヒトたちを収容する特殊施設で働いていたことがあるか ら、知ってるっていうの」  ワタルはキ・キーマと顔を見合わせた。 「わたしの話を聞いたあの子たちは、わたしの両親も、きっと、 同じように北へ連れ戻されたに違いないと言ったわ。だから焼け 跡から亡骸が見つからなかったんだって。わたしも、探していた 答がやっと見つかったと思った。父さんも母さんも、北の帝国に かがや

いるかもしれない、まだ生きているんだって」 ミーナの目が輝 いている。 「だけど、北の帝国政府は、どうしてそんなことをしてるんだろ う？」 くわ

「わからない。あの子たちも、自分たちも詳しいことは知らない、 でも、先に南に渡っている難民で、あの子たちの親の上司だった ヒトに心あたりがあるから、そのヒトに会えはもっといろいろ教 えてくれるはずだって言ったの。それでわたし──」 うな

「むむむ」と、キ．キーマが唸る。「そうするとミーナは、その だっそう

言葉を信じて、あいつらの脱走を手伝ってやったのかい？ そし て、あいつらの言葉に引きずられて、ずっと一緒に行動していた

514

うつむ

んだな？」 ミーナは答えず、顔が見えないくらい深く俯いてし まった。それが返事になっている。 「じゃあ、そのエアロガ・エレオノラ・スペクタクルマシン団の ヒトたちも、きっとミーナのこと心配してるはずだね」と、ワタ ルは言った。「内緒で出てきたんだろ？」 「うん。うち明けたら、絶対に止められると思ったから……」 「そりゃあ止めるよ。俺だって止める。あんなガキどもの言うこ とを真に受けるなんて、やっぱりミーナはお嬢さんなんだな」  キ・キーマはからかっているつもりなのだろうけれど、ミーナ めんぼく

は本当に面目なさそうな顔をしている。 「でもね、少しばかりわかったこともあるのよ。あの子たちも、 デタラメばっかり言ってたわけじゃない」 ごういん

あらごと

たずさ

 南に逃げた難民を強引に連れ戻すという、不可解な荒事に携わっ ているのは、〝シグドラ〟と呼ばれる特殊部隊であるという。 「そいつら、軍人なの？」 「帝国軍とは関係ないの。現皇帝アグリアスⅦ世と、帝国軍総帥 おさななじ

のアジャ将軍は、幼馴染みでもあるのだけれど、実はあんまり仲 がよくないんですって。それは北の国民たちのあいだでも──も ちろん大きな声では言えないけれど──よく知られたことなんで すって」 き

し

 北の帝国では、こちらのシュテンゲル騎士団やハイランダーに い

じ

あたる治安維持組織も、帝国軍の下部機関であって、独立した権 限がないのだそうだ。そこでアグリアスⅦ世は、いちいちアジャ 将軍に相談せず、自分の好きなように動かせる特殊部隊を作りあ げた。それが〝シグドラ〟である。  キ・キーマが、長いベロで頭のてっぺんを舐めている。

515

「どうしたの？ ヘンな顔して」 いや

「うん？ 嫌な名前だと思ってさ。〝シグドラ〟なんてよ」 つく

 北の帝国は、幻界を創りあげたのは老神であり、女神はその老 いつわ

しんこう

かか

神を騙した偽りの神であると説く「老神信仰」を国教に掲げてい る。 「シグドラは、女神さまに騙されたと知った竜神が、怒って引き モンスター

返してきたとき、従えていたという怪物の名前だ。毛むくじゃら みっ

あし

ふたまた

の三つの頭と六本の脚を持ち、二股に分かれたしっぽの先にそれ へび

ぞれ蛇の頭がついてるっていう。もっとも、俺たち水人族の言い こんとん

ふち

す

たましい

伝えのなかでは、混沌の深き淵に棲んで、迷い込んできた者の魂 く

みにくい けもの

を喰らう、ただの醜い獣でしかないんだけどな」 「三つの頭……脚が六本……」 う

ひとたびえもの

「いつも恐ろしく飢えていて、何でも喰らうし、一度獲物を見つ みのが

けると、どこまでもどこまでも追いかけて、けっして見逃すこと い

がない。シグドラというのは、古いアンカ族の言葉で〝忌まわし りょうけん

き猟犬〟という意味なんだ」 たと

 ミーナの両親は、そんなおぞましいものに喩えられる組織にさ らわれた── ひとみ

「ワタル、お願いがあるんだけど」、ミーナが大きな瞳をワタル に向けた。「あなたの旅に、わたしも一緒に連れていってくれな い？」 しんけん

 真剣に見つめられて、ワタルは顔が赤くなり、心臓が身体の内 側でもじもじし始めた。 「え？ た、旅に？ 一緒に？」 「どうぞお願い！ わたし、きっと役に立つから！ あなたにつ いてゆけば、団のみんなと一緒に旅をするよりも、もっと速く、

516

遠くまで行かれるでしょう？ だから──」 せま

 ミーナはどんどん迫ってくる。ワタルはたじろいでじりじりと い

す

後ろに下がり、とうとう椅子から転げ落ちそうになった。 う

 キ・キーマが特大のニヤニヤ笑いを浮かべながら、ワタルの後 つか

ろ首を捕まえた。 かわい

けんめいたの

「可愛い子ちゃんに、こんなに一生懸命頼まれちゃ、捨ててはお かれないよな、ワタル？」 ふ

「う、うん」ワタルは顔の汗を拭いた。「それに、ミーナは命の 恩人だもんね」 「よかった！ ありがとう！」  飛びあがって喜ぶミーナに、しかしワタルは言った。「でもミー ナ、僕らと行く前に、まずスペクトルマシン団の皆さんに、元気 でいるって知らせなくちゃいけないよ」 「スペクタクルマシン団よ」ミーナはクスクス笑った。「でも、 ワタルの言うとおりね」 「じゃあ、こうしたらどうだ？ 俺たちみんなで、そのスペクタ クルマシン団のところに行くのさ。ミーナは団のみんなに会える し、ワタルはまた新しい情報を集めることができるって寸法だ。 名案じゃないかい？」

517

13 マキーバの町で

 ミーナの傷が完全によくなるのを待って、三人は交易の町ガサ きゃくりょく

ラを出発した。長旅と山道に強い脚力を持つダルババを、キ・キー そろ

マが特に選び、カッツが揃えてくれた少々の日用品を荷台に積み たづな

へいたん

込んだ。もちろんキ・キーマが手綱を取ったが、道が平坦な場所 では、ワタルもダルババの操縦法を習った。 おどろ

 荷台のミーナは、のんびりと景色を楽しみながら、時々、驚く うつしよ

き

ほどきれいな声で歌った。現世の家でワタルの父が聴いていたこ とのある中南米の〝フォルクローレ〟という音楽に似たその節回 あいせつ

いろど

しは、時には哀切に、時には明るく、三人の道中を彩った。 はな

 ミーナもスペクタクルマシン団を離れて一年近くになるが、彼 きおく

女の記憶では、団のみんなは、今ごろボグのどこかで興行をして きょり

いるはずだという。そこでひとまず、ガサラからの直線距離で、 ナハトとボグの国境線にいちばん近いところにあるマキーバとい ぼくちく

さか

う町を目指すことにした。マキーバは小さいが牧畜の盛んな町で、 ガサラでワタルがたくさん食べた肉料理の材料の主な供給源だと いう。 よっ

「ボグは四つの国のなかではいちばん小さいし、スペクタクルマ シン団の公演は、どこへ行っても大評判になるから、もしもみん なが今ボグのどこかにいるのなら、きっとマキーバあたりまで噂 うわさ

が届いていると思うの」  ミーナの予想どおり、レンガと丸太を組み合わせて造りあげら そぼく

れた素朴な家々が寄り集まってできたマキーバの町に着き、最初

518

けんらんごうか

あせ

に立ち寄ったダルババ屋で、絢爛豪華で手に汗にぎるショウを見 せるスペクタクルマシン団が、ほんの四日ほど前に、マキーバか ほとり

ら北に山をひとつ越えたところにある湖の畔にテントを張り、こ へきち

こどく

のあたりに点在する小さな村々や、行商人たち、僻地で孤独に観 測を続けている星読み台の学生たち、関所で働く役人たちのため ぬ

に、格安の特別興行をうつと宣伝しながら、マキーバを通り抜け ていったという話を聞くことができた。 「わあ、良かった！」ミーナは手を打って喜んだ。「こんな近く にいるなんて！」 み

「あんたはそのショウを観たのかい？」  キ・キーマの質問に、ダルババ屋のヒトたちは首を振った。 「誰も観ていないんだ。俺たちだけじゃない、マキーバの町の連 中はひとり残らず、ショウ見物どころじゃなかったんだよ」  山火事があったのだという。ここのダルババ屋の主人は、町の 西側から南西方面にかけて連なる、なだらかな山々を手で示した。 は

「あっちの方面だけ、山が禿げちょろけになってるだろう？ ほ かの山はそんなことはないのに。今は緑のきれいな時期だからな」  なるほど、そのとおりだ。小さな山の三つ分くらいが、ひどく ばちが

やまは

む

場違いに寒々しい感じになっている。山肌が剥き出しだ。 あと

「そうか、あれはみんな火事で焼けてしまった跡なんですね」 ふ

 ワタルの言葉に、主人は「いやいや」と手を振ると、興奮した 口調で続けた。 おお

「ただの山火事ならば、どんなにひどく焼けようと、山を覆う木々 や下草がそっくり消えて失くなるわけはないだろ？ もっともっ すご

と凄いことが起こったのさ」

519

ふもと

 火が出たという町の南西方面の山々の麓一帯を除けは、マキー バを囲む景色は緑一色だ。広々とした草原が広がり、牧場がたく さく

さんある。遠目に見ると、家畜囲いの木の柵が、まるでクロスワー わく

ドパズルの枠のようだ。羊みたいな動物が、その内側にたくさん な

や

いる。牧畜業者の納屋やサイロが点々と散らばり、とんがり屋根 のてっぺんが光る。 「ここで飼われてる動物は、ムンマっていうんだ」家畜囲いの内 側に群れている白い毛皮の動物たちを指して、キ・キーマが教え うま

じょうぶ

てくれた。「肉は旨いし皮は丈夫で何にでも加工できる。そのう こだくさん

え病気に強くて子沢山と、良いことずくめなんだぜ」  ダルババ屋の主人はうなずいた。「ムンマの群は、マキーバの すその

町の飯の種だ。そのムンマの飯である牧草も、山の裾野にはたく さんはえている。この緑は、マキーバの牧畜業者たちにとって、 金では買えない宝なんだ」 あ

 三日前の真夜中、その山の頂上付近で火が出た。折悪しく強い しゃめん

ふ

南風が斜面を吹きおろしており、火はどんどん燃え広がって、消 防隊が火事場に近づくことさえ難しい。中腹から麓のあたりで、 るいしょう

せいいっぱい

類焼を防ぐために木々を倒すぐらいが精一杯だ。町のヒトびとは、 けむり

にお

おび

さわ

煙と火の匂いに怯えて騒ぐムンマたちを、できるだけ火事場から 遠い場所へ移すために、総出で大骨を折った。  しかし、火の足は速く、火勢はますます強くなるばかりだった。 「明け方ごろには、このままじゃ、南西方面の山が丸焼けになる だけじゃ終わらずに、東側の山へも火が燃え広がるだろうって、 俺たちみんな真っ青になった。そうなったら、マキーバの町も危 ぜんめつ

に

ない。下手すりゃ全滅だよ。年寄りと子供たちを町の北へ逃がし け

が

て、残ったヒト手をかき集めて消火にあたったんだが、怪我人が

520

増えるばっかりで、どうにもならないんだ。火の勢いを弱めるこ とさえままならない。麓まで、まるでファイアドラゴンの息みた いな風が吹きおろしてきて、そのうちに、立ってることさえ難し くなってきちまった」 と

 そのとき──マキーバの町にひとつしかない宿屋に泊まってい ま ど う し

た一人の魔導士が名乗り出て、自分に任せてくれれば、この山火 事を消し止めてみせようと言ったのだという。 「ただ自分のやり方だと、燃えている山々の麓では、火を消した 後も何年かは牧草がはえなくなるだろう、それでもいいかって、 さ」  ダルババ屋の主人は指で鼻の下をごしごしこすった。そういえ はし

うで

ば彼のシャツの下に、包帯の端っこがちらりと見えている。腕に やけど

も火傷みたいな傷がある。 ほう

「そのまま放っておけば、南西部の牧草地はみんな熱風にあぶら れて、どっちみち使い物にならなくなっちまうんだ。そうなった た

ら、何年経っても元どおりにはならないかもしれない。だったら、 その魔導士の提案に乗ってみたって悪くない。そうだろ？」  主人はワタルたちの顔を見回して、ニヤリと笑った。 「ところがさ、俺たち──というか、町長を始めとする町の顔役 たちは、すぐには決断できなかったんだ。どうしてかって言った ら、その魔導土が子供だったからなんだ」  ダルババ屋の主人は、太い指をワタルの方に振ってみせた。 「ちょうどあんちゃんぐらいのアンカ族の子供だったんだよ。よ ひなん

くまあ今まで避難させられずに、宿に残っていたもんだって、み んな最初はそっちの方に驚いたくらいさ」  ワタルは目を見開いた。思わず一歩進み出た。「その魔導士、

521

こし

黒いローブを着ていませんでしたか？ 腰に革バンドを巻いて、 つえ

てっぺんのところにキラキラ光る石のついた黒い杖を持っていた でしょう？」  今度は主人の方が驚く番だった。「あんちゃん、よく知ってる な。あのチビッこい魔導士の知り合いなのか？」 かた

 キ・キーマが無言のまま背後からワタルの肩を強くつかんで、 話に割り込んだ。「それでオヤジさん、結局どうしたんだい？  その魔導士に任せたのかい？」 「あ？ ああ、そうだ」ダルババ屋の主人はうなずいた。「その かみ

ころには、町なかにいても、髪や服が今にも燃えあがるんじゃな だれ

いかと思うくらい、熱くなっていたからな。でも、誰かが声に出 たの

して〝頼む〟と言ったわけじゃないんだ。みんながおろおろして 返事に因っていると、そのチビッこい魔導士が──」  ──やれやれ、世話の焼けるヒトたちだ。  そう言いながら、燃えさかる山の方へと、勝手に歩いて行って しまったのだそうだ。 うれ

 ワタルは嬉しくなった。やっぱりミツルだ。いかにもあいつが せりふ

言いそうな台詞じゃないか。 「それでどうなったの？」ミーナが身を乗り出した。 う

「そりゃもう、凄い魔法だったぜ」主人は鼻の頭に汗を浮かべた。 「思い出しても目が回るような気がするよ。杖を右手に、左手で こう、空に文字を書いてよ。意味のわからない言葉を大声で、歌 うみたいに節をつけて唱えてな」 たつまき

 まず現れ出でたのは、竜巻だった。それは山火事の燃えさかる とつじょ

南西の山の上空に突如として出現すると、山全体を包み込んだ。 ふう

「燃えている山々が、麓まですっぽりと竜巻の内側に封じられち

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まったんだ。そのとたんに、俺たちの周りの空気が、さっと冷え た。全然熱くなくなったんだ。熱風も止まった」 せんたん

あお

かがや

 魔導士が杖をひと振りすると、その尖端の石が蒼く輝いた。ま まぶ

ともに見ていられないほどの眩しい光に、思わずヒトびとが目を こくう

さ

りゅう

覆ったとき、虚空を切り裂いて、一頭の蒼い竜が現れた。 「俺は見た。確かに見たんだ。あれは、伝説に出てくる海竜さま こぶし

うった

だった。間違いない」ダルババ屋の主人は拳を固めて熱っばく訴 えた。「あの魔導士の杖にくっついた石には、海竜さまの力が宿っ ていたんだろう」 からだ

ほのお

 蒼い竜は長い身体をくねらせて、燃えさかる炎を封じた竜巻の 周りを、ぐるぐると回った。すると竜巻のなかに、清らかな水が つむじかぜ

しぶき

満ち始めた。竜巻の旋風が、水が細かな飛沫になって飛び散り、 それが雨と変じてマキーバの町に降り注いだ。 「そのうちに、竜巻が動き出したんだ」 ただよ

ごうか

しず

 山を離れ、宙を漂い、海の方へと。どれほどの業火も鎮めて消 おおうなばら

し止めてしまう、大海原のある方へと。 つ

「俺たちみんな、バカみたいにぼうっと突っ立っていてさ。命び ろいしたんだって気がついたときには、もう夜が明けていた。チ ビッこい魔導士も姿を消していた。そして、あの丸ハゲになった 山が残っていたんだ」 さわ

 町のヒトたちはみんな、まだ興奮が冷めやらず、寄ると触ると この話で持ちきりだという。だから、もっといろいろ知りたかっ き

たら、あっちこっちで訊いてみるといいよと、主人は言った。  実際には、こちらから水を向けるまでもなかった。マキーバの 町のヒトたちは、みんな夢中になってこの事件について語ってい つか

たし、町の外から来た者と見れば、誰彼かまわずとっ捕まえてこ

523

の話を聞かせていた。宿屋に落ち着くころには、ワタルたち三人 くわ

とも、事件の一部始終に詳しくなっていた。  ワタルはすっかり興奮してしまい、嬉しくてたまらなくなって、 すべ

話を聞いているあいだに、何度か口を滑らせそうになった。その チビッこい魔導士は現世からの旅人で、僕の友達です、と。でも、 そのたびにキ・キーマが無言でたしなめる。そして宿の部屋でこ う言った。 「ガサラの町じゃ、行きがかり上しょうがなかったけれど、これ から先は、ワタルが〝旅人〟だってことは、できるだけヒトに知 は

で

られない方がいいと、俺は思うんだ。派手に知られれば、危険な ことだってあるかもしれないからな」 し

 ワタルはそれで、ちょっと気を引き締め直した。そしてラウ導 師の言葉を思い出した。ミツルを探すことはできない── 「おかしいな。導師さまは、僕と、ミツルが旅する幻界は、まっ たく違うものだって言ってたんだ。幻界は、そこを旅する者によっ て姿を変えるんだって」  ミーナがほっそりとした首をかしげた。「もしかしたら、ワタ ルとそのお友達──ミツル？ 二人はまだチビッこいから、協力 しあって旅ができるのかもしれないわね？」 「そうかなぁ。だったら、ラウ導師さまが最初にそう教えてくれ るんじゃないかな」 「教えられたのでは、嬉しさも半分くらいしかないじゃない。自 分たちで気がつく方が、ずっとステキよ。だから導師さまは、わ ざと逆のことをおっしゃったのかも」 いっしょ

 ミーナの言葉に、心が動いた。「でも、ミツルが一緒だったら、 とう

僕なんかすごい楽して運命の塔にたどり着けちゃうな。あいつの

524

魔法、ホントに凄いもの」  ミーナは笑った。「ワタルには、ワタルのできることがあるの おど

よ。だって、わたしを脅してた二人組を捕まえるときだって、魔 法を使ったわけじゃないじゃない」  宿でも、山火事と小さな大魔導士のことは、火事以上に〝ホッ しゅくはく

ト〟な話題で、用もないのに宿泊客にこの話をするためだけに来 か

ている町のヒトもいた。飛び交う会話のなかから、ワタルは、チ ビッこい魔導士が、まだ火事が起こる以前に、ボグの北西部にあ たず

るリリスという町への道順を尋ねていたという話をキャッチした。 「リリスって、遠いんですか？」 ま

す

「真っ直ぐ行こうと思うとタイヘンだね。あいだにグランデラ川 という大河があって、そこはあまりの激流で橋がかけられないし、 流れの状態が良いときでないと船も出せないから、運が悪いと長 は

め

いこと待つ羽目になるのさ。確実を期すなら、いったん南側に山 かいどう

を超えて、南西部からぐるっと回り込んでいった方がいい。街道 も通じてるからね」  いっぺん南に山越えするならば、エアロガ・スペクタクルマシ ン団が興行しているあたりは通り道になる。ちょうどいい。ワタ ルは、導師さまにはああ言われたけれど、やっぱりミツルの後を 追ってみたいと、キ・キーマに相談した。  キ・キーマはにこりとした。「それなら、そうしてみようよ。 せっかく消息がわかったんだし、俺もその、ワタルの友達がどん な〝旅人〟なのか、ちょっぴり興味があるなぁ」 あいきゃく

 相客たちと、そも山火事の原因は何だったのだろうと話してい るうちに、先に山越えして行ったスペクタクルマシン団のキャン おこ

プの火の不始末ではないかと憶測するヒトがいて、ミーナは怒っ

525

てしまった。 「ブブホ団長は、そういうことにはものすごく気をつけてるのよ。 絶対にありっこないんだから！」 なだ

 カンカンになったミーナを宥めるのに、ワタルもキ・キーマも タイヘンな思いをしたのだった。

526

14 スペクタクルマシン団

にぎ

ゆ

 緑の森の向こうから、賑やかな音楽が聞こえてくる。風に揺れ たいこ

ひび

からだ

る木立も、リズミカルな太鼓の響きにあわせて楽しげに身体を揺 すっているように見える。  俺たちゃ つむじ風と友達さ おど

 俺たちゃ つむじ風と踊るのさ あま

した

 天が下に これっきり  ひとつしかない  エアロガ・スペクタクルマシン団 ごらん

 さあ御覧 お目々がさめるよ  さあ御覧 じいちゃんばあちゃん若返る  さあ御覧 子供たちも大好きさ  エアロガ・スペクタクルマシン団  大興行の 始まりだ 「まあ」ミーナの顔がほころんだ。「パックたちが歌ってる」  森は深く、木々の背は見あげるほどに高い。ミーナのはずむよ うな足どりを追いかけてしばらく進むと、あるところでパッと視 かんせい

界が開け、ワタルは歓声をあげた。 う

 青い空を映す湖の上に、大がかりな浮きステージが組みあげら あざ

れている。骨組みのところどころに色鮮やかなものがひっかかっ ていて、よく見ると、それらはみんな身軽そうな大人や子供たち いしょう

だ。彼らはみんな色とりどりの衣装を身につけて、高い足場や柱

527

のてっぺんで、ぶらさがったり片足立ちをしたりしながら、とて すばや

はげ

も器用に素早く、せっせと組立作業に励んでいるのだった。その あいだじゅう、見事なハーモニーで歌っている。すでにそれだけ おもしろ

み

で、面白いショウを観ているようだった。 「ワタル、見て。あれがわたしの乗っていたブランコなの！」 とが

 ミーナの指さす先に、細い針金を組み合わせて造られた、尖っ た三日月みたいな形のブランコがあった。ステージのなかでも、 ひときわ高いところにぶらさがっている。 「いやぁ、こりゃあスゴイ眺めだ！」 うな

ふ

ぬ

 キ・キーマの唸るような大声が、湖面を吹き抜ける風に乗って 届いたのだろうか。ミーナのブランコのそばで作業をしていた真っ ふ

赤な衣装の小さなヒトが、ワタルたちの方に頭を振り向けた。そ さけ

して叫んだ。 「あ、ミーナだ！」  ミーナも手を振り返す。「パック！」 「おーい、ミーナが帰ってきたぜ！」  赤い衣装の小さなヒトは、よく通る少年の声でそう叫びながら、 するすると足場を伝って降りてきた。作業をしていたほかのヒト たちも手を止めて、みんながミーナとワタルたちの方を見ている。 歌がやんで、かわりに、ミーナ！ ミーナお帰り、どこへ行って たず

たんだよ、心配したよ！ と、口々に呼んだり叫んだり尋ねたり こはん

か

する声が、入り乱れて飛んでくる。ミーナが湖畔に向けて駆け出 かんげい

あらし

した。ワタルたちもそれに続き、三人は温かな歓迎の嵐に包み込 まれた。 「勝手に飛び出したりして、本当に本当にごめんなさい」

528

なみだ

うちわ

 ミーナはうっすらと目に涙を浮かべながら頭をさげた。団扇み な

たいな大きな手が、その頭をくりくりと撫でる。 「書き置きは読んだが、事情はわからないし、みんな心配してい たんだ。無事でよかった」  エアロガ・エレオノラ・スペクタクルマシン団の団長ブブホは、 キ・キーマよりもさらにひとまわりサイズが上の大男だった。彼 うつしよ

の顔は、ワタルの目には現世のブタさんによく似て見えたけれど、 いげん

威厳に満ちたその顔が笑うと、笑いかけられた側は、何とも言え とし

ない安心感に包まれる。歳は、現世の人間で言うならば、だいた きた

い五十歳くらいの感じだ。でも、鍛えあげられた身体には、たる んでいるところなど一センチだって見あたらない。  団長のそばには、ミーナにパックと呼びかけられた少年が、ちょ こんと座っていた。ワタルたちよりもまだ幼くて、せいぜい小学 かみ

校の一年生ぐらいの歳じゃないか。燃えるように真っ赤な髪に、 顔じゅうはソバカスだらけ。アンカ族の子かと思ったら、よく見 きびん

ひとみ

かがや

ると長い灰色のしっぽがついている。機敏そうな瞳を輝かせ、ミー ナと団長の顔を見比べているあいだじゅう、そのしっぽの先もひ よいひょいと動いていた。 わざ

「ミーナがいないあいだに、オレ、一人でいろんな技のケイコを さび

がまん

してたんだよ。寂しかったけど、我慢してケイコしてたんだよ」  団長とミーナの再会の喜びが一段落したと見るや、パックが割 り込んできた。 「三回転ひねりだってできたんだ！ 一度だけだけど、確かにで きたんだ。でも、団長がオレにはまだ早いって」  口を尖らせるパックの頭を、今度はミーナがくりくりしてやっ う

ま

た。「でもパック、すごく歌が上手くなったのね。遠くからでも、

529

かるわざし

すぐにあんたの声だってわかったわ。パックは軽業師だけじゃな くて、歌手にもなれるかもしれないね」 「そうかい？」パックは飛びあがった。「そんならオレ、ステー ジでも歌う！」  スペクタクルマシン団の団員たちは、湖畔に大小のテントを張っ ていた。一同はブブホ団長のテントにいて、丸くなって座ってい は

たのだが、パックはみんなのあいだをぴょんぴょんと跳ね回り、 ブブホ団長に用を言いつけられて、しぶしぶ外に出ていった。 「やれやれ、やっとこれで静かに話せる」団長は言って、ワタル とキ・キーマの顔を見た。 「ミーナがお世話になったそうで、かたじけない。ありがとうご ざいました」  ワタルは首を振り、助けられたのは僕の方ですと前置きして、 これまでのいきさつを話した。話が終わると、ブブホ団長は、も やさ

う一度優しく、ミーナの頭を撫でた。 つ

「そうだったのか……おまえが両親のことで、そこまで思い詰め ていたとは」 「そうじゃないんです、団長。わたしには、あの男の子たちの話 ち

え

を疑ってみるだけの知恵がなかったの」 「それでおまえは、これから先も、この〝旅人〟の方に同行した いというんだね？」  ミーナは座り直した。「はい」 こ

 ブブホ団長は小さな目を凝らすようにして、じっとワタルの瞳 をのぞきこんだ。「旅の人よ、あなたは、ミーナがあなたについ てゆくことを許してくださるかね？」 「もちろんです」ワタルは強くうなずいた。

530

え

「それならば、何の問題もない」ブブホ団長は大きな笑みを浮か と

べた。「しかし、せっかくだから今夜はここに泊まって、我らの ショウのリハーサルを観ておいでなさい。本興行は明日からだが、 今夜のリハーサルは、本番そのままに通して演じます。あなたた ちがお客さまだ」 「わあ、ステキ。ワタルもキ・キーマも、ぜひそうしてよ」ミー ナは、さっきのパックも顔負けというくらいに跳ね回って喜んだ。 「団長、わたしもちょっぴりステージのお手伝いをしてもいいで すか？」 どうくつ

「ミーナの軽業なら、あの洞窟でも見せてもらったけど」と、ワ けいこ

タルは笑った。「もしもまだお稽古に間にあうなら、ステージも 観てみたいなぁ」 「うん、オレも」キ・キーマもうなずく。 「それじゃ、ブランコ乗りの連中と打ち合わせをしておいで」  ブブホ団長は、ミーナを送り出しておいて、ワタルとキ・キー マを空いたテントに案内してくれた。ワタルたちがそこに落ち着 ろうば

かお

くと、やがて一人の老婆が、香り高いお茶を持って、テントのな かに入ってきた。 き

「おお、ババか。これは気が利くな」 すす

 ブブホ団長は喜んで老婆を招き入れ、ワタルたちにお茶を勧め た。 つか

「身体の疲れをとるお茶です。さあどうぞ」 やわ

 ババと呼ばれる老婆はとても小さくて、柔らかな紙をくちゃく ちゃに丸めたみたいに、顔じゅうがしわだらけだった。アンカ族 の顔だったが、少しばかりカエルにも似ていた。 「このババは、旅の人のお顔を見に参りましたのじゃ」

531

 老婆は言って、ワタルが照れくさくなるくらい、しげしげと見 き

つめた。それから、出し抜けに訊いた。「ラウ導師さまはお元気 かね？」 「え？ はい。おばあさんは、導師さまをご存じなのですか？」 かみなり

まはう

「この八百年ほど存じていますじゃ。あの方は、昔は雷の魔法が 下手くそじゃったけれど、今もそうですかな？」  ワタルは笑った。「それはわかりません」 めがみ

 ババはひょうひょうと続けた。「あなたさまは、女神さまに会 いにおいでになった。それでも、もしも会えなんだときには、ど うなさるおつもりじゃ？」 「それは──」ワタルはキ・キーマの顔を見た。彼も困っている。 「きっとお会いするつもりなので、会えなかったときのことは考 えていません」  それが正直な答だった。ババはあっさり「ふうん」と言った。 「そんならば、ババにはもう、あなたにお尋ねすることはないで すじゃ」  さっさとテントをめくって出ていってしまった。ワタルが目を くしょう

ぱちくりさせていると、ブブホ団長が苦笑した。 「すみませんな。なにしろ年寄りなので」 ていちょう

 ブブホ団長は丁重に言って、あらためてワタルに向き直った。 「〝旅人〟の道は、それでなくても厳しいものと聞いております。 すうき

ミーナはあのとおり、数奇な運命を背負う子供です。あれを連れ ていけば、さらにその厳しさを増すような出来事がついてくるか およ

もしれません。あの子から、〝シグドラ〟のことはお聞き及びで しょう？」 「はい、聞きました」

532

「それでもよろしいのか？」 だいじょうぶ

いっしょ

「僕は大丈夫です」ワタルはきっぱりとうなずいた。「僕と一緒 めぐ

に旅することで、ミーナが両親に巡り合えるかどうかはわからな いけれど、少なくとも助け合って進むことができますから」 「それならば、私にも、もう申しあげることはない」ブブホ団長 は優しく笑った。「リハーサルが始まるまで、どうぞくつろいで お過ごしください。団のメンバーたちも、お二人に会いたがって おりますし、自由に見学をなすってください」  お言葉に甘えて、ワタルとキ・キーマはあちらこちらを見学し、 団員たちとおしゃべりをした。団員は総勢五十人であること、団 のミドルネームの「エレオノラ」は、ブブホ団長の亡くなった奥 おく

さんの名前であること、この湖畔での興行が予定より遅れている のは、やはりあの山火事のせいであること。 「すごい熱風がこっち側にも吹きおろしてきて、湖が波立って、 ふね

こ

セットを組むどころか、舟を漕ぎ出すこともできなかったんだ」  キ・キーマが、水人族の団員と意気投合してしまい、彼の持ち やり

えんぶ

芸である、槍を使ったダイナミックな演舞を習うことになった。 おど

彼らが大騒ぎをしながら槍にみたてた木刀を振り回して踊ってい るあいだに、ワタルはさらに団員たちのあいだを回り、湖畔や山 の森のなかのどこかで、黒衣のチビッこい魔導士を見かけなかっ たかと尋ねた。誰も見かけてないという。そんなすごい魔導士な ら、会いたかったと、みんなしきりと残念がった。 ひ

 陽が暮れて星が輝き始めると、いよいよリハーサルが始まった。 前口上があって、ステージがライトアップされ、音楽が始まり、 森で耳にしたあの歌を歌いながら踊り子たちが登場すると、ワタ

533

み

もよお

ルはもう魅せられたようになってしまい、たった二人のために催 みもよおぜいたく

される贅沢なショウを、心の底から楽しんだ。 かんばんむすめ

 稽古不足のはずのミーナは、しかし、立派にショウの看板娘の はな

まと

役割を果たしていた。華やかな衣装を纏って、目が回りそうなほ たかみ

くう

どの高処にあるブランコからブランコへ、軽やかに飛び移り、空 いっしゅん

み

で身をひねり、一瞬観るものをヒヤリとさせてから、鮮やかに見 え

得を切る。パックと組んで、宙返りしながら、ブランコからブラ あせ

ンコへと飛び移ってゆく芸のときには、ワタルは本当に手に汗を にぎ

握り、二人がスポットライトのなかに並んで着地をしたときには、 はくしゅ

手が痛くなるくらいに拍手した。 ま

 ショウのフィナーレに、花を撒きながら歌うミーナの上気した 顔を見て、ふと思った。ミーナは旅なんかせずに、ずっとここに いた方が幸せなはずなのに。 つ

 それでも探さずにはいられない、突きとめずにはいられない過 なぞ

去の謎が、彼女を動かすのだ。僕が、ミーナの立場だったらどう だろうと、ワタルは考えた。  ショウがはねて、興奮もおさまらないままテントで横になると ねむ

きまで、その自問自答は続いていた。それでもやがて安らかな眠 おとず

りが訪れて、星に見守られ、ワタルは眠った。  そのころ、ブブホ団長のテントのそばに、ババがひとりでぽつ りと立っていた。見回りを終えて自分のテントに戻ってきた団長 は、ババの姿を認めて声をかけた。 「ババ、どうしたね？」  ババは、それでなくても丸まった小さな背中を、さらに縮める あお

ようにして、上目づかいに、じっと夜空を仰いでいた。そしてすっ うで

と腕をあげると、空の一点を指さして尋ねた。

534

「団長、あれが見えなさるか」 しっこく

なめ

 ブブホ団長も夜空を仰いだ。漆黒の滑らかな織物の上に、宝玉 かけら

なが

の欠片を撒きちらしたような美しい眺めだ。 「どの星だね、ババ」 あおむ

 するとババは、まだ仰向いたまま言った。「そうか、団長には まだ見えぬかね」  団長はババに並んで立った。 まがぼし

「じゃが、あれは確かに北の凶星じゃ」ババはきっぱり言った。 「ババには見ゆる。目の迷いではないですじゃ」  ババはほんの少し、悲しそうだった。 しら

「あの〝旅人〟は、半身じゃ。凶星が現れて、それを報せており ますじゃ」 つら

「そうか」と、ブブホ団長は応じた。「ミーナが幸いことになら ないといいが」 だま

 ババは黙って、答えなかった。ただ、しんとしたまなざしで、 北の夜空を仰ぐはかりで。

535

15 キャンプ

ぬ

 リリスへ向かう道では、山道を通ったり森を抜けるだけではな とうげ

こ

けいりゅう

く、峠を越えたり、渓流沿いに岩場を歩いたりするところもあっ ヴィジョン

た。変化に富んだ〝幻界〟の自然は、美しく、厳しく、少しばか うつしよ

り意地悪だと、ワタルは思った。現世の自然と同じように。  長い道中で、小さな村など宿屋がないときもあり、そんなとき おこ

ワタルたちはキャンプを張った。テントの設営、火の熾しかた、 ぬま

つ

川や沼で小魚を釣ること、山や森から食べられる木の実やキノコ を採ってくること。それらすべてを、ワタルはキ・キーマから教 いっしょ

わった。ミーナも一緒に習うことが多かったけれど、キャンプの た

焚き火でつくる料理などは、最初からキ・キーマよりもミーナの 方が上手だった。  キ・キーマは、南大陸中をあちらへこちらへと移動し、物資を 運ぶダルババ屋が本業だから、さまざまな土地を歩き、多くの町 おとず

や村を知っている。だが、その彼も、まだリリスは訪れたことが ないそうだ。 「リリスには独自に発達した運送ギルドがあるから、ダルババ屋 うす

とはつながりが薄いんだ。工芸の材料になる宝石の原石を運び入 こん

れるにも、できあがった細工物を運び出すにも、専用の荷車や梱 ぽう

い

ちが

包用の箱や布が要るし、手順も違うからな。近くを通り過ぎるこ せわ

ひま

とがあっても、なかなか忙しなくて、ゆっくり訪ねる暇がなかっ たんだ」 うれ

 楽しみだなぁと、嬉しそうに言う。

536

かわ

 そう、リリスは工芸品の町なのである。金属や石、木や革など かざ

を材料として、そこで生産されているものは、身を飾るアクセサ そうしょく

たぐい

リーから食器、建物の装飾に使われる部品の類まで、多種多様だ。 こ

上品な美しさと、凝りに凝ったデザインを形にする確かな技術。 まほう

魔法ではなく、すべてヒトの手になるものだ。 かざぶね

 リリスの工芸品の良質であることは、風船商人たちを通して北 わた

か

大陸にも知れ渡っており、彼の地では、特に首飾りや指輪のよう な女性の装身具の場合は、こちらの十倍ぐらいの値段で取引され ているという。ここ数年、北大陸のお金持ちがこぞってほしがっ ているのは、トニ・ファンロンという若い職人がデザインした 〝ヘブン〟というシリーズのアクセサリーだという。 「あっちじゃ、ちょっとしたブームになっているらしいんだ。俺 も知り合いの風船商人に、リリスの近くへ行く機会があったら、 こうぼう

たの

ファンロンの工房をのぞいてきてくれって頼まれてる。なにしろ 独りでやってる手仕事だから、一年に、せいぜい十個ぐらいしか 作れないらしいんだな。よっぽど運が良くなけりゃ、手に入らな いんだ」 「予約しておくとか、できないの？」 ゆ

たず

 荷台で揺られながら、ミーナが尋ねた。やっぱり女の子だ、ア しんしん

クセサリーの話となると、興味津々の様子である。 「予約はできない。このファンロンって職人は、けっこう気難し いヤツらしくてさ」  直接会って話をして、気に入ったお客にしか、作品を売らない のだという。 いや

「どれだけ多くの金を積んでも、この客は嫌だと思ったら、まるっ きり無視しちまうんだって。そのかわり、お客と気があった場合

537

には、かかった材料費と同じくらいの値段で売っちまうんだそう た

だ

だよ。無料でやっちまうことだって、あるらしい」 「変わったヒトね」  二人のやりとりを聞きながら、ワタルは考えていた。リリスが そうした美しい工芸品を作る町ならば、素材としていろいろな金 属や宝石を使っていることだろう。ワタルが見つけださねばなら ない二番目の宝玉か、あるいはそれに関する情報を、ひょっとし たらつかめるかもしれない。ミツルが一足先にリリスへ向かって いるらしいという事実も、この推測にとってプラスの材料になる。  ミツルもやはり、ラウ導師から宝玉を探せと言われたのだろう つえ

か。でもあいつが持っている黒い杖には、すでに、マキーバの山 ひ

火事を消し止めるほどの力を秘めた大きな宝玉がくっついている ── きょり

 リリスの町まであと一日ぐらいの距離まで近づいたところで、 み

ま

かいどう

ワタルたちはちょっとしたアクシデントに見舞われた。街道で、 ダルババ二頭だての大きな荷重が横転事故を起こし、積み荷の岩 かたまり

塩を、大量にばらまいてしまったのだ。まず岩塩の塊を手作業で 取り除き、それから横転した荷重を起こして動かせるようになる まで、どのくらいかかるか見当もつかない、という。そのあいだ、 道はずっと通行止めである。  この街道の先にはササヤ国とボグ国の国境があり、関所が設け られている。南大陸の連合政府は、各国の独立性を重んじてはい るものの、政情が安定していることもあり、四つの国を行き来す ふ

る際に、さほど複雑な手続きを踏まないで済むように、制度をつ また

くった。だからこそ、キ・キーマたちが南大陸じゅうを股にかけ ることができるわけである。関所では一応、通過するヒトの人数

538

かんさつ

いっち

かくにん

と、積み荷の種類が鑑札と一致するかどうかを確認するだけだと いう。  どのみち通れないのだから、ブラブラ時間をつぶしているより あおあせ

も、街道の復旧作業を手伝った方がいいと、みんなで大汗をかい て岩塩を運んでいるところへ、関所の役人が二人飛んできて、街 わき

す

道脇の茶屋へ机を据え、作業の合間にここで関所の通過手続きを 受け付けると発表した。そうしておけば、街道が通れるようになっ じゅうたい

たとたんに、ここで渋滞させられていたヒトびとが関所に殺到し さ

て、また別の混乱を引き起こすという事態も避けることができる たが

し、お互いに時間の節約になるだろうというわけだ。たいそうも のわかりの良い提案で、ワタルはビックリした。 「現世のお役人は、絶対にこんな親切なことをしてくれないもの」  二人の関所役人は、文字どおり本当に〝飛んで〟山を越えてき へだ

た。二人ともカルラ族なのである。小さな机を隔てて彼らと向き 合ったとき、ワタルは、まだ幻界のことをよく知らなかったころ、 ぐうぜん

あや

えじき

偶然迷い込んでしまって、危うくねじオオカミ、の餌食になりか あざ

けた時のことを、鮮やかに思い出した。 「キミ、キミ、私の顔に何かついておるのかね？」 はなめがね

 鼻眼鏡をかけたカルラ族の関所役人が、ワタルに尋ねた。どう ぶしつけ

やらワタルは、不躾なくらいじいっと相手の顔を見つめていたら しい。 「あ、スミマセン。以前に、あなたと同じ種族のヒトに、困って いるところを助けてもらったのを思い出していたんです」 「ほう！ それはそれは」 「ほう！ なんとなんと」 つばさ

 二人の関所役人は、翼をバタバタさせて喜んだ。

539

ほうし

「公共への奉仕は、我らが常に心して目指すところだ。して、そ れはどんな困ったことだったのかね？」 おそ

「ああ、いえ、あの、ねじオオカミに襲われて……」 「おお！」役人たちは感動の声をあげた。 「ねじオオカミ！」 「久しく食していないな！」 「あの味が懐かしい！」 さと

「我らもたまには郷へ帰るか！」 たみ

「いやいやしかし、民のために働くが我らの務め！」 「なれば、せめて干しねじオオカミ肉を取り寄せようではない か！」 はな

 手続きを終えて机の前を離れると、キ・キーマが胸のあたりを うめ

押さえて「げっ」と呻いた。 くさ

「カルラ族は、ねじオオカミの肉の臭いところが大好きなんだと うわさ

いう噂は聞いたことがあるが、本当だったんだな」 さばく

「カルラ族の鳥人たちの郷は、ねじオオカミの砂漠のそばにある んだね？」 けいこく

がけ

「渓谷の上の崖沿いの、いちばん切り立った土地にあるそうだよ。 ただ、あいつらみたいに郷を出て、役人になるカルラ族も多いん だ。鳥人は頭がいいからな」 「ねえ、キ・キーマ」と、ワタルは尋ねた。「今ちょっと思いつ き

おこ

いちゃったから訊くんだけど、怒らないでね」 「何だい？」 「カルラ族とかの鳥人たちが、もしもキ・キーマたちと同じ運送 てごわ

がたき

業を始めたら、手強い商売敵になると思ったことない？」 あご

 キ・キーマは顎をのけぞらせて大笑いをした。「その心配はな

540

い。まるっきりない。だってあいつらは力がないからさ。俺らみ たいに重い荷物を運ぶことなんて、絶対無理だ」 だ

め

 翼があるだけでは駄目だということか。 え

「ヒトにはそれぞれ取り柄があって、持ち場があるってことだな」 得意そうに、キ・キーマは言った。「そうだな、もしも俺たちが 商売あがったりになって困るとしたら──」  顎に手をあて、ちょっともったいぶった様子で考え込んだ。 「ダルババよりも足が速くて、ダルババみたいに世話をしてやる 必要がなくて、一度行き先を教えてやったら、乗り手がいなくて も勝手にそこへ行くことができるほど頭のいい生きものが現れた ときだろうな」  そう言って、ニッと笑った。 だいじょうぶ

やさ

めがみ

「でも大丈夫だ。お優しい女神さまは、俺たち水人族が日干しに ならずに済むように計らってくださってる。だから、そんな便利 な生きものはお創りにならなかったし、これからもそうだろうよ」  そうだねと、うなずいてから、ふとあることが頭をかすめたの だけれど、ワタルは、それは口に出さずにしまっておいた。  ──でもね、キ・キーマ。現世には、今あなたが言ったのとよ く似た働きをするものがいるよ。それは生きものじゃなくて、 〝機械〟というものだけれど。  いや、より正確には機械だけではなくて、〝動力〟というもの とペアで考えなければいけない。いずれにしろ、それらは確かに 現世には存在している。  ──もし、機械というものが、この幻界で発明されたら？ あ るいは現世から持ち込まれたら？ 想像してみると、なぜかあん だま

まり良い気分にならなかったので、ワタルは黙って岩塩運びの作

541

もど

業に戻った。  夕暮れどきになると、街道の茶屋の周りには、ちょっとしたキャ となり

ンプ村が出現した。ワタルたちもテントを張って、お隣さんと日 用品を貸し借りしたり、一緒に火を熾して食事をつくったりして にぎやかに過ごした。 ひ

とばり

 陽が暮れて夜の帳が降り、そろそろテントのなかで横になろう かというころになって、このにわかづくりのキャンプ村に、街道 たいまつ

あか

のマキーバ側の方から山道を抜けて、松明の灯りがいくつか、チ ラチラと近づいてきた。 「あれは──」あくびをしていたミーナが、向こうをすかすよう き

し

に見て、目を見開いた。「シュテンゲル騎士団だわ」 なら

 キャンプ村のヒトびとは、一様に彼女に倣って、夜のなかで首 をのばし、背のびをして、近づいてくる灯りを見つめた。やがて、 かっちゅう

かた

ほお

松明の灯りだけでなく、それを受けて銀色の甲冑の肩や頬あての 部分が光っているのも見えてきた。 「へえ、こんなところに何の用があるんかね」ワタルの隣で行商 つぶや

人が呟いた。「しかも、隊長さまじきじきのおでましと来たもん だ」 「なんと！ ロンメル隊長がおいでだと？」関所役人が茶屋から あいさつ

出てきて、また翼を、バサバサさせた。「それではご挨拶せね ば！」 「挨拶なら、茶屋の主人を呼んできた方がいいんじゃないの」一 ゆうちょう

ふところで

人の行商人が、悠長に懐手をして言った。「あんたら、夜はトリ 目で目が見えにくいんだからさ」 「なるほど！ そのとおりだった！」  騎士たちは五人いた。一人を先頭に、そのあとに四人が続いて

542

かぶと

いる。兜のせいで顔は判別できないけれど、彼らの乗っているダ もんしょう

えが

ルババの額に、五弁の花びらを模した紋章が描かれた布が垂らし てある。ガサラにいるときに、トローンが教えてくれた。あれは 確かにシュテンゲル騎士団の印だ。  茶屋の主人が転がるように走って出てきて、キャンプ村からは まだだいぶ距離のあるところで、騎士たちを出迎えた。ちょっと か

言葉を交わしただけで、先頭の騎士と、そのすぐ後ろの左側につ いていた騎士がダルババから降りて、主人と一緒にこちらに近づ いてきた。 「あの先頭のヒトが、ロンメル隊長？」  ワタルは行商人に尋ねた。 「ああ、そうだよ」 「顔が見えないのに、なんでわかるの？」 「兜の形が違うからさ。よく見てごらんよ、ドラゴンの頭の形に 似た兜だろ？ あれがロンメル家代々の武人の兜なんだよ」 お

じ

くわ

「小父さん、詳しいんですね」  行商人は鼻の穴をふくらませた。「俺は、今でこそしがない行 商人だけども、昔は星読みを目指して勉強していたんだ。ササヤ に留学したことだってあるんだぜ。星読みにとっちゃ、歴史も大 切な学問の科目だからな」  キャンプ村の焚き火の明かりが届く距離まで近づいてくる以前 ぬ

に、二人の騎士たちは兜を脱いだ。二人ともたいそう背が高く、 こがら

小柄な茶屋の主人よりも頭ふたつ分くらい抜きんでていた。 「我々は、シュテンゲル騎士団第一遊撃隊の者だ」  先頭の騎士が、朗々とよく通る声で名乗りをあげた。 こんせき

「私は隊長のロンメル、こちらは副長のヴァイス。今夕、グラン

543

デラ川渡航事務所に滞在中、ここでダルババ車の横転事故が起こ ひがい

じょうきょう

り、街道が通行止めになっているという報告を受け、被害の状況 みな

を調査するべくここまで参った。皆さん、復旧作業などのために つか

さ

疲れているところだと思うが、少々の時間を割いて、我らの聞き 取り調査にご協力を願いたい。すぐに調査のためのテントを設営 け

が

するが、怪我人がいるならば、今この場で申し出ていただきたい」 ていねい

 高圧的なもの言いではなく、丁寧な言い回しなのが、ワタルに は意外だった。 おどろ

 驚いているのはワタルだけではなく、例の行商人ひとりを除け せっしょく

ば、みんながドギマギしていた。シュテンゲル騎士団と接触する いっぱん

なんて、一般のヒトたちにとってはめったにないことなのだ。  それでも一同は、騎士たちの指示に従い、快く彼らに協力した。 よろい

調査にとりかかると、騎士たちは兜だけではなく鎧も脱いで、ぐっ ものごし

と動きやすく楽そうな感じになったけれど、物腰と口調は折り目 正しいままだ。  ワタルたちのテントは、騎士団が設営した調査用のテントのす ぐそばにあったのだが、どういうわけか、なかなか呼ばれなかっ た。先に調査を済ませたヒトたちは、たいしたことを訊かれたわ あんど

けじゃないと言いながら、それでも少しばかり安堵した顔で、自 分たちのテントに戻ってゆく。 「たかがダルババ車の横転事故ぐらいで、わざわざロンメル隊長 が来るなんて、な」  キ・キーマはさかんに不思議がりながらも、心の半分ぐらいは、 騎士たちが乗ってきたダルババの方に飛んでいるようだった。さ すがにいい毛並みだ、どのくらい走るのだろう、岩場にも強いの ひづめ

か、蹄を調べてみたいもんだなどと、ヨダレを垂らしそうな顔を

544

する。 ふ

 待たされているあいだに夜も更けて、ミーナがワタルにもたれ こ

たまま、こっくりこっくりと船を漕ぎだした。それが本当に気持 いねむ

ち良さそうな居眠りで、ついワタルもつられそうになった。そこ にいきなり、 「次は君たちだ」  ヴァイス副長が呼びにきた。ワタルは飛びあがりそうになった だけだが、ミーナは違った。座ったままの格好で、本当に飛んだ。 すごいジャンプ力で、副長が驚き、はっと身構えた。 「わ！ いけないアタシったら！ スミマセンごめんなさい！」 おお

 ミーナは真っ赤になって、手で顔を覆ってしまった。おかげで ワタルたち三人は、下を向いて懸命に笑いをかみ殺しながら、肩 ふる

を震わせている副長に先導される羽目になってしまった。  騎士団のテントはこぢんまりしたもので、折りたたみの木の机 があり、その後ろにロンメル隊長が、やはり折りたたみの小さな い

す

木の椅子に腰かけていた。隣には書記役なのだろう、五人のなか よこと

ちようぼ

ではいちばん小柄で若い騎士が座って、大きな横綴じの帳簿みた つづ

いなものを広げ、ペンを持っていた。綴りの上にはすでに、たく さんの文字が書き込まれていた。 「ヴァイスが笑っているようだが」  三人が指定された小さな椅子に座ると、ロンメル隊長は切り出 した。 ストーン・ハート

「君たちはどんな魔法を使ったのだね？ あれは〝石の心〟の異 あいそ

名を持つほど愛想のない男なのだが」 は

 ミーナがさらに赤くなった。でもその赤面は、単に恥ずかしい からだけではなさそうだった。

545

 それほどに、ロンメル隊長はハンサムだったのだ。くっきりと めじり

み

ねんれい

お

した目鼻立ち。目尻のしわさえ魅力的だ。年齢はたぶん、ルウ伯 じ

父さんと同じくらいだろう。 「ところで、君たちはハイランダーだね」 あお

うで

みのが

 隊長の蒼い目は、ワタルの腕のファイアドラゴンの腕輪を見逃 してはいなかった。 「ごく最近、ガサラの町で、幼い少年が不可解な連続殺人事件を 解決し、ハイランダーの仲間入りをしたという話を聞いた。君の ことだね？」 ま

す

 ワタルは隊長に真っ直ぐ向き合って、うなずいた。「はい、そ うです」 「そしてその少年は、現世からの〝旅人〟だという詰も聞いた。 それも本当かい？」 かく

 ロンメル隊長に対してなら、隠す必要もないだろう。ワタルは また「はい」と答えた。隊長の表情は変わらず、目尻のしわも動 かなかったけれど、脇に控えている書記役の騎士は、ちょっと息 の

ひょうし

を呑んだみたいにして顎を引いた。その拍子に、ペンの先からイ したた

ンクがぽつりと滴った。キ・キーマがあわててしまい──彼があ わてなければならない筋合いのことではないのだけど──長い舌 な

がぴゅっと飛び出して頭のてっぺんを舐めた。 「失礼しました」 「こりゃ失礼」  若い騎士とキ・キーマが同時に言い、騎士がぱあっと赤面した。 も

ミーナがクスクスと忍び笑いを漏らし、笑ってしまったことでさ らに赤くなり、若い騎士もモジモジし始め、やがてロンメル隊長 ふ

も吹き出した。

546

かたくる

「やれやれ。強行軍の山越え、堅苦しい聞き取り調査と、気を抜 く暇もなかった。おまけにこの時刻だ。皆、疲れているのだな」 お

そ

 現世の家にいたころも、あんまり夜遅くまで起きていると、か さ

えって目が冴えて、変にハイになることがあった。幻界でも、そ のへんは同じなのだろう。  これで、ぐっと座がくつろいだ感じになり、聞き取り調査はと しゅんかん

もく

んとんと進んだ。ワタルたちは、ダルババ車が横転した瞬間を目 げき

さわ

撃したわけではなかったけれど、その後の騒ぎはつぶさに知って いる。  怪我人がほとんど出なかったのは不幸中の幸いだと、ロンメル 隊長は言った。 ひんぱつ

「各地の街道筋で、このところ、ダルババ車の横転事故が頻発し ぼうがいこうい

ている。そのなかには、明らかに妨害行為によって発生したと見 しんちょう

られる事故もあるので、我々も慎重に調べているのだ」 か

 なるほど、だからこそ夜をついで駆けつけてきたのか。 「でも、隊長ご自身がおいでになるとは、みんな驚いてます」  キ・キーマの言葉に、ロンメル隊長はワタルの顔を見た。 「ちょうどいい機会だから、カッツの言っていた〝旅人〟に会っ てみたかったのだ。ガサラを発った日から数えると、ちょうどこ のあたりにさしかかっているだろうと思ったのでね」 「カッツさんが、僕のことを話していたんですか？」 「ああ。いろいろ言っていたよ。〝メソメソ泣きくさるくせに、 口は達者で小生意気なガキなんだよ〟とか」 ま

ね

 カッツの口調を真似して、隊長は言った。その目が笑っている。 ワタルも笑った。 「今の言い方、カッツさんにそっくりです」

547

「彼女とは長い付き合いだからな。まあ、長い敵対関係というこ ともできるが」 しらん

 そういえば、トローンが言っていた。〝棘蘭のカッツ〟は、昔 ロンメル隊長にフラれたことがあるって。だからシュテンゲル騎 士団のことを悪く言うのだと。 「ところで、もうひとつ尋ねたいことがある。君たちは、マキー バの町へ寄ったかね？」 「はい、寄りました」 そうぐう

「では、山火事に遭遇した？」 「いいえ。僕たちがマキーバに着いたときには、もう火は消えて いました」  ロンメル隊長の目が、わずかに光った。「旅の魔導士が山火事 を消し止めたという話を聞いたかね？」  ワタルはうなずいて、マキーバで聞いた話を再現し、説明した。 隊長は興味深そうに聞き入り、若い騎士は必死でペンを走らす。 かいりゅう

「海竜の力──水の大魔法か」隊長は呟いた。「その魔導士も少 年だった──」 「はい、そうです」 「彼も〝旅人〟だということはあるだろうか？」 「そうです。僕の友達です。僕よりも先にこっちに来ていました」 ひとみ

かげ

 なぜかしら、ロンメル隊長の瞳に、さっと影がさした。ワタル が〝旅人〟だと認めたときには、そんなことはなかったのに。 「君はその友人に会ったのかい？」 「いいえ。でも会いたいから、後を追いかけているんです。それ でリリスに」  隊長はゆっくりとうなずくと、手で顎をさすった。わずかだけ

548

まゆ

れど、眉をひそめている。 「君は──いや、ラウ導師は──」言いかけて、隊長は隣の若い 部下の方をちょっと見た。「いや、それはいいだろう。事件には かか

関わりのないことだ。長々と、すまなかったね」  夜が明けたら横転した荷車を検分し、隊長たちはマキーバに向 いそが

かうという。山火事の原因を調査するのだ。忙しいですねとワタ ルが言うと、隊長は首を振った。 ぞうしょく

きょうぼうか

とうばつ

「このところ我々は、増殖し凶暴化しているモンスターの討伐に い

じ

そうさ

大わらわで、治安維持や捜査活動などは、ハイランダーに任せき りだった。これではいけないからね」 「そういえば、パックたちも話してたわ」と、ミーナが言った。 「興行先の町で、ひとつやふたつは必ず、モンスターに襲われて 怪我人が出たという話が耳に飛び込んできたって。そんなこと、 今までにはなかったって」 きゅう

「俺たちもそうだよ」キ・キーマがうなずく。「ダルババ屋で休 けい

憩すると、たいていそういう噂話を耳にしたな。あのおとなしい 山ネズミが群をなしてウダイを襲ったとかさ。ガサラの町にいた ときだって、はぐれねじオオカミ退治で大変な思いをしたし」 「そう、あのときは、我々だけでは手が回りきらずに、ハイラン くしょう

ダーに協力を求めたのだ」ロンメル隊長は苦笑した。「カッツに はずいぶんと嫌味を言われたが、そうか、君もあの討伐部隊にい たのだね。すっかり世話になってしまった。おかげで助かったよ」  ワタルたちは自分のテントに戻り、キ・キーマとミーナは早々 つ

に眠ってしまったが、ワタルは寝付かれなかった。さっきのロン メル隊長の表情──ミツルもまた〝旅人〟だと聞いたときの目の かげ

翳りが、気になって仕方なかったのだ。彼がわざわざ山を越えて

549

ここまで来た本当の理由が、その翳りのなかに隠されているよう な感じがした。考えすぎかもしれないけれど、どうにもそんな気 がした。 せま

 狭いテントのなかでは寝返りもままならず、ワタルはため息を すべ

ついて起きだし、そっとテントの外に滑り出た。グズグズしてい ると夜が明けてしまうけれど、じっとしていても眠れない。星で も見れば、心が安まるかも。  しかし、外には先客がいた。ほかでもないロンメル隊長が、に たたず

わかキャンプ村のはずれに、ぽつりと一人で佇んでいたのだ。こ ちらに横顔を見せ、両腕を胸のあたりで組んで、じっと北の夜空 を見あげていた。  さすがに武人で、彼はすぐにワタルの気配に気がついた。 「眠れないのかね？」 「はい。どうしてかわからないけど」 「大きな事故を見たせいだよ。星々の光で目を洗うといい」  隊長は一人で何をしていたのだ？ あの物思わし気な横顔。何 を考えていたのだろう。  上手く尋ねる言葉が出てこなかった。うっかり訊いてはいけな いような気もした。なにしろ隊長は、南大陸の治安を守る重責を にな

担う人なのだ。一人でいるとき、難しい顔になってしまうのも無 理はない。でも── あお

 しばらく並んで夜空を仰いで、二人はそれぞれのテントに戻っ た。ワタルの胸には、ごく小さくて、何でできているかはっきり しないしこりが残った。

550

16 リリス

おか

おとず

 丘の上からリリスの町を一望したとき、ワタルは、この町を訪 れるのは初めてじゃない、以前にも来たことがある──と感じた。 しきさい

しょうろう

景色に見覚えがあるのだ。家々の色彩豊かな三角屋根も、鐘楼の じ

ある聖堂のような建物も、レンガ敷きの道も、木々の緑も、ゆっ ころも

たりとした衣に似た服を着て、そぞろ歩くヒトびとの明るい表情 も。 まほう

 ──そうだ、『サーガⅡ』に出てきた魔法学校の町ワイズダム にそっくりなんだ。 すてき

「素敵なところね」ミーナもうっとりしている。「こんな町だか らこそ、美しい工芸品を作り出せるのね、きっと」  三人はまず、リリスの町のブランチに足を運んだ。ひょっとし たいざい

う

て長く滞在することになれば、ここで仕事を請け負うことになる。 おどろ

「へえ、あんたたちがハイランダーなのかい？ こりゃ驚きだ。 長生きはするもんだ」 でむか

 ワタルたちを出迎えたブランチ長は、頭のてっぺんがつるりと は

禿げたアンカ族の小父さんで、パムと名乗った。 「本当は、名前はタツで、名字はパムスカロフマイエルエトスト めんどう

ラフスキーというんだが、面倒くさいんでね、みんなにパムと呼 んでもらってるんだ」 ふく

 ここには四人のハイランダーが登録しているが、所長も含めて 全員がアンカ族だった。そもそも、リリスの町の住民の八割ほど がアンカ族で、他種族はごく少ないのだという。

551

「工芸は、アンカ族の仕事なんだよ。ホラ、手や指の形が、そう じょう

いう細かい作業に向いた格好をしてるからな。それに、お嬢さん みたいなネ族や、そっちのでっかいあんちゃんみたいな水人族は、 ろ

ガラスや宝玉の細工のために一日じゅう炉のそばにいたりすると、 暑さで参っちまうし」 さか

みやげばなし

 パム所長は気さくで話好きで、盛んに道中の土産話をねだった。 かいどう

所長は、マキーバの山火事のことも、街道のダルババ車横転事故 のことも、まったくの初耳だと、目をまん丸にして驚いている。 のんき

おおちが

呑気なんだなぁとワタルは思った。カッツさんとは大違いだ。 「リリスはまあ平和なもんで、ここんところ事件らしい事件とい えは、森へ木の実を採りにいった子供が迷子になったことと、役 こうぼう

ばくはつ

場のすぐ近くの工房で爆発事故があったことぐらいかな」  バクハツは大事件じゃないか？ け

が

「花火をつくっていて失敗したんだとさ。怪我人も出なかったし、 夜のことだったんで、きれいだったよ」  ブランチには空いている部屋がいくつもあるので、宿がわりに みまわ

使っていい。滞在しているあいだは、町中の見廻りなどの業務を いっしょ

一緒にやってもらうし、当直もある。パム所長の説明を聞いてい くろかみ

るところに、長い黒髪の美少女がお茶を運んできた。 むすめ

「あ、これはわしの娘でね、エルザというんだ。ここの雑用を手 伝わせてる」 「こんにちは。遠くからようこそいらっしゃいました」 ほほえ

 頬笑むと、右のほっぺたにエクボができた。十五、六歳という うつしよ

ちゅうか

ところだろう。現世の女の子なら、女子高生だ。高級な中華料理 うすで

うつわ

のお店で、花びらのように薄手で真っ白な器が出てくることがあ はだ

るけれど、エルザのほっぺたや額の肌は、それを連想させた。あ

552

かんぺき

まりにも完璧にキレイすぎて、ウソみたいだ。  そして、ワタルはふと大松香織を思い出した。顔立ちは全然違 ようせい

きゃしゃ

かれん

ふ ん い き

う。でも、妖精みたいな華奢で可憐な雰囲気がよく似ているのだ。 いっそこの世のものではないような、あえかな美しさ。  ──香織さんはどうしてるたろう？ ひじ

 ぼうっとしていると、ミーナがコホンと言って、肘でワタルを つついた。 き

「ミツルのこと、訊いてみなくていいの？」  そうだった。ワタルは、べりっと音がするんじゃないかと思う はど力を入れて、エルザの顔の上から視線をひっぱがした。 「ワタル君ぐらいの歳の魔導士？ さあ」  パム所長は丸い頭をかしげた。 「ここでは、ガサラなんかとは違って、出入りするヒトたちを大 門でチェックしてはいないからな。どんな客人が来ているか、す ぐにはわからないよ。いくつか宿に問い合わせてみよう」 「そうですか……」簡単に会えるとは思っていなかったけれど、 やっぱりガックリだ。 「それでも、子供の魔導士となれば目立つだろうし、その子がま だリリスに滞在しているならば、見つけるにはそう手間がかかる とも思えんね。まあ、そこはわしらもハイランダーだからさ」 な

 定時見廻りの時刻まではまだ間があるから、町に慣れるために すす

も、少し散歩してきたらどうかと、所長は勧めた。すると、キ・ からだ

キーマが大きな身体を乗り出した。 「それなら所長、トニ・ファンロンの工房へ行ってみたいんです が、場所を教えてもらえますか？」 ひとみ

いんけん

かぎづめ

 とたんに、パム所長の木の実みたいな丸い瞳が、陰険な鉤爪の

553

形になった。「なに、ファンロン？」  他のハイランダーたちのところにお茶を運んでいたエルザが、 すべ

ゆか

手を滑らせてカップを床に落とした。 「ごめんなさい」 すばや

ぬす

 あわてて拾いあげるのを、所長は素早く盗むように横目で見た。 キ・キーマの方に向き直ったときには、また元のような愛想の良 まなこ

もど

いくりくり眼に戻っていた。 「あの男の工房なら、市場の北のはずれにある。すぐわかるよ」  リリスの町は、おおまかに言ってリンゴのような形をしていて、 しん

こうてい

その芯にあたる部分にブランチや役場、病院や学校、町長の公邸 などが集まっている。さらに、芯から皮の方に向かって、東西南 北に四本の大きな通りが走っている。それぞれの通りには名前が ついており、市場は北の〝レンガ職人通り〟の大部分を占めて、 細長く広がっていた。つまりは、スケールの大きい商店街である。 また、この北の大通りのどんづまり、リンゴのへたにあたる部分 に、大鐘楼のある聖堂が立っている。 せんとう

ひ

かげ

 見あげるような聖堂の尖塔が、午後の陽を受けて町の上に影を 落とす。ファンロンの小さな工房は、その影のなかにすっぽりと かたむ

包み込まれてしまうような裏町の一角にあった。傾きかけたよう な家々がみっしりと立ち並ぶところ。特に看板が出ているわけで かざ

ひわれ

もなく、作品が飾られているわけでもない。干割れしたレンガ造 いろあ

りの二階家の一階。風雨にさらされて色褪せ、木目も薄れた一枚 板のドア。 か

 行き交う町のヒトたちはみんな親切で、ファンロンの工房と問 えはすぐに道順を教えてくれた。それどころか、あのへんは少し

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ゴミゴミしているから迷うかもしれない、連れていってあげよう と、わざわざ案内してくれるヒトまでいた。でも、さあここだよ とこのドアを示されたときには、にわかには信じられない気がし ていこく

ほうしょく

た。北の統一帝国でも人気を呼んでいる宝飾品の作者の工房が、 なんでこんなに殺風景で愛想がないの？ 「とりあえず、ノックしてみようぜ」 こぶし

ぬ

 キ・キーマがごつい拳を固めて近づいた。そのとき、出し抜け にドアが外に向かってパッと開いて、まともに彼の鼻にぶつかっ た。 「あ痛！」 だれ

さけ

「わ！」と、ドアの内側で誰かが叫んだ。 かた

 キ・キーマの顔や身体は、たいそう硬い皮で包まれている。だ は

から彼の鼻を打ったドアは勢い良く跳ね返り、今度はドアを開け ようとしていたヒトにもぶつかったらしい。 「こりゃどうも、スミマセン」 かげ

 キ・キーマが大きな身体を折ってのぞきこむと、ドアの陰から、 いかにも痛そうに手で鼻を押さえた青年が、おそるおそるという 感じで顔をのぞかせた。 「おや、あなたたちは？」 いぶか

 青年は訝しげなまなざしで、ワタルたちを観察した。やはりア ひざ

ンカ族だ。すらりと背が高い。黒いシャツに黒いズボン、膝の下 しっこく

まで届く白い作業用エプロン。つやつやした漆黒の髪を、頭の後 ろでひとつに束ねている。現世のミュージシャンにも、カンフー 映画のスターにも、こんな感じのヒトがいる。 「トニ・ファンロンさんですか？」ミーナが元気よく問いかけた。 「わたしたち、あなたの作品をひと目見せていただきたくて、ガ

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サラからやって来ました」 「ああ、お客さんですか」  青年は鼻をさすりながら、ほっとしたような声を出した。 「でしたらどうぞ。今はたいしたものを作っていないけれど、せっ かくおいでになったんですから」 わ

き

 ワタルたちのためにドアを開け、一歩脇に退いて、 「ただ、僕はこれからちょっと用足しに出かけなければなりませ ん。ですから今は、あまり長い時間はお相手できないのです──」  言いかけて、いきなり言葉を切ると、青年はきっと目つきをき にら

つくした。ワタルを睨んでいる。いや正確には、ワタルの左手首 うでわ

にはめられたファイアドラゴンの腕輪を睨みつけているのだった。 「君たちはハイランダーなのかい？」 きつもん

 さっきまでとは一変した詰問口調だった。 「どうなんだ？ その腕輪はハイランダーの印だろう？」  ワタルはドギマギした。「え、ええそうですけれど」 ゆ

ふ

 ファンロンは、束ねた髪を揺すってしゃにむに首を振ると、も ふさ

う半分がた室内に入りかけていたキ・キーマの前に立ち塞がった。 「それじゃあお断りだ。あんたたちを店に入れるわけにはいかな い」 そうはく

いか

 早口で言うそばから、顔色が蒼白になっていく。この怒りは本 物だ。 「でも、どうしてですか？」 「せっかく来たのに──」ミーナが食い下がる。「なぜハイラン だ

め

ダーは駄目なの？ ファンロンさんはハイランダーが嫌いなんで すか？」 いなずま

 トニ・ファンロンの黒い宝石のような瞳に、稲妻のような強い

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光が宿った。「どうしてかって？ フン、君らはパム所長には会っ てないのか？」 「もちろん会ってきたよ」キ・キーマが答えた。「所長に、あん たの工房の場所を訊いたくらいだ」 か

「それじゃあいつがここの場所を教えたっていうのか？」噛みつ くような勢いで、ファンロンは言った。「ウソをつくな！」 「ウソじゃないよ。もっとも、市場のはずれだっていうたけで、 くわ

詳しくは教えちゃくれなかった。だから道々いろんなヒトたちに 訊きながらやって来たんだ」 「本当よ。どうしても、あなたの作品を見たかったから。買うこ とができるかどうかはわからないけど……だってきっと高価なの でしょうから」  ファンロンはくちびるを噛むと、かぶりを振った。「どれほど の値段をつけられたって、僕のつくったものをハイランダーに売 るわけにはいかない。見せるのさえごめんこうむる。さあ、とっ とと帰れ！」  ぴしゃりと、ドアが閉められた。 つ

 あまりの展開に、三人は、口をぽかんと開けて突っ立っていた。 そこここの傾きかけた家々のドアや窓から、住人たちの顔がちょ こっとのぞき、すぐに引っ込む。みんな事情がわかっているのだ しの

ろう。どこか頭の上の方で、くすくすと忍び笑いが聞こえる。レ けんそう

はや

ンガ職人通りの市場から流れてくる喧噪も、ワタルたちを囃して いるみたいだ。  開いていた口を音をたてて閉じて、目はまだ正面のドアに向け ど

たまま、キ・キーマが言った。「二人とも、ちょっとそこを退い てくれるかい？」

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 ワタルとミーナは顔を見合わせて、一歩脇に退いた。 「ありがとうよ」キ・キーマは歯をのぞかせてにやりと笑った。 せま

そして両手の拳をぐうと固めながら、狭い通りの反対側まで、 「一歩、二歩、三歩と」  声を出して数えながら移動した。 「キ・キーマったら、どうするの？」 とつげき

 ミーナの問いに、彼は背中を丸め、よーいドン、突撃！ の姿 勢をとりながら答えた。「俺はこのくらいのドアなら、五枚重ね だって一撃で突破できるんだ！」  って、助走してるよ！ 「駄目だよ！」 「キャー、やめて！」  ワタルと、ミーナはいっせいに彼の首っ玉にかじりついた。キ・ りょうけん

のど

あしぶ

キーマは猟犬みたいに喉をぐるぐる鳴らし、ずどんずどんと足踏 みをして、二人を上下に振り回した。 「何で駄目なんだよ？」 「暴力はいけないの！」 「あんな失礼なヤツでもか？ なんだよあの態度は？ 商売人の かざかみ

しょうね

風上にもおけねえぞ。あんなのはな、アゴに一発かまして性根を たた

めがみ

叩き直してやらなくちゃ、女神さまだってお許しにならないぜ」 みな

「皆さん！ ちょっと待って！」  路地の向こうから、女のヒトの声が呼びかけてきた。振り返る すそ

と、長い髪を振り乱し、スカートの裾をたくしあげて、エルザが 転がるように走ってくる。 「エルザさん？」ワタルたちはまた驚いて、棒立ちになった。何 だこの展開は？

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か

 エルザは三人のそばまで駆けてくると、両手を胸にあてて、苦 しそうにあえいだ。 「はあ、はあ、皆さん、ファンロン、には」 もんぜんばら

「門前払いされちまったよ」キ・キーマが食いしばった歯のあい やさ

だから言った。彼がどれほど優しいヒトなのか、ワタルはよく知っ きょうあく

ているつもりだが、歯並びだけは凶悪なので、これをやられると こわ

なみだめ

相当に怖い。エルザは苦しそうに息をつきながら、涙目で謝った。 「ご、ごめんなさい。わたしが、一緒にこられれば──」 たお

 そして、ヘタヘタとその場に倒れてしまった。 「ごめんなさいね、皆さん。ビックリしたでしょう」 すみ

 エルザはファンロンの工房の偶にある硬いベッドに横になって いた。意識は取り戻したけれど、まだシーツよりも白い顔をして いる。 さわ

 エルザが倒れたとき、ワタルたちが驚き騒ぐ声を聞きつけて飛 び出してきたファンロンは、「エルザ！」と、ひと声叫んで彼女 だ

の名前を呼ぶなり、何のためらいも迷いもなく駆け寄って抱きあ まぎ

げ、工房のなかに運び込んだ。彼を追って、どさくさ紛れという 感じで、ワタルたちも工房に入った。でも、まもなくエルザが気 づいて目を開くまで、ファンロンがそばに付き切りで、ワタルた ちはベッドに近寄ることさえできなかった。 こいびと

ささや

「恋人同士なのね、きっと」と、ミーナがワタルの耳元で囁いた。 「だけどエルザはブランチ長の一人娘──うーん、これにはフク ザツな事情がありそうね」  エルザは目を覚ますと、すぐに、自分のそばにはファンロンだ しょうかい

けでなくワタルたちもいることに気づいて、彼に紹介しようとし

559

た。 だいじょうぶ

「そんなことより、気分は大丈夫なのか？」ファンロンは心配そ うに、起きあがろうとするエルザを押しとどめた。「君は心臓が 弱いんだ。走ったりしたらいけないって、何度言ったらわかるん だい？」  エルザは微笑んだ。「そうね、ごめんなさい。わたしって、気 てんば

持ちだけは子供のころのお転婆のままなの」 「僕らを追いかけてきてくれたんですね。ありがとう。でも、本 当に大丈夫ですか？」 するど

 ワタルはファンロンの後ろから呼びかけた。彼は鋭く振り返っ て、 「君らのせいだ」と冷たく言い捨てた。 「まあ、トニ。お願いだからそんな態度をとらないでちょうだい」 甘えるように彼の手を取りながら、エルザは言った。「ワタルさ たず

んたちはガサラからお友達の消息を尋ねていらして、リリスには 着いたばかりなの。確かにハイランダーの一員ではあるけれど、 父たちとは今さっき会ったばかりなのよ」 さと

ふ

 優しく諭されて、ファンロンはちょっと目を伏せた。口元は、 とが

不満そうに尖ったままだ。 「でも、ハイランダーなんてみんな同じさ」 「そんなことはないわ。ガサラの町には行ったことがないけれど、 にぎ

とても賑やかなのでしょう？ 大勢のヒトたちが、生まれや種族 や外見に関係なく、仲良く混じって暮らしているんでしょう？」  エルザはワタルたち三人の顔を見回して、熱心に尋ねた。三人 そろ

にぎ

が揃ってうなずくと、彼女は今度は両手でファンロンの手を握り しめ、彼の顔を見あげた。

560

「ねえ、トニ。そういう町もあるのよ。だからお願い、ただハイ ランダーだというたけで、ワタルさんたちを嫌ったりしないで」 ほお

えんりょ

「あのぉ」キ・キーマが鉤爪の先っちょで頬をかきながら、遠慮 じゃま

がちに言い出した。「邪魔して悪いんだけど、オレたちには事情 がよくわからないンだ」 「そうですよね、ごめんなさい」エルザははっとしたように赤く なった。そしてファンロンの手を借りて起きあがり、ベッドに座っ た。 「エルザさんのお父さん──ブランチ長とファンロンさんのあい だには、何か意見の違いがあるみたいですね」ミーナが言った。 「意見だと！」ファンロンがまたカッとなった。「種族差別主義 者の言うことが、まっとうな意見なんかであるもんか！」 おこ

「だから、そんなふうにいきなり怒らないで」エルザが笑った。 ふ

ワタルとミーナも吹き出してしまったので、さすがにファンロン もきまり悪そうな顔になった。 「自分の親のことですもの、わたしも申しあげにくいのだけど… うつむ

…」エルザは俯いて話し始めた。「父は、アンカ族以外の種族の おと

ヒトたちを、ひどく劣ったものだと決めつけているんです」 かたよ

「だけどパムさんはブランチ長でしょ？ そんな偏った考え方を していたら、町を守ることなんかできないんじゃないんですか？」 「だから、リリスでは、アンカ族以外の住民たちは、ハイランダー たよ

どろ

を頼ることができないんだ」ファンロンが苦い顔で言った。「泥 ぼう

あ

ごうとう

おそ

棒に遭っても、強盗に襲われても、住まいや店に火を付けられて ひがい

も、被害者がアンカ族でなけれは、リリスのブランチは腰をあげ ない。それどころか、そういう非道なことをした犯人がアンカ族 に

である場合には、事件そのものをもみ消したり、犯人を逃がして

561

しまうことさえある」 ひ

ど

「そりゃ非道い！」と、キ・キーマが大きな声をあげた。 「逆に、アンカ族以外の種族の住民が、アンカ族の住民に対して あやま

け

が

そこ

犯罪を働いたり、過って彼らに怪我をさせたり、財産を損なうよ つか

うなことをしてしまうと、問答無用で捕まえられてしまう。裁判 など待たずに、その場で殺されてしまうこともあるし、ブランチ ごうもん

の留置所で拷問を受けて死んでしまうこともあるんだ」ファンロ ちかごろ

けいこう

ンは拳を握りしめた。「近頃ではこの傾向がさらに強くなって、 アンカ族の住民が被害を受ける事件が起こると、捜査も何もしな しわざ

いままに、すぐに他種族の住民の仕業だと決めつけてしまうよう にさえなった。そして、ただ被害者の近所に住んでいるからとか、 びんぼう

貧乏で金に困っているからとかいう理由で適当に犯人をでっちあ げて、留置所に連れて行くんだ。後はおきまりのコースさ」  まるで、アパルトヘイト時代の南アフリカみたいな話だ。ワタ ルは尋ねた。「それじゃ、ふだんの生活のなかにも差別があるん じゃないですか？」 みは

 ファンロンはちょっと目を瞠った。「そのとおりだ。どうして 知ってる？」 「前に、別の場所で似たようなことが行われてたのを知ってるだ けです」 うつしよ

み

 現世で、映画の中で観たただけだったけど。 まどぎわ

 ファンロンは腕組みをすると、工房の窓際まで歩いていって、 なが

外を眺めた。 「ここの表通りは、レンガ職人通りと呼ばれてる。リリスの町が できたばかりのころ、町の建物を造ったレンガ職人たちが、みん なここに集まって住んでいたからだ。家々でレンガを焼いたりこ

562

つちぼこり

かまど

しらえたりするから、土埃はすごいし音もうるさいし、竈の熱で 一年じゅう暑い。だから、町の建設が一段落して、レンガ職人た ちがだんだんと去っていった後も、ここは貧しいヒトたちが暮ら す場所になってしまった」ファンロンは振り返ってワタルたちを 見た。「さっき外にいるとき、気づかなかったかい？ 窓や戸口 から君らを見ているヒトたちは、みんな他種族だったろう？」  そういわれてみればそうである。 「僕はこの通り沿いに暮らしている、たった一人のアンカ族なん つぶや

だ」と、ファンロンは呟いた。「他種族のヒトたちは、リリスの 町の総人口の二割足らず。昔はもう少し多かったそうだけれど、 町のこの不公平な仕打ちに怒って、出ていってしまったんだそう よ

そ

だ。出てゆくあてがあったり、他所でも仕事を見つけることがで きる能力があったり、若ければそれもいいだろう。でも、いろい ろな事情でそうはできないヒトたちだっている。そして残ったヒ トたちは、このレンガ職人通りに沿った細長いスラム地区に、ぎゅ うぎゅうに押し込められている。他所の通りを歩いてみれば、す ぐにわかるよ。立派な屋敷や間口の広い店は、すべてアンカ族の 所有物だ。他種族の住民たちは、狭くて不便で不衛生なスラム地 かせ

区から、その日の稼ぎを求めて毎日仕事に出てゆく。もちろん、 はんぱ

半端仕事ばかりさ。リリスでは、アンカ族でなければまともな職 にはありつけない。だから当然、他種族のヒトたちはみんな貧乏 だ」 あくじゅんかん

つら

「悪循環なんです」エルザが辛そうに呟いた。 しんこう

「そういう種族差別は、老神信仰と何か関係があるのですか？」  ワタルの問いに、エルザとファンロンは顔を見合わせた。 「ワタルさんは、老神信仰に詳しいの？」

563

「キ・キーマに教えてもらったんです」  にわかにみんなの視線を浴びることになったキ・キーマは、照 く

れながら、ワタルに説明したことを繰り返した。 「そうですか……。ガサラの町にも広がっているの」 「でも、ガサラじゃ、こんなにあからさまじゃないよ。みんな、 けいかい

老神信仰を警戒してるしな。なにしろ、北の帝国がからんでるか ら」  エルザはうなずいた。「そうですね。わたしは時々、アンカ族 ぎゃくさつ

以外のヒトびとが収容所送りになったり、虐殺されたりしたとい う北の帝国と、今のリリスはそっくりなんじゃないかと思うこと があります。規模は小さくても、やっていることはよく似てる─ ─」 えいきょう

「北の老神信仰の影響も、もちろん否定できないが、リリスはも と

ち がら

ともと他種族差別思想の強い土地柄だったんだ。いったい何が原 因なのかわからない。もう百五十年も昔に、最初にこの土地に入 かいたく

植した開拓団は、他の土地の開拓団と同じように、いろいろな種 族が入り交じって構成されていた」ファンロンは言った。「事情 が少し変わってきたのは、リリスを囲む岩山のそこかしこに、宝 玉の鉱山が発見されてからだ。鉱脈にたどり着くためには、地底 ほ

もぐ

深くまで掘り潜っていかなくちゃならない。それには力持ちで体 じゅうじん

力のある獣人族がぴったりだった。その一方で、掘り出された原 みが

石を磨いて加工する作業には、手先の器用なアンカ族が向いてい た。そうやって、仕事が分かれていったんだ」 「そうか、それで今のような工芸の町リリスができたのね」と、 ミーナが言った。「鉱山の方はどうなってるんですか？ 今でも そこでは獣人族のヒトたちが働いているの？」

564

 ファンロンはかぶりを振った。「発見から八十年ぐらいのあい つ

だで掘り尽くされて、鉱山は閉山になった。それほど大規模な鉱 かけら

脈じゃなかったんだよ。今でも欠片程度のものが発見されること はあるが、商売になるような量じゃない。今リリスで加工されて いる宝玉は、大半がアリキタからの輸入品だ」  そしてアンカ族の支配だけが残った──というわけなのか。 「あ、そうか」と、キ・キーマがすっとんきょうな声をあげた。 また

「オレは南大陸じゅうを股にかけるサーカワのダルババ屋だけど、 リリスに来るのは初めてだ。アリキタから輸入される宝玉の原石 じか

は、あんたたちのギルドが直に運んでいるんだよな？」 「そうだよ。それはやっばり、この町の権力者である工芸品ギル ドの親玉たちも、激しい他種族差別主義者だからさ。水人族が町 に足を踏み入れるのを許したくないんだ」 「ダルババ屋はオレたちの専業みたいなもんだけど、アンカ族の 業者だっていないわけじゃないもんな」キ・キーマは言った。 「ふうん、そういうことだったのか。今まで全然気づかなかった よ」 「外からは、リリスの実状はなかなかわからないと思います」エ ルザが悲しげに首を振ると、美しい黒髪がさらさらと流れる。 「工芸師を目指して修業しに来るのはアンカ族ばかりだし、ほか にはこれという産業のある町ではありませんから、実は、ヒトの 出入りはすごく少ないんですもの」 「だけどさぁ、パム所長がそんなスゴイ差別主義者なら、どうし いや

てオレやミーナを見て嫌な顔をしなかったんだ？」  ミーナもくるりとしっぽの先を動かして、その疑問に同意を示 した。

565

「それはやはり、あなたたちが外から来たハイランダーだからで ろこつ

す。露骨な差別をしては、ガサラのブランチを怒らしてしまうか ら」 むち

 確かに、カッツが鞭を持って飛んできそうな話だ。 「だけど、いきなり差別思想を退治できるかどうかはともかくと かか

しても、事件の捜査や治安を守る大切な業務に関わることで、そ んなデタラメがまかり通っているなんて、ハイランダーにとって も聞き捨てならない話だと思います。ボグのブランチを束ねる首 うった

長に、訴えかけてみたらどうですか？」  ファンロンは、最初の冷たいまなざしに戻ってワタルを観察し た。「僕らがそれを試みなかったとでも思うのかい？」 「やってみたの。何度もやってみたわ」エルザがあとを続けた。 「でも、スルカ首長は、この間題には深入りしたくないみたいな の。事なかれ主義というのかしら」 つば

「そうじゃない。あいつも差別主義者なのさ」ファンロンが唾で は

も吐くような勢いで言った。「連合政府がシュテンゲル騎士団を 創設するとき、ハイランダーと同じような種族混成型の騎士団に めいしょう

するか、種族別に団を分けて名称も変える形式にするかで、大変 な議論になった。最終的には投票で決めたんだが、参考意見を求 められて答えたハイランダーの首長のうち、スルカ首長だけは種 族別賛成派だったんだ」 「そうか、シュテンゲル騎士団もアンカ族ばっかりだったよね」 ワタルは自分で自分に呟いた。「だけど、種族別に分ける必要な んて、あんまりなさそうな気がするけど」 「理由はどうにでもつけられるさ。装備がバラバラになるとか、 団体生活をするのに生活習慣が違うとか」ファンロンはまた怒っ

566

ている。「でも、どういう名目であれ、一度種族別に分けてしま うと、それは必ず、種族別に業務を分けるということにつながっ てしまうんだ。現にシュテンゲル騎士団だって、出来立てのころ よろい

かぶと

にはアンカ族以外の団員だっていたのに、今では彼らは鎧も兜も なしで、災害の救助や復旧、山林の開拓みたいなことばかりをや らされている。シュテンゲル騎士団と言えば、あの銀の鎧兜でカッ コをつけたアンカ族の奴らの団体の代名詞になってしまった。最 初はそうじゃなかったのに」 「なんかなぁ」キ・キーマがぽつりと言った。「オレたち、あん まり長居しない方がよさそうな感じがしてきたよ。な、ミーナ？」  ミーナは考え込んだ様子で、しっぽを動かしている。 「ファンロンさんは、この町を出ようと思ったことはないんです か？」  ワタルの質問に、ファンロンとエルザがまた目と目を見合わせ る。その代理を務めるように、じいっと自分のしっぽを見つめて いたミーナが、そのままの姿勢で短く言った。 「エルザさんを置いて出ていかれるわけがないじゃないの。ね？」 「でもさ、駆け落ちってこともあるじゃない？ ねえ？」  あわてて言い足すワタルに、エルザは少し涙ぐんだような瞳を 向けた。「わたしは、もちろんトニについてゆきたい。でも、父 を見捨てて出ていくわけにもいきません。父に目を覚ましてほし いんです」 「他種族差別主義は間違っているって、わかってほしいんです ね？」 「ええ！ 父だって、若いころからああいう思想を持っていたわ けではないんです」

567

「いつごろから変わってしまったんです？」 「七、八年ほど前からのことになるかしら。母が病気で亡くなっ きおく

て──」エルザは記憶をたどるように瞳を泳がせた。「そのあと、 さび

寂しさをまぎらわすためでしょうけれど、聖堂の活動を熱心にす るようになったんです。ほら、あの大鐘楼のある聖堂」 めがみ

「だけどあれは、女神さまの聖堂でしょ？」 「そうですけれど──でも、これも話すと長くなるけれど、リリ つかさど

スではそうとばかりも言い切れないの。宝玉の生み出す美を司る せいれい

まつ

精霊を祀るための聖堂だという意味もあって」  そういえば、ガサラには聖堂などなかった。 そぼく

「女神さまの教えは本当に素朴なもので」エルザはちょっと姿勢 いたわ

を正し、歌うように続けた。「地に満ちる命よ、労りあい、助け もと

つど

あい、栄え、光の下へ集え」 「たったそれだけ？」 いまし

「そうなの。基本はこれだけ。ただ、その他に少し細かい戒めが きんき

あって、もっとも強い禁忌とされているのは、女神の姿を映した 像を造ることと、女神のために大きな聖堂を造ること。このふた つは厳禁なのよ。だから、どんな町へ行っても、女神さまの教え について説いた書物はたくさんあるし、それらはどこでも手に入 たた

るし、町の広場に集って女神さまを讃える歌を歌う集まりとか、 小さな信仰行事はいろいろとたくさん行われているし、そのため の集会所のようなものもあるけれど、聖堂はないわ。リリスだけ なの」  しかも、今の話だと、あの塔と大鐘楼は、むしろ女神さまの教 えに反してるみたいな存在ということになる。すっごいヘンだ。 「父はあの聖堂に通うようになって、どうやらそこで誰かに会っ

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て、今の考え方を吹き込まれたようなの。確かな証拠があるわけ ではないけれど、わたしにはそう思えるの」  聖堂に行ってみようと、ワタルは決めた。

569

17 町と聖堂

もど

 ブランチに戻ると、ちょうどパトロールに出発する時間だといっ て、パム所長が待ち受けていた。 「ところであんたら、ファンロンには会えたかね？ 彼はちょっ とへんくつだろ？」  当のファンロンからあれだけの話を聞かされた後なので、これ けいい

すなお

までの経緯からしたらごく自然なはずのこの問いかけに、素直に 答えるのが難しかった。そしてそれが顔に出た。 さぐ

「なんだ、彼には会えなかったのか」パム所長は探るような目を いっしょ

した。「ひょっとして、エルザが一緒に行くとか言わなかったか ね」 「エルザさんは、道案内をしてくださいました。美人なだけじゃ やさ

じょう

なく、とっても優しくて親切なお嬢さんですね」モジモジしてい るワタルに代わって、ミーナがてきぱきと答えた。「でも、ファ こうぼう

ンロンさんの工房にはご一緒しませんでした。それに彼はお留守 む だ あ し

で、わたしたち無駄足だったんです」 「ふうん、そうか」所長の視線が少し和らいだように、ワタルに は見えた。「もし時間があったら、パトロールの合間にもう一度 訪ねてみたらどうかね。そのくらいの時間はあるだろうから」  所長は机の上に地図を広げ、ブランチが取り決めているパトロー ル区間の区分けと、これからワタルたちを同行させるパトロール・ ふく

ルートについて説明した。レンガ職人通りは、そのなかに含まれ ていなかった。聖堂もだ。

570

「わかりました、よろしくお願いします。でも所長」ワタルは言っ とう

だいしょう

た。「僕、ぜひとも聖堂を訪ねてみたいんですが。あの塔と大鐘 ろう

楼、立派ですね。他の町では見たことがありません。なかを見学 できたらいいんですが」  所長は笑った。「パトロールだからなぁ。見学は明日にしたら どうだい？」  そこを何とかと食い下がっても、所長はぐねぐねとはぐらかし て、うんと言わない。 「聖堂は、信者以外は入れないからね」 めがみ

「だけどあれは女神さまの聖堂でしょう？ それなら僕ら、みん な信者です」 ちが

「リリスの聖堂は違うんだ。女神さまはご自分のために聖堂を建 てることを禁止してるんだぞ、学校で習ったはずだ」 「だったら──」 せいれい

「あの聖堂は、システィーナという美の精霊のために建てられた ものだ。システィーナは、わしらの前に現れる時には、アンカ族 むすめ

じゅうぶん

うで

みが

の若い娘か美少年の姿をしておられる。もっとも、充分に腕を磨 いた工芸師のもとにしか現れないのだがね」 えら

「システィーナは、リリスでは女神さまよりも偉いんですか？」 「そんなことはないよ。だが、工芸師にとっては美を生み出す技 術と才能をもたらしてくれる、誰よりもありがたい精霊だ。だか まつ

らああして聖堂を建てて祀っている」  おしゃべりしている時間はないぞ、出発だとせき立てられて、 三人は所長の後についてパトロールに出た。まずは町の中心部、 ブランチや役場の周りを歩き、それからレンガ職人通りとは反対 方向の道を進んだ。白っぽい石を積みあげてつくられた建物が並

571

せんたくもの

んでいる。窓々には洗濯物がはためいて、元気な子供たちの声が すきま

聞こえる。建物の隙間やところどころにある小さな広場には、立 いしだたみ

木や花木が植えられており、石畳の道とあいまって、こざっぱり としたきれいな町だ。 「このへんは全部、集合住宅だ」パム所長は楽しそうにあたりを なが

眺めながら言った。「リリスの町で働く若い家族や、子供たちを ろうふうふ

育てあげた老夫婦などが、安い家賃で暮らしている。清潔で快適 そうだろう？ リリスは工芸品の産業のおかげで財政が豊かだか ら、こうした町の整備にも金をかけることができるんだ」 うそ

 もちろん、所長の言葉に嘘はない。ワタルだって、こんな町な らちょっと住んでみたい。でも、ここの住民たちはアンカ族ばか りだ。それを意識しつつ、レンガ職人通りのゴミゴミして不衛生 かんきょう

な環境と引き比べると、とてもとてもひっかかる。四人が歩いて 行くと、道ばたで立ち話をしている若い主婦たちや、輪になって いっし

遊んでいる子供たちが、キ・キーマとミーナの姿を見かけて、一 ゅん

おび

かく

まゆ

瞬ぎょっとしたり、怯えて誰かの背中に隠れたり、眉をひそめた りすることに気づいてからは、さらにひっかかる。大きなトゲが、 さ

ぬ

心に刺さって抜けない。 「この通りを一本南側に入ると、一戸建ての家が並ぶ区画に出る」  パム所長は説明した。歩いていると、住人たちからときどき投 あいさつ

ふ

げかけられる挨拶に、気持ち良さそうに手を振って応じている。 やしきまち

「そこはまあ、屋敷町だな。リリスで成功した工芸師や、リリス あつか

の工芸品を扱うことで財を成した商人たちの家があるんだ。商人 たちは首都のランカにも家を持っている場合が多いから、ここの ごうしゃ

はまあ、別荘だな。その分、豪奢な造りの屋敷が多い。びっくり するぞ」

572

おどろ

 と、予告されていても、それでも驚くほどの立派なお屋敷町だっ た。ワタルは現世で（テレビのニュースで）見たことのある首相 かんてい

はまりきゅう

官邸を思い出した。社会見学で行った浜離宮も連想した。 す

ば

「どうだね？ 素晴らしいだろ」パム所長は、自分のことのよう じ ま ん げ

に自慢気だ。「ここらは当然、治安も良い。だから、リリスの町 には不慣れなあんたらには、この一帯をパトロールしてもらうこ とにするよ」 だいじょうぶ

「オレやミーナがこのへんを歩いていて、大丈夫なのかな」キ・ そぼく

キーマが、彼らしい素朴な疑問を出した。「住んでいるのはアン カ族ばっかりだもんな」 か

 ワタルとミーナはちらっと視線を交わした。所長は何も気づか ない様子で、腰に手をあててわっははと笑う。妙に大きな声だ。 い

「そんな心配は要らないよ。あんたらはハイランダーなんだ。そ れにこの屋敷町には、他種族の連中だっていっぱいいるよ。みん な使用人だがな」 つぶ

 最後の言葉は、歯のあいだから押し出したみたいに潰れてかす れていた。 「それじゃ、ルートを逆戻りしてみるか。往復すりゃ、もっとよ く道がわかるだろう」  共同住宅街のなかを抜けてゆくとき、ワタルたちのいちばん後 とつぜん

ろを歩いていたキ・キーマが、突然、 さけ

「痛テ！」と叫んで足を止めた。それと同時に、彼の顔の横にぶ つかった何かがはずんで道に落ちた。所長がそれを拾おうとかが み込んだが、それよりも早く、ミーナがさっとしっぽをのばし、 落ちたものを巻き取って拾いあげた。 とが

「わ、これ何？ 尖ってる！」ミーナはしっぽから取り出したも

573

かけら

のを指先でつまんだ。「石の欠片かしら」 はんとうめい

 現世の五百円玉ぐらいの大きさの、ゴツゴツと尖った半透明の 石だ。相手がキ・キーマだったから、「痛テ！」ぐらいで済んだ おお け

が

けれど、ミーナやワタルだったら、下手すれば大怪我になってい ただろう。 かた

「くっそぉ、誰が投げやがったんだ？」キ・キーマは肩をいから せて、周りの集合住宅の窓を見回した。「上から石を投げつける けんか

なんて、イタズラとしちゃ悪質だし、喧嘩を売るにしちゃめちゃ めちゃヒキョーだぞ！」 ひとかげ

 ワタルは急に心配になってきた。家々の窓に人影は見あたらな やつ

ひそ

ねら

いけれど、これを投げた奴がどこかに潜んで、まだこっちに狙い をつけているかもしれない。次の石は、ミーナの頭にあたるかも しれないのだ。 「行こう、キ・キーマ」 「そうだな。だいぶ時間をくった。急いだ方がいい」パム所長は、 のんき

言葉とは裏腹の呑気な口調で言った。それどころか、ちょっと面 白がっているみたいだ。「なぁに、そんなのは子供のイタズラだ おこ

よ。怒りなさんな」  キ・キーマは腰に手をあてて所長を見おろした。彼の方がずっ と背が高い。 「投げた方はイタズラのつもりでも、あたった方は大怪我をする ぜ？ 放っておいちゃまずいよ、所長」 「だったらあんたはこのへんをパトロールしないことだ」所長は 眉毛ひとつ動かさずに応じた。 めずら

「あんたやそっちの娘みたいな種族は、ここでは珍しいんでな。 子供らが興味を持つんだろう。悪気はなくても、誰がイタズラを

574

し

か

つか

仕掛けてくるかわからんし、捕まえきれん。そうだ、お二人には、 レンガ職人通りを担当してもらおう。他種族が多い場所だから」  翌朝ブランチで食事を済ませると、ワタルはパム所長と連れだっ て、午前中のパトロールに出た。  昨夜のうちに、キ・キーマとミーナと相談し、ともかくしばら くは所長の提案に従っておこうと決めていたので、二人は何事も あいそ

なかったみたいな愛想の良い顔で所長に挨拶したけれど、本当は すごく怒っていた。ミーナは、レンガ職人通りをパトロールしな がら、これまで住民たちがパム所長にぬれぎぬを着せられたり、 うった

事件が起こって訴え出ても取りあげてもらえなかったりした具体 的なケースを聞き集めてみると、張り切っている。 しんちょう

「だけど、慎重にしないとね。危ないことになったらいけないか ら」 「わかってるって。大丈夫、任せてよ」  ワタルはワタルで、せいぜいパム所長に調子をあわせて、リリ スの町の隠された部分に接近してみるつもりだった。  パトロールをしながら、所長はあれこれとワタルの身の上につ たず

いて尋ねた。〝旅人〟であることは秘密だから、答えるのにワタ ルはけっこう苦労した。僕はナハトの生まれです。両親はガサラ で宿屋をやってましたが、僕が生まれてまもなく病気で死にまし た。それで僕はブランチに引き取られて、ブランチ長に育てられ まいご

こ

じ

たんです──カッツが、ブランチ長が迷子や孤児を引き取り、そ のまま育てあげることもあると話してくれたことを、自分風にア レンジしてしゃべった。 「それで君は、まだ小さいのに立派にハイランダーをやっとるわ

575

うれ

ゆうしゅう

けだ」パム所長は嬉しそうに言った。「アンカ族の子供は優秀だ からな。頭がいいし、勇気もある」 「いえ、僕なんかいくじなしです」所長はあっはははと笑った。 「本当のいくじなしなら、ガサラからここまで旅をしてこられる わけがない。しかもあんなお荷物と一緒にさ」  すぐには、「お荷物」というのがキ・キーマとミーナを指して かせ

いるのだとわからなくて、ワタルは笑って時間を稼いだ。そして え

こお

言葉の意味に気がつくと、さすがにその瞬間には笑みが凍りつい てしまった。  パム所長は、そんなワタルを横目でじっと観察していた。口元 は笑っているけれど、目はニコリともしていない。 かしこ

「君は賢い子だから、大人の忠告をちゃんと聞き入れることがで きると思うがね」 わき

 所長は、道の脇の店屋の主人に、お役目ご苦労さまですと挨拶 を受けて、手を振り返しながら言い出した。ほとんど口元を動か さず、ワタルにだけ聞こえるような小声だ。 「立派なアンカ族のハイランダーが、水人族やネ族なんぞとあん まり親しくするのは、感心した話じゃないね。ガサラは人の出入 りが激しいから、目立たないのだろうが」 「ここでは目立っちゃいますか？」 「うむ。昨日、あの水人族が石を投げられたのは覚えているだ ろ？」 「イタズラじゃなかったんですか？」  所長は大げさに目を見開いた。「もちろんイタズラさ。子供の じゅんすい

りくつ

イタズラだ。だが、子供は正直で純粋なものだ。理屈抜きに良い よ

ものと悪いものを選り分ける目を持っている」

576

 あとは言わなくてもわかるだろうという顔で、パム所長はにん は

まりと笑った。ワタルは胸がムカムカして吐きそうだった。 おさ

「これから聖堂を見学できますか？」気持ちを抑えて、そう言っ てみた。「美の精霊であるシスティーナの像を、ひと目見てみた いんです」 「おお、いいとも」  聖堂に向かうのに、所長はレンガ職人通りを通らなかった。いっ うかい

たん町の中心に戻り、そこから大きく迂回した。でも、そのルー トを通ったおかげで、レンガ職人通りの環境が、他の道筋と比べ おと

て格段に劣ることも、町の北にそびえ立つ聖堂が、どれほどまで じゃま

おお

ごうまん

に邪魔くさく空を覆って見えるか、どれほど傲慢にレンガ職人通 りを中心に広がる〝スラム〟を見おろしているか、聖堂の影のな うっとう

かで暮らさなければならない住民たちにとって鬱陶しい存在であ るかということが、かえってよくわかってしまった。  正面から見あげる聖堂は、ワタルに、『サーガ』シリーズに登 いしかべ

場する神聖教会を連想させた。石壁。太い柱。そこここにはめこ まれた美しいステンドグラスには、たぶんこれがシスティーナな かみ

ころも

まと

はだし

おとめ

か

のだろう、長い髪に衣を纏った裸足の乙女が、草原を駆けていた たてごと

ひ

つ

たい

り、竪琴を弾いていたり、泉に足をつけていたり、火の点いた松 まつ

ふ

かか

明をひれ伏すヒトびとの頭上に掲げていたり──と、さまざまな えが

ことをしている様子が描かれている。  ゲームのなかの神聖教会では、特に宗教は設定されていないの だけれど、親切な神父さんがいて、主人公があるイベントをこな してから訪れると、一度にひとつずつ貴重な神聖魔法の呪文を教 えてくれる。さらには、体力も全回復してくれるという親切さ！  でも、ここリリスの聖堂はどうだろう？

577

そうごん

 荘厳で美しい。それはもちろんだ。ワタルと同じ歳の子供たち 百人に、「聖堂ってどんな建物？」と尋ねて、返ってくる答をそ かんぺき

のまま集めたみたいな、イメージの完璧さ。 「素晴らしいだろう？」パム所長は鼻の穴をふくらませている。 めいしょう

「正式な名称は、システィーナ・トレバドス聖堂というんだ。ト レバドスというのはリリスの古い地名でね。システィーナは、か く

つてそこにあった泉から誕生した精霊なんだが、その泉の水を汲 けんじょう

んで女神さまに献上することで、おそばに仕えることを許された という伝説があるんだ」 「本当に美しいです」ワタルは言った。「でも、システィーナの ためだけにこんな立派な聖堂を建てちゃって、女神さまはお怒り にならないでしょうか？」 「女神さまのいる運命の塔は、この聖堂よりも百倍も千倍も立派 なんだろうから、大丈夫だ」所長はあっさりと答えた。「女神さ いまし

つく

まが自分のために聖堂を建てることを戒めたのも、自分が創って 野に放った種族の力では、どうせ立派な建物なんか建てられやし ないと思っていたからだそうだよ」  なんだか、女神と女神の創造物をバカにしているような言い方 だ。 「なかを見学しようか。もっと驚くぞ」 おおとびら

ふ

 大扉を押して聖堂内部に足を踏み入れると、色とりどりの光が ワタルの頭上に降ってきた。ステンドグラスを通過した光が、聖 堂のなかに満ちているのだ。 はさ

い

す

 中央の通路を挟んで、信者たちが腰かけるための長い椅子が何 さいだん

列も並んでいる。通路の突き当たりには祭壇があり、正面にはひ あざ

ときわ色鮮やかなステンドグラスがあって、その前に、石造りの

578

す

しんせん

システィーナの像が据えてあった。像の足元は、新鮮な切り花で う

つ

埋め尽くされている。 こうべ

いの

 そこここに、頭を垂れて祈っている若者や、信者の椅子に腰掛 けて静かに本を読んでいる老人の姿などが見受けられる。ワタル しの

は足音を忍ばせて祭壇の正面まで進み、そこであらためてシス ティーナ像を見あげた。 そで

すそ

 長い髪の乙女。整った顔立ち。袖と裾の長いローブを着て、右 しゃく

え

にぎ

手に宝玉のついた杓を、左手に手鏡の柄を握って、それを空に向 ささ

かって捧げるように高く掲げているので、袖がめくれて二の腕が 見える。 びしゅう

「あの手鏡は、ヒトの心の美醜を映し出すものだ」所長が説明し た。「右手の杓は、美しいものを害しようとする邪悪なものを打 ち据えるために使われる」  もう一歩前に出て、石像を上から下まで観察して、そこで初め てワタルは気づいた。切り花に埋もれて見えにくいけれど、この システィーナは、地面の上に立っているのではない。何かの上に がんじょう

乗って──いや、何かを踏んづけている。おまけに、えらく頑丈 は

そうなサンダルを履いている。 よ

 ワタルはしゃがみこみ、手で切り花をそっと避けてみた。する ゆが

と、キ・キーマそっくりの水人族の顔がのぞいた。苦しげに歪ん じゅうじん

あご

でいる。すぐ後ろでは、トローンを思わせる獣人族が、顎をのけ ぞらせて苦しんでいる。  この石像のシスティーナは、彼らの頭や胸を踏みつけているの だ。  ワタルは思わず、さっと立ちあがった。背後からパム所長がワ タルの肩に手を乗せた。

579

「どうだね、素晴らしいだろう？」  その間いにかぶるように、祭壇の右手から別の声が呼びかけて きた。 こ

「これはこれはパム所長。ようこそお越しくださいました」  白い法衣に身を包み、システィーナ像が手にしているのとよく 似た形の、銀製の杓を持った老人が、こちらに近づいてきた。 ていねい

「おじゃましております」所長は丁寧に頭をさげると、ワタルに 言った。「こちらはダイモン司教さまだ。この聖堂でいちばん位 の高いお方だよ」  ダイモン司教は、にこやかな笑顔で礼を返した。すらりとして はげあたま

姿勢がよく、見事なまでのつるりとした禿頭で、その頭の形といっ しらが

たら完璧だった。ふさふさとした白髪まじりの豊かな眉の下で目 け

お

が輝いている。ワタルはぐっと気圧されてしまった。このヒトは、 年齢はともかく、中身は〝老人〟ではないという気がした。一種、 せいかん

たけだけ

精悍な感じがする。猛々しいという言葉を使ったら、言いすぎか もしれないけれど……。 「とんでもない。わたしは精霊システィーナの仕えビトに過ぎま せん」 「おお、そうでしたな。失礼いたしました」 「新しいお客様ですな？」ダイモン司教がワタルを見た。その目 は、さっきのパム所長と同じように、値踏みするように冷静だ。 しょうかい

 所長がワタルを紹介すると、司教は驚いたように顎を引いた。 「ほう、そのお歳でハイランダーとは立派なものだ。わたしはま た、工芸の修業にいらした方かと思った」 「ワタル君は、ご友人の消息を探して旅をしているのですよ。た だ、トニ・ファンロンの工房を訪ねてみたいと言っているんです

580

が、あの男は変わり者ですからなぁ」 「おお、ファンロンね」ダイモン司教は杓の先を額にあてて、首 め

を振った。「彼ほど精霊システィーナに深く愛でられた工芸師も めぐ

珍しい。同時に、彼ほどシスティーナのお恵みを理解しようとし ない工芸師も珍しい」 こ

 ワタルのおなかの底から、言葉が群をなして込みあがってきた。 言ってやれ！  ぐっとこらえて、ワタルはもう一度システィーナ像を見あげた。 「この像のお顔は、ちょっとエルザさんに似ていますね」 くず

 パム所長は笑み崩れた。「それはもったいない話だが、嬉しい な」 「エルザは美しいですからな」ダイモン司教も言った。「まこと、 けしん

システィーナの生まれ変わりのような美の化身です」 「でも、エルザさんは僕だけじゃなく、キ・キーマにもミーナに も親切ですよ。そこはシスティーナとは全然違うな」 ほとばし

 言葉が迸るままに言ってしまって、ワタルは口をつぐんだ。所 長と司教の視線の温度が、いっぺんに一〇度ぐらいさがったのを びしょう

感じたのだ。でも、二人とも微笑している。 「僕は、ここで失礼します」ワタルはぺこりと頭をさげた。 かね

 聖堂から外に出たところで、大鐘楼の鐘が鳴り始めた。おなか ひび

はる

の底に響くような低音が、遥か頭上から、まるで誰かがワタルを 狙って投げ落としているみたいに、次から次へと降ってくる。ワ ふさ

タルは両手で耳を塞ぎ、振り返りもせずに立ち去った。

581

18 ミツルの消息

 長居は無用だと、ワタルは言った。これ以上キ・キーマにもミー いや

くわ

ナにも嫌な思いをさせたくないので詳しいことは話さなかったけ れど、聖堂で見たシスティーナ像のことだけはうち明けた。あれ じゅうぶん

だけで充分だとも思えた。 「でも、それじゃミツルを探せないじゃない？」ミーナは心配そ しんぼう

うだ。「もう少し辛抱してみましょうよ。わたしたちなら平気だ から。ね、キ・キーマ？」 「そうだよ。レンガ職人通りの聞き込みも、手をつけたばっかり だしさ」キ・キーマは大きな手を広げた。「ビックリするくらい、 いろんな話を聞き出せたよ。あそこの住民たちは、ホントに不公 あ

ほう

平な目に遭わされてるんだ。放っておけないよな」 あま

「もちろん放っておけないよ。でも、僕ら三人だけの手には余る 仕事じゃない？ カッツさんに相談しよう。ボグのスルカ首長が あてにならないなら、ガサラのブランチを通して、ナハトのギル 首長に訴え出るんだ。絶対にその方がいいよ」 めずら

 キ・キーマはしげしげとワタルを見た。「珍しく弱気だなぁ、 ワタル」 「嫌な予感がするんだ」ワタルはきっぱり言い切った。「早くこ はな

もど

こを離れた方がいい。ファンロンさんとエルザさんには、必ず戻っ てくるって約束して、出発しよう」 あた

 夕食後のことで、三人はブランチのなかの与えられた部屋にい た。充分に気をつけて、声をひそめて話していたつもりだったけ

582

とつぜん

き

れど、ドアの外で突然所長の声がしたときには、シュテンゲル騎 し

ちょうしゅ

てんじょう

士団の事情聴取の時と同じように、天井まで飛びあがりそうになっ た。 「くつろいでいるところに悪いが、ちょっといいかね？」 するど

 所長は室内に入ってくると、鋭い目でキ・キーマとミーナを見 ゆか

やわ

ざ ぶ と ん

し

た。彼らは床に柔らかな座布団みたいなものを敷いて座っていた。 「ワタル君、どうやら君の友人と思われる少年が、リリスの町の たいざい

郊外に滞在していることがわかったんだ」  ワタルは立ちあがった。「ホントですか？ 郊外のどこに？」  所長は地図を持参していた。それを床の上に広げて、指をさす。 せいれい

「町の北に、我々が〝精霊の森〟と呼んでいる、スラの木だけが 集まってできている森がある」 「スラの木？」 め

こうぼく

しゃく

「システィーナがことのほか愛でられた香木だ。彼女の杓はスラ の木でできている。だから聖堂の聖具の素材も、スラの木と銀し か使わないのがきまりだ」  その森のなかに、リリス周辺ではいちばん古い、トリアンカと いう病院があるという。 かお

いや

「いい病院なんだ。スラの木の香りには、病を癒す力があるのだ よ」 「ミツルはそこにいるんですか？」 せ

き

け

が

 ワタルは急き込んで訊いた。病院にいるなんて、怪我でもした のだろうか？ かくにん

「名前は確認できていないが、黒いローブを着た、ワタル君と同 とし

ま ど う し

じくらいの歳の魔導士だというのだから、たぶんそうだろう。怪 ぐうぜん

我や病気というわけではなくて、道に迷って偶然に病院へたどり

583

つか

着いたようだよ。それで数日滞在して、旅の疲れをとっているの だろう。私は、トリアンカに家族を預けている住人から話を聞い たのだがね、彼らは旅の魔導士が珍しくて、みんなで引き留めて、 旅先で見聞きした話をねだっているらしい」  パム所長はにっこりした。 「良かったな。こんなに早く消息がわかって。明日の朝いちばん で出かけるといい。万が一、その魔導士がミツル君でなくても、 リリスからそう遠く離れているわけじゃないのだから、また戻っ てくれば済むことさ」  ここを離れる口実が、向こうから転がってきた。ワタルは心底 うれ

ふ ゆ か い

こわ

嬉しかった。生まれてから今まで、こんなに不愉快で怖い経験を したのは初めてだ──と思って、ふと田中理香子が押しかけてき て母さんともみ合いになったときのことを思い出した。あのとき も怖かった。すごい無力な感じがして、とても悲しかった。ベッ かく

みじ

ドの下に隠れているあいだは、死ぬはど惨めだった。 だ

「ワタル、良かったね」、ミーナがワタルにきゅっと抱きついた。 おどろ

驚いて我に返ると、パム所長の冷たいまなざしが、ワタルの上に 注がれていた。  翌日は、所長に会わずに済むように、夜が明けるとすぐにブラ やり

ンチを出ることにした。早朝番の槍使いのハイランダーが一人、 ねむ

あいさつ

まだ眠そうな顔をして出てきたので、彼に挨拶をしてそそくさと 出発した。 「ま、道中気をつけるこったな」  槍使いはニヤニヤ笑いと共に言って、すぐにワタルたちが使っ ていた部屋に入っていった。ダルババ車に乗り込み、ブランチか ら離れてゆくとき、ワタルは他の二人に気づかれないようにそっ

584

ふ

と振り返った。槍使いが、さっきまでキ・キーマとミーナが使っ ていた毛布や座布団を、ブランチの窓から外に放り出していた。 か

こうかい

余計なものを見てしまったと、ワタルはくちびるを噛んで後悔し た。  精霊の森は、リリスの町を離れて平地のなかをしばらく進むと、 ゆる

きょうりょうち

こつぜん

緩やかな丘陵地のなかほどに、忽然と姿を現した。遠くからでは、 まったく見えない。これには三人とも鴬いて、何度も地図と引き 比べて確かめた。 「スラの木か」キ・キーマが首をひねる。「精霊の杓の材料に使 ひ

われるような木なら、魔力を秘めているのかもしれない」  ミツルに会えるかもしれない嬉しさの底に、ワタルはふっと嫌 なものを感じた。

585

19 魔病院

かお

こうすい

にお

こ

 スラの木は、確かに良い香りを放っていた。香水の匂いだ。濃 おど

い匂いだ。木の幹も枝もほっそりとしていて、まるで踊っている とが

みたいに、優美に身をくねらせている。尖った葉がみっしりとつ いているだけで花が咲いているわけではないから、木の本体が香っ ているのだろう。  ダルババ車で森に分け入ってまもなく、ミーナが「鼻が痛い」 と言い出した。 「この匂い、わたし嫌い。強すぎるわ」 「そうかぁ？」キ・キーマは鼻の穴をヒクヒクと動かした。「オ レにはそんなに匂わないぞ」 「慣れちゃったからよ。でも、わたしたちネ族はキ・キーマやワ タルたちより百倍くらい鼻がいいから、これじゃたまらないわ。 気持ちが悪くなって、目が回りそう」 「ちょうどいいや、行き先は病院だぜ」 ぐんぶ

 そのとき、群舞するバレリーナたちの指先みたいに差しのばさ すきま

れた枝々の隙間から、ちらりと灰色の四角い建物がのぞいた。 「あ、あれかな？」ワタルは身を乗り出した。「どれ」キ・キー むち

マは鞭をあげて、ダルババ車の上にまで覆いかぶさってくるスラ の木々の枝を押しのける。「おう、あれだな」  白っぽい灰色の岩。サイコロの形に切り出したその岩を、無造 作に三階分の高さに積み重ねたという感じの建物だ。窓はたくさ あか

ん開いており、その窓の内側には灯りがともっている。まだ朝だ

586

みょう

うすぐら

というのに──そういえば、スラの森に入ってから、妙に薄暗く なったような気がする。 あお

おどろ

 ダルババ車の上で頭上を仰ぐと、驚いたことに太陽が見えなかっ た。あんなに晴れていたはずなのに、どうしたことだろう？ 青 かす

空も霞んでしまって、まるで白いヴェールを一枚かぶせられたか のようだった。 きり

「おかしいな、霧でもないのに」 たずな

にぎ

つぶや

 キ・キーマが手綱を握り直しながら呟いた。ダルババがぶるる うな

あしぶ

なだ

と唸って、足踏みをする。どうどうと宥めてやっても、数歩進ん だだけでまた足踏みを始めてしまう。 こわ

「おいおい、何を怖がってンだ？」 な

 キ・キーマはダルババの耳の後ろを撫で始めた。ダルババは足 踏みを続けるだけでなく、少しずつ後ずさりしている。  両手で鼻を押さえ、荷台で縮こまっていたミーナが、ぱっと身 を起こして耳を立てた。「何かいるよ！」  ワタルもその気配を感じた。どこに？ ここに──そこにも、 ここにも。周りを取り巻かれているみたいな感じがする。空気が さわ

はじ

動く。前で。後ろで。ざわりとスラの木立が騒ぎ、強い香りが弾 ける。  ひゅん！ くう

 何かが空を切った。次の瞬間、ミーナがキャッと叫んで荷台か ら転がり落ちた。 「ミーナ！」  ダルババ車は急停車し、ワタルは地面に飛び降りた。ミーナは うつぶ

たお

前輪のすぐそばに俯せに倒れて、ぐったりと気絶している。なぜ ほお

かしら頬に血がにじんでいる。

587

ぎょしゃ

 すると今度は御者台の上でキ・キーマが「うぉう！」と唸り、 ど

な

怒鳴った。 ふ

「ワタル伏せろ！」 ふ

みぎかた

つ

さ

 振り仰ぐと、彼の右肩に、深々と矢が突き刺さっているのが見 えた。毒々しい真っ赤な矢羽が、ワタルの目に飛び込んできた。 かげ

かく

「木の上から射かけてるんだ！ 車の陰に隠れろ！」  キ・キーマはもがくようにして御者台から降りようとしたが、 よ

ワタルの目には、まるで彼が急に酔っぱらってしまったみたいに 見えた。水のなかをゆるゆると泳いでいるようにも見えた。 「やばいぞ──こりゃ──」 するど

わく

 鋭い音がいくつも重なり、ワタルが身を伏せている荷台の枠に、 続けざまに矢が数本突き刺さった。ワタルの鼻先をかすめて、森 の下ばえのなかに飛び込んだ矢もあった。 しび

「──痺れ──グスリだ──」  キ・キーマはずってんどうと御者台から転がり落ちた。ワタル か

は前後を忘れて彼のもとに駆け寄った。彼はまぶたを閉じて、歯 のあいだから長い舌がちょっぴりはみ出している。 「キ・キーマ、しっかりして！」 さけ

しゅんかん

 叫んだ瞬間、右足に焼けつくような痛みを感じた。見おろすと、 もも

腿に矢が刺さっていた。信じられないような光景だった。真っ赤 せんたん

な矢羽と、銀色の矢尻。その先端がワタルの腿の肉に食い込んで いる。 かくにん

 ワタルがそれを目で確認できるまで待っていたみたいに、血が ぬ

一筋流れ出した。矢を抜こうと身体を動かすと、血の流れが太く なった。ズボンが真っ赤に染まってゆく。 のうこう

 視界がぐるりと回って、上が下に、下が上になった。濃厚なス

588

ラの木の香りが押し寄せてくる。舌が痺れる。指先も言うことを ひざ

きかない。膝がガクガクし始めた──  ぽきんと両膝を折って地面にひざまずき、それからゆっくりと、 いねむ

居眠りして机の上に半身を倒すみたいに、ワタルは前のめりになっ からだ

た。ちょうどキ・キーマの背中の上に身体を乗せる格好になって、 どう

彼が息をするたびに胴が上下するのが感じられた。 だいじょうぶ

 ──大丈夫、死んでないよね。  まぶたが閉じる寸前の、ごく限られた地面に近い視界のなかに、 かわ

ぐつ

は

とうとつ

革の編み上げ靴を履いた二本の足が、唐突に現れた。ごつい靴で、 太い足だった。 こぞう

「用があるのは小僧だけだ。残りの二人はうっちゃっておけ。森 が始末してくれる」 やみ

 冷たい声が、そう命じた。ワタルは気を失い、真っ暗な闇のな かに落ちていった。 さきや

 囁くような、小さな物音が聞こえる。カサコソ、かさこそ。 ゆか

ね

 ワタルは眠っていた。リビングの床でごろ寝しているのだ。い しか

つも母さんに叱られる。昼寝するなら、ソファの上でしなさい！ ほこり

 床の上でゴロゴロしないで。あんたは埃にアレルギーがあるの よ、また鼻炎にかかるじゃないの！ かんしょく

 だけどワタルは、硬いフローリングの感触が好きなのだ。夏は すず

だんぼう

ふ

涼しいし、冬は暖房の吹き出し口のそばが温かい。広々として、 しず

てんじょう

手足がのばせて、身体が沈まないし、天井が高く見えてせいせい するし──  だけど今日はちょっぴり身体が痛い。それにうるさいなぁ、こ はむし

のカサコソいってる音。何だろう？ 開けっ放しの窓から、羽虫

589

でも飛び込んだのだろうか。顔の周りを飛び回っているんだろう ぱら

か。追っ払わなきゃ──手を持ちあげて──迫っ払わなきゃ── 「ワタル、ワタル、起きなさい」  上の方から、はっきりとした声が呼びかけてきた。どこかで聞 か

わ

こ

いた覚えのある、甘い声だ。女の子の声だ。可愛い娘ちゃんの声。 に

「起きてしゃんとするのよ、ワタル。逃げ出さなくちゃいけない わ。ねえ、しっかりしてよ！ 大変なことになってるのよ！」 しった

ひび

 声に叱咤されてというより、耳にわんわん響いてうるさくて、 しぶしぶ

ワタルは渋々目を開けた。逃げ出す？ なんで？ うちのリビン グで昼寝してるだけなのに──  身体が痛い。この床、フローリングじゃないぞ。白っぽいもの。 つめ

それに足が痛い。右足の腿がすごく痛い。鉄の爪でつねられてる みたいだ。何だよ、これ？  カサコソ、かさこそ。ワタルの耳元やうなじのあたりで、何か がうごめいている。ぎょっとして、いっぺんで眠気が飛んだ。ワ タルは跳ね起きようとして、今度は腿の傷の痛みに飛びあがった。 きたな

見ると、ズボンの上から汚らしい布きれがぐるぐると巻きつけら れて、そこにべっとりと血がにじんでいる。 きおく

もど

おそ

 記憶が戻ってきて、ワタルを平手打ちした。ダルババ車が襲わ れたことを、ミーナとキ・キーマのことを、気絶する寸前に見た 二本の足と、冷たい声の命令を思い出した。 かべ

 真四角の部屋だった。床も壁も天井も、遠目に見たあの病院と 同じ、白っぽい石でできている。堅くて冷たいのはそのせいだ。 とびら

かぎ

金属でできた重そうな扉がひとつ。もちろん、鍵がかかっている。 せたけ

反対側の壁には、ワタルの背丈ではやっと手が届くくらいの高さ こうし

に、小さな窓がひとつ。太い格子がはまっている。

590

 そしてカサコソと囁き、うごめくものの正体は、この部屋の床 よすみ

いっぱいに散らばり、四隅に積もっている大量の枯れ葉だった。 どうやらスラの木の枯れ葉らしい。独特の匂いが、カラカラになっ てもまだ残っている。 「ああ、良かった。気分はどう？ 死にそうな感じじゃない？」  甘い声は、窓の方から聞こえてくる。誰かが格子の外にいるの だ。あの甘い声── 「ワタル、わたしよ。覚えてる？」 ようせい

 妖精だ！ いや、たぶん妖精だと推理しただけだっけ。でもワ タルにとっては妖精だ！ ど

こ

「君、そこにいるんだろ？ ここは何処？ キ・キーマとミーナ は無事かい？ いったいぜんたい何がどうなってるの??」 す

 甘い声は拗ねたように低くなった。「ワタルったら、わたしの き

こと覚えてるかって訊いたのに」 は

 ワタルは必死で窓の下まで這っていき、壁にすがって身体を持 ちあげながら、声を張りあげた。「ごめんよ、でもそれどころじゃ ないんだ。それに、君って助けに来てくれたんじゃないの？」 「助けられないわよ」と、あっさり。「だってわたしじゃどうし ようもないもの」  ワタルは何度か口をパクパクさせて、それからやっと言った。 「じゃ、せめて何がどうなってるか教えてよ。僕は痺れ矢で打た れて、ここへ運び込まれたんだね？」 「そうね」 「あとの二人は？」 「知いらない」甘い声はフンと言った。「あんなしっぽのある女 の子が好みだったのね。期待はずれだったわ」

591

は

が

「そういうことじゃないんだってば！」ワタルは本格的に歯噛み をした。「ここは何処？ あの病院のなかかい？」 「そう。で、スラの森の中心でもあるわね」 と

「君も捕らえられてるの？」 「そうじゃないわよ」  ワタルは壁にすがりついた。「だったら何とかならない？ 扉 の鍵が手に入れば──」 「だから、わたしじゃ無理だって」甘い声は突き放すように言っ た。「わたしはただ、ワタルを励ましに来ただけよ。それだって、 けんめい

早く目を覚まさせてあげないとまずいと思って、一生懸命ここま で這いあがったんだから。感謝してほしいものね」 にら

「感謝ったって──」ワタルは窓を睨んだ。でも、這いあがるっ てどういうことだ？ 「ワタルね、そこであんまり深呼吸しちゃダメよ。できるだけ窓 のそばで息をするの」 「どうして？」 「スラの木の香りは、頭に良くないから」  ワタルは壁にぴったり背中をくっつけて、部屋じゅうに散乱し、 そよかぜ

窓からの微風でカサコソと生きもののように動き回る枯れ葉の群 を見つめた。 「頭に良くない？」 ごうもん

「セイシンがサクランする」甘い声は言った。「そういう拷問に 使われる香木なんだもの」  やめてくれと叫びそうになったとき、重たそうなドアの外で、 ガチャガチャと音がした。  ワタルはすでに、頭の後ろが痛くなるほど強く壁に張っついて

592

いたのだけれど、さらにひっつこうとして後ずさりした。ドアは ちょうつがいをきしませて外側に開き、隙間から一瞬人間の腕が おおがら

見えたかと思うと、大柄な男が一人、ボウガンを構えて入ってき た。  作業着のような服を着てごついブーツを履いた、ヒデ面の男だっ もくげき

た。ブーツは、森で目撃したあの二本の足が履いていたのと同じ た。  ボウガンにセットされた矢の先は、ぴたりとワタルの顔の真ん ねら

中を狙っていた。胸を狙われた方がまだましだ。ヒゲ面の男は無 わき

言のままドアの脇に寄って、二人目の人物が入ってきた。最初の や

男よりもずっと小柄で痩せている。身につけているのは、リリス のシスティーナ・トレバドス聖堂で会ったダイモン司教が着てい たのとよく似た、裾の長いローブだ。それだけではない。右手に しゃく

い

は杓、左手には手鏡という出で立ちは、システィーナ像そのもの とまったく同じだ。 かんだか

「気がついたようですね」ローブの男が、妙に甲高い声で言った。 「ここがどこだかわかりますか？」  ワタルは引きつった舌を必死で動かして、何とか答えた。「ト リアンカ──病院」 「なるほど。記憶は消えていないようです」 びしょう

 ローブの男は微笑した。よく見ると、ナイーブそうな美男子─ ─いや、もしかしたら女の子なのかも？ 「と、友達を捜しに来たんです」ワタルは震えながら言った。 「リリスのブランチのパム所長に、トリアンカ魔病院にそれらし い少年がいると聞いて、それで訪ねて来たんです」  ローブの男は微笑を浮かべたまま、ワタルの方に近づいてきた。

593

彼が歩くと、室内に散乱しているスラの枯れ葉が、道を開けるみ たいに左右に分かれた。 よこしま たくら

いだ

「我々もパム所長から連絡を受けました。邪な企みを胸に抱き、 ひとみ

まがまが

きょうき

たた

めがみ

ま

瞳には禍々しい狂気を湛えた女神の使い魔が、我らの聖なる土地 に足を踏み入れたと」 「パム所長がそんなことを？」ワタルは目を見開いた。「だって、 僕らにトリアンカ魔病院のことを教えてくれたのも所長なんだ よ！」 さそ

 そこで、やっと気がついた。僕らはここに誘い込まれたんだ。 所長は嘘をついてたんだ。ミツルの消息なんて知らなかったんだ。 つか

僕らをスラの森に入り込ませ、こいつらに捕まえさせるために、 嘘をついてたんだ！ わな

「罠だったんだな……」 おさ

ふる

つぶや

いぜん

 抑えようもなく震える声で呟くワタルに、ローブの男は依然と して微笑を絶やさないまま、さらに近づいてきた。しゃがみこん で、息がかかるほどそばに顔を寄せた。 「あなたは〝旅人〟だ。そうですね？」  ワタルは返事をしなかった。パム所長もそのことは知らないは ずだ。 「黙っていても、隠しおおせることではない」ローブの男は続け た。「我らは、あなたがガサラの町で何をしたか知っている。情 報をつかんでいるのですよ。パム所長も、知らん顔をしていただ けで、最初からすべてを承知しておられた」  そうだったのか。キ・キーマの忠告を守れなかったことが、こ んなところで悪い目に出てしまったのか。 「もし、僕が〝旅人〟だったら？」ワタルはひるむ心を叱咤して

594

問い返した。「あなたたちに何か不都合なことがあるんですか？  何かまずいとでもいうんですか？」 ほほえ

は

 微笑みを顔に貼りつかせたまま、ローブの男は静かに答えた。 きゅうてき

ちゅう

そむ

「〝旅人〟は我らが永遠の仇敵。誅さずば老神の教えに背くこと になります」  難しい言葉なので、意味がわからなかった。チュウさずばって、 何？  でも、ひとつだけはっきりわかることがある。こいつらはやっ ばり── 「あんたら、老神教の信者なんだね？」  ローブの男はにっこりとうなずいた。「そのとおりです」 えいき

「リリスの町の他種族差別が激しくなってるのも、あんたらの影 ょう

響なんだな？ システィーナ・トレバドス聖堂も、あんたらのた まつ

めの聖堂なんじゃないのか？ 表向きはシスティーナを祀ってあ るけれど、あれは本当は老神のための聖堂なんだろ？ そうだ ろ？」 かがや

 ローブの男は答えなかった。でも、その瞳の輝きを見るだけで じゅうぶん

充分だった。 ひそ

「そうか！ あんたらは、システィーナ・トレバドス聖堂で密か に老神教の布教活動をしてるんだな？ パム所長も、そこで信者 に引き入れられたんだ」 「なかなか頭が良いようだ」  ローブの男はワタルにではなく、背後にいるボウガンを構えた かか

男に向かって言った。ヒゲ面は返事もせず、ボウガンを抱え直し てワタルの顔に狙いを定めている。 なぐ

 そのとき、ローブの男が不意に手を動かした。杓で殴られるの

595

かと、ワタルはとっさに頭をかばおうと手をあげた。でも、そう ではなかった。ローブの男はワタルの目の前に手鏡を突き出した だけだった。 あかし

じゅもん

「見よ、これこそが動かぬ証」ローブの男は、呪文でも唱えるみ たいに節をつけて言った。「邪なる女神の使い魔は、清らかなる たましい うつわ

魂の器を見分け得る真実の鏡には、その姿を映すことかなわず！」  確かに、手鏡には何も映っていなかった。鼻の頭がくっつきそ うなほどに近づいても、背後の白い石の壁が映るだけだ。 つ

なんじ

「命運は尽きたぞ、女神の使い魔よ。汝は我らの手によって、汝 おでい

ざいしょう

ちり

かえ

の素なる汚泥と罪障の塵に還るのだ！」 は

 ローブの男は、白い頬を紅潮させてそう叫ぶと、跳ねるように すき

立ちあがりながら、杓と手鏡を頭上にかざした。その際をついて、 こんしん

こ

きし

ワタルは、渾身の力を込めて、両手で彼を突き飛ばした。この奇 ゅう

襲は成功だった。男はわっと大声をあげて倒れると、後ろにいた づら

ヒゲ面を巻き込んで、床の上に転んだ。ヒゲ面はまともにひっく り返り、ゴツンといい音がした。ワタルは飛びあがり、つんのめ るようにして扉を目指した。 「逃がすか！」床に這いつくばったまま、ローブの男が叫んだ。  彼が床を杓で一打ちすると、風が巻き起こり、部屋じゅうの枯 れ葉がいっせいに動き出した。みるみるうちに部屋の左右に分か れて、ふたつの山を作りあげていく。ワタルは一瞬だけそれに気 ろうか

をとられたけれど、すぐにドアの取っ手をつかんで廊下に転がり 出た。  のっぺりとした石の壁の廊下の片側に、たった今出てきたばか りの扉と同じ扉が、いくつもいくつもくっついている。反対側の 壁には、ひとつの窓もない。右も左も、白い廊下の先は薄暗がり

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だ。どこまで続いているかもわからない。  とりあえず、ワタルは右に走った。右足が痛い。廊下はまった ま

す

く曲がっておらず、ただどこまでも真っ直ぐに続いているだけだ。 なが

扉と白い壁。同じ眺めが続いているだけだ。  突然、ワタルの三メートルほど先の扉が大きく開いた。勢い余っ て壁にぶつかった扉が、ゆっくりと元に戻ろうとする。その隙間 かたまり

から、枯れ葉の塊が現れた。無数の枯れ葉が集まって、ヒトの形 を成したものが現れた。それはワタルの倍ぐらい背が高く、頭が 大きく、古い映画のなかに出てくる、ミイラ男みたいに、両手を ふさ

前にのばしている。そしてワタルの前に立ち塞がった。 つ

 ワタルは急停止して、首筋が攣るくらいの勢いで振り返った。 背後の扉も、次から次へと開いていた。そしてそこから、前方を かいじん

塞いでいるのと同じ枯れ葉の塊の怪人が、のっそりと現れた。 のうこう

 長い廊下に、スラの葉の濃厚な匂いが立ちこめた。ワタルは足 元がグラグラするのを感じた。目が回る。視界が霞む。 「エドロ・ワラ・サブタルオンギ・シグル」 はし

 いつの間にかローブの男が廊下の端に立ち、胸の前で杓と手鏡 え

こわだか

いの

の柄をぶっちがいに組み合わせて、声高に祈っていた。 い

たま

じゃあく

「出で給え森の精霊よ、邪悪なる女神の企みを打ち砕く戦士よ、 どき

我らに和して叫び給え、正義の勝ち鬨を！」  枯れ葉の怪人たちが、いっせいに、ぽっかりと口を開いて叫ん だ。特大の布を引き裂くような声のコーラスが廊下いっぱいに響 さっとう

きわたる。そしてそれらは、ワタルに向かって殺到してきた。  気がついたら、今度は真っ暗だった。  右腿の傷がずきんずきんと脈うっている。寝ころんでいるみた しば

いな感じがする。固い地面の感触だ。手が動かない。縛られてる？

597

 足も動かない。持ちあがらない。 くさり

 寝返りをうとうとすると、ジャラリと音がした。鎖がぶつかり あうような音だ。それにしても、どうしてこんなに暗いんだ？  そうか、何かかぶせられているんだ！  低く呟くような歌声が聞こえてくる。一人じゃない。大勢の声 だ。それほど遠い場所じゃない。どっちから？ 右？ 左？ 前？  後ろ？ えり

 足音がして、ヒトの気配を感じた。手が伸びてきて、後ろ襟を つかまれて、乱暴に引き起こされる。その手はさらに、ワタルの うなじのあたりで何かをほどくような動作をした。すると、急に 暗闇が消えた。やっぱり何かかぶせられていたのだ。それが取り 外されたのだ。  屋外にいた。夜になっていた。トリアンカ魔病院の建物が見え る。スラの森も見える。 こくもつぶくろ

 ワタルは大勢のヒトたちに取り囲まれていた。特大の穀物袋み たいなものを着込んで、手に手にろうそくを持ち、目のところだ ずきん

け穴をあけた白い頭巾をかぶったヒトたち。顔は見えないけれど、 全員がアンカ族であることは間違いない。  トリアンカ魔病院を根城にしている、老神教の信者たちの群だ。 えが

 呪文のような歌声は、彼らの声だった。ぐるりと円を描いて並 んでいる。ワタルは彼らの中心にいた。両手と両足に、鎖のつい かせ

た枷がはめられている。  スラの葉の匂いが、奥の底の方にこびりついている。頭がフラ フラした。 「立て」  すぐそばから声が降ってきた。そこにも一人、同じ出で立ちの

598

信者がいた。穀物袋みたいな衣の下から、大きな両手がのぞいて いる。 「立て」  巨人の手が伸びて、ワタルの襟をつかんで立ちあがらせた。甲 にも指にも真っ黒な毛がもじゃもじゃとはえた手だ。もしもそれ が見えなかったら、泥人形の手ではないかと思うほどに、冷たく 硬い手だった。 「歩け」  手が動き、円の一方の端へと、ワタルを突き飛ばした。ワタル がよろけて倒れると、ぐいぐい引き起こす。 「手間取らせるな。立って歩け」 けん

こし

 ワタルはよろよろと足を前に出した。勇者の剣は腰に収まって いる。でも、手枷の鎖が短くて手が届かない。どうすることもで きない。頭が働かない。  ワタルがのろのろと進み始めると、信者たちの歌声が大きくな り、大合唱に変わった。円の一端が切れ、その先にあるものが見 えた。  目を疑う──これがそういうことだとワタルは思った。何度ま せきばら

ばたきしても、咳払いしても、頭を強く振っても、見えているも のが消えない。変化しない。  断頭台。ギロチンだ。マンガとゲームのなかでしか見たことが しょけい

ない。罪人の首を切って落とす処刑装置。 たずさ

 あのローブを着た美男子が、今は片手に杓だけを携え、微笑は そのままに、禍々しい装置のすぐ脇に立っていた。先ほどのロー け

さ

ブの上からもう一枚、濃いワイン色のような袈裟をかけている。 かがりび

たか

ほのお

すぐ後ろで大きな篝火が焚かれており、炎の発する光を背負って、

599

彼は金色のオーラに包まれているみたいに見えた。  ワタルは一歩も先に進めなくなって、膝をがくがくと笑わせな がらその場に立ちすくんでいた。命運は尽きたぞ、女神の使い魔 よみがえ

よ。ローブの男の声が蘇って、夜の闇のなかに、マンガの吹き出 しみたいにくっきりと見える。 は

 見あげると、ギロチンの刃が篝火の炎を受けてギラリと光った。 あ い そ わら

む

まるでワタルに向かって、愛想笑いをして歯を剥き出したみたい だ。  こんなバカな。考えられるのはそれだけだ。なんでこんなこと に。僕が何をしたっていうんだ？ 「邪なものも、恐れることは知っているのですね」 やさ

ていねい

 優しく丁寧な口調で、ローブの男は言った。「でも、案ずるこ あやつ

めっ

とはありませんよ。女神に操られたその身を滅することにより、 きよ

せいじょう

あなたは浄められる。大いなる老神の加護により、あなたの清浄 ヴィジョン

な魂は再びこの幻界に生まれ変わることができる。あなたの望む 形で」 「そんなの、まっぴらだ」言葉が口からこばれ出た。「あんたた ちに、僕を殺す権利があるわけがない！ 僕は老神教の信者なん かじゃない。現世から、自分の運命を変えるために訪れた〝旅人〟 だ！」  ローブの男はなおも微笑する。 とりこ

「我らは、邪教の虜となっているものと語る言葉を持たない」 「勝手なことを言うな！」ワタルは叫んだ。最初はローブの男に 向かって。次には、周りを取り囲んでいる信者たちに向かって。 「あんたたちは何をやろうとしているのかわかってるのか？ こ れがどういうことなのかわかってるのか？ どうして──」

600

そで

 そのとき、断頭台の向こうにもう一人、同じ出で立ちで袖まく おの

りをし、斧を握っている信者がいるのが目に入って、ワタルの言 とちゅう

つ

葉が途中で消えた。あの斧で、ギロチンの刃を吊りあげているロー プを切るんだ── 「おしゃべりはそのくらいにしておけ、汚れた魔物め」  背後から手ひどく突き飛ばされて、ワタルは膝から転んだ。信 者たちがどよめいた。喜びのどよめきだった。  また引きずり起こされて、断頭台の方へとひっばられて行く。 ひじ

ていこう

ワタルは足を突っ張り、肘を突き出して抵抗したけれど、相手は た

ち

う

すごく力が強くて、まるで太刀打ちできない。土埃がたち、信者 は

たちが喜ぶだけだ。ワタルはめまいを感じ、吐き気がしてきた。 む

だ

力の無駄使いだ。これじゃダメだ。だけどほかにどうすればいいっ ていうんだ？ いや

 じりじりと断頭台が近づいてゆく。嫌だ、絶対嫌だ、こんなの デタラメだ！ 声を張りあげて叫べば叫ぶほど、信者たちの歌声 が大きくなる。 「ひとつ、チャンスを与えましょう」ワタルに近づいて、ローブ かんぺき

の男は言った。「あなたの魂をより完璧に浄め、より早く幻界に 生まれ変わるためには、処刑の前に告白することが必要です。さ あ、言いなさい。もう一人の〝旅人〟はどこにいるのです？」  ワタルは総毛立った。こいつ、ミツルのことを訊いてるんだ！  ミツルのことも捕まえて処刑しようとしてるんだ！ 「知るもんか！」 ごうじょう

「ほほう、強情ですね」 「知ってたって言うもんか！」 か

つば

 嗄れかけた声で叫ぶと、ワタルはローブの男の顔に唾を吐きか

601

けた。自分でも驚いた。こんなことができるなんて。こんなこと、 誰に教わってもいないのに。 ぬぐ

 ローブの男はゆっくりと手をあげて頬を拭うと、いっそう大き え

な笑みを浮かべた。 あわ

ぎせい

こわ

「哀れな犠牲者よ。女神に取り込まれて、魂を壊されている。今 のままでは、どうやっても我らの正義の声が届くことはないよう だ」 「誰が正義だって決めたんだよ！」  ローブの男は重々しく答えた。「我らは老神の使徒なのだ」 しぼ

「そんなの認めない！」ワタルは全身の力を振り絞って声を張り ていこく

あげた。「あんたは北の帝国から来たんだな？ 広めたいのは老 しんこう

神への信仰なんかじゃない、非アンカ族差別主義の方だろう？」  ローブの男の顔から、拭ったように笑みが消えた。口元が真っ 直ぐになった。 「言え」と、彼は低い声を出した。「もう一人の〝旅人〟の居場 所を言うのだ」 「嫌だ！」 「言わねば、我らは自力で探すのみ。必ず探し出すぞ。しかしそ あびきょうかん

れまでに、多くの血を流すことになろう。炎を見、阿鼻叫喚の声 を聞くことにもなろう」そして笑った。「それはみな、おまえの せいだ」 がくぜん

 ワタルは愕然とした。炎を見るだって？ しわざ

「マキーバの山火事は──あんたたちの仕業だったのか？」  返事のかわりに、ローブの男は尋ねた。「言いなさい。もう一 人はどこにいる？」 りん

「ここだ」闇の空から、凛とした声が響いた。

602

20 ミツル

あお

 ワタルはぽかんと口を開けたまま、夜空を仰いだ。声はどこか す

ら──あそこだ、トリアンカ魔病院の屋上、断頭台が据えられて いる中庭を見おろす、いちばん高い場所。 ひとかげ

やみ

まぎ

しっこく

つえ

 小さな人影。闇に紛れる漆黒のローブ。手にした杖の宝玉が、 あお

清らかな蒼い光を放つ。その光輪のなかに──  ミツルがすっくと立っていた。 「おまえは！」 ふ

あお

おどろ

 頭上を振り仰いで、ローブの男が驚きの声をあげた。断頭台の おの

きょじん

そばの斧の男も、ワタルの首筋をつかんでいた巨人も、はっと身 じろいでいるのがわかった。 じゃきょう

かん

「邪教の使徒よ、我らの聖域で何をしている！」ローブの男が甲 だか

さけ

よご

高い声で叫んだ。「降りてこい！ 降りてくるのだ！ その汚れ ふ

た身で聖域に踏み込むなど、おまえは自分が何をしているかわかっ ているのか！」 えが

ゆ

 信者たちの描く円が乱れ、ろうそくの火が揺れ始めた。消えて しまうものもあった。  ミツルはまったく動じていなかった。いつものあの、相手を小 え

う

バカにした笑みを浮かべている。ずいぶんと距離があるのに、表 はし

情がはっきり見える。杖の宝玉が放つ光の力だ。くちびるの端を なつ

たの

何かにひっかけているみたいなその笑い方が懐かしく、頼もしく、 ワタルは胸が熱くなった。 つか

 でも、感激している場合じゃない。ミツルまで捕まってしまう。

603

せいいっぱい

「ミツル、逃げろ！」ワタルは精一杯の大声で呼びかけた。「そ んなところにいちゃダメだ！ 早く逃げるんだ！ 逃げて、助け を呼んで来てくれ！」  ミツルは頭を動かして、ワタルの方を見た。そして、もうひと あき

つの懐かしい表情を浮かべ、ため息をついた。呆れているのだ。 だれ

はら

「どこの誰に助けを求めろって言うんだ？」と、彼は落ち着き払っ て問い返した。「オレがどっかへ行ってるあいだに、おまえは首 き

を斬られちまうよ」 「そんなこと言ってンじゃないよ！」 ぎせい

「言ってるじゃないか。バカだな。おまえ、そんな自己犠牲的な は

タイプじゃなかったはずだけど」ミツルははあっと息を吐いた。 「相変わらず、お人好しなんだな」 「おしゃべりしてる場合じゃ──」 「ないよ、わかってるさ」そう言い捨てて、ミツルは杖を持って ま

す

いない方の手で、真っ直ぐにローブの男を指さした。 まほうじん

か

「この屋上の魔法陣を描いたのは、おまえか？」  ローブの男は、ただ指さされただけなのに、矢を射られたみた ゆが

いにたじろぎ、顔を歪めた。「お、おまえだと？」うろたえて、 すそ

彼はローブの裾を踏んだ。「誰に向かって口をきいていると思っ ているのだ？」 「だから、おまえだよ」  ミツルの声は、一グラムのためらいもない信念を持って生徒を しか

いげん

叱る先生のような威厳に満ちていた。 しょうかん

まちが

「何を招喚するつもりで描いたか知らないが、間違ってるぜ」ミ ツルはへへっと笑った。「方位がずれてるし、線の長さも違う。 どこの魔導院で習ったんだ？ ちゃんと卒業したのか？」

604

「お、おまえ」ローブの男は顔を真っ赤にして、病院の建物のそ か

つめ

がいへき

ばまで駆け寄った。今にも爪で外壁をひっかいて登り始めそうな じ だ ん だ

勢いだったけれど、その場で地団駄を踏み始めたところを見ると、 そういう体力と技術は持ち合わせてないらしい。 ぶじょく

「私を侮辱するのか？」 「質問してるだけだよ。声が遠くて聞き取りにくいな。あんた、 ちょっとここまであがってきてくれないか？ エア・ラダーの魔 法を使えば簡単だろ？」  ローブの男の顔から、今度は血の気が引いた。信者たちの輪は くず

完全に崩れ、ギザギザ模様の半円を描いて、今やその中心には、 ローブの男ではなく、ミツルが位置している。 「なんだ、エア・ラダーを唱えられないのかい？」ミツルは驚い たように言った。「手間のかかるヒトだなぁ。老神は神であると いだい

同時にもっとも偉大な魔導士だったはずじゃないか。ヘンだね」 あご

 わざとらしく顎に手をあてて、ミツルは考え込むふりをした。 「あんたこそ、老神を名乗るインチキな魔物にたぶらかされてる んじゃないのかな？」 しゃく

「な、何を言う！」ローブの男が杓を振りあげた。そのとき、ミ はな

ツルが顎から手を離し、その手の人差し指でぴたりと頭上を指し しゅんかん

いなずま

て、何か短く唱えた。次の瞬間、一筋の稲妻が空に光り、まっし ぐらにローブの男に向かって落ちてきた。 「うひゃあ！」悲鳴をあげて、ローブの男はひっくり返った。目 せんこう

げきとつ

もくらむような閃光を放って、稲妻は地面に激突して消えた。だ するど

やり

さ

がその後に、はっきりとした印を残していた。穴だ。鋭い槍が刺 さったような穴だ。 くろこ

「次は外さないぞ」と、ミツルは言った。「黒焦げになりたくな

605

てかせ

かったら、ワタルの手枷足枷を外せ」  ローブの男はへたりこんで両手を地面につき、口をあわあわさ せている。ミツルの視線は、ワタルの方──ワタルのそばの巨人 に移った。「そこのでかいの！」 ずきん

 巨人が頭巾の下で「ヒッ」と息を吸い込むのを、ワタルは聞い た。 「ワタルの手枷足枷を外せ」  ミツルの命令に、ほとんどためらうこともなく、巨人は従った。 ふる

彼の大きな指は不器用で、おまけにガタガタ震えているので、枷 かぎあな

の鍵穴に鍵をさすことができない。 「じれったいな。僕がやる」  ワタルは彼の手から鍵を取りあげて、自分で枷を外した。ミツ ルはそれを見届けると、再び指で頭上を指し、今度は断頭台を指 さした。落下してきた光の槍は、あやまたず断頭台のロープを断 つ

ち切り、台の上に突き刺さって消えた。閃光のなかで、ワタルは は

か

ギロチンの刃が落ちて、台座に噛み合うのを見た。斧を持ってい たお

た男が、台座の後ろ側に倒れるのも見た。 ぶっそう

つぶや

「物騒だからな」ミツルは独り言のように呟いて、少し立ち位置 を変えた。そしてワタルに向かって言った。「おまえには全然わ からないだろうけれど、ここはこいつらの張った結界の内側だ」 「ケッカイ？」ワタルは大声で問い返した。 「そうだ。結界形成の魔法としちゃ、えらく初歩的なものだけど、 スラの木の作用に助けられているんだろうな」 「よくわからないよ」  二人のやりとりを、信者たちはウィンブルドンの決勝戦を見る ささ

ように見守っている。ろうそくを捧げ持っていた手が、みんな下

606

がってしまった。 「トリアンカ魔病院なんて、存在していないんだ」と、ミツルは はいきょ

続けた。「昔はあったけど、今ここに残っているのは病院の廃墟 だけだ。それを結界の内側に囲い込んで、こいつらがアジトに使っ てたのさ」 こし

 腰に片手をあてて、フンと鼻を鳴らすと、 やっかい

「ただ厄介なのは、スラの森は実在してるからな。魔の成分がそ こわ

ぬ

こらじゅうに満ちてる。この結界を壊すには、そこで腰を抜かし じゅもん

てる魔導士の先生が呪文を唱えるぐらいじゃダメだ。僕の言って ること、わかるかい、あんた？」  ミツルはローブの男に呼びかけた。 「もともとはあんたの作った結界なんだろうけど、スラの木の魔 力を集めすぎちゃったんだな」 きわ

「な、生意気な」ローブの男は、極めて威厳を欠いた姿勢ながら、 声の張りだけはちょっと盛り返してきた。「言わせておけば許し がた

ちゅうさつ

難い侮辱！ 誅殺してくれる！」  もがくようにして立ちあがると、彼は何か呪文を唱えた。屋上 のミツルは、杖によりかかるようにして興味深そうに見おろして いる。  ローブの男の呪文に吸い寄せられるように、どこからともなく か

スラの木の枯れ葉が飛び集まってきて、みるみるうちに、二体の おそ

かいじん

ヒトの形を成した。ワタルに襲いかかってきた枯れ葉の怪人だ。 何度見ても気味が悪くて、ワタルは後ずさりした。そばにいたは ずの巨人は、とっくに信者たちの輪の方へ逃げていってしまって いた。 しもべ

あ

「忠実なる我が僕よ、悪しきものを倒せ！」ローブの男はミツル

607

を指さした。  枯れ葉の怪人たちは、病院の外壁に取りつくと、まるで猿のよ おもしろ

みは

なが

うにするすると登り始めた。ミツルは面白そうに目を瞠って眺め ていたが、それらが屋上まであと一歩というところまで達すると、 すばや

胸の前で素早く手を動かして印を刻み、杖をさっと振った。 なんじ

「汝我が内なる志の矢を受けよ！」 いな

かいじん

 早口で唱えられた呪文が終わるや否や、枯れ葉の怪人たちはぴ と

たりと動きを停めた。そして、今度は登って来たときと同じくら いのスピードで下に降り始めた。 「な、何だ？」  ローブの男は大あわてだ。また裾を踏んづけて、今度は完全に 転んでしまった。そこへ、二体の枯れ葉怪人が襲いかかった。ロー ブの男の悲鳴が闇をつんざいた。 バ

ニ

ッ

シ

ュ

「消え失せろ！」 とら

 ミツルの鋭い声が飛ぶと、ローブの男を捉えて首っ玉をねじり あげようとしていた枯れ葉怪人たちは、一瞬のうちに形を失い、 その場で枯れ葉の山となった。 かた

かつ

「まあ、こういうことだ」ミツルは言って、杖を肩に担いだ。 「言っとくけと、何体招喚しても同じことだよ。あんたが魔力切 れになるだけだ」  信者たちが再びどよめいたかと思うと、ろうそくを取り落とし た。なにしろ大人数だ、彼らが動き出すのかと、ワタルは身構え あぜん

た。しかし、すぐに唖然として、今度は笑いだしてしまった。 ふ

かか

 信者たちが、次々と地面にひれ伏してゆく。両手で頭を抱え、 いのちご

じ

ぎ

く

命乞いをしている者もいれば、お辞儀を繰り返しているものもい る。もちろん、ローブの男が相手ではない。彼らは屋上のミツル

608

を仰いでいるのだ。 えがお

だいじょうぶ

 ワタルは笑顔のままミツルを見あげた。「もう大丈夫だ。あり がとう！」  しかし、ミツルは全然笑っていなかった。むしろ、さっきまで こわ

より怖い顔をしていた。荷物みたいに肩に担いでいた杖をおろす に お う だ

と、仁王立ちの姿勢になった。 やつ

つば

「調子のいい奴らだ」と、唾を吐くように言い捨てた。「強い者 には、すぐに従う。みんなと同じことをしている分には、何をやっ ても安心ということか」 「ミツル？ 降りてこいよ！」  ミツルの冷たい視線を、ワタルの上にぴたりと据えた。 「見世物は終わりだけど、結界を壊す作業は残ってる」 「え？」 く

「オレがこんなところで足止めを食っていたのも、スラの森の魔 こ

だっしゅつ

力が濃くて、脱出するのに手間取っていたからなんだ。だけどこ れだけの人数の気があれば──」  ワタルは一歩、建物に近づいた。「何言ってる？ どうする気 だよ？」  ミツルはまた数歩動いて、立ち位置を変えた。打席に入ったバッ ターみたいに、足元を踏み固めている。 「気をエネルギーにして、魔法で結界を壊すんだ。森をなぎ倒し、 葉という葉をすべて散らす魔法をさ」 「ミツル──」 「悪いけど」ミツルはちらっとワタルを見て、にやりと笑った。 しだい

「どこに飛ばされるか、そこまではオレにもわからない。風次第 からだ

け

が

だからな。せいぜい身体を丸くして頭をかばって、怪我をしない

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ようにしてくれよ」 「どういうことだよ！」 「だから、こういうことだってば」  ミツルは両手を広げると、空を仰いだ。そして朗々とした声で 唱え始めた。 こ

「大いなる風の精よ、天に満ちるその力、請い招きて従う魔導の おんちょう

ふう

徒、ここに在り。願わくはその恩寵をもって、我を封ずる魔を取 たま

くだ

こんとん

ふち

り去り給え、打ち砕き給え、混沌の深き淵へと捨て去り給え、エ アロ・ラル・ステニグル──」  宙に差し出された、ミツルの杖の宝玉が光り、それに呼応する ように、夜空の一角が明るくなった。雲の切れ目が見える。 ふ

 風が──吹きつけてくる。ミツルは雲の上から風を呼んでいる のだ。  まともなことを考えられたのは、そこまでだった。次の瞬間に は、吹き倒されて地面に転がっていた。つかまるものが見あたら かべ

なくて、身体を丸めたまま、ただごろごろと病院の建物の壁にぶ そうしょく

つかるまで転がっていった。そこで外壁の装飾柱につかまって、 かろうじて姿勢を立て直した。  そして、信じられないものを見た。 あわ

かがや

たつまき

ゆう

 漆黒の空から、淡い銀色に輝く竜巻が降りてくる。ほとんど優 が

雅と言っていいほどたおやかに、生きもののようにやわらかく、 ゆっくりと左右に身をくねらせながら。  それは地上に近づいてくる。信者たちが、端から次々と吸い込 いの

まれてゆく。みんな泣いたり叫んだり祈ったりしているはずなの に、突風に遮られて何も聞こえない。断頭台の柱がぽっきりと折 の

れて、竜巻の中心に呑みこまれてゆく。斧が宙を舞い、その後を

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追いかけるように、斧の男の身体が吸い込まれてゆく。 かたまり

 何か布の塊が宙を泳いでゆくと思ったら、端っこからもがくよ うに手が出て、足が出た。最後に顔が出た。ローブの男だった。 あさましいほど大きく口を開けていたけれど、悲鳴は聞こえない。 りょううで

てご

 ワタルが両腕を巻きつけてつかまっていた装飾柱が、不意に手 た

応えを失った。目をやって、驚きのあまり息が停まった。  石でできていたはずの柱が、いつの間にか木の葉の塊になって あお

いた。風に煽られてふるふると震えながら崩れてゆく。  ワタルの身体も宙に浮いた。

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＊本作は、学芸通信社の配信により、大分合同新聞（一九九九  年十一月十一日∼二〇〇一年二月十三日）、名古屋タイムズ、  京都新聞、中国新聞、信濃毎日新聞、徳島新聞、高知新聞、  北日本新聞などに順次、連載されたものに大幅加筆したも  のです ＊この作品はフィクションです。

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ブレイブ・ストーリー 上 平成十五年三月 十 日 初版発行 平成十五年三月二十五日 三版発行 著 者 宮部みゆき 発行人 福田峰夫 発行所 株式会社角川書店 装 画 いとう瞳 ブックデザイン鈴木成一デザイン室 印刷所 暁印刷 製本所 株式会社 鈴木製本所 平成一五年八月二十六日 入力・校正 ぴよこ